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聖書の舞台(国・場所)
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メッセージに聖書の舞台の国名や場所が出てきたら、それをフリー写真を使って解説していく「聖書の舞台」です。クリスチャンの方も、そうでない方も、聖書をより身近に感じられるようになりますように!

あ行

あ行

アジア NEW

​ 「使徒の働き」などパウロの旅行の話を読んでいると「アジアをまわった」とか「アジアから来た」とか、よく出てきます。現代の私たちは「アジア」というと日本や中国、韓国などの東アジアや、インドなどの南アジア、インドネシアなどの東南アジア、そして中央アジアの国々など、広い範囲をイメージしますね。そうすると、パウロはいったいどこのアジアを旅してきたのだろうと疑問に思うことがあるかもしれません。

 しかし、もともと「アジア」とは「アス=東」+「イア=土地」と言う意味で、現在のトルコ共和国があるアナトリア半島のことを指した言葉なのです。コリントとか、エペソとか、ピリポなど、聖書によく出てくる町がありますね。聖書にでてくる当時の人々は地中海を中心とする世界しか知らなくて、東の果てに日本があって弥生時代を過ごしていたとは考えも及びませんでした。

 その後、「どうやら東の方にもいろんな土地があるぞ」とわかって来て、ローマあたりの南ヨーロッパから見てアジアの方にある土地をまとめて「アジア」と呼ぶようになったのです。現在は、この広い地域を「アジア」、もともとのトルコのアナトリア半島を「小アジア」と呼んで区別しています。

 ちなみにオリエント急行も、もともとはトルコのイスタンブールとヨーロッパを結ぶ複数の路線を走っていた寝台急行だったことからも分かりますが、この「オリエント」も本来はアナトリア方面であったのです。ところが、その範囲も徐々に広がり「オリエント文明」と言った場合は少し先のメソポタミアやエジプトも含まれるし、「オリエンタリズム(東洋風の)」と言った場合、メソポタミアやエジプトから日本文化までの広い範囲を指すようになりました。

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エデンの園

 このページは信徒が書いているので、できるだけ神学的なことは書かないようにしようと思いましたが、2019年3月17日の星沢先生のメッセージを理解するために必要なので、簡単に書いておきます。

Q1:どこにあったのか?

A1:ティグリス(ヒデケル)川、ユーフラテス川、ピション川、ギホン川の接するところにある(創世記2:10-14)。ティグリス川、ユーフラテス川と言うのは世界史でも習う、今のイラクにある有名な川だが、ピション川、ギホン川がどこにあるのかわからないので場所は特定できない。

Q2:どんな場所か?

A2:神様が最初の人間としてアダムとエバを創造され、二人を置かれた場所(創世記2:8)。そこには見た目が良くて食べるのに好ましいいろんな木を神様が生えさせて、さらに中心には「いのちの木、それから善悪の木とを生えさせた」(創世記2:9)。もちろんいろんな動物もいたようです(創世記2:19など)。

Q3:それで人間はエデンの園のリンゴを食べたということ?

A3:実は聖書には「リンゴ」とは書かれていません。ヘビにそそのかされて食べたのは「園のどの木からも思いのまま食べてよい。しかし善悪の知識の木からは取って食べてはならない」(創世記2:17)と言われた「善悪の木の実」です。

Q4:何がいけなかったの?

A4:神学的なことは難しいのですが、次のようなところだと思ってください。神様とのたったひとつの約束を破って最高の環境と自由を与えてくださった神様に逆らった。ヘビに、善悪を知って神様のようになると言われて(創世記3:5)傲慢にもその気になった。神様にばれた時、アダムは「女が食べさせた」と言い訳を詩、エバは「ヘビが惑わせた」と言い訳をして罪を認めなかった(創世記3:12-13)。どうして素直に「罪を犯しました。許してください。もう一度、神様と一緒に暮らしたいです」と言えなかったのでしょうか?

Q5:その結果はどうなったの?

A5:そのまま神様とつながりを持ち、ひとつの約束事だけを守っていれば、楽園で永遠に暮らせたのに、楽園を追放され、永遠のいのちを失い、労働して一生を生き抜いて最後に塵になってしまう状態になったのです(創世記3:16-19)。神様から離れた私たち人間は、そのままでは生きていけなくなったのですね。約束した通りの「罰」を神様は与えざるを得ませんが、追放の時にわざわざ服を作って与えてくださったり(創世記3:21)、その後も何やかや持って支えてくださったり、最後にはイエス様を通してここまでの罪を贖ってくださったり。神様は本当に人間を愛しておられるのですね!

 でも、この解説よりも、ぜひ聖書の箇所を読んでみてください:アダムとエバ(→新改訳聖書「創世記2章、3章」放蕩息子のたとえ→新改訳聖書「ルカの福音書15章11-32節」読んでみると面白いですよ!

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​ルーカス・クラナッハ「アダムとイブ」1528年

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Wikipedia

エルサレム

 イエス様が活躍したイスラエルは、現在のイスラエル国です。ピラミッドで有名なエジプトから東(地図では右)に300キロほど行ったところ。意外に狭い地域です。右(モバイル版では上)の写真は、イスラエルの首都エルサレムで、真ん中の金色のが「岩のドーム」です。むかし神様の神殿があった場所ですが、今はイスラム教の寺院になっています。礼拝のメッセージに応じて、順次書き加えていきます。

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Pixabay

か行

か行

​ガラダ NEW

 「ガラダの豚」の話は、悪霊に取りつかれた人たちの中にいたたくさんの悪霊が、イエス様に追い出されて豚の中に入り、「二千匹ほどの豚の群れ」(マルコの福音書5章13節)が悪霊が入ったままガリラヤ湖に転落しておぼれ死んだ話です。マタイの福音書8章、ルカの福音書8章にも記事が載っています。ここで疑問なのですが、豚を汚れた生き物として忌み嫌っていたユダヤで、なぜ二千頭もの豚が飼われていたのかという点です。

 実は「ガラダ」とは町の名前で、「ガダラ」「カナタ」「ゲラサ」「スキトポリス」「ダマスコ」「ディオン」「ヒッポス」「フィラデルフィア」「ペラ」「ラファナ」という、ガリラヤ湖の東にある「ゲルゲサ地方」にあった(「ダマスコ」だけは北の方にあった)ギリシアの10個の植民都市の一つでした。10(=デカ)ポリス(=都市)という意味で、まとめて「デカポリス」と称されていました。つまり、ここはギリシア人の住む町だったのです。なお、マタイの福音書では「ガラダ人の地」(マタイ8:28)と書かれていますが、マルコやルカの福音書では「ゲラサ人の地」(マルコ5:1、ルカ8:26)、異本では「ゲルゲサ人」と書かれていますが、前二者はこのあたりの町の名前を、後者はこのあたりの地方名を書いただけで変わりはありません。

 もうお分かりと思いますが、豚はギリシア人が食べるために飼っていたのです。ユダヤ人からしたら「侵略者」で「異教の神々を信じていて」「旧約聖書の律法を無視した生活をしていて」しかも「あの忌まわしい豚を食べる」という最悪の人々だったわけです。でもイエス様がガリラヤ湖を渡って「ガラダ人の地」に行って癒しをなされたということは、神様の愛がイスラエル民族だけではなく、すべての人に注がれていたという証左でもあります。

 それから、ギリシア人の名誉のために書きますが、豚肉を食べるから野蛮人というわけではなく、みなさんもご存知のように古代の文明や芸術では多くの役割を果たした民族です。食に関しても美食を芸術と考えており、二世紀には、紀元前八世紀のホメロスの時代から、イエス様の時代を経て二世紀までの美食について書かれた『食卓の賢人たち』という全15巻の書物が書かれています。それほど美食に関する蘊蓄があったのですね。

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17世紀に出版された『食卓の賢人たち』の表紙(Wikipedia)

​ガリラヤ地方(2019.5.8追記)

 ガリラヤ地方は、エルサレムから北に100キロほど行ったガリラヤ湖の周辺の地域です。昔、イスラエル王国が北イスラエル王国と南ユダ王国にわかれていたときは、北イスラエル王国の中心地でした。一方、南ユダ王国はエルサレム周辺のユダヤ地方を中心地としていました。北イスラエルがアッシリアに敗れて支配されていた時に(→旧約聖書を読んでみよう「失われた十部族」参照)他民族との混血が進んだことから、イエス様の活躍されていた時代には、差別されていた地域でした。つまり、神様からの「選びの民」としてのプライドがあるユダヤ人にとって、ガリラヤ地方は「むかし神様に逆らっていた北イスラエル王国の地域」で「その後異民族との混血が進み」、「今はエルサレムから離れた田舎」ということになります。

 ユダヤ人にとって、救世主は「ベツレヘム」というエルサレム近くの村から出ることが旧約聖書に預言されていました。それなのに、「サマリヤ地方のナザレ村」から両親が旅をしてきて、「たまたま」ベツレヘムで生まれた「ナザレのイエス」が救世主であることは、心情的にも認められなかったという訳です。

​ ところで、みなさん聖書の舞台というと何となく「砂漠の物語」というイメージがありませんか。しかし、この辺りは緑豊かな大地だったことが歴史家のヨセフスによって書かれています。ヨセフスがイエス様が十字架にかけられた直後のA.D.37年に生まれたユダヤの歴史家で、ほぼ同時代のイスラエルの様子を記述しています。彼の『ユダヤ戦記』によると「というのは、ガリラヤ全土が肥沃で緑豊かであらゆる樹木に恵まれている条件に魅せられて、労働を全く好まない者までこの地に集まってきたからである。事実、全地が住民によって耕されており、荒れ地は全く見られなかった。町も密集して存在し、村といえどもその多くは肥沃な土地のおかげで多くの住民に恵まれ、最も小さな村でも一万五〇〇〇の人口を有していた。」(『ユダヤ戦記2』山本書店、1981年、105~106ページ)と描写されています。たしかに「ナザレ」の項目で引用したこの度のブログの写真を見ても(→「イエスの育ったナザレの街」参照)その様子がうかがえます。 

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さ行

さ行

サマリヤ地方

 か行で「ガリラヤ地方」が、エルサレム周辺のユダヤ地方の人から一段低く見られているという話をしましたが、「サマリヤ地方」「サマリア人」はさらにひどく、「まっとうなユダヤ人はサマリヤ人とは付き合わない」とまで差別されていました。これはユダヤ人の、ガリラヤ地方に対する思いに似ていますが、さらにサマリヤ地方は旧・北イスラエル王国の首都があった土地で、異教礼拝の中心地だったからです。じゃあ「ガリラヤ地方」と「サマリア地方」は、ユダヤ地方の人に差別されていたどうしで仲が良かったのかというと、この二地域の人たちの間も微妙な確執があったようです(フラティウス・ヨセフス著、新見宏訳『ユダヤ戦記1』山本書店、1975年、268ページ)。

 さてサマリア地方の歴史です。ダビデ王やソロモン王のイスラエル王国から十部族が分離してきたイスラエル王国が生まれたのですが(→旧約聖書を読んでみよう「失われた十部族」参照)、もちろんエルサレムの街も神殿そのものも動かすことはできません。十部族にはエルサレムの神殿に代わる「聖地」が必要だったのです。そこで首都を築いたところに近い街シェケムの南北にある山、神様がモーセを通じて「あなたはゲリジム山には祝福を、エバル山にはのろいをおかなければならない。」(申命記11:29)と命じた「ゲリジム山」を「聖地」としたのです。さらにモーセ五書のみを聖典とする、ユダヤ教徒は異なる「サマリア教団」を作ってしまいました。その後、異教徒の王に媚び「自分たちは南ユダ王国やユダヤ教と関係ないのです」と示すために、その山にジュピター神殿を築くまで至ったのです。その後、北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ(A.D.722)、南ユダ王国もバビロンに滅ぼされますが(A.D.586)、アケメネス朝ペルシャに解放されます(A.D.537)(→旧約聖書を読んでみよう「失われた十部族」参照)。ここまでは旧約聖書にあります。その後はアレクサンダー大王に征服されたり、シリア王国の属国になったり、ユダヤ人の王国であるハスモン朝(A.D.140~37)ができたがローマの属国になったりしています。このハスモン朝の時代にユダヤ教の立場から王がゲリジム山の神殿を破壊して、ユダヤ人とサマリア人の断絶が起こります。ユダヤ人とサマリア人が普通は交流がないこと(ヨハネ4:9)、サマリア人はゲリジム山でユダヤ人はエルサレム神殿で礼拝していたこと(4:20)は、イエス様と「サマリアの女」の会話にも表れています。

 しかしイエス様は、そんなサマリアの人びととも積極的に関わり、ユダヤ教の律法学者やパリサイ派の人びとの形骸化した信仰よりも、「サマリア人であっても」神を讃え(ルカ17:15~16)、「サマリア人であっても」神様に従い隣人を愛する生き方をする(15:30~36)、そちら方が重要であることを示されました。

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神殿 New

 キリスト教にとって神殿の意味は特殊で、その中に神様が住んでいるわけではありませんし、一番初めに神殿を建てたソロモン王も、神様を入れようとして神殿を建てたわけではありません。このことについては2020年5月24日の「メッセージ・ダイジェスト」を読んでいただければと思います→「メッセージ・ダイジェスト」の「2020年5月24日」参照。ここでお話しするのはユダヤ教の神殿として建てられた建物についてです。この神殿は、三回建てられました。

 まず第一神殿は、ソロモン王が建てた通称「ソロモン神殿」です。ソロモン王の父ダビデ王の時代は神殿ではなく、幕屋と呼ばれる天幕に「契約の箱」が置かれていました→「メッセージ・ダイジェスト」の「2020年5月17日」参照。これを神様とダビデ王の約束に基づいて、ソロモン王が七年の歳月と膨大な労働力をかけて、豪壮な石造りの神殿を建てました。この神殿は、イスラエルが南北に分裂し、その後、南のユダ王国がバビロンのネブカデネザル王に滅ぼされた時に破壊されました→「旧約聖書を読んでみよう」の「失われた十部族」参照

 つづく第二神殿は、バビロンからの帰還後に建てられました。バビロンがペルシャに敗れると、イスラエルの民はバビロンからの期間を許され、さらにペルシャ王クロスのの支援を受けて神殿を再建しました。この時の神殿は、帰還の指導者の一人ゼルバベルにちなんで「ゼルバベル神殿」と呼ばれています。これは480年近く続いてB.C.37年にローマのポンペイウスに破壊されました。

 第三の神殿は、B.C.20年にヘロデ大王によって再建された通称「ヘロデ神殿」です。新約聖書に出てくる神殿はこの神殿です。神殿は、右の(上の)図解のように、外側から「異邦人の庭」、そこから「美しの門」をくぐって「(イスラエルの)婦人の庭」、そこからさらに門(ニカノルの門)をくぐって「イスラエル人の(男子の)庭」、階段の上は「祭司の庭」と言って動物犠牲を捧げる祭壇がありました。「聖所」や大祭司が年に一度だけ入れる「至聖所」がある神殿本体の建物がありました。これはA.D.70年にローマ軍によって破壊されます。元社会科教員の先生の旅ブログには、この神殿の模型の写真があります→「テーマのある位置社会科教員の世界旅行」の「模型で想像する『第二神殿』」参照ただ、この「第二神殿」は「第三神殿」の間違いかと思います

 これらの神殿のあった場所は、現在、イスラム教の「岩のドーム」が建っています。

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『新聖書辞典』いのちのことば社、1985年、653頁。

た行

た行

な行

な行

​ナザレ

​ 聖書の舞台をイメージする時、日本人はついつい「不毛な砂漠の民族のお話」というイメージをしがちです。たしかにエジプトを脱出したイスラエルの民がさ迷い歩いたのは、シナイ半島ですから砂漠と岩山でした(→旧約聖書を読んでみようの「出エジプト(で海を割る話)」「モーセの十戒」を参照)。しかし舞台のほとんどは「肥沃な三日月地帯」(→Wikipedia「肥沃な三日月地帯」参照)と名付けられた緑豊かな土地でした。アブラハムの旅も(→聖書の舞台(人物・組織)のあ行「イスラエルの民」参照)、この「肥沃な三日月地帯」を通ってくる旅でした。イエス様の故郷のナザレも、こんな緑豊かな「肥沃な三日月地帯」の中に浮かんだ丘の上にできた街です。このページの画像を見ると、その様子がよくわかります(→「イエスの育ったナザレの街」参照)。『新聖書辞典』(いのちのことば社、1985年、912ページ)によると、『旧約聖書』やユダヤ教の「タルムード」、歴史家のヨセフォスの『ユダヤ古代史』にも名前が出ていないので、比較的新しい小さな村だったのではないかということです。

 イエス様は、両親が住民登録に登録地に戻る旅の途中で、預言の通り「ダビデの街」とよばれるエルサレムの隣町ベツレヘムでお生まれになられました(ルカ2:11)。しかし、その後、宣教を開始するおよそ30歳までナザレの街で大工ヨセフの長男として過ごされました。そこでイエス様の人間としての属性を見る時「ナザレのイエス」「ナザレ人イエス」と呼ぶことがあります。イエス様もそう自称することもありましたが(使徒22:8)、サウロ(キリスト教徒を捉えていたころのパウロ)に「あなたが神だと信じていなかったあのイエスだ」と呼びかける文脈上のことです。

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「肥沃な三日月地帯」(Wikipedia)

は行

は行

​ 日本人的には「地獄」がイメージしやすいと思いますが、正確には、「肉体的な死」と「さばき」の中間状態の世界だと言われています。黙示録の20:14に肉体的な死の後に「第二の死」があると書かれています。またマタイの16:18には「ハデスの門」というのがあり、サタンが取り仕切る世界への入り口と言うことになります。ただ、ルカ16:23では、ハデスに落とされた金持ちが見上げると、天の御国にいるラザロが見えたとありますので、では、どういう関係になっているのかということに対して、いろんな意見があります。

ハデス

ま行

ま行

ら・や・わ行

ら・や・わ行

約束の地

​ 「約束の地」には、いくつかの解釈がありますので、ここでは三つに分けて説明しましょう。

 第一に、神様がアブラハムとその子孫に与える約束した土地です。「そのころ、主がアブラハムに現われ、そして『あなたの子孫に、わたしはこの土地を与える。」と仰せられた。」(創世記12:7)で、その場所は「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヘケ人、ペリジ人、レファイム人、エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」(創世記15:18~21)とあり、上記の「ナザレ」の項目に掲載した地図からナイル川の西側のエジプトを除いたあたりでしょうか。2019年12月29日のメッセージにある「約束の地」は、これを指しており、イスラエルの民が移住して奴隷生活を送っていたエジプトから脱出し(→「旧約聖書を読んでみよう」の「出エジプト」参照)、シナイ半島の荒野(「あらの」と読みます)をぞろぞろと40年間さまよった後、ようやくヨルダン川(→「旧約聖書を読んでみよう」の「ソドムとゴモラ」の写真参照)を渡って、先祖アブラハムが神様から約束された豊かな故郷に戻ってきた場面です。現在も、ユダヤ教の人たちはこの土地を「神様から与えられたもの」と見なしていますので、パレスチナの人(聖書に出てくる「ペリシテ人か?(ではないが)」→「旧約聖書を読んでみよう」の「ダビデとゴリアテ」参照)と仲良く分け合って住もうなどという主張は、(ユダヤ教的には)とんでもない話となるのです。これがパレスチナ問題の根本にあります。しかし「約束の地」とは、「イスラエルの人がヨルダン川西岸に住む」ということだけではありません。

 第二に、イエスキリストの十字架を経てこの地のすべての国々は祝福を受けるということです。神様はアブラハムに「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。」(創世記22:18)と約束されています。イスラエルの支配地はソロモン王の時に最大となり、ユーフラテス川からエジプトのナイル川までになり第一の意味での「約束の地」は達成されますが、それが「すべての国々」ではないことはお分かりと思います。イエス様はアブラハムの系譜ですから(マタイ1章)、イエス様の十字架の救いが地上に訪れることが第二の意味です。

 そして天国での完全な平和と神様の和解、これが第三の、そして本当の意味での「約束の地」ではないでしょうか。

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