読んで聞かせたい聖書の話

 

​ キリスト教に関わるほっこりとしたお話や希望が持てるお話など、思わず誰かに話してみたいお話を集めた不定期連載です。お楽しみに。

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コスモス
召天者記念礼拝

註:仙台のぞみ教会、現在、新改訳聖書(2017年版)を公式聖書にしており、以下の記事内の引用もそれに基づいています。しかし「とりあえず聖書を見てみたい」という方は、上の「ネットで読める聖書」のボタンをご利用してください。「Bible.com」の「口語訳聖書」にリンクしています。この「口語訳聖書」は著作権が切れておりますのでネットで全文が読めるのですが、その特徴や問題点、これに対する新改訳聖書の位置づけなどは、上記「はじめての聖書選び」をお読みください。

キリシタンの殉教と東北の布教(Yさん2021.03.07 UP 
 

 戦国時代が終わり、豊臣秀吉、そして徳川政権になるとキリスト教が禁止され、キリシタンは迫害されるようになりました。キリスト教への激しい弾圧が始まると、キリシタン大名の高山右近や外国人宣教師たちは国外に追放されることとなりました。それでも隠れて残っていた宣教師たちも、次々と殉教していきました。

 先行文献によると1614年から1639年までの殉教者は、教会の把握で宣教師134人、信徒1910人にのぼると言われています。ラウレスの資料によると、刑死3171、獄死874の計4045人になり、『日本史小辞典 キリシタン』を執筆したチースリクは、推定4~5万人としています。実際、カトリック教会は1867年に205人を聖人として列福し、その後16人を追加、2008年には188人の殉教者を列福しました。いずれにせよ、多くのキリシタンが処刑されました。処刑から逃れて残された者たちは潜伏し、江戸時代を通じ「隠れキリシタン」となって信仰を継承したのです。

 東北キリシタン弾圧について山口陽一氏(東京基督教大学)は、講演の中で次のように話されていました。「東北における本格的キリシタン宣教は1611年、伊達政宗(1567~1637年)が、ルイス・ソテロ(1574~1624年)を仙台に招いたことに始まる。政宗はすでに徳川幕府の迫害が始まっていた1613年、支倉常長を貿易の交渉の使節としてイスパニアに派遣する。1614年1月(慶長18年12月)徳川幕府の『伴天連追放令』が発せられ京阪で迫害が始まる。同年4月、機内のキリシタン71人(京47、大坂24)が津軽に追放された。

 1613~1620年、支倉常長が派遣されていた時期が、仙台を中心とする東北布教の最盛期。しかし、仙台藩では目的を果たせず、支倉帰郷の日から迫害が始まる。家臣後藤寿庵を追放し、迫害を逃れたキリシタンが南部(盛岡)に潜入した。南部では1635年から翌年にかけて約146人が処刑、1624年、仙台でディエゴ・カルワリオ神父らが殉教、以降、寛永期の東北各藩の殉教者数は、久保田(秋田)140人、弘前88人、仙台363人、南部146人、米沢88人、庄内25人、白石7人、山形38人、白河16人、会津57人、二本松14人、新庄10人、計990人を数える。」(第52回朝祷会全国大会〈仙台〉講演会、於・松島町ホテル大観荘、2013年6月8日より、引用元はフーベルト・チースリク監修、太田淑子編『日本史小百科 キリシタン』東京堂出版、1999年、104~105ページ)。

 一方、長崎では宣教師がみな処刑されたあと、バスチャンという日本人伝道士が残されましたが、彼もまた見つかり、激しい拷問の末首を刎ねられて死んでしまいました。このバスチャンが死刑になる前に、4つの予言を遺したと言われています。そして、この予言を長崎の隠れキリシタンたちは代々伝えていきました。その予言とは、以下の4つです。(1)これから7世代後、自由に礼拝できる日が来る。(2)黒船に乗って神父がやってくる。(3)どこでも大声でキリシタンの歌を歌うことができる。(4)道で異教徒とすれ違う時は相手が道を譲るようになる。隠れキリシタンはこの予言を大切に信じ、厳しい徳川の時代が終わるのを待っていました。この長い時代を待つのは、どれほど辛かったことでしょう。しかし彼らは神様を信じ、バスチャンの予言に希望を見出して待ったのです。そして、その通り250年後に、従軍牧師がアメリカのペルーの黒船に乗ってやって来たのです。黒船の到来は、幕府や多くの日本人にとっては「不安」であり「招かれざる客」でした。しかし、長い過酷な時代をくぐり抜けたキリシタンたちにとっては、まさに希望の光だったのです。その後、禁教令が解かれ、キリスト教が再び公になったことは、ご存知のとおりです。

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殉教したキリシタンたちを埋葬した宮城県登米市東和町米川の「海無沢三経塚」(登米市HPより)

支倉常長(3)(Yさん2021.02.27 UP 
 

 洗礼を授かることは、誰にとっても特別なイベントです。慶長20年1月20日(今の暦で1615年2月17日)、支倉常長は宰相レルマ公を代父として、国王隣席の下、王立フランシスコ会洗足(デルカルサスレアレス)修道院附属の教会で洗礼を受けました。洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコでした。山口陽一氏(教授、東京基督教大学)は、2013年に宮城県松島市で開かれた講演の中で、『支倉常長』という本の記述を引用し、その時の様子を以下のように語られました。

 「教会には豪華絢爛たる天蓋が吊るされてあって、多くの貴顕大官が陛下の護衛兵と共においでになり、陛下は私たちが大聖堂に入るまでに騎士や聖職者多数を随伴された。大祭壇の左側階段の上に祭壇が一つ、洗礼用の品々と一緒に置かれ、同じ階段の一方に日本の人達が、他方には王女の侍従長アルタミラ伯と大使(常長)とが分かれて(着座していました)。王室礼拝堂付主任司祭ドン・ディエゴ・デ・グスマンは王妃の礼拝堂に昇りましたが、そこには代父のレルマ公と代母のバラハス侯爵夫人が着座される席が設けられていました。彼らが到着されると、王室礼拝堂の司祭全員が蝋燭と松明に火を点し、主任司祭が正装して現われました。洗礼は甚だ荘厳に執り行われ、大使はたいへん経験に心を尽くして洗礼を受けました。水が注がれると、王室礼拝堂では聖歌隊員達や聖職者達によってラウダテ・ドミムヌの歌が始まり、オルガンが奏されましたので、教会は天国のように思われました。」(五野井隆史『支倉常長』吉川弘文館、2003年、115~116ページ。原典は「マドリード歴史学士院図書館文書」)。

 支倉常長の帰国後の日本は、ご存知のようにキリスト教の禁教令が敷かれていました。常長も、伊達政宗に謁見する条件として「以前の宗派に戻ること」を条件にされました。それでは、支倉常長は本当にキリスト教を捨ててしまったのでしょうか。先にあげた山口陽一氏は、「棄教説」が本当だとしたら、彼の信仰を示すような肖像画や十字架のメダイ(十字架やマリア像がペンダントヘッドになったネックレス)を処分することが得策ではないか。しかし支倉家はそれらの将来品を持ち続けた(右の写真、真ん中の筋は仙台藩の追及から隠すために二つ折りにおられた痕と言われている)。しかも子や家人に信仰は継承された。これらの事からも、支倉常長は生涯親交を持ち続けたと考えるほうが自然ではないか、と言っておられました。支倉家は、常長の嫡子・常頼が後を継いだものの、寛永17年(今の暦で1640年)に家臣がキリシタンであったことの責任を問われ処刑され、断絶されました。しかし寛文8年(今の暦で1668年)に、常頼の子・常信の代に許され、家名は再興しました。現在は、14代にあたる支倉正隆氏が仙台市に在住されています。

 遣欧使節団の大任を受けて出発した支倉常長でしたが、本来の目的であったスペイン貿易については失敗に終わっています。しかし、前回お話ししたように、スペインのマドリード、イタリアのローマに訪問し、現地で洗礼を受け、世界に日本を紹介した使節としての歴史的意義は極めて大きかったと言わざるを得ません。

 常長は受洗の際、自分で「日本の騎士たちの見習うべき模範となるため」の受洗であると表明したそうです。それは神様からの使命を果たすために、自ら伊達家を離れるという大きな決断でもありました。それだけに常長の信仰の志は高く、堅固なものであったに違いありません。そのような志は、まさしく「武士の模範」であり、仙台藩のみならず世界を視野に入れた日本人の先駆けとして崇敬すべき人物ではないでしょうか。支倉常長の功績は、ヨーロッパだけでなく、世界の懸け橋としていつまでの人々の心に残るでしょう。私たちも、神様を求める姿勢で生きるとき、いずれ神様からの祝福が訪れてきます。

 「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。」(イザヤ書43章19節)

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仙台市博物館所蔵の支倉家伝来の「支倉常長像」(クロード・デリュエ作)

支倉常長(2)(Yさん2021.02.26 UP 
 

 支倉常長の評判は、すべての行程を通じて良いものでした。セルビアでの歓待を受けた後、一行はマドリードに移動し、慶長19年11月5日(今の暦で1614年12月5日)に到着しました。同じころ、日本ではキリシタン大名の高山右近が、徳川家康によるキリシタンの国外追放令を受けて同年10月6日(今の暦で1614年11月7日)に高山右近らがマニラに追放になり、また大坂冬の陣が起きるなど国内の状況は大きく変わろうとしていた。

 一方、支倉常長は慶長20年1月2日(今の暦で1615年1月30日)に、王宮でエスパーニャ国王フェリペ賛成に謁見し、政宗の書状と進物を呈して使節の使命を述べました。その書状の中には、幕府のものとは異なり、キリスト教の布教に便宜を図ることが示されていました。しかし王は、福音の布教を第一に求めるとのみ応じただけでした。慶長20年1月20日(今の暦で1615年2月17日)、常長は宰相レルマ公を代父として、国王隣席のもとで王立フランシスコ会洗足(デルカルサスレアレス)修道院附属の教会で洗礼を受けました。洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコでした。

 ここからローマへの旅の許可はなかなか下りず、一行がマドリードを出発したのは半年後の慶長20年7月2日(今の暦で1615年8月25日)であり、ローマについたのは元和元年9月3日(今の暦で1615年10月25日)でした。しかし支倉常長は日本の一地方領主の使節でしかなく、また日本におけるキリスト教迫害の状況が伝わりつつあったこともあり、使節の目的達成は困難を極めていました。この間、メキシコのアカプルコに残されていた商人たちのある者はサン・ファン・バウティスタ号で、一度、日本に戻りました。

 一方、ローマに移動した支倉常長は、元和元年9月7日(今の暦で1615年10月29日)にローマ市による盛大な入市式の歓待を受けました。元和元年9月10日(今の暦で1615年11月1日)にはサン・ピエトロ教会で、教皇の祝福を受けています。元和元年9月12日(今の暦で1615年11月3日)には、非公式ながらローマ教皇パウルス5世との謁見をし、伊達政宗からの書状を奉呈しています。右の写真(モバイル版では上の写真)は油彩で書かれた「支倉常長像」で、現在はボルゲーゼ宮に所蔵されています(ボルゼーゲ家はパウルス5世の出身で、また支倉常長を接待したボルゲーゼ枢機卿の家)。この絵画は縦196㎝、横146㎝の大きなもので、アルキータ・リッチの作と言われています。この絵の中の支倉常長は、絹と金糸銀糸をもって織られた鳥獣草花の飾りをあしらった白地和服を着ていますが、これは謁見時の支倉常長の服装の記録と一致しています。さらに元和元年9月24日(今の暦で1615年11月15日)には、機内のキリシタンの請願書を提出するために、再度、ローマ教皇に謁見しました。また元和元年9月29日(今の暦で1615年11月20日)には、ローマの市民証書を授与され、貴族に列せられました。こうした数々の業績を残しながら、一行は、元和元年11月18日(今の暦で1615年1月7日)にローマを出発し、随員15名とともにセリビア経由でメキシコに向かいました。元和2年5月9日(今の暦で1616年6月22日)のことです。

 ちょうど日本では、同じころ(元和2年4月17日、今の暦で1616年6月1日)に徳川家康が没しました。(つづく)

支倉常長(1)(Yさん2021.01.30執筆
 
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アルキータ・リッチ「支倉常長像」17世紀。

 倉常長は、1571(元亀2)年に支倉(山口)常長の次男として、置賜郡立石邑(現在の山形県米沢市立石)に生まれました。その後、子どものいなかった伯父・支倉時正の養子となって7歳の時から、陸奥国柴田郡支倉村(現在の宮城県柴田郡川崎町支倉)にあった上盾城で青年時代を過ごしました。その後、時正と後妻の間に子ども(久成)が生まれたため、主家の伊達政宗の命で家禄1,200石を二分し600石を分与され、支倉家の分家となりました。

 1612(慶長17)年、常長は第一回目の使節では使節団の正使に任ぜられ、サンフランシスコ会の宣教師ルイス・ソテロを副使として、ともにサン・セバスチャン号で浦賀から出港するものの、暴風にあって座礁してしまいます。その後、いったん仙台に戻り、月の浦(現在の宮城県石巻市月の浦/月の浦ではなく現在の石巻市雄勝町という説もある)で新造されたガレオン船サン・ファン・バウティスタ号で、慶長18年9月15日(今の暦で1614年10月28日)に180人余りとともに月の浦から出港しました。ソテロが徳川家康と将軍・秀忠の使者として、常長が伊達政宗の使者としてイスパニアに向かいました。ヨーロッパとの貿易を望む徳川家や伊達家と、それを利用して宣教の拡大を狙うソテロらの思惑が一致した旅立ちでした。

 サン・ファン・バウティスタ号は太平洋を横断し、慶長18年12月16日(今の暦で1614年1月25日)に、90日の旅を経てアカプルコ(現在のメキシコ国アカプルコ市)に到着しました。ちょうど同じ頃、幕府は金地院崇伝起草の「伴天連(バテレン)追放之文」を交付します。同年12月22日(今の暦で同年の2月1日)のことでした。一方、支倉常長は、陸路メキシコ市へ向かい、慶長19年2月14日(今の暦で1614年3月24日)に到着します。その翌月の慶長19年3月1日(今の暦で1614年4月9日)に20名が、同3月12日に(今の暦で4月20日)に22名が洗礼を受けました(20名は日本ですでに洗礼を受けていて、一方、支倉常長はこの時には受けていません)。しかし、同じ慶長19年に日本では71名のキリシタン信徒が津軽に流される「慶弔十九年の大追放」「津軽大流刑」が行われるなど、弾圧が始まっていたのです。一方、支倉常長の本来の仕事であり、徳川秀忠や伊達政宗が望んでいたメキシコとの貿易交渉は不調に終わりました。その上、メキシコ副王グアダルカサルからは、日本におけるキリスト教弾圧への批判をされてしまいました。そのため、ソテロと支倉常長ら30名は、慶長19年5月3日(今の暦で1614年6月10日)、サン・ホセ号という別のスペイン船でイスパニアを目指して出発しました。(今の暦で1614年6月10日)。

 慶長19年9月2日(今の暦で1614年10月5日)にイスパニアの地(今のイベリア半島)のソテロの故郷の港に到着した一行は、そこから川を上り慶長19年9月18日(今の暦で1614年10月21日)にセルビアの街に迎い入れられます。セルビア市の市長は、支倉常長のことを「この人物は分別があり、何事にも大変気づかいを見せている」と好意を示したそうです。また商工会議所長は、「彼は尊敬に値し、落ち着いていて物事を弁え、言葉遣いがきちんとした控えめな人物のように思われる」と評しました。(つづく)

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宮城県石巻市の「宮城燃慶長使節船ミュージアム」に係留されている実物大のサンファンバウティスタ号(復元船)。

ヨセフの物語(Mさん
 

 みなさんにもなじみの深い、旧約聖書の創世記に出てくる「ヨセフの物語」です。ここを読むとき、私は「塞翁が馬」→「goo国語辞書」の「塞翁が馬」参照「禍福はあざなえる縄のごとし」→「goo国語辞書」の「禍福は糾える縄の如し」参照の故事やことわざを思い出します。

 ヨセフはヤコブの11番目の息子として生まれ→「聖書の舞台(人物・組織)」のあ行「イスラエルの民」参照、父ヤコブに寵愛されていましたが、そのために兄たちには妬まれていました。ある時、ヨセフは「兄たちが自分の家来になる」という、自分が見た夢を無邪気に語ったことで兄たちの怒りを買い、殺されかけました。しかし、ひとりの兄の発案で「殺すよりも売った方がいい」ということになりイシュマエル人に売られ、エジプトに奴隷として連れて行かれました。エジプト王(ファラオ)の侍従長であったボティファルの家に売られたヨセフは、主人に可愛がられ、その家の全財産の管理を任せられるぐらいまでに信頼されました。しかし、ポティファルの妻から誘惑を受けたとき「どうして、そのような大きな悪事をして、神に対して罪を犯すことができるでしょうか。」(創世記39章9節)と拒絶しました。ヨセフに拒まれた妻は「私が声をあげて叫んだので、あの男は私のそばに上着を残して、外に逃げました。」(39:18)と夫に言い、その讒言に怒ったポティファルはヨセフを投獄します。しかし獄中でも、「主がヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。」(39:21)のです。

 ヨセフが入った監獄には、ミスを犯したファラオの献酌官と調理官が投獄されていました。二人は同じ夜にそれぞれ夢を見るのですが、その夢の解き明かしをヨセフがしました。献酌官はヨセフの夢の解き明かしのとおり三日目に元の地位に戻ることができ、一方の調理官はファラオの命で木につるされて命を落としました。元の地位に戻ることになった献酌官に、ヨセフは「あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください。私のことをファラオに話して、この家から私が出られるように、私に恵みを施してください。」(39:14)と頼みますが、彼はそのことを思い出さず、ヨセフのことをすっかり忘れ去ってしまいます。

 それから二年の月日が流れ、ファラオは不思議な夢を見ます。その時、かつて一緒に投獄されていた献酌官はヨセフのことを思い出し、ファラオにヨセフによる夢の解き明かしを進言します。ヨセフが夢の解き明かしをすると、ファラオはヨセフの忠告を受け入れます。そして、ヨセフに神様がついていることを確信し、これから起こるであろう飢饉への備えを万全にするため、ヨセフにエジプトの全土の支配の代行を任せました。このころヨセフは妻を迎え、二人の子どもに恵まれます。彼は、その子らをマナセ(「神が、私の労苦と、私の父の家のすれてのことを忘れさせてくださった」から「忘れる」という意味で)とエフライム(「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」から「実る」という意味で)と名づけました。飢饉は全世界に及び、世界中の人々がエジプトのヨセフのところへ食べ物を買いにやってくるようになりました。

 ヨセフの兄たちも、やはり穀物を買い求めてエジプトに向かいました。このとき、父ヤコブは、末子でヨセフの弟であるベニヤミン(この二人は母を同じくします)だけは手元に残し、残りの十人の兄弟をエジプトに向かわせました。エジプトの事実上の支配者となったヨセフは、かつて彼を売った兄たちと再会しますが、この時は自分が何者なのかを明かさず冷たくあしらいます。ヨセフは、兄たちのうち一人をエジプトに監禁して、末の弟ベニヤミンを連れて来ることを条件に他の兄弟を解放しました。その際、穀物を満たし持参した銀をそれぞれの袋に帰して家族のもとに帰らせましたので、彼らはエジプトの支配者(実は身分を明かしていないヨセフ)に濡れ衣を着せられてしまうと恐れてしまいました。さらに父ヤコブは、兄弟たちから事の成り行きを聞き、死んでしまった(とされてしまった)ヨセフの次にかわいがっていたベニヤミンを連れて来いという、エジプトの支配者(ヨセフ)の無理難題に当惑し、反対しました。だが飢饉がひどくなって再び穀物が枯渇すると、父ヤコブは、とうとうベニヤミンをともなってエジプトに行くことを許します。ヨセフは、とうとう愛する実弟ベニヤミンに再開することができたのです。

 しかし、ベニヤミンと離れ難かったヨセフは、自分の家の管理者(執事)に命じてベニヤミンの袋に銀の盃を忍ばせました。そうしておいて、帰途についた兄弟たちを追撃して盗難の難癖をつけ、そんなことはないと平謝りに謝る兄弟たちに荷物検査を持ちかけ、「それが見つかった者は私の奴隷とし、ほかの者は無罪としよう。」(44:10)と提案します。ベニヤミンを連れ去られた兄弟たちは町へ引き返し、ヨセフに面会を求めます。そして兄の一人がヨセフに土下座をし、どんなに父が末の弟を愛しているか。そして過去に父の愛した別の弟(ヨセフのこと)を死んだことにしてどんなに父を嘆かせてしまったのか。だから自分を代わりに奴隷にしてもいい、弟を解放してほしいと訴えたのです。この兄こそ、かつて「さあ、ヨセフをイシュマル人に売ろう。」(37:27)と提案した兄ユダだったのです。

 感極まったヨセフは兄たちを近くに寄せて顔を見せ、ついに自分のことを明かしました。そして、これまでのいきさつを話したのです。彼は兄弟たちにこう言いました。「神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。」(45:5)、「ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。」(45:8)。ヨセフは、兄たちから受けたひどい仕打ちも、自分が受けた数々の試練も、実は神様が多くの人を救うためのご計画の一部だったことがわかったのです。こうしてヨセフは、父ヤコブたちの家族を自分のもとに呼び寄せ、ヤコブは一族を連れて神様の祝福のもと、エジプトで移り住み平安のうちに余生を過ごしました。

 みなさんは、この波乱万丈なヨセフの人生をどのようにおもわれますか。「兄たちが自分の家来になる」と言う夢の解き明かしを無邪気に語っていたヨセフは、様々な出来事を通して成長して、神様の祝福のもと大いなる業を成し遂げました。そんなヨセフの人生に学ぶ点が多いと思います。私たちの人生においても、ある日奈落の底に突き落とされたような、孤独で苦しく絶望的な状況に陥って茫然自失となることがあるかもしれません。しかし「ヨセフの物語」を通して、試練や誘惑を経て、徐々に物事が好転していくことを見ることができました。主が必ずともにいてくださり、導いてくださることを信じましょう。良いことの後に悪いことが起きても、決して悲嘆せず恐れずに、神様のみこころを信じて、神様にお委ねしていきたいと思います。そして人生を振り返った時に、主が何時どんな時も導いてくださったことに感謝できるものでありたいと思います。

参考絵画

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ペーター・フォン・コルネリウス「​兄弟たちと再会するヨセフ」(1816年)

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創世記39章23節

それは、主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからです。

創世記42章18節

私も神を恐れる者だから。

創世記45章8節

ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。

後藤寿庵(Yさん2021.01.21執筆
 

 後藤寿庵(1577(天正5)年?~1638(寛永15)年?)は、戦国時代から江戸時代の初めに生きた武将で、生没年は不祥です。豊臣秀吉の小田原攻めの後、小田原攻めに参加しなかった主家・葛西氏が滅びると今の岩手県一関市付近にあった領地を追われ、長崎に移り住み、五島列島で洗礼を受けてジョアン(ヨハネの意味)の洗礼名を受けました。もともとは岩淵姓でしたが、「五島のジュアン」という意味で、これ以降「五島寿庵」と名乗ります。

 その後、江戸時代に入った1611(慶長16)年、京都の商人・田中勝介の推薦により、支倉常長を通じて伊達政宗に仕えるようになりました。1612(慶長17)年には、政宗の家臣・後藤信康の義弟となり「後藤寿庵」と改姓して、見分村(現・奥州市水沢福原)に1,200石の領地を拝領することになりました。寿庵は、1618(元和4)年ごろから、原野であった見分村の開拓を進め、17㎞にわたる「寿庵堰」という水路を築きました。この水路は、今も岩手県随一と言われる水田地帯をささえています。

 その一方で寿庵は、熱心なキリシタン領主でもありました。領内に天主堂やマリア堂を建て、家臣らのほとんども信者となりました。寿庵の領地には、全国から宣教師や信徒たちが訪れたといいます。ところが、三代将軍・徳川家光の治世となるとキリスト教の禁教が厳しさを増し、主君・伊達政宗も取り締まりの強化を命じられるようになりました。だが寿庵の才能や働きを惜しんだ政宗は、「布教しない」「宣教師を近づけない」ことを条件に、信仰を許そうと働きかけました。しかし、寿庵はこの申し出を拒否したのです。ある方は、その時の様子をこのように解説しています。「ジョアン(寿庵)は一通の書状を奉行たち宛にしたためた。それは政宗の目にも触れることになったが、その書状の中で、彼は殿に対して義理を感じており、必要あらば、殿のために生命を捨てることも辞さないが、信仰のことについての命令に従うことはできないと述べ、さらにもし殿が自分を追放したり死罪に処しても、憎しみを抱かずにそれを甘受する用意ができているが、もし生きることを許されるのであれば、それが日本の何処であっても、そこで殿のために中金に励み、生命を捧げるつもりであると明言した。」というのです。寿庵は、堰の完成を待たずに南部藩に逃亡したとも、出羽秋田藩に逃亡したとも言われています。伝承では、その後、「南部藩浪人」との触れ込みで、伊達藩領である米川村(現・登米市東和町米川)に戻ってひそかに農業に従事していたが、ついに捕らえられ処刑されたといいます。現在も米川には、寿庵の墓と伝えられている石が残っています。

 時は流れ、1924(大正13)年、後藤寿庵は、開拓治水の功績で従五位が追贈され、また1931(昭和6)年には彼の屋敷跡に、このことを記念する記念碑が建てられました。「寿庵堰」は弟子たちが完成させ、多くの田畑を潤し続けました。「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。」(ルカの福音書9章24節)。生命をかけて神様に従い、信仰を守り、人に仕えた後藤寿庵の「いのち」は、脈々と受け継がれ、田畑だけでなく多くの人の心を潤し続けています。

​旧・胆沢町教育委員会による寿庵堰の説明版

スンダル・シングの生涯(Yさん2021.01.17執筆
 

 「生命と全ての恵みを与えたもうあなたご自身以外、何の恵みも求めません。あなたから世界やその宝、天国すら欲しがりません。ただあなただけを求め、慕い焦がれます。あなたがあらわれるところ、そこが天国だからです。」

 スンダル・シング(Sundar Singh 1889-1929:現在はサンダー・シングと呼称することが多い)は、北インドのパンジャブ州ルディヤーナー県にあるランプール村で、裕福なシーク教徒の家庭に生まれました。シングの母親は、近くのジャングルに住むインドの行者のもとで学ばせると同時に、英語を学ばせるためにユーイング・キリスト教学校に通わせていました。彼が14歳の時に母親と兄を相次いで亡くしました。その時の心の傷みは大きく、その解決を求めてインド聖典を精読し宗教家に教えを乞うようになった一方で、キリスト教には非常な反抗を覚えるようになりました。司祭の話すキリスト教の話には全く意味がないと感じた彼は、友人の目の前で聖書を破いて燃やしました。そして「本当の神」であれば自分の目の前に現れるはずだと鉄道自殺をする決心をしたのです。その夜、シングは生けるキリストに出会います。イエス・キリストは彼に「なぜ、おまえは私を迫害するのか。おまえのために、また全世界のために、わたしは十字架の上で死んだのだ。」と語りかけます。この体験により、シングはキリストの弟子となることを決意したのです。すると、今度は父親から勘当され、親戚からも縁を切られ、兄弟は彼を毒殺しようとするなど、親しい人たちから迫害を受けて家を追い出されるようになりました(晩年、父はクリスチャンに回心し、シングの英国伝道の費用を出してくれるまでになります)。

 1906年、16歳のシングは、行者(サドゥー、インドの托鉢僧)の姿で、聖書と身にまとう一枚の毛布(サフラン色のローブ)以外は何も持たずにキリストを宣べ伝えるようになりました。そして、その活動はヒマラヤを超えてチベットまで至りました。彼は激しい迫害に幾度となく命の危険にさらされながら、聖書の記述さながらの奇跡としるしをともなう伝道を展開する人生を歩んでいきます。やがて彼の名声は広がり、世界中から講演依頼が届くようになりました。欧米だけではなく、1919年には日本にも訪れています。1929年、シングは友人の反対を押し切って最も危険で困難な伝道地チベットを目指し、その地へ向かって旅立ったまま消息を絶ちます。シング39歳のことでした。

 生前、彼は「多くの人に歓迎せられ、自己以上に賞賛せられるところの世界は、私の任地ではない。そこには主のために負う十字架の光栄がない。しかし人跡稀な所、極寒と迫害とのチベットこそ私の任地である。」と話していたそうです。スンダル・シングの心には、いつもキリストが生きておられました。シングのこの話を聞いたとき「私もそうでありたい」と胸を打たれました。

 イエス・キリストは弟子たちに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(マタイの福音書16章24節)と述べました。このようにキリストに従って人生を歩む者は、シングらとともに、天国でイエス・キリストからの栄誉を受けることでしょう。

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スンダル・シング像

三浦綾子夫妻の夫婦論(Yさん2021.01.17執筆
 

 作家の三浦綾子さんが、かつて夫の光世さんのことを語ったことがあります。三浦さんは、代表作のひとつである小説『塩狩峠』を執筆していた頃から、手の麻痺でペンが持てなくなりました。その後は、綾子さんが立ったり座ったりして話す内容を、夫の光世さんが書きとるという作業を通して執筆活動をつづけました。その様子は、仲の良い二人の象徴的な姿です。

 三浦さん曰く「光世さんは誠実だが、短気で苛立ちやすい」「綾子さんはわがままで行儀が悪く、家事は下手だった」そうです。そんな欠点だらけの二人が、夫婦共通の「生きる目的」を持っているからこそ仲良く作業ができたのです。その「生きる目的」とは、共にキリストを信じ、神生活の中心をしたいという人生の目的でした。朝は二人で旧約聖書三章と新約聖書一章ずつを読みます。これで、ちょうど一年で一回聖書全部を読むことになります。その後は二人で一緒に祈りました。夜は、さらに長い祈りで一日を閉じます。日曜日は一緒に教会に行って礼拝し、水曜日の夜は祈祷会に行きます。

 しかし、神中心の生活目標を持っていても、それはなかなか実行できないものです。エペソ人への手紙には「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。」(エペソ5:22)と書かれています。さらに男性には「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会にご自分を捧げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。」(同5:25)と書かれ、キリストが十字架にかかられたように、妻のために命を捧げなさいと述べられています。「愛する」とは、命を相手に捧げるほど真剣なもので、甘いものではないというのです。私たちの何人が、このエペソ人への手紙の5章に書かれていることに従っているでしょうか。従い得なくても、結婚とはそのような命がけの生活なのだと、私たちが知ることは大切です。

 夫の光世さんは「もし、私たち夫婦の仲が良いとすれば、エペソ書のみならず、聖書のことばを曲がりなりにも本気で信じようとしている姿勢があるからかもしれない。神の御言葉に照らされると、自分の醜さがはっきりとわかる。そして、こんな私をも十字架のキリストは赦して下さっている。赦されているのだから赦し合わなければいけない。不承不承でも赦し合っていれば、仲良く見えるらしい。」と語っています。

 結局、夫婦の良好な関係は、人生における共通の目的を持つことです。その目的とは、ともにキリストを信じ、神中心の生活を送るということなのです。

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​口述筆記中の三浦綾子夫妻(三浦綾子記念館HPより)

この命がある(Yさん2021.01.15執筆
 

「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」(ヨハネの手紙第一5章12節)

 みなさんも一度は目にしたことのある味のある草花のイラストで有名な星野富弘(詩人)さんは、実はクリスチャンです。全身麻痺の中で神様に救われた喜びから、様々な場面で、過去と現在の自分の内面や外面的な姿を明らかにし、イエス・キリストの救いを証しされています。

 星野さんは、大学を卒業して中学校の体育教師になってから3か月後、23歳の時に、体操の指導をしている最中に首から落ちて頸椎を損傷し、全身麻痺となりました。その後、星野さんは、「他人の世話にならなければならない人間が生きていてよいのか」と思い悩んでいたときに聖書を読み始めたそうです。聖書を読んでいくうちに、神様は、自分のようなものでも尊ばれ、大事に扱ってくださることに気づき、信仰を持つようになりました。すると、それまで自分の中にあった「人と比べて生きる」という姿勢がなくなったそうです。

 自分のためだけに生きようとしていたときは、自分の「いのち」を本当の意味で生かしていなかった。しかし、体が不自由になった時に「手足が不自由な僕でもやることがあるんだ」との思いになれた。やがて自分のやっていることが他の人に喜んでもらえた時、一番、「いのち」が躍動し、感謝の気持ちが出てきた。星野さんはそう語っておられます。いのちとは、自分だけのものではありません。誰かのためのその「いのち」を使えた時に、本当の意味で「いのち」を得たのだと感じます。これからも自分の「いのち」を、そういうことのために使えればいいなと、星野さんはおっしゃっています。このような気持ちは、聖書を読んでいる中で、自然に持てるようになったことでしょう。結局、他人のために生きて一番平安を得たのは、他ならぬ星野さん自身だったのです。

 

いのちが一番大切だと思っていたころ生きるのが苦しかった
いのちより大切なものがあると知った日生きているのが嬉しかった

                                                                          星野富弘「いのち」より

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星野富弘『いのちより大切なもの』いのちのことば社、2012年。

心を新たにする(Yさん2021.01.15執筆
 

 新年を迎え、みなさんは何か目標を掲げられたでしょうか。クリスチャンは、クリスチャンになった時に「心を新たにする」ことが求められています。聖書はこういいます。「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合せてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるかを見分けるようになります。」(ローマ12:1~2)とあります。この聖書の箇所でパウロは、クリスチャンの生き方について三つ勧めていることがわかります。

 まず「自分のからだをささげ物として献げなさい」という点です。昔、ユダヤ人たちは羊や牛を神様に捧げました。それはいけにえの羊や牛の犠牲によって自分の罪を償い、あわせて神様への感謝の気持ちを表しました。しかし神様は、私たちのからだ(生き方そのもの)を献げることを求めておられます。それはイエス・キリストによって罪赦された私たちの感謝の気持ちなのです。神様は二心の態度を最も嫌われます。この世の中で自分の利益や自己満足のために生きるのではなく、聖書に「神の国と神の義を求めなさい。」(マタイ6:33)とあるように、神の国と神の栄光のために生きようではありませんか。

 第二に「この世と調子を合せてはいけません。」という点です。クリスチャンは、この世に生きていながら、このようでの生き方とは違った思いで生きています。私たちクリスチャンは、神様のお仕事のために労苦するよう、この世から選び出された者たちだと自負しています。この世で生きていながら、神様のこと、魂の救いのこと、永遠のいのちのことを大切にし、自分の利益や満足のためでなくみなさんが救われて幸せになるために労苦することが求められています。

 第三に「心を新たにする」という点です。それは聖書に「自分を変えていただきなさい。」とあるように、内面的な新しさを求めることです。私たちクリスチャンは、イエス・キリストを信じることによって永遠のいのちにあずかりました。新しいいのちを与えられた私たちは「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるかを見分け」て新しい生き方をすることが求められています。パウロは、別の聖書の箇所で「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(Ⅰコリント5:17)と述べ、それによって神様は「私たちをご自身と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。」(5:18)と言うのです。自分が罪赦されるだけでなく、私たちを通じて多くの人が新しくされ罪赦されるよう、神様は求めておられるのです。

 これからの日本人は、神様の前に「老いない国民」にならなければなりません。そのためには、一人ひとりが心を新たにし、イエス・キリストにあって「和解の務め」に燃えるようなはつらつとした心を持つことです。その先には、私たちの生活の一新と幸せがあるはずです。

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井戸を掘り続ける英知【中村哲さん】(Yさん
 

 砂漠にあっては、一杯の水が数十キロの黄金にも等しいほどであると同様に、「英知」によって与えられる幸福は、他のあらゆる知識をひとまとめにしたものに等しいほど貴重である(トルストイ)。

 アフガニスタンでは、いまだに国民の半数が栄養失調状態です。人口増加に加えて、気候変動による干ばつで農業生産が著しく低下しています。各家庭にライフルが1丁ずつあるような「兵農未分化」の社会ですから、住民は兵士にも農家にもなります。ですから食べるものがなく傭兵になるという人が出てくるわけです。

 アフガニスタンの支援に取り組んできた医師の中村哲さんは、国際NGO(NPO)「ペシャワール会」(事務局:福岡市)の現地代表であり、クリスチャンでもありました。中村さんは、昨年おしくも、ジャラバードで銃撃を受けてお亡くなりになりました。この中村さんは医師として1984年からパキスタン北部の辺境州カイバル・ パクトゥンクワ州の州都ペシャワールでハンセン病治療に従事し、その後、アフガニスタンの難民支援に携わりました。その中で中村さんは「武力より食糧」「100人の医師より1本の用水路」との思いから、やがて大がかりな灌漑事業を開始しました。2000年から中村さんは、言葉や習俗、文化が違う異国の地で白衣を脱ぎ、自らも井戸を掘り始めました。その数は1,600本。さらに2010年にマルワリード用水路を完成させて1万6,500ヘクタールの農地に緑を取り戻し、約65万人がその恩恵に浴しました。

 中村さんは、生前「人として“これをすべき”というものはだれでも持っているんです。でも、さらけだすのは恥ずかしい。特に九州の男はそうなんです。」と話しておられたようです。自分のことは二の次に灌漑事業につくし、「アブガニスタンのためなら死んでもいい」と話しておられて、本当になくなられた中村さんらしいお言葉です。

 中村さんは2003年に「アジアのノーベル賞」と呼ばれている「ラモン・マグサイサイ賞」を受賞されました。また2019年にはアフガニスタン政府から名誉市民権を授与されました。受賞こそされませんでしたが、彼こそノーベル平和賞に匹敵する方でした。「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5:9)。平和とは「戦争がない」という消極的な状態ではなく、信仰によって積極的につくりだすものです。中村さんの生き方こそ、まさに「平和をつくる者」そのものではないでしょうか。

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​合同葬と中村哲さん遺影

井戸を掘り続ける勇気【イサク】(Yさん

 「私たちは、主があなたとともにおられることを確かに見ました。」(創世記26章28節)。

 旧約聖書に書かれたこの言葉の前後には、古代イスラエルの二代目族長であったイサクがパレスチナの先住民との抗争をくりかえしながら自分たちの居場所を確保していった過程が記されています→「聖書の舞台(人物・組織)」のあ行「イスラエルの民」参照。旧約聖書のこの時代の、天然の泉であるオアシスがあればその周辺には町ができ、それがない場合、人々は井戸を掘って定住しました。しかしパレスチナの場合、天然のオアシスは少なく、土地への定住は井戸を掘ることからはじめられました。

 例えば日本での井戸掘りは、近世以降は技術が発達して水脈まで垂直に掘ることができるようになりましたが、それ以前は広く浅く掘ることを繰り返してすり鉢状に水源を目指して掘り進める「まいまいず井戸」のような形式も多かったのです。イサクたちの住んでいた中東では、紀元前7世紀には「カナート」と呼ばれる地下水路と深い垂直井戸が発達していましたが、イサクたちの紀元前20世紀ごろには、もっと原始的な井戸だったことでしょう。いずれにせよ井戸掘りは、気の遠くなるような長く厳しい労力を必要としました。

 それだけに掘り当てられた井戸は貴重で、その使用権はしばしば争いの原因になったのです。創世記26章15節以下にある井戸をめぐる争いの話を読むと、イサクの一族は、父アブラハムの代に掘られた井戸を埋められるという嫌がらせを、周りの異民族(ペリシテ人)から受けたことが書かれています(15節)。パレスチナのゲラル地方にあるペリシテ人たちの王国の王アビメレクは、かつてイサクの父アブラハムと契約を結び、彼らの一族が王国内に住むことを許していました。しかしイサクの一族が強力になると、争いのもととなるので王国から出て行ってほしいと申し出ています(16節)。イサクは別の地に移って古井戸を掘り返して使っていましたが(18節)、その場所の羊飼いたちにも「この水はわれわれのものだ」と主張されて争いになります(20節)。そのため別の場所で井戸を掘ったのですが、その井戸も同じように主張されて争いになります(21節)。そこでイサクは再び別の場所に移動して井戸を掘り、ようやく安住の地を得たことが記されています(22節)。

 ところが、ようやく安住の地を得たと思っていたその土地に、アビメレク王がその参謀アフザテと軍の長ピコルを伴ってやってきました。イサクは、また追い出されるのかと思いきや、実は彼らは和解のために来たことが明らかになったのです。そして彼らがイサクに言った言葉が、冒頭の「私たちは、主があなたとともにおられることを確かに見ました。」(創世記26章28節)なのです。迫害や圧迫に抵抗せず、次々と井戸を掘りあて着々と実力を蓄えていくイサクに、アビメレク王は、イサクには「神が共におられる」ことを認めざるを得なくなったのでした。私たちも、イサクの勇気、平和的な性格、そして何よりも信仰に対する神様の恵みを教えられます。「神様が共におられる」ような信仰を築ける人は幸いです。

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「まいまいず井戸」

(東京都羽村市HPより)

 
ロゴス(言)キリスト(Yさん
 

 ヨハネの福音書の冒頭に「初めにことばがあった。」(ヨハネの福音書1章1節)とありますが、この「ことば」とはイエス・キリストのことです。ヨハネの福音書はこう続けます「ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(1章1節)と。イエス様は「その名はインマヌエルと呼ばれる。それは訳すと『神は私たちとともにおられる』という意味である。」(マタイの福音書1章23節)と呼ばれました。イエス様が神様と一体であるということは分かりますが、なぜイエス様が「ことば」なのでしょうか。

 同じヨハネの福音書には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」(3章16節)と書かれています。またマタイの福音書は、神様がイザヤを通して伝えられた預言が引用されていますが、その中に「見よ。わたしが選んだしもべ」(マタイの福音書12章18節)と書かれているのは、もとのイザヤ書では「見よ。わたしが支えるしもべ」(イザヤ書42章1節)と書かれています。この「しもべ」についてのイザヤ書の描写を見てみると、まさに十字架につけられて私たちを罪から救ったイエス・キリストを預言されたものだと分かります。つまり神様が語られたことばは、イエス様そのものだったわけです。神様の愛とことばは、どのようになって現れたのでしょうか。ヨハネの福音書は「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。」(1章14節)と書かれています。神様であるイエス・キリストが人となられてこの世に住まわれ、人の中で最も惨めな十字架の死を遂げられ、その後復活されて天に上られたのです。

 みなさんはこれをお信じになられるでしょうか。使徒パウロは「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(コリント人への手紙第一1章18節)と書いています。前回、「私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ書40章8節)について話しましたが、この「神のことば」とはイエス・キリストのことだったのです。「人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。」(イザヤ書40章6節)と述べましたが、イエス・キリストの救いだけが永遠に変わらない約束だとしたら、それこそ私たちの人生を保証する「福音」(良い知らせ)ではないでしょうか。

 この「私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ書40章8節)は、まさに真理でした。イザヤ書が書かれた時代は、南北に分裂したイスラエル王国のうち北イスラエル王国が強敵アッシリア帝国に攻め滅ぼされ、南ユダ王国も侵略を受けている所でした。しかし、そのアッシリア帝国はバビロン帝国に滅ぼされました。また、生き残っていた南ユダ王国もバビロン帝国に侵略され、住民は奴隷としてバビロン帝国に連れ去れられました。さらに、そのバビロン帝国もより強大なペルシャ帝国に滅ぼされ、イスラエルの民はペルシャ王クロスによってエルサレムの再建のために帰還を許されるという激動の歴史を経験します。神様は、それらの歴史が始まる前にイザヤを通して預言し(40章1~2節)、語られた「ことば」は、さらにその時代を超えてイエス様の出現まで変わらず実現されました。

 もうすぐ新年を迎えます。新年は、若い人にとっては希望と成長を感じさせ、私のような老人にははかなさを感じさせるものかもしれません、しかし永遠の神の「ことば」に立っているクリスチャンとしての私は、永遠への希望を感じています。新しい年も、希望と慰めをもってイエス様を待ち望みましょう。みなさんのご多幸をお祈り申し上げます。

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神のことばはとこしえに立つ(Yさん
 

 もうすぐ新しい年を迎えます。新しい年に何が起きるか、人間には分かりません。そこに私たちの不安はあります。しかし聖書は「草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ書40章8節)と述べています。この「立つ」とは静止した状態ではありません。神様は、私たちの歴史や人生に生きて働いてくださっているのです。人の手で刻まれた神像は、仰ぎ見られ拝まれていようとも、ただ立っているだけです。しかし聖書の神様は、万物を創造し、今も生きて働く全人格的な存在なのです。

 一方、人間は被造物であり、草花のようにはかない存在です。「人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。」(イザヤ書40章6節)と聖書は述べます。それに対して神様のことばは永遠の存在であり、真実であり、しかも、ことばと事実が一体なのです。紀元前701年にエルサレムの街がアッシリア帝国に包囲されると、ユダ王国のヒゼキア王はエジプトに助けを求めました。そのとき預言者のイザヤは、神様のことばは無に帰せられることはない。「エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も肉であって霊ではない。」(イザヤ書31章3節)と、むしろエジプトの軍事力こそ無力だと言いました。当時のエジプトは強大な軍事大国でしたが、そのエジプトでさえも、神様の前では無力で草花に過ぎないというのです。その後のエジプトが、この預言のとおり大国であり続けたとは言えないことは、歴史が証明しています。

 私たちの神様は高らかに宣言されています。「わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。」(イザヤ書55章11節)と。神様のことばはとこしえに固く立って実現するものです。この神様のことばは、多くの場合、預言者(「予言=未来を言い当てる」でなく「預言=神様のことばを預かる」)を通じて人びとに伝えられます。例えば、神様がエレミヤを預言者として選ばれたとき「そのとき主は御手を伸ばし、私の口に触れられた。主は私に言われた。『見よ。わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。』」(エレミヤ書1章9節)とされた様にです。預言者を通して語られた神様のことばは、とこしえに立っています。そして旧約聖書の預言者の言葉(2017年版聖書において「言葉」は一般的な話し言葉、「ことば」は神様の御言葉を指しています)は、将来、現れる救い主ことを語っています。つまり救い主イエス・キリストは、固く立って実現する神様のことばよって現れた確かなものなのです。

 新しい年も、変わることない神様のことばである聖書をもってはじめたいと思います。

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「イスラエル花の旅」より

ルツ記(Mさん
 

 今回は「ルツ記」のお話です。まず、あらすじをお話ししましょう。

 国に飢饉が起こったのでベツレヘムからモアブに移ったある夫婦と二人の息子。しかし、やがて妻のナオミは、夫と二人の息子に先立たれてしまいます。ナオミは、二人の嫁を里に帰そうとします。一人の嫁は去っていきましたが、もう一人の嫁ルツは姑ナオミのそばを離れようとせず、二人は一緒にベツレヘムに戻りました。ルツは残りの人生を、異国で未亡人として生きることを決断したのです→「旧約聖書を読んでみよう」の「ナオミ」参照

 この時のナオミの嘆きです。「私をナオミ(=「楽しむ」の意味)と呼ばないで、マラ(=「苦しむ」の意味)と呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。(中略)全能者が私を辛い目にあわせられたというのに。」(ルツ記1章20~21節)

 ベツレヘムには亡き夫の親戚ボアズがいました。ルツは、糧を得るため畑に落穂ひろいに行くことをナオミに願い出ましたが、行った先は偶然にもボアズの畑でした。自分の故郷を離れ姑のナオミに尽くすルツの人柄を見たボアズは、彼女にあたたかく親切にしました。ナオミは、自分に尽くしてくれるルツが幸せになれるよう、身の落ち着くところを探してあげなければと思い、彼女にある提案をします。親戚としての保護をボアズに求めるようルツに教えたのです。ルツは「おっしゃることは、みないたします。」(ルツ記3章5節)と、ナオミの言葉に素直に従いました。ボアズは、何とかルツの願いをかなえようと、まず自分よりも買戻しの権利→「聖書の舞台(生活・習慣)」のか行「買い戻しの権利」参照を持つ親戚に声をかけ、正式な手続きを踏んでルツの身の上を善処しようとしました。しかし、その親戚に断られたので、代わってボアズがその役を引き受け、ルツを自分の嫁に迎えました。やがて二人の間にオベデが生まれ、子孫はエッサイ、ダビデと続きます。ルツやボアズが、イエス様の祖先のひとりとして数えられることは意味深いものがありますね。

 今回、ルツ記を読み直してみて、あらためてナオミに向けられた神様のご愛、祝福を感じました。愛する家族と死別して孤独の中にあったナオミでした。人生には理不尽なことや突然の別れ、世界が180度変わってしまうような辛く悲しい出来事に遭遇することがあります。そんな中でルツは、自分のしあわせよりもナオミとともに歩むことを決意しました。神様は、そんな二人に目を向けられて素晴らしい神様の御業に導かれました。一見、神様から遠くに見放されたかのように見えたナオミでしたが、決してそうではありませんでした。ルツがナオミを、またナオミがルツを想う心のやさしさや美しさだけでなく、生きるための知恵、そして何より様々な偶然を用意して祝福に導いてくださった神様のお働きには目をみはるものがあります。「あなたの覆いを、あなたのはしための上に広げてください。」(ルツ記3章9節)…ルツがボアズにひれ伏して祈る姿が美しいですね。「主は生きておられます。」(ルツ記3章13節)…ボアズの返事は、それに対する神様のみことばのようです。

 いつ、どんな時にも、たとえ最悪の状況に陥ったとしても、神様がそばにいて下さり導き、私たちをあわれんでくださいます。私たちもまた、それらの状況を決して悲嘆せずに神様に祈り、すべてをお委ねすることができますように。

ニコラス・プッサン「夏(ルツとボアズ)」(部分)1660年。

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​創世記50章20節

神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。

エレミア記29章11~13節

わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている―主のことば―。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。

​ルツ記2章20節

生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまない主が、その方を祝福されますように。

抱かれて逃げるキリスト(Yさん
 

 12月になって、かつてナザレにある受胎告知教会を訪れたことがなつかしく思い出されます。この教会は、マリアが受胎告知を受けたと伝えられる洞窟の上に建っています。教会の聖堂の三角屋根は、アヴェ・マリアの「A」の字を象ったものです。建物の中央祭壇には、マリアがお告げを受けたとされる洞窟があります。また教会の内部には、各国のお国自慢のアートの聖母子のモザイク絵が並んでおり、日本のものはルカ長谷川(長谷川路可)の作品「華の聖母子像」(着物姿の聖母子像)でした(註:1954年にイタリアの日本殉教者教会のために描かれたフレスコ画を基に、長谷川の死後の1968年にベネチアの工房で作成されたモザイク画が受胎告知教会に奉納された)→外部リンク「なつこのたびにっき」に外観や内部の詳細な様子があります)

 その後、マリアはイエス様を厩(うまや)で生むのですが、そのシーンはクリスマスの絵画などでも有名です。三人の博士が黄金、乳香、没薬を持って来て幼子イエス様を拝むシーンです。しかし、彼らが帰った直後、主の御使いが夫ヨセフの夢に現れて「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。」(マタイの福音書2章13節)と告げたのです。なぜ生まれたばかりのイエス様が、ヨセフとマリアに抱かれてエジプトへ逃げなければならなかったのか、不思議な感じがしますが、実は、その直前に博士たちから「予言されたユダヤの王がベツレヘムで生まれる」と聞いたヘロデ大王が、自分の地位を守るためにベツレヘム周辺とその近郊の幼子を虐殺するという事件が起ころうとしていたのです。ですから、この時、幼子イエス様はマリアの腕の中に抱かれて逃げるしかなかったわけです。イエス様は、そのように私たち人間と同じか弱い存在としてお生まれになられたのです。ですから、幼子を守り養ってくれる親の存在が必要でした。神様を信じるマリアとヨセフにその役割が与えられたのです。これは私たちも同じで、私たちの内にも幼子イエス様がおられます。神様の救いのわざが成就し私たちのうちにイエス様が生きておられるようになるためには、私たちがイエス様に心を開き、その腕にしっかりと抱きしめなければなりません。

 マリアとヨセフに抱かれてエジプトに逃げて行ったのも、すべて神様のご計画でした。時が満ち、やがて十字架につくことで私たちを罪から救うためです。そこには、何としても私たちを救おうとする神様の大きな愛が働いているのです。

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​長谷川路可「華の聖母子像」1954年

すべての人のように(Yさん
 

 サーロー節子さんは、カナダ在住の被爆者(平和運動家、88歳)です。2017年に国連で採択された核兵器禁止条約が2021年1月に発効されることを受け、同条約への批准を日本政府に求める呼びかけ人として、被爆の惨劇と苦悩を語り続けています。

 広島で13歳の時に被爆した節子さんは、当時、女学校(広島女学院)の一年生でした。自分自身は助かったものの、学友35人と親族9人を原爆で失いました。原爆投下の時間は朝でしたが、投下直後の様子はまるで夕闇のようだったと節子さんは言います。そこで目撃した人たちの形相は、人間の姿ではありませんでした。その時の様子は、75年たった今でも鮮やかに残っていると節子さんは言います。現在、外国に住んでいて、ただ自分の体験を話すだけでは相手への説得力はありません。だから節子さんは、日本も戦争の加害者であったことを、腹を割って話しお詫びする気持ちがないと世界の人々と核の問題を共有することはできないと感じているそうです。平和運動をしていると、苦しいことに直面することが往々にしてあります。そんな時、節子さんは原爆でなくなった「あの人たちを犬死させてはならない」という気持ちが起きて来るそうです。そして、その繰り返しが私自身の50年、60年の生活だったと言っています。節子さんは、自分一人のためではなく「社会に貢献できる人間になること」をモットーにして歩んできたとのこと。私たちも、そんな節子さんの姿勢を見倣いたいと思います。

 キリストは「すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。」(コリント人への手紙第一9章22節)と聖書にあります。世界を救うキリストの使命は、ひとりひとりに寄り添い「すべての人のようになる」ことです。クリスチャンにとっても、それが一番必要な構えではありませんか。節子さんを見ているとその様に思います。

アドベントを迎える(Yさん
 

 子どものころ「♪諸人こぞりて むかえまつれ 久しく待ちにし 主はきませり 主はきませり 主は、主はきませり」(讃美歌112番)→YouTube「もろびとこぞりて」参照を繰り返し口ずさみ、クリスマスが来るのを楽しみにしていました。この期間、街は彩られ何やら楽しい雰囲気に満ちあふれています。でも、それは本当の「喜び」なのでしょうかアドベント(待降節)は、クリスマスの四週前の第一主日(日曜日)から始まる、キリストの降誕を待望し、主を迎える準備をする期間です→「聖書の舞台(生活・習慣)」のあ行「アドベント・クランツ」参照。しかし、一番大切な準備は「心の準備」です。イエス。キリストの救いを求める心になっているかどうか、もう一度考える期間なのです。

 アドベントは「到来」という意味で、二つの「到来」を意味しています。第一の意味は、今から二千年前に主イエス・キリストがこの世にお生まれになったことを指しています。旧約聖書で約束された救いが、イエス・キリストによって到来したという意味です。第二の意味は、再臨のことを指しています。天に帰られたイエス様が、再びこの世にやって来られるという意味で、再臨のイエス・キリストの到来を指しています。主イエス・キリストは、この世の終わりと自分の再臨のことを弟子たちに教えられた時に、「ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。」(マタイの福音書24:42)とおっしゃられました。自らを省みて、自分には神様の救いが必要であると願い、神様を受け入れるその準備ができているなら、神の御子であるイエス・キリストの到来(世の終わりにこの世を裁き、新しい世をつくるイエス・キリストの再臨)の喜びをともに味わうことができるのです。しかるに「今来てもらっては困る」ということがないように、私たちは常に自らを省み「目を覚ましている」必要があります。それが礼拝と祈りの生活であり、悔い改めの信仰です。クリスマスを待ち望むアドベントの期間を、そのように過ごしたいと思います。

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倒れても大丈夫!(Yさん
 

 加藤一二三(ひふみ)さん(80歳)がクリスチャンであることをご存知でしたか?それもローマ教皇から騎士団勲章をいただいた棋士なのです。彼は14歳で中学生プロキシとしてデビューし、77歳で引退しました。よく63年もの長い間、続けてこられたものだと思います。しかし勝負の世界は厳しいものです。挫折はありました。30歳になった時に加藤さんは、「このままでは先がない。信仰を持つことでそれが突破できるのではないか。」と考え、その年のクリスマスに洗礼を受けたそうです。

 信仰を持つことで、突然、彼の将棋は息を吹き返し、42歳で念願の「名人」になられたそうです。聖書には「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。」(マタイの福音書6:33)とあります。加藤さんの将棋が変わったのは、信仰を持ったことで「明日のことまで思い悩むのはやめよう。神様にゆだねよう」と、そう明るく信じることができるようになったからだと思います。将棋と信仰。どちらにも揺るぎないものがあり、それを求めることが大切なのです。

 クリスチャンとなった加藤さんは、「いい将棋を指し続けてきた。それが私の誇りです」と語っていました。聖書には「神に従う人は七度倒れても起き上がる」(箴言24:16・新共同訳)と書かれています。「倒れる」のは「起き上がる」ため、「挫折する」のは「よりよく戦うため」なのです。「暗雲は必ず晴れる」「倒れても大丈夫」と克己して進むのが信仰なのです。

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​命のビザ(杉原千畝)その2(Yさん
 

 千畝は大勢の人を助けるために、夜も眠らずに苦悩した。国境を超えポーランドから逃げてくる難民に対して、1940年1月31日、ついに外務省の命令に背いてビザの発行を始めた。千畝は、後にその心境を語っている。「見殺しにすることはできない。当然のことをしただけです。」と。私は、その勇気と英知、気高さに、清々しい気持ちになった。実はご夫妻はロシア正教の信徒でもあり、このような人物こそ日本人の誇りだと私は思う。

 さて「善きサマリア人のたとえ」(ルカ10:25~37)では、エリコへの道を急ぐ一人の旅人が強盗に襲われ、半殺しにされたというたとえ話が出てくる。通りかかった祭司やレビ人は彼を見ながらそのまま立ち去ったが、次にやって来たサマリア人は、彼が自分たちとは犬猿の仲であるユダヤ人であると知りながら助けた。イエスは、そのたとえ話を語られた後、「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」(ルカ10:36)と問われ、問答をしかけてきた律法の専門家に「あなたも行って、同じようにしなさい。」(ルカ10:37)と言ったという→「聖書の舞台(人物・組織)」のさ行「サマリア人」参照

 第二次世界大戦の混乱の中、自己を顧みず人間愛に満ちた決断をした千畝の功績を称えて、イスラエル政府は1985年1月に、建国に尽くした外国人に与えられる「諸国民の中の正義の人」賞を、東洋人として初めて授けた。

 ユダヤ人のことわざに「ひとりの命を救うことは、全世界を救うことと同じである」という言葉がある。先に述べたイスラエルのヤド・バシェム記念館(ホロコースト記念館)には、「記憶せよ。忘れるなかれ。」という言葉が刻まれていたが、千畝の功績もまた、心に刻まれるべきものであろう。私たちも人命第一の精神を忘れることなく、それを「心の杖」として歩んでいきたい。

​ヤド・バシェム記念館にある

杉原千畝の記念植樹(Wikipedia)

漢字でも「杉原千畝」と書かれている

​命のビザ(杉原千畝)その1(Yさん
 

 10年前、首都エルサレムの西の丘にあるヤド・バシェム記念館(ホロコースト記念館)を訪れた。そこに行く途中、「義人の異邦人」の道筋(註:「諸国民の中の正義の人/正義の異邦人」の称号がイスラエル国から授与されると、このホロコースト記念館の庭園に記念植樹がされた。現在は、数が多くなり「名誉の壁」に名前のプレートが貼られるようになった)に杉原千畝(1900~86年)の記念樹とプレートがあった。記念館は、ナチスの殺された大勢のユダヤ人を追悼するとともに、ユダヤ人を救った外国人をたたえるための記念館でもある。しかし千畝に関する資料などの展示はなかったため、その功績や生涯について理解する機会が得られず、残念で寂しい思いをした。

 千畝は、リトアニアのカナウス領事館で外交官をしていた(1938~40年)。この頃、戦争が激しくなって、ヨーロッパではヒットラーによる独裁が始まり、ユダヤ人への迫害が激しさを増していた。しかし彼らの受け入れ先はほとんどなく、命の脅威にさらされていた。

 ユダヤ民族はもともと、今のイスラエルがある地方に住んでいたが、大昔に古代ローマ帝国によって祖国を追われてからはヨーロッパ各地で散々に暮らすようになった。彼らは差別と迫害を受けながらも(旧約聖書の)律法に忠実で、それが嫌われた一因のようだった。

 すでにオーストリアとチェコスロバキアはドイツに併合されて、ドイツ国内でのユダヤ人迫害は「ユダヤ人狩り」となって激しさを増していった。ユダヤ人たちは(日本経由で)ヨーロッパなどへ逃れるために、連日、日本へのビザを求めたユダヤ人が領事館の前に押し掛けた。千畝の決断は?(つづく)

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​杉原千畝(Wikipediaより)

召天者記念礼拝・記念会(Mさん
 

 毎年11月の最初の日曜日、教会では先に天に召された方々を覚えつつ礼拝をします。また、礼拝後に教会墓地等で墓前礼拝をします。亡くなられた兄弟姉妹たちの写真を飾り、牧師先生のお祈りや、遺族、信徒の方々の思い出話を通して故人を追悼します。

 参考までに教会の葬儀についてふれますと、進め方は次の通りです。

 ①納棺式(出棺式)、②前夜式、③葬儀(告別式)、④火葬前式、⑤埋葬式、⑥記念会

 火葬を葬式の前に行うか、後に行うかは、その時の遺族や教会の状況で変わります。記念会も何日後にするかは、特に決まりはありません。教会では、亡くなられた方が未信者でも、喪主がクリスチャンであれば葬儀をしてもらえることもあります。また未信者であっても、本人の希望により教会で葬儀をしてほしい場合は、教会の牧師先生に相談されるとよいでしょう。

 いつの日か「死」は、まさに万人にやってきます。自分の最期がどうありたいか、召天者記念礼拝や記念会がそのことを考える機会になればと思います。信者の方は万一の備えとして「氏名」「生年月日」「受洗年月日」「所属教会や受洗した牧師先生」「愛唱讃美歌」「愛誦聖句」「信仰歴やあかし」などを記し、牧師先生に前もって預けておくとよいでしょう。

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​伝道者の書3章1~2節

すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。

詩編90編1~15節

主よ 代々にわたって あなたは私たちの住まいです。山々が生まれる前から 地と世界を あなたが生み出す前から とこしえからとこしえまで あなたは神です。あなたは人をちりに帰らせます。「人の子らよ 帰れ」と言われます。まことに あなたの目には 千年も 昨日のように過ぎ去り 夜回りのひと時ほどです。あなたが押し流すと 人は眠りに落ちます。朝には 草のように消えています。朝 花を咲かせても 移ろい 夕べには しおれて枯れています。私たちはあなたの御怒りによって消え失せ あなたの憤りにおじ惑います。あなたは私たちの咎を御前に 私たちの秘め事を 御顔の光の中に置かれます。私たちのすべての日は あなたの激しい怒りの中に消え去り 私たちは 自分の齢を 一息のように終わらせます。私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは 労苦と災いです。瞬く間に時は過ぎ 私たちは飛び去ります。だれが御怒りの力を あなたの激しい怒りの力を知っているのでしょうか。ふさわしい恐れを持つほどに。どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに 知恵の心を得させてください。帰ってきてください。主よ いつまでなのですか。あなたのしもべたちを あわれんでください。朝ごとに あなたの恵みで私たちを満ちたらせてください。私たちのすべての日に 喜び歌い 楽しむことができるように。どうか喜ばせてください。私たちが 苦しめられた日々と わざわいにあった年月に応じて。

青空・コスモス・秋の風(Yさん
 

「天は神の栄光を語り告げ 大空は御手のわざを告げ知らせる。」(詩編19編1節)

土手をかけ上がると、秋の空が広がっていた。すじ雲が流れ、刻々とその表情が変わって、西の空へ静かに溶け込んでいく。風に揺れるコスモス(秋桜)は、秋の陽をあびて柔らかそうな8枚の花びらをひらいて、深めのひだにくっきりと光りの筋を浮き立たせている。

古代ギリシャ語で秋桜は「美しい」という意味を持ち、一方では「宇宙・世界・社会」という意味も表していると知り、その清楚なたたずまいを見ていると不思議な気がする。古代ギリシャ人は、きっと「宇宙」を「美しい」ものと考え、それが現在のΚοσμήμα(Cosmima:宝石)というギリシャ語に伝えられているのだろう。秋風のおもくまま、自分の身をゆだねている小さな宇宙(コスモス)にじっと見入っている吟遊詩人が、一人たたずんでいるような風景だった。

 ゆったり歩き回って、秋を満喫しませんか。

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ヨナ書(Mさん
 

今回は旧約聖書の「ヨナ書」のお話です。

 神様からニネベ(敵地アッシリアの首都)と言う街に行き、彼らの悪=罪を指摘して神様のことばを語るように命令されたヨナ。しかし、行きたくないヨナは、ニネベとは逆方向のタルシュ行きの船に乗り込みます。船はやがて嵐になり、難破しそうになりました。この原因が神様の意に背いたヨナにあることを知った船員たちは、嵐を鎮めるためにヨナを海に投げ込みました。

 嵐はおさまりましたが、ヨナは神様によって大きな魚に飲み込まれ、三日三晩、魚の腹の中に閉じ込められました。ヨナは魚の腹の中で神様への悔い改めの祈りを捧げ、神様はヨナを魚の腹から出してくださいました。

 そんなヨナに、ニネベに行って神様のことばを告げるようにとの神様の命令がありました。神様は「あと四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と予言するのです。ヨナは、その神様のことばをニネベの人々に伝えたのですが、ニネベの人々はヨナの語る神様のことばを信じて悔い改め、悪の道から立ち返ったため、神様はニネベの街に災いを下すことを思いとどまられました。しかし、ヨナはこれが面白くなかったのです。ニネベは、ヨナたちイスラエルの民の敵国アッシリアの首都ですから、そのまま滅べばよかったのにと思い、神様にあたりました。もし四十日以内にニネベが滅びなかったら、自分は神様に逆らって神様のことばを誤って伝えたと思われますから「生きているより死にたい」とまで言い放ちました。そんなヨナに、神様は一本のとうごまの木を与え、その木でたとえ話をして、神様がいかにニネベの街や人を愛しておられるか告げたのです。神様がイスラエルの敵であるニネベの街の人々さえ愛しておられることを知ったヨナは、神様の愛がどれほど多くの人々に向けられておられるのかを知ったのです。

 ヨナにとって、神様から命じられた敵国の首都ニネベを助けるためのことばを伝える役目は、実に行きたくない、逃げ出したいようなことがらだったことでしょう。私たちにもそんな経験がいっぱいありますよね。私たちも「これさえなかったら…」「できれば通りたくない…」という思いをすること、いっぱいありますよね。そんな時、ついつい神様よりも自分の思いを優先させたくなります。私たちは、そこで逃げ出さずに神様に従う道を選べるでしょうか。それとも、ヨナのようにささやかな抵抗を試みるのでしょうか。試練に立ち向かうことを通して、神様は私たちを鍛えようとしておられます。その先に神様の栄光が著されるのです。

 神様から逃げ出したり、大嫌いなニネベの人たちが速やかに回心したことを内心面白くないと神様にあたったりするヨナは、実に人間的で、とても親しみやすい部分がありますね。私たち自身の弱い部分を見せられているみたいです。だからこそ、とても身近に感じられるのかもしれません。

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​藤本四郎『魚に飲み込まれたヨナ』日本聖書協会、2009年

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ヨナ書2章7節

私のたましいが私のうちで衰え果てたとき、私はを思い出しました。

ヨナ書2章9節

しかし私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえを捧げます。私の誓いを果たします。救いはのものです。

ピリピ人への手紙2章13~14節

神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。

一羽の雀さえも(Yさん
 

 去る8月31日、わたしは大腸がんの検査のために内視鏡を受けました。四年前にポリープをとったことを思い出し、前日はよく眠れず、当日も血圧も上がって困惑しました。しかし、何とか無事に検査はパスし、安心して自宅に帰ることができました。

 私の自宅のすぐ目の前には、木々に囲まれた大きな公園があります。そこから鳥のさえずる声が聞こえてきた時に、私の心に、次の御言葉が響いてきたのです。「雀の一羽…あなたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたはたくさんの雀よりも優れたものです。」(マタイ10章29~31節)。

 神様は、その一羽の雀さえ見守り、助けてあげるようなお方です。しかも神様は、私たちの弱さ、愚かさをご存知です。神様は、私自身の髪の毛の数さえ分かっておられ、私たちがどのような人間であるかも一人ひとりを見守っておられます。何とすごいことでしょう。主イエス様は、その御言葉の真実を証しするために、私たちのために十字架へと上がられ犠牲となられました。そのことを通して、私たちのいのちがいかに尊いものであるかを証明してくださったのです。

 私は、この出来事を通じてあらためてそのことを知りました。神様には「感謝」と言うより他にありません。

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マタイの福音書10章29~31節

二羽の雀は一朝リオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。ですから、恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。

サムソンとデリラ(Mさん
 

 今回は、士師記13~16章にある「サムソンとデリラ」のお話です。

 神様の使いがマノアとその妻に現れ、男子が生まれることを予告します、生まれたこの名はサムソン。ナジル人(神様の特別に聖別された人)であり、イスラエルをペリシテ人から救うと預言されました。同時に、その子の頭に剃刀を当ててはならないと注意されていました。

 神様に祝福されつつ成長した彼は、神様の導きによって宿敵のペリシテ人の娘と結婚することになりました。これはサムソンがペリシテ人の中に入り込み、彼らを滅ぼすためでした→「聖書の舞台(生活・習慣)」のか行「カナン人の宗教」参照。ペリシテ人もこのような習慣を持っていた)。サムソンの身に危機が迫る時、何度も「主の霊が激しく彼の上に下った」と聖書に書かれていますが、神様は常に彼とともにいてくださったのです。

 ペリシテ人たちは、遊女デリラを使って何とかしてサムソンを油断させようとします。そのデリラの執拗な問いに負けて、ついに彼は怪力の秘密を話してしまいます。サムソンは、髪の毛がそり落とされたら力が失われて弱くなってしまうことをデリラに教えてしまいました。その結果、彼は捕らえられて両眼をえぐられ、足枷をかけられ、牢屋で臼をひかされるどん底の生活になったのです。その後、デリラによってそり落とされたサムソンの髪の毛は再び伸びはじめたころ、再び神様に祈ったところ最後に力を取り戻し、最後にはペリシテ人の神殿を破壊して三千人もの敵を巻き添えにする活躍をし、自らも一緒に死んで一生を終えました。

 聖書は、髪の毛が伸びていたころのサムソンが、「ろばのあご骨で、千人を撃ち殺した」(士師記15:16)と記しています。こんなことは普通には考えられないことですが、彼は神様が与えてくださった真新しいあごの骨をもって主の栄光を現わしました。私たちも神様が与えてくださるものを喜んで用いることのできるものでありたいです。しかし、デリラの膝枕で寝ている時に髪の毛をそられた後のサムソンは、「彼の力は彼を離れた」(士師記16:19)ため普通の人になってしまいました。でも彼は「主が自分から離れたことを知らなかった」(士師記16:20)のです。そしてサムソンは、捉えられて惨めな境遇になったのは先ほど話した通りです。神様からの賜物がなければ、私たちもただの人です。自分に備わったものが当たり前のものではありません。神様の愛と慈しみによって、私たちが生かされていることにあらためて感謝したいですね。

参考絵画

ダイク「サムソンの捕縛」美術史美術館(ウィーン)、1628~1630年。

ルーベンス「サムソンを策略するデリラ」ナショナルギャラリー(ロンドン)、1609年。

レンブランド「目をえぐられるサムソン」シュテーデル美術館(フランクフルト)、1636年。

​映画やオペラにもなっています。ご興味のある方はぜひご覧になってください。

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セシル・デミル監督

映画「サムソンとデリラ」1949年

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士師記13章24節

この女は男の子を生み、その子をサムソンと名づけた。その子は大きくなり、主は彼を祝福された。

士師記15章16節

サムソンは言った。「ろばのあごの骨で、山と積み上げた。ろばのあごの骨で、千人を撃ち殺した。」

士師記16章28節

サムソンは主を呼び求めていった。「神、主よ。どうか私に心を留めてください。ああ神よ。どうか、もう一度だけ私を強めてください。

第二の誕生日(Yさん
 

 1958年6月17日、私は仙台市の広瀬川でバプテスマ(洗礼)を受けました→「はじめての教会用語辞典」のさ行「洗礼」参照。この「第二の誕生日」から数えて、今年(2020年)で「満62歳」となりました。梅雨空の寒い日だったと記憶しています。この時、教会の兄弟姉妹が歌った讃美歌516番の「♪主イエスを知りたる うれしきこの日や」が神様のものとなったこの身へのエールのように聞こえたことが、つい昨日のことのように思い出され、再び熱い思いがこみ上げてきました(筆記者注:ちなみにこの讃美歌516番は、ずいぶんアレンジされていますが映画「天使にラブソングを2」で使われた有名なゴスペルソング”Oh Happy Day”でもあります)。

 これまでの人生をふり返っていろいろな喜びや哀しみがありましたが、その中で最もつらかったことは、一緒に仕事をしていた先輩に裏切られたことです。詳細はお話いたしませんが、信頼していた方だけに、その悔しさや悲しさは容易に癒しがたく、長い間苦悩しました。単に裏切られただけでなく、生活も一変しなければならなかったからです。しかし、ある日「ですから、明日のことまで心配しなくてもよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6:34)という御言葉に気付いて目が覚めました。

 クリスチャンとなった時、私はキリストのからだの一部とされたのです。私の代わりに死んで罪との縁を切ってくださったのですから、もう私のいのちは自分のものであって自分のものではありません。イエス様から頂いたいのちなのです。そう気づかされました。そして、どのような場合でもそのことを忘れずに、前向きにプラス思考で歩むことこそが受洗者(クリスチャン)の生涯だと思うのです。聖書には「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。」(ローマ12:1)とあるように、「第二の誕生日」からの私は神様のために生きています。

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広瀬川(大橋付近)

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コリント人への手紙第一12章12~13節

ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。

マタイの福音書6章34節

ですから、明日のことまで心配しなくてもよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

ローマ人への手紙12章1節

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

ノアの箱舟(Mさん
 

 今回は皆さんにもなじみの深い「ノアの箱舟」のお話です。およそのあらすじは次の通りです。(創世記6~8章)

 人が大地に増えはじめると同時に人の悪が増大し、神様の前に堕落したので、神様は悔やみました。そこで神様はそんな人間たちを滅ぼそうとなさいましたが、神様の心にかなっていたノアだけがその災いから救われ、逃げることができました。

 ノアは神様から、箱舟を作るように命じられました。そしてノアの家族全員と、すべての生き物の中からそれぞれつがいで二匹ずつ(動物によっては七つがいずつ→創世記7章2節)連れて船に入るように命じられました。神様は四十日四十や大雨を降らせ、作られた生き物すべてを消し去りました。その後も百五十日間、水は地表を覆い続け、その後、減少していきました。の母箱舟の窓を開いて鳩を放ったところ、その鳩はオリーブの若葉をくわえて戻り、それによってノアは水が引いたことを知ります。こうして、ノアと箱舟にいたものだけが生き残ったのでした。

 この箇所を読むと、ただ神様の御言葉に従いわき目もふらずに巨大な箱舟を建築したノアの信仰心にまず目が行きます。ノアが箱舟に入り終わった時、神様が箱舟の扉を閉めました。ノアは閉じ込められたことにより、長時間船内にとどまらなければならず、ただ神様の約束を待ち望むしかありませんでした。どんなに不安で孤独なことだったでしょう。いつになったら船から出られるのか、本当に出られるのかわからないまま時を過ごすのです。それは信仰の試みであり、このことを通してノアは、ひたすら神様を信じ待ち望むことの大切さを教えられます。しかし、そんな時も神様はノアとともにおられ、その不安や孤独をやわらげ、癒し、平和を与えてくださっていたに違いありません。

 私たちは、早く結果を欲しがります。しかし神様は、しかるべき時が来るまで耐え忍ぶことを学ばせてくださる方なのです。神様を疑い、信じられなくなる時もあることでしょう。しかし、そんな時こそ神様の御言葉に生き、待ち望む者でありたいですね。

参考絵画

ミケランジェロ「ノアの洪水(システィーナ礼拝堂天井画部分)」システィーナ礼拝堂(バチカン)、1512年。

ミレイ「箱舟への鳩の帰還」アッシュモーリアン美術館(英オックスフォード)、1851年。​

ドレ「ノアの箱舟」アッシュモーリアン美術館(英オックスフォード)、1851年。​

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日本聖書協会・藤本四郎『ノアのはこぶね』日本聖書協会、2009年。

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​創世記6章22節

​ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。

​創世記7章16節

入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であった。それらは、神がノアに命じられたとおりに入った。それから、は彼のうしろの戸を閉ざされた。

創世記8章1節

神は、ノアと、彼とともに箱舟の中にいた、すべての獣およびすべての家畜を覚えておられた。

ソロモンの知恵(Mさん
 

箴言、伝道者の書、雅歌を書いたとされるソロモン。

「ソロモンは三千の箴言を語り、彼の歌は千五百首もあった。」(列王記第一4章32節)

 

今回は旧約聖書からそのソロモンの知恵と判断の有名な箇所を見てみます。

 

「神は彼に仰せられた。『あなたがこのことを願い、自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、あなたの敵のいのちさえ願わず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を願ったので、見よ、わたしはあなたが言ったとおりにする。見よ、わたしはあなたに、知恵と判断の心を与える。あなたより前に、あなたのような者はなく、あなたの後に、あなたのような者は起こらない。」(列王記第一3章11~12節)

 「そのころ、二人の遊女が王のところに来て、その前に立った。

 その一人が言った。『わが君、お願いがございます。実は、私とこの女には同じ家に住んでいますが、私はこの女と一緒に家にいるとき、子を産みました。私が子を産んで三日たつと、この女も子を産みました。家には私たちのほか、だれも一緒にいた者はなく、私たち二人だけが家にいました。ところが、夜の間に、この女の産んだ子が死にました。この女が自分の子の上に伏したからです。この女は夜中に起きて、このはしためが眠っている間に、私のそばから私の子を取って自分の横に寝かせ、死んだ自分の子を私の懐に寝かせました。朝、私が子供に乳を飲ませようとして起きると、どうでしょう、その子は死んでいるではありませんか。朝、その子をよく見てみると、なんとまあ、その子は私が生んだ子ではありませんでした。』

 すると、もう一人の女が言った。『いいえ、生きているのが私の子で、死んでいるのがあなたの子です。』先の女は言った。『いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子です。』女たちは王の前で言い合った。

 そこで王は言った。『一人は「生きているのが私の子で、死んだのがあなたの子だ」と言い、また、もう一人は「死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子だ」と言う。』王が『剣をここに持って来なさい』と言ったので、剣が王の目に差し出された。

 王は言った。『生きている子を二つに切り分け、半分をこちらに、もう半分をそちらに与えよ。』すると生きている子の母親は、自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てて言った。『わが君、お願いです。どうか、その生きている子をあの女にお与えください。決してその子を殺さないでください。』しかしもう一人の女は、『それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください』と言った。そこで王は宣告を下して言った。『生きている子を初めのほうの女に与えよ。決してその子を殺してはならない。彼女がその子の母親である。』

 全イスラエルは、王が下したさばきを聞いて、王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。」(列王記第一3章16~28節)

 「神はソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心を与えられた。」(列王記第一4章29節)

 

 「彼の知恵のうわさを聞いた世界のすべての王たちのもとから、あらゆる国の人々が、ソロモンの知恵を聞くためにやってきた。」(列王記第一4章33節)

 子どもの命を救うため、とっさに身を引く決意をした実の母親。素晴しいさばきをされたソロモンによって本当の母親がどちらか、明白になります。現代では、幼い子が実の両親に虐待され命を落としたというニュースに、耳を疑い、言葉を失います。命の尊さを何と思っているのでしょう。なぜそんな痛ましい事件が起きるのか。私たちは、人間にとって大切な、愛や慈しみの心を育むことを忘れてはならないし、また、神様の教え、授かる知恵や勇気を身に着けて歩いていきたいものです。私たちは、神様から何を与えられて生きているでしょう。いつもみ言葉に聞き従う従順さを失わないように、そして与えられた賜物を十分に生かしていきたいと願っています。

 ニコラ・プッサンによる油彩画「ソロモンの審判」(ルーブル美術館)もご覧ください。対照的な双方の母親の表情がよく描かれています。

​二コラ・プッサン「ソロモンの審判」1649年

みんな仲良く(Yさん
 

 今、アメリカ中部ミシガン州で起きた白人警官による黒人男性暴行死事件の怒り、抗議デモが、世界中に広がっています。

 そのニュースを見るたびに、私は75年前のことを思い起こします。あの時の朝鮮人(現在の北朝鮮、韓国)の子どもたちが「いじめっ子」によるいじめあって、苦しみ、戦う姿、恐ろしさを忘れることはありません。当時の私は、小学一年生。「どうして朝鮮人の子たちだけがいじめられるの?」と疑問に思っていました。しかし担任の女先生は、隣組の朝鮮人の子をクラスに取り込み、“みんな仲良く友達“になるように努めて、熱心に教育されました。

 「好きな食べ物だけ食べれば、良いというのではありません」「世界の国中はいろいろな人々がいるのです」「クラスで毎日、顔を見合わせていても、その人の哀しみはわかりません」など、聖書から様々なことを親切に教えてくださいました。

 私が、数えきれない苦しみ、つらさを乗り越えることができたのも、Y先生のご指導の賜物と心から感謝しております。「他の人のことより、あなたは何をしたのか?」というキリストの問いに、どうか耳を傾けてください!

土門拳「おしくらまんじゅう」1953年

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マタイの福音書54344

「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する人のために祈りなさい。

ローマ人への手紙14章1~3節

信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。ある人は何を食べても良いと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べる人も食べない人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。

マタイの福音書7章3節

あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気づかないのですか。

父の日について(Mさん
 

◆起源◆

 父の日も母の日と同様、アメリカの教会で父母への感謝のために、その娘たちによって行われた記念会が発端です。ソナラ・スマート・ドットという女性は、自分の通う教会の牧師に頼み、母の亡き後ソナラと5人の兄を男てひとつで育ててくれた敬愛する父親に感謝する礼拝を、父の誕生月だった6月にしてもらいました。1909年6月19日(第三日曜日)のことです。その後数十年という年月を経て、リチャード・ニクソン大統領により、6月の第三日曜日が、アメリカの国民の祝日として定められました。

 「母の日」のシンボルフラワーがカーネーションなのに対し、「父の日」の花はバラです。母の日と同じように、父の日も、健在な父には赤いバラを送ります。ちなみにソナラのお父さんは、この時はすでに召されていたので、彼女は墓前に白いバラを供えたとか。

 日本では1981年、日本ファーザーズ・デイ委員会が「ベスト・ファーザー イエローリボン賞」という企画を展開し、イベント化され、黄色いバラや、黄色いリボンが巻かれたプレゼントが贈られるようになって一般化したようです。お花を贈るのであれば、バラのほかに、父の日のイメージカラーとなった黄色の「ひまわり」を贈るのも人気です。

 父の日には、お父さんに日頃の感謝を込めてプレゼントを贈ったり、感謝の言葉を伝えましょう。また亡くなられたお父さんへ、在りし日を偲んでお墓参りをされてはいかがでしょうか。

(引用元:profoto)

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箴言4章1

子どもたちよ、父の訓戒に聞き従え。耳を傾け、悟りを得よ。

​出エジプト記20章12節

あなたの父と母を敬え。あなたの神、が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。

エペソ人への手紙6章4節

父たちよ。自分の子どもを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。

 
ペンテコステ(聖霊降臨記念日)(Mさん

 新約聖書の「使徒の働き」第二章には、ペンテコステの出来事が記されています。イエス様が十字架につき復活されてから50日目、すなわち五旬節(旬は10日と言う意味)の日に、イエス様を信じ心をひとつにして祈っていた弟子たちは、ご聖霊を受けました→「はじめての教会用語辞典」のま行「みちち・みこ・みたま(御父・御子・御霊)」参照。ペンテコステはその出来事を記念するキリスト教の祝祭日です。ペンテコステは宗派によっても異なりますが、復活祭から数えて50日目の日曜日、今年は5月31日になります(「イースター」が年によって違うため→「聖書の舞台(生活・習慣)」のあ行「イースター」参照)。

 この章では、私たちは「一緒に集まって御霊が注がれるのを待つ」と言う礼拝の活動や、また「他国のいろいろな言葉で神の御業を語る弟子たちの姿」に宣教(伝道)の使命を見出すことができます。罪を悔いてバプテスマ(→「はじめての教会用語辞典」のさ行「せんれい(洗礼)」参照)を受け、ご聖霊に満たされるようになるという約束は、神様が召された人なら誰でも与えられているます。また、神のみ言葉が与えられ、それに従うこともご聖霊の働きによるものなのです。

さらに、信者となった人々が一つになって必要に応じてものを分配したり、喜びと真心をもって食事をともにし、祈り賛美するという箇所から、私たちキリスト教の教会活動の原点が見えてくるのではないでしょうか。

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使徒の働き2章1~4節

 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろな言葉で話し始めた。

使徒の働き2章33節

​ ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。

関連する絵画を見たい方には、グレド・レーニ「聖霊降臨」(1606年・バチカン美術館)やエル・グレコ「聖霊降臨」(1605年・プラド美術館)をおススメします。

 
他の人のために(Mさん

 新型コロナウイルスの流行とともに、気が付くとマスクや消毒液がドラッグストアから姿を消し、なかなか買い求めることができなくなりました。手持ちのマスクは少し持ち合わせていましたが、なかなか手に入らないので不安を感じることがありました。そんな中、友人が手に入ったマスクを分けてくれたり、手作りしたものを教会のある姉妹がわけてくださったり、それは本当に感謝なことでした。

 例えば「あなたのこと、とても心配しているよ。思っているよ。」そう言われると嬉しいものです。なおかつ、言葉だけではなくそこに行動が伴って、相手に気持ちを表すことが出来たらどんなに素晴らしいことでしょう。言葉に行いが伴うときの愛の力は、人を幸せな気持ちにしてれます。幸せな気持ちになったその人が、今度は別の誰かに心を配れるといいですね。目には見えなくても大切なものがありますが、気持ちを形にして表すのも大事なことだと思うのです。

 自然災害時にいち早く駆け付け、様々な後片付けを手伝うボランティアの方々がいます。また災害時の避難生活の中で、少ない食べ物をさらに分け合って食べた経験のある方もいらっしゃるでしょう。しかし、そうしたいと思っても誰もが同じようにそうできるわけではなく、なかなか難しいことかもしれません。しかし自分だけがよければそれでよいのではなく、助けを必要としている周りの人にも優しい眼差しを向け、行動に移せるようにしたいものです。自分のできる範囲で無理なく。​

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ヨハネの手紙第一3章18節

子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。

箴言3章27~28節

あなたの手に善を行う力がある時、受けるべき者にそれを控えてはならない。

あなたに物があるとき、隣人に向かって、「帰って、また来なさい。明日あげよう」と言うな。

箴言11章24~25節

気前良く施して、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでかえって乏しくなる者がある。

おおらかな人は豊かにされ、他人を潤す人は自分も潤される

 
母の日について(Mさん

◆起源◆

 その起源は世界中で様々で日付も異なりますが、母の日は日頃の母の苦労をねぎらい、母への感謝を表す日です。中でもアメリカでは以下のアン・ジャービスへの教会での追悼にさかのぼり、5月の第二日曜日にお祝いし、日本もそれに倣っています。

 南北戦争中「母の仕事の日」と称し、敵味方を問わず負傷兵の衛生状態を改善するために、地域の女性を結束させたアン・ジャービスという女性がおりました。彼女の死後、その娘のアンナ・ジャービスは、亡き母親を偲び、母が日曜学校の教師をしていた教会で記念会をもち、白いカーネーションを贈ったのが、日本やアメリカでの母の日の起源とされています。

 今では一般的に、元気で生きておられるお母さんへ→赤いカーネーション( 花言葉は「愛情),亡くなられたお母さんへ→白いカーネーション( 花言葉は「尊敬」)を贈っているようです。(出典:フリー百科事典Wikipedia)

「お母さんに感謝を伝える」と言っても、何らかの理由で感謝を伝えたい人は不在かもしれません。けれど今伝えることのできる人は、あなたの気持ちを伝えましょう。伝えたくとも不在のお母さんには、心の中で思いを馳せて、あらためて感謝の念を捧げましょう。いずれもお母さんへの深い愛情、尊敬をこめ、感謝をもって贈りたいですね。

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エペソ人への手紙6章1~3節

子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。

『あなたの父と母を敬え。』これは約束を伴う第一の戒めです。「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。

​申命記5章16節

あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じたとおりに。それは、あなたの日々が長く続くようにするため、また、あなたの神、主があなたに与えようとしているその土地で幸せになるためである。