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2023年10月~2023年12月

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 2023年11月05日「苦難からの望み」
 2023年11月12日「決断が迫られる今」

最新のメッセージ・ダイジェストはこちらをご覧ください。

2023年12月31日「隣人への愛」(マタイの福音書22章34~40節)

【140字ダイジェスト】

イエス様は「神を愛する」「自分自身のように隣人を愛する」ことが律法の根本だと答えた。聖書は、人生の様々な場面で迷い戸惑う私たちに寄り添うために、膨大な戒めやみことばを与えてくださっているが、根本に罪びとであった私たち愛してくださった神様の愛の中で生きる根本をゆるがせてはならない。

 今日の箇所は「律法の中でどの戒めが一番重要ですか」という質問があったが、それは重要性に格付けすることではなく、律法全体に貫く根本について問うたものである。私たちは聖書に親しむと知識が増えるが、原点を忘れがちになる。今日は、それを論じたものである。

 今日は第一に「神様に対する愛」について見ていきたい。律法の専門家と自負していたパリサイ人たちは、自分たちが対立していた当時の特権階級のサドカイ人たちをイエス様が黙らせたということで彼らのところに集まって来た。本来、水と油のこの二派が集まったのは、イエス様憎しの利害が一致したからであった。そしてパリサイ派の一人がイエス様を陥れるために「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか」(22:36)と質問に来た。これに対してイエス様は「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが重要な第一の戒めです」(22:37,38)と答えた。これは旧約聖書の申命記6章5節のことばである。当時は神様がイスラエルの民に与えた律法以外に、彼ら羅自分勝手に作って行った「口伝律法」が膨大にあった。そして形式的な儀式や戒めにがんじがらめになっていた彼らに、重要なのは自分の全存在をかけて「神を愛する」という根本をイエス様は鮮やかに述べた。なぜなら、私たちよりも先に神様が私たちを愛しておられるから、みことばによって神様の愛を見出し応答することこそが重要なのである。

 第二に「隣人への愛」について見ていきたい。イエス様は、レビ記19章18節を引用しながら「『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それを同じように重要です」(22:39)と答えられた。第二の戒めは、神様の愛の中に生きている第一の戒めが前提だからこそ、人間は同じように隣人との関係が築けるという順序となる。このパリサイ人は、律法の専門家であるからイエス様の引用した旧約聖書の戒めは知っているはずである。しかし、イエス様を陥れようとする彼の行為は、どれほど旧約聖書の精神から外れたものであったか。さらに「自分自身を愛する」ことは、単なる利己的な自己愛ではない。神様を愛することで神様の愛に触れ、罪人でしかなかった自分がどれほど神様から愛されているか理解したからこそ自分自身を受け入れることができる。だからこそ、人間的には不完全かもしれないが同じように神様が愛した隣人も愛せるのである。

 第三に「律法全体が求める愛」について見ていきたい。イエス様は「この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです」(22:40)とおっしゃった。旧約聖書は全部で39巻あり、「律法と預言者」と表現されてきた。私たちは、その膨大な聖書の「みことばの森」でときに迷ったりする。しかしイエス様は、その膨大な戒めやみことばが、この二つの戒めに集約されているというのである。イエス様は、別の機会に弟子たちに「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と述べられた。だが、それが聖書全体の記述を無駄と見なすことを意味しているのではない。私たちは、神を愛し人を愛することの複雑さや苦しみに、人生の中で直面し悩み苦しむ。膨大な聖書のみことばは、そんな複雑な私の人生の指針を与えてくれる。だが「愛」という根本は見失ってはいけない。

2023/12/31

2023年12月24日「救い主誕生の約束」(ローマ人への手紙1章1~4節)

【140字ダイジェスト】

クリスマスは神様が約束された出来事が成就した日である。その約束は、聖霊によって信仰をもって受け止めなければ成就されない。「イエス様のお誕生」というクリスマスの側面は、一般にも受け入れやすい。しかし私たちは、あえて「罪の赦し」や「死者の復活」という真理こそ語るべきではないだろうか。

 クリスマスは神様が約束された出来事が成就した日である。「約束」は「成就」されないと意味がない。その約束の実効性を高めるために「契約」が交わされ、約束が守られないときのペナルティ課せられる。神様の約束は、あらかじめ預言者を通して語られた契約である。

 今日は第一に、「イエス様の罪の救いからの約束」について見ていきたい。当時、ローマ帝国の支配下にあった国々は、長い戦乱を超えて平和で安定した社会を営んでいるように見えたが、社会の矛盾や不道徳、人々の不満は大きかった。このような社会に必要なのは「福音である」とパウロは確信していた。マタイの福音書の1章ではダビデの家系が語られているが(マタイ1:1-17)、イエス様の誕生のころダビデの家系という意識は人々から消えかかっていた。だが、イエス様の肉の父であるヨセフは自分がダビデの家系であることを自覚していた。またヨセフは、婚約者のマリアが妊娠したことを知り人との約束がいかにもろいかと悩んでいたところに、御使いのことばを通して神様の約束を聞き(1:20-23)、信仰者としての決断を迫られた。その後、ヨセフは身重のマリアを連れて、かつてはダビデの町といわれながら今ではさびれたベツレヘムへと旅立った。今では顧みられなくなった「ダビデの家系」も「ベツレヘム」も、ヨセフの中では次第に大きくなり、神様の約束を思い出させ確信させるものへと変わって行った。この手紙を書いているパウロ自身も、イエス様のことばに直面し、絶望し、その中で自分の罪からの救いと神様の約束を思い出していった。

 第二に「神様がともにおられるという約束」について見ていきたい。旧約聖書は、様々な預言者を通して「神様はともにおられる」ことを繰り返し語っている。そしてイザヤ書は、イスラエルの国家が南北に分断し戦争していたころに、イエス様の誕生と救いの約束を預言していた(イザヤ7:14)。これを聞いたのは、イスラエルに偶像御礼拝を導入し、圧倒的な軍事力に対してイザヤの諫言にも従わなかった南ユダ王国のアハズ王に対してだった。神様の約束はゆるぎないが、それを受け止める私たち自身が心をゆるがせることなく信仰を持って受け止めない限り意味をなさない。イザヤの予言の730年後、神様の預言はその通り実現されている。そしてローマ支配下の当時も、同じように人々の心は揺らいでいる。その中で神様は不信仰な私たちを見捨てずにともにおられ、みことばを語られ働かれる。

 第三に「復活による永遠のいのちの約束」について見ていきたい。イエス様は「肉によればダビデの子孫から生まれ」(ローマ1:3)と同時に「聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方」(1:4)である。聖霊によって示されたイエス様を信じられない人は、聖霊を信じることもできず、永遠のいのちについても理解できない。しかし信仰によってみことばを受け入れたならば、聖霊による愛やめぐみを受け止め、聖霊によって生かされて永遠のいのちを得ることができる。ギリシア風のエリート教育を受けたパウロは、ローマの人びとに宣教するときに弁論術を駆使した議論をすることもできた。しかし彼はあえて死者の復活を強調し、一部の人に嘲笑われる方法を採った(使徒17:32)。クリスマスは「イエス様のお誕生」という感覚は、確かに現在も受け入れられやすい。しかし私たちは、あえて「死者の復活」という真理こそ語るべきではないだろうか。

2023/12/24

2023年12月17日「暗闇の力からの救い」(コロサイ人への手紙1章13~17節)

【140字ダイジェスト】

「神様がいるならなぜ戦争や貧困があるのか」と問う人も多い。聖書の語る「光の中」とは、闇が一点もない完全に解脱した状態ではなく、神様の支配の中に置かれ神のことばに生かされていることを指す。パウロが獄中から書かれた手紙は神様によって用いられ、パウロが思うよりも多くの働きを成し遂げた。

 現在、多くの人はクリスマスをそれぞれの楽しみとして祝っている。それはまるで旧約聖書の「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた」(士師記21:25)状態の様であるが、その先にある暗闇を考えなければならない。

 今日は、第一に「闇の力から光への転換」について見ていきたい。パウロは、私たちの信仰は「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」(コロサイ1:13-14)という土台にあると述べた。非常に明確な言葉であるが、信仰を持たない人から見ると「それでは、なぜパウロはローマに囚われているのか」と問うかもしれない。現在でも「神様がいるならなぜ戦争や貧困があるのか」と問う人も多い。しかしパウロは現実社会の問題を軽んじているわけではない。むしろパウロは、コロサイ教会にはびこるグノーシス主義やギリシア哲学を問題としている。これらの考え方に基づけば「現実に問題があるのは仕方がない」「理想主義を見上げ現実の混乱を甘んじて受ければよい」となる。パウロはそれを「闇の力」と呼び、自分はローマの獄中にあっても神様の支配下にあると主張する。聖書の語る「光の中」とは、闇が一転もない完全に解脱した状態を意味しているのではない。神様の支配の中に置かれ神のことばに生かされていることを指す。目には見えなくてもイエス様の犠牲により罪が贖われ、闇の中でも永遠のいのちにあるという転換は大きい。

 第二に「神のかたちにある御子イエス」について見ていきたい。コロサイ教会にはびこるグノーシス主義は、絶対者としての創造主の存在を否定する。すなわち世界を創ったのは絶対者ではなく、もと下等な存在によって創造された。だから世界は不完全であるし、造られた肉体も卑しいものであるという考え方をとる。これは日本人の神々の世界の見方にも近い。だからイエス様は「絶対的な存在としての神でもあり、人間となってこられた」という考え方は理解できない。これに対してパウロは「御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です」(1:15)と断言する。ちなみに「かたち」とは「見た目」ではなく「本質」という意味であり、私たちはイエス様の生き方や言動を通して見えない神様の本質を垣間見ることができる。そして、すべての被造物を超越してイエス様は父なる神様と一体であるがゆえ、イエス様を通じて天の神様に通じることができる。

 第三に「万物の主である御子」について見ていきたい。さらにパウロは「天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました」(1:16)と説明している。被造物は無関係に存在するのではなく、神様の意図のもとに造られた。だから、造られたものが造られた意図の通り用いられて、初めて意味を発揮する。だから今ローマの権威によって囚われていても、その権威は御子のために造られたものであれば、ローマの意図を超えた神様の意図があるとパウロは考えていた。パウロと手獄中を脱してコロサイ教会に行きたいと願っていただろう。だが獄中から書かれた手紙は神様によって用いられ、パウロが思うよりも多くの働きを成し遂げたことは疑う余地がない。

2023/12/17

2023年12月10日「生きている者の神」(マタイの福音書22章23~33節)

【140字ダイジェスト】

復活を信じない現世利益主義のサドカイ人たちは、イエス様に「復活の矛盾」を問いただした。だが神様は、過去のすべての人びとの関係を持ち死の向こうでも変わらず関係を保ち続けておられる。自分たちのイメージする現世と復活の理解をはるかに超えて、永遠のいのちを約束した神様の恵みは素晴らしい。

 ろうそくやイルミネーションなど、クリスマスは闇の中に光るイメージがある。その希望の光とはこの世に来られた御子イエスであり、その中核となるのは復活についての希望である。今日の部分は、現世主義的なサドカイ人との復活に関する論争の場面である。

 今日は第一に、第一に「サドカイ人が投げかけた質問の意味」について見ていきたい。モーセ五書のみを信じながら、一方で復活を信じていないサドカイ人たちは、イエス様にモーセの言葉を取り上げながら復活の矛盾を突いた(マタイ22:23-28)。彼らの基盤は神殿での儀礼を支配している社会における特権階級であったため、律法の権威は否定していない。彼らは旧約聖書の申命記25章5節を引用して、「復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが」(22:28)とイエス様に問い「復活が本当なら、律法に反するではないか」というのである。サドカイ人だけでなく、多くの人は「復活」という言葉は知っていながら、それを自分のイメージで解釈している。しかし「復活」とは、イエス様の十字架によって死から永遠のいのちへ移行し、それと同時に私たちのすべてが新しくなることである。今の世界がすべてだと考えていた現実主義のサドカイ派は、奇しくも紀元70年のローマによる神殿破壊以後、歴史から消えてしまった。

 第二に「サドカイ派が持っていた知識に欠けていた部分」について見ていきたい。このように主張する彼らに、イエス様は「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています」(22:29)と述べた。サドカイ派は律法の専門家で、自分たちは神のことばを熟知していると自負していた。しかしイエス様は、聖書は復活をきちんと語っていると言った。例えば、詩編の16章10節は、ダニエル書12章2節などでそれを見ることができる。さらに「神の力も知らない」(22:29)といわれたとおり、サドカイ派たちは律法の文面上で理解しているだけで、自分自身の生活の中に神様がどれほど大きく働かれているかを知らないというのである。それは彼らが信仰を閉ざし、神様の恵みに目を向けていないからである。しかし、そんな彼らに対して、イエス様は「復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです」(22:30)と丁寧に説明された。サドカイ派たちは「復活後」の世界は現世と同じだと想定して議論を吹っ掛けた。しかし復活後の世界も自分自身も、市から解放されて子を残すことも必要なく、まったく新しくされるというのである。

 さらにイエス様は、死人の復活についてもう一つ語られている。イエス様は、神様が荒野でモーセに語ったことばを引用し「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだものの神ではなく、生きているものの神です」(22:32)と述べている。モーセは民族の歴史を聴かされて育ち、アブラハムやイサク、ヤコブの人生を知っている。そのモーセの前に神様が現れたとき「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と神様は述べた。サドカイ派の人びとにとって死は終わりで、神様との関係も切れる。だが神様は、過去のすべての人びとの関係を持ち、死の向こうでも変わらず関係を保ち続けておられる。私たちのいのちは死で終わるべきものでも、死の向こうのあの世で関係ができる訳でもない。死を超えて新しくなった私とも、神様は変わらず関りを保ってくださるのである。

2023/12/10
2023年12月3日 「皇帝の銀貨と神のもの」(マタイ22章15~22節)
【140字ダイジェスト】
 信仰のことで、最初から結論に至る枠組みを作ってしまうことがある。パリサイ人たちは、主イエスを捕らえるため言葉の罠をしかけた。「カエサルに税金を納めることは、律法にかなっているか」(17)と。主イエスがどのように答えたとしても、彼らの結論は主イエスの言葉はゆるされないものだった。自分でこしらえた信仰の枠組みを、頑なな心のまま保持してはならない。心を主に明け渡し、主からの導きを得
る必要がある。

 今日からアドベントに入る。救い主が肉体をとってこの世界に来られたのは、信仰を現実に照らして理解するのにとって重要なことである。今日の個所は、税という現実的な問題において、イエス様の反対者たちが言葉の罠を仕掛けたことが語られている。

「そのころ、パリサイ人たちは出てきて、どのようにしてイエスを言葉の罠にかけようかと相談した。」(15) この企みの執拗さは、パリサイ人の弟子たちとヘロデ党の者たちを一緒にしてイエス様のところに遣わしたことによる。普段の生活では水と油のように決して折り合わない人たちが、イエス様を訴える口実を作るためには一致している。彼らはあたかもイエス様を敬愛しているかのようにみせかけ、イエス様のところにきた。16節「彼らは自分たちの弟子たちを、ヘロデ党の者たちと一緒にイエスのもとに遣わして、こう言った。『先生、私たちは、あなたが親切な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれにも遠慮しない方だと知っております。あなたは人の顔色をみないからです。』

 表向きには、尊敬しているかのような言い方であるけれども、後から決して言い逃れできないように、あらかじめ防波堤を築いていた。そうした自分たちの姿を隠してイエス様に質問した。17節

「ですから、どう思われるか、お聞かせください。カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか。いないでしょうか」 パリサイ人にとって、ローマへの税金を納めることが宗教的な堕落と考える。けれども自分たちが公にそんなことを言ったら、ローマへの反逆として取り締まりの対象になってしまう。自分たちの言えないことをイエス様に言わせようとしていた。

 逆にそれは律法にかなっていると言えば、これまでの民衆の支持は一気に失われることになる。パリサイ人たちは、イエス様を支持する民衆を恐れていたのであるから、民衆という後ろ盾がなくなればイエス様を何とでもできると考えていた。表向きは信仰者のようであるが、心の奥では自分たちの仕掛けた罠の成功だけを考えていた。

 イエス様は、ことばの罠に嵌めようとしていた人の悪意を見抜いて正された18節「イエスは彼らの悪意を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試すのですか、偽善者たち。税として納めるお金を見せなさい。」そこで彼らはデナリ銀貨をイエスのもとに持って来た。」 イエス様は、悪意をもってきている人に偽善者と厳しい言い方をされた。それは彼らのプライドをなし崩しにするものであったが、イエス様は、そのパリサイ人の駒として来た人たちに「税として納めるお金を見せなさい」(17節)と言われた。ローマに納める税金は、ユダヤのお金でなくデナリ銀貨に変えるなければならない。それはユダヤ人としての屈辱であり、ユダヤ人がローマの支配を受けていることの現実であった。そこでイエス様は、その銀貨を手にとって言われた。20節 「これは誰の肖像ですか」銀貨にはローマ皇帝の肖像と銘が刻印してある。それ故、銀貨は初めからカイサルのものだから、税をデナリでカイサルに返すことは何の問題でもない。神のものは神に返す。ただしカイザルのものはカイザルに返すことによって、神のものは神に返すことをせよとの意味である。イエス様は基本的に税金を納めるべきことを教えている。地上に建てられた権威は、不完全であり、様々な弱さを露呈しているけれど、そうした状態で神様に建てられていることを受け入れていくことが必要である。自分の思いとは相いれない部分があったとしても、それを理由に神が許容しておられることまで否定してしまうことは神の御心ではない。

2023/12/03

2023年11月26日「天の御国への招待」(マタイの福音書22章1~14節)

【140字ダイジェスト】

王家の婚礼に招かれる重大さは、人間的場面でも想像できよう。神様はイスラエルの民を招いたにも関わらず、民は最大の侮辱で応えた。そのため福音は異邦人世界にも広がった。その招きは人間的な善悪を超えて行われたが、ただイエス様の贖いという衣をまとって神様の前に出ることだけが求められている。

 現在でも王家の結婚式の最大のイベントが宮中晩餐会であり、ここに招かれることは特別なことである。王家は慎重に招待客を選び、もしこれを断るならば王家への敵意とみなされる。イスラエルの民は「選ばれた神の民」を誇りとしながら、敵対をして滅びを招いた。

 今日は第一に「王の招きに応じなかったイスラエルの民」について見ていきたい。イエス様は、神様とイスラエルの民の歴史を「王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった」(マタイ22:3)とたとえられた。神様はイスラエルの民を招きながらも民はそれを拒否してきたし、たびたび遣わした預言者にも民は従わなかった。神様は「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」(22:4)と完璧な準備をして民を招きながら、民は招いた者の思いをまったく無視した自分勝手な理由で断り(22:5)、それだけでなく「王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった」(22:6)とある。人間同士でも最も無礼な行動なのに、イスラエルの民は神様に対しこのような態度を取ったという。その結果、神様は民にさばきを下したが(22:7)、紀元70年にエルサレムが滅ぼされた歴史を預言している。

 第二に「福音による新しい民の招き」について見ていきたい。イエス様のたとえによると、王は敵対する民の町を焼き払った後(22:7)に、「だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい」と命じた。その通り、イエス様の後の神様の祝福は、イスラエルの民から異邦人の世界に広がり、世界中に福音が広がった。イスラエルの民への祝福は、神様の招きの声に応じたアブラム(後のアブラハム)から広がった(創世記12:1-2)。この「神様の招きの声に応じる」ことが、神の民としての祝福を受ける民族の出発点であったから、神様の招きに応じないならばその祝福の契約は更新されてしかるべきであった。そして、神の国の招きは、イエス様による罪の贖いがなされているので「良い人でも悪い人でも」「であった人」(マタイ22:10)すべてが招かれた。だから私たちも、福音を伝えるときは、相手がどのように人でも伝えるべきである。

 第三に「王の招きに応じるための礼服」について見ていきたい。イエス様のたとえは「王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし彼は黙っていた」(22:11-12)と続く。これを見て「いきなり通りから招かれたのに、おかしいのではないか」と思う人がいるかもしれない。当時の一般人は特別な礼服を持っている人は、特別な地位の人だけである。つまり、この礼服は当時の常識から考えると、招待されるにあたって王の側で出席者に提供していたと考えるべきであろう。このたとえは、神様の側で準備された「イエス様の贖い」をまとって神様の前に出るのを拒否し、イエス様を受け入れずに救いにだけ与りたいという人を指している。今日、何となく「天国に行く」がふわふわとイメージされているが、この男のように罪の問題に口を閉ざし(22:12)、イエス様を受け入れずに天国に行こうとすると、そこには神様の厳しい峻別が待っている(22:13)。私たちは「王の婚礼に招かれる」重大さを、あらためて受け止めなければならない。

2023/11/26

2023年11月19日「捨てられた要石」(マタイの福音書21章33~46節)

【140字ダイジェスト】

キリスト教の知識があることと、信仰を持ちキリスト・イエスとの関係を持つこと大きく異なる。私たちも、御言葉を聞くときに「それは誰か悪者の話であって、自分自身のことではない」と思ってしまう。しかし、イスラエルの歴史の轍を踏まず「自分についてどう語られているか」を考えなければならない。

 キリスト教の知識があることと、信仰を持ちキリスト・イエスとの関係を持つこと大きく異なる。この時、イエス様と論争している祭司長たちやパリサイ人は当時の律法の専門家であったが、彼らは自分たちの持つ旧約聖書のユダヤ教から一歩も出ることはなかった。

 今日は第一に「収穫を待たれる神様とそれに反抗する民の姿」について見ていきたい。イエス様は神様が人々をどれほど愛し、イスラエルの民はその御心からどれほど離れているかを、ぶどう園の主人と農夫のたとえで話された。このたとえはイザヤ書の預言を踏まえたものである(イザヤ5:1-2)。この主人は、農夫たちを愛し、彼らが安心して暮らせるように最良の土地にぶどう園や設備を整えて貸し与えた。その結果できたものは、全く悪いものであった(5:2)。イエス様のたとえの中で「農夫たちのところにしもべたちを遣わした」(マタイ21:24)のは、預言者のことである。しかしイスラエルの民は、各時代の歴史の中で神様が遣わした預言者に従わず、時には殺してしまった(21:35,36)。しかし神様は、そんなことがあっても民を愛し、導こうとして「『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、息子を彼らのところに遣わした」(21:37)が、「彼を捕らえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまった」(21:38)のである。実に神様の息子であるイエス様を、祭司長たちが捕まえて殺してしまう未来を預言した。だが彼らは、イエス様が神様の息子だとわかっていながら、ユダヤ教の特権を話したくなくてイエス様を殺したのが本音だと指摘している(21:38)。

 第二に「彼らに対するイエス様のさばき」について見ていきたい。イエス様は彼らに、こんな「農夫たちをどうするでしょう」(21:40)と問いかけ、彼ら自身で考えるように促された。この時点で彼らは、「自分たちは当時のユダヤの最高の宗教的権威で、神様の前にあって善悪の判断ができる」と考えており、「その悪者どもを情け容赦なく滅ぼして、そのぶどう園を、収穫の時が来れば収穫を納める別の農夫たちに貸すでしょう」(21:41)と答えた。だが、彼らは、それが自分たち自身のことだとは考えてもみなかった。私たちも、御言葉を聞くときに「それは誰か悪者の話であって、自分自身のことではない」と思ってしまう。しかし、御言葉を聞くときに「自分についてどう語られているか」を考えなければならない。

 第三に「捨てられた要石」について見ていきたい。イエス様は、彼らに「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ」(21:42)と語られた。この「要石」「頭石」「親石」とは、住宅を建てる際に最初に家の四隅に据えて構造を支える石である。本来、要石は大きさや形、丈夫さなど厳選して選ばれるが、イエス様は「家を建てる者たちが捨てた石」が神様の要石になる不思議を述べている。バビロンの捕囚後に復元された神殿は、以前のものと比べてあまりにも粗末で蔑む者もあったが(ゼカリヤ4:10)、神様がそのことをなされたことに意味があった(4:9)。イエス様も「これは主がなさったこと」(マタイ21:42)であることが重要で、据えられた物はイスラエルの民が捨てたイエス様と教会である。イエス様は「ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます」(21:43)と述べた。それは、その後のイスラエルの民とキリスト教会と姿でもある。

2023/11/19

2023年11月12日「決断が迫られる今」(マタイの福音書21章23~32節)

【140字ダイジェスト】

バプテスマのヨハネの権威がどこから来るのかイエス様の問われた祭司長たちは、自らの保身のために、その答えをあいまいにした。その祭司長たちにイエス様は父から命じられた二人の兄弟の話をし、それまでの宗教的ふるまいではなく、最後に神様の前にどのように決断するかが重要であることを話された。

 「権威を笠に着る」といえば、自分の地位を振りかざした行動を指す。今日の箇所は、当時のユダヤ社会の「サンヘドリン」といわれた議会に所属する祭司長たちが、まさに権威を笠に着てイエス様に迫っている箇所である。

 第一に「問われたイエス様の権威」について見ていきたい。このとき祭司長たちは、宮で教えていたイエス様に「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたにその権威を授けたのですか」(マタイ21:23)と詰め寄った。当時、宮で教えることは宗教的地位をもって、一定の手続きを得て行う事であった。彼らには、自分たちこそが宮で神の教えを説く権威を持っているという自負があった。また自分たちは神様の権威によって教えているので、自分たちが認めないイエス様の行為は神様を冒涜するように見えた。しかし聖書は、神様ご自身がイエス様に語る権威を与えていたと語る。私たちは「人からの権威」ではなく「神様の権威」を見上げて行動していかなければならない。

 第二に「自分たちの判断を保留した人々の姿」について見ていきたい。イエス様は彼らに「ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか、それとも人からですか」(21: 25)と問うた。当時のユダヤ人は「神の民」としての誇りがある一方で、ローマ帝国の支配下で苦しい生活を強いられていた。彼らはエジプトからも脱出し、バビロン捕囚からも帰還して国を作ったのに、また異邦人の支配を受け忸怩たる思いであった。だから自分たちも祖先のように罪の支配から脱して立ち直らなければならないと考えていた。そこに表れたのがバプテスマのヨハネの「悔い改めよ」の言葉だった。ヨハネは殺されてしまったが、その記憶は群衆の中に残っていた。イエス様は群衆の前で、そのヨハネのことを彼らに問うた。祭司長たちは、自分は神様の権威を持っていると考えているのに「もし天からと言えば、それならなぜヨハネを信じなかったのかと言うだろう。だが、もし人から出たと言えば、群衆が怖い。彼らはみなヨハネを預言者と思っているのだから」(21:25-26)という非常にあやふやな基盤しかなかったことが明らかになった。その結果、彼らは「どう言えば権威を傷つけずにいられるか」という保身のために決断をあいまいにし、「分かりません」(21:27)と答えた。私たち自身も神様から決断を問われる瞬間がある。その時には、判断を先延ばし立ごまかしたりせず「神様の前にどうあるべきか」だけを見つめる必要がある。

 第三に「祭司長たちに語られたイエス様のたとえ話」について見ていきたい。それは、ぶどう園に行くように父に命じられた際に「『行きたくありません』と答えたが、後になって思い直し、出かけて行った」(21:29)兄の話と、「『行きます、お父さん』と答えたが、行かなかった」(21:30)弟の話である。これは父なる神と私たちの関係をたとえている。それまでの人生で様々なことがあっても、「最後に神様の前に決断をどうしたか」が銃だというのである。祭司長たちは最後の決断をあいまいにした。だからイエス様は「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります」(21:31)と言い放った。私たちも神様を信じるか迫られたとき「いつか信じるから」と決断を先延ばすことなく、与えられた時である「今」決断をすることが重要なのである。

2023/11/12

2023年11月5日「苦難からの望み」(ローマ人への手紙8章18~25節)

【140字ダイジェスト】

神様を信じるとすべての苦難がなくなると主張する宗教は多い。しかし苦難と信仰は矛盾するものではない。注射を怖がる子どものように目前の苦難を忌避するのではなく、苦難こそが神様の与えてくださったより大きな栄光への道筋であり、苦難の中で神様との信頼関係を深めその恵みを実感する機会となる。

 近年「終活」という言葉が用いられるようになり、人生の終わりにあたってさまざまな準備がなされるようになった。しかし、それらは何かずれているように感じる。私たちが考えるべきは「終活」ではなく「復活」の問題である。

 今日は第一に「苦難の先にある神の栄光」について見ていきたい。パウロは「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます」(マタイ22:18)と「苦難」を否定してはいない。クリスチャンとなると「苦難から救われる」と考える人もいるが、その人が苦難に会うと自分の信仰に問題があると考える人もいる。旧約聖書のヨブ記では、ヨブが苦難に合うのは「ヨブの信仰が弱いからだ」と三人の友人たちが責める場面があるが、彼らは「神への信仰と苦難は両立しない」と考えている。しかしパウロは、信仰者が苦難に会うことは矛盾ではないと捉えている。彼は「苦難の先にある栄光」に目を留めるべきだと述べている。苦難の中では、神様の最初の約束や与え続けられている神様の恵みが見えなくなってしまう。だが神様の約束された恵み大きさと比べれば、「取るに足りない」者だとパウロは主張する。

 第二に「被造物に見られる生みの苦しみ」について見ていきたい。私たちの信仰の弱さは、しばしば「自分だけが」と視野の狭さや焦りを生む。そんな私たちに、パウロは「被造物」全体に目を向けるように諭している。被造物である動物も植物も虚無に向かい、死に向かっている。パウロは「被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています」(22:22)と述べている。信仰を通して神様の視点から世界を見ないと、とても考えつかない見方である。だが神様が被造物を「服従させた」のであるから、神様によって「滅びの束縛から解放され」(22:21)ることも可能であり、滅びにいたる世界から解放されこの世がつくられた最初の姿に戻ることを被造物も待ち望んでいる。今日は昇天者記念礼拝であるが、先に天に召された方たちを「呼び戻す」日ではない。むしろ「神の栄光」に与れるところに導き、私たちが本来の姿がある天の御国での再会を待ち望む日である。

 第三に「希望を待ち望むことによる救い」について見ていきたい。パウロは、被造物だけでなく「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています」(22:23)と述べている。私たちは自然の中に、様々な法則を見出してきた。しかしパウロは、それらの法則は神様の栄光の表れであり、私たち自身が「子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望」む方向に流れていると述べている。「苦難」と「信仰」は対立するものではない。私たちはうめきをともなう苦難の中で、神様の祈り対話することで、神様がいかに大きな恵みを与えてくださっているか、そして確かに神様に私たち自身が贖われて神様のものとされていることを実感する。私たちは、まるで注射が痛くて予防接種を嫌がる子どもの様に、自分から見た苦難の解決を望み、神様の導きを見ようとしない事がある。しかし、そこには神様が備えた大きな栄光が用意されている。「私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます」(22:25)とパウロはまとめている。

2023/11/05
2023/10/29

2023年10月29日「祈り求める信仰」(マタイの福音書21章18~22節)

 現在、多くの者が人工知能(AI)に置き換わっているが、AIには「信じる」ということはできない。なぜなら、機械的に選別される「信用度ポイント」とは異なり、本来「人格的なこと」だからである。「神を信じる」ことも情報処理的な判断になじむものではない。

 マタイの福音書では、イエス様がエルサレムの民衆に福音を伝えるために急いでおられたが、途中で空腹を覚えられたとき、いちじくの木を見つけられたとある(マタイ21:18-19)。イチジクは、葉が成長し→花が咲き→身がなるという普通の木とは異なり、花や実のあとに葉が成長する。つまり葉があるイチジクはすでに実がなっていることが多いが、このイチジクは「葉があるだけで、ほかに何もなかった」(21:19)とある。そのイチジクにイエス様が呪いをかけて枯らしてしまったのは不思議なことに見える。だがイエス様は空腹の腹立ちまぎれに呪ったのではない。イチジクやブドウはイスラエルの民に対する「神の祝福の現れ」であり、そこに実がないというのは、葉が青々と茂るように繫栄しているイスラエルが実際には「信仰の実」がなっていないことにたいする憤りであった。

 第二に「弟子たちの驚きと問われる信仰」について見ていきたい。枯れたイチジクを見て驚いた弟子たちに、イエス様は「まことに、あなたがたに言います」(21:21)と述べられた。ここには神様に祝福を受けながら、神様を信じ切れず疑ってきたイスラエルの歴史が透けて見える。イザヤ書には「あなたは多くを見ながら、聞こうとしない」(イザヤ42:20)イスラエルの民がアッシリア帝国に「かすめ奪われ略奪された民」(42:21)となった歴史が書かれている。イザヤはこの強大なアッシリアやバビロン→「旧約聖書を読んでみよう」の「バビロン」「失われた十部族」参照が神様の手によって滅ぼされ、イスラエルは解放されるという預言をしたが、人びとは信じなかった。目先のことだけに目を向けて、神様が自分に何を語っているか悟らない人々に神様は憤りを感じておられた。重要なのは信仰によって神様と自分自身の信頼関係が築かれていることである。イエス様は、イチジクの出来事を通して、私たち自身に「神様の前に実を結んでいる」か、それとも「葉は繁っていても枯れたも同然か」と問うているのである。

 第三に「このような状況から抜け出す唯一の道としての祈り」について見ていきたい。イエス様は「もし、あなたがたが信じて疑わないなら、いちじくの木に起こったことを起こせるだけでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言えば、そのとおりになります」(マタイ21:21)と述べられた。イエス様は私たちに、信じて疑わない祈りを全うせよと述べられている。だが人間は常に心が揺れ動いており、「信じ切れず疑ってしまう」ことは多々ある。だが、そのことで祈ることをやめると、私たちは神様の栄光を見ることはできずに終わる。イエス様のことばにある「立ち上がって、海に入れ」(21:21)は、ユダヤ的な表現で「不可能なこと」という意味である。つまり、これは「自分には到底不可能だと思うことでも、祈り求め続けなさい」と読むべきであり、その結果は「自分が神様に『命じた』事」が実現するのではない。私たちを贖い自分のものとしてくださった(イザヤ43:1-2)神様が、私たちを最善の方法で取り扱ってくださるということである。私たちは、祈りの過程で神様と私自身の関係を築き人格的な交わりを作っていくことが必要である。

2023年10月22日「祈りの家である宮」(マタイの福音書21章12~17節)

【140字ダイジェスト】

イエス様は神殿で、「祈りの家でなければならない」と言って商売人の店を蹴散らした。そこには純粋な礼拝を求める厳しさと同時に、引用したイザヤ書のことばは、形がい化した祈りから信仰復活の時代の「祈りの家」の文脈が読み取れる。そこに不完全な信仰しかできない私たちへのあわれみと導きがある。

 寺や神社の参拝客や観光客を目当てに商売をする人は多い。商業活動そのものは否定しないが、それが神様に向かう心を失わせるものになってはいないか。今日の箇所では、イエス様がエルサレムに入城して神殿に向かったときの話である。

 今日は第一に「宮清めをされたイエス様」について見ていきたい。聖書には「それから、イエスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された」(マタイ21:11)とある。この場所は、神殿の中でも「異邦人の庭」と呼ばれる場所であり、当時の社会では神殿に捧げる動物犠牲を売り買いしたり、シェケルに両替(出エジプト30:13-15)したりすることが認められていた。この商売人たちをイエス様は「追い出し」たが、この行動には一切の妥協はない強い拒絶である。イエス様は神様への礼拝に異質なものが混じることを一切許さず、旧約聖書のイザヤ書を引用して人びとを叱責している。だが、このイザヤ書のことばは、律法のいけにえが神様に喜ばれなくなった時代(1:11-12)のあとに、神殿が再び「祈りの家」となって神様に受け入れられるような関係になったと(56:7)文脈からのことばである。そこには強い拒絶だけでなく、信仰が回復して「祈りの家」で真摯に神様に向かい合ってほしいというみこころが見られる。

 第二に「宮においてのイエス様の働きと反対者」について見ていきたい。イスラエルにおいて宮は最も神聖なもので、「最良の」「完全なもの」が求められていた。しかし、それは私たちが神様に向かうときに「今の自分の最良のもの」を示すということで、神様自体が不完全な者や弱いものを拒絶しているのではない。実際にイエス様は、体の不自由な人々を神殿の中に受け入れて「宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来たので、イエスは彼らを癒やされた」(21:14)とある。私たちはどうだろうか。弱さや癒しを求める人々を拒絶して、自分の「正しさ」のみを主張してはいないだろうか。体の不自由な人々に対するイエス様の行動や、当時は不完全な存在と考えられていた子どもたちによる賛美は、当時の社会でのエリートで専門家である祭司長たちや律法学者たちには到底受け入れることができないものだった。その結果、彼らは「イエスがなさったいろいろな驚くべきことを見て」(21:15)も心を開くことができず、ますます頑なになってしまった。最高の宗教教育を受けた人々であっても、信仰がなければ何もならなかったことがわかる。

​ 第三に「子どもたちによる賛美」について見ていきたい。祭司長たちが「子どもたちが何と言っているか、聞いていますか」(ローマ帝国支配下でイスラエル復活させる「ダビデの子」と呼ばせた政治的問題の大きさが分かっているのか)と問うたとき、イエス様は「聞いています」と明確に答えている(21:15)。祭司長たちはイエス様を「ナザレの田舎出身の青年」としか見られず、人間的に見ても「ダビデの子(ダビデの直系)」であるという事実を確かめてもいない。一方神様は、イエス様の栄光を表すために預言通り(詩編8:2)かよわい幼子たちの口を使われた(マタイ21:16)。神様は自らの思いやご計画を、私たちは信仰をもって受け入れていかなければならない。この神殿は打ち壊され、今は私たち自身が「神殿」となっている。その「神殿」を「祈りの家」として清めて用いなければならない。

2023/1022

2023年10月15日「子ろばの上の主イエス」(マタイの福音書21章1~11節)

【140字ダイジェスト】

イエス様がエルサレム入場した時に、群衆はローマの支配を打ち砕く王と期待して熱狂的に迎えた。しかし力と権威で支配する世の王とちがって心の内側の変革を目指されたイエス様は、弱い子ろばにまたがって入城された。私たちは、そのような「王の王」の真の姿を信仰をもって見ていかなければならない。

 最近のニュースで、イスラエルとハマスの戦闘が流されている。だが力による論理で平和は実現できない。この当時も、民衆はイエス様が力によってローマの支配を打ち砕くものと期待していた。だがイエス様の変革は、心を変える内側の変革であった。

 今日は、第一に「子ろばを用いられたイエス様の姿」について見ていきたい。イエス様はエルサレムに近づいたとき、二人の弟子たちに「向こうの村へ行きなさい。そうすればすぐに、ろばがつながれていて、一緒に子ろばがいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい」(マタイ21:2)とおっしゃった。「二人の弟子」とは、主人の意向を汲んだ正式な使者の形式である。弟子たちにとってこの命令は、「他人の物を、勝手に縄を解いて持ってこい」というものなので、戸惑いがあったことだろう。これからのイエス様の行動は、人間的に見ればおかしな行動の連続であったが、それはすでに預言された神様のご計画であった(21:5)。そして、そこには人間の「所有の権威」をはるかに超えた、神様の権威がすべてを支配していることが見てとれる。私たちは、神様が人間的な思いや行き詰まりを軽々と越えて、道を供えてくださるのが神様なのである(イザヤ43:19)。

 第二に「預言された平和の主」について見ていきたい。執筆者であるマタイはここで、旧約聖書のイザヤ書(62:11)とザカリヤ書(9:9)を引用して「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」(マタイ21:5)と記述している。イエス様が子ろばに乗っている姿は、人間的にはとても「王」としての権威や威厳が感じられない。だが、そこにはイエス様のへりくだりや、弱い立場の者を通して平和を実現していくという御心が表れている。私たちはその滑稽な姿を笑うのか。それとも、信仰の目をもってその御心と「平和の王」としての姿を見て取るのか。私たちのところに来る「王」は、力による支配で私たちを従属させるのではなく、私たちの弱さをそのまま用いてくださる柔和でへりくだった「王」なのである。

 第三に「群衆の中でのイエス様」について見ていきたい。イエス様がエルサレムに行こうとすると、「すると非常に多くの群衆が、自分たちの上着を道に敷いた。また、木の枝を切って道に敷く者たちもいた」(21:8)とマタイは書いている。その直前に裸鞍の子ろばに上着を掛けた弟子たちは(21:7)、「なぜ鞍も着けたことのない子ろば」にのるイエス様に対し複雑な気持ちだったかもしれない。しかし群衆は、事前の式典準備もなかった「王の入城」に対して急遽、沸き起こる気持ちを表したと考えられる。彼らは「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に」(21:9)と口々に叫んだ。これらはユダヤ人の心の奥底に流れてきた「ダビデの子孫による正当な統治」「救い主の到来」への喜びであった。だが、これは本当に民衆の信仰告白だっただろうか。「この人はだれなのか」(21:10)と問われた時の「この人はガリラヤのナザレから出た預言者」(21:11)だと答えた民衆の説明は、イエス様を単なる「力ある預言者に過ぎない」という認識が表れている。実際、彼らは数日後、イエス様を十字架につけるように叫んだ。噂の人物への熱狂ではなく、私たちの側にいる「王の王」の姿を、信仰をもって見ていかなければならない。

2023/10/15

2023年10月8日「絶望からの光」(マタイの福音書20章29~34節)

【140字ダイジェスト】

目の見えない物乞いたちは、ローマの傀儡政権批判とも取られかねない「ダビデの子よ」という言葉を群衆の中で叫んでイエス様にすがった。そこには暗闇の中で誰からも顧みられなかった彼らの悲しみと、そこから救い出してくださるイエス様への絶大な信仰がある。そしてイエス様はその信仰に応えられた。

 昼間が短くなり光のありがたさを感じる季節となった。神様は万物を創造されたとき、最初に光を創造された(創世記1:3)。すべての生き物はその恩恵を受けている。だから目に障害がある方にとって、光を感じることのできない絶望は想像を絶するものだっただろう。

 今日は第一に「暗黒の中で主を求める信仰」について見ていきたい。今日の箇所で登場する目の見えない方は、マルコの福音書では道端で物乞いをしていた(マルコ10:46)と書かれている。この時期、過ぎ越しの祭りのためにエルサレムに向かう多くの巡礼者たちのうわさで、道端にいた彼らはイエス様がエルサレムに向かっていることを知ったのだろう。そして、ついにその瞬間、彼らは群衆が「見よ」(マタイ20:30)と驚くほどの大声で「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」(20:30)と叫んだ。イエス様に「ダビデの子よ」と叫ぶのは、政治的には、ローマの傀儡政権であるヘロデ王の支配地で「真のイスラエルの王はイエス様である」と叫ぶのと同じであった。当然、人びとは巻き添えの弾圧を恐れて「彼らを黙らせようとたしなめた」(20:31)が、彼らはますます叫んだ。彼らの叫びは「私たちをあわれんでください」(20:31)というものであった。多くの巡礼者が道端に座る彼らの前を通って行ったが、誰も彼らの心情を理解しなかった。人間は自分の痛みや苦しみを理解している人がいないと絶望や孤立を感じる。だが、彼らはイエス様ならその痛みをわかってくださると確信した。彼らはイエス様を、自分の人生の救い主だと認めたのである。

 第二に「主への率直な願い」について見ていきたい。多くの巡礼者が彼らの前をただ通り過ぎる中、イエス様は立ち止まって彼らを呼ばれ「わたしに何をしてほしいのですか」と聞かれた(20:31)。王の王であるイエス様がしもべのごとく、「何をしてほしいのですか」と問われたことはすごい喜びであろう。「従っていれば何をいただけるのか」(19:27)「二人の息子を高い地位につけてほしい」(20:21)という弟子たちの願いと比べ、「主よ、目を開けていただきたいのです」(21:33)という彼らの願いは何と率直でイエス様の力を信頼しきった言葉であろう。その願いは「目が見えるようになる」ことだけでなく、神の栄光を知り絶望の淵にあった自分の心を照らしてください(Ⅱコリント4:6)という意味でもある。それができるのは何もないところに光を創造された神様だけである。私たちも絶望の闇の淵にあるとき、イエス様を仰ぎ見て確信の叫びをあげることができるだろうか。

 第三に「信仰による回復と従順」について見ていきたい。彼らの叫びに対して「イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた」(20:34)とある。私たちなら苦しんでいる人と一緒にいて、同じ苦しみを感じることは、よほど愛した人でなければできない。できれば人の苦しみから距離を置きたい。しかしイエス様は上からの巨大な力で治したのではなく、人びとから疎まれ蔑まれてきた彼らと同じ痛みや苦しみの中に立って、おそらくひどい汚れをまとっていた彼らに直接触れて癒されたのである。その瞬間に彼らは変えられ、イエス様に従う新しい人生が始まった(20:34)。「イエスについて行った」彼らは、単にイエス様の都のぼりに物理的について行った多くの人びとと異なり、イエス様に従って生きる光の人生を歩み始めたのであろう。

2023/10/08

2023年10月1日「主が飲もうとされる杯」(マタイの福音書20章17~28節)

​【140字ダイジェスト】

ローマの傀儡政権打倒と、その後の自分たちの政治的地位しか見ていなかった弟子たちは、後にイエス様と同じ運命をたどるのだが、この時点ではイエス様の目指していた十字架の救いのことは理解できなかった。彼らの「できます」には意味がなかったが、イエス様はその不充分な信仰さえも受け入れられた。

 あるアルピニストが「なぜ山に登るのか」と問われ、明確に説明できず「そこに山があるから」と答えたという。弟子たちもイエス様について行ったのも、神の御国について完全に理解していたのではなく何を求めていたか自分でもよく分かっていなかった。

 今日第一に「イエス様と弟子たちの目指しているものの違い」について見ていきたい。イエス様はエルサレムに行く途上で弟子たちだけに、エルサレム登城後の自分の悲惨な運命について預言された(マタイ20:18-19)。弟子たちからすると「エルサレム登城」は、いよいよローマに対する革命がおこるという高揚感のある道のりだった。このイエス様と弟子たちとの意識のズレが最も端的に出たのが、ゼベダイの二人の息子たち(ヤコブとヨハネ)の母の「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい」(20:21)という発言だった。息子たちを革命後の政権のナンバー1と2に就任させてほしいという願いだったのである。これを聞いた弟子たちは、この二人に腹を立てたが(20:24)、それは、やはり他の弟子たちも「自分たちこそナンバー1」だと思っているからである。実はマタイの福音書はA.D.50年に成立したが、ヤコブはA.D.44年に殉教している。それを思うと、筆者マタイは人間の愚かさを書きたかったのであろう。

 第二に「主が飲もうとされる杯」について見ていきたい。イエス様は、この二人に「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか」(20:22)と尋ねられた。これはイエス様の十字架の犠牲の血を、神の新しい契約として受け止めるという意味である。たしかに、イエス様が言われるように弟子たちは、将来、イエス様の「杯を飲む」(20:23)ことになるが、この時点で弟子たちはその意味をまったく分かっていない。にもかかわらず、彼らは「できます」(20:22)と安易に答えている。でもイエス様は、その未完成なこの時点の信仰でも受け止めておられる。私たちの信仰生活も、実は分からないことばかりで的外れなことも多い。しかし神様は、その私たちの未熟な信仰でも受け止め、いずれ心が開かれることを願って導かれておられる。イエス様は、そんな愚かな願いをしたヤコブとヨハネたちの母にも、「わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです」(20:23)と、そこに深い神様の御心があると諭されている。神父ナウエン(Henri Jozef Machiel Nouwen)は著書『この杯を飲めますか』の中で、聖餐式における行動を「手に取る」(神様と個人的に関わる)「杯を持ち上げる」(恵みを受ける)「飲む」(全身で応答する)と解釈した。それがイエス様の「杯を飲む」ことである。

 第三に「人に使える働きに召されている」ことについて見ていきたい。そんな弟子たちにイエス様は、権力争いをする弟子たちのやり方は世の権力者や異邦人のやり方であり(20:25)、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい」(20:26-27)と諭された。私たちは権力者の好む「権力」「強い言葉」「横柄な態度」を捨てて、キリストの愛をもって人に仕える必要がある。自己中心的な私たちにはできないことだが、その自我を捨てて神様に拠り頼むことで、イエス様が示してくださった仕える愛を実践できるのである。

2023/10/01

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2023/12/10
2023年12月3日 「皇帝の銀貨と神のもの」(マタイ22章15~22節)
【140字ダイジェスト】
 信仰のことで、最初から結論に至る枠組みを作ってしまうことがある。パリサイ人たちは、主イエスを捕らえるため言葉の罠をしかけた。「カエサルに税金を納めることは、律法にかなっているか」(17)と。主イエスがどのように答えたとしても、彼らの結論は主イエスの言葉はゆるされないものだった。自分でこしらえた信仰の枠組みを、頑なな心のまま保持してはならない。心を主に明け渡し、主からの導きを得
る必要がある。

 今日からアドベントに入る。救い主が肉体をとってこの世界に来られたのは、信仰を現実に照らして理解するのにとって重要なことである。今日の個所は、税という現実的な問題において、イエス様の反対者たちが言葉の罠を仕掛けたことが語られている。

「そのころ、パリサイ人たちは出てきて、どのようにしてイエスを言葉の罠にかけようかと相談した。」(15) この企みの執拗さは、パリサイ人の弟子たちとヘロデ党の者たちを一緒にしてイエス様のところに遣わしたことによる。普段の生活では水と油のように決して折り合わない人たちが、イエス様を訴える口実を作るためには一致している。彼らはあたかもイエス様を敬愛しているかのようにみせかけ、イエス様のところにきた。16節「彼らは自分たちの弟子たちを、ヘロデ党の者たちと一緒にイエスのもとに遣わして、こう言った。『先生、私たちは、あなたが親切な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれにも遠慮しない方だと知っております。あなたは人の顔色をみないからです。』

 表向きには、尊敬しているかのような言い方であるけれども、後から決して言い逃れできないように、あらかじめ防波堤を築いていた。そうした自分たちの姿を隠してイエス様に質問した。17節

「ですから、どう思われるか、お聞かせください。カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか。いないでしょうか」 パリサイ人にとって、ローマへの税金を納めることが宗教的な堕落と考える。けれども自分たちが公にそんなことを言ったら、ローマへの反逆として取り締まりの対象になってしまう。自分たちの言えないことをイエス様に言わせようとしていた。

 逆にそれは律法にかなっていると言えば、これまでの民衆の支持は一気に失われることになる。パリサイ人たちは、イエス様を支持する民衆を恐れていたのであるから、民衆という後ろ盾がなくなればイエス様を何とでもできると考えていた。表向きは信仰者のようであるが、心の奥では自分たちの仕掛けた罠の成功だけを考えていた。

 イエス様は、ことばの罠に嵌めようとしていた人の悪意を見抜いて正された18節「イエスは彼らの悪意を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試すのですか、偽善者たち。税として納めるお金を見せなさい。」そこで彼らはデナリ銀貨をイエスのもとに持って来た。」 イエス様は、悪意をもってきている人に偽善者と厳しい言い方をされた。それは彼らのプライドをなし崩しにするものであったが、イエス様は、そのパリサイ人の駒として来た人たちに「税として納めるお金を見せなさい」(17節)と言われた。ローマに納める税金は、ユダヤのお金でなくデナリ銀貨に変えるなければならない。それはユダヤ人としての屈辱であり、ユダヤ人がローマの支配を受けていることの現実であった。そこでイエス様は、その銀貨を手にとって言われた。20節 「これは誰の肖像ですか」銀貨にはローマ皇帝の肖像と銘が刻印してある。それ故、銀貨は初めからカイサルのものだから、税をデナリでカイサルに返すことは何の問題でもない。神のものは神に返す。ただしカイザルのものはカイザルに返すことによって、神のものは神に返すことをせよとの意味である。イエス様は基本的に税金を納めるべきことを教えている。地上に建てられた権威は、不完全であり、様々な弱さを露呈しているけれど、そうした状態で神様に建てられていることを受け入れていくことが必要である。自分の思いとは相いれない部分があったとしても、それを理由に神が許容しておられることまで否定してしまうことは神の御心ではない。

2023/12/03

2023年11月26日「天の御国への招待」(マタイの福音書22章1~14節)

【140字ダイジェスト】

王家の婚礼に招かれる重大さは、人間的場面でも想像できよう。神様はイスラエルの民を招いたにも関わらず、民は最大の侮辱で応えた。そのため福音は異邦人世界にも広がった。その招きは人間的な善悪を超えて行われたが、ただイエス様の贖いという衣をまとって神様の前に出ることだけが求められている。

 現在でも王家の結婚式の最大のイベントが宮中晩餐会であり、ここに招かれることは特別なことである。王家は慎重に招待客を選び、もしこれを断るならば王家への敵意とみなされる。イスラエルの民は「選ばれた神の民」を誇りとしながら、敵対をして滅びを招いた。

 今日は第一に「王の招きに応じなかったイスラエルの民」について見ていきたい。イエス様は、神様とイスラエルの民の歴史を「王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった」(マタイ22:3)とたとえられた。神様はイスラエルの民を招きながらも民はそれを拒否してきたし、たびたび遣わした預言者にも民は従わなかった。神様は「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」(22:4)と完璧な準備をして民を招きながら、民は招いた者の思いをまったく無視した自分勝手な理由で断り(22:5)、それだけでなく「王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった」(22:6)とある。人間同士でも最も無礼な行動なのに、イスラエルの民は神様に対しこのような態度を取ったという。その結果、神様は民にさばきを下したが(22:7)、紀元70年にエルサレムが滅ぼされた歴史を預言している。

 第二に「福音による新しい民の招き」について見ていきたい。イエス様のたとえによると、王は敵対する民の町を焼き払った後(22:7)に、「だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい」と命じた。その通り、イエス様の後の神様の祝福は、イスラエルの民から異邦人の世界に広がり、世界中に福音が広がった。イスラエルの民への祝福は、神様の招きの声に応じたアブラム(後のアブラハム)から広がった(創世記12:1-2)。この「神様の招きの声に応じる」ことが、神の民としての祝福を受ける民族の出発点であったから、神様の招きに応じないならばその祝福の契約は更新されてしかるべきであった。そして、神の国の招きは、イエス様による罪の贖いがなされているので「良い人でも悪い人でも」「であった人」(マタイ22:10)すべてが招かれた。だから私たちも、福音を伝えるときは、相手がどのように人でも伝えるべきである。

 第三に「王の招きに応じるための礼服」について見ていきたい。イエス様のたとえは「王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし彼は黙っていた」(22:11-12)と続く。これを見て「いきなり通りから招かれたのに、おかしいのではないか」と思う人がいるかもしれない。当時の一般人は特別な礼服を持っている人は、特別な地位の人だけである。つまり、この礼服は当時の常識から考えると、招待されるにあたって王の側で出席者に提供していたと考えるべきであろう。このたとえは、神様の側で準備された「イエス様の贖い」をまとって神様の前に出るのを拒否し、イエス様を受け入れずに救いにだけ与りたいという人を指している。今日、何となく「天国に行く」がふわふわとイメージされているが、この男のように罪の問題に口を閉ざし(22:12)、イエス様を受け入れずに天国に行こうとすると、そこには神様の厳しい峻別が待っている(22:13)。私たちは「王の婚礼に招かれる」重大さを、あらためて受け止めなければならない。

2023/11/26

2023年11月19日「捨てられた要石」(マタイの福音書21章33~46節)

 キリスト教の知識があることと、信仰を持ちキリスト・イエスとの関係を持つこと大きく異なる。この時、イエス様と論争している祭司長たちやパリサイ人は当時の律法の専門家であったが、彼らは自分たちの持つ旧約聖書のユダヤ教から一歩も出ることはなかった。

 今日は第一に「収穫を待たれる神様とそれに反抗する民の姿」について見ていきたい。イエス様は神様が人々をどれほど愛し、イスラエルの民はその御心からどれほど離れているかを、ぶどう園の主人と農夫のたとえで話された。このたとえはイザヤ書の預言を踏まえたものである(イザヤ5:1-2)。この主人は、農夫たちを愛し、彼らが安心して暮らせるように最良の土地にぶどう園や設備を整えて貸し与えた。その結果できたものは、全く悪いものであった(5:2)。イエス様のたとえの中で「農夫たちのところにしもべたちを遣わした」(マタイ21:24)のは、預言者のことである。しかしイスラエルの民は、各時代の歴史の中で神様が遣わした預言者に従わず、時には殺してしまった(21:35,36)。しかし神様は、そんなことがあっても民を愛し、導こうとして「『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、息子を彼らのところに遣わした」(21:37)が、「彼を捕らえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまった」(21:38)のである。実に神様の息子であるイエス様を、祭司長たちが捕まえて殺してしまう未来を預言した。だが彼らは、イエス様が神様の息子だとわかっていながら、ユダヤ教の特権を話したくなくてイエス様を殺したのが本音だと指摘している(21:38)。

 第二に「彼らに対するイエス様のさばき」について見ていきたい。イエス様は彼らに、こんな「農夫たちをどうするでしょう」(21:40)と問いかけ、彼ら自身で考えるように促された。この時点で彼らは、「自分たちは当時のユダヤの最高の宗教的権威で、神様の前にあって善悪の判断ができる」と考えており、「その悪者どもを情け容赦なく滅ぼして、そのぶどう園を、収穫の時が来れば収穫を納める別の農夫たちに貸すでしょう」(21:41)と答えた。だが、彼らは、それが自分たち自身のことだとは考えてもみなかった。私たちも、御言葉を聞くときに「それは誰か悪者の話であって、自分自身のことではない」と思ってしまう。しかし、御言葉を聞くときに「自分についてどう語られているか」を考えなければならない。

 第三に「捨てられた要石」について見ていきたい。イエス様は、彼らに「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ」(21:42)と語られた。この「要石」「頭石」「親石」とは、住宅を建てる際に最初に家の四隅に据えて構造を支える石である。本来、要石は大きさや形、丈夫さなど厳選して選ばれるが、イエス様は「家を建てる者たちが捨てた石」が神様の要石になる不思議を述べている。バビロンの捕囚後に復元された神殿は、以前のものと比べてあまりにも粗末で蔑む者もあったが(ゼカリヤ4:10)、神様がそのことをなされたことに意味があった(4:9)。イエス様も「これは主がなさったこと」(マタイ21:42)であることが重要で、据えられた物はイスラエルの民が捨てたイエス様と教会である。イエス様は「ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます」(21:43)と述べた。それは、その後のイスラエルの民とキリスト教会と姿でもある。

2023/11/19

2023年11月12日「決断が迫られる今」(マタイの福音書21章23~32節)

【140字ダイジェスト】

バプテスマのヨハネの権威がどこから来るのかイエス様の問われた祭司長たちは、自らの保身のために、その答えをあいまいにした。その祭司長たちにイエス様は父から命じられた二人の兄弟の話をし、それまでの宗教的ふるまいではなく、最後に神様の前にどのように決断するかが重要であることを話された。

 「権威を笠に着る」といえば、自分の地位を振りかざした行動を指す。今日の箇所は、当時のユダヤ社会の「サンヘドリン」といわれた議会に所属する祭司長たちが、まさに権威を笠に着てイエス様に迫っている箇所である。

 第一に「問われたイエス様の権威」について見ていきたい。このとき祭司長たちは、宮で教えていたイエス様に「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたにその権威を授けたのですか」(マタイ21:23)と詰め寄った。当時、宮で教えることは宗教的地位をもって、一定の手続きを得て行う事であった。彼らには、自分たちこそが宮で神の教えを説く権威を持っているという自負があった。また自分たちは神様の権威によって教えているので、自分たちが認めないイエス様の行為は神様を冒涜するように見えた。しかし聖書は、神様ご自身がイエス様に語る権威を与えていたと語る。私たちは「人からの権威」ではなく「神様の権威」を見上げて行動していかなければならない。

 第二に「自分たちの判断を保留した人々の姿」について見ていきたい。イエス様は彼らに「ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか、それとも人からですか」(21: 25)と問うた。当時のユダヤ人は「神の民」としての誇りがある一方で、ローマ帝国の支配下で苦しい生活を強いられていた。彼らはエジプトからも脱出し、バビロン捕囚からも帰還して国を作ったのに、また異邦人の支配を受け忸怩たる思いであった。だから自分たちも祖先のように罪の支配から脱して立ち直らなければならないと考えていた。そこに表れたのがバプテスマのヨハネの「悔い改めよ」の言葉だった。ヨハネは殺されてしまったが、その記憶は群衆の中に残っていた。イエス様は群衆の前で、そのヨハネのことを彼らに問うた。祭司長たちは、自分は神様の権威を持っていると考えているのに「もし天からと言えば、それならなぜヨハネを信じなかったのかと言うだろう。だが、もし人から出たと言えば、群衆が怖い。彼らはみなヨハネを預言者と思っているのだから」(21:25-26)という非常にあやふやな基盤しかなかったことが明らかになった。その結果、彼らは「どう言えば権威を傷つけずにいられるか」という保身のために決断をあいまいにし、「分かりません」(21:27)と答えた。私たち自身も神様から決断を問われる瞬間がある。その時には、判断を先延ばし立ごまかしたりせず「神様の前にどうあるべきか」だけを見つめる必要がある。

 第三に「祭司長たちに語られたイエス様のたとえ話」について見ていきたい。それは、ぶどう園に行くように父に命じられた際に「『行きたくありません』と答えたが、後になって思い直し、出かけて行った」(21:29)兄の話と、「『行きます、お父さん』と答えたが、行かなかった」(21:30)弟の話である。これは父なる神と私たちの関係をたとえている。それまでの人生で様々なことがあっても、「最後に神様の前に決断をどうしたか」が銃だというのである。祭司長たちは最後の決断をあいまいにした。だからイエス様は「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります」(21:31)と言い放った。私たちも神様を信じるか迫られたとき「いつか信じるから」と決断を先延ばすことなく、与えられた時である「今」決断をすることが重要なのである。

2023/11/12

2023年11月5日「苦難からの望み」(ローマ人への手紙8章18~25節)

【140字ダイジェスト】

神様を信じるとすべての苦難がなくなると主張する宗教は多い。しかし苦難と信仰は矛盾するものではない。注射を怖がる子どものように目前の苦難を忌避するのではなく、苦難こそが神様の与えてくださったより大きな栄光への道筋であり、苦難の中で神様との信頼関係を深めその恵みを実感する機会となる。

 近年「終活」という言葉が用いられるようになり、人生の終わりにあたってさまざまな準備がなされるようになった。しかし、それらは何かずれているように感じる。私たちが考えるべきは「終活」ではなく「復活」の問題である。

 今日は第一に「苦難の先にある神の栄光」について見ていきたい。パウロは「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます」(マタイ22:18)と「苦難」を否定してはいない。クリスチャンとなると「苦難から救われる」と考える人もいるが、その人が苦難に会うと自分の信仰に問題があると考える人もいる。旧約聖書のヨブ記では、ヨブが苦難に合うのは「ヨブの信仰が弱いからだ」と三人の友人たちが責める場面があるが、彼らは「神への信仰と苦難は両立しない」と考えている。しかしパウロは、信仰者が苦難に会うことは矛盾ではないと捉えている。彼は「苦難の先にある栄光」に目を留めるべきだと述べている。苦難の中では、神様の最初の約束や与え続けられている神様の恵みが見えなくなってしまう。だが神様の約束された恵み大きさと比べれば、「取るに足りない」者だとパウロは主張する。

 第二に「被造物に見られる生みの苦しみ」について見ていきたい。私たちの信仰の弱さは、しばしば「自分だけが」と視野の狭さや焦りを生む。そんな私たちに、パウロは「被造物」全体に目を向けるように諭している。被造物である動物も植物も虚無に向かい、死に向かっている。パウロは「被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています」(22:22)と述べている。信仰を通して神様の視点から世界を見ないと、とても考えつかない見方である。だが神様が被造物を「服従させた」のであるから、神様によって「滅びの束縛から解放され」(22:21)ることも可能であり、滅びにいたる世界から解放されこの世がつくられた最初の姿に戻ることを被造物も待ち望んでいる。今日は昇天者記念礼拝であるが、先に天に召された方たちを「呼び戻す」日ではない。むしろ「神の栄光」に与れるところに導き、私たちが本来の姿がある天の御国での再会を待ち望む日である。

 第三に「希望を待ち望むことによる救い」について見ていきたい。パウロは、被造物だけでなく「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています」(22:23)と述べている。私たちは自然の中に、様々な法則を見出してきた。しかしパウロは、それらの法則は神様の栄光の表れであり、私たち自身が「子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望」む方向に流れていると述べている。「苦難」と「信仰」は対立するものではない。私たちはうめきをともなう苦難の中で、神様の祈り対話することで、神様がいかに大きな恵みを与えてくださっているか、そして確かに神様に私たち自身が贖われて神様のものとされていることを実感する。私たちは、まるで注射が痛くて予防接種を嫌がる子どもの様に、自分から見た苦難の解決を望み、神様の導きを見ようとしない事がある。しかし、そこには神様が備えた大きな栄光が用意されている。「私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます」(22:25)とパウロはまとめている。

2023/11/05
2023/10/29

2023年10月29日「祈り求める信仰」(マタイの福音書21章18~22節)

 現在、多くの者が人工知能(AI)に置き換わっているが、AIには「信じる」ということはできない。なぜなら、機械的に選別される「信用度ポイント」とは異なり、本来「人格的なこと」だからである。「神を信じる」ことも情報処理的な判断になじむものではない。

 マタイの福音書では、イエス様がエルサレムの民衆に福音を伝えるために急いでおられたが、途中で空腹を覚えられたとき、いちじくの木を見つけられたとある(マタイ21:18-19)。イチジクは、葉が成長し→花が咲き→身がなるという普通の木とは異なり、花や実のあとに葉が成長する。つまり葉があるイチジクはすでに実がなっていることが多いが、このイチジクは「葉があるだけで、ほかに何もなかった」(21:19)とある。そのイチジクにイエス様が呪いをかけて枯らしてしまったのは不思議なことに見える。だがイエス様は空腹の腹立ちまぎれに呪ったのではない。イチジクやブドウはイスラエルの民に対する「神の祝福の現れ」であり、そこに実がないというのは、葉が青々と茂るように繫栄しているイスラエルが実際には「信仰の実」がなっていないことにたいする憤りであった。

 第二に「弟子たちの驚きと問われる信仰」について見ていきたい。枯れたイチジクを見て驚いた弟子たちに、イエス様は「まことに、あなたがたに言います」(21:21)と述べられた。ここには神様に祝福を受けながら、神様を信じ切れず疑ってきたイスラエルの歴史が透けて見える。イザヤ書には「あなたは多くを見ながら、聞こうとしない」(イザヤ42:20)イスラエルの民がアッシリア帝国に「かすめ奪われ略奪された民」(42:21)となった歴史が書かれている。イザヤはこの強大なアッシリアやバビロン→「旧約聖書を読んでみよう」の「バビロン」「失われた十部族」参照が神様の手によって滅ぼされ、イスラエルは解放されるという預言をしたが、人びとは信じなかった。目先のことだけに目を向けて、神様が自分に何を語っているか悟らない人々に神様は憤りを感じておられた。重要なのは信仰によって神様と自分自身の信頼関係が築かれていることである。イエス様は、イチジクの出来事を通して、私たち自身に「神様の前に実を結んでいる」か、それとも「葉は繁っていても枯れたも同然か」と問うているのである。

 第三に「このような状況から抜け出す唯一の道としての祈り」について見ていきたい。イエス様は「もし、あなたがたが信じて疑わないなら、いちじくの木に起こったことを起こせるだけでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言えば、そのとおりになります」(マタイ21:21)と述べられた。イエス様は私たちに、信じて疑わない祈りを全うせよと述べられている。だが人間は常に心が揺れ動いており、「信じ切れず疑ってしまう」ことは多々ある。だが、そのことで祈ることをやめると、私たちは神様の栄光を見ることはできずに終わる。イエス様のことばにある「立ち上がって、海に入れ」(21:21)は、ユダヤ的な表現で「不可能なこと」という意味である。つまり、これは「自分には到底不可能だと思うことでも、祈り求め続けなさい」と読むべきであり、その結果は「自分が神様に『命じた』事」が実現するのではない。私たちを贖い自分のものとしてくださった(イザヤ43:1-2)神様が、私たちを最善の方法で取り扱ってくださるということである。私たちは、祈りの過程で神様と私自身の関係を築き人格的な交わりを作っていくことが必要である。

2023年10月22日「祈りの家である宮」(マタイの福音書21章12~17節)

【140字ダイジェスト】

イエス様は神殿で、「祈りの家でなければならない」と言って商売人の店を蹴散らした。そこには純粋な礼拝を求める厳しさと同時に、引用したイザヤ書のことばは、形がい化した祈りから信仰復活の時代の「祈りの家」の文脈が読み取れる。そこに不完全な信仰しかできない私たちへのあわれみと導きがある。

 寺や神社の参拝客や観光客を目当てに商売をする人は多い。商業活動そのものは否定しないが、それが神様に向かう心を失わせるものになってはいないか。今日の箇所では、イエス様がエルサレムに入城して神殿に向かったときの話である。

 今日は第一に「宮清めをされたイエス様」について見ていきたい。聖書には「それから、イエスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された」(マタイ21:11)とある。この場所は、神殿の中でも「異邦人の庭」と呼ばれる場所であり、当時の社会では神殿に捧げる動物犠牲を売り買いしたり、シェケルに両替(出エジプト30:13-15)したりすることが認められていた。この商売人たちをイエス様は「追い出し」たが、この行動には一切の妥協はない強い拒絶である。イエス様は神様への礼拝に異質なものが混じることを一切許さず、旧約聖書のイザヤ書を引用して人びとを叱責している。だが、このイザヤ書のことばは、律法のいけにえが神様に喜ばれなくなった時代(1:11-12)のあとに、神殿が再び「祈りの家」となって神様に受け入れられるような関係になったと(56:7)文脈からのことばである。そこには強い拒絶だけでなく、信仰が回復して「祈りの家」で真摯に神様に向かい合ってほしいというみこころが見られる。

 第二に「宮においてのイエス様の働きと反対者」について見ていきたい。イスラエルにおいて宮は最も神聖なもので、「最良の」「完全なもの」が求められていた。しかし、それは私たちが神様に向かうときに「今の自分の最良のもの」を示すということで、神様自体が不完全な者や弱いものを拒絶しているのではない。実際にイエス様は、体の不自由な人々を神殿の中に受け入れて「宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来たので、イエスは彼らを癒やされた」(21:14)とある。私たちはどうだろうか。弱さや癒しを求める人々を拒絶して、自分の「正しさ」のみを主張してはいないだろうか。体の不自由な人々に対するイエス様の行動や、当時は不完全な存在と考えられていた子どもたちによる賛美は、当時の社会でのエリートで専門家である祭司長たちや律法学者たちには到底受け入れることができないものだった。その結果、彼らは「イエスがなさったいろいろな驚くべきことを見て」(21:15)も心を開くことができず、ますます頑なになってしまった。最高の宗教教育を受けた人々であっても、信仰がなければ何もならなかったことがわかる。

​ 第三に「子どもたちによる賛美」について見ていきたい。祭司長たちが「子どもたちが何と言っているか、聞いていますか」(ローマ帝国支配下でイスラエル復活させる「ダビデの子」と呼ばせた政治的問題の大きさが分かっているのか)と問うたとき、イエス様は「聞いています」と明確に答えている(21:15)。祭司長たちはイエス様を「ナザレの田舎出身の青年」としか見られず、人間的に見ても「ダビデの子(ダビデの直系)」であるという事実を確かめてもいない。一方神様は、イエス様の栄光を表すために預言通り(詩編8:2)かよわい幼子たちの口を使われた(マタイ21:16)。神様は自らの思いやご計画を、私たちは信仰をもって受け入れていかなければならない。この神殿は打ち壊され、今は私たち自身が「神殿」となっている。その「神殿」を「祈りの家」として清めて用いなければならない。

2023/1022

2023年10月15日「子ろばの上の主イエス」(マタイの福音書21章1~11節)

【140字ダイジェスト】

イエス様がエルサレム入場した時に、群衆はローマの支配を打ち砕く王と期待して熱狂的に迎えた。しかし力と権威で支配する世の王とちがって心の内側の変革を目指されたイエス様は、弱い子ろばにまたがって入城された。私たちは、そのような「王の王」の真の姿を信仰をもって見ていかなければならない。

 最近のニュースで、イスラエルとハマスの戦闘が流されている。だが力による論理で平和は実現できない。この当時も、民衆はイエス様が力によってローマの支配を打ち砕くものと期待していた。だがイエス様の変革は、心を変える内側の変革であった。

 今日は、第一に「子ろばを用いられたイエス様の姿」について見ていきたい。イエス様はエルサレムに近づいたとき、二人の弟子たちに「向こうの村へ行きなさい。そうすればすぐに、ろばがつながれていて、一緒に子ろばがいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい」(マタイ21:2)とおっしゃった。「二人の弟子」とは、主人の意向を汲んだ正式な使者の形式である。弟子たちにとってこの命令は、「他人の物を、勝手に縄を解いて持ってこい」というものなので、戸惑いがあったことだろう。これからのイエス様の行動は、人間的に見ればおかしな行動の連続であったが、それはすでに預言された神様のご計画であった(21:5)。そして、そこには人間の「所有の権威」をはるかに超えた、神様の権威がすべてを支配していることが見てとれる。私たちは、神様が人間的な思いや行き詰まりを軽々と越えて、道を供えてくださるのが神様なのである(イザヤ43:19)。

 第二に「預言された平和の主」について見ていきたい。執筆者であるマタイはここで、旧約聖書のイザヤ書(62:11)とザカリヤ書(9:9)を引用して「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」(マタイ21:5)と記述している。イエス様が子ろばに乗っている姿は、人間的にはとても「王」としての権威や威厳が感じられない。だが、そこにはイエス様のへりくだりや、弱い立場の者を通して平和を実現していくという御心が表れている。私たちはその滑稽な姿を笑うのか。それとも、信仰の目をもってその御心と「平和の王」としての姿を見て取るのか。私たちのところに来る「王」は、力による支配で私たちを従属させるのではなく、私たちの弱さをそのまま用いてくださる柔和でへりくだった「王」なのである。

 第三に「群衆の中でのイエス様」について見ていきたい。イエス様がエルサレムに行こうとすると、「すると非常に多くの群衆が、自分たちの上着を道に敷いた。また、木の枝を切って道に敷く者たちもいた」(21:8)とマタイは書いている。その直前に裸鞍の子ろばに上着を掛けた弟子たちは(21:7)、「なぜ鞍も着けたことのない子ろば」にのるイエス様に対し複雑な気持ちだったかもしれない。しかし群衆は、事前の式典準備もなかった「王の入城」に対して急遽、沸き起こる気持ちを表したと考えられる。彼らは「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に」(21:9)と口々に叫んだ。これらはユダヤ人の心の奥底に流れてきた「ダビデの子孫による正当な統治」「救い主の到来」への喜びであった。だが、これは本当に民衆の信仰告白だっただろうか。「この人はだれなのか」(21:10)と問われた時の「この人はガリラヤのナザレから出た預言者」(21:11)だと答えた民衆の説明は、イエス様を単なる「力ある預言者に過ぎない」という認識が表れている。実際、彼らは数日後、イエス様を十字架につけるように叫んだ。噂の人物への熱狂ではなく、私たちの側にいる「王の王」の姿を、信仰をもって見ていかなければならない。

2023/10/15

2023年10月8日「絶望からの光」(マタイの福音書20章29~34節)

【140字ダイジェスト】

目の見えない物乞いたちは、ローマの傀儡政権批判とも取られかねない「ダビデの子よ」という言葉を群衆の中で叫んでイエス様にすがった。そこには暗闇の中で誰からも顧みられなかった彼らの悲しみと、そこから救い出してくださるイエス様への絶大な信仰がある。そしてイエス様はその信仰に応えられた。

 昼間が短くなり光のありがたさを感じる季節となった。神様は万物を創造されたとき、最初に光を創造された(創世記1:3)。すべての生き物はその恩恵を受けている。だから目に障害がある方にとって、光を感じることのできない絶望は想像を絶するものだっただろう。

 今日は第一に「暗黒の中で主を求める信仰」について見ていきたい。今日の箇所で登場する目の見えない方は、マルコの福音書では道端で物乞いをしていた(マルコ10:46)と書かれている。この時期、過ぎ越しの祭りのためにエルサレムに向かう多くの巡礼者たちのうわさで、道端にいた彼らはイエス様がエルサレムに向かっていることを知ったのだろう。そして、ついにその瞬間、彼らは群衆が「見よ」(マタイ20:30)と驚くほどの大声で「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」(20:30)と叫んだ。イエス様に「ダビデの子よ」と叫ぶのは、政治的には、ローマの傀儡政権であるヘロデ王の支配地で「真のイスラエルの王はイエス様である」と叫ぶのと同じであった。当然、人びとは巻き添えの弾圧を恐れて「彼らを黙らせようとたしなめた」(20:31)が、彼らはますます叫んだ。彼らの叫びは「私たちをあわれんでください」(20:31)というものであった。多くの巡礼者が道端に座る彼らの前を通って行ったが、誰も彼らの心情を理解しなかった。人間は自分の痛みや苦しみを理解している人がいないと絶望や孤立を感じる。だが、彼らはイエス様ならその痛みをわかってくださると確信した。彼らはイエス様を、自分の人生の救い主だと認めたのである。

 第二に「主への率直な願い」について見ていきたい。多くの巡礼者が彼らの前をただ通り過ぎる中、イエス様は立ち止まって彼らを呼ばれ「わたしに何をしてほしいのですか」と聞かれた(20:31)。王の王であるイエス様がしもべのごとく、「何をしてほしいのですか」と問われたことはすごい喜びであろう。「従っていれば何をいただけるのか」(19:27)「二人の息子を高い地位につけてほしい」(20:21)という弟子たちの願いと比べ、「主よ、目を開けていただきたいのです」(21:33)という彼らの願いは何と率直でイエス様の力を信頼しきった言葉であろう。その願いは「目が見えるようになる」ことだけでなく、神の栄光を知り絶望の淵にあった自分の心を照らしてください(Ⅱコリント4:6)という意味でもある。それができるのは何もないところに光を創造された神様だけである。私たちも絶望の闇の淵にあるとき、イエス様を仰ぎ見て確信の叫びをあげることができるだろうか。

 第三に「信仰による回復と従順」について見ていきたい。彼らの叫びに対して「イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた」(20:34)とある。私たちなら苦しんでいる人と一緒にいて、同じ苦しみを感じることは、よほど愛した人でなければできない。できれば人の苦しみから距離を置きたい。しかしイエス様は上からの巨大な力で治したのではなく、人びとから疎まれ蔑まれてきた彼らと同じ痛みや苦しみの中に立って、おそらくひどい汚れをまとっていた彼らに直接触れて癒されたのである。その瞬間に彼らは変えられ、イエス様に従う新しい人生が始まった(20:34)。「イエスについて行った」彼らは、単にイエス様の都のぼりに物理的について行った多くの人びとと異なり、イエス様に従って生きる光の人生を歩み始めたのであろう。

2023/10/08

2023年10月1日「主が飲もうとされる杯」(マタイの福音書20章17~28節)

​【140字ダイジェスト】

ローマの傀儡政権打倒と、その後の自分たちの政治的地位しか見ていなかった弟子たちは、後にイエス様と同じ運命をたどるのだが、この時点ではイエス様の目指していた十字架の救いのことは理解できなかった。彼らの「できます」には意味がなかったが、イエス様はその不充分な信仰さえも受け入れられた。

 あるアルピニストが「なぜ山に登るのか」と問われ、明確に説明できず「そこに山があるから」と答えたという。弟子たちもイエス様について行ったのも、神の御国について完全に理解していたのではなく何を求めていたか自分でもよく分かっていなかった。

 今日第一に「イエス様と弟子たちの目指しているものの違い」について見ていきたい。イエス様はエルサレムに行く途上で弟子たちだけに、エルサレム登城後の自分の悲惨な運命について預言された(マタイ20:18-19)。弟子たちからすると「エルサレム登城」は、いよいよローマに対する革命がおこるという高揚感のある道のりだった。このイエス様と弟子たちとの意識のズレが最も端的に出たのが、ゼベダイの二人の息子たち(ヤコブとヨハネ)の母の「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい」(20:21)という発言だった。息子たちを革命後の政権のナンバー1と2に就任させてほしいという願いだったのである。これを聞いた弟子たちは、この二人に腹を立てたが(20:24)、それは、やはり他の弟子たちも「自分たちこそナンバー1」だと思っているからである。実はマタイの福音書はA.D.50年に成立したが、ヤコブはA.D.44年に殉教している。それを思うと、筆者マタイは人間の愚かさを書きたかったのであろう。

 第二に「主が飲もうとされる杯」について見ていきたい。イエス様は、この二人に「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか」(20:22)と尋ねられた。これはイエス様の十字架の犠牲の血を、神の新しい契約として受け止めるという意味である。たしかに、イエス様が言われるように弟子たちは、将来、イエス様の「杯を飲む」(20:23)ことになるが、この時点で弟子たちはその意味をまったく分かっていない。にもかかわらず、彼らは「できます」(20:22)と安易に答えている。でもイエス様は、その未完成なこの時点の信仰でも受け止めておられる。私たちの信仰生活も、実は分からないことばかりで的外れなことも多い。しかし神様は、その私たちの未熟な信仰でも受け止め、いずれ心が開かれることを願って導かれておられる。イエス様は、そんな愚かな願いをしたヤコブとヨハネたちの母にも、「わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです」(20:23)と、そこに深い神様の御心があると諭されている。神父ナウエン(Henri Jozef Machiel Nouwen)は著書『この杯を飲めますか』の中で、聖餐式における行動を「手に取る」(神様と個人的に関わる)「杯を持ち上げる」(恵みを受ける)「飲む」(全身で応答する)と解釈した。それがイエス様の「杯を飲む」ことである。

 第三に「人に使える働きに召されている」ことについて見ていきたい。そんな弟子たちにイエス様は、権力争いをする弟子たちのやり方は世の権力者や異邦人のやり方であり(20:25)、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい」(20:26-27)と諭された。私たちは権力者の好む「権力」「強い言葉」「横柄な態度」を捨てて、キリストの愛をもって人に仕える必要がある。自己中心的な私たちにはできないことだが、その自我を捨てて神様に拠り頼むことで、イエス様が示してくださった仕える愛を実践できるのである。

2023/10/01

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2023/12/10
2023年12月3日 「皇帝の銀貨と神のもの」(マタイ22章15~22節)
【140字ダイジェスト】
 信仰のことで、最初から結論に至る枠組みを作ってしまうことがある。パリサイ人たちは、主イエスを捕らえるため言葉の罠をしかけた。「カエサルに税金を納めることは、律法にかなっているか」(17)と。主イエスがどのように答えたとしても、彼らの結論は主イエスの言葉はゆるされないものだった。自分でこしらえた信仰の枠組みを、頑なな心のまま保持してはならない。心を主に明け渡し、主からの導きを得
る必要がある。

 今日からアドベントに入る。救い主が肉体をとってこの世界に来られたのは、信仰を現実に照らして理解するのにとって重要なことである。今日の個所は、税という現実的な問題において、イエス様の反対者たちが言葉の罠を仕掛けたことが語られている。

「そのころ、パリサイ人たちは出てきて、どのようにしてイエスを言葉の罠にかけようかと相談した。」(15) この企みの執拗さは、パリサイ人の弟子たちとヘロデ党の者たちを一緒にしてイエス様のところに遣わしたことによる。普段の生活では水と油のように決して折り合わない人たちが、イエス様を訴える口実を作るためには一致している。彼らはあたかもイエス様を敬愛しているかのようにみせかけ、イエス様のところにきた。16節「彼らは自分たちの弟子たちを、ヘロデ党の者たちと一緒にイエスのもとに遣わして、こう言った。『先生、私たちは、あなたが親切な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれにも遠慮しない方だと知っております。あなたは人の顔色をみないからです。』

 表向きには、尊敬しているかのような言い方であるけれども、後から決して言い逃れできないように、あらかじめ防波堤を築いていた。そうした自分たちの姿を隠してイエス様に質問した。17節

「ですから、どう思われるか、お聞かせください。カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか。いないでしょうか」 パリサイ人にとって、ローマへの税金を納めることが宗教的な堕落と考える。けれども自分たちが公にそんなことを言ったら、ローマへの反逆として取り締まりの対象になってしまう。自分たちの言えないことをイエス様に言わせようとしていた。

 逆にそれは律法にかなっていると言えば、これまでの民衆の支持は一気に失われることになる。パリサイ人たちは、イエス様を支持する民衆を恐れていたのであるから、民衆という後ろ盾がなくなればイエス様を何とでもできると考えていた。表向きは信仰者のようであるが、心の奥では自分たちの仕掛けた罠の成功だけを考えていた。

 イエス様は、ことばの罠に嵌めようとしていた人の悪意を見抜いて正された18節「イエスは彼らの悪意を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試すのですか、偽善者たち。税として納めるお金を見せなさい。」そこで彼らはデナリ銀貨をイエスのもとに持って来た。」 イエス様は、悪意をもってきている人に偽善者と厳しい言い方をされた。それは彼らのプライドをなし崩しにするものであったが、イエス様は、そのパリサイ人の駒として来た人たちに「税として納めるお金を見せなさい」(17節)と言われた。ローマに納める税金は、ユダヤのお金でなくデナリ銀貨に変えるなければならない。それはユダヤ人としての屈辱であり、ユダヤ人がローマの支配を受けていることの現実であった。そこでイエス様は、その銀貨を手にとって言われた。20節 「これは誰の肖像ですか」銀貨にはローマ皇帝の肖像と銘が刻印してある。それ故、銀貨は初めからカイサルのものだから、税をデナリでカイサルに返すことは何の問題でもない。神のものは神に返す。ただしカイザルのものはカイザルに返すことによって、神のものは神に返すことをせよとの意味である。イエス様は基本的に税金を納めるべきことを教えている。地上に建てられた権威は、不完全であり、様々な弱さを露呈しているけれど、そうした状態で神様に建てられていることを受け入れていくことが必要である。自分の思いとは相いれない部分があったとしても、それを理由に神が許容しておられることまで否定してしまうことは神の御心ではない。

2023/12/03

2023年11月26日「天の御国への招待」(マタイの福音書22章1~14節)

【140字ダイジェスト】

王家の婚礼に招かれる重大さは、人間的場面でも想像できよう。神様はイスラエルの民を招いたにも関わらず、民は最大の侮辱で応えた。そのため福音は異邦人世界にも広がった。その招きは人間的な善悪を超えて行われたが、ただイエス様の贖いという衣をまとって神様の前に出ることだけが求められている。

 現在でも王家の結婚式の最大のイベントが宮中晩餐会であり、ここに招かれることは特別なことである。王家は慎重に招待客を選び、もしこれを断るならば王家への敵意とみなされる。イスラエルの民は「選ばれた神の民」を誇りとしながら、敵対をして滅びを招いた。

 今日は第一に「王の招きに応じなかったイスラエルの民」について見ていきたい。イエス様は、神様とイスラエルの民の歴史を「王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった」(マタイ22:3)とたとえられた。神様はイスラエルの民を招きながらも民はそれを拒否してきたし、たびたび遣わした預言者にも民は従わなかった。神様は「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」(22:4)と完璧な準備をして民を招きながら、民は招いた者の思いをまったく無視した自分勝手な理由で断り(22:5)、それだけでなく「王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった」(22:6)とある。人間同士でも最も無礼な行動なのに、イスラエルの民は神様に対しこのような態度を取ったという。その結果、神様は民にさばきを下したが(22:7)、紀元70年にエルサレムが滅ぼされた歴史を預言している。

 第二に「福音による新しい民の招き」について見ていきたい。イエス様のたとえによると、王は敵対する民の町を焼き払った後(22:7)に、「だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい」と命じた。その通り、イエス様の後の神様の祝福は、イスラエルの民から異邦人の世界に広がり、世界中に福音が広がった。イスラエルの民への祝福は、神様の招きの声に応じたアブラム(後のアブラハム)から広がった(創世記12:1-2)。この「神様の招きの声に応じる」ことが、神の民としての祝福を受ける民族の出発点であったから、神様の招きに応じないならばその祝福の契約は更新されてしかるべきであった。そして、神の国の招きは、イエス様による罪の贖いがなされているので「良い人でも悪い人でも」「であった人」(マタイ22:10)すべてが招かれた。だから私たちも、福音を伝えるときは、相手がどのように人でも伝えるべきである。

 第三に「王の招きに応じるための礼服」について見ていきたい。イエス様のたとえは「王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし彼は黙っていた」(22:11-12)と続く。これを見て「いきなり通りから招かれたのに、おかしいのではないか」と思う人がいるかもしれない。当時の一般人は特別な礼服を持っている人は、特別な地位の人だけである。つまり、この礼服は当時の常識から考えると、招待されるにあたって王の側で出席者に提供していたと考えるべきであろう。このたとえは、神様の側で準備された「イエス様の贖い」をまとって神様の前に出るのを拒否し、イエス様を受け入れずに救いにだけ与りたいという人を指している。今日、何となく「天国に行く」がふわふわとイメージされているが、この男のように罪の問題に口を閉ざし(22:12)、イエス様を受け入れずに天国に行こうとすると、そこには神様の厳しい峻別が待っている(22:13)。私たちは「王の婚礼に招かれる」重大さを、あらためて受け止めなければならない。

2023/11/26

2023年11月19日「捨てられた要石」(マタイの福音書21章33~46節)

 キリスト教の知識があることと、信仰を持ちキリスト・イエスとの関係を持つこと大きく異なる。この時、イエス様と論争している祭司長たちやパリサイ人は当時の律法の専門家であったが、彼らは自分たちの持つ旧約聖書のユダヤ教から一歩も出ることはなかった。

 今日は第一に「収穫を待たれる神様とそれに反抗する民の姿」について見ていきたい。イエス様は神様が人々をどれほど愛し、イスラエルの民はその御心からどれほど離れているかを、ぶどう園の主人と農夫のたとえで話された。このたとえはイザヤ書の預言を踏まえたものである(イザヤ5:1-2)。この主人は、農夫たちを愛し、彼らが安心して暮らせるように最良の土地にぶどう園や設備を整えて貸し与えた。その結果できたものは、全く悪いものであった(5:2)。イエス様のたとえの中で「農夫たちのところにしもべたちを遣わした」(マタイ21:24)のは、預言者のことである。しかしイスラエルの民は、各時代の歴史の中で神様が遣わした預言者に従わず、時には殺してしまった(21:35,36)。しかし神様は、そんなことがあっても民を愛し、導こうとして「『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、息子を彼らのところに遣わした」(21:37)が、「彼を捕らえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまった」(21:38)のである。実に神様の息子であるイエス様を、祭司長たちが捕まえて殺してしまう未来を預言した。だが彼らは、イエス様が神様の息子だとわかっていながら、ユダヤ教の特権を話したくなくてイエス様を殺したのが本音だと指摘している(21:38)。

 第二に「彼らに対するイエス様のさばき」について見ていきたい。イエス様は彼らに、こんな「農夫たちをどうするでしょう」(21:40)と問いかけ、彼ら自身で考えるように促された。この時点で彼らは、「自分たちは当時のユダヤの最高の宗教的権威で、神様の前にあって善悪の判断ができる」と考えており、「その悪者どもを情け容赦なく滅ぼして、そのぶどう園を、収穫の時が来れば収穫を納める別の農夫たちに貸すでしょう」(21:41)と答えた。だが、彼らは、それが自分たち自身のことだとは考えてもみなかった。私たちも、御言葉を聞くときに「それは誰か悪者の話であって、自分自身のことではない」と思ってしまう。しかし、御言葉を聞くときに「自分についてどう語られているか」を考えなければならない。

 第三に「捨てられた要石」について見ていきたい。イエス様は、彼らに「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ」(21:42)と語られた。この「要石」「頭石」「親石」とは、住宅を建てる際に最初に家の四隅に据えて構造を支える石である。本来、要石は大きさや形、丈夫さなど厳選して選ばれるが、イエス様は「家を建てる者たちが捨てた石」が神様の要石になる不思議を述べている。バビロンの捕囚後に復元された神殿は、以前のものと比べてあまりにも粗末で蔑む者もあったが(ゼカリヤ4:10)、神様がそのことをなされたことに意味があった(4:9)。イエス様も「これは主がなさったこと」(マタイ21:42)であることが重要で、据えられた物はイスラエルの民が捨てたイエス様と教会である。イエス様は「ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます」(21:43)と述べた。それは、その後のイスラエルの民とキリスト教会と姿でもある。

2023/11/19

2023年11月12日「決断が迫られる今」(マタイの福音書21章23~32節)

【140字ダイジェスト】

バプテスマのヨハネの権威がどこから来るのかイエス様の問われた祭司長たちは、自らの保身のために、その答えをあいまいにした。その祭司長たちにイエス様は父から命じられた二人の兄弟の話をし、それまでの宗教的ふるまいではなく、最後に神様の前にどのように決断するかが重要であることを話された。

 「権威を笠に着る」といえば、自分の地位を振りかざした行動を指す。今日の箇所は、当時のユダヤ社会の「サンヘドリン」といわれた議会に所属する祭司長たちが、まさに権威を笠に着てイエス様に迫っている箇所である。

 第一に「問われたイエス様の権威」について見ていきたい。このとき祭司長たちは、宮で教えていたイエス様に「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたにその権威を授けたのですか」(マタイ21:23)と詰め寄った。当時、宮で教えることは宗教的地位をもって、一定の手続きを得て行う事であった。彼らには、自分たちこそが宮で神の教えを説く権威を持っているという自負があった。また自分たちは神様の権威によって教えているので、自分たちが認めないイエス様の行為は神様を冒涜するように見えた。しかし聖書は、神様ご自身がイエス様に語る権威を与えていたと語る。私たちは「人からの権威」ではなく「神様の権威」を見上げて行動していかなければならない。

 第二に「自分たちの判断を保留した人々の姿」について見ていきたい。イエス様は彼らに「ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか、それとも人からですか」(21: 25)と問うた。当時のユダヤ人は「神の民」としての誇りがある一方で、ローマ帝国の支配下で苦しい生活を強いられていた。彼らはエジプトからも脱出し、バビロン捕囚からも帰還して国を作ったのに、また異邦人の支配を受け忸怩たる思いであった。だから自分たちも祖先のように罪の支配から脱して立ち直らなければならないと考えていた。そこに表れたのがバプテスマのヨハネの「悔い改めよ」の言葉だった。ヨハネは殺されてしまったが、その記憶は群衆の中に残っていた。イエス様は群衆の前で、そのヨハネのことを彼らに問うた。祭司長たちは、自分は神様の権威を持っていると考えているのに「もし天からと言えば、それならなぜヨハネを信じなかったのかと言うだろう。だが、もし人から出たと言えば、群衆が怖い。彼らはみなヨハネを預言者と思っているのだから」(21:25-26)という非常にあやふやな基盤しかなかったことが明らかになった。その結果、彼らは「どう言えば権威を傷つけずにいられるか」という保身のために決断をあいまいにし、「分かりません」(21:27)と答えた。私たち自身も神様から決断を問われる瞬間がある。その時には、判断を先延ばし立ごまかしたりせず「神様の前にどうあるべきか」だけを見つめる必要がある。

 第三に「祭司長たちに語られたイエス様のたとえ話」について見ていきたい。それは、ぶどう園に行くように父に命じられた際に「『行きたくありません』と答えたが、後になって思い直し、出かけて行った」(21:29)兄の話と、「『行きます、お父さん』と答えたが、行かなかった」(21:30)弟の話である。これは父なる神と私たちの関係をたとえている。それまでの人生で様々なことがあっても、「最後に神様の前に決断をどうしたか」が銃だというのである。祭司長たちは最後の決断をあいまいにした。だからイエス様は「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります」(21:31)と言い放った。私たちも神様を信じるか迫られたとき「いつか信じるから」と決断を先延ばすことなく、与えられた時である「今」決断をすることが重要なのである。

2023/11/12

2023年11月5日「苦難からの望み」(ローマ人への手紙8章18~25節)

【140字ダイジェスト】

神様を信じるとすべての苦難がなくなると主張する宗教は多い。しかし苦難と信仰は矛盾するものではない。注射を怖がる子どものように目前の苦難を忌避するのではなく、苦難こそが神様の与えてくださったより大きな栄光への道筋であり、苦難の中で神様との信頼関係を深めその恵みを実感する機会となる。

 近年「終活」という言葉が用いられるようになり、人生の終わりにあたってさまざまな準備がなされるようになった。しかし、それらは何かずれているように感じる。私たちが考えるべきは「終活」ではなく「復活」の問題である。

 今日は第一に「苦難の先にある神の栄光」について見ていきたい。パウロは「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます」(マタイ22:18)と「苦難」を否定してはいない。クリスチャンとなると「苦難から救われる」と考える人もいるが、その人が苦難に会うと自分の信仰に問題があると考える人もいる。旧約聖書のヨブ記では、ヨブが苦難に合うのは「ヨブの信仰が弱いからだ」と三人の友人たちが責める場面があるが、彼らは「神への信仰と苦難は両立しない」と考えている。しかしパウロは、信仰者が苦難に会うことは矛盾ではないと捉えている。彼は「苦難の先にある栄光」に目を留めるべきだと述べている。苦難の中では、神様の最初の約束や与え続けられている神様の恵みが見えなくなってしまう。だが神様の約束された恵み大きさと比べれば、「取るに足りない」者だとパウロは主張する。

 第二に「被造物に見られる生みの苦しみ」について見ていきたい。私たちの信仰の弱さは、しばしば「自分だけが」と視野の狭さや焦りを生む。そんな私たちに、パウロは「被造物」全体に目を向けるように諭している。被造物である動物も植物も虚無に向かい、死に向かっている。パウロは「被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています」(22:22)と述べている。信仰を通して神様の視点から世界を見ないと、とても考えつかない見方である。だが神様が被造物を「服従させた」のであるから、神様によって「滅びの束縛から解放され」(22:21)ることも可能であり、滅びにいたる世界から解放されこの世がつくられた最初の姿に戻ることを被造物も待ち望んでいる。今日は昇天者記念礼拝であるが、先に天に召された方たちを「呼び戻す」日ではない。むしろ「神の栄光」に与れるところに導き、私たちが本来の姿がある天の御国での再会を待ち望む日である。

 第三に「希望を待ち望むことによる救い」について見ていきたい。パウロは、被造物だけでなく「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています」(22:23)と述べている。私たちは自然の中に、様々な法則を見出してきた。しかしパウロは、それらの法則は神様の栄光の表れであり、私たち自身が「子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望」む方向に流れていると述べている。「苦難」と「信仰」は対立するものではない。私たちはうめきをともなう苦難の中で、神様の祈り対話することで、神様がいかに大きな恵みを与えてくださっているか、そして確かに神様に私たち自身が贖われて神様のものとされていることを実感する。私たちは、まるで注射が痛くて予防接種を嫌がる子どもの様に、自分から見た苦難の解決を望み、神様の導きを見ようとしない事がある。しかし、そこには神様が備えた大きな栄光が用意されている。「私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます」(22:25)とパウロはまとめている。

2023/11/05
2023/10/29

2023年10月29日「祈り求める信仰」(マタイの福音書21章18~22節)

 現在、多くの者が人工知能(AI)に置き換わっているが、AIには「信じる」ということはできない。なぜなら、機械的に選別される「信用度ポイント」とは異なり、本来「人格的なこと」だからである。「神を信じる」ことも情報処理的な判断になじむものではない。

 マタイの福音書では、イエス様がエルサレムの民衆に福音を伝えるために急いでおられたが、途中で空腹を覚えられたとき、いちじくの木を見つけられたとある(マタイ21:18-19)。イチジクは、葉が成長し→花が咲き→身がなるという普通の木とは異なり、花や実のあとに葉が成長する。つまり葉があるイチジクはすでに実がなっていることが多いが、このイチジクは「葉があるだけで、ほかに何もなかった」(21:19)とある。そのイチジクにイエス様が呪いをかけて枯らしてしまったのは不思議なことに見える。だがイエス様は空腹の腹立ちまぎれに呪ったのではない。イチジクやブドウはイスラエルの民に対する「神の祝福の現れ」であり、そこに実がないというのは、葉が青々と茂るように繫栄しているイスラエルが実際には「信仰の実」がなっていないことにたいする憤りであった。

 第二に「弟子たちの驚きと問われる信仰」について見ていきたい。枯れたイチジクを見て驚いた弟子たちに、イエス様は「まことに、あなたがたに言います」(21:21)と述べられた。ここには神様に祝福を受けながら、神様を信じ切れず疑ってきたイスラエルの歴史が透けて見える。イザヤ書には「あなたは多くを見ながら、聞こうとしない」(イザヤ42:20)イスラエルの民がアッシリア帝国に「かすめ奪われ略奪された民」(42:21)となった歴史が書かれている。イザヤはこの強大なアッシリアやバビロン→「旧約聖書を読んでみよう」の「バビロン」「失われた十部族」参照が神様の手によって滅ぼされ、イスラエルは解放されるという預言をしたが、人びとは信じなかった。目先のことだけに目を向けて、神様が自分に何を語っているか悟らない人々に神様は憤りを感じておられた。重要なのは信仰によって神様と自分自身の信頼関係が築かれていることである。イエス様は、イチジクの出来事を通して、私たち自身に「神様の前に実を結んでいる」か、それとも「葉は繁っていても枯れたも同然か」と問うているのである。

 第三に「このような状況から抜け出す唯一の道としての祈り」について見ていきたい。イエス様は「もし、あなたがたが信じて疑わないなら、いちじくの木に起こったことを起こせるだけでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言えば、そのとおりになります」(マタイ21:21)と述べられた。イエス様は私たちに、信じて疑わない祈りを全うせよと述べられている。だが人間は常に心が揺れ動いており、「信じ切れず疑ってしまう」ことは多々ある。だが、そのことで祈ることをやめると、私たちは神様の栄光を見ることはできずに終わる。イエス様のことばにある「立ち上がって、海に入れ」(21:21)は、ユダヤ的な表現で「不可能なこと」という意味である。つまり、これは「自分には到底不可能だと思うことでも、祈り求め続けなさい」と読むべきであり、その結果は「自分が神様に『命じた』事」が実現するのではない。私たちを贖い自分のものとしてくださった(イザヤ43:1-2)神様が、私たちを最善の方法で取り扱ってくださるということである。私たちは、祈りの過程で神様と私自身の関係を築き人格的な交わりを作っていくことが必要である。

2023年10月22日「祈りの家である宮」(マタイの福音書21章12~17節)

【140字ダイジェスト】

イエス様は神殿で、「祈りの家でなければならない」と言って商売人の店を蹴散らした。そこには純粋な礼拝を求める厳しさと同時に、引用したイザヤ書のことばは、形がい化した祈りから信仰復活の時代の「祈りの家」の文脈が読み取れる。そこに不完全な信仰しかできない私たちへのあわれみと導きがある。

 寺や神社の参拝客や観光客を目当てに商売をする人は多い。商業活動そのものは否定しないが、それが神様に向かう心を失わせるものになってはいないか。今日の箇所では、イエス様がエルサレムに入城して神殿に向かったときの話である。

 今日は第一に「宮清めをされたイエス様」について見ていきたい。聖書には「それから、イエスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された」(マタイ21:11)とある。この場所は、神殿の中でも「異邦人の庭」と呼ばれる場所であり、当時の社会では神殿に捧げる動物犠牲を売り買いしたり、シェケルに両替(出エジプト30:13-15)したりすることが認められていた。この商売人たちをイエス様は「追い出し」たが、この行動には一切の妥協はない強い拒絶である。イエス様は神様への礼拝に異質なものが混じることを一切許さず、旧約聖書のイザヤ書を引用して人びとを叱責している。だが、このイザヤ書のことばは、律法のいけにえが神様に喜ばれなくなった時代(1:11-12)のあとに、神殿が再び「祈りの家」となって神様に受け入れられるような関係になったと(56:7)文脈からのことばである。そこには強い拒絶だけでなく、信仰が回復して「祈りの家」で真摯に神様に向かい合ってほしいというみこころが見られる。

 第二に「宮においてのイエス様の働きと反対者」について見ていきたい。イスラエルにおいて宮は最も神聖なもので、「最良の」「完全なもの」が求められていた。しかし、それは私たちが神様に向かうときに「今の自分の最良のもの」を示すということで、神様自体が不完全な者や弱いものを拒絶しているのではない。実際にイエス様は、体の不自由な人々を神殿の中に受け入れて「宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来たので、イエスは彼らを癒やされた」(21:14)とある。私たちはどうだろうか。弱さや癒しを求める人々を拒絶して、自分の「正しさ」のみを主張してはいないだろうか。体の不自由な人々に対するイエス様の行動や、当時は不完全な存在と考えられていた子どもたちによる賛美は、当時の社会でのエリートで専門家である祭司長たちや律法学者たちには到底受け入れることができないものだった。その結果、彼らは「イエスがなさったいろいろな驚くべきことを見て」(21:15)も心を開くことができず、ますます頑なになってしまった。最高の宗教教育を受けた人々であっても、信仰がなければ何もならなかったことがわかる。

​ 第三に「子どもたちによる賛美」について見ていきたい。祭司長たちが「子どもたちが何と言っているか、聞いていますか」(ローマ帝国支配下でイスラエル復活させる「ダビデの子」と呼ばせた政治的問題の大きさが分かっているのか)と問うたとき、イエス様は「聞いています」と明確に答えている(21:15)。祭司長たちはイエス様を「ナザレの田舎出身の青年」としか見られず、人間的に見ても「ダビデの子(ダビデの直系)」であるという事実を確かめてもいない。一方神様は、イエス様の栄光を表すために預言通り(詩編8:2)かよわい幼子たちの口を使われた(マタイ21:16)。神様は自らの思いやご計画を、私たちは信仰をもって受け入れていかなければならない。この神殿は打ち壊され、今は私たち自身が「神殿」となっている。その「神殿」を「祈りの家」として清めて用いなければならない。

2023/1022

2023年10月15日「子ろばの上の主イエス」(マタイの福音書21章1~11節)

【140字ダイジェスト】

イエス様がエルサレム入場した時に、群衆はローマの支配を打ち砕く王と期待して熱狂的に迎えた。しかし力と権威で支配する世の王とちがって心の内側の変革を目指されたイエス様は、弱い子ろばにまたがって入城された。私たちは、そのような「王の王」の真の姿を信仰をもって見ていかなければならない。

 最近のニュースで、イスラエルとハマスの戦闘が流されている。だが力による論理で平和は実現できない。この当時も、民衆はイエス様が力によってローマの支配を打ち砕くものと期待していた。だがイエス様の変革は、心を変える内側の変革であった。

 今日は、第一に「子ろばを用いられたイエス様の姿」について見ていきたい。イエス様はエルサレムに近づいたとき、二人の弟子たちに「向こうの村へ行きなさい。そうすればすぐに、ろばがつながれていて、一緒に子ろばがいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい」(マタイ21:2)とおっしゃった。「二人の弟子」とは、主人の意向を汲んだ正式な使者の形式である。弟子たちにとってこの命令は、「他人の物を、勝手に縄を解いて持ってこい」というものなので、戸惑いがあったことだろう。これからのイエス様の行動は、人間的に見ればおかしな行動の連続であったが、それはすでに預言された神様のご計画であった(21:5)。そして、そこには人間の「所有の権威」をはるかに超えた、神様の権威がすべてを支配していることが見てとれる。私たちは、神様が人間的な思いや行き詰まりを軽々と越えて、道を供えてくださるのが神様なのである(イザヤ43:19)。

 第二に「預言された平和の主」について見ていきたい。執筆者であるマタイはここで、旧約聖書のイザヤ書(62:11)とザカリヤ書(9:9)を引用して「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」(マタイ21:5)と記述している。イエス様が子ろばに乗っている姿は、人間的にはとても「王」としての権威や威厳が感じられない。だが、そこにはイエス様のへりくだりや、弱い立場の者を通して平和を実現していくという御心が表れている。私たちはその滑稽な姿を笑うのか。それとも、信仰の目をもってその御心と「平和の王」としての姿を見て取るのか。私たちのところに来る「王」は、力による支配で私たちを従属させるのではなく、私たちの弱さをそのまま用いてくださる柔和でへりくだった「王」なのである。

 第三に「群衆の中でのイエス様」について見ていきたい。イエス様がエルサレムに行こうとすると、「すると非常に多くの群衆が、自分たちの上着を道に敷いた。また、木の枝を切って道に敷く者たちもいた」(21:8)とマタイは書いている。その直前に裸鞍の子ろばに上着を掛けた弟子たちは(21:7)、「なぜ鞍も着けたことのない子ろば」にのるイエス様に対し複雑な気持ちだったかもしれない。しかし群衆は、事前の式典準備もなかった「王の入城」に対して急遽、沸き起こる気持ちを表したと考えられる。彼らは「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に」(21:9)と口々に叫んだ。これらはユダヤ人の心の奥底に流れてきた「ダビデの子孫による正当な統治」「救い主の到来」への喜びであった。だが、これは本当に民衆の信仰告白だっただろうか。「この人はだれなのか」(21:10)と問われた時の「この人はガリラヤのナザレから出た預言者」(21:11)だと答えた民衆の説明は、イエス様を単なる「力ある預言者に過ぎない」という認識が表れている。実際、彼らは数日後、イエス様を十字架につけるように叫んだ。噂の人物への熱狂ではなく、私たちの側にいる「王の王」の姿を、信仰をもって見ていかなければならない。

2023/10/15

2023年10月8日「絶望からの光」(マタイの福音書20章29~34節)

【140字ダイジェスト】

目の見えない物乞いたちは、ローマの傀儡政権批判とも取られかねない「ダビデの子よ」という言葉を群衆の中で叫んでイエス様にすがった。そこには暗闇の中で誰からも顧みられなかった彼らの悲しみと、そこから救い出してくださるイエス様への絶大な信仰がある。そしてイエス様はその信仰に応えられた。

 昼間が短くなり光のありがたさを感じる季節となった。神様は万物を創造されたとき、最初に光を創造された(創世記1:3)。すべての生き物はその恩恵を受けている。だから目に障害がある方にとって、光を感じることのできない絶望は想像を絶するものだっただろう。

 今日は第一に「暗黒の中で主を求める信仰」について見ていきたい。今日の箇所で登場する目の見えない方は、マルコの福音書では道端で物乞いをしていた(マルコ10:46)と書かれている。この時期、過ぎ越しの祭りのためにエルサレムに向かう多くの巡礼者たちのうわさで、道端にいた彼らはイエス様がエルサレムに向かっていることを知ったのだろう。そして、ついにその瞬間、彼らは群衆が「見よ」(マタイ20:30)と驚くほどの大声で「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」(20:30)と叫んだ。イエス様に「ダビデの子よ」と叫ぶのは、政治的には、ローマの傀儡政権であるヘロデ王の支配地で「真のイスラエルの王はイエス様である」と叫ぶのと同じであった。当然、人びとは巻き添えの弾圧を恐れて「彼らを黙らせようとたしなめた」(20:31)が、彼らはますます叫んだ。彼らの叫びは「私たちをあわれんでください」(20:31)というものであった。多くの巡礼者が道端に座る彼らの前を通って行ったが、誰も彼らの心情を理解しなかった。人間は自分の痛みや苦しみを理解している人がいないと絶望や孤立を感じる。だが、彼らはイエス様ならその痛みをわかってくださると確信した。彼らはイエス様を、自分の人生の救い主だと認めたのである。

 第二に「主への率直な願い」について見ていきたい。多くの巡礼者が彼らの前をただ通り過ぎる中、イエス様は立ち止まって彼らを呼ばれ「わたしに何をしてほしいのですか」と聞かれた(20:31)。王の王であるイエス様がしもべのごとく、「何をしてほしいのですか」と問われたことはすごい喜びであろう。「従っていれば何をいただけるのか」(19:27)「二人の息子を高い地位につけてほしい」(20:21)という弟子たちの願いと比べ、「主よ、目を開けていただきたいのです」(21:33)という彼らの願いは何と率直でイエス様の力を信頼しきった言葉であろう。その願いは「目が見えるようになる」ことだけでなく、神の栄光を知り絶望の淵にあった自分の心を照らしてください(Ⅱコリント4:6)という意味でもある。それができるのは何もないところに光を創造された神様だけである。私たちも絶望の闇の淵にあるとき、イエス様を仰ぎ見て確信の叫びをあげることができるだろうか。

 第三に「信仰による回復と従順」について見ていきたい。彼らの叫びに対して「イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた」(20:34)とある。私たちなら苦しんでいる人と一緒にいて、同じ苦しみを感じることは、よほど愛した人でなければできない。できれば人の苦しみから距離を置きたい。しかしイエス様は上からの巨大な力で治したのではなく、人びとから疎まれ蔑まれてきた彼らと同じ痛みや苦しみの中に立って、おそらくひどい汚れをまとっていた彼らに直接触れて癒されたのである。その瞬間に彼らは変えられ、イエス様に従う新しい人生が始まった(20:34)。「イエスについて行った」彼らは、単にイエス様の都のぼりに物理的について行った多くの人びとと異なり、イエス様に従って生きる光の人生を歩み始めたのであろう。

2023/10/08

2023年10月1日「主が飲もうとされる杯」(マタイの福音書20章17~28節)

​【140字ダイジェスト】

ローマの傀儡政権打倒と、その後の自分たちの政治的地位しか見ていなかった弟子たちは、後にイエス様と同じ運命をたどるのだが、この時点ではイエス様の目指していた十字架の救いのことは理解できなかった。彼らの「できます」には意味がなかったが、イエス様はその不充分な信仰さえも受け入れられた。

 あるアルピニストが「なぜ山に登るのか」と問われ、明確に説明できず「そこに山があるから」と答えたという。弟子たちもイエス様について行ったのも、神の御国について完全に理解していたのではなく何を求めていたか自分でもよく分かっていなかった。

 今日第一に「イエス様と弟子たちの目指しているものの違い」について見ていきたい。イエス様はエルサレムに行く途上で弟子たちだけに、エルサレム登城後の自分の悲惨な運命について預言された(マタイ20:18-19)。弟子たちからすると「エルサレム登城」は、いよいよローマに対する革命がおこるという高揚感のある道のりだった。このイエス様と弟子たちとの意識のズレが最も端的に出たのが、ゼベダイの二人の息子たち(ヤコブとヨハネ)の母の「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい」(20:21)という発言だった。息子たちを革命後の政権のナンバー1と2に就任させてほしいという願いだったのである。これを聞いた弟子たちは、この二人に腹を立てたが(20:24)、それは、やはり他の弟子たちも「自分たちこそナンバー1」だと思っているからである。実はマタイの福音書はA.D.50年に成立したが、ヤコブはA.D.44年に殉教している。それを思うと、筆者マタイは人間の愚かさを書きたかったのであろう。

 第二に「主が飲もうとされる杯」について見ていきたい。イエス様は、この二人に「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか」(20:22)と尋ねられた。これはイエス様の十字架の犠牲の血を、神の新しい契約として受け止めるという意味である。たしかに、イエス様が言われるように弟子たちは、将来、イエス様の「杯を飲む」(20:23)ことになるが、この時点で弟子たちはその意味をまったく分かっていない。にもかかわらず、彼らは「できます」(20:22)と安易に答えている。でもイエス様は、その未完成なこの時点の信仰でも受け止めておられる。私たちの信仰生活も、実は分からないことばかりで的外れなことも多い。しかし神様は、その私たちの未熟な信仰でも受け止め、いずれ心が開かれることを願って導かれておられる。イエス様は、そんな愚かな願いをしたヤコブとヨハネたちの母にも、「わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです」(20:23)と、そこに深い神様の御心があると諭されている。神父ナウエン(Henri Jozef Machiel Nouwen)は著書『この杯を飲めますか』の中で、聖餐式における行動を「手に取る」(神様と個人的に関わる)「杯を持ち上げる」(恵みを受ける)「飲む」(全身で応答する)と解釈した。それがイエス様の「杯を飲む」ことである。

 第三に「人に使える働きに召されている」ことについて見ていきたい。そんな弟子たちにイエス様は、権力争いをする弟子たちのやり方は世の権力者や異邦人のやり方であり(20:25)、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい」(20:26-27)と諭された。私たちは権力者の好む「権力」「強い言葉」「横柄な態度」を捨てて、キリストの愛をもって人に仕える必要がある。自己中心的な私たちにはできないことだが、その自我を捨てて神様に拠り頼むことで、イエス様が示してくださった仕える愛を実践できるのである。

2023/10/01
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