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  • 執筆者の写真: 秋山善久
    秋山善久
  • 4 日前

 「見上げてごらん。夜の星を」

 こんな古い歌を口ずさみながら、宇宙のことを思い巡らすことがあります。子どもの頃から、星を眺めていることが好きでした。そんな中、最近、興味をそそられているのがブラックマターです。ブラックマターとは、天文学の理論のために考え出された、仮説上の物質のことで実態はわからないままでした。これが世間の注目を集めるようになったのは、2017年、アメリカの研究チームが、重力波を検出したことによります。重力派による光の屈折により、ブラックマターの存在が現実味を帯びてきたのです。そのときの研究チームは、この業績によりノーベル賞を受賞しています。今では、宇宙の中でブラックマターが占める割合が、目に見える物質の5陪とも言われれています。

 旧約聖書のヨブ記に「あなたはすばるの鎖を結ぶことができるか。オリオン座の綱を解くことができるか」(38:31)という御言葉があります。それは神の全能に比べ、人の知識が如何に限られたものであるか、という文脈で語られたものです。古代には星と星を結ぶものとは想像もつかないことだったでしょう。近代の知識をもってすれば、あるいは重力の可能性をあげることができるかもしれません。それにしても、オリオンの三星は千光年も離れていて、とても綱にも鎖にもなれそうにない。そんなことを考えていたとき、ひょっとするとブラックエネルギーが働いているのかもしれないと思い付きました。もちろん、何の裏付けもありません。でも、そんな風に考えると、宇宙への見方も、そして聖書への理解も広がってくるような気がいたします。

  • 執筆者の写真: 秋山善久
    秋山善久
  • 10月4日

 今週、当教団の木谷信三牧先生が天に召されました。84歳まで現役を務め、今年から支援教師として後進の指導に回った矢先のことです。木谷先生は、目標を定めてそれを着実に実行する人でした。そこにどんなに困難があっても、信仰によって乗り越える大胆さがあります。そうした信仰の源泉になったのが、熱心な祈りであったと私は思っています。私が飛騨の教会で牧師をしたとき、前任牧師であったのが木谷先生でした。引き継ぎで見せていただいたのは、ひとりひとりの祈りの課題をカードにしたものです。特別伝道集会のときには、祈りの聖火というのを作って、信徒間でバトンタッチしていたと聞きました。

 あるとき、車でご一緒させていただいたときには、先生は運転しながら祈り始めたのでした。もちろん目を開いてのことではありますが、ハンドルを握りながら声をあげて祈っているのです。助手席にいた私は、「大丈夫ですか」と声をかけることもできなく、心を強く打たれたことが印象に残っています。

 ヨシュア記に、信仰の人としてカレブのことが書いてあります。カレブは85歳を過ぎてからも、主がヨシュアに約束した地を求めて「主があの日に語られたこの山地を私にください」(14:12)と主に願ったのです。木谷先生には、そんな信仰による情熱が最後まで沸き立っていたように思います。

 先日、自転車で外に出かけたときに転倒し、その後、体調が思わしくなかったとのことです。病院で調べてもらったところ、癌の末期であることがわかったのですが、それから一か月足らずで主に召されるとは、誰も考えもしないことでした。けれども、主は、木谷先生の働きをもう十分であると認めてくださったのでしょう。地上的な思いからすれば、もう少し時間がほしかったように感じても、主の時計は既に延長されていたのです。そして、その与えられた時間を福音宣教のために使い切った。それが何よりも大きな主の恵みであるように思います。

  • 執筆者の写真: 秋山善久
    秋山善久
  • 9月27日

 自分の人生を振り返ってみるとき、二十歳のころ、何げなく立ち寄った町の本屋で、一冊の本を手にしたことが転換点であったように思います。それは、亀井勝一郎という文芸評論家による「読書論」という文庫本でした。今でも覚えているのは、日本人の無神論について触れられていた箇所です。

 「多くの人は無神論者ぶっているけれど、実際には無関心者であるだけだ。無神論というのは、魂の激しい葛藤を要するものである」というようなことが、強い調子で書いてあったのです。

 当時の私は、その無神論者ぶって無軌道な生活をしていました。社会という大きな歯車に巻き込まれるのを嫌って、何にでも反抗的な態度を示していたのです。それがかっこうよくて、自由である。無責任で、あまりに軽い言い方ではありますが、1970年代の社会には、どこかにそんな雰囲気がありました。いや、勝手な思い込みです。

 それにしても亀井勝一郎の言葉は、そのような私の生き方を根底から覆すインパクトとして迫ってきました。もし彼がキリスト者だったなら、いつものように鼻で笑って気にもとめなかったに違いありません。でも亀井勝一郎は倉田百三を師と仰ぐ、真面目な仏教徒であることを知っていました。倉田百三の「出家とその弟子」という本を読んだばかりだったからです。それだけに、無闇に反発できないものを感じたのです。

「そういわれればそうだなあ、友人に聖書って馬鹿くさいといってしまったけど、まともに読んだことはないんだよなあ」

 狭い寮の一室で、ポカンとそんなことを考えていると、行き詰っている自分の姿が脳裏にめぐっているのです。それが牧師への道に繋がるとは、夢にも思わないことでした。

 

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