弱さと尊厳
いつも行く図書館の貸し出し口で、職員の大きな声がしていました。目を向けると、白髪の男性がコピー機の使い方を聞いているのです。
「いくらですか」と男性。若い職員が「10円です」と面倒くさそうに答える。するとまた「いくらですか」と聞き返す。「10円です」「え?100円」周りが少しざわついて、「あほか」という小さな声が聞こえてきました。男性は軽い認知症を患っているのかも知れません。今言われたことを理解できなかったり、すぐに忘れてしまっているからです。身なりと言葉遣いは、社会で活躍された時期があったことを思わせます。それが邪魔者のように扱われている。悲しいことですが、そうした状況を回りがどのように受け止めるかということが問題なのでしょう。
そんなことを考えていたとき、宗教における聖と俗のことが頭に浮かびました。たとえば旧約聖書のレビ記においては、食べていい動物と食べてはならない動物があります。牛や羊は食べてはいいけれど、豚は汚れているので食べてはならないとされます。言うまでもなく、キリスト教信仰において食べ物の制限はありません。ですからこれらは旧約の時代に限定された戒めです。ただし神との関係において聖と俗の区別がされているのです。俗の世界を現世とすれば、現世は聖なるものと俗なるものが混在している。それを見分けて生活するのに、人間の意思や論理だけを優先させてしまってはならないのです。それをすると聖なるものを侵害してしまうからでした。
現代のように社会的な価値を効率だけで推し量ると、高齢者や障がい者、あるいは弱い者がどんどん外に押し遣られてしまう。結果として快適さはあっても、非人間的な社会になってしまうのではないかが心配です。だから聖なる方の意思が尊重されなければならない。人間の尊厳を守るというのはそうしたことではないかと思いました。
最新記事
すべて表示パリオリンピックが始まりました。出場するアスリートは、どれだけ多くの練習を積んだことか。メダルを獲得するとか、入賞することの栄誉もあるでしょうが、そのための努力にはただただ頭が下がるばかりです。 自分の人生を振り返ってみると、スポーツと呼ぶにはレベルが遠く及ばないにしても、...
教会のツツジが咲いています。この淡いピンクの花は、一緒に植えてある杉科の植物にとても映えるのです。手入れさえ良ければ生垣をもっと美しく整えることができるのでしょう。でも残念なことに、所々、昨年の夏にチェーンソーを入れたときの残骸を痛々しく晒しています。既に杉科の植物の何本か...
ときどき全く間の抜けたことをしてしまい、自分でも情けない気持ちになってしまいます。先日、家内が留守をしたときのことでした。午後には福島から仲間の牧師が来ることが予定されていて、午前中はそれに関係する書類を作成する事務作業に追われていました。家内は、接待の茶菓やお土産を用意し...
Comments