読んで聞かせたい聖書の話

 

​ キリスト教に関わるほっこりとしたお話や希望が持てるお話など、思わず誰かに話してみたいお話を集めた不定期連載です。お楽しみに。

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召天者記念礼拝
良いサマリア人(Mさん2022.07.26 UP NEW
 

 片づけをしていたら、切り抜いて取っていたある日の新聞のコラムを見つけました。交通事故で大けがを負い、人に助けられた猫の話です。コラムの一部を以下に紹介します。

 

「▼「『吾輩は猫である』風に語ってもらうと、こうか。イワシが本紙で紹介されたのは6月8日。多賀城市内の道で瀕死の状態で住民に救われ、手術で命を取り留めた。左目摘出、右目の視力も失うという痛々しさ▼治療費が高額になり、相談を受けた宮城県七ヶ浜町の鈴木艶子さんがインターネットで支援を募った。捨てられる犬、猫の保護や避妊、里親探しを15年続ける。「必死で生きるイワシへの応援を祈るばかりだった」▼思いが通じ、浄財はネットが87人、振り込みが85人に上り、計91万円に達した。鈴木さんにも100本近い激励の電話があり、宮城県南三陸町に住むペット美容師の女性は元動物病院看護師なので、イワシを世話したいと申し出た。(以下略)」(「河北春秋」『河北新報』2017年7月9日朝刊)

 

 紙面に載った話を思い出しながら、あらためて読み直して、私は「良いサマリア人」の聖書箇所を思い出しました。「良いサマリア人」とはルカの福音書10章30~37節に出てくるたとえ話です。ある旧約聖書の律法の専門家が、さも私は聖書を理解しているという態度で、イエス様に「最も大事な律法は何か」と質問したとき、イエス様は「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と答えて、次のようなたとえ話をしました。それは、ある人が旅の途中で強盗にあって道端で半死半生で苦しんでいる時に、普段は神に仕えていると誇っている祭司やレビ人は、その人を無視して通り過ぎたのに、普段は神に従わない不道徳な民族として蔑まれているサマリア人が、治療代と宿代まで払ってその人を助けたというものです。その上でイエス様は「誰がケガした男の隣人となったと思うか?」と尋ねると、律法の専門家はそのサマリア人だと答えざるを得なくなりました。そこでイエス様は、律法を大事と思うなら「あなたも他人に対して同じよう行動しなさい」とその専門家に言われたのです。これが「良いサマリア人」のたとえ話です。

 コラムの中で、助けられたのは猫の話ではありますが、本来人間の備わっているやさしさ、憐みの心にあらためて感じ入りました。命あるものを見殺しにできず寄せられた人々の好意に頭が下がります。自分の家族、親戚、知人、友人ならともかく、まるで面識のない人に自分の最善を尽くし、時間と宝を捧げるのは難しいことのように思えます。やはり人は自分のことが一番大事だからです。

 「見て見ぬふり」という言葉の通り、関わりを持つのがいやだとか煩わしいとか、人によって理由はいろいろあるでしょう。同じ状況に立った時、自分はどちら側を歩くでしょう?祭司やレビ人のように反対側を通り過ぎるでしょうか。サマリア人のように、助けるほうに踏み出す勇気、覚悟はあるでしょうか。ある種の犠牲をはらっても、救いの手をさしのべることができるのは、そこに神様の力がはたらいてそうさせるのかもしれません。神様から与えられたそのような場所に居合わせたとき、人間として自然にそのような振る舞いができるよう、神様はそう願っているにちがいありません。

 かわいそうだとか、気の毒だと思いながらも、「気持ち」だけではだれも喜ばすことはできません。そこに行動が伴ってはじめて思いが通じるのだと思います。大災害が起きた時にいち早く現地に駆け付けるボランティアの方たちや、大地震の時に自分のことはさておき、周りの人たちのために尽力された方たちを見ても、それらの行動力に目を見張るものがあります。「なさざる罪」とは何もしないことによっておかされる罪。良いことをしないのも罪であることを心の隅にとめたいと思います。

 

まことに、みことばは、あなたのすぐ近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。(申命記30章14節)

 

「取り込むばかりの人々は何も生まないが、多くの与える人の周りにはいつも豊かな実りがある」(曽野綾子『幸せは弱さにある』イースト・プレス、2013年)

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ノアの箱舟にまつわるアレコレ(Kさん2022.07.13 UP
 

 先日、ある作家さんのエッセイを読んでいて「ノアは、箱舟から降りて動物犠牲を捧げたのだから、その動物は絶滅したのかな」という趣旨の文章がありました。「ノアの箱舟」とは、人間の悪が増大したことに対して、神様が正しい人ノアとその家族以外を滅ぼすために大洪水を起こした。ただノアの家族だけは神様の命じた通りの箱舟をつくって動物たちと一緒に大洪水を生き延びて、新しい人間の歴史が始まったという聖書の中の有名なお話です。絵本やドラマ、アニメでもたくさん取り上げられており、みなさんも一度は見たり聞いたりしたことがあるのではないでしょうか。

 さて先の作家さんの疑問についてですが、聖書を開けばきちんと書いてあります。普通、動物犠牲で捧げるのはきよい動物で、それらは14匹ずつ乗っていたのです。

 

あなたは、すべてのきよい動物の中から雄と雌を七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌を一つがいずつ、また空の鳥の中からも七つがいずつ取りなさい(創世記第7章2~3節)。

 

 この箇所を見ると「この『きよい動物』とか『きよくない動物』というのは、神様の差別ではないか」と思われるかもしれません。しかし、これは差別ではなく、人間に教えるための区別のようです。一説には、食中毒や病原菌の原因をさせるためだとも言われていますが、よくわかりません。例えば、カラスは一般的には忌み嫌われる鳥ですよね。しかしノアの箱舟の話では、洪水が引いて地表が現れたかどうかを確かめる栄誉をカラスが担っています(創世記8章7節)。結局は地表を見つけられなくて帰って来て、次に放たれた鳩がオリーブの枝を咥えて戻ってきたので、水が引いたことが分かったのです(創世記8章11節)。ちなみに鳩がオリーブの枝を加えているモチーフは、ここから来ています。旧約聖書の中でカラスは、預言者エリヤを養ったりして、意外に活躍しています。忌み嫌われているカラスでさえ、神様は用いてくださるのです(第一列王記第17章3節)。

 最後に、「箱舟の扉を閉めたのは誰か」についてです。箱舟とは舵も動力も付けられていないただの巨大な木の箱です。たくさんの動物を乗せるための巨大な扉ですが、外部の人間はノアが巨大な箱舟をつくっていたのをあざ笑っていましたから、協力者はいません。中からはとても引っ張り上げられません。どうしたのでしょうか。実は、これも聖書にきちんと書かれています

 

それらは、神がノアに命じられたとおりに入った。それから、主は彼のうしろの戸を閉ざされた(創世記7章16節)。

 

 キリスト教の神様は、人間に命じて、天の上から意地悪く眺めている神様ではなく、大事な所で手を差し伸べて私たちを助けてくださる神様なのです。

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梅の実に思うこと(Kさん2022.06.26 UP
 

 地方によって時期は違いますが、仙台では今、青々とした梅の実が出回っています。この時期になると、私は梅の実を見て神様の業の不思議を感じます。

 みなさんは梅干しをつけたことがありますか。梅干しは、この梅雨の時期に主隠された梅の実を塩漬けにすることからはじまります。梅の実の10%の重さの塩と一緒に漬けて、梅の実と同じ重さの倍の重しをかけます。やがて梅から水がしみ出して、梅の実は塩水につかります。そのうちに、ほんのわずかの期間だけ赤紫蘇が出回ります。塩もみした赤紫蘇を梅と一緒に漬けこむと、あの梅干しの赤い色と香りが梅の実につくのです。

 そうこうするうちに梅雨が明けて暑い夏がきます。その暑さと炎天下の中、梅のエキスがしみ出した塩水(梅酢)から梅の実を取り出し、笊に広げて干します。これが「土用干し」です。これで梅の実がシワシワになり、再び梅酢につけるとエキスを吸収して美味しい梅干しになります。これを食べてもいいのですが、去年付けた梅干しが一年たって酸っぱさも風味もまろやかになり食べごろになっていますから、これをいただきましょう。

 これを見て不思議に気づきませんか。梅の出回るタイミング、赤紫蘇の出回るタイミング、梅を干すのに最適な気候のタイミング、そして暑い季節に防腐と食欲増進の効果がある梅が食べられるようなタイミング。すべてがほんのわずかの狂いでも成立しないような絶妙のタイミングで季節のサイクルがまわり、私たちに必要な食を与えてくれています。私たちも、私たちの祖先も、そうやって神の恵みの不思議の中で季節を生きてきました。

 

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。(伝道者の書3章11節)

 

 梅の実は不思議で、何の特徴もない果実ですが、梅酒にしたり梅シロップにしたりすると、他の果実では太刀打ちできない味と香りを放ってくれます。生の梅の実は、味そのものというか、生のまま食べると青酸(青酸配糖体)が少し入っているので体調が悪くなります(といっても、深刻な影響が出るのは子どもで100個程度食べたときだそうです)。しかし、苺やリンゴ、ナシなどの食べて美味しく香りもよい様々な果実で果実酒に挑戦しましたが、果実酒にした場合の味と香りは、どれも不思議なことに梅の実にはかないません。梅の味と香りは断トツです。人間と同じで、神様はどこかに優れたいい点(賜物)を与えて下さっているのです。神様から与えられた賜物を熱心に磨き上げ、梅の実のような味と香りを放って行きたいものです。

 

皆が使途でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。皆が癒しの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか。あなたがたは、よりすぐれた賜物を滅心に求めなさい。(コリント人への手紙第一12章29節~30節)

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表彰式の曲(Kさん2022.06.19 UP
 

 オリンピックをはじめとするスポーツの大会で、表彰式の時に流れるこの曲が、もともとは教会で歌われてきた歌だとご存知でしたか→聖歌168番。日本人の多くが、この曲を「表彰式の曲」だと思っています。有名なのに知られていない、この曲の歴史をひも解いてみましょう。

 この歌は、あのバロック音楽の巨匠ヘンデル(George F. Hendel)が1746年に作曲しました。もともとは旧約聖書のヨシュアの凱旋の場面を歌ったものが(ヨシュア記10、11章)、後にイエス様のことを歌った歌になりました。1番~3番を見てみましょう。「①見よ!我らを統べる英雄がやって来る/笛や太鼓の音も響かせず/天の父なる神様として私たちの心を/愛をもって統べるために/(曲間)神の御子が来る/この世界のために血を流すため/我らの主となって我らを統べる/②彼はこの世を光で満たすためにやって来る/我らの心の目を開くために/我らを罪から解放するために/我らを永遠に統べるために来る/③彼は罪ある人のただ中に住まわれるために/罪に打ち勝つ力と権威をもって来る/彼は神への唯一の道であり/唯一の救い主であり唯一の王である」(本コラム筆者訳)となっています。ある意味「勝利の凱旋」ですが、華やかなパレードもなしにやって来た「英雄」とは、私たちの罪のために血を流された救い主イエス様ですね。

 その後、1884年にスイスの牧師・ビュドリー(Edmond L. Budry)がイエス様の死と復活の場面として、フランス語の歌詞をつけました。「①復活の主よ!あなたに栄光あれ/永遠の勝利はあなたのもの/光に照らされ舞い降りた天使が 墓を打ち破り墓石を転がした/復活の主よ!あなたに栄光あれ/永遠の勝利はあなたのもの」( À toi la gloire O Ressuscité: 本コラムの筆者訳)というものです。永遠の勝利とは、罪の奴隷となり死ぬしかなかった私たちを救い、永遠のいのちを与えることのできたイエス様の勝利のことを指しています。ずいぶん今の歌詞に近くなってきました。「墓石が転がされてその上に天使が座り、墓の中には死んだはずのイエス様がいなくて衣だけが残されていた」というこの場面は、聖書のルカの福音書24章などで読むことができます。

 さらに、その後、1923年にイギリス人の牧師・ホイル(Rechard B. Hoyle)が「①復活の主よ!あなたこそ栄光/わたしたちの永遠の勝利が今はじまった/栄光をまとった天使が墓石を転がし/身体のあった場所には衣だけが残された」(Thine Be the Glory: 本コラムの筆者訳)と英訳しました。これが日本語になると「①いざ人よ褒めまつれ/よみがえりし勝利の主/見よ墓には何もなく/ただ衣の残るのみ/いざ人よ褒めまつれ/よみがえりし勝利の主」と日本語に訳されたのです。シンプルな名訳ですね。

 もうお分かりですね。「勝利」とはスポーツの勝利ではありません。また、ここで人が褒めているのはスポーツの勝者ではありません。死に勝利したイエス様のことです。もし私がオリンピックの金メダルを取って表彰台に上がったときにこの曲が流れてきたら、「いざ観客よ、勝者である私を褒めよ」と考えるのではなく、「人たる私は、この場所で永遠のいのちを与えてられるという圧倒的な勝利者としてくださった神様を誉めまつります」と考えたいと思います。まあ、金メダルを取ることはないでしょうが。

しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。(ローマ人への手紙8章37節)

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五本指の祈り(Mさん2022.06.07 UP
 

 だいぶ前に友人から贈られた本に『デイリーブレッド―わたしとみんなのデボーション―』(いのちのことば社、2007年)というのがありました。その中の6月2日の項目から、私が感激した祈りについて記された「五本指の祈り」という記事がありました。この記事では、五本指を思いながら、それに関係する様々な人々に思いをはせて祈ることを勧めています。なお「 」内は、この本からの引用です。

 

「手を組んだとき、自分に一番近いのは親指です。まずは、もっとも近くにいる人、愛する人のために祈りましょう。」

 

私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。(ピリピ人への手紙1章3~5節)

 

「人指し指は『示す指』です。ですから、聖書を教える人、牧師、日曜学校の教師のために祈りましょう。」

 

兄弟たち、私たちのためにも祈って下さい。(テサロニケ人への手紙第一5章25節)

 

「一番長いのが中指です。権威を持つひとのために祈りましょう。国や自治体の指導者、職場の上司といった人です。」

 

そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。(テモテへの手紙2章1~2節)

 

「4番目の薬指はたいてい、もっともか弱いものです。困っている人、苦しんでいる人のために祈りましょう。」

 

あなたがたの中に苦しんでいる人がいれば、その人は祈りなさい。喜んでいる人がいれば、その人は賛美しなさい。あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病んでいる人を救います、主はその人を立ち上がらせてくださいます。もし、その人が罪をおかしていたならその罪は許されます。ですから、あなたがたは癒されるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。(ヤコブへの手紙5章13~16節)

 

「最後は小さな小指です。神の偉大さに照らして、自分の存在がいかにちいさいかを思い出し、神が自分の必要を満たしてくださるよう祈りましょう。」

 

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝を持ってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。(ピリピ人への手紙4章6節、19節)

 

 わたしたちは、ついつい身近にいる家族のことや自分の願いの成就など自分中心の祈りになりがちです。また祈れないほどの苦しみや孤独、絶望の中に自分自身がいることがあります。そんな時あなたを知るほかの誰かが代わりに祈っていてくれるのを知っていますか。本当にありがたいことであるし、力が湧いてきます。

 また、わたし(筆者)は祈りたいことを、誰かにお願いして一緒に祈ってもらう時もあります。

 

あなたがたのうち二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。(マタイの福音書18章19~20節)

 

 自分の愛する人たちのため、牧師先生のお働きのため、また国内外に目を向ければ、国の主導者や為政者のためにも、特に昨今は世界平和のために祈らずにはおれません。連日報道される二国間の戦争に多くの人々が心を痛めています。一刻も早く終結するよう願うばかりです。さらに、弱い立場の人、困難の中にあり様々な不安や悩みをかかえている人たちのためにも祈りたいと思います。

 いつも神様を信頼し、私たちの必要を満たしてくださる神様を心から賛美しましょう。今日も、皆さんが神様に語りかける時間を大切にできるよう祈っています。

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RBCミニストーリーズ監訳『デイリーブレッド―わたしとみんなのデボーションー』いのちのことば社、2007年。

聖書とことわざ(Kさん2022.05.24 UP
 

 今週(2022年5月22日)の日曜礼拝の箇所は、マタイの福音書7章1節~6節でした。この6節には「聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。」と書かれています。旧約聖書の時代には豚は不浄なものとして扱われており、ルカの福音書で金持ちの息子が家出をした話(通称「放蕩息子」の話)では、彼が最終的に豚の世話をする仕事をして豚の食べるいなご豆で空腹を満たしていた話(ルカ15:15-16)で、最底辺まで落ちぶれたことを表現しました。つまり先にあげたマタイの福音書のたとえは、「価値の分からないものに尊いものを与えてもしかたがない」との意味で、現在の日本でも「豚に真珠」の意味で使われています。このことわざは明治の後半あたりから定着し、もともと日本にあった「猫に小判」にあわせてことわざが略されてきたとのことです。

 他にも「目からうろこ」「砂上の楼閣」「狭き門」など、聖書由来のことわざは多いです。「目からうろこ」は使徒の働きの9章18節に由来し、イエス様の幻に出会って目が見えなくなったパウロ(サウロ)が、その後、祈られて「目から鱗のようなものが落ちて」視力を回復すると同時に、神様との関係が見えるようになったことに由来します。「砂上の楼閣」はマタイの福音書7章26節に由来し、神様のことばを聞いても神様との関係を築かない生き方は、どれだけ立派でも砂の上に建てた家のように不確実なものであるというのです。さらに受験シーズンによく聞く「狭き門」も、マタイの福音書7章13節にあることばです。

 一方「七転び八起き」や「笛吹けど踊らず」など、聖書由来という説とそうではないという説が分かれていることわざもあります。前者は箴言24章16節が由来だという人もいますが、仏教由来の確率が高いようです。また後者はマタイの福音書11章17節が由来だという説と、イソップ物語だという人がいますが、よくわかりませんでした。

 ちなみに、聖書由来のことわざで最も誤用されているものに「人はパンのみに生きるにあらず」というものがあります。多くの方は、このことわざを「人間は物質的なものを満たされていればそれで幸せではなく、趣味や娯楽、人間らしい生き方など精神的な満足がなければ幸せとは言えない」と誤解されているようです。実は、このことわざの元となった神様のことばを、聖書の記述から抜き出すと次のようになります。

 

人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。(申命記8章3節)

 

 つまり人間的に豊かに見えても、罪の奴隷となり神様との関係が断ち切られていれば、人生は意味がないものになってしまいます。物質的に何不自由がなく、かつ毎日仕事に遊びに(つまり精神的にも)充実しているように見えても、それらがいつか失われている不安を人は抱えています。それが本当に豊かな人生なのでしょうか。聖書に由来することわざは多いですが、それを聞いて「良い人生訓を聞いた」とか「心が豊かになった」で済ませるのではなく、これらをきっかけに神様と自分との関係を問い直してはいかがでしょうか。

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ブラウン神父の事件簿(Kさん2022.05.14 UP
 

 ブラウン神父(原題・Father Brown)とは、イギリスの小説家・チェスタトン(Gilbert Keith Chesterton)が生み出した、小説の中の名探偵です。普段はイギリス南東部のサセックス州のカトリック教会の神父をしていて、事件が起きると首を突っ込み解決していきます。シャーロック・ホームズやエルキューロ・ポアロほど有名ではありませんが、その鮮やかな推理で「世界三大探偵」に数える人もいます(エラリー・クイーンやミス・マープルのファンの方すみません)。丸顔で背が低く、丸メガネをかけて、いつも蝙蝠傘を持っています。何度も映画からテレビドラマ化されたのですが、最新のものは2013年からイギリスの放送局・BBCで放映されているもので、マーク・ウィリアムズ(Mark Williams)がブラウン神父を演じています。マーク・ウィリアムズは日本でも有名な俳優さんで、ハリー・ポッターの親友ロン(ロナルド・ウイズリー)の父親・アーサー・ウイズリーを演じた方と言えばおわかりでしょうか。彼に丸メガネをかけさせた姿が、テレビのブラウン神父です。ブラウン神父の活躍の時代設定は、もとの小説では1910年代から30年代のイギリス(一部アメリカを舞台にしたものあり)ですが、BBC版は戦後のイギリスに設定を移しコツウォルズ地方の小さな村・ブロックリーを舞台に撮影していますので、古き良き時代のイギリスが映像にあふれています。

 この神父さん、もちろんなぞ解きもしますが、それで話が終わるわけではありません。犯人を突き止めるだけでなく、犯人に対して「魂の救い」や「罪の悔い改め」を求めるところまでがお話となっています。何本かのテレビシリーズで第一作目として選ばれた「神の鉄槌」では、同じ村のプロテスタントの牧師さんが放蕩の弟に手を焼き、あるとき弟の不正を塔の上から目撃した時に小さなハンマーを投げた結果、非常に小さな確率であったにもかかわらず命中し弟が即死してしまいます。事件の捜査ではハンマーの持ち主であった鍛冶屋や、牧師の弟に脅されていた鍛冶屋の妻が疑われ死刑になりかけますが、ブラウン神父の推理で二人が無実だと分かります。最後の場面で塔の上でブラウン神父に問い詰められた牧師は、「こんな小さな確率でハンマーが当たったのは、神様の意志が働いたからだ」と強弁しますが、ブラウン神父は「推理の結果を警察には話さない。自らが正しいと思う選択をしなさい」と説得します。その牧師は、最終的に自らの行為を悔い改めて警察に自首します。プロテスタントの牧師が犯人だったというのは、プロテスタント教会員としては少し複雑ですが、ブラウン神父シリーズの性格をよく表しています。

 このようにブラウン神父シリーズを視聴していると、私たちに本当に大切なのは「神様の前に悔い改めること」だというのがよく分かります。もちろんイギリスの大人気シリーズですので、エンターテイメントとしても楽しめます。名優・マーク・ウィリアムズをはじめ、わき役陣も芸達者で洒落も聞いて面白いドラマになっています。仙台市図書館のDVDやGYAO!などのネット配信で視聴できますので、楽しみながら視聴して「神様の前に悔い改めることの必要性」を求めているキリスト教について考えてみてください。

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キングダム・オブ・ヘブン(Kさん2022.05.01 UP
 

 2005年にリドリー・スコット監督、オーランド・ブルーム主演で作成されたアメリカ映画の「キングダム・オブ・ヘブン」は、クリスチャンにとっては考えさせられる映画です。

 ストーリーはこうです。十字軍がエルサレムを奪還して100年ぐらい後、エルサレム王国内イベリンの領主であるゴッドフリー男爵は、フランスのある田舎でバリアン(オーランド・ブルーム)という鍛冶屋の青年に声をかけます。この青年は実はゴッドフリーの隠し子でした。彼は妻を自殺で亡くした失意の中にありました。当時、自殺した魂は天国に行けないと考えられており、バリアンは信仰の回復と救いを求めてゴッドフリーとエルサレムに向かいます。父ゴッドフリーが旅の途中の戦闘でなくなると、バリアンはイベリンの男爵の地位を継ぎ、エルサレム王に仕えます。エルサレムでは、病気の王の代わりに側近が権力を奮い、王の平和政策をないがしろにして、頑迷な司教らとともにイスラム教徒の王サラディンとの対立姿勢を鮮明にします。しかし、圧倒的なサラディン軍の前に権力を奮っていた側近は殺され、司教は「イスラム教に改宗して逃げ出しましょう」という始末。ここでバリアンは、エルサレムを守るために立ち上がるのです。この話は、1187年に実際に起こった戦いの前後を、かなり脚色しながら作られた映画です。史実との比較論はネットの映画評でたくさんあるので、そちらに譲ります。

 この映画の中では「頑迷なキリスト教徒」がたくさん出てきます。「異教徒を殺しても罪にはなりません。天国に行けます」と伝えている若い僧、権力に寄り添ってキリスト教を独自解釈する司教、巨大な金ぴかの十字架を掲げて戦いに行けば無謀な戦いでも神様の加護があって勝てると盛り上がる領主たちなどが出てきます。一方、イスラム教徒のサラディン王は偉大な人物として描かれています。最後に明け渡しのあったエルサレムにイスラムの旗がはためきますが、入場したサラディン王は、混乱で床に落ちたままの十字架をそっと拾い上げテーブルに戻します。彼の他宗教へのリスペクトが感じられます。ここでは、何もイスラム教を持ち上げてキリスト教を貶めているわけではありません。ただ少なからぬ人が十字軍を例にしながら宗教というものを批判しているのに対して、キリスト教徒の罪は、神様からのものではなくどこまで行っても人の闇に起因するのだなあと感じたわけです。映画全体を見ると「バランスの取れた」宗教観となっています。

 この映画は、日本では興行的に成功したとは言えません。しかし、キリスト教徒にとっては、一つひとつの行動や発言が興味深く考えさせられるものとなっています。少々長い映画ですが映像も美しく、キリスト教に興味のある方は是非ご覧になってください。

 

見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いて下さらないようにしたのだ。(イザヤ書59章1~2節)

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或るおばあさんの話(Mさん2022.04.02 UP
 

 もう二十五年位前のことになりますが、教会へ通うようになって、私はいつも或るおばあさんの隣に並んで座るようになりました。私との年齢差が確か60歳近くあり、明治生まれで、実のおばあさんほど年が違うのですが、なぜかおばあさんの隣はほっとするというか、その雰囲気に癒されお気にいりの場所でした。若い頃に洗礼を受けられたそうで、イエスさまを心から信頼し立派な信仰生活をしておられているのが何となく伝わってきました。ご高齢を感じさせないくらい、力強くはっきりした声のお祈りを、私はいつも感心して聞いていました。

 おばあさんは、隣でご自分の好きなみ言葉を教えてくれたり、逆に「好きな讃美歌は何番?」と私に尋ねられたりしました。私が礼拝を休むと手紙が届きました。また家族が入院した時も、丁寧に手紙を添えたお見舞いを下さり、本当にお世話になりました。中でも忘れられないのは、私がその教会で学び、一年後に受洗した時に、お祝いにと榎本保郎先生の「旧約聖書一日一章」という本を贈って下さったことです。知り合って間もない私にこのような高価な本を下さるとは、ありがたいことであると同時に申し訳なく、恐縮したことを覚えています。

  最近、その本を繙き、エレミヤ書24章の注釈に書かれている次のような文が目にとまったので一部を紹介します。

 

「二つのいちじくのかごが、神にささげるためにおかれてあった。一つは初なりの熟したいちじくであり、もう一つはしなびた食べられないいちじくであった。聖書の中では、初穂を捧げるということを大切にしている。これは神に顧みられるものである。神にささげるものは、神に顧みられ、神に届くものでなければならない。献金ということにおいても、月のはじめのものを捧げるべきである。時間ということにおいても、一日の最初に神との交わりの時を持つこと、朝一番に聖書を読む生活が、一日の最初を聖別して神にささげるということである。そこにはじめて神との交わりが生まれるのである。(中略)神は儀式や形式を重んじられるかたではなく、『心』を重んじられるかたである。形式を生かしていくものは『心』である。」

 

 そういえば、おばあさんはいつも第一の聖日に月定献金を捧げておられました。毎週欠かさず礼拝に出席され、神様に対して、お手本を示してくれるような存在でした。

  その後、おばあさんは長生きされ、大変なご高齢で天に召されましたが、本の頁を捲りながらその頃のおばあさんを思い出しています。今思えば本当にイエスさまのように接してくださり、私の不安定な拙い信仰を導いて下さったこと、そしておばあさんとの出会いにあらためて感謝の念をいだいています。

 少しずつでもイエス様のことを身につけていくことがおばあさんへのお礼なのかもしれません。

 

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、わたしたちは知っています。(ローマ人への手紙8章28節)

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ファラオの夢(Mさん2021.04.19 UP

 短い箇所ですが、ヨセフ物語の中にある、ヨセフのときあかした「ファラオの夢」について触れたいと思います。ファラオとは古代エジプトの王様のことです。ヨセフの物語については、以前、書いた「ヨセフの物語」をお読みください→「読んで聞かせたい聖書の話」の「ヨセフの物語」参照

 

創世記41章1~4節
 
それから二年後、ファラオは夢を見た。見ると、彼はナイル川のほとりに立っていた。すると、ナイル川から、つやつやした、肉づきの良い雌牛が七頭、上がってきて、葦の中で草をはんだ。するとまた、その後を追って、醜く痩せ細った別の雌牛が七頭、ナイル川から上がって来て、その川岸にいた雌牛のそばに立った。そして醜く痩せ細った雌牛が、つやつやした、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまった。

◆創世記41章5~7節

 彼はまた眠り、再び夢を見た。見ると、一本の茎に、よく実った七つの良い穂が出て来た。すると、その後を追って、しなびた、東風に焼けた七つの穂が出て来た。そして、しなびた穂が、よく実った七つの穂を呑み込んでしまった。

 

 そして、「神が、なさろうとしていることをファラオにお告げになった」(同25節)とあります。さらに「夢が二度ファラオに繰り返されたのは、このことが神によって定められ、神が速やかにこれをなさるからです。」(同32節)と続きます。

 

 七年間の大豊作ののち、七年間のきびしいききんが来るということを知らせる恐ろしい夢ですが、あらためて、良いことも悪いことも神のみ心のうちにあると知ることができます。

 良い人生が、いともたやすく大きな不運や不幸に飲み込まれてしまう現実に対し、わたしたちはしっかりと備えなければいけないのでしょう。暗転した人生など誰もが考えたくないことですが、現在のコロナ禍がそうであるように、予想もしなかった事が起きて現在も私たちは翻弄されています。またそれと同時に、頭に浮かんでくるのは、地球の温暖化によってもたされる様々な危機です。

 経済発展と共に失われた豊かな自然や、地球上での様々な異変、豊かな国々が飽食を謳歌し、その一方でまだ食べられる多くの食品が廃棄される現実。豊かな国がある一方で、飢餓で苦しむ人々が存在し、ますます大量の難民が発生すると言われます。プラスチックごみが生態系に及ぼす過酷な負荷も問題になっています。人類の繁栄や欲望を満たすために失われた物は、数えれば枚挙にいとまがありません。これらを神様はなんと思ってご覧になっているでしょうか。本当に罪深いことだと思わずにはいられません。この夢と地球の危機を心の片隅に刻んでいきたいと思います。

 人生のよい時、ひとりひとりが慢心や油断をせず、たとえ悪い状況に陥っても、いつも神様との繋がりの中に生かされている事を自覚し、神様から智恵や勇気をいただくことができますように。試みの中にあっても、神様への畏怖や、感謝の念を忘れずに歩んでいきたいものです。

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​新王朝時代のファラオ壁画像(Wikipedia)

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創世記41章32節

このことが神によって定められ、神が速やかにこれをなさるからです。

創世記42章18節

私も神を恐れる者だから。

箴言19章21節

人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する。

イースターとクラッシック音楽(Mさん2021.04.04 UP
 

マタイ受難曲・ヨハネ受難曲(J・S・バッハ)

 マタイによる福音書26~27章のキリストの受難を題材にしたマタイ受難曲。

 イエスが十字架へと至る道を罪人である私たち人間が瞑想的に追体験することで少しでも私たちの罪が救われるようになりたいという信仰的な教育のための作品である

 一方、ヨハネ受難曲はマタイ受難曲より合唱部分が多くソロが少ないのが特徴で、ヨハネによる福音書18~19章のキリストの受難を題材にした受難曲です。

復活祭オラトリオ(J・S・バッハ)

 バッハの作曲した3つのオラトリオのひとつで他に昇天祭オラトリオ、クリスマスオラトリオがあります。

 ※オラトリオとは、日本では聖譚曲(せいたんきょく)と呼ばれ、1640年頃イタリアで始まった宗教的な題材による歌詞をもつ独唱、重唱、合唱、管弦楽のための総合的で大規模な音楽作品。

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ロシアの復活祭(リムスキー・コルサコフ)

 ロシアの作曲家コルサコフが、修道院の近所で過ごした幼年時代の復活祭の印象が反映されていて、賑やかな解放感あふれる復活祭の様子が描かれています。

メサイヤ第3部「メシアのもたらした救い~永遠のいのち」(ヘンデル)

 救世主(メシア)の「復活への信仰」「永遠のいのち」「死に対する勝利」イエスキリストへの賛歌を歌い上げる全8曲から構成され、冒頭第45曲には以下のような聖書のみ言葉から歌詞が使われています。(因みに、第1部は予言とキリストの降誕、第2部は受難節から十字架上の苦難、復活、昇天、聖霊の降誕、最後に神の王国の歓びを祝うハレルヤコーラスへと続きます。)

ここでは聖書そのものではなく音楽的表現を重視したDVD掲載の歌詞を紹介します。

(教会で使っている2017年版新改訳聖書の文言もつけておきます)

 

第45曲

◆ヨブ記 19章25節~26節

私は知る。私を贖う方は生きておられる。後の日に彼は、必ず地の上にに立たれる。

私の皮がこのように滅ぼされたのち、私は肉をはなれて神を見るであろう。

(2017年版新改訳聖書:

私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。

私の皮がこのように剥ぎ取られた後に、​私は私の肉から神を見る。)

◆コリント人への手紙第一 15章20節

なぜなら事実、キリストは、眠っている者の初穂として死人の中からよみがえったのである。​

​(2017年版新改訳聖書:

しかし、いまやキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。)

 

参考まで、第3部 第46曲以降もみ言葉の歌詞が転用されています。

第46曲  ◆コリント人への手紙第一 15章21~22節

第47曲  ◆コリント人への手紙第一 15章51~52節

第48曲  ◆コリント人への手紙第一 15章52~53節

第49曲  ◆コリント人への手紙第一 15章54節

第50曲  ◆コリント人への手紙第一 15章55~56節

第51曲  ◆コリント人への手紙第一 15章57節

第52曲  ◆ローマ人への手紙 8章31、33~34節

第53曲  ◆ヨハネ黙示録 5章12~14節

 

◆コリント人への手紙第一 15章51~52節

 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

 今年のイースター、あなたはどのように過ごしますか。時にはゆったりと音楽を聴いて過ごすのもいいですね。亡くなられた方たちを偲び、心の中で今もそっと生き続けていることを再認識したいと思います。

 また最近はコロナ禍で、讃美歌を歌うことを控え奏楽のみの礼拝が続いています。またみんなで歌える時がくることを祈ります。

 
キリシタンの名前の記録(Tさん2021.03.12 UP 

 江戸時代の宣教師のみなさんは、実に一生懸命に日本人信者の名前を聞こうと努力していたのですね。例えば「孫兵衛」さんであれば、今の私たちなら「マゴベー」とか読みますよね。でも、当時のイエズス会の記録を基にしたと思われる19世紀の本には「Mangobioye(マンゴビェ)」と書かれていました。口に出して読むと分かるのですが、この呼び方は、鼻濁音が強調されがちな東北人の発音に近いものがあります。他にも「伊兵衛」さんは「Ifioye(イフィェ)」とか 「幸右衛門」さんは「Coiemon(コィエモン)」など、実に丁寧に日本人名を聞き取ろうとしていたことが分かります。宣教師のみなさんは西洋人なのですから、マテオ孫兵衛(Mathieu Mangobioye)さんなら「マシュー」、パウロ金助(Paul Kinsouke)なら「ポール」と呼ぶ方がどんなに楽だったかもしれません。しかし、東北地方の一信者の殉教の記録が洗礼名と日本人名でイエズス会に残っているということは、日本人信者を宣教師さんたちが、苦労しつつも日本人名で日常的に呼んでいたことの証しなのではないでしょうか。

 「神であるは、その土地の土で、あらゆる野の獣とあらゆる空の鳥を形造って、人のところに連れてこられた。人がそれを呼ぶと、何であれ、それが生き物の名になった。人はすべての家畜、空の鳥、すべての野の獣に名をつけた。」(創世記2章19~20節)。この箇所を引き合いに「だからキリスト教を基盤とする西洋文明は自然を支配しようとするのだ」という短絡的な論評をする人もあります。でも、そうではありません。みなさんも自分の大切なものには名前をつけて呼び、大切にしてきた経験がありますよね。「名前を付ける」「名前を呼ぶ」ということは、「愛情をもって大切に接し、そのものに責任を持つ」ことです。神様はきっと「生き物を自分のものとして好き勝手に支配しなさい」ではなく、「すべて生き物を愛情と責任をもって人間が大切にしてあげなさい」とおっしゃりたかったのでしょう。

 イエズス会については「プロテスタントの拡大に反撃するためにつくられた組織だ」とか「改宗しない日本人を奴隷として輸出していた」とか歴史的には批判もあります。でも、少なくとも日本人信者の名を呼んで励まして一緒に殉教したこれらの宣教師さんたちは、慣れない東北の地で聞き取りにくい日本人の名前を一生懸命覚えながら、愛情と責任を持って神の国を説いていた人々のように私には思えます。

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ピーテル・パウル・ルーベンス「楽園のアダムとイブ」1615年。

ヨセフの物語(Mさん
 

 みなさんにもなじみの深い、旧約聖書の創世記に出てくる「ヨセフの物語」です。ここを読むとき、私は「塞翁が馬」→「goo国語辞書」の「塞翁が馬」参照「禍福はあざなえる縄のごとし」→「goo国語辞書」の「禍福は糾える縄の如し」参照の故事やことわざを思い出します。

 ヨセフはヤコブの11番目の息子として生まれ→「聖書の舞台(人物・組織)」のあ行「イスラエルの民」参照、父ヤコブに寵愛されていましたが、そのために兄たちには妬まれていました。ある時、ヨセフは「兄たちが自分の家来になる」という、自分が見た夢を無邪気に語ったことで兄たちの怒りを買い、殺されかけました。しかし、ひとりの兄の発案で「殺すよりも売った方がいい」ということになりイシュマエル人に売られ、エジプトに奴隷として連れて行かれました。エジプト王(ファラオ)の侍従長であったボティファルの家に売られたヨセフは、主人に可愛がられ、その家の全財産の管理を任せられるぐらいまでに信頼されました。しかし、ポティファルの妻から誘惑を受けたとき「どうして、そのような大きな悪事をして、神に対して罪を犯すことができるでしょうか。」(創世記39章9節)と拒絶しました。ヨセフに拒まれた妻は「私が声をあげて叫んだので、あの男は私のそばに上着を残して、外に逃げました。」(39:18)と夫に言い、その讒言に怒ったポティファルはヨセフを投獄します。しかし獄中でも、「主がヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。」(39:21)のです。

 ヨセフが入った監獄には、ミスを犯したファラオの献酌官と調理官が投獄されていました。二人は同じ夜にそれぞれ夢を見るのですが、その夢の解き明かしをヨセフがしました。献酌官はヨセフの夢の解き明かしのとおり三日目に元の地位に戻ることができ、一方の調理官はファラオの命で木につるされて命を落としました。元の地位に戻ることになった献酌官に、ヨセフは「あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください。私のことをファラオに話して、この家から私が出られるように、私に恵みを施してください。」(39:14)と頼みますが、彼はそのことを思い出さず、ヨセフのことをすっかり忘れ去ってしまいます。

 それから二年の月日が流れ、ファラオは不思議な夢を見ます。その時、かつて一緒に投獄されていた献酌官はヨセフのことを思い出し、ファラオにヨセフによる夢の解き明かしを進言します。ヨセフが夢の解き明かしをすると、ファラオはヨセフの忠告を受け入れます。そして、ヨセフに神様がついていることを確信し、これから起こるであろう飢饉への備えを万全にするため、ヨセフにエジプトの全土の支配の代行を任せました。このころヨセフは妻を迎え、二人の子どもに恵まれます。彼は、その子らをマナセ(「神が、私の労苦と、私の父の家のすれてのことを忘れさせてくださった」から「忘れる」という意味で)とエフライム(「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」から「実る」という意味で)と名づけました。飢饉は全世界に及び、世界中の人々がエジプトのヨセフのところへ食べ物を買いにやってくるようになりました。

 ヨセフの兄たちも、やはり穀物を買い求めてエジプトに向かいました。このとき、父ヤコブは、末子でヨセフの弟であるベニヤミン(この二人は母を同じくします)だけは手元に残し、残りの十人の兄弟をエジプトに向かわせました。エジプトの事実上の支配者となったヨセフは、かつて彼を売った兄たちと再会しますが、この時は自分が何者なのかを明かさず冷たくあしらいます。ヨセフは、兄たちのうち一人をエジプトに監禁して、末の弟ベニヤミンを連れて来ることを条件に他の兄弟を解放しました。その際、穀物を満たし持参した銀をそれぞれの袋に帰して家族のもとに帰らせましたので、彼らはエジプトの支配者(実は身分を明かしていないヨセフ)に濡れ衣を着せられてしまうと恐れてしまいました。さらに父ヤコブは、兄弟たちから事の成り行きを聞き、死んでしまった(とされてしまった)ヨセフの次にかわいがっていたベニヤミンを連れて来いという、エジプトの支配者(ヨセフ)の無理難題に当惑し、反対しました。だが飢饉がひどくなって再び穀物が枯渇すると、父ヤコブは、とうとうベニヤミンをともなってエジプトに行くことを許します。ヨセフは、とうとう愛する実弟ベニヤミンに再開することができたのです。

 しかし、ベニヤミンと離れ難かったヨセフは、自分の家の管理者(執事)に命じてベニヤミンの袋に銀の盃を忍ばせました。そうしておいて、帰途についた兄弟たちを追撃して盗難の難癖をつけ、そんなことはないと平謝りに謝る兄弟たちに荷物検査を持ちかけ、「それが見つかった者は私の奴隷とし、ほかの者は無罪としよう。」(44:10)と提案します。ベニヤミンを連れ去られた兄弟たちは町へ引き返し、ヨセフに面会を求めます。そして兄の一人がヨセフに土下座をし、どんなに父が末の弟を愛しているか。そして過去に父の愛した別の弟(ヨセフのこと)を死んだことにしてどんなに父を嘆かせてしまったのか。だから自分を代わりに奴隷にしてもいい、弟を解放してほしいと訴えたのです。この兄こそ、かつて「さあ、ヨセフをイシュマル人に売ろう。」(37:27)と提案した兄ユダだったのです。

 感極まったヨセフは兄たちを近くに寄せて顔を見せ、ついに自分のことを明かしました。そして、これまでのいきさつを話したのです。彼は兄弟たちにこう言いました。「神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。」(45:5)、「ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。」(45:8)。ヨセフは、兄たちから受けたひどい仕打ちも、自分が受けた数々の試練も、実は神様が多くの人を救うためのご計画の一部だったことがわかったのです。こうしてヨセフは、父ヤコブたちの家族を自分のもとに呼び寄せ、ヤコブは一族を連れて神様の祝福のもと、エジプトで移り住み平安のうちに余生を過ごしました。

 みなさんは、この波乱万丈なヨセフの人生をどのようにおもわれますか。「兄たちが自分の家来になる」と言う夢の解き明かしを無邪気に語っていたヨセフは、様々な出来事を通して成長して、神様の祝福のもと大いなる業を成し遂げました。そんなヨセフの人生に学ぶ点が多いと思います。私たちの人生においても、ある日奈落の底に突き落とされたような、孤独で苦しく絶望的な状況に陥って茫然自失となることがあるかもしれません。しかし「ヨセフの物語」を通して、試練や誘惑を経て、徐々に物事が好転していくことを見ることができました。主が必ずともにいてくださり、導いてくださることを信じましょう。良いことの後に悪いことが起きても、決して悲嘆せず恐れずに、神様のみこころを信じて、神様にお委ねしていきたいと思います。そして人生を振り返った時に、主が何時どんな時も導いてくださったことに感謝できるものでありたいと思います。

参考絵画

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ペーター・フォン・コルネリウス「​兄弟たちと再会するヨセフ」(1816年)

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創世記39章23節

それは、主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからです。

創世記42章18節

私も神を恐れる者だから。

創世記45章8節

ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。

ルツ記(Mさん
 

 今回は「ルツ記」のお話です。まず、あらすじをお話ししましょう。

 国に飢饉が起こったのでベツレヘムからモアブに移ったある夫婦と二人の息子。しかし、やがて妻のナオミは、夫と二人の息子に先立たれてしまいます。ナオミは、二人の嫁を里に帰そうとします。一人の嫁は去っていきましたが、もう一人の嫁ルツは姑ナオミのそばを離れようとせず、二人は一緒にベツレヘムに戻りました。ルツは残りの人生を、異国で未亡人として生きることを決断したのです→「旧約聖書を読んでみよう」の「ナオミ」参照

 この時のナオミの嘆きです。「私をナオミ(=「楽しむ」の意味)と呼ばないで、マラ(=「苦しむ」の意味)と呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。(中略)全能者が私を辛い目にあわせられたというのに。」(ルツ記1章20~21節)

 ベツレヘムには亡き夫の親戚ボアズがいました。ルツは、糧を得るため畑に落穂ひろいに行くことをナオミに願い出ましたが、行った先は偶然にもボアズの畑でした。自分の故郷を離れ姑のナオミに尽くすルツの人柄を見たボアズは、彼女にあたたかく親切にしました。ナオミは、自分に尽くしてくれるルツが幸せになれるよう、身の落ち着くところを探してあげなければと思い、彼女にある提案をします。親戚としての保護をボアズに求めるようルツに教えたのです。ルツは「おっしゃることは、みないたします。」(ルツ記3章5節)と、ナオミの言葉に素直に従いました。ボアズは、何とかルツの願いをかなえようと、まず自分よりも買戻しの権利→「聖書の舞台(生活・習慣)」のか行「買い戻しの権利」参照を持つ親戚に声をかけ、正式な手続きを踏んでルツの身の上を善処しようとしました。しかし、その親戚に断られたので、代わってボアズがその役を引き受け、ルツを自分の嫁に迎えました。やがて二人の間にオベデが生まれ、子孫はエッサイ、ダビデと続きます。ルツやボアズが、イエス様の祖先のひとりとして数えられることは意味深いものがありますね。

 今回、ルツ記を読み直してみて、あらためてナオミに向けられた神様のご愛、祝福を感じました。愛する家族と死別して孤独の中にあったナオミでした。人生には理不尽なことや突然の別れ、世界が180度変わってしまうような辛く悲しい出来事に遭遇することがあります。そんな中でルツは、自分のしあわせよりもナオミとともに歩むことを決意しました。神様は、そんな二人に目を向けられて素晴らしい神様の御業に導かれました。一見、神様から遠くに見放されたかのように見えたナオミでしたが、決してそうではありませんでした。ルツがナオミを、またナオミがルツを想う心のやさしさや美しさだけでなく、生きるための知恵、そして何より様々な偶然を用意して祝福に導いてくださった神様のお働きには目をみはるものがあります。「あなたの覆いを、あなたのはしための上に広げてください。」(ルツ記3章9節)…ルツがボアズにひれ伏して祈る姿が美しいですね。「主は生きておられます。」(ルツ記3章13節)…ボアズの返事は、それに対する神様のみことばのようです。

 いつ、どんな時にも、たとえ最悪の状況に陥ったとしても、神様がそばにいて下さり導き、私たちをあわれんでくださいます。私たちもまた、それらの状況を決して悲嘆せずに神様に祈り、すべてをお委ねすることができますように。

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ニコラス・プッサン「夏(ルツとボアズ)」(部分)1660年。

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​創世記50章20節

神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。

エレミア記29章11~13節

わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている―主のことば―。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。

​ルツ記2章20節

生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまない主が、その方を祝福されますように。

 
召天者記念礼拝・記念会(Mさん

 毎年11月の最初の日曜日、教会では先に天に召された方々を覚えつつ礼拝をします。また、礼拝後に教会墓地等で墓前礼拝をします。亡くなられた兄弟姉妹たちの写真を飾り、牧師先生のお祈りや、遺族、信徒の方々の思い出話を通して故人を追悼します。

 参考までに教会の葬儀についてふれますと、進め方は次の通りです。

 ①納棺式(出棺式)、②前夜式、③葬儀(告別式)、④火葬前式、⑤埋葬式、⑥記念会

 火葬を葬式の前に行うか、後に行うかは、その時の遺族や教会の状況で変わります。記念会も何日後にするかは、特に決まりはありません。教会では、亡くなられた方が未信者でも、喪主がクリスチャンであれば葬儀をしてもらえることもあります。また未信者であっても、本人の希望により教会で葬儀をしてほしい場合は、教会の牧師先生に相談されるとよいでしょう。

 いつの日か「死」は、まさに万人にやってきます。自分の最期がどうありたいか、召天者記念礼拝や記念会がそのことを考える機会になればと思います。信者の方は万一の備えとして「氏名」「生年月日」「受洗年月日」「所属教会や受洗した牧師先生」「愛唱讃美歌」「愛誦聖句」「信仰歴やあかし」などを記し、牧師先生に前もって預けておくとよいでしょう。

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​伝道者の書3章1~2節

すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。

詩編90編1~15節

主よ 代々にわたって あなたは私たちの住まいです。山々が生まれる前から 地と世界を あなたが生み出す前から とこしえからとこしえまで あなたは神です。あなたは人をちりに帰らせます。「人の子らよ 帰れ」と言われます。まことに あなたの目には 千年も 昨日のように過ぎ去り 夜回りのひと時ほどです。あなたが押し流すと 人は眠りに落ちます。朝には 草のように消えています。朝 花を咲かせても 移ろい 夕べには しおれて枯れています。私たちはあなたの御怒りによって消え失せ あなたの憤りにおじ惑います。あなたは私たちの咎を御前に 私たちの秘め事を 御顔の光の中に置かれます。私たちのすべての日は あなたの激しい怒りの中に消え去り 私たちは 自分の齢を 一息のように終わらせます。私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは 労苦と災いです。瞬く間に時は過ぎ 私たちは飛び去ります。だれが御怒りの力を あなたの激しい怒りの力を知っているのでしょうか。ふさわしい恐れを持つほどに。どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに 知恵の心を得させてください。帰ってきてください。主よ いつまでなのですか。あなたのしもべたちを あわれんでください。朝ごとに あなたの恵みで私たちを満ちたらせてください。私たちのすべての日に 喜び歌い 楽しむことができるように。どうか喜ばせてください。私たちが 苦しめられた日々と わざわいにあった年月に応じて。

ヨナ書(Mさん
 

今回は旧約聖書の「ヨナ書」のお話です。

 神様からニネベ(敵地アッシリアの首都)と言う街に行き、彼らの悪=罪を指摘して神様のことばを語るように命令されたヨナ。しかし、行きたくないヨナは、ニネベとは逆方向のタルシュ行きの船に乗り込みます。船はやがて嵐になり、難破しそうになりました。この原因が神様の意に背いたヨナにあることを知った船員たちは、嵐を鎮めるためにヨナを海に投げ込みました。

 嵐はおさまりましたが、ヨナは神様によって大きな魚に飲み込まれ、三日三晩、魚の腹の中に閉じ込められました。ヨナは魚の腹の中で神様への悔い改めの祈りを捧げ、神様はヨナを魚の腹から出してくださいました。

 そんなヨナに、ニネベに行って神様のことばを告げるようにとの神様の命令がありました。神様は「あと四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と予言するのです。ヨナは、その神様のことばをニネベの人々に伝えたのですが、ニネベの人々はヨナの語る神様のことばを信じて悔い改め、悪の道から立ち返ったため、神様はニネベの街に災いを下すことを思いとどまられました。しかし、ヨナはこれが面白くなかったのです。ニネベは、ヨナたちイスラエルの民の敵国アッシリアの首都ですから、そのまま滅べばよかったのにと思い、神様にあたりました。もし四十日以内にニネベが滅びなかったら、自分は神様に逆らって神様のことばを誤って伝えたと思われますから「生きているより死にたい」とまで言い放ちました。そんなヨナに、神様は一本のとうごまの木を与え、その木でたとえ話をして、神様がいかにニネベの街や人を愛しておられるか告げたのです。神様がイスラエルの敵であるニネベの街の人々さえ愛しておられることを知ったヨナは、神様の愛がどれほど多くの人々に向けられておられるのかを知ったのです。

 ヨナにとって、神様から命じられた敵国の首都ニネベを助けるためのことばを伝える役目は、実に行きたくない、逃げ出したいようなことがらだったことでしょう。私たちにもそんな経験がいっぱいありますよね。私たちも「これさえなかったら…」「できれば通りたくない…」という思いをすること、いっぱいありますよね。そんな時、ついつい神様よりも自分の思いを優先させたくなります。私たちは、そこで逃げ出さずに神様に従う道を選べるでしょうか。それとも、ヨナのようにささやかな抵抗を試みるのでしょうか。試練に立ち向かうことを通して、神様は私たちを鍛えようとしておられます。その先に神様の栄光が著されるのです。

 神様から逃げ出したり、大嫌いなニネベの人たちが速やかに回心したことを内心面白くないと神様にあたったりするヨナは、実に人間的で、とても親しみやすい部分がありますね。私たち自身の弱い部分を見せられているみたいです。だからこそ、とても身近に感じられるのかもしれません。

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​藤本四郎『魚に飲み込まれたヨナ』日本聖書協会、2009年

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ヨナ書2章7節

私のたましいが私のうちで衰え果てたとき、私はを思い出しました。

ヨナ書2章9節

しかし私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえを捧げます。私の誓いを果たします。救いはのものです。

ピリピ人への手紙2章13~14節

神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。

サムソンとデリラ(Mさん
 

 今回は、士師記13~16章にある「サムソンとデリラ」のお話です。

 神様の使いがマノアとその妻に現れ、男子が生まれることを予告します、生まれたこの名はサムソン。ナジル人(神様の特別に聖別された人)であり、イスラエルをペリシテ人から救うと預言されました。同時に、その子の頭に剃刀を当ててはならないと注意されていました。

 神様に祝福されつつ成長した彼は、神様の導きによって宿敵のペリシテ人の娘と結婚することになりました。これはサムソンがペリシテ人の中に入り込み、彼らを滅ぼすためでした→「聖書の舞台(生活・習慣)」のか行「カナン人の宗教」参照。ペリシテ人もこのような習慣を持っていた)。サムソンの身に危機が迫る時、何度も「主の霊が激しく彼の上に下った」と聖書に書かれていますが、神様は常に彼とともにいてくださったのです。

 ペリシテ人たちは、遊女デリラを使って何とかしてサムソンを油断させようとします。そのデリラの執拗な問いに負けて、ついに彼は怪力の秘密を話してしまいます。サムソンは、髪の毛がそり落とされたら力が失われて弱くなってしまうことをデリラに教えてしまいました。その結果、彼は捕らえられて両眼をえぐられ、足枷をかけられ、牢屋で臼をひかされるどん底の生活になったのです。その後、デリラによってそり落とされたサムソンの髪の毛は再び伸びはじめたころ、再び神様に祈ったところ最後に力を取り戻し、最後にはペリシテ人の神殿を破壊して三千人もの敵を巻き添えにする活躍をし、自らも一緒に死んで一生を終えました。

 聖書は、髪の毛が伸びていたころのサムソンが、「ろばのあご骨で、千人を撃ち殺した」(士師記15:16)と記しています。こんなことは普通には考えられないことですが、彼は神様が与えてくださった真新しいあごの骨をもって主の栄光を現わしました。私たちも神様が与えてくださるものを喜んで用いることのできるものでありたいです。しかし、デリラの膝枕で寝ている時に髪の毛をそられた後のサムソンは、「彼の力は彼を離れた」(士師記16:19)ため普通の人になってしまいました。でも彼は「主が自分から離れたことを知らなかった」(士師記16:20)のです。そしてサムソンは、捉えられて惨めな境遇になったのは先ほど話した通りです。神様からの賜物がなければ、私たちもただの人です。自分に備わったものが当たり前のものではありません。神様の愛と慈しみによって、私たちが生かされていることにあらためて感謝したいですね。

参考絵画

ダイク「サムソンの捕縛」美術史美術館(ウィーン)、1628~1630年。

ルーベンス「サムソンを策略するデリラ」ナショナルギャラリー(ロンドン)、1609年。

レンブランド「目をえぐられるサムソン」シュテーデル美術館(フランクフルト)、1636年。

​映画やオペラにもなっています。ご興味のある方はぜひご覧になってください。

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セシル・デミル監督

映画「サムソンとデリラ」1949年

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士師記13章24節

この女は男の子を生み、その子をサムソンと名づけた。その子は大きくなり、主は彼を祝福された。

士師記15章16節

サムソンは言った。「ろばのあごの骨で、山と積み上げた。ろばのあごの骨で、千人を撃ち殺した。」

士師記16章28節

サムソンは主を呼び求めていった。「神、主よ。どうか私に心を留めてください。ああ神よ。どうか、もう一度だけ私を強めてください。

ノアの箱舟(Mさん
 

 今回は皆さんにもなじみの深い「ノアの箱舟」のお話です。およそのあらすじは次の通りです。(創世記6~8章)

 人が大地に増えはじめると同時に人の悪が増大し、神様の前に堕落したので、神様は悔やみました。そこで神様はそんな人間たちを滅ぼそうとなさいましたが、神様の心にかなっていたノアだけがその災いから救われ、逃げることができました。

 ノアは神様から、箱舟を作るように命じられました。そしてノアの家族全員と、すべての生き物の中からそれぞれつがいで二匹ずつ(動物によっては七つがいずつ→創世記7章2節)連れて船に入るように命じられました。神様は四十日四十や大雨を降らせ、作られた生き物すべてを消し去りました。その後も百五十日間、水は地表を覆い続け、その後、減少していきました。の母箱舟の窓を開いて鳩を放ったところ、その鳩はオリーブの若葉をくわえて戻り、それによってノアは水が引いたことを知ります。こうして、ノアと箱舟にいたものだけが生き残ったのでした。

 この箇所を読むと、ただ神様の御言葉に従いわき目もふらずに巨大な箱舟を建築したノアの信仰心にまず目が行きます。ノアが箱舟に入り終わった時、神様が箱舟の扉を閉めました。ノアは閉じ込められたことにより、長時間船内にとどまらなければならず、ただ神様の約束を待ち望むしかありませんでした。どんなに不安で孤独なことだったでしょう。いつになったら船から出られるのか、本当に出られるのかわからないまま時を過ごすのです。それは信仰の試みであり、このことを通してノアは、ひたすら神様を信じ待ち望むことの大切さを教えられます。しかし、そんな時も神様はノアとともにおられ、その不安や孤独をやわらげ、癒し、平和を与えてくださっていたに違いありません。

 私たちは、早く結果を欲しがります。しかし神様は、しかるべき時が来るまで耐え忍ぶことを学ばせてくださる方なのです。神様を疑い、信じられなくなる時もあることでしょう。しかし、そんな時こそ神様の御言葉に生き、待ち望む者でありたいですね。

参考絵画

ミケランジェロ「ノアの洪水(システィーナ礼拝堂天井画部分)」システィーナ礼拝堂(バチカン)、1512年。

ミレイ「箱舟への鳩の帰還」アッシュモーリアン美術館(英オックスフォード)、1851年。​

ドレ「ノアの箱舟」アッシュモーリアン美術館(英オックスフォード)、1851年。​

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日本聖書協会・藤本四郎『ノアのはこぶね』日本聖書協会、2009年。

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​創世記6章22節

​ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。

​創世記7章16節

入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であった。それらは、神がノアに命じられたとおりに入った。それから、は彼のうしろの戸を閉ざされた。

創世記8章1節

神は、ノアと、彼とともに箱舟の中にいた、すべての獣およびすべての家畜を覚えておられた。

ソロモンの知恵(Mさん
 

箴言、伝道者の書、雅歌を書いたとされるソロモン。

「ソロモンは三千の箴言を語り、彼の歌は千五百首もあった。」(列王記第一4章32節)

 

今回は旧約聖書からそのソロモンの知恵と判断の有名な箇所を見てみます。

 

「神は彼に仰せられた。『あなたがこのことを願い、自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、あなたの敵のいのちさえ願わず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を願ったので、見よ、わたしはあなたが言ったとおりにする。見よ、わたしはあなたに、知恵と判断の心を与える。あなたより前に、あなたのような者はなく、あなたの後に、あなたのような者は起こらない。」(列王記第一3章11~12節)

 「そのころ、二人の遊女が王のところに来て、その前に立った。

 その一人が言った。『わが君、お願いがございます。実は、私とこの女には同じ家に住んでいますが、私はこの女と一緒に家にいるとき、子を産みました。私が子を産んで三日たつと、この女も子を産みました。家には私たちのほか、だれも一緒にいた者はなく、私たち二人だけが家にいました。ところが、夜の間に、この女の産んだ子が死にました。この女が自分の子の上に伏したからです。この女は夜中に起きて、このはしためが眠っている間に、私のそばから私の子を取って自分の横に寝かせ、死んだ自分の子を私の懐に寝かせました。朝、私が子供に乳を飲ませようとして起きると、どうでしょう、その子は死んでいるではありませんか。朝、その子をよく見てみると、なんとまあ、その子は私が生んだ子ではありませんでした。』

 すると、もう一人の女が言った。『いいえ、生きているのが私の子で、死んでいるのがあなたの子です。』先の女は言った。『いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子です。』女たちは王の前で言い合った。

 そこで王は言った。『一人は「生きているのが私の子で、死んだのがあなたの子だ」と言い、また、もう一人は「死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子だ」と言う。』王が『剣をここに持って来なさい』と言ったので、剣が王の目に差し出された。

 王は言った。『生きている子を二つに切り分け、半分をこちらに、もう半分をそちらに与えよ。』すると生きている子の母親は、自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てて言った。『わが君、お願いです。どうか、その生きている子をあの女にお与えください。決してその子を殺さないでください。』しかしもう一人の女は、『それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください』と言った。そこで王は宣告を下して言った。『生きている子を初めのほうの女に与えよ。決してその子を殺してはならない。彼女がその子の母親である。』

 全イスラエルは、王が下したさばきを聞いて、王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。」(列王記第一3章16~28節)

 「神はソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心を与えられた。」(列王記第一4章29節)

 

 「彼の知恵のうわさを聞いた世界のすべての王たちのもとから、あらゆる国の人々が、ソロモンの知恵を聞くためにやってきた。」(列王記第一4章33節)

 子どもの命を救うため、とっさに身を引く決意をした実の母親。素晴しいさばきをされたソロモンによって本当の母親がどちらか、明白になります。現代では、幼い子が実の両親に虐待され命を落としたというニュースに、耳を疑い、言葉を失います。命の尊さを何と思っているのでしょう。なぜそんな痛ましい事件が起きるのか。私たちは、人間にとって大切な、愛や慈しみの心を育むことを忘れてはならないし、また、神様の教え、授かる知恵や勇気を身に着けて歩いていきたいものです。私たちは、神様から何を与えられて生きているでしょう。いつもみ言葉に聞き従う従順さを失わないように、そして与えられた賜物を十分に生かしていきたいと願っています。

 ニコラ・プッサンによる油彩画「ソロモンの審判」(ルーブル美術館)もご覧ください。対照的な双方の母親の表情がよく描かれています。

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​二コラ・プッサン「ソロモンの審判」1649年

父の日について(Mさん
 

◆起源◆

 父の日も母の日と同様、アメリカの教会で父母への感謝のために、その娘たちによって行われた記念会が発端です。ソナラ・スマート・ドットという女性は、自分の通う教会の牧師に頼み、母の亡き後ソナラと5人の兄を男てひとつで育ててくれた敬愛する父親に感謝する礼拝を、父の誕生月だった6月にしてもらいました。1909年6月19日(第三日曜日)のことです。その後数十年という年月を経て、リチャード・ニクソン大統領により、6月の第三日曜日が、アメリカの国民の祝日として定められました。

 「母の日」のシンボルフラワーがカーネーションなのに対し、「父の日」の花はバラです。母の日と同じように、父の日も、健在な父には赤いバラを送ります。ちなみにソナラのお父さんは、この時はすでに召されていたので、彼女は墓前に白いバラを供えたとか。

 日本では1981年、日本ファーザーズ・デイ委員会が「ベスト・ファーザー イエローリボン賞」という企画を展開し、イベント化され、黄色いバラや、黄色いリボンが巻かれたプレゼントが贈られるようになって一般化したようです。お花を贈るのであれば、バラのほかに、父の日のイメージカラーとなった黄色の「ひまわり」を贈るのも人気です。

 父の日には、お父さんに日頃の感謝を込めてプレゼントを贈ったり、感謝の言葉を伝えましょう。また亡くなられたお父さんへ、在りし日を偲んでお墓参りをされてはいかがでしょうか。

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(引用元:profoto)

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箴言4章1

子どもたちよ、父の訓戒に聞き従え。耳を傾け、悟りを得よ。

​出エジプト記20章12節

あなたの父と母を敬え。あなたの神、が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。

エペソ人への手紙6章4節

父たちよ。自分の子どもを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。

 
ペンテコステ(聖霊降臨記念日)(Mさん

 新約聖書の「使徒の働き」第二章には、ペンテコステの出来事が記されています。イエス様が十字架につき復活されてから50日目、すなわち五旬節(旬は10日と言う意味)の日に、イエス様を信じ心をひとつにして祈っていた弟子たちは、ご聖霊を受けました→「はじめての教会用語辞典」のま行「みちち・みこ・みたま(御父・御子・御霊)」参照。ペンテコステはその出来事を記念するキリスト教の祝祭日です。ペンテコステは宗派によっても異なりますが、復活祭から数えて50日目の日曜日、今年は5月31日になります(「イースター」が年によって違うため→「聖書の舞台(生活・習慣)」のあ行「イースター」参照)。

 この章では、私たちは「一緒に集まって御霊が注がれるのを待つ」と言う礼拝の活動や、また「他国のいろいろな言葉で神の御業を語る弟子たちの姿」に宣教(伝道)の使命を見出すことができます。罪を悔いてバプテスマ(→「はじめての教会用語辞典」のさ行「せんれい(洗礼)」参照)を受け、ご聖霊に満たされるようになるという約束は、神様が召された人なら誰でも与えられているます。また、神のみ言葉が与えられ、それに従うこともご聖霊の働きによるものなのです。

さらに、信者となった人々が一つになって必要に応じてものを分配したり、喜びと真心をもって食事をともにし、祈り賛美するという箇所から、私たちキリスト教の教会活動の原点が見えてくるのではないでしょうか。

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使徒の働き2章1~4節

 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろな言葉で話し始めた。

使徒の働き2章33節

​ ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。

関連する絵画を見たい方には、グレド・レーニ「聖霊降臨」(1606年・バチカン美術館)やエル・グレコ「聖霊降臨」(1605年・プラド美術館)をおススメします。

 
他の人のために(Mさん

 新型コロナウイルスの流行とともに、気が付くとマスクや消毒液がドラッグストアから姿を消し、なかなか買い求めることができなくなりました。手持ちのマスクは少し持ち合わせていましたが、なかなか手に入らないので不安を感じることがありました。そんな中、友人が手に入ったマスクを分けてくれたり、手作りしたものを教会のある姉妹がわけてくださったり、それは本当に感謝なことでした。

 例えば「あなたのこと、とても心配しているよ。思っているよ。」そう言われると嬉しいものです。なおかつ、言葉だけではなくそこに行動が伴って、相手に気持ちを表すことが出来たらどんなに素晴らしいことでしょう。言葉に行いが伴うときの愛の力は、人を幸せな気持ちにしてれます。幸せな気持ちになったその人が、今度は別の誰かに心を配れるといいですね。目には見えなくても大切なものがありますが、気持ちを形にして表すのも大事なことだと思うのです。

 自然災害時にいち早く駆け付け、様々な後片付けを手伝うボランティアの方々がいます。また災害時の避難生活の中で、少ない食べ物をさらに分け合って食べた経験のある方もいらっしゃるでしょう。しかし、そうしたいと思っても誰もが同じようにそうできるわけではなく、なかなか難しいことかもしれません。しかし自分だけがよければそれでよいのではなく、助けを必要としている周りの人にも優しい眼差しを向け、行動に移せるようにしたいものです。自分のできる範囲で無理なく。​

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ヨハネの手紙第一3章18節

子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。

箴言3章27~28節

あなたの手に善を行う力がある時、受けるべき者にそれを控えてはならない。

あなたに物があるとき、隣人に向かって、「帰って、また来なさい。明日あげよう」と言うな。

箴言11章24~25節

気前良く施して、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでかえって乏しくなる者がある。

おおらかな人は豊かにされ、他人を潤す人は自分も潤される

 
母の日について(Mさん

◆起源◆

 その起源は世界中で様々で日付も異なりますが、母の日は日頃の母の苦労をねぎらい、母への感謝を表す日です。中でもアメリカでは以下のアン・ジャービスへの教会での追悼にさかのぼり、5月の第二日曜日にお祝いし、日本もそれに倣っています。

 南北戦争中「母の仕事の日」と称し、敵味方を問わず負傷兵の衛生状態を改善するために、地域の女性を結束させたアン・ジャービスという女性がおりました。彼女の死後、その娘のアンナ・ジャービスは、亡き母親を偲び、母が日曜学校の教師をしていた教会で記念会をもち、白いカーネーションを贈ったのが、日本やアメリカでの母の日の起源とされています。

 今では一般的に、元気で生きておられるお母さんへ→赤いカーネーション( 花言葉は「愛情),亡くなられたお母さんへ→白いカーネーション( 花言葉は「尊敬」)を贈っているようです。(出典:フリー百科事典Wikipedia)

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「お母さんに感謝を伝える」と言っても、何らかの理由で感謝を伝えたい人は不在かもしれません。けれど今伝えることのできる人は、あなたの気持ちを伝えましょう。伝えたくとも不在のお母さんには、心の中で思いを馳せて、あらためて感謝の念を捧げましょう。いずれもお母さんへの深い愛情、尊敬をこめ、感謝をもって贈りたいですね。

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エペソ人への手紙6章1~3節

子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。

『あなたの父と母を敬え。』これは約束を伴う第一の戒めです。「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。

​申命記5章16節

あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じたとおりに。それは、あなたの日々が長く続くようにするため、また、あなたの神、主があなたに与えようとしているその土地で幸せになるためである。