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2026年04月~最新のメッセージ

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2026年5月10日「御父の愛のうちに」(ヨハネの手紙第一2:12~17)

 今日は母の日である。母の日は、日本では森永のキャンペーンで1937年からはじまった。一方、父の日は1981年からで、母の日からずいぶん遅れてである。商業主義で始まった日本の状況とは異なり、世界的にはどちらも教会から出て来たイベントである。

 今日は第一に「愛の源泉としての御父の愛」について見ていきたい。ヨハネは、ここで「子どもたち」(Ⅰヨハネ2:12)から語りかけているが、これは14節の「幼子たち」とはニュアンスが違い、年老いたヨハネから見た神の家族にあるすべての人である。「父なる神」と「神の子どもとされた私たち」の関係は「縦の関係」であるが、これは「主人と奴隷」とか「上司と部下」世にある主従関係とは異なる。ヨハネは、愛が注ぐ慈悲深い父と私たち、そして私たちの中の家族愛をヨハネは「愛の流れていく縦の関係」と捉えている。ヨハネは「あなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されたから」(2:12)、父なる神様の愛のもと、私たちは神の家族とされたと伝えたかった。さらに彼は、「父たち」(2:13)と呼び掛けている。彼は別に母を無視しているのではなく「信仰の先輩」という意味で、父なる神を知った方という意味である(2:13)。神様を「父」と呼べるのは、私たちの罪が贖われ、神様のご計画が明らかになった十字架以降の話で、旧約の時代の人はとても想像できないことであった。だが、父なる神様が一方的に子としてくださり贖いをしてくださった結果である。

 第二に「御父の愛に生かされることへの応答」について見ていきたい。次にヨハネは「若者たち」(2:13)「幼子たち」(2:14)と呼び掛けている。彼らは霊的な成長段階で、日々苦悩し弱さを感じながら成長し次世代の教会を担うそうである。たしかに彼らは日々の生活で失敗はするが、神様に受け入れられたことで、すでに「圧倒的な勝利者」(ローマ8:37)である。だから若者たちの戦いは「勝つか負けるか不安定な状態」ではなく、神様にあって圧倒的な勝利者であることを確かめるための鍛錬なのだという。さらに「幼子たち」は、神様によってすでに選ばれ、いずれ神様との関係を知るまでの訓練課程なのだと言っている(Ⅰヨハネ2:14)。だから私たちは、日々の試練の中で迷うのではなく、そのたびに「結果の保証された訓練」だと受け止め、神様の愛を再確認すべきなのである。

 第三に「世にとらわれない御父の愛」について見ていきたい。ヨハネは「あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません」(2:15)というのは、世を全否定しているわけではない。旧約の律法で定められた「清いもの」と「清くないもの」の垣根が取り払われ、十字架の贖いですべてのものが清くされた(使徒11:9)。しかし、それがクリスチャンの中に入るとき、汚れとして働くこともある(2:16)。私たちが神様との関係を見失い「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」(Ⅰヨハネ1:16)として捉えると、私たちの中に「清くないもの」「罪への道」として働いてしまう。だから「信仰は息苦しい」と感じる人もいる。神様によって清くされたすべての世のものを否定しないが「世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます」(2:17)という点を見上げながら、そこに軸会を置いた生き方をすることである。

2026/05/10

2026年5月3日「宥めのささげもの」(ヨハネの手紙第一2:1~11)

 連日、アメリカの「福音派」のことが取り上げられ、日本でも「福音派」について「理解できない頑固な人々」というイメージがマスコミで語られる。私たち教会も福音派ではあるが、アメリカのような政治的価値観や行動に対しては違和感を感じる。

 今日は第一に、「キリスト者のためにとりなしてくださる方」について見ていきたい。ヨハネは、この手紙の中心のテーマは「私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです」(Ⅰヨハネ2:1)だと書いている。罪は目に見えないが確実に存在し、それが入ると家庭や社会、そして社会全体を破壊してしまう。だが罪が当たり前にある社会では、それを自覚することはできない。しかしイエス様を信じ、みことばに耳を傾けるとき、見えざる罪を認識し自覚するようになる。だが、それは「罪を犯さなくなる」ことを意味するのではない。それでも罪にとらわれるのが人間である。だがヨハネは、そんな私たちに「私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます」(Ⅰヨハネ2:1)と語っている。「とりなしてくださる方」とは「弁護者(パラクレートス:παράκλητος)というが、人間の弁護士氏のように「罪を軽減する」存在ではなく、罪を真正面から受け止めて裁きを受け、そのことを持って断絶された神様と私たちと関係を「とりなし」てくださる存在である。

 第二に「宥めのささげ物としてのイエス様」について見ていきたい。ヨハネはイエス様を「この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけではなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です」(2:2)と説明している。この「宥めのささげ物」とは、「契約の箱の蓋」のことを指す。これは旧約聖書のレビ記を読むと分かり、大祭司のアロンが自分の罪の代わりに雄牛をほふり、その血を民のために雄やぎをほふり、「宥めの蓋」と呼ばれた契約の箱の蓋にふりかけた(レビ16:11-17)。私たちは「償い」は理解できるが「贖い」「宥め」はイメージしにくい。「贖い」「宥め」の主体は自分の側にあるのではなく、神様の側の「気持ち」にあり、神様の望む方法でなされる。そして、その広がりは自分自身だけでなく、罪に影響を受けた世界全体にまで広がる(Ⅰヨハネ2:2)。

 第三に「罪から解放された者としての応答」について見ていきたい。ヨハネは「もし私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることが分かります」(2:3)と書いている。罪から贖われた私たちは、神様とともに歩み、神様の命令に従って生きることになる。この「命令」とは、イエス様が命じられたように「互いに愛し合いなさい」という命令である。そして「神を知る」とは「神様の情報を蓄積する」ことではなく、「神様との関わり=信仰と応答を重ねる」ことである。だからヨハネは「神を知っていると言いながら、その命令を守っていない人は、偽り者であり、その人のうちに真理はありません」(2:4)と述べ、その反面「しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです」(2:5)と述べている。私たちは、イエス様の十字架で罪を贖われた神様の愛を受け止め、日々の生活の中でどう応答しているか、それが重要なのである。

2026/05/03

2026年4月26日「いのちの現れ」(ヨハネの手紙第一1:1~10)

 トルストイの『復活』という小説の冒頭に、いのちにあふれる春の様子を描いた描写がある。しかし、今、そのロシアの大地を戦車が走っているのは残念なことである。「ヨハネの福音書」と「ヨハネの手紙」は、神様は愛であるというテーマは共通している。

 今日は第一に「神のいのちの現れ」について見ていきたい。この手紙は「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」(Ⅰヨハネ1:1)からはじまり、恒例となったヨハネが、後輩たちに優しく語るように「いのちの現れ」について伝えている。この「初めからあったもの」(1:1)とは、神様が世界の「第一原因」であったことを述べ伝えている。そして、その宇宙全体の時間的、空間的広がりを、ちっぽけな「私たち」「自分の目」「自分の手」と対比し、その中にイエス様としてのいのちの現れを、事実としてしっかりと確かめたと述べている。そして、ヨハネは「いのちとしての神様」の現れを伝えようとしている。これまでは神様の思いを律法の中で受動的に感じる必要があったが、イエス様と共に過ごしみことばに触れるという能動的な関係の中で感じられるようになった。ヨハネは、この経験を自分だけの特別なものとして話しているのではなく、自分が生涯をかけて経験したものを読者も経験してほしいと願っている。

 第二に「交わりの中心としてのいのち」について見ていきたい。キリスト教信仰における「交わり」は「コイノニアκοινωνία」と言われ、「分かちあい」という意味もある。その中心は「父また御子イエス・キリストとの交わり」であり、このような「交わり」の中で、神様に対する喜びや感謝が生まれる(1:4)。人によっては人間関係に傷つき他人との交わりに臆病な方もいる。しかし教会における「交わり」は、人と人とのダイレクトな交わりではなく、神様の前にある「兄弟姉妹」であり「父また御子イエス・キリスト」の目を通した「交わり」である。たまに「神様と自分の関係だけで良い」という方もいるが、神様は教会の「交わり」。具体的には、利己的な祈りではなく、他人に対する「祈り」を通した「交わり」を求めている。「祈りたい」「祈って欲しい」という双方向性は、また自分自身を開放し神様にある関係性を深めていくことになる。

 第三に「交わりに欠かせない罪のきよめ」について見ていきたい。ヨハネは「私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです」(1:5)と述べている。コイノニアの「交わり」の中には、罪が入り込んではいけない。人間は神様から自由意思を与えられ、選択をすることができる。その自由意思の中で「神様に向かう方向へ選択する」か「神様から離れる方向の選択」かが、人生の意味を大きく変える。そして、ヨハネの言う「もし私たちが」(1:6)とは、ヨハネ自身を含めたすべての読者であり、罪が入る可能性はすべての人間にある。そのとき「自分には罪がない」(1:8)と言うか、それとも「自分の罪を告白するなら」(1:9)という選択をするかは重要である。そして真実で正しい神様を信頼し交わることで。神様の前における罪をきよめ、許される(1:9)ことが、どれほど大きな恵みであることだろうか。

2026/04/26

2026年4月19日「愛による献身」(ヨハネの福音書21:12~19)

 「松原湖畔にて朝イエスさまと出逢いました」からはじまる、山内修一さんの作詞作曲のゴスペルに「松原湖畔にて」という曲がある。今日の箇所は弟子たちが湖畔でイエス様にあったが、これは「三度目」(ヨハネ21:14)であった。

 今日は第一に「交わりの回復」について見ていきたい。イエス様は十字架の前に弟子たちと「最後の晩餐」をとられたが、この朝食は「闇と光」の対比の様に思える。「最後の晩餐」の直後に弟子たちは十字架につけられたイエス様から逃げ、関係は断絶した。だがイエス様は復活し、弟子たちの中に現れた。そして関係を壊した弟子たちを、「さあ、朝の食事をしなさい」(21:12)と、再び招かれた。朝の光の中に現れたイエス様の姿は一層輝いて見え、たしかな復活を感じさせるものだろう。しかし、その輝かしい姿のイエス様を前にして、イエス様を裏切った想いのある弟子たちの方は様々な罪の思いが頭をよぎったことだろう。特に「三度私を裏切る」と指摘され(13:38)、その通りになったペテロはいかばかりだっただろう。その弟子たちに「イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた」(21:13)のである。ペテロは、復活のイエス様の前に自らを恥じたものの(21:7)、十字架によって私の罪がたしかに許されたことを確信したからこそ、イエス様から食事を受け取り共に食べたのである。

 第二に「主への愛に対する問いかけ」について見ていきたい。弟子たちが食事を済ませたあと、イエス様はペテロに「わたしを愛していますか」と繰り返しなされた。この1,2回目の「愛」は、神様の無償で普遍的な愛である「アガペー(ἀγάπη)」を意味している。イエス様が「あなたはこの人たちが愛する以上に」(21:15)という問いは、ペテロの愛の大きさや卓越差を認めているのではなく、逆に他の人以上にひどい裏切りをしてしまって他の人以上に悔いているという意味である。だからこそ「罪が許された」という喜びや神様への感謝は他の人以上になっているというのである(ルカ7:47)。私たちも、負いきれない自分の罪の大きさに愕然とするとき、神様の愛の大きさが分かり感謝が生まれる。

 第三に「イエス様の愛に対するペテロの応答」について見ていきたい。イエスさアmの問いかけに対して、ペテロは「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」(ヨハネ21:15)と答えた。だが、この「愛」は友愛や友情といった人間的な愛「フィレオ―(φιλíα)」でしかない。だが、それでも自分の可能な全身全霊をかけて愛したいと、すべてをさらけだし「あなたがご存じです」(ヨハネ21:15)と述べている。このペテロに未熟な「子羊」たる人間を牧するように命じた。後にこの記事を書いたヨハネの目には、来たるべき「教会」が浮かんでいたのだろう。教会はイエス様が「わたしの子羊」(21:16)と責任を持ってくださる。イエス様は、さらに「ヨハネの子シモン」と正式名を持って呼ばれた。そして「牧しなさい」と、神様とともにある豊かな生き方へ導く役割を任された。さらにイエス様は三度問いかけたが、一度もペテロの裏切りを指摘しなかった。イエス様の三度の問いかけは「愛」を問いかけ続ける中で罪と愛を自覚する。ここから神様の用意された愛を基盤とした新しい時代がはじまる。ここに教会の原点がある。

2026/04/19

2026年4月12日「魂をすなどる働き」(ヨハネの福音書21:1~11)

 4月は移動の多い時期で、環境の変化によって新しい自分の環境を再認識することがある。十字架のあと、イエス様と弟子たちの関係性は新しい段階に入った。弟子たちは、イエス様と個別にたましいでつながることになる。

 今日は第一に「ガリラヤで漁師に復帰した弟子たちの行動」について見ていきたい。イエス様の復活は弟子たちにとって、たしかに衝撃だった。だが、その直後の彼らはまるで気が抜けたようになっていた。その後の生き方をどうするか分からず、弟子たちのうちの七人(ヨハネ21:1)は、ガリラヤに帰り漁師となった(21:3)。イエス様は、彼らを宣教の先兵として訓練を受けさせてきたはずだが、彼らにはその熱気が感じられなかった。だが漁師になった彼らは何も捕れず、生活に空虚さを感じていた(21:3)。そこにイエス様が現れた。だが彼らには、イエス様のことに気づかなかった(21:4)。弟子たちも私たちも、日常の生活の中で復活のイエス様とどうかかわるか、それが問われる。

 第二に「復活の主との出会い」について見ていきたい。私(牧師)自身が教会に行きはじめたときに「復活を信じる」ことがなかなか受け入れられなかった。どう考えても頭ではわからず、復活を信じている教会の人たちが信じられなかった。そんな私が復活を信じたのは突然ではなく、日常の生活の中でみことばに従っていくことで分かってきた。このときイエス様は弟子たちの集まっている所に現れ、約束通りガリラヤで弟子たちとお会いになった。このとき「イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった」(21:4)とある。その距離は「二百ペキス」(21:8)約90メートル離れていた。そこからイエス様は、舟の上の弟子たちに「食べる魚がありませんね」と声をかけられた(21:5)。彼らにとって「夜通し漁をして魚が捕れない」というのは、死活問題である。その現実を鋭く指摘されたわけである。その彼らにイエス様は「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます」(21:6)と声をかけ、そのことばに従うことでおびただしい魚が捕れた。ポイントは、イエス様が「彼らの日常に入ってこられたこと」、そして「みことばに従うことで大きな実りがあること」である。私たちも祈りの中で迷い、イエス様の姿が見えなくこともある。それでも祈り、みことばに耳を傾けて決断していくことが重要である。それを通して私たちは恵みと復活のイエス様に出会う。さらにペテロは、イエス様と出会ったときの大漁のこと、自分がイエス様を三度否定したこと、そのイエス様が会いに来てくださったことなど個人的な思いがよぎり、イエス様との新しい関係が築かれた。

 第三に「魂をすなどる働きへの召し」について見ていきたい。「こうして彼らは陸地に上がると、そこには炭火が起こされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた」(21:9)とあるが、イエス様が朝ごはんの準備をして待っておられた。一緒に食事をとることを、聖書は重視していると同時に非常に人間的な行為でもある。イエス様と魚を食べるという体験を通し、弟子たちは「あなたがたを人間を捕る漁師にしてあげよう」という、かつてのイエス様のことばを思い出し、自分たちの最初の使命を思い出したことだろう。そこには弟子たちのこれからの働きに対する、イエス様の励ましが感じられた。

2026/04/12

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