
いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中ですぐれているのは愛です。
仙台のぞみ教会
好きな一節(Mさん)2023.11.20 UP New
貧しい人は、自分で買ってきて育てた一匹の小さな雌の子羊のほかは、何ももっていませんでした。子羊は彼とその子どもたちと一緒に暮らし、彼と同じ食べ物を食べ、同じ杯から飲み、彼の懐で休み、まるで彼の娘のようでした。(サムエル記第二12章3節)
この部分は、主によって遣わされたナタンが、ダビデにたとえを通して彼の犯した罪を認めさせる場面のひとこまです。私は個人的にこの一節の描写が好きです。どんなにその人が子羊を慈しんでいるかが伝わってきて、愛でられる子羊の情景を思い描いてしまいます。時代がどんどん目まぐるしく変わっていっても、このように慈愛に満ちたやさしい情景はいつまでも失われないでいてほしいです。
ところで「ダビデの罪」に関しては、だれでも人から指摘された罪を、心から猛省して神様に赦しを請うのは難しいことだと思います。指摘されても自分とは無関係のように感じてしまう鈍感な私たち。なぜ気がつかないのでしょう。そのような時、人は意固地になり自分の考えに固執してしまいがちです。せめてまわりの人からの助言諫言に、謙虚に耳を傾けなければと思いますが、いざ自分のこととなると目をそむけたり、反抗的になったり、素直に自分の罪と向き合うことができません。そのことを気づかせてくれる周りの家族や友達がいたら大切にしなければ。でもその筆頭は神さまではないでしょうか。
11/19の説教で偶然、先生がこの箇所に触れられました。自分について神様はどう見ておられるか「私」に語られる言葉として素直にみ言葉を聞くことができますように。神様がそれぞれに相応しい導きをしてくださるように祈りたいです。

「善き羊飼い」ムリーリョ(1655~60年ごろ)
ペンテコステ(聖霊降誕記念日)関連の讃美歌(Mさん)2022.12.20 UP
キリスト教信者が大切にしている3大祝日(イースター・ペンテコステ・クリスマス)のひとつ、ペンテコステがまもなく、今年は5月28日にやってきます。イースターから50日後、キリストの弟子たちに聖霊が降臨した日を祝う、キリスト教会の誕生を祝う日です(→「聖書の舞台(生活・習慣)」のは行「ペンテコステ」参照)。
五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろな言葉で話し始めた。(使徒の働き2章1-4節)
いくつかペンテコステ関連の讃美歌を集めてみました。じっくり聴いてみると味わい深いかもしれません。ぜひ一緒に口ずさんでみてください。
◆聖霊来たれり 聖歌576番(いずこにある島々にも)
◆かみとともにいまして 讃美歌405番(かみとともにいまして)
◆来たれ聖霊、わが主 「讃美歌21」341番
◆来たれ聖霊よ 「讃美歌21」346番
◆ペンテコステの日に 新聖歌132番
他にも、グレゴリオ聖歌(カトリック教会で伝統的に歌われてきたキリスト教の典礼聖歌)の中でペンテコステを記念する聖歌として「来たり給え、創造主なる聖霊よ」があります。
バッハの教会カンタータ(17~18世紀バロック時代に発展した声楽曲の一形式)では新年、復活祭、結婚式、聖霊降臨節、クリスマスなど用途に合わせ使われる楽曲が決まっており、その中にも関連曲があります。興味のある方はぜひ聴いてみてください。

クリスマスの思い出(Mさん)2022.12.20 UP
皆さんは子どもの頃どんなクリスマスの思い出がありますか。
私は子どもの頃、親に買ってもらったレコード「♪きよしこの夜」「♪もろびとこぞりて」「♪ジングルベル」などをひとり静かに聴いて過ごしたのを覚えています。60年近く前のことです。ツリーは植木鉢に植えたもみの木に小さな飾りをつけ、綿をのせて雪の感じを出し、何色かの豆電球が光っていました。現代のようにLED電球がキラキラ光る立派なツリーではありませんでしたが、子ども心に胸をワクワクさせていました。
クリスチャンホームで育ったわけでもなく聖書も満足に読んだこともなかった私が
その後教会へ導かれ二十数年前の12月に受洗し、今にいたっています。毎年イブ礼拝のろうそくの光の中で、讃美歌 「♪きよしこの夜」「♪もろびとこぞりて」などを歌う時、ふとその時の光景が浮かんできます。あの頃聞いたレコードもクリスマスの飾りも、もう手元にはありませんが、なつかしい気持ちでいっぱいになります。当時素朴で粗末なサンタクロースの飾りではあったけど、サンタさんの白く長いひげ、少し酔っぱらったような赤い顔の表情を今でも覚えています。毎年そのサンタさんに会えるのが楽しみでした。子どもの私には、クリスマスはサンタクロースのイメージが強く、恥ずかしながらイエスさまのことを意識することなく、ただクリスマスの雰囲気に浸っていました。
教会へ通うようになった直接の原因ではありませんが、今こうしているのはそんな時間を過ごしたおかげかもしれません。何より本当のクリスマスの意味を知り、イエスさまのお誕生を心からお祝いする気持ちになれたことがうれしいです。ひとりでも多くの方がクリスマスを通して、イエスさまとの出会いがありますように祈ります。あなたも教会でイブ賛美礼拝に集ってみませんか?
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2章11節)
その名はインマヌエルと呼ばれる」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。(マタイ1章23節)

サイゼリアで学ぶキリスト教(Kさん)2022.10.13 UP NEW
本格的なイタリア料理がお得に楽しめるファミレスチェーンのサイゼリアですが、イタリアの絵画の複製が飾ってあることで有名です。その中には有名なボッティチェリの「プリマベーラ」や「ビーナスの誕生」などもありますが、多くがキリスト教由来の宗教画です。
まずミケランジェロの「アダムの創造」です。システィーナ礼拝堂の天井画で、「モナリザ」と並んでルネッサンス期の傑作と言われています。土で作られたアダムに神様が命を吹き込もうとする瞬間で、よく見るとまだ指先は触れていません。ミケランジェロ独自のこの解釈は多くのパロディを生み、映画「ET」や「ウルトラマンティガ」にも採用されていました。ちなみに聖書には「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」(創世記2:8)と書かれています。
次はフラ・アンジェリコの「受胎告知」です。未婚のマリアのもとに大天使ガブリエルが来て、いきなり「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」(ルカ1:28)とあいさつをします。そして男の子を身ごもると告げます。これが「受胎告知」の場面ですね。当時、マリアは中学生ぐらいの年齢。この絵のマリアの表情も戸惑っています。
それから、多くの店に飾られているのがラファエロの「システィーナの聖母」です。赤ちゃんの時代のイエス様を抱いたマリアです。ラファエロはたくさんの聖母子像を描いていますが、これは最期に描いた聖母子像です。ちなみに両側にいる人物は、左の男性はローマ法王シクストゥスⅡ世、右の女性は殉教したバルベラでいずれも3世紀の人物です。これらの人物は聖書には登場しませんが、オーダーした修道院のリクエストでこれらのカトリックの聖人が描かれたのです。ちなみに「なんだろうなぁ」みたいな表情で頬杖をついて上を見上げている幼い天使画が飾られている店もありますが、これは本来「システィーナの聖母」の下辺に描かれたものを切り離してアップにしたものです。
最後は、ルカの22章等を描いたドミニコ・ギルダンディオの「最後の晩餐」です。「最後の晩餐」といえばダヴィンチが有名ですが、暗い背景のダヴィンチの作品より、この作品の明るい背景が好まれたのでしょう。中央のイエス様の横で寝そべっているのがヨハネ、長机の手前にいるのがイエス様を裏切ったユダです。このころの絵画ではテーブルとイスが使われていますが、実際は絨毯の上に座ったり寝そべったりして食べていました。
なおサイゼリアの絵画のうち、一つだけが時代がぐんと下った19世紀の後半の作品があります。幼い天使がキスをしているウイリアム・ブグローの「アモルとプケ」です。アモルというのはフランス語の「愛」つまりキューピットで、キューピットが人間の女王プシュケーに恋をしたという、ギリシア神話の話を幼い容貌で表現したものです。ちなみに同じ作者の「プシュケーの誘惑」になると、二人が十代の美青年と美少女で描かれています。ここで注意していただきたいのは「羽が生えた幼児」の容貌で描かれていても、キューピッドは「ギリシア神話の神」、キリスト教でいう「御使い」「天使」とは異なる点です。
サイゼリアは現在「イタリアのオシャレなお家」への内装への切り替えを進めていますが、仙台の台原店などまだまだイタリア絵画の内装を楽しめるお店もあります。ぜひ聖書の知識を仕入れて、デートのサイには蘊蓄を語ってみてください。

フラ・アンジェリコ「受胎告知」(1437~1446)
良いサマリア人(Mさん)2022.07.26 UP
片づけをしていたら、切り抜いて取っていたある日の新聞のコラムを見つけました。交通事故で大けがを負い、人に助けられた猫の話です。コラムの一部を以下に紹介します。
「▼「『吾輩は猫である』風に語ってもらうと、こうか。イワシが本紙で紹介されたのは6月8日。多賀城市内の道で瀕死の状態で住民に救われ、手術で命を取り留めた。左目摘出、右目の視力も失うという痛々しさ▼治療費が高額になり、相談を受けた宮城県七ヶ浜町の鈴木艶子さんがインターネットで支援を募った。捨てられる犬、猫の保護や避妊、里親探しを15年続ける。「必死で生きるイワシへの応援を祈るばかりだった」▼思いが通じ、浄財はネットが87人、振り込みが85人に上り、計91万円に達した。鈴木さんにも100本近い激励の電話があり、宮城県南三陸町に住むペット美容師の女性は元動物病院看護師なので、イワシを世話したいと申し出た。(以下略)」(「河北春秋」『河北新報』2017年7月9日朝刊)
紙面に載った話を思い出しながら、あらためて読み直して、私は「良いサマリア人」の聖書箇所を思い出しました。「良いサマリア人」とはルカの福音書10章30~37節に出てくるたとえ話です。ある旧約聖書の律法の専門家が、さも私は聖書を理解しているという態度で、イエス様に「最も大事な律法は何か」と質問したとき、イエス様は「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と答えて、次のようなたとえ話をしました。それは、ある人が旅の途中で強盗にあって道端で半死半生で苦しんでいる時に、普段は神に仕えていると誇っている祭司やレビ人は、その人を無視して通り過ぎたのに、普段は神に従わない不道徳な民族として蔑まれているサマリア人が、治療代と宿代まで払ってその人を助けたというものです。その上でイエス様は「誰がケガした男の隣人となったと思うか?」と尋ねると、律法の専門家はそのサマリア人だと答えざるを得なくなりました。そこでイエス様は、律法を大事と思うなら「あなたも他人に対して同じよう行動しなさい」とその専門家に言われたのです。これが「良いサマリア人」のたとえ話です。
コラムの中で、助けられたのは猫の話ではありますが、本来人間の備わっているやさしさ、憐みの心にあらためて感じ入りました。命あるものを見殺しにできず寄せられた人々の好意に頭が下がります。自分の家族、親戚、知人、友人ならともかく、まるで面識のない人に自分の最善を尽くし、時間と宝を捧げるのは難しいことのように思えます。やはり人は自分のことが一番大事だからです。
「見て見ぬふり」という言葉の通り、関わりを持つのがいやだとか煩わしいとか、人によって理由はいろいろあるでしょう。同じ状況に立った時、自分はどちら側を歩くでしょう?祭司やレビ人のように反対側を通り過ぎるでしょうか。サマリア人のように、助けるほうに踏み出す勇気、覚悟はあるでしょうか。ある種の犠牲をはらっても、救いの手をさしのべることができるのは、そこに神様の力がはたらいてそうさせるのかもしれません。神様から与えられたそのような場所に居合わせたとき、人間として自然にそのような振る舞いができるよう、神様はそう願っているにちがいありません。
かわいそうだとか、気の毒だと思いながらも、「気持ち」だけではだれも喜ばすことはできません。そこに行動が伴ってはじめて思いが通じるのだと思います。大災害が起きた時にいち早く現地に駆け付けるボランティアの方たちや、大地震の時に自分のことはさておき、周りの人たちのために尽力された方たちを見ても、それらの行動力に目を見張るものがあります。「なさざる罪」とは何もしないことによっておかされる罪。良いことをしないのも罪であることを心の隅にとめたいと思います。
まことに、みことばは、あなたのすぐ近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。(申命記30章14節)
「取り込むばかりの人々は何も生まないが、多くの与える人の周りにはいつも豊かな実りがある」(曽野綾子『幸せは弱さにある』イースト・プレス、2013年)

ノアの箱舟にまつわるアレコレ(Kさん)2022.07.13 UP
先日、ある作家さんのエッセイを読んでいて「ノアは、箱舟から降りて動物犠牲を捧げたのだから、その動物は絶滅したのかな」という趣旨の文章がありました。「ノアの箱舟」とは、人間の悪が増大したことに対して、神様が正しい人ノアとその家族以外を滅ぼすために大洪水を起こした。ただノアの家族だけは神様の命じた通りの箱舟をつくって動物たちと一緒に大洪水を生き延びて、新しい人間の歴史が始まったという聖書の中の有名なお話です。絵本やドラマ、アニメでもたくさん取り上げられており、みなさんも一度は見たり聞いたりしたことがあるのではないでしょうか。
さて先の作家さんの疑問についてですが、聖書を開けばきちんと書いてあります。普通、動物犠牲で捧げるのはきよい動物で、それらは14匹ずつ乗っていたのです。
あなたは、すべてのきよい動物の中から雄と雌を七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌を一つがいずつ、また空の鳥の中からも七つがいずつ取りなさい(創世記第7章2~3節)。
この箇所を見ると「この『きよい動物』とか『きよくない動物』というのは、神様の差別ではないか」と思われるかもしれません。しかし、これは差別ではなく、人間に教えるための区別のようです。一説には、食中毒や病原菌の原因をさせるためだとも言われていますが、よくわかりません。例えば、カラスは一般的には忌み嫌われる鳥ですよね。しかしノアの箱舟の話では、洪水が引いて地表が現れたかどうかを確かめる栄誉をカラスが担っています(創世記8章7節)。結局は地表を見つけられなくて帰って来て、次に放たれた鳩がオリーブの枝を咥えて戻ってきたので、水が引いたことが分かったのです(創世記8章11節)。ちなみに鳩がオリーブの枝を加えているモチーフは、ここから来ています。旧約聖書の中でカラスは、預言者エリヤを養ったりして、意外に活躍しています。忌み嫌われているカラスでさえ、神様は用いてくださるのです(第一列王記第17章3節)。
最後に、「箱舟の扉を閉めたのは誰か」についてです。箱舟とは舵も動力も付けられていないただの巨大な木の箱です。たくさんの動物を乗せるための巨大な扉ですが、外部の人間はノアが巨大な箱舟をつくっていたのをあざ笑っていましたから、協力者はいません。中からはとても引っ張り上げられません。どうしたのでしょうか。実は、これも聖書にきちんと書かれています
それらは、神がノアに命じられたとおりに入った。それから、主は彼のうしろの戸を閉ざされた(創世記7章16節)。
キリスト教の神様は、人間に命じて、天の上から意地悪く眺めている神様ではなく、大事な所で手を差し伸べて私たちを助けてくださる神様なのです。

梅の実に思うこと(Kさん)2022.06.26 UP
地方によって時期は違いますが、仙台では今、青々とした梅の実が出回っています。この時期になると、私は梅の実を見て神様の業の不思議を感じます。
みなさんは梅干しをつけたことがありますか。梅干しは、この梅雨の時期に主隠された梅の実を塩漬けにすることからはじまります。梅の実の10%の重さの塩と一緒に漬けて、梅の実と同じ重さの倍の重しをかけます。やがて梅から水がしみ出して、梅の実は塩水につかります。そのうちに、ほんのわずかの期間だけ赤紫蘇が出回ります。塩もみした赤紫蘇を梅と一緒に漬けこむと、あの梅干しの赤い色と香りが梅の実につくのです。
そうこうするうちに梅雨が明けて暑い夏がきます。その暑さと炎天下の中、梅のエキスがしみ出した塩水(梅酢)から梅の実を取り出し、笊に広げて干します。これが「土用干し」です。これで梅の実がシワシワになり、再び梅酢につけるとエキスを吸収して美味しい梅干しになります。これを食べてもいいのですが、去年付けた梅干しが一年たって酸っぱさも風味もまろやかになり食べごろになっていますから、これをいただきましょう。
これを見て不思議に気づきませんか。梅の出回るタイミング、赤紫蘇の出回るタイミング、梅を干すのに最適な気候のタイミング、そして暑い季節に防腐と食欲増進の効果がある梅が食べられるようなタイミング。すべてがほんのわずかの狂いでも成立しないような絶妙のタイミングで季節のサイクルがまわり、私たちに必要な食を与えてくれています。私たちも、私たちの祖先も、そうやって神の恵みの不思議の中で季節を生きてきました。
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。(伝道者の書3章11節)
梅の実は不思議で、何の特徴もない果実ですが、梅酒にしたり梅シロップにしたりすると、他の果実では太刀打ちできない味と香りを放ってくれます。生の梅の実は、味そのものというか、生のまま食べると青酸(青酸配糖体)が少し入っているので体調が悪くなります(といっても、深刻な影響が出るのは子どもで100個程度食べたときだそうです)。しかし、苺やリンゴ、ナシなどの食べて美味しく香りもよい様々な果実で果実酒に挑戦しましたが、果実酒にした場合の味と香りは、どれも不思議なことに梅の実にはかないません。梅の味と香りは断トツです。人間と同じで、神様はどこかに優れたいい点(賜物)を与えて下さっているのです。神様から与えられた賜物を熱心に磨き上げ、梅の実のような味と香りを放って行きたいものです。
皆が使途でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。皆が癒しの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか。あなたがたは、よりすぐれた賜物を滅心に求めなさい。(コリント人への手紙第一12章29節~30節)

表彰式の曲(Kさん)2022.06.19 UP
オリンピックをはじめとするスポーツの大会で、表彰式の時に流れるこの曲が、もともとは教会で歌われてきた歌だとご存知でしたか(→聖歌168番)。日本人の多くが、この曲を「表彰式の曲」だと思っています。有名なのに知られていない、この曲の歴史をひも解いてみましょう。
この歌は、あのバロック音楽の巨匠ヘンデル(George F. Hendel)が1746年に作曲しました。もともとは旧約聖書のヨシュアの凱旋の場面を歌ったものが(ヨシュア記10、11章)、後にイエス様のことを歌った歌になりました。1番~3番を見てみましょう。「①見よ!我らを統べる英雄がやって来る/笛や太鼓の音も響かせず/天の父なる神様として私たちの心を/愛をもって統べるために/(曲間)神の御子が来る/この世界のために血を流すため/我らの主となって我らを統べる/②彼はこの世を光で満たすためにやって来る/我らの心の目を開くために/我らを罪から解放するために/我らを永遠に統べるために来る/③彼は罪ある人のただ中に住まわれるために/罪に打ち勝つ力と権威をもって来る/彼は神への唯一の道であり/唯一の救い主であり唯一の王である」(本コラム筆者訳)となっています。ある意味「勝利の凱旋」ですが、華やかなパレードもなしにやって来た「英雄」とは、私たちの罪のために血を流された救い主イエス様ですね。
その後、1884年にスイスの牧師・ビュドリー(Edmond L. Budry)がイエス様の死と復活の場面として、フランス語の歌詞をつけました。「①復活の主よ!あなたに栄光あれ/永遠の勝利はあなたのもの/光に照らされ舞い降りた天使が 墓を打ち破り墓石を転がした/復活の主よ!あなたに栄光あれ/永遠の勝利はあなたのもの」( À toi la gloire O Ressuscité: 本コラムの筆者訳)というものです。永遠の勝利とは、罪の奴隷となり死ぬしかなかった私たちを救い、永遠のいのちを与えることのできたイエス様の勝利のことを指しています。ずいぶん今の歌詞に近くなってきました。「墓石が転がされてその上に天使が座り、墓の中には死んだはずのイエス様がいなくて衣だけが残されていた」というこの場面は、聖書のルカの福音書24章などで読むことができます。
さらに、その後、1923年にイギリス人の牧師・ホイル(Rechard B. Hoyle)が「①復活の主よ!あなたこそ栄光/わたしたちの永遠の勝利が今はじまった/栄光をまとった天使が墓石を転がし/身体のあった場所には衣だけが残された」(Thine Be the Glory: 本コラムの筆者訳)と英訳しました。これが日本語になると「①いざ人よ褒めまつれ/よみがえりし勝利の主/見よ墓には何もなく/ただ衣の残るのみ/いざ人よ褒めまつれ/よみがえりし勝利の主」と日本語に訳されたのです。シンプルな名訳ですね。
もうお分かりですね。「勝利」とはスポーツの勝利ではありません。また、ここで人が褒めているのはスポーツの勝者ではありません。死に勝利したイエス様のことです。もし私がオリンピックの金メダルを取って表彰台に上がったときにこの曲が流れてきたら、「いざ観客よ、勝者である私を褒めよ」と考えるのではなく、「人たる私は、この場所で永遠のいのちを与えてられるという圧倒的な勝利者としてくださった神様を誉めまつります」と考えたいと思います。まあ、金メダルを取ることはないでしょうが。
しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。(ローマ人への手紙8章37節)

五本指の祈り(Mさん)2022.06.07 UP
だいぶ前に友人から贈られた本に『デイリーブレッド―わたしとみんなのデボーション―』(いのちのことば社、2007年)というのがありました。その中の6月2日の項目から、私が感激した祈りについて記された「五本指の祈り」という記事がありました。この記事では、五本指を思いながら、それに関係する様々な人々に思いをはせて祈ることを勧めています。なお「 」内は、この本からの引用です。
「手を組んだとき、自分に一番近いのは親指です。まずは、もっとも近くにいる人、愛する人のために祈りましょう。」
私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。(ピリピ人への手紙1章3~5節)
「人指し指は『示す指』です。ですから、聖書を教える人、牧師、日曜学校の教師のために祈りましょう。」
兄弟たち、私たちのためにも祈って下さい。(テサロニケ人への手紙第一5章25節)
「一番長いのが中指です。権威を持つひとのために祈りましょう。国や自治体の指導者、職場の上司といった人です。」
そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。(テモテへの手紙2章1~2節)
「4番目の薬指はたいてい、もっともか弱いものです。困っている人、苦しんでいる人のために祈りましょう。」
あなたがたの中に苦しんでいる人がいれば、その人は祈りなさい。喜んでいる人がいれば、その人は賛美しなさい。あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病んでいる人を救います、主はその人を立ち上がらせてくださいます。もし、その人が罪をおかしていたならその罪は許されます。ですから、あなたがたは癒されるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。(ヤコブへの手紙5章13~16節)
「最後は小さな小指です。神の偉大さに照らして、自分の存在がいかにちいさいかを思い出し、神が自分の必要を満たしてくださるよう祈りましょう。」
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝を持ってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。(ピリピ人への手紙4章6節、19節)
わたしたちは、ついつい身近にいる家族のことや自分の願いの成就など自分中心の祈りになりがちです。また祈れないほどの苦しみや孤独、絶望の中に自分自身がいることがあります。そんな時あなたを知るほかの誰かが代わりに祈っていてくれるのを知っていますか。本当にありがたいことであるし、力が湧いてきます。
また、わたし(筆者)は祈りたいことを、誰かにお願いして一緒に祈ってもらう時もあります。
あなたがたのうち二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。(マタイの福音書18章19~20節)
自分の愛する人たちのため、牧師先生のお働きのため、また国内外に目を向ければ、国の主導者や為政者のためにも、特に昨今は世界平和のために祈らずにはおれません。連日報道される二国間の戦争に多くの人々が心を痛めています。一刻も早く終結するよう願うばかりです。さらに、弱い立場の人、困難の中にあり様々な不安や悩みをかかえている人たちのためにも祈りたいと思います。
いつも神様を信頼し、私たちの必要を満たしてくださる神様を心から賛美しましょう。今日も、皆さんが神様に語りかける時間を大切にできるよう祈っています。

RBCミニストーリーズ監訳『デイリーブレッド―わたしとみんなのデボーションー』いのちのことば社、2007年。