top of page

弱さと尊厳

 いつも行く図書館の貸し出し口で、職員の大きな声がしていました。目を向けると、白髪の男性がコピー機の使い方を聞いているのです。

 「いくらですか」と男性。若い職員が「10円です」と面倒くさそうに答える。するとまた「いくらですか」と聞き返す。「10円です」「え?100円」周りが少しざわついて、「あほか」という小さな声が聞こえてきました。男性は軽い認知症を患っているのかも知れません。今言われたことを理解できなかったり、すぐに忘れてしまっているからです。身なりと言葉遣いは、社会で活躍された時期があったことを思わせます。それが邪魔者のように扱われている。悲しいことですが、そうした状況を回りがどのように受け止めるかということが問題なのでしょう。

 そんなことを考えていたとき、宗教における聖と俗のことが頭に浮かびました。たとえば旧約聖書のレビ記においては、食べていい動物と食べてはならない動物があります。牛や羊は食べてはいいけれど、豚は汚れているので食べてはならないとされます。言うまでもなく、キリスト教信仰において食べ物の制限はありません。ですからこれらは旧約の時代に限定された戒めです。ただし神との関係において聖と俗の区別がされているのです。俗の世界を現世とすれば、現世は聖なるものと俗なるものが混在している。それを見分けて生活するのに、人間の意思や論理だけを優先させてしまってはならないのです。それをすると聖なるものを侵害してしまうからでした。

 現代のように社会的な価値を効率だけで推し量ると、高齢者や障がい者、あるいは弱い者がどんどん外に押し遣られてしまう。結果として快適さはあっても、非人間的な社会になってしまうのではないかが心配です。だから聖なる方の意思が尊重されなければならない。人間の尊厳を守るというのはそうしたことではないかと思いました。

最新記事

すべて表示

ある失敗

ときどき全く間の抜けたことをしてしまい、自分でも情けない気持ちになってしまいます。先日、家内が留守をしたときのことでした。午後には福島から仲間の牧師が来ることが予定されていて、午前中はそれに関係する書類を作成する事務作業に追われていました。家内は、接待の茶菓やお土産を用意してくれていたのです。昼になって食事をしようと台所に入ると、机の上に袋に入った仙台特性ラーメンがありました。二個入りのパックにな

クラリネット

昨日は誘われて、近くの高校の吹奏楽部による定期演奏会を鑑賞してきました。大きな県民会館の席はほぼ満席で、それだけで前評判通りであることを物語っているようでした。全体が一部と二部に構成され、一部はコンサート形式、二部はマーチングと取り入れたミュージカル仕立てになっていました。演奏そのものだけでなく、全体の構成や演出も含めて本当にすばらしいものでした。 それと比べようがないのですが、私も高校生のときに

いのちの格闘

新芽の多彩な緑に囲まれた森林公園の東屋で、残酷なまでにのたうち回っている格闘を目にしました。体格だけを比べたらまるで違うのに、盛んに足を動かしている黒く小さい方が圧倒的に有利な戦い。大きい方は、敵の硬い鎧のような体からはみ出た鋭い歯にその柔らかく白い腹を嚙みつかれ、為す術もなく引きずられていました。痛みに耐えるように体をくねらせながら執拗な攻撃をかわしている。その哀れさはこの上ないもので、力の差は

Comments


最新記事
アーカイブ
タグから検索
まだタグはありません。
ソーシャルメディア
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
bottom of page