
いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中ですぐれているのは愛です。
仙台のぞみ教会
2026年07月~最新のメッセージ
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2026年9月20日「引き返した預言者」(列王記第一13:1~5、11~24)
敬老の日が近づいた。年齢が増すにつれて年を重ねること自体が重要なのでなく、人それぞれの寿命を大事にし、限られた時間の中で神様との関係をどう深めるかが重要である。今日の箇所には、老齢な預言者が反面教師のように描かれている。
今日は第一に「預言者による罪の啓示」について見ていきたい。ここでは二人の預言者が描かれている。一人の預言者がユダにやって来たとき「ヤロブアムは香をたくために祭壇のそばに立っていた」(Ⅰ預言者13:1)。ソロモン王やその息子レハブアム王の過酷な重税に対して、ヤロブアムは国を分かち国民の支持を得ていた。しかし、その根底には闇があり、金の子牛をつくり祭司でもないのに祭壇で儀式をしていた。そこに神様の命令によって預言者がやって来た(13:1)。預言者は、ヤロブアム王のやっていることを批判し神様が怒っていると話した(13:2-3)。しかしヤロブアム王は、その預言者を力で抑えようとしたが。その瞬間、伸ばした手がしなびてしまった(13:4)。そして預言どおりとなった(13:5)。ヤロブアム王は表面的に悔い改め、神様はその祈りを聞き入れた(13:6)。だが、聖書を読み進めるとこのときの悔い改めは人前で取り繕った一時的なもので、彼は本当の悔い改めをしていなかった。本当の悔い改めは神様の前に悔い改めることである。
第二に「この出来事を知った預言者」について見ていきたい。聖書は、ベテルに住む老預言者に「その息子たちが来て、その日、ベテルで神の人がしたことを残らず彼に話した。」(13:11)とある。この老預言者も神様に立てられた人物であったが、彼はヤロブアム王に何のアクションも起こしていなかった。だから彼は、先の預言者の行動を伝え聞いたとき、ヤロブアムを糾弾した預言者を追いかけて探した(13:12-13)。彼は先の預言者に対する称賛も、ヤロブアム王を追い詰めたことを非難したわけでもない。なぜ老預言者はこんなことをしたのか。この老預言者は、先の預言者が神様の命令によりヤロブアム王から、パンを食べることも水を飲むことも禁じられていたことも(13:8-9)、息子たちにすべて話を聞いていた。しかし彼はすぐに追いかけ、御使いから言われたと「私と一緒に家に来て、パンを食べてください」(13:15)と誘った。預言者が預言者たるのは、神様のことばに対する従順があるからである。だが老預言者は先の預言者をだまし、神様のことばに反させるように働いかけ、不従順だった自分のレベルに、先の預言者を引きずり降ろそうとした。私たちは常に「神様が何を求めておられるか」を見つめ続ける必要がある。
第三に「預言者の死と預言の成就」について見ていきたい。食事直後、あろうことか老預言者は神様の命令に従わなかった先の預言者を糾弾し(13:20-21)、さらに老預言者を通して語られた神様のことばが成就した(13:24)。老預言者はどんな人生を歩んできたのか。本来、神様のことばを聞いて伝えることが預言者であるが、彼は預言者の立場を利用してウソをついた。また先の預言者も老預言者にあったことが不幸だったのか。しかし彼は神様のことばにしたがうという根本的な部分を、人の言葉によって変質させ忘れてしまった。その結果は悲惨であった(13:24)。裁かれるのは老預言者の方ではないかと考えるかもしれないが、ここで重要なのは神様のことばの重さと真実性なのである。
2026年9月13日「人が造った神」(列王記第一12:25~33)
教団の国外宣教大会の講師の一人である柳沢正史氏が、先日、睡眠の研究でラスカー賞を受けた。もちろん彼はクリスチャンであるが、現代においては人間の活動が物理的化学的活動に置き換えられがちで、人間性の本質が見落とされがちである。
今日は第一に「人間中心主義がもたらす不信仰」について見ていきたい。今朝の箇所は、北イスラエル王国の王となったヤロブアムの話である。旧約聖書の時代、イスラエルという国は一人ひとりの民と神様との結びつきで成立していた。やがて、人間の都合でそこに偶像が持ち込まれ、神様との契約が断ち切られてきた。ヤロブアムは、もともと王家の出身ではなくソロモンに仕える忠臣であった。ソロモンの息子レハブアム王は民衆に厳しい政策をとろうとしたので、民衆はヤロブアムを担いでクーデターを成し遂げた。その結果、イスラエル王国はあっという間に南北に分裂してしまった。勢力的に見ると、ヤロブアムの北イスラエル王国は十氏族が合流して優勢であったが、優秀な官吏であったヤロブアムは、今の熱狂は一時的で、やがて民は主の宮のあるエルサレムに行きたがるのではないかと懸念した(Ⅰ列王記12:26-27)。ヤロブアムの自分と民との関係についての洞察は鋭かったが、彼は「自分自身が神様から離れる」点は考えなかった。
第二に「金の子牛を造ったおろかさ」について見ていきたい。ヤロブアムは彼は民衆を引き留めるために驚くような金の子牛を造って「もうエルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上った、あなたの神々がおられる」(12:28)と民に言った。金の子牛と言えば、モーセがシナイ山に上っている間に、不安になった民衆のためにアロンが造った逸話が思い出される(出エジプト32:4-5)。旧約聖書に親しんできたイスラエルの民ならば、この有名な逸話を思い出しそうなものであるが、この時代の民衆は礼拝をしながらその根本的な部分が伝わっていなかったのではないか。彼らは目に見えない神様ではなく、目に見える豪華な像に安心を覚えてしまった。ヤロブアムは、金の像を二つ造って自分の王国の南北に設置し、近い方に礼拝ができるようにした。このように自分の都合で神様を意のままにしようとしたこと、聖書はこれを大きな「罪」(Ⅰ列王記12:30)と断罪し、その後の聖書の中で何度も語っている。
第三に「偶像礼拝による王国の消滅」について見ていきたい。ヤロブアムがしたことは、イスラエルをエジプトから連れ出したときに、絶対にしてはいけないという「十戒」の中で警告したことであった(出エジプト20:2-5)。しかも、第一と第二の戒めである。偶像を心の中に持つということは、神様をないがしろにして心から追い出すことと同義である。偶像とは「神的なもの」だけでなく、お金や名誉、仕事、さまざまな技術なども含まれる。それによって「自分の人生は神様なしに成立する」と感じてしまう。だが私たちはそこに潜む罪を、神様の視点から見ていく必要がある。ヤロブアムは「見える神」「便利な場所にある高き所」「レビ人以外の祭司」「自分なりの儀式」など、自分としては便利な改革をしたと考えたのだろう。しかし彼は、神様との約束の中で礼拝が成立していたことを忘れ形式だけが残った。そこには神様と民を結ぶ信仰はなく、祝福もなくなった。
2026年9月6日「荷を軽くするくびき」(列王記第一12:1~15)
私たち日本人は「無常」という感性があり、変わりゆくものに価値を見出す。反対に「変わらないもの」「絶対的なもの」を疑ってしまう傾向がある。でもクリスチャンは、移り行く世界の背後に、神のことばという変わらない真理があることを理解している。
今日は第一に「信仰からの逸脱」について見ていきたい。人はこんな状況の中で救いを求めるが、間違った方向に救いを求めてしまうことがある。レハムアブはソロモンの息子にあたる。絶頂期だったソロモンの時代と違って、彼の治世にイスラエルは大きく変わった。今日の箇所に出てくるヤロブアム(Ⅰ列王記12:2)は、レハブアムに反乱を起こした人物で「列王記」「歴代誌」の中にたびたび出てくるが、「大悪人」と描写されておらず、むしろソロモン王に信頼された敏腕家として出てくる(11:28)。ただ神様は、ソロモンの不信仰に対して、彼を使ってイスラエルをさばかれた(11:35)。しかしソロモン側からすると「信頼していた側近の裏切り」に見えたため、暗殺を恐れてエジプトに逃げた。そしてソロモンの死後、人々はヤロブアムと連れてレハブアムのところに行った(12:3)。つまり新しい王と民の緊張関係を打開するために、民の代弁者として立てられたのがヤロブアムであった。たしかに民と王との問題は現実的には深刻なものだったが、そこばかりに目をやっていて、神様とダビデの間に結ばれた契約を見失っていた。
第二に「愚かさの中に備えられた救い」について見ていきたい。聖書は歴史が書かれているが、そこには「理不尽さ」があふれている。しかし聖書は、人間の愚かな歴史の中には、一貫して神様の意志とご計画が働いていることを訴えている。当時の民衆は、ソロモン王の課した労働に苦しめられていた。だから、それを軽くしてほしいとヤロブアムを代表に立てて訴えた(12:4)。その訴えは、人間的には妥当な条件であった。彼はまず、ソロモン王の時代から仕えていた長老たちに相談した(12:9)。長老たちは、民がソロモン王に歯向かった勢力の代表であるヤロブアムを代表に立ててきたことは、イスラエルの分裂の火種になると警戒し、その要求を受け入れる進言をした(12:7)。ただヤロブアム王は、自分が変わるのではなく民衆の方が変わるべきだと考えており、自分と同じ世代の取り巻きに相談した(12:9)。ヤロブアムと若い世代は、民衆が変わるべきだと考えた。それが後年のイスラエルの分裂につながった。
第三に「私のくびきを負われる主」について見ていきたい。この「くびき」(→くびき)についてはイエス様も語っているが(マタイ11:29)、ヤロブアムが「くびき」の話をしたのは偶然ではない。だがヤロブアムの方法で、本当に民は「くびき」から解放されたのか。イエス様は、私と一緒に「くびき」を負ってくださった。「くびき」は普通2頭の牛をつないで労役させるためにある。イエス様は、ヤロブアムのように力で打ち壊したのではなく。私とペアになって負ってくださった。私たちの「くびき」は、私たちの罪から来る「不安」「恐れ」などであり、人間の力で打ち壊せるものではない。人間の根本的な罪の問題は、イエス様の十字架の血と肉によってしか解決できないものである。今日の聖餐式にあたってそのことを再び認識したい。
2026年8月30日「」(列王記第一11:1~15)
ソロモンはダビデの信仰を引き継いでいたが、歳老いて偶像礼拝を繰り返してしてしまう。神様以上に愛するものが原因だった。
1. 御言葉との距離
御言葉をどのように聞くか、これがソロモンの人生を決定した。1節
「ソロモン王は、ファラオの娘のほかに多くの異国人の女、すなわちモアブ人の女、アンモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヒッタイト人の女を愛した」
若かったとき「ソロモンは主を愛した」(3:3)とある。ところが、この神への愛というが次第に人への愛にとり変わってしまった。御言葉を軽んじたことが霊的な判断力を蝕んだのである。2節
「この女たちは、主がかつてイスラエル人に、「あなたがたは彼らの中に入ってはならない。彼らをあなたがたの中に入れてもいけない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従がわせる」と言われた、その国々の者であった。しかし、ソロモンは彼女たちを愛して離れなかった」
2 偶像礼拝の危険
ソロモンは、大きな権力をもって国を統治し、繁栄の基礎を築くことができた。その努力の結果として、周辺の国々との紛争は止んだ。「700人の王妃としての妻と、300人の側女がいた」というのも、そうした面があると言えなくもない。ところが、その妻たちが、ソロモンの信仰の中核的な部分を欠落させた。4節
「ソロモンが歳をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々に向けたので、彼の心は父ダビデの心と違って、彼の神、主と一つになっていなかった。」
ソロモンは妻たちの誘いを拒絶できなかったのである。平静ならば間違いなく拒絶したであろうことを、歳をとったソロモンは愚かに実行してしまう。その弱さが露呈した理由は、神以上に女たちを愛してしまっていたこと以外にはない。
3 背信に対する神の取り扱い
神の怒りはストレートにソロモンに注がれるのではなかった。確かに神は、ソロモンがしたことに怒りを発している。9節10節
「神はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から離れたからである。主が二度も彼に現れ、このことについて、ほかの神々に従っていってはならないと命じておられたのに、彼が主の命令を守らなかったからである。」
しかしその裁きにおいてはダビデと主との間に結ばれた契約が前面に出ている。12節
「あなたの父ダビデに免じて、あなたが生きている間はそうしない。」
このことでソロモン自身が滅ぶことはなく、国が引き裂かれることは延期された。ダビデと結ばれていた契約の故に、罪の裁きは制限されたものにされたのである。
キリスト者が神の前に結ばれた契約も、キリストと御父との契約が優先されてのことである。自分自身だけをみれば、罪の大きさに絶望に陥ってしまうかもしれない。けれども神は、キリストによって結ばれた契約を私に適用してくださる。私たちは、この恵みによって新しく生きるのである。
2026年8月23日「ソロモンの切なる祈り」(列王記第一8:22~30)
現在の教会堂は、単立の教会の牧師が建てたものが、牧師がなくなって永い間無住となり、壊されようとしていたところを私たちの教会が導かれたという歴史があり。2002年の2月にこの場所で始めたが、そのときにこの箇所を読んだ。
今日は第一に「主のわざとして完成された祭壇」について見ていきたい。神殿建設は、ソロモンの父ダビデの願いであった。しかし「神殿」は、普通の住宅とは異なり、神様の契約と恵みがなければ建てられない。重要なのは神様のみこころがどこにあり、人々がそれをどう受けとめているのかが大切である。エジプトで奴隷として扱われていたイスラエルの人々は、エジプトを脱して荒野をさまよっていたが、外時彼らを支えていたのは「神様の契約・約束」であった。このときは「幕屋」という簡易的なテントを神殿としていた。定住後は十二部族の連合体として「神様を礼拝する」という点で一致を保っていた。そしてダビデ王の時代に王国として統一され国が安定すると、彼は「神殿を建設したい」という希望を持ってきた。ダビデは「自分だけ定住して家に住んでいるのに、神様だけが幕屋に住んでいるのはいかがなものか」と考えて神殿建設を提案したが、神様は、あなたの死後、あなたの子孫が神殿を建てると述べられた(Ⅰサムエル:7:12-13)。ダビデは、信仰をもってその約束にしたがった。その後、息子のソロモンがダビデの信仰を受け継ぎ、神殿を建てることとした。ソロモンは七年かけて神殿を築いた。だがソロモンは、父ダビデ同様、神殿建設を自分の手柄とはしなかった(Ⅰ列王8:24)。彼のように、自分ではなく「神様の導きと恵みによって」実現されたと受けとめることは重要である。
第二に「約束のことばへの信頼」について見ていきたい。選挙時の公約を当選後に変える政治家は多いが、神様の約束は決して揺らぐことはない。ダビデの治世とソロモンのころとは、ずいぶん社会状況が異なっていた。だが神殿建設は単なる建設ではなく「神様の約束の成就」なのである(8:26)。そこに神様の約束に対する信頼が再確認される。そもそもソロモンはダビデの四男でしかなかった。でも、そこには神様の計らいがあった。人はソロモンを、その知性や財力、彼の王国の隆盛を見ている。だが聖書は、神様との関係性において彼の生涯を見ている。王国の隆盛も衰退も、神様とソロモンとの関係性が揺らいだからだという。私たちもつねに信仰を揺るがされるような戦いがある。しかし、どんな時にも神様のことばに信頼を置くことが必要である。
第三に「祈りにおけるヘリ下りと自己認識」について見ていきたい。祈りは神様へのおねだりではない。ソロモンは地上に数多くある神々の宮とのちがいはよくわかっていて、「神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか」(8:27)とどこまでもへりくだって祈っている。幕屋や神殿は、神様が地上で栄光を表わそうとする恵みやあわれみであり、民が日常の中で信仰を見失わないための恵みや、その後にイエス様が人々の中に住まわれることのひな型でもあった。ソロモンは「実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません」(8:27)と、その本質を見抜いていた。そして、そこに神様に対する最大限の経緯がある。その経緯は、彼の考えらうる経緯を持って作られた神殿にも表れていた
2026年8月16日「祈りの祝福」(列王記第一3:3~14)
先日、つくば市で開催された当教団の世界戦教会に参加してきた。永年、参加していると世代交代を実感したが、時代が変わっても「宣教の教団」としての基盤は変わらなかった。このときのイスラエルも、王がダビデソロモンに代わった時期である。
今日は第一に「礼拝の意味」について見ていきたい。ソロモンは、ダビデの長子ではなかった。外敵も、国民も、兄弟も、ソロモンの王位継承を疑うものがいたし、まだ若く人生経験も浅かった。ソロモンが王になって初めて初めて神様に祈ったときの話である。聖書には「ソロモンは主を愛し、父ダビデの掟に歩んでいた」(Ⅰ列王記3:3)から説明を始めている。まず「ソロモンは主を愛していた」ことが第一で、「神様の掟にしたがって歩んでいた」ことが次に大切であった。当時、まだ神殿はなく、広い場所にある生贄をささげる盛り上がったところがあった。オープンな場所で聖なる場所であったので、さまざま異教の儀式も入り込むことがあった。このときソロモンは千匹の羊を全焼にしてささげた(3:4)。そこには神様へのソロモンの愛と献身が表れていたが、それほどの犠牲を献げても、新約聖書の時代のイエス様の十字架の犠牲とは比べ物にならないものだった。
第二に、「ソロモンに現れた神様の取り扱い」について見ていきたい。それでもソロモンに精一杯の献身に対して、神様は夢の中でソロモンに現れ「あなたに何を与えようか。願え」(3:5)と語りかけた。別に神様が「千匹の羊を献げよ」と言ったわけではないし、ソロモンがまだ未熟で異教的なものも混じっていたことをご存じだったが、神様を全力で慕う部分に応答されたのである。これに対してソロモンは「今あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし私は小さな子どもで、出入りする術を知りません。そのうえ、しもべは、あなたが選んだあなたの民の中にいます。あまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど大勢の民です。善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください」(3:7-9)と答えた。ここに神様に対する「畏れ」を見ることができる。彼は「自分の必要」ではなく、「神様の前に自分が求める必要」を見ていた。そして、そのように自分が変えられるように臨んだ。
第三に「御心のかなう祈りに対する祝福」について見ていきたい。このように自分が神様の御前に変えられることを望んだソロモンの願いが、神様のみこころにかなうものであった(3:10)。そして「善悪を判断」する力は、人間の道徳性ではなく、神様の範疇に入るものである(創世記2:9)。善悪の判断から離れた人間は効率性が上がるかもしれないが、神様から離れた生き方となる。「知恵者ソロモン」は、本人の資質よりも神様に求めたから生まれたと聖書は語っている。そして、その能力は、神様とともに歩む中で発揮される。神様は「見よ、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに、あなたのような者はなく、あなたの後に、あなたのような者は起こらない」(3:12)と言われた。私たちも礼拝の中で神様の語られたことを受け止め、それを求め、神様とともに歩んでいくことが必要である。
2026年8月9日「夢想と結末」(ユダの手紙1:1~8)
今日は長崎への原爆投から86年、8月15日に直前の日曜日なので仙台キリスト教連合の祈祷会もある。「平和をつくるものは幸いです」とイエス様が言うが、人間にとっては難しい。そこに人間の罪があるからである。だがイエス様は、その罪を贖われた。
今日は第一に「ユダの祈り」について見ていきたい。この手紙を書いた「ユダ」は、イエス様の兄弟の方のユダである(マタイ13:55)。だが「イエスの実弟」ではなく「イエス・キリストのしもべ」(ユダ1:1)との自己紹介から始めている。そして手紙の相手は「父なる神にあって愛され、イエス・キリストによって守られている、召された方々へ」(1:1)とだけある。どこそこの教会へという特定のあて先ではなく、見知らぬ多くの人々が集まっていた教会に、「神にあって愛され」「イエス様に守られ」「同じ様に神様に召された」人々という、暖かい目線で語りかけている。さらにユダは、さまざまな「欠け」のあるこの人々に、まず「あわれみとヘ平安と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられますように」(1:2)と祈っている。祈りとは神様に「ないものをねだる」のではなく、「与えられていることに感謝する」ことではないか。
第二に「この教会の中にある事情」について見ていきたい。ユダは「聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました」(1:3)と差し迫った問題があることを語った。一転、この人々を「聖徒たち」と呼び掛けているのは、「聖」とされた人々に全く異質の人々、つまり「不敬虔な者たちで、私たちの神の恵みを放縦に変え、唯一の支配者であり私たちの主であるイエス・キリストを否定」(1:4)する人々が、静かに入り込んで広がっていると指摘している。現代の新興宗教の中にもこの構造は多く見られ、人間の欲望が神様の掟に置き換わってしまっている。私たちは豊かに祝福された神様の愛があるからこそ生きており、よく見極める必要がある。
第三に「立て直されていく過程」について見ていきたい。ユダは「あなたがたはすべてのことをよく知っていますが、思い起こしてほしいのです。イエスは民をエジプトの地から救い出しましたが、その後、信じなかった者を滅ぼされました」(1:5)と書いてあるように、聖書をよく読んでたくさんの知識があったと考えられる。しかし聖書の知識そのものではなく、「みことばが、自分の抱えている現実の中でどのような意味を持っているのか」をしっかりと「思い起こしてほしい」と書いている。神様は「ご自分の民」と大切にしてきたイスラエルの民でさえ、「信じなかった者を滅ぼされました」そして「自分の領分を守らずに自分のいるべき所を捨てた御使いたち」を暗闇に閉じ込められたとある。私たちはイエス様の十字架によって罪許されたから「何をしてもいい」と勘違いしてはいけない。神様は「義」であり「さばかれる方」だということを、現実の生活の中で受け止めていく必要がある。神様は私たちを愛し贖われたが、御使いさえもさばかれ「ソドムやゴモラ」もさばかれた「義」の方であることを忘れてはいけない。アブラハムの甥ロトも「肉欲を追い求めたため」(1:7)さばかれた。このような例は聖書にたくさん書かれているから、そこから離れては見えなくなり、結末を刈り取ることになる。
2026年8月2日「神に愛を失わない日常」(ヨハネの手紙第二1:1~13)
先日、熊本を中心に大きな地震があった。前回のときは、同盟教団の九州の教会が一丸となって活動し、キリスト教として隣人愛を表した。ヨハネの手紙の第一も第二も同時期に成立したが、ヨハネは、愛が見えにくくなっていた当時の教会への危機感があった。
今日は第一に「真理としての愛」について見ていきたい。「長老から、選ばれた婦人とその子どもたちへ」(Ⅱヨハネ1:1)とあるが、これはもちろん人間的な愛ではなく神様の愛によるものである。さらに、このころギリシア哲学も「真理」を追究していたが、キリスト教のいう心理とは決定的に違う。ギリシア哲学の場合、頭の中で考えた論理であり、日々の生活のどう表していくかという発想はもたない。一方、キリスト教の場合、日々の生活の中において神様のみこころを求め証ししていく。私たちは日々の悩みや苦しみに直面すると、生活から離れたところに理想的な状態を求めてしまう。しかしヨハネの生涯においては、現実の中に神様の働きを見出して来た。神様が、イエス様が「恵みとあわれみと平安が、真理と愛のうちに、私たちととも」にあるというのが、彼の求める真実な状態なのである。「神がともにいる」というのが、私たちの救いであり希望なのである。
第二に「愛の命令と喜び」について見ていきたい。私たちは「誰かに命令される」という状態を嫌がり「自由」を求めがちである。しかし「従う」と「自由」は対立するのだろうか。「キリストの愛を知る」というのは「神様の命令にしたがう」ことなしにはあれない。つまり神様に対する深い信頼があれば、その命令を自分の生き方の中に見出していける。「御父から私たちが受けた命令の通りに、真理のうちを歩んでいる人たち」(1:4)「私たちが初めから持っていた命令」(1:5)とは、「私たちは互いに愛しあいましょう」というものだとヨハネは言っている。神様の愛に対する絶対的な信頼があれば、神様が私たちを愛したように「私たちは互いに愛しあいましょう」という命令は、どれほど私たちの人生を豊かにし自由にするものだろうか。神様の命令は私たちを奴隷的に従わせるものではなく、私たちの現実に関わって父として私たちをよりよく導くものである。神様の命令にしたがうことで、自分自身がよい方向に変えられ、その結果、神様を深く知ることになる。
第三に「気をつけるべき反キリストの動き」について見ていきたい。ヨハネは、このころ「イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない者たちが、大勢世に出て来た」(1:7)と警告している。彼らはイエス様のことばを曲解し、自分たちの都合に合わせて理解しようとしていた。本来、自分の弱さや間違いを認めて罪を告白することを、「現実の弱い自分から脱却して、より次元の高い存在にならなければ」と考える。魅力的な見解に見えるが、そもそも私たちの罪は大きすぎ本質的過ぎて自分たちの努力や気持ちの切り替えでなんとかできるものではない。でも当時、そんな「反キリスト」(1:7)的な考えが蔓延し、神様の豊かな報いを阻害している現状があった。神様の恵みを受けるには、私たちのどうしようもない罪を見つめ、イエス様の救いしか罪の贖いができないと心底告白することで、はじめて神様が私たちをどう扱かおうとしていらっしゃるのか、その愛の大きさに気づき、日々の生活に神様が働かれていることに気づく。
2026年7月26日「あなたに救いが来る」(ルカの福音書19:1~10)
人間は、「いくら話してもしょせん人は、分かり合えない」と孤独に感じることがある。しかしイエス様は飼葉桶で生まれ、最後は人に裏切られて十字架につけられた。そんな生涯を見るとき「この方ならわかってくれるかもしれない」と希望を見出す。
今日は第一に「この世の成功者の寂しい心」について考えていきたい。今日の聖書の箇所はエリコの街で、「するとそこに、ザアカイという名の人がいた。彼は取税人の頭で金持ちであった」(ルカ19:2)と書いてある。ザアカイは、この世の人間が求めている「有名になる」「自分がトップに立ちたい」「自分が金持ちになりたい」をすべて持っていた。しかしザアカイには人に言えない秘めたる思いがあった。8節には「だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します」(19:8)とある。一般には欲張りの取税人だと思われているザアカイだが、「だれかから脅し取らず」勤勉に忠実に仕事をして不正はしていなかったことが分かる。しかも「取税人の頭」ということは、それなりに有能で同僚の信任も厚かったことだろう。それでも人々からは、「ローマの取税人」だというだけで、「不正に蓄財した嫌な奴」とあらぬ軽蔑を受けていた。どれほど悔しい思いであっただろう。
第二にザアカイの行動を見ていきたい。そんなザアカイの街に噂のイエス・キリストがやってきた。心に忸怩たる思いを抱えていたザアカイは、心の救いを求めて「噂通りの男なのか、それともうわべだけの男だろうか」と会いに行った。しかし聖書は、「背が低かったので、群衆のために見ることができなかった」(19:3)とある。人々はザアカイを嫌っていて前にも出してもらえなかったのである。だからザアカイは、「それで、先の方に走っていき、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った」(10:4)とある。彼は子どもではない。社会的に地位のあった年齢のいった男である。だが「この人は、本当に自分の孤独を分かってくれるのだろうか」と世間体を顧みず、木に登ったのである。
第三に「キリストの救い」について見ていきたい。イエス様一行が近づいてくると、なんと神の子と評判のイエス様が、沿道いっぱいの群衆ではなく「ザアカイ、わたしはあなたの家に泊まるためにこの町にやってきたのだよ」とを名指しで声をかけられた。ザアカイは感動した。ザアカイを「罪人」と侮蔑していた人びとの目線と違って、イエス様はザアカイの心のうちにある信仰を見た。彼は「この人は私の心の中の思いをすべて分かってくださる」と確信し、「財産の半分を貧しい人に施す」そして「脅し取ったものがあれば、4倍にして返す」(19:8)と言った。ザアカイは、救いがあれば財産も地位もいないといったのである。そんなザアカイを、イエス様は「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから」(19:9)と本当に喜んでくださった。
私たちも「人に知られない自分」という存在がある。一緒に買い物に行ったり食事をしたりする人はいるが、心のうちを打ち明けられない。どんなに他人のために尽くしても理解されない。どんなに自分が努力しても誰も見てくれないと思い悩むときがある。でもイエス様は、そんな人を「見つけ出し」「救い出す」ために来られた。私たちの中にも「ザアカイ」さんがいる。でもイエス様は、必ず見つけてくださる。
2026年7月19「みこころにかなうもの」(ヨハネの手紙第一5:13~21)
写真の焦点同様に、キリスト教信仰も、神様のみこころにしっかり焦点をあわせることが大事である。ヨハネは手紙の最後に、「誰」とか「どこの教会」とは言わず「神の御子の名を信じているあなたがたに」、この手紙の目的を書いている(Ⅰヨハネ5:13)。
今日は第一に「神様の御心を求めるすばらしさ」について見ていきたい。私たちは、子どもが駄々をこねて泣いて要求するように、神様に祈っていないだろうか。ヨハネは「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださる」(5:14)と書いている。神様のみこころは何か、私たちに何を与えようとさせているかを考えなければならない。そのためには自我をおさえて、神様との関係を考え、それを求めているのが「祈り」である。そして、神様のみここにかなう祈りは聞いてくださるというのは、ヨハネの長い全生涯を通した「確信」なのである(5:14)。さらに「私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります」(5:15)と断言している。だから神様との関係を考えれば「今必要なものである」「待つべきものである」「別のよい道が用意されている」のどれかしかない。だから神様のみこころを考えれば、祈りは、もっともよいモノがもっとも良い時に与えられることが約束されているということになる。これがクリスチャンの確信である。
第二に「罪を犯した兄弟たちのためのとりなし」について見ていきたい。ヨハネは、この手紙の中で教会での「愛」について語って来た。彼は「祈りは必ずかなえられる確信」を語った後で、「罪を犯している教会の仲間」について語っている。私たちは「罪を犯している仲間」のためには、祈るのではなく、つい裁いてしまいがちになる。だがヨハネは、「罪を犯している仲間」は表面上平穏で、世にあってはうまくいっているかもしれない。だが、「神様から一時離れている」ことは「たましいの危機」であるので祈るべきである。それが教会の愛の交わりなのである。それでは「死に至らない罪」と「死に至る罪」とは何だろうか(5:16)。ヨハネは語っていないが、イエス様はそのことに言及してはいる(マタイ12:31)。だが「許される罪か許されない罪か」を心配したり人をさばいたりするのではなく、御使いに粘りに粘って許しを請うたアブラハムのように(創世記18:22-33)、イエス様の罪の許しを確信しどこまでもとりなしの祈りをすべきなのである。
第三に「神様に属している自覚」について見ていきたい。ヨハネは「神は愛です」(Ⅰヨハネ4:8)と繰り返し述べている。美しく広い世界が目を塞ぐ十円玉2枚で見えなくなるように、神様の愛がどれほど大きくても、私たちの心がわずかでも頑なであれば見えなくなってします。私たちは「神から生まれた者」であり、神様は「その人を守っておられ、悪い者はその人に触れることができない」(5:18)のである。多くのクリスチャンは、自分の人生が神様によって守られてきたという実感を持っているはずである。私たちが「神に属している」(5:19)こと以上に確実なものはない。一方「世全体は悪い者の支配下にある」(5:19)ので、私たちは常に「神に属している者」としての自覚をもって、神様に祈り求めていくべきなのである。
2026年7月12日「闇に打ち勝つ信仰」(ヨハネの手紙第一5:1~12)
先日会ったある牧師は、高校時代、陸上選手で名をはせていたが、遊んでいたトランポリンで失敗して脊髄を損傷して以来、車いす生活になった。トップの栄光を寸前でつかみ損ね絶望したが、その後の人生を見たときに何が勝利かと思ったという。
今日は第一に「神から生まれた者の勝利」について見ていきたい。ヨハネは「イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです」(Ⅰヨハネ5:1)と強調している。クリスチャンは、その人がどんな境遇でどんな人生を歩んできたとしても、「神から生まれた者」として「兄弟姉妹」という関係性をつくれる。これは「人類みな兄弟」という抽象的なキャッチフレーズとは異なる。神様が愛した人々であれば、そこにはすでに関係性があり、神への信仰を通じて愛の実践ができる。そして「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です」(5:3-4)とあるが、私たちは神様から与えられた「勝利」がある。世の中には競技、出世、お金での勝利などたくさんある。しかし、ここでの「勝利」は、人間が厳正でしゃにむに追求している勝利とは違う。このような勝利は、自分の人生で一瞬に過ぎ去るもので、人生の終わりに意味を見出せるものではない。高齢者施設で話を聞くと、多くの人は「自分の人生は若いときのままだと思ったが、こんな終わりは予想しなかった」という。一方、クリスチャンは決して翻ることのない神の愛に生き、実践する生涯が保証されている。それが「世に打ち勝つ」(5:5)ということで、過去の勝利が永遠に続くという文法が使われている。
第二に「勝利への証し」について見ていきたい。ヨハネは「世に打ち勝ったあなたがたが、頑張っていきなさい」とは言っていない。また信仰があれば何でも勝てるとも言っていない。勝利者は「イエス・キリスト」(5:6)であり、私たち自身の努力や栄光ではない。私たちがイエス様を救い主として告白したときに、御霊が与えられ、私たちの内側が清められ変えられた。そして私たちの中にイエス・キリストを位置づけ受け入れていくことが重要なのである。この「水と血によって」(5:6)とは、洗礼と十字架の犠牲だと思われるが、イエス様が私たちの罪の真ん中に来て私たちを清め御霊を与えてくださったという重要な認識を指していると考えられている。
第三に「キリスト者においての証し」について見ていきたい。キリスト教信仰は、宗教的知識を学び理解することで成立するのではない。自分の罪を自覚し、神様がイエス様の十字架のように自分たちが完全に清められたという神様の証しを受け入れる。それが重要なのである。そこには厳しい修行も学びもない。「もう少し理解し納得してから」という考えも違う。ただ「神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということ」(5:11)、そう証しする神様を受け入れる「決断」があるだけである。私たちが、神のみことばに真剣に向き合わなければ、神様の恵みを受け入れることはかなわない。それが、私たちが「いのちを持つか持たないか」という重要な分かれ目となる(5:12)。その重みを改めて噛みしめたい。
2026年7月5日「全き愛の強さ」(ヨハネの手紙第一4:13~21)
近年、世界で戦争が多発し、力こそ必要だと社会が考え始めている。でも本当にそうか、立ち止まって考えなければならない。しかしダビデは、苦難の中で力の象徴である戦車や馬でなくもとめるのではなく「主の御名を呼び求める」(詩編20:7)と述べた。
今日は第一に「神の愛にとどまる」ことについて見ていきたい。ヨハネはこれまで神の愛について論じてきた。彼は若いころイエス様に出会って、今、老齢になったこの時期に、手紙で神の愛について繰り返し語っている。そのヨハネは「私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられる」(Ⅰヨハネ4:13)と確信をもって述べている。多神教の場合、神は身近であるが神と人との関係性が薄く、時に裏切られることもあり神に大きな期待を置いていない。祈りはその場しのぎになり、自分の求めるままに安易に祈っている。一方、聖書は、私たちと神様との関係性の深さを語っている。そして私たちの信仰生活全体を通して結びつきを確信していく。この結びつきは神様側からの働きが大きく、私たちは御霊の働きによるものであり、私たちが神様と交わり結びつくためには私の側が壁を作らず御霊を受け入れるべきである。
第二に「恐れを締め出す愛」について見ていきたい。聖書は「私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられる」(4:16)と言い「こうして、愛が私たちにあって全うされました」(4:17)と述べている。ヨハネは自分の人生を貫くように、いつも神の愛を感じている。曽於人生で神様の愛を感じなかったことはなかった。常に神様の愛で人生が満ちあふれていたとヨハネは実感している。ただ、それは何も障害がない人生ではない。「この世において、私たちもキリストと同じであるからです」(4:17)というように苦難の道を歩いて神様への信仰を全うし、天の御国を継いだイエス様と同じだというのである。だが、そこには「恐れはありません。全き愛は恐れを締め出します」(4:18)とヨハネは言う。自分にとってこの世の宝だったものを失うことは、地上という価値観だけで見ると苦痛でしかない。しかし、もし私たちが神様の愛で行かされていることを実感していれば、それが「ちりあくた」だとしか思えなくなる(ピリピ3:8)。神様を100%信じて頼り切るのではなく、自分の力に頼るところを残しているなら、それは「安全策」ではなく「恐れ」の部分を残しており(Ⅰヨハネ4:18)、さばきの日に確信を持てなくなる。
第三に「互いの中に証しされる愛」について見ていきたい。さらにヨハネは「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見える神を愛することはできません」(4:20)と述べている。ヨハネは、神様と私の愛の関係性について述べてきたが、それを身近な関係性の中に表すべきだと勧めている(4:21)。しかしヨハネがあえて手紙に書いたということは、初代教会の中にも兄弟姉妹を愛せない状況が蔓延していた証左でもある。互いに憎み合い傷つけあうことも、人間の関係だから教会でもありうることである。しかし、それは神様を偽り者とすることになる。ヨハネは、それを許容せず「神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています」(4:21)と、教会が教会であることの基盤だと主張している。