大震災13年
- 秋山善久
- 2024年3月8日
- 読了時間: 2分
東日本大震災から13年になろうとしています。あの日の夜は、停電のため街全体が闇に包まれていました。我が家ではローソクを灯し、家族が寄り添ってラジオから流れる報道に耳を傾けたのでした。けれども、アナウンサーが悲痛な声で語る被害の状況は、にわかに信じられないことばかりでした。
あれから13年が過ぎて、多くの復興事業が進みました。そこで頭をよぎるのは、この震災をどのように考えたら良いかということです。それは支援活動の中で議論されてきたことでした。そこにあったのは、理不尽さに立ち向かう魂の叫びであったと思うのです。
東日本大震災では、しばしばリスボン大地震のことが引き合いに出されてきました。1755年にポルトガルの首都で発生した地震と津波は、この町に壊滅的な被害を及ぼしているからです。これを契機にヨーロッパでは啓蒙思想が広がり、伝統的な教会と対立してきました。そうした経緯から神のさばきという見方は、ある人たちに対する説明になるかもしれません。けれども実際に多くの被災者に寄り添ってみたとき、そうした説明で被災者に近づくのは難しいと思わされました。求められていたのは、愛する人を失ったことを悼む気持ちであったり、混乱した気持ちを理解して話を聞いてくれる人であったからです。
支援活動の中では、「何故、このような災害が起こったのですか」と詰め寄る人がいました。そのときには「わかりません」と答えることにしています。人の理解が及ばない神の領域があると考えるからです。以前には無理に説明して相手を傷つけたり、躓かせたりしたという反省もあります。自然災害での被災者への支援は、神の復興の業と併せて考えたいと思っています。「何故」という問いに対する直接的な答えではありませんが、そこに新しい業を開かれる神の御心があると信じることができるからです。
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