top of page

荒野の道

 先日、ある方から、どうして牧師になる決断をしたのですかと質問を受けました。職業として考えたら、牧師とはきわめて稀有な存在に思われたのでしょう。数のことではなく、損得の考え方とは別の次元にいるということのようでした。自分では踏み慣らした道であっても、他の人から見ればそうでないのかもしれません。振り返ってみれば、牧師としての歩みは荒野に備えられた道のように、困難はあっても恵みの道でした。そんな感慨を抱きながら、その道に踏み入る決断をしたときのことを思い出しました。

 当時、私は某電気会社の社員でした。教会に通うようになって五年ぐらい経っていて、青年会の会長をしていました。教会にはたくさんの青年が集まり、常に活気が溢れていました。あるとき、牧師は、教会のリーダーの訓練会を始めると言い出しました。テキストとなったのが、スポルジョンによる「牧会入門」でした。私は小説以外にそんな分厚い本を読んだことがありませんでしたが、それでも読む前から神聖なものを感じたのでした。その第一章に記されていたのが教役者への召しということです。今でも印象深く残っているのは、「もしあなたが教役者にならなくてもいいと思っているところがあるなら、ならない方がいい」と書いてあったことです。要するに教役者になるには、自分では抑えることができない程の内的な確信がなければならないということなのです。預言者エレミヤが「私は内にしまっておくのに耐えられません」(エレミヤ20:9)と述べているような熱意です。それは神からの召しということで、これがないなら教役者になってはならないとありました。

 それをどのように受け止めたのか、記憶に曖昧なところがあって、論理的にうまく説明することはできません。それでも自分の思いだけで決めたなら、教会が立ちいかなくなったとき、自分自身の方向性を見失うだけでなく、教会にも迷惑をかけるだろうと考えたことは覚えています。実際にこれまでの歩みの中には、そんなことが数多くありました。それでも前に進むことができたのは、主の召しが真実であったからだと思っています。

最新記事

すべて表示

ツツジ

教会のツツジが咲いています。この淡いピンクの花は、一緒に植えてある杉科の植物にとても映えるのです。手入れさえ良ければ生垣をもっと美しく整えることができるのでしょう。でも残念なことに、所々、昨年の夏にチェーンソーを入れたときの残骸を痛々しく晒しています。既に杉科の植物の何本かは枯れてしまいました。 ツツジのことで気になるのが、仙台の北東80キロにある気仙沼市の徳仙丈山に咲く山ツツジでのことです。標高

ある失敗

ときどき全く間の抜けたことをしてしまい、自分でも情けない気持ちになってしまいます。先日、家内が留守をしたときのことでした。午後には福島から仲間の牧師が来ることが予定されていて、午前中はそれに関係する書類を作成する事務作業に追われていました。家内は、接待の茶菓やお土産を用意してくれていたのです。昼になって食事をしようと台所に入ると、机の上に袋に入った仙台特性ラーメンがありました。二個入りのパックにな

クラリネット

昨日は誘われて、近くの高校の吹奏楽部による定期演奏会を鑑賞してきました。大きな県民会館の席はほぼ満席で、それだけで前評判通りであることを物語っているようでした。全体が一部と二部に構成され、一部はコンサート形式、二部はマーチングと取り入れたミュージカル仕立てになっていました。演奏そのものだけでなく、全体の構成や演出も含めて本当にすばらしいものでした。 それと比べようがないのですが、私も高校生のときに

Comentarios


最新記事
アーカイブ
タグから検索
まだタグはありません。
ソーシャルメディア
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
bottom of page