2019年10月~2019年12月

 

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クリスマス燭火礼拝

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2019年12月29日「祝福への架け橋」(申命記30:1~6)

 今年の教会の目標は「神の声を聞く」ことであった。それは礼拝に出席することを意味するだけでなく、毎日の生活の中で神様の声に聞き従うことである。この申命記の箇所は、「約束の地」(→「聖書の舞台(国・場所)」のら・や・わ行「約束の地」参照)を目前にしたイスラエルの民が、その地で神様に聞き従うか否かで陥る祝福とのろいの道(申命記28、29章)、そして、そこからの立ち返り(30章)が書かれている。

 今日は第一に「神の言葉への傾聴」について見ていきたい。同じ申命記に「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(6:4~5)という有名な箇所がある。私たちは神様の業を「見たい」と思うが、見る」ことは自己本位であり曖昧であるが、神様の言葉を「聞く」ことは神様本位の行動である。神様の言葉は曖昧なものでなく、祝福とのろいの行きつく先は明確である。私たちは、その神様の言葉を単に「聞く」だけではなく、「心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従う」(30:2)ことが必要なのである。

 第二番目に「立ち返ることの重要性」を見ていきたい。これらの祝福とのろいが語られたのは「約束の地」に入る直前である。そのタイミングで、イスラエルが不毛の地となるのろいの「予言」が語られ、そこからの立ち返りが語られるのは、まるで入学式で「落第の場合の救済措置」を聞くような違和感がある。だが、この「立ち返る」という言葉は、原語のヘブライ語では(シューブ:    ) 180度向きを変えることを意味している。イエス様がルカの福音書で語られたたとえ話では、罪の誘惑に負けて一切の財産を浪費し落ちぶれた放蕩息子が、父とともにあった幸せな日々を思い出し、自分は天に対して父に対して罪を犯したことを悔い改めた(ルカ15:18)。それが「立ち返る」ということである。その後のイスラエルの歴史は、申命記に書かれたのろいを選択してしまった歴史であるが、私たちも「こんな選択をするはずがない」と思うような道を選んでしまうことがある。しかし、それでも神様は「あなたがこれらのことを心に留め」(申命記30:1)、私たちの立ち返りを待っておられる。

 第三に、祝福のためのあゆみについて見ていきたい。「見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。」(30:15)と神様は述べておられるが、私たちは、その祝福とのろいを選ぶ自由意思を持っている。私たちは神様から強制されたりコントロールされたりしてはおらず、自由意思を与えられ神様との自発的な交わりを求められている。さらに神様は、「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」(30:6)とあるように、罪の誘惑におちいりがちな私たちを、その失敗を通して内面から変えられる機会を与えられている。神様は「あなたは、再び、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるすべての命令を、行うようになる。」(30:8)と「予言」された。神様は、私たちの弱さや失敗の中に働かれ、私たちがうちくだかれ、心の頑なさを取り払い、再び神様に立ち返ることを求められている。「私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」(30:19)私は、そんな神様の言葉に聞き従ってきたか、一年の終わりにふり返りたい。

2019年12月24日「クリスマスの贈り物」(マタイ2:1~11)

 クリスマスは夜が一番長い季節である。聖書ではイエス様のことを闇の中に輝く「世の光」と言い表している。夜や闇というのは好ましくないイメージがあるが、その中に光があると私たちはしっかりとした方向性を定めて歩むことができる。世の光であるイエス様は、闇の中で私たちが生きるべき方向性を示してくださる。

 今日の箇所では、東方の博士たちがヘロデ王に「私たちは東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」(マタイ2:2)と述べた。強い力を持っていたヘロデ大王は、東方から博士たちがやってきたというのは、自分の威光がアラビア地方まで広がっていることを示すものと考えた。ヘロデ大王はユダヤ人ではなくエドム人であったが、その当時、イスラエル王国の創始者ダビデ王よりも広い地域を支配していた。ところが、自分を謁見しに来たと思っていたヘロデ王は、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。」(2:2)という博士たちの言葉に怒りや混乱を覚えた。「そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。」(2:4)とあるが、エドム人であるヘロデ大王は、ユダヤ人が旧約聖書から受け継いでいた預言を知らなかったのであろう。そして、その預言は、ユダヤの中で一番小さな者から支配者が出る(2:6)というもので、ローマの力を背景に支配していた人間的な力により頼んでいたヘロデ大王とは対照的なものであった。神の業は、小さなところからはじまる。そこには私がどんな存在であったとしても関係なく、神様は働いてくださるという神様の恵みがある。

 ヘロデは、学者たちの話からベツレヘムという街を知るが、そこには救世主を待ち望むという気持ちはなく、むしろ自分以外の王の出現をなきものしたいと考えた。一方、博士たちは「ユダヤ人の王」の出現を期待して王宮を訪ねたが、そこでは何も得られず、むしろ、やっと着いた王宮での雰囲気は、博士たちの期待とは反対の冷たいものだっただろう。王宮を去った博士たちは、まったく知らない土地で戸惑いの中で「ユダヤ人の王」を探さなければならなかったが、そんな闇の中に放り出された博士たちを星が導いた。その星の光は、博士たちにとってどれほどの喜びだっただろうか。イエス様の誕生の出来事は「インマヌエル(=神がともにおられる)」という意味であったが、彼らは闇の中の星を見て神様がともにおられることを確信したことであろう。私たちも、闇の中に放り出される時もある。その時に私たちを導く聖書があり「神がともにおられる」ことを確信する。

 星に導かれて幼子イエス様に会った博士たちは、そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」(2:11)とある。これらは王にふさわしい贈り物であると同時に、葬儀に用いる没薬を持ってきたことで、単なる権力者以上の「王」の存在を感じていたのかもしれない。彼らは、幼子にへりくだって「ひれ伏して拝んだ」(2:11)のである。だが救い主を礼拝することは、博士たちにとってどれほど大きな喜びであっただろう。私もクリスマスにあって、自分自身が持つ闇の中に「光」として来てくださった救世主に、この博士たちと同じようなへりくだった気持ちで喜んでいきたい。

 

2019年12月22日「恐れから希望への転換」(マタイ1:18~25)

 私たちがともにクリスマスを祝うことができるのは、救い主がともにいてくださるからである。私たちは、神の恵みによって喜ぶことができる、それは恐れから希望、愛と命へ転換されたからである。私たちの人生は希望が失われることがある。その中で「転換点」と言える希望があれば、私たちは恐れに立ち向かうことができ、その生き方が大きく変わる。

 この時、ヨセフは人生の一番の喜びである結婚を目前に控えていたが、婚約者マリヤが「聖霊によって身重になったことがわかった。」(マタイ1:18)。もしこれが不貞の結果であれば、マリヤは人びとの前にさらされ石打ちの刑になるところであった。その時、御使いは「ダビデの子ヨセフ」(1:20)と語りかけ、「恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。」(1:20)と述べた。原文では、イドゥー(ιδου=見よ)という言葉が入っている。この言葉は、神様が超自然的に働くときに用いられる言葉である。さらに御使いは、「マリヤは男の子を生みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(1:21)と続ける。この時代、イスラエルはヘロデ大王がローマの力を背景にして支配を広げ、人びとは搾取され困窮の極みにあった。民衆は「ローマやヘロデ大王から救われたい」と思っていたが、重要なのは目の前の現状からの脱出ではなく、私たちをしばる「罪の支配」からの解放である。そして、その救いはイエス様にしかできない。

 第二番目に、「預言と成就」について見ていきたい。「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。」(1:22)とあるが、マリヤが聖霊によって身重になることは、紀元前700年ごろに記されたイザヤ書の預言「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を生み、その名を『インマヌエル』と名づける。」(イザヤ7:14)の成就なのである。イザヤ書の当時、世界帝国アッシリアがイスラエルを占領しようと迫り、民衆は絶望の中で神様に対する信仰を失いかけていた。これに対して神様ご自身が、イザヤを通して「神がともにいる(インマヌエル)」と言うこの預言を民に伝えられ、「わたしのはかりごとは成就し、わたしの望むことをすべて成し遂げる。」(46:10)とその預言の成就が確実であることを述べられた。「眠りからさめ、主の使いに命じられた通りにして、その妻を迎い入れ、」(マタイ1:24)とあるように、ヨセフは夢の中の神様の言葉を夢と流さずに受け止め、預言が確実であることを確信し、行動に移した。そこにヨセフの信仰があった。ここに私(牧師)は、旧約時代のヨセフ(→「聖書の舞台(人物・組織)」のや・わ・ら行「ヨセフ(ヤコブの息子)」参照)との共通性を見る思いである。イエス様は「ダビデの家系」に生まれると預言されているが、今日の箇所をよく読むと、ヨセフはイエス様の誕生に直接は関わっていない(1:16)。だが人生の絶頂時に直面した婚約者の懐妊と言う試練に直面し恐れをいだいたであろうヨセフは、神様の預言を信じ、夢の中で語られた御使いの言葉を信じた。その信仰によって、彼はイエス様の「父親」の役目を与えられたのである。

 私たちは、さまざまな恐れに中にあるが、その現状よりも、まず私たちの罪から解放される方(=イエス様)に目を止めていきたい。イエス様は「神様はともにいてくださる(=インマヌエル)」と呼ばれる方である。私たちは、イエス様の誕生や救いを何か夢物語と考えるのではなく、ヨセフのようにその言葉を信じ信仰を持って受け止めていきたい

 

2019年12月15日「救いのための来訪」(ルカ19:1~10)

 12月に入り、街はツリーや新作クリスマスケーキの宣伝や、プレゼントを勧める広告でとても賑わっている。しかし、救い主の本当の「救い」の意味がわからなければ、クリスマスの意味はなくなってしまう。今日は取税人ザアカイがイエス様に出会う場面から、イエス様の救いとは何か見ていきたい。

 ザアカイとはどんな人だろう。彼は取税人(→「聖書の舞台(人物・組織)」のさ行「取税人」参照)であった。取税人とはユダヤ人同胞から税をとりローマに納める役目だったためローマの手先と思われ、経済的には豊かであったがユダヤ人の中で最も嫌われ蔑まれる職業であった。ザアカイはエリコの町に住む取税人の頭であるから、何らかのネットワークでイエス様が来ることを知ったのだろう。ルカ19章3節には「背が低かったので」とあるように、ザアカイは背が低いことを肉体的なハンディと思っていたのかもしれない。お金と地位はあるが人々から愛されず、人間不信に陥り、傷ついた心を抱えていた。そんなザアカイとイエス様が出会う場面を、今日は互いの視点に注目して見てみたい。

 まずザアカイの視点からである。彼は、先に走って行ってイチジクの木に登ってまでも(19:4)どうしても噂のイエス様を見たいと思ったわけである。これに対してイエス様は、木のところまで来られて、上を見上げて彼に優しく声をおかけになった。イチジクの葉は大きいので、ザアカイは葉の間から下を覗き見る形になっていただろう。イエス様に会いたいが正面からは向きあえない、ザアカイの人を拒絶する孤独な気持ちがわかる。イエス様はそんな彼をお叱りにはならず、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」(19:5)と言われた。この「泊まる」という原語は、単なる宿泊ではなく、ずっとそこに留まる、生涯ともにいるという意味の語が使われている。イエス様が私を受け入れてくださるという思いが、この瞬間にザアカイを変えた。木の下のイエス様を、上から見下げている嫌われ者の私を、わざわざ見つけてくださり、愛してくださるのだとわかった彼は、この瞬間に愛を知る人となった。ザアカイはどう変えられたのか。彼は急いで木から降りてきてイエス様を迎え、「私の財産の半分を貧しい人たちに施します」(19:8)と言う。今まで考えたこともなかったのであろう人を愛する思いが、彼の内側から自然発生的に湧いてきたのである。イエス様は皆の前で、さらに「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」(19:9)と言葉をザアカイにかけられる。この言葉によってザアカイは、人からどう言われ蔑まれようと、神から愛され、神の約束の中に自分も入れられていると確信したのである。

 クリスマスとは、神のひとり子がへりくだって世に来られた出来事であり、私たちもザアカイと同じような経験をしたのではないかと振り返ってみたい。クリスマスを通し、一人でも多くの人が神の救いのめぐみを知ることができますように。

 

2019年12月8日「夜深まり朝近い」(ローマ13:8~14)

 先日、大雪の北海道を取材したニュースで、レポーターが雪かきをしている男性に「大変ですね」と聞いたところ、その方は「あと90日すると春がきますから」と言っていた。今の状況を捉える私たちの気持によって、必ず今の状況を乗り切る勇気が湧いてくる。

 今日は、まず「キリストの愛」について見ていきたい。ここでは律法と愛との関係について、「他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。」(ローマ13:8)述べられている。かつての律法は「禁止」という消極的な形で語られており、ユダヤ人は人間関係を律法の規定から築きあげてきた。しかしクリスチャンの愛は、義務や権利ではなく、私たちの中の神の愛から脇出て、他の人との関係を築いていく積極的なものである。律法も、そこに神の愛がなければ、その律法が隣人を苦しめることになる。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(13:9)とは、かつてイエス様も「一番大事な律法」と言われたものである。

 第二に「キリストの時」について考えてみたい。パウロは「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。」(13:11)と述べた時、ギリシャ語の「時=クロノス(χρόνος)」を使っている。同じギリシャ語の「時=カイロス(καιρός)」とは主観的な時間を表すが、この「クロノス」は定められた絶対的な時を表す。また「あなたがたが眠りから覚めるべき時刻がもう来ています。」(13:11)には、時刻「ホーラー(ωρα)」を用いている。イエス様の時代から2000年たち、私たちは「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造のはじめのままではないか。」(Ⅱペテロ3:4)と自分たちの主観的な時(カイロス)で長いと感じ、緊張感を失って過ごしてしまう。しかし、神様の定められた再臨の時(クロノス)は、すでに定められており、私たちは「今」こそ目覚めの時/季節(ホーラー)と考えるべきである。内村鑑三は、再臨が今日でも良いように毎日を過ごそうと考え『一日一生』という本を書いた。自分の感覚ではなく、神様の視点から「時」を考えて、毎日の生活を緊張感をもって過ごしたい。

 第三に「キリストを着る」について見ていきたい。「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を付けようではありませんか。」(ローマ13:12)とあるが、この「夜はふけて」は、原語で「夜が前に進んでいく」という表現されている。夜が進み闇の生活がどんどん深まる中でも、クリスチャンは、あえて「光の武具を着ける」ことを選ぼうではないか。アウグスチヌスは、信仰に導かれながら、しばらく自分の悪習(女性関係)を断ち切れないでいた。だが、あるとき神様に導かれて聖書を開くと、今日の箇所である「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(13:13~14)という箇所が目に留まった。それ以降、彼は迷いが吹っ切れて神様に用いられる生涯を送ることになった。間違うことのない生き方」をすることは人間には不可能である。だが「キリストを着る」(13:14)によって、不完全な私たちにも神様の民として生きることができる。パウロは、同じ信仰者として熱い思いを込めて、私たちにそのような生き方を「しようではありませんか。」(13:13)と述べている。

 

2019年12月Ⅰ日「神のしもべの義務」(ローマ13:1~7)

 環境や教育によって培われた世界観は、私たちの考え方や行動に大きな影響を与える。今朝の箇所は「上に立つ権威」について述べられているが、この世の権威や秩序についての見方は、私たちがどのような世界観を持っているかによって異なってくる。

 今日はまず、「神の主権と地上の権威」について見ていきたい。パウロは「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。」(ローマ13:1)と述べている。ローマ人への手紙が書かれた紀元56年ごろは、「ローマの平和(パックス・ロマーナ)」と言われる安定期であったが、それは諸民族からの搾取の上に成り立っていた。当時の教会には、ローマの権威は自分たちの信仰と対立するものと考え、ローマからの独立を目指すものもいた。だがパウロは、世の権威は「神によって立てられたもの」(13:1)であり「権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。」(13:2)とまで言っている。私たちの社会は、大は国家から小は家族・親子まで、さまざまな権威のもとに秩序が保たれている。それらは、人間のするなので矛盾や欠陥もあるが、神様が人の手を介して神の業を実現してきたのも事実である。そうであるならば、むやみに権威を拒絶するのではなく、世にある権威や秩序に「従う」(その中での役目を果たす)ことによる愛の実現を考えるべきであろう。

 第二に、権威に従う「私の意識」の側から見ていきたい。パウロは、権威を「彼があなたに益を与えるための神のしもべ」(13:4)だと述べているが、この「しもべ」は、ギリシャ語の「ディアコボス(διάκοvος:奉公人・執事)」という語が使われており、パウロが自分自身を表現する「キリストのしもべ=ドゥーロス(δουλος:奴隷)」と言う語より、ずっと良い言葉を使っている。パウロは、「彼(国・皇帝)」や「彼の剣(国の警察権)」にも「良心のためにも、従うべきです。」(13:5)と述べている。この「良心」とは、神様の前に新しくされ、神の愛の中にある「良心」である。つまりパウロは、独りよがりな思想信条や判断基準でむやみに権威に反抗することを否定する一方で、神の「良心」に反する権威や不正な暴力に反対することまでは否定してはいない。私たちも、神が立てたこの世の権威に従いつつも、それが「良心」と対立した時は「人に従うよりも神に従うべき」(使徒5:29)なのである。

 三番目に「クリスチャンの義務と責任」について見ていきたい。パウロは「同じ理由で、あなたがたには、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその勤めに励んでいる神のしもべなのです。」(ローマ13:6)と述べている。当時、ローマに支配され税を取られることに強い抵抗感がある者も多かった。しかしパウロは、福音をあかしする者として今置かれている所での義務を果たし、「だれにでも義務を果たしなさい。」(13:7)と述べた。自分の考えにかたまった独りよがりな宗教的熱心さは、この世の秩序を否定する反キリスト的な姿勢となってしまう。クリスチャンは、なぜ神様がこの世に権威や秩序をおかれたのかを考えるべきであろう。神様は、それらを通して私たちを守り導いておられる。だが、この世の権威がはっきりと神様のご意思に反する時は、私たちは信仰の「良心」に基づいて立ち向かうべきである。再度、「良心」とは自分の思いや判断基準のことではなく、神様に従う「良心」なのである。そのことを踏まえて、私たちはこの世の役割を果たしていこうではないか。

 

2019年11月24日「善による勝利」(ローマ12:15~21)

 先週見たように、私たちひとり一人はキリストの身体として教会を建て上げており、その教会は神様の御言葉の上に建て上げられる。私たちは、教会という組織に属しているからではなく、神の御言葉に聞き従って生きるからクリスチャンなのである。

 今日、最初に見たいのは、教会がキリストの身体として一つになることである。そのためには、「喜ぶ者といっしょに喜び。泣く者といっしょに泣き」(ローマ12:15)、互いに共感し合うことが必要であるのだが、私たちは、喜んでいる誰かを心から喜ぶことができずねたみや嫉妬心を起こすことも多い。だが「一つの身体」であれば、一部の痛みは全体の痛みとなろう。兄弟を亡くした悲しみに絶望しているマルタとマリヤの姉妹の側に寄り添われたイエス様のような(ヨハネ11章)謙遜と共感が必要なのである。当時のローマの教会には、特別な階級に属していることを誇る人がいる一方で、身分が低くいため押しやられている人もいた。だが、教会が一つの身体になるためには「高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応」(ローマ12:16)し、互いに神の家族の一員と考える謙遜な姿勢が必要である。

 第二に「平和を保つ」ということを考えたい。パウロは「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。」(12:17)と述べている。私たちは、悪に対して自分を正しいと思って復讐しようとしがちである。だが「私たちは主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(5:1)とあるように、かつては神に対して敵意を向けていたが、今はイエス・キリストによって平和を与えられている。必要なのは、神に与えられた時の平和をそのまま保つことである。具体的には、「自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」(12:18)とあるように、自分の周りにいる分け隔てなく、神様から与えられた平和な交わりの状態を保っていきなさいと言う意味である。もちろん中には、自分と敵対関係にある人もいよう。それらの人に対する「悪い感情」や「許せない思い」もあろうが、私たちは「愛する人たち、自分で復習しようとしてはいけません。神の怒りに任せなさい。」(12:19)と命じられている。だから、その時に御言葉に従っているかが問われるのであり、自分の思いにまかせて復讐するべきではない。

 最後に「善による勝利」について見ていきたい。私たちは「悪に対して悪に報いる」のではなく、悪に対して善で報いるように述べられている。私たち日本人は、「天に代わって成敗する」という時代劇の筋書きが好きであるが、悪に対して悪で報いることは、自分を義とし際限ない報復の連鎖となってしまう。では、イエス様が私たちの悪に対して善で報いてくださったことに見倣ったらどうなるか。おそらく悪を行った人は、自分自身を恥じて罪を認め神様に立ち返るようになる。しかし、善で返しても全く無反応で態度が変わらない人もいて、そんな人は切り捨てたくなる。しかし、そうではない。「彼の頭に炭火を積むことになるのである。」(12:20)とあるように、その人は、神のさばきを蓄積していることになる。どちらにしても、私たちが善を積むことは無駄にはならず、悪の連鎖を断ち切ることになる。私たちは、悪には悪に対抗していくのではなく、神様から与えられた善をもって悪に報いていこうではないか。それが本当の勝利なのである。

 

2019年11月17日「偽りない愛」(ローマ12:9~14)

 教会とは、一般がイメージする尖塔のある建物を、神の愛の交わりが現実化された場所のことである。黙示録に出てくるエペソの教会のように(黙示録2:4)、教会といえども真実の愛から離れてしまうことがある。だが教会には、神様の愛への立ち返りの道もある。

 今日は、第一に「偽りのない愛」について見ていきたい。パウロは「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。」(ローマ12:9)と述べているが、この「愛」とは神の愛(αγάπη)のことであり→「新約聖書を読んでみよう」の「アガペー」を参照、「親しむ」はギリシャ語の「くっつく(κολλώμενοι)」という言葉が使われている。また「善(άγαθώ)」は、イエス様が「尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。」(マルコ10:18)と言った言葉の中で、神様を指して言った「尊い方(άγαθός)」と同じ言葉である。つまり「偽りのない愛」は、自分の内側から出てくるものではなく、神様の愛から離れることなく生きることで生まれてくるものである。

 第二番目に「実践の場である兄弟の交わり」について見ていきたい。教会の中で神様の愛が活かされるためには、礼拝で聞く御言葉が生活の中で実質化されてなければならない。パウロは「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」(12:10)と述べているが、ここには、人間関係を示す「互いに」が二回使われている。「心から愛しなさい」も「人を自分よりまさっていると思いなさい」も、単なる感情ではなく、意志を持って行っていきなさいと言うのである。礼拝への出席は神様との重要な交わりであるが、それだけで教会にいる兄弟姉妹(→「はじめての教会用語辞典」のか行「兄弟」およびさ行「姉妹」を参照)との交わりがなければ、せっかくの信仰自体が形骸化してしまう。私たちの信仰は、兄弟姉妹との交わりを通じ、「心から愛する」意志を持って「へりくだって」お互いの関係を築く中で成長する。

 三番目は「神の愛の働きと忍耐、希望」について見ていきたい。「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」(12:11)とあるが、私たちクリスチャンは自分たち教会の仲間内のことだけで安住するのではなく、常に地域社会やもっと広い世界に目を向け、怠りなく真実の愛を広げる必要がある。たしかに、その働きには障害や困難がつきまとうが、「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。」(12:12)とあるように、私たちにはそのような障害や困難に立ち向かっていく姿勢が求められている。この神の愛の広がりは、「あなたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」(12:14)と述べられているように、自分を迫害する人にまで広がっている。この部分を直訳すると「あなたを迫害する者を祝福せよ。祝福せよ。呪うな。」と命令形で書かれており、「いつか祝福できるように努力しなさい」ではない。迫害する者を祝福できないのは人間の常であるが、だからこそパウロは、たとえ本心が違っていても「祝福せよ。」と命じた。かつて使徒ペテロが初めてイエス様に出会った時、彼は魚が獲れないと分かっていたが、「でも、おことばどおり、網を下ろしてみましょう。」(ルカ5:5)と従って大きな収穫を得た。私たちも同様に、自分は神様に救われた、その神様の命令だから本意ではなくても祝福してみる、その中で神様の愛に触れ新しい人間関係を得る。それがイエス様の愛に生きるということであり、それによって私たちの信仰は成長するのである。

 

2019年11月10日「喜びささげる礼拝」(ローマ12:1~8)

 最近は、礼拝の様子をネット中継する例もあるが、そうすると「わざわざ教会に行って礼拝する意味があるのか?」と考える人も出てくる。しかし、日曜日に「礼拝を聞くこと」と「礼拝に出席すること」はちがう。教会に行って礼拝に出席するということは、公に神様に向かい合い、自分自身をささげることである。そして礼拝が豊かなものとなれば、私たちの信仰生活も豊かなものとなる。今朝は「喜びの礼拝」について見ていきたい。

 今日の第一のポイントは、「神様はまことの礼拝を求められている」点である。今日の箇所には「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」(ローマ12:1)とあるが、礼拝における捧げものとして求められているのは「私たちのからだ」である。本来、神様への捧げものとは、特別なもので、欠陥のない、最上のもの捧げるものである。例えば、民数記7章には、幕屋→「聖書の舞台(生活・習慣)」のま行「幕屋」を参照を建て上げた日にモーセが行った礼拝でイスラエルの各部族が捧げた膨大な動物犠牲や穀物、銀製品などの捧げもの書かれているが、このような旧約聖書の儀式と比べると、不完全で貧しく汚れている自分がはたして捧げものになるのかと考えてしまう。しかしパウロは、そんな迷いを払拭するように「ささげなさい。」(12:1)と命令形で語っている。私たちは、神のあわれみゆえに選ばれ聖いものとされた。それに対して「私は捧げものになる資格はない」と固執するべきではない。

 次に2節の言葉を見てみたい。現在、のぞみ教会で使っている第三版の新改訳聖書では「心の一新によって自分を変えなさい。」(12:2)と書かれているが、新改訳聖書2017版や新共同訳聖書→「はじめての聖書選び」参照では、より言語に忠実な「変えられなさい。」と受動態で書かれている。「変えなさい。」であれば自分の努力を要するように思われるが、本来は、自分を神様にささげた結果によって「神様が」変えてくださるという意味である。パウロは、「何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るため」(12:2)には、「この世と調子を合わせて」いてはいけないと述べている(12:2)。それらは、神様によって自分の内側が変えられることによってはじめて見えてくる。そのためにも、私自身を神様に捧げ、礼拝の中で神様によって変えられる自分を見出していきたい。

 三番目に「喜びの生活の実践」について見ていきたい。パウロが主張しているのは、霊的な礼拝の儀式の改革ではなく、クリスチャンの日常生活が信仰と結びつくことである。私たちは、「他人と比べてどうか」というちがいが気になりがちであるし、そのちがいを受け入れられないことが多い。しかし、私たち教会に集まるひとり一人は「キリストの身体の器官」(12:4-5)なのである。パウロは「神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」(12:3)と述べているが、私たちは、自分自身や他人の量りではなく神様が与えてくださった量りによって、自分がどのような役割を与えられているか考え、神様が与えてくださった賜物を生かすかたちで生きていくべきである(12:6-8)。この賜物は神様が与えてくださったのだから、神様のために使うべきであり、その働きを「惜しまず」「熱心に」「喜んで」(12:8)行おうではないか。

 
 

2019年11月03日「天の備えられた場所」(ヨハネ14:1~6)

 今朝の礼拝は、イエス様を信じて天に召された方を祈念する召天者祈念礼拝である。愛する人との離別ほど悲しいものはない。私たちは、どこに慰めを見出せばよいのか。イエス様は、弟子たちに「あなたがたは心を騒がしてはなりません。」(ヨハネ14:1)と言っている。彼らは、「神の国は近くなった。」(マルコ1:14)というイエス様の言葉に新しい時代の到来を感じ、ガリラヤ地方からイエス様に従って旅をしてきた。だが、彼らの描いていた「神の国」とは、イスラエルの民がローマの支配から脱して国を取り戻すという世俗的なものであった。民衆の多くも、一行がエルサレムに入城する時には熱狂的に歓迎したが、入城後に宗教指導者たちによる弾圧が強まると、次第に冷たくなってきた。この時、弟子のひとりのユダはすでに裏切りを決意していたし、他の弟子たちも思い描いていた「神の国」とは異なる方向に事態が進んでいることを不安に思っていた。そこへイエス様の「心を騒がすな」との言葉である。この言葉は他にも三回出てくる。一回目はラザロをなくしたマリヤたちに対して(11:33)、二回目は十字架が迫ってきた時(12:27)、そしてユダの裏切りを感じて「霊の激動を感じた」(13:21)時で、いずれもサタン的な力にゆさぶられ世俗的な不安を覚えた時である。私たちの人生でも、「信じてついてきたけれど大丈夫だろうか」ということが多々ある。しかし、イエス様は「神を信じ、またわたしを信じなさい。」(14:1)と言っている。

 またイエス様は、天の御国を指して「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。」(14:2)と述べている。ただし、「今はついて来ることはできません。」(13:36)と言い、イエス様が「あなたがたに場所を備えたら」(14:3)行くことができるとも述べている。旧約聖書の時代、神殿の「聖所」「至聖所」は幕で隔てられ、祭司や大祭司が隔たりを超えるためには動物犠牲の「きよめの血」を必要としていた(→「聖書の舞台(生活・習慣)」のま行「幕屋」を参照)。これは来るべきイエス様の救いの「模型」であり、イエス様の十字架による贖いの血が備えられて、私たちは神様との隔たりを超えて御前に立つことができる。さらにイエス様は、天の御国に行った後のことも語っておられ、「また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」(14:3)と述べられている。これは再臨ではなく聖霊が与えられることを意味し、その聖霊様が私たちのうちに働くからこそ、私たちは心を開いてイエス様を向かい入れることができるというのである。

 ここで「私たちの備え」について見ていきたい。弟子のひとりであるトマス(→「聖書の舞台(人物・組織)」のた行「トマス」を参照)は、イエス様に「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。」(14:5)と言った。そこには「備えに行くと言うが、どこに行くのかイエス様が示してくださらないので、わからなくても仕方がない」という意識が見えてくる。だが、私たちもまた備えなければならないのである。単なる口当たりのいい慰めを口にする宗教は多い。だがイエス様は、私たちが罪人であるという現実を突きつけるとともに、「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。」(14:6)と、自らの十字架の犠牲の上に切り開かれたいのちへの道を示された。私たちのすべきことは、自らの罪を受け止め聖霊が働いてくださるように心を整えることである。私たちも、弟子たちのように心を騒がされることもある。しかし、そんな時こそ、私たちの罪を贖うために備え居場所を整えてくださったイエス様の言葉を思い出して欲しい。

 

20191027日「明かされた奥義」(ローマ11:2536

 現代人の多くは自分の感性を第一に生きており、そこに絶対的な価値を見出している。しかし自分の感性に従って生きることで、自分より大きな存在を自分と同じように考えてしまう間違いを犯してしまう。自分の感性や考えは大切であるが、それ以上に大事なのはイエス様がどのように私を導いておられるのかを第一に考えることである。今朝の箇所には「神の奥義」が語られている。一般に奥義(ミステリオンmystērion)とは、「ミステリー」の語源となった言葉で、特定の人にしか伝えられない宗教的秘儀を指すが、キリスト教の奥義はイエス様の十字架によって公にされ、私たちの人生観・世界観を広げていくものである。

 今日、第一に見ていきたいのは「イスラエルの救いの時」についてである。パウロは、ローマ教会の人々だけでなく、教会外で彼らを害しているユダヤ人も含めて「兄弟たち」(ローマ11:25)と呼びかけていた。その呼びかけには、人間的な視点でユダヤ人を非難するのではなく、彼らの「かたくなさ」を神様の「時」という観点からとらえているパウロの思いがある。「かたくな」は、旧約聖書では「うなじのこわい民」(→「聖書の世界(人物・組織)」のあ行「うなじのこわい民」を参照)という言葉で表現され、神様に対する従順さを欠いた状態を指している。選びの民であるユダヤ人がイエス様を十字架につけたことは、異邦人の大きなつまずきとなっていた。だがパウロは「イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです」(11:25-26)と述べ、ユダヤ人による迫害も、神様の視点から見れば異邦人が散らされて各地で教会を形成するためであり、不従順なイスラエルの民に対しても神様は契約を保ち、終末においては必ず救われることを信じていた。

 第二に「神の賜物と召命」について見ていきたい。「彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神にて期待している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。」(11:28)とあるように、今、異邦人キリスト教徒を迫害し神様に敵対しているユダヤ人たちは、同時に神様から愛されている存在でもある。私たちは、他人を見る時にその人の行為を見ているが、神様がその人にどのように働いているかを見るべきであろう。私たち自身も本来無価値なものであるが、神様から愛されているゆえに価値ある存在として神様の前に立てる。「神の賜物と召命とは変わることはありません。」(11:29)とあるように、人間的な不従順があったとしても神様の愛は変わるものではない。

 最後に、「底知れない神の知恵」を見ていきたい。パウロはこの章の最後を、哲学や倫理学のように自分の考えのまとめではなく、「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何とはかり知りがたいことでしょう。」(11:33)との賛美で締めくくっている。行いだけ見ればイスラエルの民の不従順に対する批判しか出てこない。しかし、そこに働く神様の御業と愛を知れば、人間的な理解がいかに浅はかか分かろう。知恵者であるはずのソロモンが伝道者の書で一貫して神様の知恵の奥深さを賛美しているが、イエス様の十字架を知ったパウロの賛美は、さらに救いにあずかった喜びと信頼があふれている。私たちも神様に対して不従順なものであった。しかし、そんな私自身にも神様の愛が注がれている。そのことを理解していきたい。

20191020日「折られた枝とつがれた木」(ローマ11:1124

 民族間の差別は、今日も国際紛争の原因の一つであるが、当時のローマの教会にあったユダヤ人と異邦人の壁は私たちの想像以上のものがあった。「神の選びの民」としての歴史を歩んできたユダヤ人は、それ以外の民族を「異邦人」と呼び、神の救いから漏れた者と考えていた。このような考えは初代のキリスト教徒にとって気分のいいものではなかった。また異邦人たちも、聖書に精通しているはずのユダヤ人がイエス様を十字架につけたことへの戸惑いと批判があった。パウロは、「ユダヤ人の失敗と不信仰」の歴史と「異邦人への救いの広がり」の歴史を「接ぎ木されたオリーブの木」の例えを使って表現している。

 本日の二つのポイントである「福音宣教におけるイスラエルの民の役割」(→「聖書の舞台(人物・組織)」のあ行「イスラエル」を参照)と「神の慈しみと厳しさ」を理解するためのキーワードが「神の奥義」(1125)である。奥義とは、本来宗教的な秘儀を指すが、ここでパウロが示している「奥義」とは、長く秘められてきたが、今ははっきりと示された神様の御心を指している。旧約聖書にあるイスラエルの歴史は不信仰の歴史であったが(→「旧約聖書を読んでみよう」の「失われた十部族」を参照)、それは単なる「反面教師」として書かれたものではない。その背景には「奥義」とも言える、福音宣教を目的とした神様の大いなる御業があった。イスラエルの失敗の歴史は、救いが異邦人に及ぶためであり「イスラエルにねたみを起こさせるためなのです。」(11:11)とパウロは述べている。本来、「ねたみ」という感情は受け入れられるものではない。ユダヤ人がイエス様を十字架につけたのも彼らの中の「ねたみ」からだったと聖書は記している。だが、そこから神の救い業が完成した。さらに、この「ねたみ」が異邦人への迫害を生むが、それが宣教の広がりにつながり「異邦人の富」となったというのである(11:12)。人間的には「結果オーライ」にしか見えない。まるで、パウロがユダヤ人の失敗を軽減しようとする言い訳にも聞こえる。しかしパウロは、その背後にある素晴らしい神様の御業を見取っていた。パウロは民数記1518節の言葉を引用して、アブラハム、イサク、ヤコブが選ばれたイスラエルの「初物が清ければ、粉の全部が清いのです。」(11:16)と述べている。個人としては失敗や不信仰を積み重ねてきたイスラエルの歴史も、民族全体は神様の約束に向ってまるで「超個体」のように救いの歴史に歩んでいる。パウロは、そんな神様の視点から見たイスラエルの歴史を見ている。現実のローマの教会にはユダヤ人にも異邦人にも様々な思いがあり対立もあった。しかしイエス様を十字架につけた歴史を持つユダヤ人も、神様からの救いに触れてこなかった異邦人の歴史も、神様の救いの御業の完成過程と見れば、すべてが神様の御手の中にあったとパウロは言うのである。

 さらに「神の慈しみと厳しさ」について見ていきたい。パウロは、異邦人宣教の召命を受けて働いていたが、それはイスラエルの民を見捨てたのではなく、異邦人伝道を通じて同胞を救う神様の働きの一翼を担っていたという意識があった。人が神様に立ち返るには様々な動機があるが、どんな動機であっても神様に立ち返ることが重要なことである。パウロは、自分の働きを通じてユダヤ人が神様に立ち返るのは、「ねたみ」からではないかと喝破していた。神様は「ねたみ」さえも用いられる。私たちも、人間関係や、人間的な「失敗」「ねたみ」も、神様の視点からその御心やご計画の中で見直して行くことが大切である。

 

2019年10月13日「恵みによる選び」(ローマ11:1~10)

 ここまで福音が恵みによる救いであると述べてきたが、この「恵み」とは「選び」という言葉で言いかえることができる。それは被造物に注ぐ創造者の限りない愛の中でなされ、人間から見れば自分の弱さや罪を神様にゆだねていくことでもある。

 今日の第一は「イスラエルが選ばれる」ことについて考えていきたい→「聖書の舞台(人物・組織)」のあ行「イスラエル」。まずパウロは「すると神は、ご自分の民を退けてしまわれたのですか。」(ローマ11:1)との問いを発している。神様は、旧約聖書の中で「すべての国民にあって私の宝となる」(出エジプト19:5)とまで言っていたイスラエルの民を、「不従順で反抗する民」(ローマ10:21)とまで述べている。一見、神様が彼らを見捨てられたように見えるが、それに対してパウロは「絶対にそんなことはありません」(11:1)と強く否定している。パウロが自分も「イスラエル人」で「ベニヤミン族の出身です。」(11:1)と言っているのは、自分の血統を誇っているのではなく、神様に選ばれ、不信仰に陥り、滅びかけたベニヤミン族の歴史に、かつて自分が救われて恵みにより異邦人伝道に立てられていることを投影したのであろう。彼の確信は、神様の視点に立っていたから来るであり、私たちも直面する問題にとらわれるのではなく、神様の恵みの視点に立って考える必要があろう。

 第二に「恵みによる選び」について見ていきたい。ここで出てきたエリヤは、紀元前9世紀のイスラエルの預言者であり、バアルの神官たちに対して圧倒的な神の御業を示した人物である(Ⅰ列王18:20-40)。その働きの直後にも関わらず彼は、アハブ王の妻イゼベルの言葉に恐れて(19:9)ホレブ山に逃走し、自らの内側に閉じこもってしまった。そんなエリヤに対して、神様は「外に出て、山の上で主の前に立て。」(19:11)と命じた。恐れと苦しみから解放される道は、大風や地震など、彼が期待した劇的な事象の中にはなく、ただ、かすかな神様の声に耳を傾けるところにあった(Ⅰ列王19:13)。神様に語りかけ対して、エリヤは「ただ私だけが残りました」(19:14)と弱気に吐露している。ここにはバアルの神官たちと対峙した時の強さはない。パウロは、あのエリヤでさえもこの苦しみに置かれた。だから人間的な働きの大きさではなく、ただ信仰のみに救いがあるというのである。神様は弱気なエリヤに「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残されている。」(Ⅰ列王19:18)(ローマ11:4)と示された。同様に「今も、恵みの選びによって残された者がいます。」(ローマ11:5)とパウロは述べている。問題に直面すると視野が狭まりがちだが、私たちは神様の恵みによって支えられていることを忘れてはならない。

 最後に「イスラエルのかたくなな心」について見ていきたい。神様がイスラエルの民に「鈍い心と、見えない目と聞こえない耳を与えられた。」(11:8)ことから、神様が人間をそのように創りながら、それを責めているようにみえる。だが神様は人間を最良のものとして創られ、自由意思や選択の機会を与えられただけである。それを鈍くさせたのは人間のかたくなさであり罪である。それでも神様は、そんなかたくなさを承知の上で、なお愛を持って彼らを導かれている。信仰から離れた義はない。私たちは問題に直面する時、かたくなに自分の中に閉じこもってしまうが、そんな時こそ神様の恵みが私を支えていることを思い起こしたい。

 

2019年10月6日「福音を伝える者の足」(ローマ10:14~21)

 10月の第一日曜日は、私たちの教団の献身者デーとなっている。現在、教団では23名の神学生がいる。献身とは狭義には彼らのように牧師や伝道師となろうとするものであるが、広くは神様に従う生活を選び、み言葉を伝えようとする者をさす。

 今日は第一に「み言葉を語る働き」について見ていきたい。パウロは、前の箇所で「信仰による義」と、主の御名を呼び求める者は誰でも救われることを述べている。律法による救いならば、律法に従っているか常に自分の内側に向けて問いかける行動となるが→「聖書の舞台(生活・習慣)」のら・や・わ行「律法」、誰でも救われるということになったら、自分が受けたみ言葉をこの世のすべての人に向って宣べ伝えたいという衝動となる。その際、重要なのは「信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。」(ローマ10:14)と、すべてのクリスチャンが、み言葉をあかしすることであると述べている。さらにパウロは、福音→「はじめての教会用語辞典」のは行「福音」を宣べ伝える者の足は、山々をめぐり歩いて汚れ傷ついていても「何と美しいことよ」と、イザヤ書を52章7節の言葉を引用して表現している。私たち自身も様々な問題を抱え痛み汚れているが、神様は、福音を宣べ伝えるその姿を美しいと言ってくださるのである。

 第二に「聞くことによる従順」について見ていきたい。み言葉は広く語るべきものであるが、それは一方的に語られるものではない。「信仰は聞くことから始まり」(ローマ10:17)とあるように、そこには「従う」ということが伴う。このことは「み言葉に盲目的に従う」ことを意味するのではない。大事なことは、神様に対して心を開くという私たちの心備えである。毎日の生活の中でみ言葉から示されたことはあったのかを思い返し、「主は私に何を願っているのか」をつねに考え、生活に取り入れることなのである。

 第三に「宣教を支える神」という点である。パウロは、「『はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。』むろん、そうではありません。『その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。』」(10:18)と述べている。神の民であるはずのイスラエルはみ言葉を受け入れることができなかった。だが神様は、「わたしは、民でない者のことで、あなたのねたみを起こさせ、無知な国民のことで、あなたがたを怒らせる」(ローマ10:19)と、十戒でも禁じられた「ねたみ」をあえて起こさせることで、イスラエルの民→「聖書の舞台(人物・組織)」のあ行「イスラエル」に自分たちのより立ってきた「律法による義」が何の役にも立たないことを思い知らせ、真の信仰に立ち返らせ救いに導こうとしていた。だが神様は、「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」(10:21)とあるように、彼らをこよなく愛して救われることを願っているのである。私たちは福音の宣教が委ねられ、それをあかしすることを求められているが、その中で「不従順の民」に直面し、なかなか福音を受け入れてくれない悔しさを感じることもある。それでも語り続けることは、人間的に見れば「ばかばかしい」という思うこともある。しかし、そういう時には「神様が不従順なイスラエルの民をどうとりあつかったか?」を思い出して欲しい。神様は、不従順で反抗する民でも愛しておられたからこそ、「一日中、手を差し伸べた。」私たちも、神様が示されたことを思い起こしてみ言葉を伝えていきたい。

 

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