読んで聞かせたい聖書の話

 

​ キリスト教に関わるほっこりとしたお話や希望が持てるお話など、思わず誰かに話してみたいお話を集めた不定期連載です。お楽しみに。

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召天者記念礼拝
コスモス

註:仙台のぞみ教会、現在、新改訳聖書(2017年版)を公式聖書にしており、以下の記事内の引用もそれに基づいています。しかし「とりあえず聖書を見てみたい」という方は、上の「ネットで読める聖書」のボタンをご利用してください。「Bible.com」の「口語訳聖書」にリンクしています。この「口語訳聖書」は著作権が切れておりますのでネットで全文が読めるのですが、その特徴や問題点、これに対する新改訳聖書の位置づけなどは、上記「はじめての聖書選び」をお読みください。

わたしの弟子とは:ジャン・バルジャン(その2)(Yさん2021.07.23UP NEW 
 

 19世紀の作家ヴィクトル・ユゴーの小説『レ・ミゼラブル』の主人公ジャン・バルジャンは、1796年にフランスのブリ―地方にあるファヴロールという村の貧しい農家に生まれた設定になっています。彼は貧しく文字も教えてもらえないような環境で育ち、長じてはファヴロールの果樹選定人となりました。幼いころに両親を亡くしてからは、ずっと年上の姉が彼を引き取り育てていましたが、ジャンが25歳のときに姉の夫がなくなりました。その時に姉には8歳から1歳までの7人の子どもがいました。彼は、今度は姉と7人の甥や姪のために父親代わりとなって精いっぱい働きましたが、厳しい冬の農閑期になると仕事がなくなり、一家には本当にパン一切れもない状態になってしまいました。ある日曜の番にパン屋に行ったジャンは、1本のパンについ手を出してしまって捕まり、5年間、監獄に入れられることとなりました。収監中も姉の子どもたちのことを思うと、いてもたってもいられずに何度も脱獄と抵抗を繰り返してしまいます。たった1本のパンを盗んだ罪(実際は密漁と器物破損も加わり)をはじまりに、脱獄を繰り返すジャンは、トゥローンの徒刑場(裁判の結果有罪になった人が刑罰として入る牢屋)に計19年も服役して、1815年の10月、46歳の時にようやく赦免されます。泣きながら監獄には行ったジャンは、監獄から放免されたときには、まったくものを感じないすねた人間となって出て来たのです。

 刑は終えたものの元囚人としていく先々で冷遇され、あてどなく街をさ迷い歩いて宿を捜し求めても、宿にすらありつけません。皆が、憎悪にゆがんだ彼の顔を見て恐れます。ところがディーニュという田舎町で、寝る場所がなくてとぼとぼと歩き、夕暮れになって寒いのでうずくまっていた時に、ある一人の女性が「向かいの教会堂の司教館に行ってご覧なさい。76歳のディーニュのミリエル司教という方は、神の人と呼ばれるような優しいお方だから、あるいは泊めてくださるかも知れないよ。」というので、ジャンは司教館を訪れることにしました。司教は、みすぼらしいジャンの身なりを気にかけることなく、温かく迎い入れました。そして、財産らしい財産のなかった司教は、とっておきの高価な銀の皿や燭台を持って来てジャンと晩餐をともにし、もてなしました。ジャンが「私はこういうものです」と刑を終えた証明書を見せると司祭は言いました。「あなたは悲しみの場所から出てこられた。だが、お聞きなさい。百人の正しい人の白夜よりも、悔い改めたひとりの罪人の、涙にぬれた顔のほうを、神さまはずっと喜ばれるでしょう。もしあなたが、そのいたましい場所から、人間に対する憎しみと怒りをもって出てこられるならば、あなたはあわれざるべき人です。しかし、もしそこから人間に対する愛と、やわらぎの心と英和の思想をもってでてこられるならば、あなたは、われわれのだれよりも勝ったかたです。」(ヴィクトル・ユーゴー、豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』岩波書店、1987年、47ページ)。ジャンにとっては夢のようなひと時でした。

 司教館のベッドに泊まらせてもらったジャンは、夜中に目が覚めると「また今日も監獄か」と思い、温かいベッドにいるのが夢のように感じられ、次第に前夜の楽しかった経験を思い出してきました。そして、その晩餐に使われていた6組の銀食器や燭台のことを思い出してきました。彼は考えます。「今どき、べらぼうな金になる。あれを持ち逃げしたら…」と思い始めると、もう止まらなくなりました。そして、こっそりミリエル司教の部屋に入り、銀食器をもち出します。そして街を歩いていると、あまりの身なりに不審者と思われて憲兵に尋問を受け、持ち物の中にミリエル司教の銀食器があったため捕まり、司教のところに連れ戻されました。しかし司教は、ジャン・バルジャンを見ながら「食器は私がお土産に与えた」と憲兵に彼を放免させ、あろうことか残りの唯一の財産であった銀の燭台も「どうして持っていくのをお忘れになったのか」と彼に差し出したのでした。ジャンは驚きのあまり身体の震えが止まらず、ぼうぜんとしながら2つの燭台を受け取りました。そんなジャンに司教は「無事に行きなさい」「ついでに言っておくが、こんどおいでになる時には、庭の方からまわってこられるにはおよびません。いつでも表の戸口から出は入りなすってよろしい。戸口は昼も夜もかけがねてしめてあるきりです」と言いました。そして「ジャン・ヴァルジャン、私の兄弟。貴方は、そう悪の者でない。善の世界に生きる者です。私は、貴方のために、貴方の魂を贖っているのです。私は、貴方の魂を暗い思想や、破滅の精神からひき出して、それを神にささげるのです。」(ヴィクトル・ユーゴー、豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』岩波書店、1987年、57ページ)。

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​岩波版(豊島訳)の『レ・ミゼラブル』

わたしの弟子とは:ジャン・バルジャン(その1)(Yさん2021.07.17 UP 
 

 仮庵の祭りも住んで地方からエルサレムに出てきた人々は去り、エルサレムは再び静かになりました。しかし祭りがすんでも地元へは帰らず、イエス様のもとに留まった人たちもいた。

 

 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら本当にわたしの弟子です。」(ヨハネの福音書8章31節)

 

 この聖句は、真の弟子の在り方を語られた大切なイエス様の言葉です。この中の「わたしのことばにとどまるなら」の「とどまる」は、ギリシア語で「メノー(μένω)」は「宿る」「合一する」という意味もあり、ヨハネの福音書で多く使われています。これについてさらに説明を加えるために、このような讃美歌を参照してみましょう。

 

 日くれて四方(よも)はくらく

 わがたましいはいとさびし

 よるべなき身のたよる

 主よ、ともに宿りませ

 

 この讃美歌は、もともと1847年に英語でつくられたものですが、この「ともに宿りませ」は、英語の讃美歌のタイトルともなっている「Abide with me」です。「abide」は小鳥が巣に宿る時にも使う言葉です。私の家の前は大きな森林公園で、電話で話している時に相手方に小鳥の声が聞こえるのか、よく「小鳥を飼っているの?」と聞かれることがあります。実際には小鳥は飼っていないのですが、特に春先などは鳥のさえずるにぎやかな声が聞こえて来てなごみます。小鳥は巣ごもりし、巣の中に留まっていなければ安心して眠ることもできません、また雛が孵ると、ひな鳥たちはエサを運ぶ親鳥の声を聴いて喜びます。また家の中で幼子が「お母さん」と呼べば、「はい!」と答える母親のことばが聞こえてこそ、安心が得られます。それと同じように、何か問題が起こって「どうしよう」とつぶやいたら神様はいつも答えてくださる安心感があります。そんな神様と密接な関係にある人こそ真の弟子ではないでしょうか。寝ても覚めてもイエス様のことばを聞き、そのことばに留まる真の弟子の生き方とは不自由なものではありません。ひな鳥が安心して巣に眠り、幼子が母親のことばに安心するように、イエス様のことばに安らぎと喜びをおぼえる生活なのです。

 人間は本来、創造されたときはよき存在でありました。しかし、罪のゆえに理性や教養を無視するようなふるまいをするようになりました。だから、いくら教養がある方でも、紳士の顔をしていても、一皮むけばオオカミとなるような罪ゆえの抑えがたい衝動も内に持っています。それが人間の本質です。私が若いころに読んだ19世紀の作家ヴィクトル・ユゴーの小説『レ・ミゼラブル』の主人公ジャン・バルジャンを思い起こします。彼はパン一切れを盗んだことをきっかけに、結果として19年間の監獄生活を送ることになりました。この小説は、その彼の生涯を描いた作品です。まさしくタイトル通り「レ・ミゼラブル(悲惨な、哀れな)」です。しかし、なぜパン一切れのためにそうなったのでしょうか。実際、ユゴーの生きた19世紀当時は、パン一切れを盗んだために身を滅ぼした民衆もいました。その頃の労働者は、一時間働いてもバケット(フランスの細長いパン)二本を買うこともできないほど貧しかったそうです。女性の場合、若い女性の働き口はお手伝いさんやお針子さんぐらいしかありませんでした。死なないでいるのがやっとというような生活だったのです。なんだか戦前の私たちの生活を思い出すようで切なくなります。

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​『レ・ミゼラブル』の作者ヴィクトル・ユゴー

八木重吉(その4)(Yさん2021.07.06 UP
 

 夫・重吉、娘・桃子の二人を亡くしたとみは、唯一残された陽二の成人する日を夢見て、毎日を耐え忍びつつ生きていました。ところが、桃子が逝ってから三年後の1940(昭和15)年7月9日、その陽二も召天してしまいました。原因は、夫・重吉、娘・桃子と同じ結核でした。悲しみの中にあったとみは、重吉の遺稿を整理して高村光太郎、三ツ村繁蔵、草野心平らの助力により、1942(昭和17)年に山雅房から『八木重吉詩集』を限定500部で刊行し三人の墓前に捧げています。とみは、その前年の1941(昭和16)年に池袋の家を引き払って茅ケ崎に引っ越し、かつて重吉が療養をした結核療養所・南湖院の事務員として四年間を過ごします。そして鎌倉に住む吉野英雄と出会うことになります。

 吉野英雄はアララギ派の詩人で、1944(昭和19)年の8月に長年連れ添った妻・はつを亡くし二男二女の子どもを抱えていました。とみの姪が吉野の実兄の下で働いていたことから、吉野家のお手伝いを頼まれて12月から働き始めました。関は、その時のとみの様子を次のように書いています。「十二月二五日、とみ子は大きなバスケット一個をだいじそうにかかえて吉野宅にきたのである。バスケットのなかみには、重吉の原稿がいっぱいつまっていて、自分の持ち物はひとつもなかった」(関茂『八木重吉―詩と生涯と信仰―』新教出版社、1965年、111ページ)。戦中戦後のつらい時期をともに過ごしてひかれあった二人は、1947(昭和22)年10月26日にささやかな結婚式をあげます。

 同年の夏ごろ、病気の吉野英雄を見舞いに来た創元社・取締役でもあった評論家の小林秀雄が、吉野がとみから贈られて枕元にあった山雅房版の『八木重吉詩集』に触れてその価値を見出し、これがきっかけとなって1948(昭和23)年3月1日に創元社版の『八木重吉詩集』が刊行されます。これにより八木重吉の詩は広く名声を得ることになりました。これ以降、『神を呼ばう』(新教出版、1950年)、吉野英雄の家族全員が協力して出版した『定本 八木重吉詩集』(彌生書房、1958年)、新発見の「秋の瞳」などの原稿を加えた『<新資料 八木重吉詩稿>花と空と祈り』(彌生書房、1959年)、そして『八木重吉全集(全三巻)』(筑摩書房、1982年)(ちくま文庫版、1988年)などが刊行されていきます。なお筑摩書房版からは、2000(平成12)年に全四巻からなる『八木重吉全集(増補改訂版)』が出されています。さらに1984(昭和59)年には、八木重吉の生まれ故郷である現在の東京都町田市相原町に生家の土蔵を改造した「八木重吉記念館」が開設され、これを契機に重吉の命日である10月26日が「茶の花忌」として記念されるようになりました。とみは1999(平成11)年2月12日で天に召されました。没後は吉野英雄の遺言もあって分骨され、重吉、桃子、陽二の墓のとなりにもともの墓が建立されました。八木重吉の詩は短いのが特徴で、人生の目標をイエス・キリストの救いにまっすぐに置いた「信仰の詩」だったのです

 

  聖書

 この聖書(よいほん)のことばを

 うちがわからみいりたいものだ

 ひとつひとつのことばを

 わたしのからだや手や足を

 鼻や耳やそして眼のようにかんじたいものだ

 ことばのうちがわへはいりこみたい

 (関茂『八木重吉―詩と生涯と信仰―』新教出版社、1965年、146ページ)

 

  基督

 神はどこにいるのか 基督がしっている

 人間はどうして救われるのか

 全力をつくしても人間は救われはしない

 基督をいま生きていると信ずることだ

 (関茂『八木重吉―詩と生涯と信仰―』新教出版社、1965年、169ページ)

 

  無題

 捨つるにあたわず

 ついに 捨つるにあたわず

 われ 妻と子を まず 愛さん

 これもまた煩悩ならば

 われ いのちのみちに 咲く花はあらじとおもう

 (関茂『八木重吉―詩と生涯と信仰―』新教出版社、1965年、186~187ページ)

 

 妻子を愛し、隣人を愛し、自分を活かしつつイエス・キリストを信じている。そんな重吉の生きざまは、平凡だが大いなる校庭の日々を送るキリスト者の姿そのものではないでしょうか。重吉は「ボロボロになるくらい聖書を読んだ。どこを開けても、ページは書き込みや傍線でいっぱいであった」(関茂『八木重吉―詩と生涯と信仰―』新教出版社、1965年、161ページ)と言います。私は、そこに重吉の信仰とともに、素朴で、誠実で清らかな人柄を感じずにはいられません。根のない花は枯れます。天の父なる神様のところに根を張るのでなければ、私たちの愛はすぐに枯れてしまいます。

 

  きりすとを おもいたい

 きりすとを おもいたい

 いっぽんの木のようにおもいたい

 ながれのようにおもいたい

 (八木重吉『貧しき信徒』新教出版社 1958年、74ページ)

 

  無題

 長い命でないとおもえば

 これから一生懸命

 力をつくして

 神様を信じ

 人を愛していこう

 (関茂『八木重吉―詩と生涯と信仰―』新教出版社、1965年、202ページ)

 

 八木重吉の美しい詩は、人々の心を美しくせずにはいられません。どの詩を読んでも、私は心が癒され、感銘を受けます。重吉の信仰に一歩でも近づくことを、願ってやみません。

 

彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています。(へブル人への手紙11章4節)

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八木重吉『貧しき信徒』新教出版社、1958年。

八木重吉(その3)(Yさん2021.07.03 UP New 
 

 1923(大正12)年5月26日、重吉ととみの間には長女・桃子が誕生しました。若い父・重吉は娘の誕生が嬉しく、その瞳のいちずな美しさに魅入られていました。重吉は、赤ん坊の眼の美しさについての詩を何本か書いています。

 

  子どもの目

桃子の眼はすんで

まっすぐにものを見る

羨ましくってしかたが無い

(関茂『八木重吉―詩と生涯と信仰―』新教出版社、1965年、47ページ)

 

 さらに翌1924(大正13)年12月29日(昔のことなので翌年の1月1日誕生と戸籍に記した)に長男・陽二が誕生します。重吉は兵庫県の御影師範学校時代に1,800編近い詩を書き残しました。

 1925(大正14)年3月に千葉県東葛飾郡千代田村(現在の千葉県柏市)にある東葛飾中学校の英語教員として転任します。名目上は御影師範学校を3月15日に退任し、3月31日にづけで千葉県女子師範学校訓導兼東葛飾中学校託職(正式に東葛飾中学校の教員となったのは1年後の2月15日)となったのですが、この年度途中の急な転任は病気になった祖父への気遣いからであったと言われています。この年の8月に新潮社から処女詩集『秋の瞳』が刊行されると、重吉の詩は詩壇から高く評価され、新聞にも掲載されることとなりました。

 ところが1926(大正15/昭和元)年の年初から重吉は体調を崩し、2月には病で寝込むこととなりました。当初は「風邪」という診断でしたが、病状が思わしくないとことから東京の大きな病院で検査をすると「結核の第二期」という診断でした。そこで5月から学校を休職して、診断を受けた東洋内科医院の分院である神奈川県茅ケ崎にあった南湖院で療養生活に入ることになりました。とみは当初、千葉県の柏から茅ケ崎に通っていましたが、重吉の要望もあり7月から神奈川県高座郡茅ヶ崎町(現在の茅ケ崎市)の十間坂の借家に一家で転居することとなりました。同時に重吉も自宅療養に入りました。重吉は自宅で東洋内科医院の副院長の往診を受けながら療養していましたが、病状は一進一退でした。そして1927(昭和2)年10月に病状が悪化し、26日には茅ケ崎の自宅で29歳の若さで天に召されることとなりました。この時、とみは23歳。若い未亡人のもとには4歳5か月の長女・桃子と、2歳半の長男・陽二が遺されました。その後の家族の苦労を、関は次のように書いています。「生きることは、それ自体苦渋に満ちたあがきに似ている。少なくとも幼い二児をかかえたとみ子にとってはそうだった。重吉没後、とみ子はミシン一台にしがみついて内職にはげむこと一年、ついに自宅にほど近い大塚の白木屋支店に店員として勤務する。まじめで同僚おもいのとみ子は、だれからも愛され、やがて日本橋本店へとまわされる。この間一〇年、世相も満州事変から日支事変へと変転を極めた。無我夢中―そうとしかいいようがなかった。若い未亡人に再婚をすすめる声がなかったわけではない。だが、とみ子の目には、重吉の幼い遺児ふたりのほかにはなにもうつらなかった。桃子と陽二の養育だけが自分の生涯と思いつめていたのである」(関茂『八木重吉―詩と生涯と信仰―』新教出版社、1965年、94~95ページ)。やがて桃子は、母・とみと同じ女子聖学院の中等部に入学します。そして、一年生の時に次のような作文を書いています。

 

  お母様

 夜の九時半といえば、この辺はひっそりとしずまりかえって、時々人々の足音が聞こえるだけ。もうお母様のお帰りになる頃だ。私は耳をすまして、お母様の足音を聞こうとして、待ち続けている。お父様のおなくなりになった時、お母様は未だ二三歳のお若い頃、今年でちょうど一〇年目だったといいます。「二人の子供を、よきクリスチャンにしてくれ」とのお父様の遺言を一心に守って、私と弟をこれまで育ててくださいました。朝の九時から夜の九時まで、十二時間のお務めは、普通より弱いお母様のお体には随分御無理なので、時々御病気になって、五日、一週間と床に就いておしまいになります。とてもお疲れになって淋しいお顔を見る時、私は早く大きくなって、いつもお母様のおっしゃる、優しくて強い人になり、御安心していただきたいとお祈り致します。(後略)

(関茂『八木重吉―詩と生涯と信仰―』新教出版社、1965年、95~96ページ)

 

 何も頼るべきもののないこの親子の生活が、それでも明るく感じられるのは、イエス・キリストへの信仰があったからではないでしょうか。経済的には貧しくても、この親子には一番大切なものがあったのだといえます。

 ところが、1937(昭和12)年12月29日に、この長女・桃子が15歳という若さで、父・重吉と同じ結核という病で天に召されます。夫亡き後、子どもを守り育てることに生涯をささげていた母・とみの嘆きはいかばかりだったでしょうか。また、突如として姉を失った13歳の弟の陽二は、姉の死後数日を立たずして次のような詩を書きました。

 

 ねえさんは僕はうれしいよ/病気の中でもしたがきを/書いてくれた心持。/ふだんもやさしいねえさんが/どうしてくるしみ死ねましょう。/死んだあとにもほめられて/ねえさんほんもうわれうれし。/くる人くる人ねえさんの/てがらばなしでうずもれる/かげできいてるわたくしは/うれしさあまり泣きました。/ねえさん死んだ其の顔は/信仰もって居たせいか/ほほえみ顔でありました。/かそうばの中へいれちゃって/さぞかしあついでございましょう。/ねえさんいつもにこやかに/きもちのよい時わらってた/母さんよろこびゃ、ねえさんも/いっしょにえがおをしていたね。/ねえさんえらいよ世界一/やさしいきれいなねえさんよ。

(関茂『八木重吉―詩と生涯と信仰―』新教出版社、1965年、97~99ページ)

 

 夫・重吉、娘・桃子の二人をなくしたとみにとって、陽二の成人する日を夢見て、毎日を耐え忍びつつ生きていくほかありませんでした。私の祖母も9人の子供を育てるため掛け持ちで仕事をしていました。この話を書きながら、母を思い出し、祖母の苦労を思い、私は思わず泣いてしまいました。

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八木重吉の遺された家族(左から長男・陽二、長女・桃子、妻・とみ)(関茂『八木重吉―詩と生涯と信仰―』新教出版社、1965年、口絵写真より)

八木重吉(その2)(Yさん2021.06.26 UP
 

 このような経緯で、島田とみは一週間、八木重吉のもとに通うことになりました。重吉の家庭教師が良かったのか、とみは四人が合格した女子聖学院への編入試験に一番で合格することができました。一方、重吉は東京高等師範学校英文科の卒業式をすませ、兵庫県の御影師範学校(現在の神戸大学国際教養学部)への赴任が決まっていました。そして赴任後しばらくした頃、とみは重吉からの手紙を受け取り、その後、頻繁に手紙のやり取りをするようになりました。そして「その年の夏、とみ子は、いつになく分厚い封筒を受けとった。急いで開けた文面は、あなたが忘れられなくなってしまったという、重吉のひたむきな愛の告白…とみ子の胸はふるえた。なにをどうしたらいいかわからなかった。」(関茂『八木重吉―詩と生涯と信仰―』新教出版社、1965年、37ページ)という。しかし重吉の思いは募るばかりで、とみを誰かに取られはしないかと焦りが増すばかりでした。

 しかし八木家の長兄政三は恋愛結婚には反対で、しかたなく重吉は高等師範学校の先輩である内藤卯三郎に相談することになりました。はじめは驚いた内藤卯三郎も、とみの兄・島田慶治の理解を得るために説得し、1922(大正10)年の12月に内藤の立会いのもと、重吉はとみとともに、兄・慶治と東京芝公園のある掛け茶屋で合うことができ結婚の承諾を得ることができました。そこで「婚約は、翌一一年一月、そして結婚式は二年後と決まった。重吉は大いに安心して御影へ帰って行った。」(関茂『八木重吉―詩と生涯と信仰―』新教出版社、1965年、39ページ)。ところが1923(大正11)年5月にとみが肋膜炎にかかると、重吉は急いで東京に来て「自分が教育しながらなおしてあげる」と彼女や兄・慶治を説得し、こうして夏休みに入った7月19日、女子聖学院を4年で中退したとみと内藤卯三郎立会のもとに形ばかりの結婚式をあげ、兵庫県武庫郡御影町(現在の神戸市東灘区)石屋川の借家で新婚生活を送りはじめました。この時、重吉が25歳、とみが18歳でした。「とにかく、なにがほほえましいといって、にわかに誕生した八木重吉夫妻の姿ほどほほえましく愛らしいものはなかった。丸刈り小柄の重吉に、まだ女学生そのものといってよいとみ子、こういうふたりが、ささやかながら一家をかまえたのである。」(関茂『八木重吉―詩と生涯と信仰―』新教出版社、1965年、39~40ページ)。関によると彼らの新婚の地・御影は「左右に神戸と芦屋をひかえた静かな町である。背後に六甲山を仰ぎ、前に大阪湾と和歌山を展望した、気候・風土・人情ともに温和で恵まれた住宅地である。」(関茂『八木重吉―詩と生涯と信仰―』新教出版社、1965年、40ページ)ということである。そして「温暖なこのあたりは、ときおり、あるかなきかの雨がふいにおとずれては去った。六甲のもとからいただきにかけて、きれいな虹がかかるのはそんなときである。」(関茂『八木重吉―詩と生涯と信仰―』新教出版社、1965年、41ページ)

 

  虹

この虹をみる わたしと ちさい妻

やすやすと この虹を讃めうる

わたしら二人 きょうのさいわいのおおきさ

 

 二人の新婚生活は幸福で満ちあふれていました。学校の同僚にも恵まれ、教師としての信認は高まり、二人の愛の結晶の誕生も近づいていました。(つづく)

六甲にかかる虹

八木重吉(その1)(Yさん2021.06.25 UP
 

 ゆるし

神のごとくゆるしたい

ひとが投ぐるにくしみをむねにあたため

花のようになったならば神のまへにささげた

(八木重吉『貧しき信徒』新教出版社、1958年、96ページ)

 

 私の詩

[私の詩をよんでくださる方へささぐ]

裸になってとびだし

基督(キリスト)のあしもとにひざまづきたい

しかしわたしには妻と子があります

すてることができるだけ捨てます

けれど妻と子をすてることはできない

永劫の罪もくゆるところではない

ここに私の詩があります

これが私の贖(あがない)である

これらは必ずひとつびとつ十字架を背負うてゐる

これらはわたしの血をあびてゐる

手をふれることもできぬほど淡々しくみえても

かならずあなたの肺腑へくひさがって涙をながす

 (八木重吉『貧しき信徒』新教出版社、1958年、65ページ)

 

きりすと

われにありとおもふはやすいが

われみづから

きりすとにありと

ほのかにてもかんずるまでのとほかりしみちよ

きりすとがわたしをだいてゐてくれる

わたしのあしもとにわたしがある

(八木重吉『貧しき信徒』新教出版社、1958年、74~75ページ)

 

 八木重吉はわたしの尊敬する詩人であり、素朴で親しみを感じる詩人です。

 重吉(1898年2月9日~1929年10月26日)は、1989(明治31)年に東京府多摩郡堺村(現在の東京都町田市相原町)で、父・藤三郎、母・つたの次男として生まれました。成果は代々農業を営んでおり、重吉は三男二女の次男でした。父の代には雇人もいた自作農で、重吉の家は村でも暮らし向きは良い方でした。重吉は、物静かな口数の少ないおとなしいお坊ちゃんだったといいます。

1912(明治45)年、隣村の神奈川県津久井郡(現在の相模原市)にあった川尻尋常小学校の高等科を卒業後は、鎌倉にあった全寮制の神奈川県師範学校の予備科(1年)に入学し、本科第一部(4年)と合わせて五年間の寮生活を送りました。重吉は、予備科の時代から英語において頭角を現していました。1917(大正6)年には、東京高等師範学校の文化第三部英語科予科に進学しました。このころ重吉は、クリスチャンの思想家・詩人である北村透谷に傾倒し、また同級生のクリスチャン吉田不二雄と親交を深める中で教会のバイブルクラスにも通うようになりました。1919(大正8)年には、自宅で駒込基督会を運営していた富永徳磨から洗礼を受けました。

一方、後に八木重吉の妻となる島田とみとの出会いは、以下のようなものだったといいます。「島田とみ子は新潟県高田の生まれである。四人兄弟(兄一人、姉二人)の末っ子だった。上京したのが一三のとき。はじめは、麻布にいた兄のところに身を寄せ、のちに池袋にいた姉と同居して、滝野川の女子聖学院に通学していた。このとみ子も病弱であった。白く美しい顔が、ときに青いまでにすきとおることがあった」(関茂『八木重吉―詩と生涯と信仰―』新教出版社、1965年、35ページ)。病弱のため休学しがちであったとみが、一念発起して、女子聖学院の高等部三年級への編入試験を受けようとしました。そこで、八木重吉と同居していた三人のうちの別の友人を家庭教師に頼って来て、重吉を紹介されたのが二人の初対面でした。「重吉はすでに前年の春から高師(本エッセイ作成者注:東京高等師範学校のこと)の学寮を出て(中略)友人三人とともに同居自炊の生活を送っていた。そこへ、和服にハカマという美しいいでたちのとみ子が訪れたのである。高師の学生さんに、受験のための英語と数学を見てもらいたいというのが彼女の願いだった。」「とみ子のいた池袋一丁目の姉の家から重吉の下宿までは近かった。ふたりは初対面であった」「とみ子はもってきた風呂敷包みから教科書とノートをとり出すと、正座して重吉に相対した。」「ほおに血がのぼり、はずかしくてならなかった。」「彼女は、ただうつむいたまま、目の前に広げられた教科書ばかりを見つめていた。英語をテキパキと訳読し、文法的指示をあたえ、数学の解法をわかりやすく説明する重吉の声は、美しくすきとおっていた。」(関茂『八木重吉―詩と生涯と信仰―』新教出版社、1965年、35~36ページ)(つづく)

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八木重吉と妻のとみ、娘の桃子(関茂『八木重吉―詩と生涯と信仰―』新教出版社、1965年、口絵写真より)

フォークシンガー・本田路津子(Yさん2021.06.07 UP
 

 フォークシンガーの本田路津子(るつこ)さんをご存知ですか。本田さんは、1970年代にフォークシンガーの第一人者として多くのヒット曲を生み出しました(→本田路津子の歌「一人の手」)(→NHK発掘プロジェクト通信「伝説のフォークシンガー・本田路津子」)。旧約聖書の「ルツ記」に出てくる敬虔な嫁ルツからとられた「るつこ」という名前からも分かるように(→「旧約聖書を読んでみよう」の「ナオミ」参照)、彼女のご両親はクリスチャンでした。しかし、ご本人は結婚するまではキリスト教信仰を持っていませんでした。彼女は、歌手として成功し、他人から見るとうらやましいほどの名声と収入を得ることになりましたが、かえってそれらのモノでは決して満たされない心の大きなすき間を覚えるようになりました。その結果、本田さんは肉体的にも精神的にも疲れてしまったというのです。その本田さんは、キリスト教信仰に入った動機について次のように語っています。

 「歌手生活5年目に入ったころ、疲れをいやすために思いきって3ヶ月の休暇を取り、アメリカへ行きました。この旅行中に私はあるクリスチャンと出会いました。帰国後、文通が始まり、私は今までの心の悩みを書くようになりました。彼は、その重荷を『イエス・キリストのもとにもっていくことができるように』と導いてくれました。この人と結婚して、歌手生活から引退することを考えるようになり、私の生活から人前で歌うことがなくなってしまった時、本当に満足できる日々が送れるだろうか、という不安が横切りました。しかし、今、この時に彼に、また、私たちふたりの主人である、神様に従っていく決心をしなくて、いつできるだろうか。そんな思いの中で、イエス・キリストに、今まですべてのことを清算していただき、新しい人生の歩みの導きをおゆだねしようと決意しました。」(『Power for Living』アーサー・S・デモス財団、2007年、18ページ)

 帰国後、5年間にわたった歌手生活にピリオドを打ち引退コンサートを行った後、日本基督教団の東中野教会で洗礼を受けた本田さんは、キリスト教に導いてくれた留学中の夫と結婚するべく渡米し、結婚しました。9年間のアメリカでの生活は多くの恵まれた出会いがあったといいます。もちろん慣れない外国での生活ですから、乗り越えなければならないことも多かったといいます。ですが夫妻は「毎回イエス様に頼り、おゆだねして二人で祈りました。そのつど、必要な励ましが聖書から与えられ、常に私たちと、共に歩んでくださるイエス様を知ることができました。」(同、19ページ)というのです。帰国後の本田さんは教会で歌をお願いされることも多く、中途半端な奉仕はできないということで1988年再びプロの歌手としてデビューし、ゴスペル・シンガーとして各地の教会をまわって賛美をしています。

 

 さあ、わたしはあなたがたが悔い改めることを期待して、心の扉をたたいている。もしわたしのたたく音を聞いて、心の扉をあけるなら、わたしはその人の心の中に入って、すばらしい交わりを持とうと思う。(現代訳・ヨハネの黙示録3章20節)

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NHKの朝ドラ「藍よりも青く」(1972年)の主題歌となった本田さんの「耳をすましてごらん」。本田さんはこの曲で2年連続2回目の紅白出場を果たした。

聖霊降誕日(ペンテコステ)(Yさん2021.05.21 UP 
 

 ペンテコステとは、ギリシア語で「五十番目(pentēkostē)」という意味で、イエス・キリストの復活から数えて五十日目にあたる日です。この日は、キリスト教にとって、とても意義深い日なのです。旧約聖書の時代は、五旬節の日(「旬」とは10日のこと)は「七週の祭り」とも呼ばれ、過越しの祭り(「種なしパンの祭り」とも言われた。今の3~4月にあたる「アビブの月」の14日夜から21日の日没まで祭りは行われるが、起点は16日の大麦の初穂を割あげる日)→「聖書の舞台(生活・習慣)」のさ行「過越の祭り」参照から数えて五十日目にあたり、かつては小麦の収穫が始まる「刈り入れの祭り」「初穂の日」でもありました。旧約聖書には、この日のことが次のように書かれています。ちなみに、もう一つの「収穫祭」とは「仮庵の祭り」のことです。

 

 年に三度、わたしのために祭りを行わねばならない。種なしパンの祭りを守らなければならない。わたしが命じたとおりアビブの月の定められた時に、七日間、種なしパンを食べなければならない。それは、その月にあなたがエジプトを出たからである。何も持たずにわたしの前に出てはならない。また、あなたがたが畑に種をまいて得た勤労の初穂を献げる刈り入れの祭りと、年の終わりに、あなたがたの勤労の実を畑から取り入れるときの収穫祭を行わなければならない。年に三度、男子はみな、あなたの主、の前に出なければならない。(出エジプト記23章14~17節)

 

 あなたがたは、安息日の翌日から、奉献物の束を持って行った日から満七週間を数える。七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物の捧げものをに献げる。(レビ記23章15~16節)

 

 新約聖書の時代、この「ペンテコステ」の日に聖霊が下ったことから「教会のはじまり」「教会の誕生の出来事」として、キリスト教会では長く大切に祝われてきました。この記念日は、毎年、日程が変わる「イースター」の日から数えるので、同じように日程は変わります。2021年は、5月23日(日)がその日に当たります。そのはじまりの瞬間を、新約聖書の「使徒の働き」ではつぎのように記しています。

 イエス様の十字架の死とその後の復活を経験し、その後、しばらく復活のイエス様と交わり、天に上がられるのを見送った人びとは、さっそく街に戻って屋上に集まり心を一つにして祈りました(使徒1:15)。その数は120名ほどだったと聖書には記録されています(使徒1:15)。彼らは、天に上る前にイエス様がおっしゃられた「あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」(使徒1:5)の預言の実現を待ち望んでいました。イエス様の復活から50日たった時、「天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった」(使徒2:2)という出来事が起きました神様の例は何と活発で激しいことでしょう。しかも聖霊様が「舌」の形をとって人びとの上にとどまったということは、彼らが神様のことばを語るための「神の舌をあたえられたことを示している」と捉える方もいます(土戸清「わたしたちの『使徒行伝』」新教出版社、1965年など)。しかも聖霊で満たされた彼らは、「他国のいろいろなことばで話し始めた」(使徒2:4)ということです。ここには、「世界中に教会を作り、福音を宣べ伝えよ」との神様の強い意図が見受けられるのではないでしょうか。この出来事は、あまりにも異常だったので、大きな物音に驚いて集まってきた人々は「呆気にとられ」(使徒2:6)、いろいろな国のことばでしゃべっている彼らを見て酒に酔っているのではないかと嘲った人もいたようです(使徒2:13)。

 一人ひとりの上にとどまった聖霊は、そこに集まった弟子たち全員に与えられたものであり、ここに信仰共同体としての教会が生まれたのです。さらに、弟子の一人であるペテロは物音に驚いて集まって来た人に大胆に神様のみことばを語りかけ、その日だけで三千人もの人々が神様のことばを受け入れて洗礼を受けたのです。今でも、この故事にちなんでペンテコステの日に洗礼を受ける方も多く、洗礼服の白い衣が目立つことから、英語ではペンテコステを「白い日曜日(White-Sunday)」を縮めた「ホイット・サンデー(Whit Sunday)」と呼びます。さらに聖霊のシンボルとして「鳩」を用います。このペンテコステの日以来、聖霊は教会の中に働き、弟子たちの働きを通して福音宣教の大きな業を次々に成し遂げました。

 最後に、聖霊を信じて理解する場所は、礼拝の場以外にないことを確認したいものです。集まって祈っていた弟子たちの所に聖霊が与えられたように、礼拝生活の中でこそ一人ひとりに聖霊の働きをもたらし、私たちを通して神様は大いなる御業をなされるからです。聖霊の働きなしには、私たちは父なる神様を知ることも、子なるイエス様を信じることもできません。三位一体の神様が正しく礼拝され、賛美(*)される中で、聖霊様も私たちともにおられるからです。

 

 御霊よ、下りて むかしの如く、

 くすしき御業を 現したまえ。

 代々にいます みたまの神よ、

 今しもこの身に みちさせ給え。(讃美歌499番)

 

*一般に「ほめたたえること」は「賛美」、「ほめたたえる詩歌」は「讃美」を使います。

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教会のすぐ近くにあるミッション系の学校「宮城学院」の校章。聖霊のシンボルである「鳩」と、「聖書」が描かれている。ちなみに周りはオリーブではなく、仙台ゆかりの「宮城野萩」。

マイケル・チャン(2)(Yさん2021.05.17 UP
 

 その後もテニスで好成績を重ねたチャン氏は、1996年にはシングルス自己最高の世界ランキング2位になります。そして現役中の1999年に一族の支援を得て「チャン・ファミリー財団」を設立し、テニスだけでなくバレーボールやバスケットボールなどのスポーツを通じて青少年育成と地域社会の発展に貢献しています。さらに、2008年にはアメリカにある博物館「国際テニスの殿堂」に認定され殿堂入りを果たしました。

 彼は「クリスチャン新聞」にこう答えています。長くなりますが引用してみましょう。「後に彼は自身の信仰についてこう語る。『クリスチャンになったことで、テニスのプレーに何か影響を与えたかどうかは分からない。だが人としてどう振る舞うかについては変わったと断言できる。傷ついた人への憐みの心、善悪の判断、優しい振る舞いについて考えるようになりました』。さらに『私にとって、キリスト教の本当の意味は、イエス・キリストと個人的な関係を持つことだ。神を知ること以上の喜びはない。あなたにも同じ喜びを味わってほしい。神の忍耐と愛を分かち合いたい、この愛は、あなたに変化を起こさせる。あなたの深い傷をいやす』と信仰の喜びを伝えている。」(「クリスチャン新聞福音版2015年12月号」)。

 テニス・プレーヤーとしてのチャン氏の大きな試練と言われているのが、1996年の全米オープンの決勝戦でした。彼は決勝戦で、同じアメリカのピート・サンプラスに敗退してしまいます。この年、結果として自己最高の世界ランク2位に終わりましたが、彼はもう少しで届きそうだった1位を逃したのです。この時の心境を、チャン氏はこう語っています。「もちろん悔しかった。だが大事なことは、神さまはすべてのことに目的を持っているということだ。人は『ああなれば良かった、こうなれば良かった』と思いがちだが、そうではない。そこまで到達するために様々な祝福を受けてきた。今もなお素晴らしいことが起こる。かつては勝ち負けに強くこだわっていたが、信仰を持つことで考え方が変わってきました。」(「クリスチャン新聞福音版2015年12月号」)。チャン氏は、「信仰と勝負は似ている」と述べています。「トップ選手の間では、二割は身体面、八割は精神面と言われる。勝つと信じなければ絶対に勝てない。同じように人生の様々な出来事は偶然ではなく、神がいると信じたとき、人生を理解できます。」(「クリスチャン新聞福音版2015年12月号」)。その彼の最も好きな聖書の箇所が、ローマ人への手紙8章28節だそうです。そこには、このように書かれています。

 

 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8章28節)

 

​ チャン氏は、このようにまとめています。「神はすべての人々の人生に目的を与えている。信仰を持つことで、自分が何者か、どこからどこへ行くのかを知った。与えられた賜物をすべて神の栄光のために用いることができるのは感謝な生き方です。」(「クリスチャン新聞福音版2015年12月号」)。

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チャン氏の自伝Holding Serve (Thomas Nelson Inc., 2002)。タイトルには「サーブを受け止める」という意味と「神様に仕え続ける」の二つの意味が込められている。

マイケル・チャン(1)(Yさん2021.05.03 UP
 

 みなさんもよくご存じのテニスの錦織圭選手は、2014年にグランドスラム(テニスの四大大会、全米、全豪、全仏およびウインブルドン)の総合成績で、アジア初(アジア系という意味では、表記の台湾系アメリカ人マイケル・チャンの優勝がある)の準優勝をはたしました。その飛躍のきっかけのひとつが、当時錦織のコーチを務めたマイケル・ターペイ・チャン(張徳培、1972-)との出会いがあると言われています。チャン氏は台湾系のアメリカ人で、1989年に最年少の17歳3か月で、全仏オープン戦で初優勝して世界を驚かせました。その後も主要大会で好成績を重ね、世界ランキングで2位(ちなみに錦織圭氏の自己最高は世界4位)まで上り詰めました。

 チャン氏がキリスト教信仰を持ったのは16歳(1988年)のとき、1989年6月に全仏オープン戦で初優勝する前年だったと言われています。すでにジュニア戦で頭角を現し、1988年、16歳になる直前(2月22日生まれ)の15歳でプロに転向した将来を約束されたテニス選手でした。しかしながら、ひとたびコートから離れれば、苦悩するひとり少年にすぎません。「15歳の時、私は多くことを模索していました。その頃、少なくとも私は、人生の意味について考え、自分自身が本当になすべきことを見つけようとしていました。私は多くの疑問を抱えていました。」(チャン・ファミリー財団HPより)。彼は後に、当時の自分はテニス選手としては成長していたものの、内面は、まだ少年のままだったと振り返っています。台湾からの移民である敬虔なクリスチャンの家族の中で育ち、テニス好きの両親の影響で兄カールとともにテニスを始めたのは、わずか6歳の頃でした。その後、チャン氏の両親は、子どもたちのためにより恵まれたテニス環境を求め、ミネソタ州からカリフォルニア州の街々に転居を繰り返すなど、中国故事の「孟母三遷」(中国の戦国時代の思想家・孟子の母が、息子がより良く育つような環境を求めて三度引っ越した故事にちなむ慣用句)を地で行くような努力を行いました。

 一方、チャン氏は、テニスこそ熱心だったものの、10代に入ると教会との関係は消極的なものになってきました。日曜日の朝はわざと寝坊をし、礼拝を休むことも多かったといいます。しかし悶々とした悩みを抱えていたある日、久しぶりに祖父母が通う教会を訪れたとき、礼拝のメッセージで語られた「神のなさることは、すべてのことに理由を持つ」との言葉が彼の心に刺さりました。また、ある夜、祖父母にプレゼントされたまま本棚に放置していた聖書を何気なく開くと、聖書には彼が悩む全ての関心事の答えが書かれていたことに驚いたそうです。その時のことを、チャン氏はこう述べています。「ある夜、私は特に何もすることがなかったので、私は自分の聖書を開いて、聖書はいったい何を言わんとしているのかよく見てみようと思い立ちました。私は、その聖書の最後につけられていた「友情」とか「恋愛」とかテーマ別に分けられた索引を見て、該当する聖書の箇所を読みました。すると、聖書はこれらのテーマについて私がどう生きるべきかの真実が実に純粋に書かれていました。それ以来、私は主イエス・キリストの生涯について、そして彼がどれほどの愛をすべて人々に表したかをむさぼり読みました。その結果、私はイエス・キリストを『わが主』『わが救い主』と受け入れたのです」(チャン・ファミリー財団HPより)。

 数か月後、全仏オープンの表彰式でチャン氏は、こうコメントしています。「主イエス・キリストに感謝します。イエスなしでは、私は何者でもありません。」(つづく)

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1989年全仏オープン優勝時のマイケル・チャン(出典:iwiz-spo.c.yimg.jp)

ジョン・ニュートン(2)(Yさん2021.04.28 UP
 

 あるとき、奴隷船の船長として出港する数日前に、ニュートンは突然気分が悪くなり船長を交代してもらうという出来事がありました。ところが、この船は出港後に嵐のために沈み、ニュートンの代わりを務めた船長は死んでしまったのです。この出来事が、ついに彼の生活を変えるきっかけとなったのです。彼は奴隷船貿易をきっぱりと止め、こんなにも自分を愛して救ってくださった神様の愛を、伝える者になりたいと決心しました。奴隷貿易をやめて1755年、30歳の時にリバプールの税関職員になったニュートンは、当時の有名な福音伝道家で英国国教会の執事(英国国教会の位階「主教」「司祭」「執事」の「執事」)であったジョージ・ホイットフィールド(George Whitefield、1714-1770)とロンドンで出会い、その指導を受けます。またプロテスタントの教派であるメソジスト派の創始者であるジョン・ウェスレー(John Wesley、1703-1791)とも交流を深めていきます。彼は、税関職員の仕事をつづけながら勉強を続け、1764年、ついに38歳でロンドンの北西にあるバッキンガムシャーのオルニー(Olney)という小さな町で教区の副牧師(curate、英国国教会の役職、位階は「司祭」)となりました。オルニーは、レースの製造がおもな産業である貧しい街でした。ニュートンは、礼拝の中で通常歌われる詩編を基にした讃美歌だけでなく、素朴で心に触れる讃美歌を選んで歌うようにしていました。しかし、そのうちに曲が足りなくなると、自ら讃美歌を作るようになりました。彼は、1767年にオルニーの町に越して来た詩人のウィリアム・クーパー(William Cooper、1731-1800)と協力し、クーパーに助けられながら300曲近い讃美歌を書きました。この讃美歌は「オルニー讃美歌(Olney Hymn)」として1779年に出版され、イギリスの讃美歌にも大きな影響を与えました。その中のひとつが「Amazing Grace(邦題:おどろくばかりの)」だったのです。「Amazing Grace」の作詞者はジョン・ニュートンですが、その曲はアメリカ民謡であり、一説には奴隷たちが口ずさんでいたメロディだとも言われています。そして現在、この讃美歌は教派を超えてあらゆるクリスチャンの間で好まれて歌われており、特にアメリカ合衆国で最も歌われている讃美歌とされています。

 その後、1779年にニュートンは、ロンドンのセント・メアリー・ウールノス(St Mary Woolnoth)教区の牧師(Rector)となり、82歳で天に召されるまでそこで聖職者として務め、神様の驚くばかりの恵みを宣べ伝えました。当時のロンドンの牧師の中で、彼ほど多くの人を惹きつけ、彼ほど多くの人々を神様に導いた者はいないと言われました。またニュートンは、ロンドンで奴隷制度に反対する政治家ウィリアム・ウィルバーフォース(William Wolberforce、1759-1833)との出会いがあります。政治家を辞めて聖職者になりたいと相談に来たウィルバーフォースに対して、ニュートンは今いる政治の世界で神様に奉仕することを勧め、奴隷貿易反対運動を強く推し進めるようになりました。奴隷貿易廃止運動の中で、実際に奴隷貿易に携わっていたニュートンのことばは重みがあり、ついに1807年にイギリス議会で奴隷貿易の廃止が可決されます(1807年2月議会可決、3月国王署名)。ニュートンはそれを見届けたかのように、同年12月にこの世を去りました。

 イエス・キリストは、ならず者であった奴隷船の船長を選ばれ、ゆたかにお用いになられました。「『私こそ救いの主である。私に従えば、おまえの人生を素晴らしいものに変える』と、ご自身を表された。そのキリストを受け入れ、従ったジョン・ニュートンは、自らの体験から、誰よりも深く福音を理解し、受け入れ、良い説教者となり、偉大な賛美歌を残した。この歌は今も多くの人々に神の愛を伝え悔い改めに導いている。」(『御翼』2008年8月号、3~4頁)。

 そのキリストの期待に応えようと悔い改めた時、その人の人生は真に価値あるものとなります。「わたしは、自分を正しいと考えている人を招こうと思って来たのではなく、罪人であることを自覚している人を招いて悔い改めさせるために来たのです。」(現代語訳聖書、ルカの福音書5章32節)。

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​オルニー賛美歌を刊行し、ニュートンの墓があるオルニーの聖ペテロ&聖パウロ教会

ジョン・ニュートン(1)(Yさん2021.04.24 UP
 

 私たちの救い主イエス様は、人にどんな過去があろうとも「私こそ、あなたの人生を素晴らしいものに変えることのできるメシア(救世主)である」と受け止めてくださいます。その期待に応えようと悔い改めた時、その人の人生は真に価値あるものとなるのです。

 クリスチャンでない人でも一度は聞いたことのある有名な讃美の歌「アメイジング・グレイス(おどくばかりの)」(聖歌229)→歌手の中島美嘉さんがカバーする「Amazing Grace」)(→歌手の華原朋美さんがカバーする「Amazing Grace」の作詞者は、英国国教会の牧師ジョン・ニュートン(John Newton、1725~1807年)です。

 

Amazing grace! (how sweet the sound)
That saved a wretch like me!
I once was lost but now I am found
Was blind, but now I see.

 

 この曲の題名にもなったAmazing grace! とは、「想像もできないほどの驚くような恵み」のことです。ニュートンは、「That saved a wretch like me!(私のような惨めで見下げ果てた悪党を救われたこと)」が「驚くような恵み」だというのです。実際、牧師になる前のニュートンは「ならず者」だったそうです。

 彼の母親は信仰深いクリスチャンでした。母は息子を将来牧師にしたいと聖書を読み聞かせ、3歳の時から聖書や讃美歌に加えて教理問答を教えました。さらに6歳の時には、牧師の勉強に必要となるラテン語を教えはじめました。しかし彼が7歳の時に母親を亡くし、また、その後11歳でいじめにあうようになったので、船乗りの父は学校をやめさせ、少年ニュートンを強制的に英国海軍に連行し、船乗り見習いとして厨房で働かせます。海軍では水平たちにいじめられながら、毎日、嫌というほど働かされ鞭で打たれます。そんな過酷な体験から、彼は「もし天に僕を愛する神様がいるのなら、僕がこんなにひどい目に合うはずはない」と考え神様を否定するようになっていきました。そして少年ニュートンは神様を嫌い、誰よりも質の悪い船乗りになろうと決意するまでになりました。彼は喧嘩や盗みを重ね、英国海軍中に悪名を轟かせ、その結果、海軍を除隊させられます。その後、彼はアフリカで奴隷商人のもとで働くようになり、奴隷を苛酷に扱うだけでなく、彼自身が非常な苦役を強いられ死ぬような目にあいました。幸い、父の友人であった親切な船長に救い出されて、1748年3月に船長の船でイギリスに帰国できることになりました。ところが、太平洋を航行中のある晩(同年5月10日)、船は暴風にあって船倉に穴が開き沈没寸前になったのです。その時、ニュートンは「私を助けてください。自分ほどの悪人はいません。恵みを受けるに値しないものですが、どうぞ一切の罪をお許しください」と、初めて神様に心の底からの悔い改めをしたのです。すると嵐が急激に静まって浸水も弱まり、他の乗組員と一緒に何時間も懸命に水をくみ出して、やっとのことで助かることができたのです。この出来事が、彼の宗教的な転機になりました。

 彼は幼いことから母親の膝の上で、イエス・キリストのことを聞いていました。しかし、この時に突然、悔い改めの祈りをする思いが与えられたのは、神様の掲示であったと後にニュートンは語っています。彼は22歳で直面したこの体験を通して信仰に立ち返ったものの、その後、6年間も奴隷貿易に従事し続けます。当時、奴隷は「商品」であり、奴隷貿易は莫大な利益を上げる「商売」だったからで、それ自体が非人間的な大きな罪だったとは、この時のニュートンは気づいていなかったのでしょう。その間、彼は25歳で奴隷船の船長となました。彼の船は、奴隷たちを最もひどく扱う船として知られるようになり、ある時、奴隷たちが反乱を起こした際には、デッキに上がっていた奴隷たちをすべて打ち殺すようにも命じました。

 その頃のことをニュートンは、手記に「大酒飲みや女遊びなど、私に比べればまだかわいいものである。あの頃の私は、良心の呵責すら感じずにいた」と記しています。しかしニュートンは、次第に奴隷を人間らしく扱う船長に変えられていきます。(つづく)

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80年代のトップアイドルで若くして亡くなられた本田美奈子さんのCD「Amazing Grace」のジャケット。ちなみに本田さんは浄土真宗でした。

 
復活日(イースター)(Yさん2021.04.20 UP

 教会の三大祝日は、去る4月4日(2021年の場合)に行われた復活日(イースター)と、聖霊降臨日(ペンテコステ)、降誕日(クリスマス)になります。

 復活日は、イエス・キリストが墓に葬られた三日目(当日を「一日目」、翌日を「二日目」、翌々日を「三日目」と数える)に復活されたことを記念し、感謝の礼拝をおこなう日のことです。英語ではイースター・デイ(Easter Day)と言います。この復活日は、キリスト教会の歴史的に見ると最初に定められた祭日で、すでに1世紀末(イエス様の復活後数十年後)には祝われていました。

 復活日を「いつ祝うのか」については長らく議論が続き、325年に招集された教会会議(ニケーア公会議)での論争の結果、春分日以降(春分日を含む)の満月の次の日曜日と決まりました。そして満月の時差や万年歴の作成を考慮して、3月22日から4月25日の間で毎年移動する祝日と決まりました。私たちプロテスタントやカトリックのみなさんはこの日にあわせて復活日を祝いますが、東方正教会では一週間遅れでイエス様の復活を祝います。いずれにせよ、この復活日はどのキリスト教会にとっても大切な日としてお祝いされているのです。

 ちなみにカトリックでは復活日の日曜日の46日前の水曜日を「灰の水曜日」と決め、そこから復活日前日までを四旬節(受難節、レント)と決めて精進潔斎をなさっています。この「灰の水曜日」の前日の火曜日には、翌日から始まる受難節の精進潔斎を前にして「謝肉祭(カーニバル)」をする地域も多いようです。ブラジルの「リオのカーニバル」が有名ですね。さらにカトリックのみなさんは、復活日の前の一週間を受難週と決めて、聖書に書いてあるイエス様の行動を思いながら「その前の日曜日はろばに乗ってイスラエルに入られたとき、群衆が着物や棕櫚でイエス様の通る道に敷物をしたから『棕櫚の日曜日』」「木曜日は弟子の足を洗ったから『洗足の木曜日』」「イエス様が十字架にかかられたのが金曜日だから『受難日』」と様々な儀式をされているようです。またロシアでは「日曜日」のことを「ヴァスクリシェニーイェ(воскресенье)」と言いますが、これは同じくロシア語の「復活」=「ヴァスクリェーセニエ(Воскрешение)」と同じ言葉を使います。つまりロシア語では日曜日は「復活の日」というわけです。このようにイエス様の復活の出来事は、いろいろな国の文化や風習に深く根を下ろして記念されているようです。

 復活日(イースター)のシンボルと言えば「イースター・エッグ」ですが、ロシアではかつて、皇帝が豪華なイースター・エッグを作っていたことで有名です。なぜ復活日=卵かというと、死んだようなかたい卵から新しい命が生まれる様子が、墓石を打ち破り復活されたイエス様の様子を表しているという理由からです。私たちの教会でも、「皇帝の卵」とまではいきませんが、ゆで卵にカラフルなシールを貼って、イースターの日には教会員に配ります。

◆ヨハネの福音書11章25節

イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」

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​ロシア皇帝の豪華なインペリアル・イースター・エッグ(Wikipedia)

 
ファラオの夢(Mさん2021.04.19 UP

 短い箇所ですが、ヨセフ物語の中にある、ヨセフのときあかした「ファラオの夢」について触れたいと思います。ファラオとは古代エジプトの王様のことです。ヨセフの物語については、以前、書いた「ヨセフの物語」をお読みください→「読んで聞かせたい聖書の話」の「ヨセフの物語」参照

 

創世記41章1~4節
 
それから二年後、ファラオは夢を見た。見ると、彼はナイル川のほとりに立っていた。すると、ナイル川から、つやつやした、肉づきの良い雌牛が七頭、上がってきて、葦の中で草をはんだ。するとまた、その後を追って、醜く痩せ細った別の雌牛が七頭、ナイル川から上がって来て、その川岸にいた雌牛のそばに立った。そして醜く痩せ細った雌牛が、つやつやした、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまった。

◆創世記41章5~7節

 彼はまた眠り、再び夢を見た。見ると、一本の茎に、よく実った七つの良い穂が出て来た。すると、その後を追って、しなびた、東風に焼けた七つの穂が出て来た。そして、しなびた穂が、よく実った七つの穂を呑み込んでしまった。

 

 そして、「神が、なさろうとしていることをファラオにお告げになった」(同25節)とあります。さらに「夢が二度ファラオに繰り返されたのは、このことが神によって定められ、神が速やかにこれをなさるからです。」(同32節)と続きます。

 

 七年間の大豊作ののち、七年間のきびしいききんが来るということを知らせる恐ろしい夢ですが、あらためて、良いことも悪いことも神のみ心のうちにあると知ることができます。

 良い人生が、いともたやすく大きな不運や不幸に飲み込まれてしまう現実に対し、わたしたちはしっかりと備えなければいけないのでしょう。暗転した人生など誰もが考えたくないことですが、現在のコロナ禍がそうであるように、予想もしなかった事が起きて現在も私たちは翻弄されています。またそれと同時に、頭に浮かんでくるのは、地球の温暖化によってもたされる様々な危機です。

 経済発展と共に失われた豊かな自然や、地球上での様々な異変、豊かな国々が飽食を謳歌し、その一方でまだ食べられる多くの食品が廃棄される現実。豊かな国がある一方で、飢餓で苦しむ人々が存在し、ますます大量の難民が発生すると言われます。プラスチックごみが生態系に及ぼす過酷な負荷も問題になっています。人類の繁栄や欲望を満たすために失われた物は、数えれば枚挙にいとまがありません。これらを神様はなんと思ってご覧になっているでしょうか。本当に罪深いことだと思わずにはいられません。この夢と地球の危機を心の片隅に刻んでいきたいと思います。

 人生のよい時、ひとりひとりが慢心や油断をせず、たとえ悪い状況に陥っても、いつも神様との繋がりの中に生かされている事を自覚し、神様から智恵や勇気をいただくことができますように。試みの中にあっても、神様への畏怖や、感謝の念を忘れずに歩んでいきたいものです。

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​新王朝時代のファラオ壁画像(Wikipedia)

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創世記41章32節

このことが神によって定められ、神が速やかにこれをなさるからです。

創世記42章18節

私も神を恐れる者だから。

箴言19章21節

人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する。

新渡戸稲造(3)(Yさん2021.04.14 UP 
 

 新渡戸稲造で忘れてならないのは、Bushido: The Soul of Japan(邦題『武士道』1899年)を英語で出版し、 世界に向けて日本の精神を紹介したことでしょう。この『武士道』を書くことになった動機について、稲造はつぎのようなエピソードをあげています。この本を出版する10年ほど前、彼は留学中にベルギーの法律の大家に「日本には宗教教育がないのに、どうやって道徳教育を行うことができるのか」と質問され、即答できなかったことがあったそうです。さらに直接的には、アメリカ人である妻メアリーから、日本の思想や文化に通底する価値観について尋ねられたことがきっかけだったと言われています。この二人の問いに向き合った時、彼は日本には「武士道」なるものが存在し、それが日本の道徳規範になっていることに気づきます。そして、広く西欧諸国の人々に日本の武士道を知ってもらおうと『武士道』を執筆したといいます。出版当時の日本は、日清戦争に勝ったばかりだったこともあり、『武士道』は出版したアメリカのみならず、世界中で関心を持たれるようになり、ドイツ語やフランス語、ポーランド語、ノルウェー語、ハンガリー語などにも訳されました。

 この『武士道』には、日本人の思想を「義」「勇」「仁」「礼」「誠」の五つの道徳律をあげて説明しており、他にも名誉、忠義、克己などの重要な概念を交えながら全17章にわたった説明がなされています。その中でも「義」は第一に挙げられており、武士にとって「義」こそ基本的道徳であると述べられています。第3章に日本語で「義または正義」と訳されている章題は、原文では’Rectitude or Justice’(直訳すると「清廉潔白もしくは正義」)で、人間が行うべき行為の筋道のことです。だから二番目の「勇」(第4章「勇気、敢為堅忍の精神」原文’Courage, the Spirit of Daring and Bearing’「敢為堅忍」とは物事を耐え忍びながらあえて推し進めていくこと)も、「義」のために行われるものでなければ意味を持たないものになります。また愛や涵養などの古来からの最高の徳も、「義」がなければ価値を失ってしまいます。「仁」の章題は、第5章「仁、惻隠の心」で原題は’Benevolence, the Feeling of Distress’です。直訳すると「慈悲(博愛)、他者の哀しみを感じる」になるのでしょうか。この「仁」も、「義」や「勇」から出てくるのではないでしょうか。このように『武士道』の五つの道徳律は系統立てて述べられています。「仁」については特に、「我々は無差別的な愛に溺れることなく、正義と道徳とをもってこれに塩就くべきことを誡められた。」(『武士道2』)と記しています。武士道における慈悲の心は弱者、劣者、敗者にむけられてこそふさわしいもので、武士道とは倣(おご)る者をくじき、平和の道を立てるものだと指摘しています。笹森氏は、「新渡戸稲造の目に映った武士道とは、『義』を飢えるものの如く、渇くものの如く追い求める道だったのです。そして武士とは信仰における「経典」そのものを第一とするものではなく、何よりもそれを実践することを重んじた人たちでした」と述べています(笹森建美『武士道とキリスト教』新潮新書、2013年、43~45ページ)。

 新渡戸稲造は、イエスのうちに武士道の最高の模範を見いだし、そこに日本精神の最高の姿を認めたのでしょう。彼はイエスの素晴らしさとともに、キリスト教精神と日本精神は相殺するものではなく、お互いに共存し高め合うものだと語っています。

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Bushido: The Soul of Japanの初版本(1899年)

イースターとクラッシック音楽(Mさん2021.04.04 UP
 

マタイ受難曲・ヨハネ受難曲(J・S・バッハ)

 マタイによる福音書26~27章のキリストの受難を題材にしたマタイ受難曲。

 イエスが十字架へと至る道を罪人である私たち人間が瞑想的に追体験することで少しでも私たちの罪が救われるようになりたいという信仰的な教育のための作品である

 一方、ヨハネ受難曲はマタイ受難曲より合唱部分が多くソロが少ないのが特徴で、ヨハネによる福音書18~19章のキリストの受難を題材にした受難曲です。

復活祭オラトリオ(J・S・バッハ)

 バッハの作曲した3つのオラトリオのひとつで他に昇天祭オラトリオ、クリスマスオラトリオがあります。

 ※オラトリオとは、日本では聖譚曲(せいたんきょく)と呼ばれ、1640年頃イタリアで始まった宗教的な題材による歌詞をもつ独唱、重唱、合唱、管弦楽のための総合的で大規模な音楽作品。

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ロシアの復活祭(リムスキー・コルサコフ)

 ロシアの作曲家コルサコフが、修道院の近所で過ごした幼年時代の復活祭の印象が反映されていて、賑やかな解放感あふれる復活祭の様子が描かれています。

メサイヤ第3部「メシアのもたらした救い~永遠のいのち」(ヘンデル)

 救世主(メシア)の「復活への信仰」「永遠のいのち」「死に対する勝利」イエスキリストへの賛歌を歌い上げる全8曲から構成され、冒頭第45曲には以下のような聖書のみ言葉から歌詞が使われています。(因みに、第1部は予言とキリストの降誕、第2部は受難節から十字架上の苦難、復活、昇天、聖霊の降誕、最後に神の王国の歓びを祝うハレルヤコーラスへと続きます。)

ここでは聖書そのものではなく音楽的表現を重視したDVD掲載の歌詞を紹介します。

(教会で使っている2017年版新改訳聖書の文言もつけておきます)

 

第45曲

◆ヨブ記 19章25節~26節

私は知る。私を贖う方は生きておられる。後の日に彼は、必ず地の上にに立たれる。

私の皮がこのように滅ぼされたのち、私は肉をはなれて神を見るであろう。

(2017年版新改訳聖書:

私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。

私の皮がこのように剥ぎ取られた後に、​私は私の肉から神を見る。)

◆コリント人への手紙第一 15章20節

なぜなら事実、キリストは、眠っている者の初穂として死人の中からよみがえったのである。​

​(2017年版新改訳聖書:

しかし、いまやキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。)

 

参考まで、第3部 第46曲以降もみ言葉の歌詞が転用されています。

第46曲  ◆コリント人への手紙第一 15章21~22節

第47曲  ◆コリント人への手紙第一 15章51~52節

第48曲  ◆コリント人への手紙第一 15章52~53節

第49曲  ◆コリント人への手紙第一 15章54節

第50曲  ◆コリント人への手紙第一 15章55~56節

第51曲  ◆コリント人への手紙第一 15章57節

第52曲  ◆ローマ人への手紙 8章31、33~34節

第53曲  ◆ヨハネ黙示録 5章12~14節

 

◆コリント人への手紙第一 15章51~52節

 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

 今年のイースター、あなたはどのように過ごしますか。時にはゆったりと音楽を聴いて過ごすのもいいですね。亡くなられた方たちを偲び、心の中で今もそっと生き続けていることを再認識したいと思います。

 また最近はコロナ禍で、讃美歌を歌うことを控え奏楽のみの礼拝が続いています。またみんなで歌える時がくることを祈ります。

新渡戸稲造(2)(Yさん2021.04.03 UP 
 

 新渡戸稲造は、明治14(1881)年に札幌農学校を卒業し、北海道庁の開拓使御用掛に採用されましたが、明治16(1883)年には北海道庁を退官して創立間もない帝国大学(後の東京帝国大学→東京大学)に入学しました。しかし、そこでの研究に飽き足らず、翌・明治17(1884)年にはアメリカのジョン・ホプキンス大学に私費留学をし、その後、札幌農学校の助教授に任命されてからは官費留学生としてドイツに留学しました。明治20(1887)年のことです。ドイツではボン大学で聴講後、明治23年(1890)年には『日本土地制度論』でハレ大学(後のマルティン・ルター大学ハレ・ビッテンブルグ校)から農業経済学の博士号を授与されます。

 稲造は、このアメリカ留学中に富豪のモリス夫妻宅で行われたクリスチャンの集まりで、後の妻となるメアリー・エルキントン(Mary Patterson Elkinton)と出会いました。この交わりの中で稲造は、フィラデルフィアで出会ったモリス夫妻や妻の家族らの、喜びをもって隣人愛を実践する生き方に感化を受けたのです。これが稲造を将来支えた妻・メアリーとの出会いでした。メアリーとは、ドイツからの帰国時に、アメリカのフィラデルフィアの教会で結婚式をあげます。明治24(1891)年1月1日のことでした。

 明治24(1891)年の帰国後の稲造は、札幌農学校の教授職に戻ります。明治27(1894)年、夫妻は貧しくて学校に置けない子どもたちを対象にした「札幌遠友夜学校」を立ち上げました。ここでは多くの農学校生のボランティアが、子どもたちに勉強を教えていたのです。しかしながら札幌で体調を崩した夫妻は札幌農学校を休職し、カリフォルニアで療養しながら執筆活動を続けます。この時期に、日本人の道徳観・世界観を書いた世界的にも名高いBushido: The Soul of Japan(邦題『武士道』1899年)が英語で執筆され、ニューヨークで刊行されます。さらにこの本は、日清戦争の勝利で日本に対する世界の関心が高まっていたこともあってドイツ語やフランス語にも訳されて世界的なベストセラーになりました。この本は岡倉天心のThe Book of Tea(邦題『茶の本』1906年)とともに、世界の人々が日本人や日本文化を理解する大きなきっかけとなりました。さらに稲造は台湾総督であった後藤新平に招聘さを受け、明治34(1901)年には札幌農学校を辞職し技師として台湾の佐藤産業の振興に力を注ぎます。

 新渡戸稲造は、明治36(1903)年に再び帰国した後は教育者としての道を歩みます。京都帝国大学(後の京都大学)教授、東京帝国大学教授兼第一高等学校校長(後の東京大学)、東京植民貿易語学校(後の私立・保善高等学校)校長、拓殖大学学監、東京女子大学初代学長などを歴任します。稲造は、キリスト教の精神に基づき、国際的に活躍できる人材を育成しようとしていたのです。さらに大正9(1920)年の国際連盟設立に際しては、『武士道』の著作で名高かった新渡戸稲造が事務次長の一人として選ばれました。ここでも人種差別撤廃を国際連盟の規約に入れるため尽力するなど、隣人愛の実践に努めたのです。

 新渡戸稲造は世界の平和と文化交流のために努め、日本の思想を外国に伝え、外国の思想を日本に普及する「太平洋の橋」となる働きを最後まで全うしようとしたのです。しかし彼の願いとは裏腹に、時代は第二次世界大戦前夜へと進行していきます。稲造は軍部による昭和7(1932)年の第一次上海事件を批判したことで世間からバッシングを浴び多くの友人・知人を失いました。また日米感情の悪化を食い止め日本の事情を説明に行ったアメリカにおいても「日本の軍部の代弁をしに来た」とアメリカの友人たちからの反発を受け、失意のどん底を味わいます。しかし、そのようなときに優しく彼を支え続けたのは、アメリカ人妻メアリーでした。だが昭和8(1933)年、満州事変が起こってアメリカの対日感情は悪化し、日本はついに国際連盟を脱退します。それでも稲造は日本と世界の関係を修復するために、同年秋、カナダで開かれた太平洋問題調査会議(Institute of Pacific Relations)に日本代表として出席し、日米の関係改善を訴えます。しかし、その帰途、カナダのビクトリア州の港で病に倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまいました。享年72歳のことでした。新渡戸稲造は文字通り最後まで、日本と世界の国々をつなぐ「太平洋の橋」となって歩み続けたのでした。(つづく)

新渡戸稲造の故郷・盛岡市の盛岡城址にある「願はくはわれ太平洋の橋とならん」の碑。同様の碑が終焉の地となったカナダ・ヴィクトリア市やバンクーバー市にもある。

新渡戸稲造(1)(Yさん2021.03.30 UP
 

 新渡戸稲造は、文久2(1862)年に南部藩士・新渡戸十次郎の三男(兄2人、姉4人の末っ子)として盛岡城下(現在の岩手県盛岡市)で生まれました。新渡戸家は家老や側用人を務めた名家でしたが、南部藩が朝敵(明治維新で朝廷に敵対し幕府に味方したグループ)であったため稲造は、明治以降はいわば没落藩士の子弟という立場に立たされます。5歳で父を亡くし、9歳の時に東京で用品店を営む叔父・太田時敏から「東京で勉強させてはどうか」との手紙が母に届き、東京に出ることとなりました。稲造は、叔父の養子となって太田稲造を名乗るようになり、明治22(1889)年に長兄が死去(次兄はすでに亡くなていた)して新渡戸家の家督を継ぐまで太田性でした。

 明治8(1875)年、13歳の時に東京英語学校(後の東京大学の前身のひとつ)に進んだ稲造は、15歳で札幌農学校(後に東北帝国大学農科大学→北海道帝国大学→現・北海道大学)の2期生として入学しました。明治10(1877)年9月のことです。札幌農学校では、優秀な外国人教師たちから英語で講義を受け、級友ともいつも英語で話し、文通もほとんど英語でやり取りするという生活でした。稲造は、当時、考えられる限り、英語を学ぶために最も理想的な環境の中で教育を受けたと言えます。入学して一か月後の10月2日には、2期生の中では一番早く「イエスを信じる者の誓約」→「内村鑑三(1)」参照に署名し、札幌バンド(註:明治期に札幌にいたクラークやハリスらから始まったクリスチャンの流れを「札幌バンド」という)の一員となったのです。さらに翌・明治11(1878)年6月2日には、内村鑑三、二矢部金吉ら二期生6名と共に、アメリカのメソジスト監督教会という教派の宣教師メリマン・ハリスより洗礼を受けました。その後の新渡戸稲造は、激しかった性格が落ち着き、「モンク(修道士)」とあだ名で呼ばれるほどキリスト教にのめり込んだ穏やかな生活を送るようになりました。勉学の面でも、彼は図書館の本をほとんど読みつくすほど力を入れ、1、2年時の成績は内村鑑三と1位2位を争うほどの好成績でした。しかし読書に集中する生活は稲造に強度の近視や頭痛、眼病をもたらし、勉学の遅れに対する焦りから鬱にも苦しめられるようになりました。それととともに彼の信仰も危機的状況を迎え、次第に教会の礼拝から遠のくようになったのです。そして明治13(1880)年7月、眼病の治療のために東京に赴く旅の途中、稲造は10年ぶりに故郷・盛岡に立ち寄りますが、彼が帰省する3日前に最愛の母が亡くなっていました。この時、母の死に目にあえなかったことは、稲造にとって生涯拭い去ることのできない深い悲しみと良心の呵責を与えることになったのです。

 肉体的にも精神的にも大きなダメージを受けた稲造に立ち直らせるきっかけを与えたのは、洗礼を受けたハリスから譲り受けられたトーマス・カーライルのSartor Returns(邦訳『衣服哲学』)という本でした。この本は、神の存在をめぐって宗教的懐疑に襲われた主人公が、煩悶の末、ついに「永遠の否定」から「永遠の肯定」という、確固たる信仰へと至った魂の遍歴を描いた自伝的物語だったのです。稲造は、この主人公の中に自らの分身を見出したのでしょう。『地の塩、世の光―人物で語るキリスト教入門―』(青山学院宗教センター編、2006年)によれば、彼はこの本を30回以上熟読したと言っています(p.169)。

 このころの新渡戸稲造は、外面的には神に絶望しキリスト教会から離れようとしていました。しかし、実際はその絶望の中で神との真の交わりを切に求めていたのでしょう。この一連の不幸な経験は、彼が深く神を求める重要な契機となったのです。(つづく)

旧・五千円札の肖像のもととなった新渡戸稲造の写真

内村鑑三(2)(Yさん2021.03.21 UP 
 

 帰国した内村鑑三は、北越学館(新潟市、現在廃校)、東洋英和学校(東京都港区、現・麻布中学校・高等学校)、明治女学校(東京都千代田区、現在廃校)、水産伝習所(東京都中央区、現・東京海洋大学)などで教壇に立ちました。このころ、二番目の妻・加寿子と結婚します。明治22(1889)年のことです。

 明治23(1890)年には、内村鑑三は第一高等中学校(東京都目黒区、現・東京大学教養学部、千葉大学医学部、同薬学部)の嘱託教員となります。当時、明治政府は大日本帝国憲法(1889年)を公布して天皇制を中心とする立憲君主国家の国体を宣言しました。そして明治23(1890)年には、教育勅語が下されます。これを受けて、鑑三が勤務する第一高等中学校でも、明治24(1891)年1月に、その奉読式が行われました。奉読式は、校長が教育勅語を読み上げた後、教師、生徒全員がひとりずつ壇上に上がって教育勅語に敬礼をするというものでした。鑑三は舎監という立場であったため、校長、教頭に次いで三番目に壇上に上がることになりましたが、最敬礼はしませんでした(深くお辞儀をせずに、軽く頭を下げただけでした)。すると途端に、何人かの教師や生徒たちが彼を強く非難しだしたのです。この事件は、その後、マスコミで「内村鑑三の不敬事件」として大きく報道され、彼は世間から「国賊」として罵られるようになり、2月には職を追われることとなりました。内村鑑三は、この時に悪性の流行性感冒(インフルエンザ)で意識不明でしたが、鑑三に代わって世間からの抗議を浴びていた妻・加寿子も、同じく流行性感冒にかかり二カ月の闘病を経て4月に亡くなりました。

 職を失い、妻に先立たれた内村鑑三は失意のどん底に立たされたのです。しかし試練の中で祈り、耐え忍んで乗り越えた鑑三は、友人の助けもあり執筆活動を行います。そして泰西学館(大阪市北区、現・大阪商業大学)、高等英学校(大阪市阿倍野区、現・桃山学院高等学校)、熊本英学校(熊本市、現在廃校)、名古屋英学校(名古屋市東区、現・名古屋中学校・高等学校)など全国を転々とします。この流浪の時代に英文による自伝書How I Become A Cristian(邦題名『余は如何にして基督教徒となりし乎』警醒社、1895年)などの著作を次々と発表し、己の信仰を貫き通します。このころ(1893年)、京都で三番目の妻・静子と結婚します。

 明治30(1897)年2月からは、日刊新聞『萬朝報(よろずちょうほう)』の英文欄の主筆になり、3月16日号では足尾銅山の交読問題を取り上げて外国人ジャーナリストに注目されます。鑑三は5月には『萬朝報』を刊行する朝報社を退職し、自分で様々な雑誌を刊行しますが、明治34(1901)年4月に取材に行った足尾銅山の状況を『鉱毒地遊記』を『萬朝報』に発表しています。また明治35(1902)年6月には、日露戦争開戦への反対を主張する『戦争廃止論』を、やはり『萬朝報』に発表します。その中で彼は「戦争は人を殺すことである。爾うして人を殺すことは大罪悪である。爾うして大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得やう筈はない。」(『内村鑑三全集』11、岩波書店、1981年、296ページ)と主張したのです。

 内村鑑三の生涯は、イエス・キリストのように十字架を負い続ける生涯であり、それゆえ、多くの人々に影響を与え続けたのです。

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67歳(1928年)の内村鑑三

​(Wikipedia)

内村鑑三(1)(Yさん2021.03.14 UP 
 

 内村鑑三(1861~1930年)は、江戸小石川(現在の東京都文京区小石川)の高崎藩の武士長屋で、父・宜之(よしまさ)、母・ヤソの長男として生まれました。父の宜之は儒学にも造詣が深くて藩主からも一目置かれる存在でしたが、高崎藩が佐幕派であったために廃藩置県に際して旧藩主が知県事の職を追われると同時に公職から罷免され、40歳にして没落士族となりました。父は、内村鑑三を政治家にさせようとして上京させ、有馬学校英語科に入学させ、1年後東京外国語学校に入学させました。

 ところが鑑三は、魚類の研究をするためという理由と、家から独立して官費で生活できるという理由から創設間もない札幌農学校(後に東北帝国大学農科大学→北海道帝国大学→現・北海道大学)に二期生として入学しました。明治10(1877)年のことです。ここで内村鑑三は、生涯の友となった宮部金吾、新渡戸稲造と出会います。「青年よ、大志を抱け(Boys, be ambitious)」で有名なウィリアム・クラークは一期生のみの教育で去っていきましたが、彼が残した「イエスを信じる者の誓約」は一期生達を通して鑑三ら二期生にも影響を与えました。当初、内村鑑三はキリスト教への改宗を迫る一期生達に頑強に反発していましたが、親友・宮部金吾らの入信をきっかけに、自分もキリスト教徒となることに同意をしました。翌明治11(1878)年6月2日に、鑑三は他の二期生6名と共に、アメリカのメソジスト監督教会という教派の宣教師メリマン・ハリスより洗礼を授けられました。内村鑑三17歳の時です。これ以降、鑑三は内面的な成長を遂げていったのです。内村鑑三は水産学の研究で札幌農学校を首席で卒業し、北海道開拓使の勧業課に就職、その後、さまざまな職場で魚類調査や水産学をつづけていました。

 明治17(1884)年3月には、前年の夏に群馬県の安中教会で知り合った浅田タケと両親の反対を押し切って結婚しましたが、わずか半年で、若い二人は破局を迎えます。傷心の内村鑑三は、その年の11月、両親や友人の勧めにより私費でアメリカにわたりますが、そこではアジア人差別と「キリスト教国アメリカ」の拝金主義の現実に直面します。しかしながら、様々な人との出会いに支えられながら、つらいアメリカ時代を過ごし、明治19年(1886)年の9月に、新島襄の勧めで新島の母校でもあるアメリカ東部の名門大学アーマスト大学の三年生に編入します。この大学で内村鑑三は、信仰と愛に満ちたアーマスト大学の学長であるジュリアス・シーリーに出会います。そして、彼の導きで鑑三は、決定的な宗教的回心を経験します。

 このアメリカ留学は、彼の信仰の歩みにおける決定的な転換点となりました。そして、いまだ福音の種が充分にまかれていない日本に福音の種をまくことこそ、神様が自分に示された可能性であると確信するようになったのです。そして、札幌農学校の卒業時に親友の新渡戸稲造や宮部金吉と三人で誓い合った「自分たちの将来を二つのJ(JesusとJapan)に捧げる」という思いを再び噛みしめることになったのです。その思いは、アーマスト大学時代に愛用していた自らの聖書に「自分の墓碑銘」としたいと書き綴った言葉にも表れています。

I for Japan;(我は日本のため)

Japan for the World;(日本は世界のため)

The World for Christ;(世界はキリストのため)

And All for God.(そして、すべては神のため)

 こうして内村鑑三は、生涯にわたって「二つのJ」、すなわちイエス(Jesus)と日本(Japan)のための生き方を追求していくのです(つづく)。

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内村鑑三の墓碑銘(Wikipedia)

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アーマスト時代の内村鑑三の聖書(内村鑑三記念文庫デジタルアーカイブ)

キリシタンの名前の記録(Tさん2021.03.12 UP 
 

 Yさんの記事をアップしていて思ったのですが、宣教師のみなさんは、実に一生懸命に日本人信者の名前を聞こうと努力していたのですね。例えば「孫兵衛」さんであれば、今の私たちなら「マゴベー」とか読みますよね。でも、当時のイエズス会の記録を基にしたと思われる19世紀の本には「Mangobioye(マンゴビェ)」と書かれていました。口に出して読むと分かるのですが、この呼び方は、鼻濁音が強調されがちな東北人の発音に近いものがあります。他にも「伊兵衛」さんは「Ifioye(イフィェ)」とか 「幸右衛門」さんは「Coiemon(コィエモン)」など、実に丁寧に日本人名を聞き取ろうとしていたことが分かります。宣教師のみなさんは西洋人なのですから、マテオ孫兵衛(Mathieu Mangobioye)さんなら「マシュー」、パウロ金助(Paul Kinsouke)なら「ポール」と呼ぶ方がどんなに楽だったかもしれません。しかし、東北地方の一信者の殉教の記録が洗礼名と日本人名でイエズス会に残っているということは、日本人信者を宣教師さんたちが、苦労しつつも日本人名で日常的に呼んでいたことの証しなのではないでしょうか。

 「神であるは、その土地の土で、あらゆる野の獣とあらゆる空の鳥を形造って、人のところに連れてこられた。人がそれを呼ぶと、何であれ、それが生き物の名になった。人はすべての家畜、空の鳥、すべての野の獣に名をつけた。」(創世記2章19~20節)。この箇所を引き合いに「だからキリスト教を基盤とする西洋文明は自然を支配しようとするのだ」という短絡的な論評をする人もあります。でも、そうではありません。みなさんも自分の大切なものには名前をつけて呼び、大切にしてきた経験がありますよね。「名前を付ける」「名前を呼ぶ」ということは、「愛情をもって大切に接し、そのものに責任を持つ」ことです。神様はきっと「生き物を自分のものとして好き勝手に支配しなさい」ではなく、「すべて生き物を愛情と責任をもって人間が大切にしてあげなさい」とおっしゃりたかったのでしょう。

 イエズス会については「プロテスタントの拡大に反撃するためにつくられた組織だ」とか「改宗しない日本人を奴隷として輸出していた」とか歴史的には批判もあります。でも、少なくとも日本人信者の名を呼んで励まして一緒に殉教したこれらの宣教師さんたちは、慣れない東北の地で聞き取りにくい日本人の名前を一生懸命覚えながら、愛情と責任を持って神の国を説いていた人々のように私には思えます。

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ピーテル・パウル・ルーベンス「楽園のアダムとイブ」1615年。

 
キリシタン殉教の碑(Yさん2021.03.10 UP

 仙台駅方面から仙台城址に向かう途中、広瀬川を渡る大橋の東端(仙台市中心部側)付近に、キリシタン殉教の碑があるのをご存知ですか。伊達政宗のキリシタン禁教令によって広瀬川に連れてこられ、ここで殉教を遂げたディオゴ・デ・カルヴァリォ(Diogo de Calvalho)神父と8人の日本人信者たちを記念した碑です。

 東北地方から北海道にかけての地域で伝道に尽くしていたイエズス会のカルヴァリォ神父は、後藤寿庵→本ページ「後藤寿庵」参照の領地であった見分村(現在の岩手県奥州市水沢区福原)を訪れ、そこを足掛かりとして布教活動を続けていました。しかし、元和9年11月4日(現在の暦で1623年12月25日)には寿案の家臣らとクリスマスを祝ったその1ヶ月後、迫害の嵐が水沢を襲うことを知って自ら寿庵のもとを去ります。そして日本人名「長崎五郎衛門」(仙台の殉教の記念碑の銘板には「長崎五郎衛門 なんばん人」とある。以下、「 」内の日本名は記念碑の銘板による)を使い、当時、下嵐江(おろし:現在の奥州市胆沢区若柳下嵐江)の鉱山で働いていた60人余りのキリシタンの一人であるマチヤス伊兵衛(Mathias Ifioye: 文献によってマテオ・ジヒョーエ(次兵衛/治兵衛)、マチヤス・イヒョーエ(伊兵衛)など表記が分かれている。同前「次兵衛 相模ノ者」とある。)の柴小屋に身を潜めました。しかし仙台藩の執拗な捕手らによるついに発見されたカルヴァリォ神父は、他の6人の信者たちと共に逮捕されました。彼らは一度、見分村まで連れて行かれ、さらに水沢へ送られました。そして、見せしめのために「キリシタン」と書かれた幟旗を背負わされ、村々を引き回された。この日は大雪だったので高齢のアレキシス孝右衛門(または幸右衛門、Alexis Coiemon)とドミンゴス道斎(Dominigos Dosai)が著中で首を刎ねられ、その身体は武士たちの試し切りの材料にされたと言います。元和9年12月21日(今の暦で1624年2月9日)の事でした。

 水沢で一行は、仙台から派遣された2人の奉行、澤岡備後(笹岡備後)と橋本豊後に引き渡されました。彼らはカルヴァリォ神父にある時は優しく、ある時は威嚇しながら棄教を勧めたものの、神父は「真の神の教えを曲げるよりは、身体が煙草のように切り刻まれることを望む」と言って、少しも応じる気配を示しませんでした。そこで役人たちは、マテオ孫兵衛(Mathieu Mangobioye、同前「安間孫兵衛 遠江ノ者」)の妻サビナ(Sabina日本名不明)を呼び出し、神父に「女性なのだから、教えを捨ててもよい」と言うように迫ってみたが、神父は「そんなことはしたくないし、またできもしません」と応じたのです。奉行たちは、神父が顔を出すと却って信者たちの信仰が堅固になるのを見て、今度は手を変えカルヴァリォ神父を牢に送り、他の信者たちに対して転宗するよう説得したが、これも効き目がありませんでした。そこでパウロ金助(または金七、Paul Kinsouke)、レオ権右衛門(Leon Gonyemon、同前「佐藤今衛門 若松ノ者」)、マテオ孫兵衛(Mathieu Mangobioye、同前「安間孫兵衛 遠江ノ者」)の3人を呼び出し、拷問の責め道具である足枷をつけ、骨が砕けるほど締め付けたりしましたが、3人とも苦痛に耐えて最後まで「転ぶ」の一言も発しませんでした。そこで奉行たちは、もはや助ける手立てはないと判断し、カルヴァリォ神父以下計7名を仙台に護送することにしたのです。その途中、元和9年12月22日(今の暦で1624年2月10日)のこと、3人のキリシタンが一行を待ち受け、自分たちも護送してほしいと奉行たちに頼み込みました。しかし3人のうちの1人は他藩の領民だったため断られ、2人のみが一向に加えられて計9人が仙台に護送されていきました。

 一行が仙台についた後、一旦は獄舎に繋がれましたが、元和9年12月30日の大みそかの午後(今の暦で1624年2月18日の午後二時ごろ)からは、広瀬川の大橋付近の河原に掘られた広さ3㎡深さ60㎝ほどの水牢に裸のまま杭に縛り付けられ、寒風に3時間ほど晒されて転宗を迫られ続けました。苦痛を耐え抜いて水牢から引き揚げられた時には、全員が全身の感覚を失っており、砂上に倒れ込みました。この日、マテオ次兵衛(Mathias Jifioye、同前「次兵衛 相模ノ者」)とジュリアン治右衛門(Julian Jiemon、同前「次右衛門 越中ノ者」)は絶命した。生き残った7人は、その四日後の元和10年1月4日(今の暦で1624年2月22日)、正月が開けると再び水牢に入れられました。カルヴァリォ神父は、自分が牧する信者たちが次々と息を引き取るのを見守りながら「福者よ、幸あれ」「行け我が子よ、天主様の平安の中に」(『日本切支丹宗門史』の訳語)と激励し、最後まで生き残ったといいます。群衆は次第に立ち去っていきましたが、彼らを見守っていたキリシタンたちによれば、カルヴァリォ神父が最後まで責め苦に耐え、真夜中に息を引き取るまで毅然とした態度で人びとに教えていた言葉を口にしていたのを見たのです。

 今、広瀬川の河畔にある三体の記念像は、中央がカルヴァリォ神父、両端が殉教者の象徴としての武士と農民を表しています。碑文によると、水牢での水責めが執行されたのはまさに厳寒の最中だったといいます。この事件は、消すことなくしたたかに私たちが踏んで行かなければならない「現代の踏み絵」であり、その史実は今後も伝えて行かなければならない者でもあります。

 「世に勝つ者はだれでしょう。イエスを神の御子と信じるものではありませんか。」(ヨハネの手紙第一5章5節)。「世に勝つ者」とは、キリストが十字架によって獲得してくださった勝利を信じて受け入れる者です。イエス様は「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネの福音書16章33節)と言われました。私たちが神様の求める姿勢で生きるとき、いずれ神様からの祝福があります。 

 御霊よ、安かれ。春が訪れた広瀬河畔の殉教碑の下では、さざんかが紅色の花を美しく咲かせていました。

 

*註:ここに出てくるキリシタンの名前は文献によって微妙に揺らいでいる。その理由として①宣教師たちが聞き取った日本人名が様々である、②洗礼名を何語で発音するかで日本語表記が異なってくる、の二つの理由がある。例えばマテオ孫兵衛(聖書的にはマタイ、英語読みだとマシュー)は、文献によって「マテヤス」となっている。そこで本文中の表記は、岩波文庫の『日本切支丹宗門史』に、欧文表記を岩波文庫のもととなったフランス語のLeon Pages, Historie de la Relidgion Chrestienne au Japon depuis 1598 jusqua 1651, 1867に拠った。ただ、Pagesの本では、神父が匿われていた家は[Mathias Ifioye]のもの(p.570)で、広瀬川で治右衛門ジュリアーノと凍死した人物は[Mathias Jifioye](p.575)と揺らいでいる。また治右衛門ジュリアーノも直前で[Fiemon](p,573)と表記されている。なお、ポルトガル人であるカルヴァリォ神父は、同書では「P. de Calvalho(デ・カルヴァリォ神父)」と書かれている。神父の名前「ディオゴ」はポルトガル語のヤコブの意味であるが、多くの文献でスペイン語読みの「ディエゴ」と誤記されている。

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仙台市の広瀬川河畔にある殉教碑

キリシタンの殉教と東北の布教(Yさん2021.03.07 UP 
 

 戦国時代が終わり、豊臣秀吉、そして徳川政権になるとキリスト教が禁止され、キリシタンは迫害されるようになりました。キリスト教への激しい弾圧が始まると、キリシタン大名の高山右近や外国人宣教師たちは国外に追放されることとなりました。それでも隠れて残っていた宣教師たちも、次々と殉教していきました。

 先行文献によると1614年から1639年までの殉教者は、教会の把握で宣教師134人、信徒1910人にのぼると言われています。ラウレスの資料によると、刑死3171、獄死874の計4045人になり、『日本史小辞典 キリシタン』を執筆したチースリクは、推定4~5万人としています。実際、カトリック教会は1867年に205人を聖人として列福し、その後16人を追加、2008年には188人の殉教者を列福しました。いずれにせよ、多くのキリシタンが処刑されました。処刑から逃れて残された者たちは潜伏し、江戸時代を通じ「隠れキリシタン」となって信仰を継承したのです。

 東北キリシタン弾圧について山口陽一氏(東京基督教大学)は、講演の中で次のように話されていました。「東北における本格的キリシタン宣教は1611年、伊達政宗(1567~1637年)が、ルイス・ソテロ(1574~1624年)を仙台に招いたことに始まる。政宗はすでに徳川幕府の迫害が始まっていた1613年、支倉常長を貿易の交渉の使節としてイスパニアに派遣する。1614年1月(慶長18年12月)徳川幕府の『伴天連追放令』が発せられ京阪で迫害が始まる。同年4月、機内のキリシタン71人(京47、大坂24)が津軽に追放された。

 1613~1620年、支倉常長が派遣されていた時期が、仙台を中心とする東北布教の最盛期。しかし、仙台藩では目的を果たせず、支倉帰郷の日から迫害が始まる。家臣後藤寿庵を追放し、迫害を逃れたキリシタンが南部(盛岡)に潜入した。南部では1635年から翌年にかけて約146人が処刑、1624年、仙台でディエゴ・カルワリオ神父らが殉教、以降、寛永期の東北各藩の殉教者数は、久保田(秋田)140人、弘前88人、仙台363人、南部146人、米沢88人、庄内25人、白石7人、山形38人、白河16人、会津57人、二本松14人、新庄10人、計990人を数える。」(第52回朝祷会全国大会〈仙台〉講演会、於・松島町ホテル大観荘、2013年6月8日より、引用元はフーベルト・チースリク監修、太田淑子編『日本史小百科 キリシタン』東京堂出版、1999年、104~105ページ)。

 一方、長崎では宣教師がみな処刑されたあと、バスチャンという日本人伝道士が残されましたが、彼もまた見つかり、激しい拷問の末首を刎ねられて死んでしまいました。このバスチャンが死刑になる前に、4つの予言を遺したと言われています。そして、この予言を長崎の隠れキリシタンたちは代々伝えていきました。その予言とは、以下の4つです。(1)これから7世代後、自由に礼拝できる日が来る。(2)黒船に乗って神父がやってくる。(3)どこでも大声でキリシタンの歌を歌うことができる。(4)道で異教徒とすれ違う時は相手が道を譲るようになる。隠れキリシタンはこの予言を大切に信じ、厳しい徳川の時代が終わるのを待っていました。この長い時代を待つのは、どれほど辛かったことでしょう。しかし彼らは神様を信じ、バスチャンの予言に希望を見出して待ったのです。そして、その通り250年後に、従軍牧師がアメリカのペルーの黒船に乗ってやって来たのです。黒船の到来は、幕府や多くの日本人にとっては「不安」であり「招かれざる客」でした。しかし、長い過酷な時代をくぐり抜けたキリシタンたちにとっては、まさに希望の光だったのです。その後、禁教令が解かれ、キリスト教が再び公になったことは、ご存知のとおりです。

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殉教したキリシタンたちを埋葬した宮城県登米市東和町米川の「海無沢三経塚」(登米市HPより)

支倉常長(3)(Yさん2021.02.27 UP 
 

 洗礼を授かることは、誰にとっても特別なイベントです。慶長20年1月20日(今の暦で1615年2月17日)、支倉常長は宰相レルマ公を代父として、国王隣席の下、王立フランシスコ会洗足(デルカルサスレアレス)修道院附属の教会で洗礼を受けました。洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコでした。山口陽一氏(教授、東京基督教大学)は、2013年に宮城県松島市で開かれた講演の中で、『支倉常長』という本の記述を引用し、その時の様子を以下のように語られました。

 「教会には豪華絢爛たる天蓋が吊るされてあって、多くの貴顕大官が陛下の護衛兵と共においでになり、陛下は私たちが大聖堂に入るまでに騎士や聖職者多数を随伴された。大祭壇の左側階段の上に祭壇が一つ、洗礼用の品々と一緒に置かれ、同じ階段の一方に日本の人達が、他方には王女の侍従長アルタミラ伯と大使(常長)とが分かれて(着座していました)。王室礼拝堂付主任司祭ドン・ディエゴ・デ・グスマンは王妃の礼拝堂に昇りましたが、そこには代父のレルマ公と代母のバラハス侯爵夫人が着座される席が設けられていました。彼らが到着されると、王室礼拝堂の司祭全員が蝋燭と松明に火を点し、主任司祭が正装して現われました。洗礼は甚だ荘厳に執り行われ、大使はたいへん経験に心を尽くして洗礼を受けました。水が注がれると、王室礼拝堂では聖歌隊員達や聖職者達によってラウダテ・ドミムヌの歌が始まり、オルガンが奏されましたので、教会は天国のように思われました。」(五野井隆史『支倉常長』吉川弘文館、2003年、115~116ページ。原典は「マドリード歴史学士院図書館文書」)。

 支倉常長の帰国後の日本は、ご存知のようにキリスト教の禁教令が敷かれていました。常長も、伊達政宗に謁見する条件として「以前の宗派に戻ること」を条件にされました。それでは、支倉常長は本当にキリスト教を捨ててしまったのでしょうか。先にあげた山口陽一氏は、「棄教説」が本当だとしたら、彼の信仰を示すような肖像画や十字架のメダイ(十字架やマリア像がペンダントヘッドになったネックレス)を処分することが得策ではないか。しかし支倉家はそれらの将来品を持ち続けた(右の写真、真ん中の筋は仙台藩の追及から隠すために二つ折りにおられた痕と言われている)。しかも子や家人に信仰は継承された。これらの事からも、支倉常長は生涯親交を持ち続けたと考えるほうが自然ではないか、と言っておられました。支倉家は、常長の嫡子・常頼が後を継いだものの、寛永17年(今の暦で1640年)に家臣がキリシタンであったことの責任を問われ処刑され、断絶されました。しかし寛文8年(今の暦で1668年)に、常頼の子・常信の代に許され、家名は再興しました。現在は、14代にあたる支倉正隆氏が仙台市に在住されています。

 遣欧使節団の大任を受けて出発した支倉常長でしたが、本来の目的であったスペイン貿易については失敗に終わっています。しかし、前回お話ししたように、スペインのマドリード、イタリアのローマに訪問し、現地で洗礼を受け、世界に日本を紹介した使節としての歴史的意義は極めて大きかったと言わざるを得ません。

 常長は受洗の際、自分で「日本の騎士たちの見習うべき模範となるため」の受洗であると表明したそうです。それは神様からの使命を果たすために、自ら伊達家を離れるという大きな決断でもありました。それだけに常長の信仰の志は高く、堅固なものであったに違いありません。そのような志は、まさしく「武士の模範」であり、仙台藩のみならず世界を視野に入れた日本人の先駆けとして崇敬すべき人物ではないでしょうか。支倉常長の功績は、ヨーロッパだけでなく、世界の懸け橋としていつまでの人々の心に残るでしょう。私たちも、神様を求める姿勢で生きるとき、いずれ神様からの祝福が訪れてきます。

 「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。」(イザヤ書43章19節)

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仙台市博物館所蔵の支倉家伝来の「支倉常長像」(クロード・デリュエ作)

支倉常長(2)(Yさん2021.02.26 UP 
 

 支倉常長の評判は、すべての行程を通じて良いものでした。セルビアでの歓待を受けた後、一行はマドリードに移動し、慶長19年11月5日(今の暦で1614年12月5日)に到着しました。同じころ、日本ではキリシタン大名の高山右近が、徳川家康によるキリシタンの国外追放令を受けて同年10月6日(今の暦で1614年11月7日)に高山右近らがマニラに追放になり、また大坂冬の陣が起きるなど国内の状況は大きく変わろうとしていた。

 一方、支倉常長は慶長20年1月2日(今の暦で1615年1月30日)に、王宮でエスパーニャ国王フェリペ三世に謁見し、政宗の書状と進物を呈して使節の使命を述べました。その書状の中には、幕府のものとは異なり、キリスト教の布教に便宜を図ることが示されていました。しかし王は、福音の布教を第一に求めるとのみ応じただけでした。慶長20年1月20日(今の暦で1615年2月17日)、常長は宰相レルマ公を代父として、国王隣席のもとで王立フランシスコ会洗足(デルカルサスレアレス)修道院附属の教会で洗礼を受けました。洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコでした。

 ここからローマへの旅の許可はなかなか下りず、一行がマドリードを出発したのは半年後の慶長20年7月2日(今の暦で1615年8月25日)であり、ローマについたのは元和元年9月3日(今の暦で1615年10月25日)でした。しかし支倉常長は日本の一地方領主の使節でしかなく、また日本におけるキリスト教迫害の状況が伝わりつつあったこともあり、使節の目的達成は困難を極めていました。この間、メキシコのアカプルコに残されていた商人たちのある者はサン・ファン・バウティスタ号で、一度、日本に戻りました。

 一方、ローマに移動した支倉常長は、元和元年9月7日(今の暦で1615年10月29日)にローマ市による盛大な入市式の歓待を受けました。元和元年9月10日(今の暦で1615年11月1日)にはサン・ピエトロ教会で、教皇の祝福を受けています。元和元年9月12日(今の暦で1615年11月3日)には、非公式ながらローマ教皇パウルス5世との謁見をし、伊達政宗からの書状を奉呈しています。右の写真(モバイル版では上の写真)は油彩で書かれた「支倉常長像」で、現在はボルゲーゼ宮に所蔵されています(ボルゼーゲ家はパウルス5世の出身で、また支倉常長を接待したボルゲーゼ枢機卿の家)。この絵画は縦196㎝、横146㎝の大きなもので、アルキータ・リッチの作と言われています。この絵の中の支倉常長は、絹と金糸銀糸をもって織られた鳥獣草花の飾りをあしらった白地和服を着ていますが、これは謁見時の支倉常長の服装の記録と一致しています。さらに元和元年9月24日(今の暦で1615年11月15日)には、機内のキリシタンの請願書を提出するために、再度、ローマ教皇に謁見しました。また元和元年9月29日(今の暦で1615年11月20日)には、ローマの市民証書を授与され、貴族に列せられました。こうした数々の業績を残しながら、一行は、元和元年11月18日(今の暦で1615年1月7日)にローマを出発し、随員15名とともにセリビア経由でメキシコに向かいました。元和2年5月9日(今の暦で1616年6月22日)のことです。

 ちょうど日本では、同じころ(元和2年4月17日、今の暦で1616年6月1日)に徳川家康が没しました。エスパーニャやローマにまで訪れた支倉常長でしたが、この時、すでに日本国内ではキリスト教の弾圧が始まっていました。そのこともあって、結局、支倉常長の通商交渉は成功することはなかったのです。彼は、数年のヨーロッパ滞在の後、元和6年8月24日(今の暦で1620年9月20日)に帰国しました。こうしてはるばるローマまで往復した常長は、2年後に失意のうちに亡くなりました。元和8年7月1日(今の暦で1622年8月7日)、51歳のことでした。(つづく)

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アルキータ・リッチ「支倉常長像」17世紀。

支倉常長(1)(Yさん2021.01.30執筆
 

 倉常長は、1571(元亀2)年に支倉(山口)常長の次男として、置賜郡立石邑(現在の山形県米沢市立石)に生まれました。その後、子どものいなかった伯父・支倉時正の養子となって7歳の時から、陸奥国柴田郡支倉村(現在の宮城県柴田郡川崎町支倉)にあった上盾城で青年時代を過ごしました。その後、時正と後妻の間に子ども(久成)が生まれたため、主家の伊達政宗の命で家禄1,200石を二分し600石を分与され、支倉家の分家となりました。

 1612(慶長17)年、常長は第一回目の使節では使節団の正使に任ぜられ、サンフランシスコ会の宣教師ルイス・ソテロを副使として、ともにサン・セバスチャン号で浦賀から出港するものの、暴風にあって座礁してしまいます。その後、いったん仙台に戻り、月の浦(現在の宮城県石巻市月の浦/月の浦ではなく現在の石巻市雄勝町という説もある)で新造されたガレオン船サン・ファン・バウティスタ号で、慶長18年9月15日(今の暦で1614年10月28日)に180人余りとともに月の浦から出港しました。ソテロが徳川家康と将軍・秀忠の使者として、常長が伊達政宗の使者としてイスパニアに向かいました。ヨーロッパとの貿易を望む徳川家や伊達家と、それを利用して宣教の拡大を狙うソテロらの思惑が一致した旅立ちでした。

 サン・ファン・バウティスタ号は太平洋を横断し、慶長18年12月16日(今の暦で1614年1月25日)に、90日の旅を経てアカプルコ(現在のメキシコ国アカプルコ市)に到着しました。ちょうど同じ頃、幕府は金地院崇伝起草の「伴天連(バテレン)追放之文」を交付します。同年12月22日(今の暦で同年の2月1日)のことでした。一方、支倉常長は、陸路メキシコ市へ向かい、慶長19年2月14日(今の暦で1614年3月24日)に到着します。その翌月の慶長19年3月1日(今の暦で1614年4月9日)に20名が、同3月12日に(今の暦で4月20日)に22名が洗礼を受けました(20名は日本ですでに洗礼を受けていて、一方、支倉常長はこの時には受けていません)。しかし、同じ慶長19年に日本では71名のキリシタン信徒が津軽に流される「慶弔十九年の大追放」「津軽大流刑」が行われるなど、弾圧が始まっていたのです。一方、支倉常長の本来の仕事であり、徳川秀忠や伊達政宗が望んでいたメキシコとの貿易交渉は不調に終わりました。その上、メキシコ副王グアダルカサルからは、日本におけるキリスト教弾圧への批判をされてしまいました。そのため、ソテロと支倉常長ら30名は、慶長19年5月3日(今の暦で1614年6月10日)、サン・ホセ号という別のスペイン船でイスパニアを目指して出発しました。(今の暦で1614年6月10日)。

 慶長19年9月2日(今の暦で1614年10月5日)にイスパニアの地(今のイベリア半島)のソテロの故郷の港に到着した一行は、そこから川を上り慶長19年9月18日(今の暦で1614年10月21日)にセルビアの街に迎い入れられます。セルビア市の市長は、支倉常長のことを「この人物は分別があり、何事にも大変気づかいを見せている」と好意を示したそうです。また商工会議所長は、「彼は尊敬に値し、落ち着いていて物事を弁え、言葉遣いがきちんとした控えめな人物のように思われる」と評しました。(つづく)

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宮城県石巻市の「宮城燃慶長使節船ミュージアム」に係留されている実物大のサンファンバウティスタ号(復元船)。

ヨセフの物語(Mさん
 

 みなさんにもなじみの深い、旧約聖書の創世記に出てくる「ヨセフの物語」です。ここを読むとき、私は「塞翁が馬」→「goo国語辞書」の「塞翁が馬」参照「禍福はあざなえる縄のごとし」→「goo国語辞書」の「禍福は糾える縄の如し」参照の故事やことわざを思い出します。

 ヨセフはヤコブの11番目の息子として生まれ→「聖書の舞台(人物・組織)」のあ行「イスラエルの民」参照、父ヤコブに寵愛されていましたが、そのために兄たちには妬まれていました。ある時、ヨセフは「兄たちが自分の家来になる」という、自分が見た夢を無邪気に語ったことで兄たちの怒りを買い、殺されかけました。しかし、ひとりの兄の発案で「殺すよりも売った方がいい」ということになりイシュマエル人に売られ、エジプトに奴隷として連れて行かれました。エジプト王(ファラオ)の侍従長であったボティファルの家に売られたヨセフは、主人に可愛がられ、その家の全財産の管理を任せられるぐらいまでに信頼されました。しかし、ポティファルの妻から誘惑を受けたとき「どうして、そのような大きな悪事をして、神に対して罪を犯すことができるでしょうか。」(創世記39章9節)と拒絶しました。ヨセフに拒まれた妻は「私が声をあげて叫んだので、あの男は私のそばに上着を残して、外に逃げました。」(39:18)と夫に言い、その讒言に怒ったポティファルはヨセフを投獄します。しかし獄中でも、「主がヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。」(39:21)のです。

 ヨセフが入った監獄には、ミスを犯したファラオの献酌官と調理官が投獄されていました。二人は同じ夜にそれぞれ夢を見るのですが、その夢の解き明かしをヨセフがしました。献酌官はヨセフの夢の解き明かしのとおり三日目に元の地位に戻ることができ、一方の調理官はファラオの命で木につるされて命を落としました。元の地位に戻ることになった献酌官に、ヨセフは「あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください。私のことをファラオに話して、この家から私が出られるように、私に恵みを施してください。」(39:14)と頼みますが、彼はそのことを思い出さず、ヨセフのことをすっかり忘れ去ってしまいます。

 それから二年の月日が流れ、ファラオは不思議な夢を見ます。その時、かつて一緒に投獄されていた献酌官はヨセフのことを思い出し、ファラオにヨセフによる夢の解き明かしを進言します。ヨセフが夢の解き明かしをすると、ファラオはヨセフの忠告を受け入れます。そして、ヨセフに神様がついていることを確信し、これから起こるであろう飢饉への備えを万全にするため、ヨセフにエジプトの全土の支配の代行を任せました。このころヨセフは妻を迎え、二人の子どもに恵まれます。彼は、その子らをマナセ(「神が、私の労苦と、私の父の家のすれてのことを忘れさせてくださった」から「忘れる」という意味で)とエフライム(「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」から「実る」という意味で)と名づけました。飢饉は全世界に及び、世界中の人々がエジプトのヨセフのところへ食べ物を買いにやってくるようになりました。

 ヨセフの兄たちも、やはり穀物を買い求めてエジプトに向かいました。このとき、父ヤコブは、末子でヨセフの弟であるベニヤミン(この二人は母を同じくします)だけは手元に残し、残りの十人の兄弟をエジプトに向かわせました。エジプトの事実上の支配者となったヨセフは、かつて彼を売った兄たちと再会しますが、この時は自分が何者なのかを明かさず冷たくあしらいます。ヨセフは、兄たちのうち一人をエジプトに監禁して、末の弟ベニヤミンを連れて来ることを条件に他の兄弟を解放しました。その際、穀物を満たし持参した銀をそれぞれの袋に帰して家族のもとに帰らせましたので、彼らはエジプトの支配者(実は身分を明かしていないヨセフ)に濡れ衣を着せられてしまうと恐れてしまいました。さらに父ヤコブは、兄弟たちから事の成り行きを聞き、死んでしまった(とされてしまった)ヨセフの次にかわいがっていたベニヤミンを連れて来いという、エジプトの支配者(ヨセフ)の無理難題に当惑し、反対しました。だが飢饉がひどくなって再び穀物が枯渇すると、父ヤコブは、とうとうベニヤミンをともなってエジプトに行くことを許します。ヨセフは、とうとう愛する実弟ベニヤミンに再開することができたのです。

 しかし、ベニヤミンと離れ難かったヨセフは、自分の家の管理者(執事)に命じてベニヤミンの袋に銀の盃を忍ばせました。そうしておいて、帰途についた兄弟たちを追撃して盗難の難癖をつけ、そんなことはないと平謝りに謝る兄弟たちに荷物検査を持ちかけ、「それが見つかった者は私の奴隷とし、ほかの者は無罪としよう。」(44:10)と提案します。ベニヤミンを連れ去られた兄弟たちは町へ引き返し、ヨセフに面会を求めます。そして兄の一人がヨセフに土下座をし、どんなに父が末の弟を愛しているか。そして過去に父の愛した別の弟(ヨセフのこと)を死んだことにしてどんなに父を嘆かせてしまったのか。だから自分を代わりに奴隷にしてもいい、弟を解放してほしいと訴えたのです。この兄こそ、かつて「さあ、ヨセフをイシュマル人に売ろう。」(37:27)と提案した兄ユダだったのです。

 感極まったヨセフは兄たちを近くに寄せて顔を見せ、ついに自分のことを明かしました。そして、これまでのいきさつを話したのです。彼は兄弟たちにこう言いました。「神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。」(45:5)、「ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。」(45:8)。ヨセフは、兄たちから受けたひどい仕打ちも、自分が受けた数々の試練も、実は神様が多くの人を救うためのご計画の一部だったことがわかったのです。こうしてヨセフは、父ヤコブたちの家族を自分のもとに呼び寄せ、ヤコブは一族を連れて神様の祝福のもと、エジプトで移り住み平安のうちに余生を過ごしました。

 みなさんは、この波乱万丈なヨセフの人生をどのようにおもわれますか。「兄たちが自分の家来になる」と言う夢の解き明かしを無邪気に語っていたヨセフは、様々な出来事を通して成長して、神様の祝福のもと大いなる業を成し遂げました。そんなヨセフの人生に学ぶ点が多いと思います。私たちの人生においても、ある日奈落の底に突き落とされたような、孤独で苦しく絶望的な状況に陥って茫然自失となることがあるかもしれません。しかし「ヨセフの物語」を通して、試練や誘惑を経て、徐々に物事が好転していくことを見ることができました。主が必ずともにいてくださり、導いてくださることを信じましょう。良いことの後に悪いことが起きても、決して悲嘆せず恐れずに、神様のみこころを信じて、神様にお委ねしていきたいと思います。そして人生を振り返った時に、主が何時どんな時も導いてくださったことに感謝できるものでありたいと思います。

参考絵画

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ペーター・フォン・コルネリウス「​兄弟たちと再会するヨセフ」(1816年)

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創世記39章23節

それは、主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからです。

創世記42章18節

私も神を恐れる者だから。

創世記45章8節

ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。

後藤寿庵(Yさん2021.01.21執筆
 

 後藤寿庵(1577(天正5)年?~1638(寛永15)年?)は、戦国時代から江戸時代の初めに生きた武将で、生没年は不祥です。豊臣秀吉の小田原攻めの後、小田原攻めに参加しなかった主家・葛西氏が滅びると今の岩手県一関市付近にあった領地を追われ、長崎に移り住み、五島列島で洗礼を受けてジョアン(ヨハネの意味)の洗礼名を受けました。もともとは岩淵姓でしたが、「五島のジュアン」という意味で、これ以降「五島寿庵」と名乗ります。

 その後、江戸時代に入った1611(慶長16)年、京都の商人・田中勝介の推薦により、支倉常長を通じて伊達政宗に仕えるようになりました。1612(慶長17)年には、政宗の家臣・後藤信康の義弟となり「後藤寿庵」と改姓して、見分村(現・奥州市水沢福原)に1,200石の領地を拝領することになりました。寿庵は、1618(元和4)年ごろから、原野であった見分村の開拓を進め、17㎞にわたる「寿庵堰」という水路を築きました。この水路は、今も岩手県随一と言われる水田地帯をささえています。

 その一方で寿庵は、熱心なキリシタン領主でもありました。領内に天主堂やマリア堂を建て、家臣らのほとんども信者となりました。寿庵の領地には、全国から宣教師や信徒たちが訪れたといいます。ところが、三代将軍・徳川家光の治世となるとキリスト教の禁教が厳しさを増し、主君・伊達政宗も取り締まりの強化を命じられるようになりました。だが寿庵の才能や働きを惜しんだ政宗は、「布教しない」「宣教師を近づけない」ことを条件に、信仰を許そうと働きかけました。しかし、寿庵はこの申し出を拒否したのです。ある方は、その時の様子をこのように解説しています。「ジョアン(寿庵)は一通の書状を奉行たち宛にしたためた。それは政宗の目にも触れることになったが、その書状の中で、彼は殿に対して義理を感じており、必要あらば、殿のために生命を捨てることも辞さないが、信仰のことについての命令に従うことはできないと述べ、さらにもし殿が自分を追放したり死罪に処しても、憎しみを抱かずにそれを甘受する用意ができているが、もし生きることを許されるのであれば、それが日本の何処であっても、そこで殿のために中金に励み、生命を捧げるつもりであると明言した。」というのです。寿庵は、堰の完成を待たずに南部藩に逃亡したとも、出羽秋田藩に逃亡したとも言われています。伝承では、その後、「南部藩浪人」との触れ込みで、伊達藩領である米川村(現・登米市東和町米川)に戻ってひそかに農業に従事していたが、ついに捕らえられ処刑されたといいます。現在も米川には、寿庵の墓と伝えられている石が残っています。

 時は流れ、1924(大正13)年、後藤寿庵は、開拓治水の功績で従五位が追贈され、また1931(昭和6)年には彼の屋敷跡に、このことを記念する記念碑が建てられました。「寿庵堰」は弟子たちが完成させ、多くの田畑を潤し続けました。「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。」(ルカの福音書9章24節)。生命をかけて神様に従い、信仰を守り、人に仕えた後藤寿庵の「いのち」は、脈々と受け継がれ、田畑だけでなく多くの人の心を潤し続けています。

​旧・胆沢町教育委員会による寿庵堰の説明版

スンダル・シングの生涯(Yさん2021.01.17執筆
 

 「生命と全ての恵みを与えたもうあなたご自身以外、何の恵みも求めません。あなたから世界やその宝、天国すら欲しがりません。ただあなただけを求め、慕い焦がれます。あなたがあらわれるところ、そこが天国だからです。」

 スンダル・シング(Sundar Singh 1889-1929:現在はサンダー・シングと呼称することが多い)は、北インドのパンジャブ州ルディヤーナー県にあるランプール村で、裕福なシーク教徒の家庭に生まれました。シングの母親は、近くのジャングルに住むインドの行者のもとで学ばせると同時に、英語を学ばせるためにユーイング・キリスト教学校に通わせていました。彼が14歳の時に母親と兄を相次いで亡くしました。その時の心の傷みは大きく、その解決を求めてインド聖典を精読し宗教家に教えを乞うようになった一方で、キリスト教には非常な反抗を覚えるようになりました。司祭の話すキリスト教の話には全く意味がないと感じた彼は、友人の目の前で聖書を破いて燃やしました。そして「本当の神」であれば自分の目の前に現れるはずだと鉄道自殺をする決心をしたのです。その夜、シングは生けるキリストに出会います。イエス・キリストは彼に「なぜ、おまえは私を迫害するのか。おまえのために、また全世界のために、わたしは十字架の上で死んだのだ。」と語りかけます。この体験により、シングはキリストの弟子となることを決意したのです。すると、今度は父親から勘当され、親戚からも縁を切られ、兄弟は彼を毒殺しようとするなど、親しい人たちから迫害を受けて家を追い出されるようになりました(晩年、父はクリスチャンに回心し、シングの英国伝道の費用を出してくれるまでになります)。

 1906年、16歳のシングは、行者(サドゥー、インドの托鉢僧)の姿で、聖書と身にまとう一枚の毛布(サフラン色のローブ)以外は何も持たずにキリストを宣べ伝えるようになりました。そして、その活動はヒマラヤを超えてチベットまで至りました。彼は激しい迫害に幾度となく命の危険にさらされながら、聖書の記述さながらの奇跡としるしをともなう伝道を展開する人生を歩んでいきます。やがて彼の名声は広がり、世界中から講演依頼が届くようになりました。欧米だけではなく、1919年には日本にも訪れています。1929年、シングは友人の反対を押し切って最も危険で困難な伝道地チベットを目指し、その地へ向かって旅立ったまま消息を絶ちます。シング39歳のことでした。

 生前、彼は「多くの人に歓迎せられ、自己以上に賞賛せられるところの世界は、私の任地ではない。そこには主のために負う十字架の光栄がない。しかし人跡稀な所、極寒と迫害とのチベットこそ私の任地である。」と話していたそうです。スンダル・シングの心には、いつもキリストが生きておられました。シングのこの話を聞いたとき「私もそうでありたい」と胸を打たれました。

 イエス・キリストは弟子たちに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(マタイの福音書16章24節)と述べました。このようにキリストに従って人生を歩む者は、シングらとともに、天国でイエス・キリストからの栄誉を受けることでしょう。

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スンダル・シング像

三浦綾子夫妻の夫婦論(Yさん2021.01.17執筆
 

 作家の三浦綾子さんが、かつて夫の光世さんのことを語ったことがあります。三浦さんは、代表作のひとつである小説『塩狩峠』を執筆していた頃から、手の麻痺でペンが持てなくなりました。その後は、綾子さんが立ったり座ったりして話す内容を、夫の光世さんが書きとるという作業を通して執筆活動をつづけました。その様子は、仲の良い二人の象徴的な姿です。

 三浦さん曰く「光世さんは誠実だが、短気で苛立ちやすい」「綾子さんはわがままで行儀が悪く、家事は下手だった」そうです。そんな欠点だらけの二人が、夫婦共通の「生きる目的」を持っているからこそ仲良く作業ができたのです。その「生きる目的」とは、共にキリストを信じ、神生活の中心をしたいという人生の目的でした。朝は二人で旧約聖書三章と新約聖書一章ずつを読みます。これで、ちょうど一年で一回聖書全部を読むことになります。その後は二人で一緒に祈りました。夜は、さらに長い祈りで一日を閉じます。日曜日は一緒に教会に行って礼拝し、水曜日の夜は祈祷会に行きます。

 しかし、神中心の生活目標を持っていても、それはなかなか実行できないものです。エペソ人への手紙には「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。」(エペソ5:22)と書かれています。さらに男性には「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会にご自分を捧げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。」(同5:25)と書かれ、キリストが十字架にかかられたように、妻のために命を捧げなさいと述べられています。「愛する」とは、命を相手に捧げるほど真剣なもので、甘いものではないというのです。私たちの何人が、このエペソ人への手紙の5章に書かれていることに従っているでしょうか。従い得なくても、結婚とはそのような命がけの生活なのだと、私たちが知ることは大切です。

 夫の光世さんは「もし、私たち夫婦の仲が良いとすれば、エペソ書のみならず、聖書のことばを曲がりなりにも本気で信じようとしている姿勢があるからかもしれない。神の御言葉に照らされると、自分の醜さがはっきりとわかる。そして、こんな私をも十字架のキリストは赦して下さっている。赦されているのだから赦し合わなければいけない。不承不承でも赦し合っていれば、仲良く見えるらしい。」と語っています。

 結局、夫婦の良好な関係は、人生における共通の目的を持つことです。その目的とは、ともにキリストを信じ、神中心の生活を送るということなのです。

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​口述筆記中の三浦綾子夫妻(三浦綾子記念館HPより)

この命がある(Yさん2021.01.15執筆
 

「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」(ヨハネの手紙第一5章12節)

 みなさんも一度は目にしたことのある味のある草花のイラストで有名な星野富弘(詩人)さんは、実はクリスチャンです。全身麻痺の中で神様に救われた喜びから、様々な場面で、過去と現在の自分の内面や外面的な姿を明らかにし、イエス・キリストの救いを証しされています。

 星野さんは、大学を卒業して中学校の体育教師になってから3か月後、23歳の時に、体操の指導をしている最中に首から落ちて頸椎を損傷し、全身麻痺となりました。その後、星野さんは、「他人の世話にならなければならない人間が生きていてよいのか」と思い悩んでいたときに聖書を読み始めたそうです。聖書を読んでいくうちに、神様は、自分のようなものでも尊ばれ、大事に扱ってくださることに気づき、信仰を持つようになりました。すると、それまで自分の中にあった「人と比べて生きる」という姿勢がなくなったそうです。

 自分のためだけに生きようとしていたときは、自分の「いのち」を本当の意味で生かしていなかった。しかし、体が不自由になった時に「手足が不自由な僕でもやることがあるんだ」との思いになれた。やがて自分のやっていることが他の人に喜んでもらえた時、一番、「いのち」が躍動し、感謝の気持ちが出てきた。星野さんはそう語っておられます。いのちとは、自分だけのものではありません。誰かのためのその「いのち」を使えた時に、本当の意味で「いのち」を得たのだと感じます。これからも自分の「いのち」を、そういうことのために使えればいいなと、星野さんはおっしゃっています。このような気持ちは、聖書を読んでいる中で、自然に持てるようになったことでしょう。結局、他人のために生きて一番平安を得たのは、他ならぬ星野さん自身だったのです。

 

いのちが一番大切だと思っていたころ生きるのが苦しかった
いのちより大切なものがあると知った日生きているのが嬉しかった

                                                                          星野富弘「いのち」より

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星野富弘『いのちより大切なもの』いのちのことば社、2012年。

心を新たにする(Yさん2021.01.15執筆
 

 新年を迎え、みなさんは何か目標を掲げられたでしょうか。クリスチャンは、クリスチャンになった時に「心を新たにする」ことが求められています。聖書はこういいます。「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合せてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるかを見分けるようになります。」(ローマ12:1~2)とあります。この聖書の箇所でパウロは、クリスチャンの生き方について三つ勧めていることがわかります。

 まず「自分のからだをささげ物として献げなさい」という点です。昔、ユダヤ人たちは羊や牛を神様に捧げました。それはいけにえの羊や牛の犠牲によって自分の罪を償い、あわせて神様への感謝の気持ちを表しました。しかし神様は、私たちのからだ(生き方そのもの)を献げることを求めておられます。それはイエス・キリストによって罪赦された私たちの感謝の気持ちなのです。神様は二心の態度を最も嫌われます。この世の中で自分の利益や自己満足のために生きるのではなく、聖書に「神の国と神の義を求めなさい。」(マタイ6:33)とあるように、神の国と神の栄光のために生きようではありませんか。

 第二に「この世と調子を合せてはいけません。」という点です。クリスチャンは、この世に生きていながら、このようでの生き方とは違った思いで生きています。私たちクリスチャンは、神様のお仕事のために労苦するよう、この世から選び出された者たちだと自負しています。この世で生きていながら、神様のこと、魂の救いのこと、永遠のいのちのことを大切にし、自分の利益や満足のためでなくみなさんが救われて幸せになるために労苦することが求められています。

 第三に「心を新たにする」という点です。それは聖書に「自分を変えていただきなさい。」とあるように、内面的な新しさを求めることです。私たちクリスチャンは、イエス・キリストを信じることによって永遠のいのちにあずかりました。新しいいのちを与えられた私たちは「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるかを見分け」て新しい生き方をすることが求められています。パウロは、別の聖書の箇所で「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(Ⅰコリント5:17)と述べ、それによって神様は「私たちをご自身と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。」(5:18)と言うのです。自分が罪赦されるだけでなく、私たちを通じて多くの人が新しくされ罪赦されるよう、神様は求めておられるのです。

 これからの日本人は、神様の前に「老いない国民」にならなければなりません。そのためには、一人ひとりが心を新たにし、イエス・キリストにあって「和解の務め」に燃えるようなはつらつとした心を持つことです。その先には、私たちの生活の一新と幸せがあるはずです。

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井戸を掘り続ける英知【中村哲さん】(Yさん
 

 砂漠にあっては、一杯の水が数十キロの黄金にも等しいほどであると同様に、「英知」によって与えられる幸福は、他のあらゆる知識をひとまとめにしたものに等しいほど貴重である(トルストイ)。

 アフガニスタンでは、いまだに国民の半数が栄養失調状態です。人口増加に加えて、気候変動による干ばつで農業生産が著しく低下しています。各家庭にライフルが1丁ずつあるような「兵農未分化」の社会ですから、住民は兵士にも農家にもなります。ですから食べるものがなく傭兵になるという人が出てくるわけです。

 アフガニスタンの支援に取り組んできた医師の中村哲さんは、国際NGO(NPO)「ペシャワール会」(事務局:福岡市)の現地代表であり、クリスチャンでもありました。中村さんは、昨年おしくも、ジャラバードで銃撃を受けてお亡くなりになりました。この中村さんは医師として1984年からパキスタン北部の辺境州カイバル・ パクトゥンクワ州の州都ペシャワールでハンセン病治療に従事し、その後、アフガニスタンの難民支援に携わりました。その中で中村さんは「武力より食糧」「100人の医師より1本の用水路」との思いから、やがて大がかりな灌漑事業を開始しました。2000年から中村さんは、言葉や習俗、文化が違う異国の地で白衣を脱ぎ、自らも井戸を掘り始めました。その数は1,600本。さらに2010年にマルワリード用水路を完成させて1万6,500ヘクタールの農地に緑を取り戻し、約65万人がその恩恵に浴しました。

 中村さんは、生前「人として“これをすべき”というものはだれでも持っているんです。でも、さらけだすのは恥ずかしい。特に九州の男はそうなんです。」と話しておられたようです。自分のことは二の次に灌漑事業につくし、「アブガニスタンのためなら死んでもいい」と話しておられて、本当になくなられた中村さんらしいお言葉です。

 中村さんは2003年に「アジアのノーベル賞」と呼ばれている「ラモン・マグサイサイ賞」を受賞されました。また2019年にはアフガニスタン政府から名誉市民権を授与されました。受賞こそされませんでしたが、彼こそノーベル平和賞に匹敵する方でした。「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5:9)。平和とは「戦争がない」という消極的な状態ではなく、信仰によって積極的につくりだすものです。中村さんの生き方こそ、まさに「平和をつくる者」そのものではないでしょうか。

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​合同葬と中村哲さん遺影

井戸を掘り続ける勇気【イサク】(Yさん

 「私たちは、主があなたとともにおられることを確かに見ました。」(創世記26章28節)。

 旧約聖書に書かれたこの言葉の前後には、古代イスラエルの二代目族長であったイサクがパレスチナの先住民との抗争をくりかえしながら自分たちの居場所を確保していった過程が記されています→「聖書の舞台(人物・組織)」のあ行「イスラエルの民」参照。旧約聖書のこの時代の、天然の泉であるオアシスがあればその周辺には町ができ、それがない場合、人々は井戸を掘って定住しました。しかしパレスチナの場合、天然のオアシスは少なく、土地への定住は井戸を掘ることからはじめられました。

 例えば日本での井戸掘りは、近世以降は技術が発達して水脈まで垂直に掘ることができるようになりましたが、それ以前は広く浅く掘ることを繰り返してすり鉢状に水源を目指して掘り進める「まいまいず井戸」のような形式も多かったのです。イサクたちの住んでいた中東では、紀元前7世紀には「カナート」と呼ばれる地下水路と深い垂直井戸が発達していましたが、イサクたちの紀元前20世紀ごろには、もっと原始的な井戸だったことでしょう。いずれにせよ井戸掘りは、気の遠くなるような長く厳しい労力を必要としました。

 それだけに掘り当てられた井戸は貴重で、その使用権はしばしば争いの原因になったのです。創世記26章15節以下にある井戸をめぐる争いの話を読むと、イサクの一族は、父アブラハムの代に掘られた井戸を埋められるという嫌がらせを、周りの異民族(ペリシテ人)から受けたことが書かれています(15節)。パレスチナのゲラル地方にあるペリシテ人たちの王国の王アビメレクは、かつてイサクの父アブラハムと契約を結び、彼らの一族が王国内に住むことを許していました。しかしイサクの一族が強力になると、争いのもととなるので王国から出て行ってほしいと申し出ています(16節)。イサクは別の地に移って古井戸を掘り返して使っていましたが(18節)、その場所の羊飼いたちにも「この水はわれわれのものだ」と主張されて争いになります(20節)。そのため別の場所で井戸を掘ったのですが、その井戸も同じように主張されて争いになります(21節)。そこでイサクは再び別の場所に移動して井戸を掘り、ようやく安住の地を得たことが記されています(22節)。

 ところが、ようやく安住の地を得たと思っていたその土地に、アビメレク王がその参謀アフザテと軍の長ピコルを伴ってやってきました。イサクは、また追い出されるのかと思いきや、実は彼らは和解のために来たことが明らかになったのです。そして彼らがイサクに言った言葉が、冒頭の「私たちは、主があなたとともにおられることを確かに見ました。」(創世記26章28節)なのです。迫害や圧迫に抵抗せず、次々と井戸を掘りあて着々と実力を蓄えていくイサクに、アビメレク王は、イサクには「神が共におられる」ことを認めざるを得なくなったのでした。私たちも、イサクの勇気、平和的な性格、そして何よりも信仰に対する神様の恵みを教えられます。「神様が共におられる」ような信仰を築ける人は幸いです。

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「まいまいず井戸」

(東京都羽村市HPより)

 
ロゴス(言)キリスト(Yさん
 

 ヨハネの福音書の冒頭に「初めにことばがあった。」(ヨハネの福音書1章1節)とありますが、この「ことば」とはイエス・キリストのことです。ヨハネの福音書はこう続けます「ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(1章1節)と。イエス様は「その名はインマヌエルと呼ばれる。それは訳すと『神は私たちとともにおられる』という意味である。」(マタイの福音書1章23節)と呼ばれました。イエス様が神様と一体であるということは分かりますが、なぜイエス様が「ことば」なのでしょうか。

 同じヨハネの福音書には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」(3章16節)と書かれています。またマタイの福音書は、神様がイザヤを通して伝えられた預言が引用されていますが、その中に「見よ。わたしが選んだしもべ」(マタイの福音書12章18節)と書かれているのは、もとのイザヤ書では「見よ。わたしが支えるしもべ」(イザヤ書42章1節)と書かれています。この「しもべ」についてのイザヤ書の描写を見てみると、まさに十字架につけられて私たちを罪から救ったイエス・キリストを預言されたものだと分かります。つまり神様が語られたことばは、イエス様そのものだったわけです。神様の愛とことばは、どのようになって現れたのでしょうか。ヨハネの福音書は「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。」(1章14節)と書かれています。神様であるイエス・キリストが人となられてこの世に住まわれ、人の中で最も惨めな十字架の死を遂げられ、その後復活されて天に上られたのです。

 みなさんはこれをお信じになられるでしょうか。使徒パウロは「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(コリント人への手紙第一1章18節)と書いています。前回、「私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ書40章8節)について話しましたが、この「神のことば」とはイエス・キリストのことだったのです。「人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。」(イザヤ書40章6節)と述べましたが、イエス・キリストの救いだけが永遠に変わらない約束だとしたら、それこそ私たちの人生を保証する「福音」(良い知らせ)ではないでしょうか。

 この「私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ書40章8節)は、まさに真理でした。イザヤ書が書かれた時代は、南北に分裂したイスラエル王国のうち北イスラエル王国が強敵アッシリア帝国に攻め滅ぼされ、南ユダ王国も侵略を受けている所でした。しかし、そのアッシリア帝国はバビロン帝国に滅ぼされました。また、生き残っていた南ユダ王国もバビロン帝国に侵略され、住民は奴隷としてバビロン帝国に連れ去れられました。さらに、そのバビロン帝国もより強大なペルシャ帝国に滅ぼされ、イスラエルの民はペルシャ王クロスによってエルサレムの再建のために帰還を許されるという激動の歴史を経験します。神様は、それらの歴史が始まる前にイザヤを通して預言し(40章1~2節)、語られた「ことば」は、さらにその時代を超えてイエス様の出現まで変わらず実現されました。

 もうすぐ新年を迎えます。新年は、若い人にとっては希望と成長を感じさせ、私のような老人にははかなさを感じさせるものかもしれません、しかし永遠の神の「ことば」に立っているクリスチャンとしての私は、永遠への希望を感じています。新しい年も、希望と慰めをもってイエス様を待ち望みましょう。みなさんのご多幸をお祈り申し上げます。

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神のことばはとこしえに立つ(Yさん
 

 もうすぐ新しい年を迎えます。新しい年に何が起きるか、人間には分かりません。そこに私たちの不安はあります。しかし聖書は「草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ書40章8節)と述べています。この「立つ」とは静止した状態ではありません。神様は、私たちの歴史や人生に生きて働いてくださっているのです。人の手で刻まれた神像は、仰ぎ見られ拝まれていようとも、ただ立っているだけです。しかし聖書の神様は、万物を創造し、今も生きて働く全人格的な存在なのです。

 一方、人間は被造物であり、草花のようにはかない存在です。「人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。」(イザヤ書40章6節)と聖書は述べます。それに対して神様のことばは永遠の存在であり、真実であり、しかも、ことばと事実が一体なのです。紀元前701年にエルサレムの街がアッシリア帝国に包囲されると、ユダ王国のヒゼキア王はエジプトに助けを求めました。そのとき預言者のイザヤは、神様のことばは無に帰せられることはない。「エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も肉であって霊ではない。」(イザヤ書31章3節)と、むしろエジプトの軍事力こそ無力だと言いました。当時のエジプトは強大な軍事大国でしたが、そのエジプトでさえも、神様の前では無力で草花に過ぎないというのです。その後のエジプトが、この預言のとおり大国であり続けたとは言えないことは、歴史が証明しています。

 私たちの神様は高らかに宣言されています。「わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。」(イザヤ書55章11節)と。神様のことばはとこしえに固く立って実現するものです。この神様のことばは、多くの場合、預言者(「予言=未来を言い当てる」でなく「預言=神様のことばを預かる」)を通じて人びとに伝えられます。例えば、神様がエレミヤを預言者として選ばれたとき「そのとき主は御手を伸ばし、私の口に触れられた。主は私に言われた。『見よ。わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。』」(エレミヤ書1章9節)とされた様にです。預言者を通して語られた神様のことばは、とこしえに立っています。そして旧約聖書の預言者の言葉(2017年版聖書において「言葉」は一般的な話し言葉、「ことば」は神様の御言葉を指しています)は、将来、現れる救い主ことを語っています。つまり救い主イエス・キリストは、固く立って実現する神様のことばよって現れた確かなものなのです。

 新しい年も、変わることない神様のことばである聖書をもってはじめたいと思います。

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「イスラエル花の旅」より

ルツ記(Mさん
 

 今回は「ルツ記」のお話です。まず、あらすじをお話ししましょう。

 国に飢饉が起こったのでベツレヘムからモアブに移ったある夫婦と二人の息子。しかし、やがて妻のナオミは、夫と二人の息子に先立たれてしまいます。ナオミは、二人の嫁を里に帰そうとします。一人の嫁は去っていきましたが、もう一人の嫁ルツは姑ナオミのそばを離れようとせず、二人は一緒にベツレヘムに戻りました。ルツは残りの人生を、異国で未亡人として生きることを決断したのです→「旧約聖書を読んでみよう」の「ナオミ」参照

 この時のナオミの嘆きです。「私をナオミ(=「楽しむ」の意味)と呼ばないで、マラ(=「苦しむ」の意味)と呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。(中略)全能者が私を辛い目にあわせられたというのに。」(ルツ記1章20~21節)

 ベツレヘムには亡き夫の親戚ボアズがいました。ルツは、糧を得るため畑に落穂ひろいに行くことをナオミに願い出ましたが、行った先は偶然にもボアズの畑でした。自分の故郷を離れ姑のナオミに尽くすルツの人柄を見たボアズは、彼女にあたたかく親切にしました。ナオミは、自分に尽くしてくれるルツが幸せになれるよう、身の落ち着くところを探してあげなければと思い、彼女にある提案をします。親戚としての保護をボアズに求めるようルツに教えたのです。ルツは「おっしゃることは、みないたします。」(ルツ記3章5節)と、ナオミの言葉に素直に従いました。ボアズは、何とかルツの願いをかなえようと、まず自分よりも買戻しの権利→「聖書の舞台(生活・習慣)」のか行「買い戻しの権利」参照を持つ親戚に声をかけ、正式な手続きを踏んでルツの身の上を善処しようとしました。しかし、その親戚に断られたので、代わってボアズがその役を引き受け、ルツを自分の嫁に迎えました。やがて二人の間にオベデが生まれ、子孫はエッサイ、ダビデと続きます。ルツやボアズが、イエス様の祖先のひとりとして数えられることは意味深いものがありますね。

 今回、ルツ記を読み直してみて、あらためてナオミに向けられた神様のご愛、祝福を感じました。愛する家族と死別して孤独の中にあったナオミでした。人生には理不尽なことや突然の別れ、世界が180度変わってしまうような辛く悲しい出来事に遭遇することがあります。そんな中でルツは、自分のしあわせよりもナオミとともに歩むことを決意しました。神様は、そんな二人に目を向けられて素晴らしい神様の御業に導かれました。一見、神様から遠くに見放されたかのように見えたナオミでしたが、決してそうではありませんでした。ルツがナオミを、またナオミがルツを想う心のやさしさや美しさだけでなく、生きるための知恵、そして何より様々な偶然を用意して祝福に導いてくださった神様のお働きには目をみはるものがあります。「あなたの覆いを、あなたのはしための上に広げてください。」(ルツ記3章9節)…ルツがボアズにひれ伏して祈る姿が美しいですね。「主は生きておられます。」(ルツ記3章13節)…ボアズの返事は、それに対する神様のみことばのようです。

 いつ、どんな時にも、たとえ最悪の状況に陥ったとしても、神様がそばにいて下さり導き、私たちをあわれんでくださいます。私たちもまた、それらの状況を決して悲嘆せずに神様に祈り、すべてをお委ねすることができますように。

ニコラス・プッサン「夏(ルツとボアズ)」(部分)1660年。

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​創世記50章20節

神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。

エレミア記29章11~13節

わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている―主のことば―。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。

​ルツ記2章20節

生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまない主が、その方を祝福されますように。

抱かれて逃げるキリスト(Yさん
 

 12月になって、かつてナザレにある受胎告知教会を訪れたことがなつかしく思い出されます。この教会は、マリアが受胎告知を受けたと伝えられる洞窟の上に建っています。教会の聖堂の三角屋根は、アヴェ・マリアの「A」の字を象ったものです。建物の中央祭壇には、マリアがお告げを受けたとされる洞窟があります。また教会の内部には、各国のお国自慢のアートの聖母子のモザイク絵が並んでおり、日本のものはルカ長谷川(長谷川路可)の作品「華の聖母子像」(着物姿の聖母子像)でした(註:1954年にイタリアの日本殉教者教会のために描かれたフレスコ画を基に、長谷川の死後の1968年にベネチアの工房で作成されたモザイク画が受胎告知教会に奉納された)→外部リンク「なつこのたびにっき」に外観や内部の詳細な様子があります)

 その後、マリアはイエス様を厩(うまや)で生むのですが、そのシーンはクリスマスの絵画などでも有名です。三人の博士が黄金、乳香、没薬を持って来て幼子イエス様を拝むシーンです。しかし、彼らが帰った直後、主の御使いが夫ヨセフの夢に現れて「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。」(マタイの福音書2章13節)と告げたのです。なぜ生まれたばかりのイエス様が、ヨセフとマリアに抱かれてエジプトへ逃げなければならなかったのか、不思議な感じがしますが、実は、その直前に博士たちから「予言されたユダヤの王がベツレヘムで生まれる」と聞いたヘロデ大王が、自分の地位を守るためにベツレヘム周辺とその近郊の幼子を虐殺するという事件が起ころうとしていたのです。ですから、この時、幼子イエス様はマリアの腕の中に抱かれて逃げるしかなかったわけです。イエス様は、そのように私たち人間と同じか弱い存在としてお生まれになられたのです。ですから、幼子を守り養ってくれる親の存在が必要でした。神様を信じるマリアとヨセフにその役割が与えられたのです。これは私たちも同じで、私たちの内にも幼子イエス様がおられます。神様の救いのわざが成就し私たちのうちにイエス様が生きておられるようになるためには、私たちがイエス様に心を開き、その腕にしっかりと抱きしめなければなりません。

 マリアとヨセフに抱かれてエジプトに逃げて行ったのも、すべて神様のご計画でした。時が満ち、やがて十字架につくことで私たちを罪から救うためです。そこには、何としても私たちを救おうとする神様の大きな愛が働いているのです。

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​長谷川路可「華の聖母子像」1954年

すべての人のように(Yさん
 

 サーロー節子さんは、カナダ在住の被爆者(平和運動家、88歳)です。2017年に国連で採択された核兵器禁止条約が2021年1月に発効されることを受け、同条約への批准を日本政府に求める呼びかけ人として、被爆の惨劇と苦悩を語り続けています。

 広島で13歳の時に被爆した節子さんは、当時、女学校(広島女学院)の一年生でした。自分自身は助かったものの、学友35人と親族9人を原爆で失いました。原爆投下の時間は朝でしたが、投下直後の様子はまるで夕闇のようだったと節子さんは言います。そこで目撃した人たちの形相は、人間の姿ではありませんでした。その時の様子は、75年たった今でも鮮やかに残っていると節子さんは言います。現在、外国に住んでいて、ただ自分の体験を話すだけでは相手への説得力はありません。だから節子さんは、日本も戦争の加害者であったことを、腹を割って話しお詫びする気持ちがないと世界の人々と核の問題を共有することはできないと感じているそうです。平和運動をしていると、苦しいことに直面することが往々にしてあります。そんな時、節子さんは原爆でなくなった「あの人たちを犬死させてはならない」という気持ちが起きて来るそうです。そして、その繰り返しが私自身の50年、60年の生活だったと言っています。節子さんは、自分一人のためではなく「社会に貢献できる人間になること」をモットーにして歩んできたとのこと。私たちも、そんな節子さんの姿勢を見倣いたいと思います。

 キリストは「すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。」(コリント人への手紙第一9章22節)と聖書にあります。世界を救うキリストの使命は、ひとりひとりに寄り添い「すべての人のようになる」ことです。クリスチャンにとっても、それが一番必要な構えではありませんか。節子さんを見ているとその様に思います。

アドベントを迎える(Yさん
 

 子どものころ「♪諸人こぞりて むかえまつれ 久しく待ちにし 主はきませり 主はきませり 主は、主はきませり」(讃美歌112番)→YouTube「もろびとこぞりて」参照を繰り返し口ずさみ、クリスマスが来るのを楽しみにしていました。この期間、街は彩られ何やら楽しい雰囲気に満ちあふれています。でも、それは本当の「喜び」なのでしょうかアドベント(待降節)は、クリスマスの四週前の第一主日(日曜日)から始まる、キリストの降誕を待望し、主を迎える準備をする期間です→「聖書の舞台(生活・習慣)」のあ行「アドベント・クランツ」参照。しかし、一番大切な準備は「心の準備」です。イエス。キリストの救いを求める心になっているかどうか、もう一度考える期間なのです。

 アドベントは「到来」という意味で、二つの「到来」を意味しています。第一の意味は、今から二千年前に主イエス・キリストがこの世にお生まれになったことを指しています。旧約聖書で約束された救いが、イエス・キリストによって到来したという意味です。第二の意味は、再臨のことを指しています。天に帰られたイエス様が、再びこの世にやって来られるという意味で、再臨のイエス・キリストの到来を指しています。主イエス・キリストは、この世の終わりと自分の再臨のことを弟子たちに教えられた時に、「ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。」(マタイの福音書24:42)とおっしゃられました。自らを省みて、自分には神様の救いが必要であると願い、神様を受け入れるその準備ができているなら、神の御子であるイエス・キリストの到来(世の終わりにこの世を裁き、新しい世をつくるイエス・キリストの再臨)の喜びをともに味わうことができるのです。しかるに「今来てもらっては困る」ということがないように、私たちは常に自らを省み「目を覚ましている」必要があります。それが礼拝と祈りの生活であり、悔い改めの信仰です。クリスマスを待ち望むアドベントの期間を、そのように過ごしたいと思います。

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倒れても大丈夫!(Yさん
 

 加藤一二三(ひふみ)さん(80歳)がクリスチャンであることをご存知でしたか?それもローマ教皇から騎士団勲章をいただいた棋士なのです。彼は14歳で中学生プロキシとしてデビューし、77歳で引退しました。よく63年もの長い間、続けてこられたものだと思います。しかし勝負の世界は厳しいものです。挫折はありました。30歳になった時に加藤さんは、「このままでは先がない。信仰を持つことでそれが突破できるのではないか。」と考え、その年のクリスマスに洗礼を受けたそうです。

 信仰を持つことで、突然、彼の将棋は息を吹き返し、42歳で念願の「名人」になられたそうです。聖書には「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。」(マタイの福音書6:33)とあります。加藤さんの将棋が変わったのは、信仰を持ったことで「明日のことまで思い悩むのはやめよう。神様にゆだねよう」と、そう明るく信じることができるようになったからだと思います。将棋と信仰。どちらにも揺るぎないものがあり、それを求めることが大切なのです。

 クリスチャンとなった加藤さんは、「いい将棋を指し続けてきた。それが私の誇りです」と語っていました。聖書には「神に従う人は七度倒れても起き上がる」(箴言24:16・新共同訳)と書かれています。「倒れる」のは「起き上がる」ため、「挫折する」のは「よりよく戦うため」なのです。「暗雲は必ず晴れる」「倒れても大丈夫」と克己して進むのが信仰なのです。

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​命のビザ(杉原千畝)その2(Yさん
 

 千畝は大勢の人を助けるために、夜も眠らずに苦悩した。国境を超えポーランドから逃げてくる難民に対して、1940年1月31日、ついに外務省の命令に背いてビザの発行を始めた。千畝は、後にその心境を語っている。「見殺しにすることはできない。当然のことをしただけです。」と。私は、その勇気と英知、気高さに、清々しい気持ちになった。実はご夫妻はロシア正教の信徒でもあり、このような人物こそ日本人の誇りだと私は思う。

 さて「善きサマリア人のたとえ」(ルカ10:25~37)では、エリコへの道を急ぐ一人の旅人が強盗に襲われ、半殺しにされたというたとえ話が出てくる。通りかかった祭司やレビ人は彼を見ながらそのまま立ち去ったが、次にやって来たサマリア人は、彼が自分たちとは犬猿の仲であるユダヤ人であると知りながら助けた。イエスは、そのたとえ話を語られた後、「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」(ルカ10:36)と問われ、問答をしかけてきた律法の専門家に「あなたも行って、同じようにしなさい。」(ルカ10:37)と言ったという→「聖書の舞台(人物・組織)」のさ行「サマリア人」参照

 第二次世界大戦の混乱の中、自己を顧みず人間愛に満ちた決断をした千畝の功績を称えて、イスラエル政府は1985年1月に、建国に尽くした外国人に与えられる「諸国民の中の正義の人」賞を、東洋人として初めて授けた。

 ユダヤ人のことわざに「ひとりの命を救うことは、全世界を救うことと同じである」という言葉がある。先に述べたイスラエルのヤド・バシェム記念館(ホロコースト記念館)には、「記憶せよ。忘れるなかれ。」という言葉が刻まれていたが、千畝の功績もまた、心に刻まれるべきものであろう。私たちも人命第一の精神を忘れることなく、それを「心の杖」として歩んでいきたい。

​ヤド・バシェム記念館にある

杉原千畝の記念植樹(Wikipedia)

漢字でも「杉原千畝」と書かれている

​命のビザ(杉原千畝)その1(Yさん
 

 10年前、首都エルサレムの西の丘にあるヤド・バシェム記念館(ホロコースト記念館)を訪れた。そこに行く途中、「義人の異邦人」の道筋(註:「諸国民の中の正義の人/正義の異邦人」の称号がイスラエル国から授与されると、このホロコースト記念館の庭園に記念植樹がされた。現在は、数が多くなり「名誉の壁」に名前のプレートが貼られるようになった)に杉原千畝(1900~86年)の記念樹とプレートがあった。記念館は、ナチスの殺された大勢のユダヤ人を追悼するとともに、ユダヤ人を救った外国人をたたえるための記念館でもある。しかし千畝に関する資料などの展示はなかったため、その功績や生涯について理解する機会が得られず、残念で寂しい思いをした。

 千畝は、リトアニアのカナウス領事館で外交官をしていた(1938~40年)。この頃、戦争が激しくなって、ヨーロッパではヒットラーによる独裁が始まり、ユダヤ人への迫害が激しさを増していた。しかし彼らの受け入れ先はほとんどなく、命の脅威にさらされていた。

 ユダヤ民族はもともと、今のイスラエルがある地方に住んでいたが、大昔に古代ローマ帝国によって祖国を追われてからはヨーロッパ各地で散々に暮らすようになった。彼らは差別と迫害を受けながらも(旧約聖書の)律法に忠実で、それが嫌われた一因のようだった。

 すでにオーストリアとチェコスロバキアはドイツに併合されて、ドイツ国内でのユダヤ人迫害は「ユダヤ人狩り」となって激しさを増していった。ユダヤ人たちは(日本経由で)ヨーロッパなどへ逃れるために、連日、日本へのビザを求めたユダヤ人が領事館の前に押し掛けた。千畝の決断は?(つづく)

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​杉原千畝(Wikipediaより)

召天者記念礼拝・記念会(Mさん
 

 毎年11月の最初の日曜日、教会では先に天に召された方々を覚えつつ礼拝をします。また、礼拝後に教会墓地等で墓前礼拝をします。亡くなられた兄弟姉妹たちの写真を飾り、牧師先生のお祈りや、遺族、信徒の方々の思い出話を通して故人を追悼します。

 参考までに教会の葬儀についてふれますと、進め方は次の通りです。

 ①納棺式(出棺式)、②前夜式、③葬儀(告別式)、④火葬前式、⑤埋葬式、⑥記念会

 火葬を葬式の前に行うか、後に行うかは、その時の遺族や教会の状況で変わります。記念会も何日後にするかは、特に決まりはありません。教会では、亡くなられた方が未信者でも、喪主がクリスチャンであれば葬儀をしてもらえることもあります。また未信者であっても、本人の希望により教会で葬儀をしてほしい場合は、教会の牧師先生に相談されるとよいでしょう。

 いつの日か「死」は、まさに万人にやってきます。自分の最期がどうありたいか、召天者記念礼拝や記念会がそのことを考える機会になればと思います。信者の方は万一の備えとして「氏名」「生年月日」「受洗年月日」「所属教会や受洗した牧師先生」「愛唱讃美歌」「愛誦聖句」「信仰歴やあかし」などを記し、牧師先生に前もって預けておくとよいでしょう。

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​伝道者の書3章1~2節

すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。

詩編90編1~15節

主よ 代々にわたって あなたは私たちの住まいです。山々が生まれる前から 地と世界を あなたが生み出す前から とこしえからとこしえまで あなたは神です。あなたは人をちりに帰らせます。「人の子らよ 帰れ」と言われます。まことに あなたの目には 千年も 昨日のように過ぎ去り 夜回りのひと時ほどです。あなたが押し流すと 人は眠りに落ちます。朝には 草のように消えています。朝 花を咲かせても 移ろい 夕べには しおれて枯れています。私たちはあなたの御怒りによって消え失せ あなたの憤りにおじ惑います。あなたは私たちの咎を御前に 私たちの秘め事を 御顔の光の中に置かれます。私たちのすべての日は あなたの激しい怒りの中に消え去り 私たちは 自分の齢を 一息のように終わらせます。私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは 労苦と災いです。瞬く間に時は過ぎ 私たちは飛び去ります。だれが御怒りの力を あなたの激しい怒りの力を知っているのでしょうか。ふさわしい恐れを持つほどに。どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに 知恵の心を得させてください。帰ってきてください。主よ いつまでなのですか。あなたのしもべたちを あわれんでください。朝ごとに あなたの恵みで私たちを満ちたらせてください。私たちのすべての日に 喜び歌い 楽しむことができるように。どうか喜ばせてください。私たちが 苦しめられた日々と わざわいにあった年月に応じて。

青空・コスモス・秋の風(Yさん
 

「天は神の栄光を語り告げ 大空は御手のわざを告げ知らせる。」(詩編19編1節)

土手をかけ上がると、秋の空が広がっていた。すじ雲が流れ、刻々とその表情が変わって、西の空へ静かに溶け込んでいく。風に揺れるコスモス(秋桜)は、秋の陽をあびて柔らかそうな8枚の花びらをひらいて、深めのひだにくっきりと光りの筋を浮き立たせている。

古代ギリシャ語で秋桜は「美しい」という意味を持ち、一方では「宇宙・世界・社会」という意味も表していると知り、その清楚なたたずまいを見ていると不思議な気がする。古代ギリシャ人は、きっと「宇宙」を「美しい」ものと考え、それが現在のΚοσμήμα(Cosmima:宝石)というギリシャ語に伝えられているのだろう。秋風のおもくまま、自分の身をゆだねている小さな宇宙(コスモス)にじっと見入っている吟遊詩人が、一人たたずんでいるような風景だった。

 ゆったり歩き回って、秋を満喫しませんか。

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ヨナ書(Mさん
 

今回は旧約聖書の「ヨナ書」のお話です。

 神様からニネベ(敵地アッシリアの首都)と言う街に行き、彼らの悪=罪を指摘して神様のことばを語るように命令されたヨナ。しかし、行きたくないヨナは、ニネベとは逆方向のタルシュ行きの船に乗り込みます。船はやがて嵐になり、難破しそうになりました。この原因が神様の意に背いたヨナにあることを知った船員たちは、嵐を鎮めるためにヨナを海に投げ込みました。

 嵐はおさまりましたが、ヨナは神様によって大きな魚に飲み込まれ、三日三晩、魚の腹の中に閉じ込められました。ヨナは魚の腹の中で神様への悔い改めの祈りを捧げ、神様はヨナを魚の腹から出してくださいました。

 そんなヨナに、ニネベに行って神様のことばを告げるようにとの神様の命令がありました。神様は「あと四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と予言するのです。ヨナは、その神様のことばをニネベの人々に伝えたのですが、ニネベの人々はヨナの語る神様のことばを信じて悔い改め、悪の道から立ち返ったため、神様はニネベの街に災いを下すことを思いとどまられました。しかし、ヨナはこれが面白くなかったのです。ニネベは、ヨナたちイスラエルの民の敵国アッシリアの首都ですから、そのまま滅べばよかったのにと思い、神様にあたりました。もし四十日以内にニネベが滅びなかったら、自分は神様に逆らって神様のことばを誤って伝えたと思われますから「生きているより死にたい」とまで言い放ちました。そんなヨナに、神様は一本のとうごまの木を与え、その木でたとえ話をして、神様がいかにニネベの街や人を愛しておられるか告げたのです。神様がイスラエルの敵であるニネベの街の人々さえ愛しておられることを知ったヨナは、神様の愛がどれほど多くの人々に向けられておられるのかを知ったのです。

 ヨナにとって、神様から命じられた敵国の首都ニネベを助けるためのことばを伝える役目は、実に行きたくない、逃げ出したいようなことがらだったことでしょう。私たちにもそんな経験がいっぱいありますよね。私たちも「これさえなかったら…」「できれば通りたくない…」という思いをすること、いっぱいありますよね。そんな時、ついつい神様よりも自分の思いを優先させたくなります。私たちは、そこで逃げ出さずに神様に従う道を選べるでしょうか。それとも、ヨナのようにささやかな抵抗を試みるのでしょうか。試練に立ち向かうことを通して、神様は私たちを鍛えようとしておられます。その先に神様の栄光が著されるのです。

 神様から逃げ出したり、大嫌いなニネベの人たちが速やかに回心したことを内心面白くないと神様にあたったりするヨナは、実に人間的で、とても親しみやすい部分がありますね。私たち自身の弱い部分を見せられているみたいです。だからこそ、とても身近に感じられるのかもしれません。

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​藤本四郎『魚に飲み込まれたヨナ』日本聖書協会、2009年

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ヨナ書2章7節

私のたましいが私のうちで衰え果てたとき、私はを思い出しました。

ヨナ書2章9節

しかし私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえを捧げます。私の誓いを果たします。救いはのものです。

ピリピ人への手紙2章13~14節

神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。

一羽の雀さえも(Yさん
 

 去る8月31日、わたしは大腸がんの検査のために内視鏡を受けました。四年前にポリープをとったことを思い出し、前日はよく眠れず、当日も血圧も上がって困惑しました。しかし、何とか無事に検査はパスし、安心して自宅に帰ることができました。

 私の自宅のすぐ目の前には、木々に囲まれた大きな公園があります。そこから鳥のさえずる声が聞こえてきた時に、私の心に、次の御言葉が響いてきたのです。「雀の一羽…あなたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたはたくさんの雀よりも優れたものです。」(マタイ10章29~31節)。

 神様は、その一羽の雀さえ見守り、助けてあげるようなお方です。しかも神様は、私たちの弱さ、愚かさをご存知です。神様は、私自身の髪の毛の数さえ分かっておられ、私たちがどのような人間であるかも一人ひとりを見守っておられます。何とすごいことでしょう。主イエス様は、その御言葉の真実を証しするために、私たちのために十字架へと上がられ犠牲となられました。そのことを通して、私たちのいのちがいかに尊いものであるかを証明してくださったのです。

 私は、この出来事を通じてあらためてそのことを知りました。神様には「感謝」と言うより他にありません。

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マタイの福音書10章29~31節

二羽の雀は一朝リオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。ですから、恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。

サムソンとデリラ(Mさん
 

 今回は、士師記13~16章にある「サムソンとデリラ」のお話です。

 神様の使いがマノアとその妻に現れ、男子が生まれることを予告します、生まれたこの名はサムソン。ナジル人(神様の特別に聖別された人)であり、イスラエルをペリシテ人から救うと預言されました。同時に、その子の頭に剃刀を当ててはならないと注意されていました。

 神様に祝福されつつ成長した彼は、神様の導きによって宿敵のペリシテ人の娘と結婚することになりました。これはサムソンがペリシテ人の中に入り込み、彼らを滅ぼすためでした→「聖書の舞台(生活・習慣)」のか行「カナン人の宗教」参照。ペリシテ人もこのような習慣を持っていた)。サムソンの身に危機が迫る時、何度も「主の霊が激しく彼の上に下った」と聖書に書かれていますが、神様は常に彼とともにいてくださったのです。

 ペリシテ人たちは、遊女デリラを使って何とかしてサムソンを油断させようとします。そのデリラの執拗な問いに負けて、ついに彼は怪力の秘密を話してしまいます。サムソンは、髪の毛がそり落とされたら力が失われて弱くなってしまうことをデリラに教えてしまいました。その結果、彼は捕らえられて両眼をえぐられ、足枷をかけられ、牢屋で臼をひかされるどん底の生活になったのです。その後、デリラによってそり落とされたサムソンの髪の毛は再び伸びはじめたころ、再び神様に祈ったところ最後に力を取り戻し、最後にはペリシテ人の神殿を破壊して三千人もの敵を巻き添えにする活躍をし、自らも一緒に死んで一生を終えました。

 聖書は、髪の毛が伸びていたころのサムソンが、「ろばのあご骨で、千人を撃ち殺した」(士師記15:16)と記しています。こんなことは普通には考えられないことですが、彼は神様が与えてくださった真新しいあごの骨をもって主の栄光を現わしました。私たちも神様が与えてくださるものを喜んで用いることのできるものでありたいです。しかし、デリラの膝枕で寝ている時に髪の毛をそられた後のサムソンは、「彼の力は彼を離れた」(士師記16:19)ため普通の人になってしまいました。でも彼は「主が自分から離れたことを知らなかった」(士師記16:20)のです。そしてサムソンは、捉えられて惨めな境遇になったのは先ほど話した通りです。神様からの賜物がなければ、私たちもただの人です。自分に備わったものが当たり前のものではありません。神様の愛と慈しみによって、私たちが生かされていることにあらためて感謝したいですね。

参考絵画

ダイク「サムソンの捕縛」美術史美術館(ウィーン)、1628~1630年。

ルーベンス「サムソンを策略するデリラ」ナショナルギャラリー(ロンドン)、1609年。

レンブランド「目をえぐられるサムソン」シュテーデル美術館(フランクフルト)、1636年。

​映画やオペラにもなっています。ご興味のある方はぜひご覧になってください。

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セシル・デミル監督

映画「サムソンとデリラ」1949年

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士師記13章24節

この女は男の子を生み、その子をサムソンと名づけた。その子は大きくなり、主は彼を祝福された。

士師記15章16節

サムソンは言った。「ろばのあごの骨で、山と積み上げた。ろばのあごの骨で、千人を撃ち殺した。」

士師記16章28節

サムソンは主を呼び求めていった。「神、主よ。どうか私に心を留めてください。ああ神よ。どうか、もう一度だけ私を強めてください。

第二の誕生日(Yさん
 

 1958年6月17日、私は仙台市の広瀬川でバプテスマ(洗礼)を受けました→「はじめての教会用語辞典」のさ行「洗礼」参照。この「第二の誕生日」から数えて、今年(2020年)で「満62歳」となりました。梅雨空の寒い日だったと記憶しています。この時、教会の兄弟姉妹が歌った讃美歌516番の「♪主イエスを知りたる うれしきこの日や」が神様のものとなったこの身へのエールのように聞こえたことが、つい昨日のことのように思い出され、再び熱い思いがこみ上げてきました(筆記者注:ちなみにこの讃美歌516番は、ずいぶんアレンジされていますが映画「天使にラブソングを2」で使われた有名なゴスペルソング”Oh Happy Day”でもあります)。

 これまでの人生をふり返っていろいろな喜びや哀しみがありましたが、その中で最もつらかったことは、一緒に仕事をしていた先輩に裏切られたことです。詳細はお話いたしませんが、信頼していた方だけに、その悔しさや悲しさは容易に癒しがたく、長い間苦悩しました。単に裏切られただけでなく、生活も一変しなければならなかったからです。しかし、ある日「ですから、明日のことまで心配しなくてもよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6:34)という御言葉に気付いて目が覚めました。

 クリスチャンとなった時、私はキリストのからだの一部とされたのです。私の代わりに死んで罪との縁を切ってくださったのですから、もう私のいのちは自分のものであって自分のものではありません。イエス様から頂いたいのちなのです。そう気づかされました。そして、どのような場合でもそのことを忘れずに、前向きにプラス思考で歩むことこそが受洗者(クリスチャン)の生涯だと思うのです。聖書には「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。」(ローマ12:1)とあるように、「第二の誕生日」からの私は神様のために生きています。

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広瀬川(大橋付近)

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コリント人への手紙第一12章12~13節

ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。

マタイの福音書6章34節

ですから、明日のことまで心配しなくてもよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

ローマ人への手紙12章1節

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

ノアの箱舟(Mさん
 

 今回は皆さんにもなじみの深い「ノアの箱舟」のお話です。およそのあらすじは次の通りです。(創世記6~8章)

 人が大地に増えはじめると同時に人の悪が増大し、神様の前に堕落したので、神様は悔やみました。そこで神様はそんな人間たちを滅ぼそうとなさいましたが、神様の心にかなっていたノアだけがその災いから救われ、逃げることができました。

 ノアは神様から、箱舟を作るように命じられました。そしてノアの家族全員と、すべての生き物の中からそれぞれつがいで二匹ずつ(動物によっては七つがいずつ→創世記7章2節)連れて船に入るように命じられました。神様は四十日四十や大雨を降らせ、作られた生き物すべてを消し去りました。その後も百五十日間、水は地表を覆い続け、その後、減少していきました。の母箱舟の窓を開いて鳩を放ったところ、その鳩はオリーブの若葉をくわえて戻り、それによってノアは水が引いたことを知ります。こうして、ノアと箱舟にいたものだけが生き残ったのでした。

 この箇所を読むと、ただ神様の御言葉に従いわき目もふらずに巨大な箱舟を建築したノアの信仰心にまず目が行きます。ノアが箱舟に入り終わった時、神様が箱舟の扉を閉めました。ノアは閉じ込められたことにより、長時間船内にとどまらなければならず、ただ神様の約束を待ち望むしかありませんでした。どんなに不安で孤独なことだったでしょう。いつになったら船から出られるのか、本当に出られるのかわからないまま時を過ごすのです。それは信仰の試みであり、このことを通してノアは、ひたすら神様を信じ待ち望むことの大切さを教えられます。しかし、そんな時も神様はノアとともにおられ、その不安や孤独をやわらげ、癒し、平和を与えてくださっていたに違いありません。

 私たちは、早く結果を欲しがります。しかし神様は、しかるべき時が来るまで耐え忍ぶことを学ばせてくださる方なのです。神様を疑い、信じられなくなる時もあることでしょう。しかし、そんな時こそ神様の御言葉に生き、待ち望む者でありたいですね。

参考絵画

ミケランジェロ「ノアの洪水(システィーナ礼拝堂天井画部分)」システィーナ礼拝堂(バチカン)、1512年。

ミレイ「箱舟への鳩の帰還」アッシュモーリアン美術館(英オックスフォード)、1851年。​

ドレ「ノアの箱舟」アッシュモーリアン美術館(英オックスフォード)、1851年。​

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日本聖書協会・藤本四郎『ノアのはこぶね』日本聖書協会、2009年。

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​創世記6章22節

​ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。

​創世記7章16節

入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であった。それらは、神がノアに命じられたとおりに入った。それから、は彼のうしろの戸を閉ざされた。

創世記8章1節

神は、ノアと、彼とともに箱舟の中にいた、すべての獣およびすべての家畜を覚えておられた。

ソロモンの知恵(Mさん
 

箴言、伝道者の書、雅歌を書いたとされるソロモン。

「ソロモンは三千の箴言を語り、彼の歌は千五百首もあった。」(列王記第一4章32節)

 

今回は旧約聖書からそのソロモンの知恵と判断の有名な箇所を見てみます。

 

「神は彼に仰せられた。『あなたがこのことを願い、自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、あなたの敵のいのちさえ願わず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を願ったので、見よ、わたしはあなたが言ったとおりにする。見よ、わたしはあなたに、知恵と判断の心を与える。あなたより前に、あなたのような者はなく、あなたの後に、あなたのような者は起こらない。」(列王記第一3章11~12節)

 「そのころ、二人の遊女が王のところに来て、その前に立った。

 その一人が言った。『わが君、お願いがございます。実は、私とこの女には同じ家に住んでいますが、私はこの女と一緒に家にいるとき、子を産みました。私が子を産んで三日たつと、この女も子を産みました。家には私たちのほか、だれも一緒にいた者はなく、私たち二人だけが家にいました。ところが、夜の間に、この女の産んだ子が死にました。この女が自分の子の上に伏したからです。この女は夜中に起きて、このはしためが眠っている間に、私のそばから私の子を取って自分の横に寝かせ、死んだ自分の子を私の懐に寝かせました。朝、私が子供に乳を飲ませようとして起きると、どうでしょう、その子は死んでいるではありませんか。朝、その子をよく見てみると、なんとまあ、その子は私が生んだ子ではありませんでした。』

 すると、もう一人の女が言った。『いいえ、生きているのが私の子で、死んでいるのがあなたの子です。』先の女は言った。『いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子です。』女たちは王の前で言い合った。

 そこで王は言った。『一人は「生きているのが私の子で、死んだのがあなたの子だ」と言い、また、もう一人は「死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子だ」と言う。』王が『剣をここに持って来なさい』と言ったので、剣が王の目に差し出された。

 王は言った。『生きている子を二つに切り分け、半分をこちらに、もう半分をそちらに与えよ。』すると生きている子の母親は、自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てて言った。『わが君、お願いです。どうか、その生きている子をあの女にお与えください。決してその子を殺さないでください。』しかしもう一人の女は、『それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください』と言った。そこで王は宣告を下して言った。『生きている子を初めのほうの女に与えよ。決してその子を殺してはならない。彼女がその子の母親である。』

 全イスラエルは、王が下したさばきを聞いて、王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。」(列王記第一3章16~28節)

 「神はソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心を与えられた。」(列王記第一4章29節)

 

 「彼の知恵のうわさを聞いた世界のすべての王たちのもとから、あらゆる国の人々が、ソロモンの知恵を聞くためにやってきた。」(列王記第一4章33節)

 子どもの命を救うため、とっさに身を引く決意をした実の母親。素晴しいさばきをされたソロモンによって本当の母親がどちらか、明白になります。現代では、幼い子が実の両親に虐待され命を落としたというニュースに、耳を疑い、言葉を失います。命の尊さを何と思っているのでしょう。なぜそんな痛ましい事件が起きるのか。私たちは、人間にとって大切な、愛や慈しみの心を育むことを忘れてはならないし、また、神様の教え、授かる知恵や勇気を身に着けて歩いていきたいものです。私たちは、神様から何を与えられて生きているでしょう。いつもみ言葉に聞き従う従順さを失わないように、そして与えられた賜物を十分に生かしていきたいと願っています。

 ニコラ・プッサンによる油彩画「ソロモンの審判」(ルーブル美術館)もご覧ください。対照的な双方の母親の表情がよく描かれています。

​二コラ・プッサン「ソロモンの審判」1649年

みんな仲良く(Yさん
 

 今、アメリカ中部ミシガン州で起きた白人警官による黒人男性暴行死事件の怒り、抗議デモが、世界中に広がっています。

 そのニュースを見るたびに、私は75年前のことを思い起こします。あの時の朝鮮人(現在の北朝鮮、韓国)の子どもたちが「いじめっ子」によるいじめあって、苦しみ、戦う姿、恐ろしさを忘れることはありません。当時の私は、小学一年生。「どうして朝鮮人の子たちだけがいじめられるの?」と疑問に思っていました。しかし担任の女先生は、隣組の朝鮮人の子をクラスに取り込み、“みんな仲良く友達“になるように努めて、熱心に教育されました。

 「好きな食べ物だけ食べれば、良いというのではありません」「世界の国中はいろいろな人々がいるのです」「クラスで毎日、顔を見合わせていても、その人の哀しみはわかりません」など、聖書から様々なことを親切に教えてくださいました。

 私が、数えきれない苦しみ、つらさを乗り越えることができたのも、Y先生のご指導の賜物と心から感謝しております。「他の人のことより、あなたは何をしたのか?」というキリストの問いに、どうか耳を傾けてください!

土門拳「おしくらまんじゅう」1953年

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マタイの福音書54344

「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する人のために祈りなさい。

ローマ人への手紙14章1~3節

信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。ある人は何を食べても良いと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べる人も食べない人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。

マタイの福音書7章3節

あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気づかないのですか。

父の日について(Mさん
 

◆起源◆

 父の日も母の日と同様、アメリカの教会で父母への感謝のために、その娘たちによって行われた記念会が発端です。ソナラ・スマート・ドットという女性は、自分の通う教会の牧師に頼み、母の亡き後ソナラと5人の兄を男てひとつで育ててくれた敬愛する父親に感謝する礼拝を、父の誕生月だった6月にしてもらいました。1909年6月19日(第三日曜日)のことです。その後数十年という年月を経て、リチャード・ニクソン大統領により、6月の第三日曜日が、アメリカの国民の祝日として定められました。

 「母の日」のシンボルフラワーがカーネーションなのに対し、「父の日」の花はバラです。母の日と同じように、父の日も、健在な父には赤いバラを送ります。ちなみにソナラのお父さんは、この時はすでに召されていたので、彼女は墓前に白いバラを供えたとか。

 日本では1981年、日本ファーザーズ・デイ委員会が「ベスト・ファーザー イエローリボン賞」という企画を展開し、イベント化され、黄色いバラや、黄色いリボンが巻かれたプレゼントが贈られるようになって一般化したようです。お花を贈るのであれば、バラのほかに、父の日のイメージカラーとなった黄色の「ひまわり」を贈るのも人気です。

 父の日には、お父さんに日頃の感謝を込めてプレゼントを贈ったり、感謝の言葉を伝えましょう。また亡くなられたお父さんへ、在りし日を偲んでお墓参りをされてはいかがでしょうか。

(引用元:profoto)

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箴言4章1

子どもたちよ、父の訓戒に聞き従え。耳を傾け、悟りを得よ。

​出エジプト記20章12節

あなたの父と母を敬え。あなたの神、が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。

エペソ人への手紙6章4節

父たちよ。自分の子どもを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。

 
ペンテコステ(聖霊降臨記念日)(Mさん

 新約聖書の「使徒の働き」第二章には、ペンテコステの出来事が記されています。イエス様が十字架につき復活されてから50日目、すなわち五旬節(旬は10日と言う意味)の日に、イエス様を信じ心をひとつにして祈っていた弟子たちは、ご聖霊を受けました→「はじめての教会用語辞典」のま行「みちち・みこ・みたま(御父・御子・御霊)」参照。ペンテコステはその出来事を記念するキリスト教の祝祭日です。ペンテコステは宗派によっても異なりますが、復活祭から数えて50日目の日曜日、今年は5月31日になります(「イースター」が年によって違うため→「聖書の舞台(生活・習慣)」のあ行「イースター」参照)。

 この章では、私たちは「一緒に集まって御霊が注がれるのを待つ」と言う礼拝の活動や、また「他国のいろいろな言葉で神の御業を語る弟子たちの姿」に宣教(伝道)の使命を見出すことができます。罪を悔いてバプテスマ(→「はじめての教会用語辞典」のさ行「せんれい(洗礼)」参照)を受け、ご聖霊に満たされるようになるという約束は、神様が召された人なら誰でも与えられているます。また、神のみ言葉が与えられ、それに従うこともご聖霊の働きによるものなのです。

さらに、信者となった人々が一つになって必要に応じてものを分配したり、喜びと真心をもって食事をともにし、祈り賛美するという箇所から、私たちキリスト教の教会活動の原点が見えてくるのではないでしょうか。

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使徒の働き2章1~4節

 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろな言葉で話し始めた。

使徒の働き2章33節

​ ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。

関連する絵画を見たい方には、グレド・レーニ「聖霊降臨」(1606年・バチカン美術館)やエル・グレコ「聖霊降臨」(1605年・プラド美術館)をおススメします。

 
他の人のために(Mさん

 新型コロナウイルスの流行とともに、気が付くとマスクや消毒液がドラッグストアから姿を消し、なかなか買い求めることができなくなりました。手持ちのマスクは少し持ち合わせていましたが、なかなか手に入らないので不安を感じることがありました。そんな中、友人が手に入ったマスクを分けてくれたり、手作りしたものを教会のある姉妹がわけてくださったり、それは本当に感謝なことでした。

 例えば「あなたのこと、とても心配しているよ。思っているよ。」そう言われると嬉しいものです。なおかつ、言葉だけではなくそこに行動が伴って、相手に気持ちを表すことが出来たらどんなに素晴らしいことでしょう。言葉に行いが伴うときの愛の力は、人を幸せな気持ちにしてれます。幸せな気持ちになったその人が、今度は別の誰かに心を配れるといいですね。目には見えなくても大切なものがありますが、気持ちを形にして表すのも大事なことだと思うのです。

 自然災害時にいち早く駆け付け、様々な後片付けを手伝うボランティアの方々がいます。また災害時の避難生活の中で、少ない食べ物をさらに分け合って食べた経験のある方もいらっしゃるでしょう。しかし、そうしたいと思っても誰もが同じようにそうできるわけではなく、なかなか難しいことかもしれません。しかし自分だけがよければそれでよいのではなく、助けを必要としている周りの人にも優しい眼差しを向け、行動に移せるようにしたいものです。自分のできる範囲で無理なく。​

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ヨハネの手紙第一3章18節

子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。

箴言3章27~28節

あなたの手に善を行う力がある時、受けるべき者にそれを控えてはならない。

あなたに物があるとき、隣人に向かって、「帰って、また来なさい。明日あげよう」と言うな。

箴言11章24~25節

気前良く施して、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでかえって乏しくなる者がある。

おおらかな人は豊かにされ、他人を潤す人は自分も潤される

 
母の日について(Mさん

◆起源◆

 その起源は世界中で様々で日付も異なりますが、母の日は日頃の母の苦労をねぎらい、母への感謝を表す日です。中でもアメリカでは以下のアン・ジャービスへの教会での追悼にさかのぼり、5月の第二日曜日にお祝いし、日本もそれに倣っています。

 南北戦争中「母の仕事の日」と称し、敵味方を問わず負傷兵の衛生状態を改善するために、地域の女性を結束させたアン・ジャービスという女性がおりました。彼女の死後、その娘のアンナ・ジャービスは、亡き母親を偲び、母が日曜学校の教師をしていた教会で記念会をもち、白いカーネーションを贈ったのが、日本やアメリカでの母の日の起源とされています。

 今では一般的に、元気で生きておられるお母さんへ→赤いカーネーション( 花言葉は「愛情),亡くなられたお母さんへ→白いカーネーション( 花言葉は「尊敬」)を贈っているようです。(出典:フリー百科事典Wikipedia)

「お母さんに感謝を伝える」と言っても、何らかの理由で感謝を伝えたい人は不在かもしれません。けれど今伝えることのできる人は、あなたの気持ちを伝えましょう。