秋山善久
更新日:5 日前
二四節季によれば小雪ということで、今朝は平野でも雪がふり始めました。日没が早くなって、その分だけ夜が長く感じられます。今日の日の入りは16時17分ですから、冬至と同じ時間になります。日が短いこの時期は、どうしてもメランコリーな気分になってしまいます。日照時間が減ると、脳内の精神物質に微妙に変化があらわれるとのこと。それによって鬱状態になるのをウィンターブルーと呼ぶのだそうです。それでも季節はめぐりめぐるもの。必ず春が来るので心配などしないのですが、人が造り出した闇だけは解決がなければならないと祈らされます。
リアルタイムで報道される戦争は、悪いニュースにあふれています。そのため、人々の叫び、悲嘆、慰めようのない悲しみに日常的に触れることになってしまう。この状況と、紀元前700年頃、預言者イザヤが発した言葉がオーバーラップします。「彼が地を見ると、見よ、苦難と暗闇、苦悩の闇、暗黒、追放された者」(イザヤ8:22)
戦争で心を病んだ兵士たちのことを「シェルショック」(砲弾病)と呼ぶようになったのは、第一次世界大戦が終わってからだということです。日本では、戦時に発生した神経症の総称として、戦争神経症という言葉が用いられてきました。けれども、今は戦争という異常な暴力が、情報として生活の中に押し入ってきてしまっている。そのような闇がひとりひとりの精神を蝕み、社会全体に悪い影響を及ぼしているような気がします。
今週の礼拝後にクリスマスツリーの飾り付けをしました。闇は深く、苦しみが増すばかり。そんな今だからこそ、イザヤが預言した「大きな光」(イザヤ9:2)であるキリストを伝えなければならないという思いを込めました。
秋山善久
あるとき、自分の水着の縫い目がほつれて、お尻に親指大ぐらいの穴が開いてるのを発見しました。そこで思い出したのが、一月ほど前、近くにある温水プールから出たときに、子どもたちや親たちの視線を感じたことです。誤解していたけれど、あれはバタフライを100メートル泳ぎきったことで注目されたんじゃない。「変なおやじがいるぞ」という警告の発信だったと確信し、急に恥ずかしさがこみあげてきました。かと言って生地が薄いので糸で繕うことはできそうもありません。それにしても買い替えるのはもったいない。そこで考えついたのが、耐水用の接着剤で継ぎ当てをすることです。ちょうど破れかかったザックがあったので、その内側の生地を切り取って、接着剤で補強してみたのです。これがなかなかいい感じです。あと1年は持つかもしれないです。
破れ口に立つとか、破れたものを繕うということが、元の意味を離れて特別な意味を持つことがあります。イスラエル史においては、「破れ」とか「破れ口」(ペレツ)は、神の恵みにも関わらず、その契約を破ってしまう不信仰の罪をあらわすものになっています。そこを神との関係によって修復する業が「破れ口に立つ」ということになります。破れたら買い替えるという発想では、思いつかない考え方かもしれません。
震災前から、一人の青年の破れ口に立たされるような出来事に関わってきました。社会の闇の深さから抜け出るためのもので、とても一人の力では太刀打ちできないし、恐れもあります。でも最近、不思議にも教派を越えて多くの仲間が結びつくネットワークができました。あるいはこれが破れ口には有効な働きをするかもしれません。
秋山善久
更新日:11月18日
記録的に気温が25度を超えたのは、ほんの二週間前のことでした。そのときには11月に夏日になったのが、宮城県内では観測史上初めてであると報道されました。あれから一気に季節が進んだ感じがします。先日まで青空に映えていた街路樹の銀杏が、昨日の強い雨に打たれてほとんど落葉してしまいました。教会の3本のハナミズキでさえ、わずかの葉を残して冬支度をしています。
人生を四季にたとえるなら、自分はとっくに冬になっていることに気がつきます。同年代の牧師の何人かが既に引退しているのをみると、そうした時期にいることを否定することができません。冬は収穫したものが熟成する季節。けれども心の内を深く探ってみると、失敗や挫折、苦悩といったものが、雨に濡れた落ち葉のように残っています。
スイスの精神科医トール・トルニエは、人生にとっての冬を、断片的、孤立的、また無意味と思えた過去の出来事が見えざる神の導きであったことを知る時期であると言っています。それは新しい永遠に向かっての信仰理解への道なのでしょう。
冬の中にあっては、いくら形勢が悪くても一発逆転のホームランを狙うことはできません。そんな時期はとっくに過ぎている。これからは、心の中でしこりとなっているものを、信仰的な理解の中で受け入れていきたいと思わされています。