支援について
- 秋山善久
- 2023年10月5日
- 読了時間: 2分
この夏の酷暑に耐えた挿し木は3本だけでした。後の7本は根を張る前に枯れてしまったからです。やはり挿し木は水遣りだけでは何ともならない。枝が切り離されることは、いのちの元が絶たれるわけで、枝にとってそれは最大の危機と言えるでしょう。とするならば挿し木をするということは、ちょっと待って・・・見方によれば弱さへの支援につながることかも?しれない。それにしても一律にいかないことを考えさせられます。
社会的な弱者への支援では、対象となる人の状況回復に長い時間と個人差があることを考慮しなければならないでしょう。問題は、支援者がその個人差を受け止めて真摯に向き合うことが出来るか否かだと思います。そこに人に寄り添って現実を知ることの難しさがあります。支援者の側がそのストレスに耐えきれなくなって即効性を求めたり、あるいは問題を単純化して勝手に解決してしまう。そんなことは実例を挙げるまでもなく、これまで数多く報告され、私自身も経験してきました。緊急支援のようなものであれば、そうしたことも有効なのですが、そうでない場合には、せっかくの労力や資源が弱者の回復のためにはかえって弊害となってしまうことさえある。それに「いい物語り」を作ってしまう危険。これが意外にやっかいものです。労したことが実を結んだという美談で、その結果、分析も評価もいいかげんなものになり失敗を繰り返してきたということ。このような反省は私のような者の中にもないとは言い切れません。そろそろ、根本が何であるかを見つけ出し、それをベースに少しづつ積み上げるようなものに方向転換しなければならない。最近、あることを通してその糸口を見つけたような気がしています。
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