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  • 執筆者の写真秋山善久

 新芽の多彩な緑に囲まれた森林公園の東屋で、残酷なまでにのたうち回っている格闘を目にしました。体格だけを比べたらまるで違うのに、盛んに足を動かしている黒く小さい方が圧倒的に有利な戦い。大きい方は、敵の硬い鎧のような体からはみ出た鋭い歯にその柔らかく白い腹を嚙みつかれ、為す術もなく引きずられていました。痛みに耐えるように体をくねらせながら執拗な攻撃をかわしている。その哀れさはこの上ないもので、力の差は歴然としています。獲物に食らいついた方は、勝利感を漂わせながら必死に根城の穴に運び込もうとしているようでした。途中から仲間が加わったのですが、経験不足で処理のしようがわからないのか、行動がまちまちで一向に協力体制が整わないという風です。そんなところを小鳥に見つかってしまい、虫も蟻も一瞬のうちに小鳥についばまれて、白昼繰り広げられたこのドラマは終わりとなりました。

 今の季節、自然の営みの中にいのちの根源に触れるような出来事が、あらゆるところで展開しているようです。卵から孵った幼虫が繭を作り、それが蝶となって飛び立つというのも何と不思議なことでしょう。生物学的には蝶は完全変態と言われます。トンボなどの不完全変態と違って幼虫と成虫では姿も各器官tも全く違っている。よく考えてみれば、これ程に変化するものかと思ってしまう程です。そのプロセスは科学的に未だに解明されていません。小さな虫の中に人知を遥かに超えたことが起きるとすれば、創造者が人を新しくされることに、疑いを挟む余地はないように思うのです。

  • 執筆者の写真秋山善久

 初めて地動説を唱えたコペルニクス。根本的に考え方を新しくすることを表現するのにコペルニクス的転回という言葉が使われてきました。少しきざな感じがしますが、相手に考え方が大きく変わったことを納得してもらうのにこれ以上の表現はないような気がします。

 20代の初めにキリスト教信仰をもったとき、それまでの世界観が大きく変わったような感覚がありました。教会からの帰り道、住宅街にあるすべての風景が輝いてみえたのでした。そのときは幸福感に満たされながら「どうして聖書の言葉を信じることを堅く拒絶していたのだろう」と不思議に思ったのでした。それは半世紀が過ぎた今も変わりません。

 最近、ある宗教の方々とお交わりの機会が与えられ、その関係の本をいくつか読みました。そこにはキリスト教に対する批判も書いてあります。少し古いものなので、今はどうなのか知りませんが、キリスト教について「救われない宗教」とありました。生活の苦悩を説明するだけで、現実の生活を変える力がないというのです。彼岸と此岸という世界の中では、キリスト教は彼岸(あの世)ばかりみていて、此岸(現世)は変えようとしていない、それについては諦めていると。

 私からすれば、それはそれでコペルニクス的な転回でありました。逆にどうしてそんなふうに結論付けられたのだろうと思うのです。ただし歴史を振り返ってみるならば、そのような批判を受けなければならないことが散在しているので、言い訳もできないだろうという気がしないでもない。そうしたことを踏まえながら、互いに批判し合うのではなく、共に聖書を学び合う関係ができていることを感謝しています。それがどのような方向に向かうか予想はつかないのですが、真理が道を分けることになるだろうと思います。内容は違っても、どちらも真理が基礎に置かれ、それが希望に繋がっているからです。

  • 執筆者の写真秋山善久

 いつも行く図書館の貸し出し口で、職員の大きな声がしていました。目を向けると、白髪の男性がコピー機の使い方を聞いているのです。

 「いくらですか」と男性。若い職員が「10円です」と面倒くさそうに答える。するとまた「いくらですか」と聞き返す。「10円です」「え?100円」周りが少しざわついて、「あほか」という小さな声が聞こえてきました。男性は軽い認知症を患っているのかも知れません。今言われたことを理解できなかったり、すぐに忘れてしまっているからです。身なりと言葉遣いは、社会で活躍された時期があったことを思わせます。それが邪魔者のように扱われている。悲しいことですが、そうした状況を回りがどのように受け止めるかということが問題なのでしょう。

 そんなことを考えていたとき、宗教における聖と俗のことが頭に浮かびました。たとえば旧約聖書のレビ記においては、食べていい動物と食べてはならない動物があります。牛や羊は食べてはいいけれど、豚は汚れているので食べてはならないとされます。言うまでもなく、キリスト教信仰において食べ物の制限はありません。ですからこれらは旧約の時代に限定された戒めです。ただし神との関係において聖と俗の区別がされているのです。俗の世界を現世とすれば、現世は聖なるものと俗なるものが混在している。それを見分けて生活するのに、人間の意思や論理だけを優先させてしまってはならないのです。それをすると聖なるものを侵害してしまうからでした。

 現代のように社会的な価値を効率だけで推し量ると、高齢者や障がい者、あるいは弱い者がどんどん外に押し遣られてしまう。結果として快適さはあっても、非人間的な社会になってしまうのではないかが心配です。だから聖なる方の意思が尊重されなければならない。人間の尊厳を守るというのはそうしたことではないかと思いました。

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