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2025年04月~最新のメッセージ

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 2025年06月22日「契約の箱のきよさ」
 2025年05月04日「敵との関係」
 2025年06月08日「約束の聖霊」
2025年06月15日「御父の愛による平安」
 2025年06月29日 「」
 2025年04月27日「サウロが抱えた闇」

​以前のメッセージ・ダイジェストはこちらをご覧ください。

2025年6月15日「御父の愛による平安」(ヨハネ14:27〜31)

 最近、父の日に関するアンケートを見たら、「父の日に何をしたらいいか」についてという質問について、一番目が「一緒に時間を過ごしたい」、二番目が「感謝を示して欲しい」というものであった。父親の偽らざる本音であると同時に、父なる神様が望んでおられることでもあるのではないか。

 今日は第一に「神様の愛のあかしとして賜る平安」について見て行きたい。イエス様は、「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます」(ヨハネ14:27)と述べている。その前の箇所で、イエス様は離れるけど聖霊を贈ると述べていた。そして、それは父なる神様とイエス様の交わりと平安と同様なものとなる。そしてイエス様は「わたしの」平安と述べ、「世が与える」平安とは違うと述べている。人間は誰でも「平安」「安心」を求め、それを宗教に求めることも多い。しかし、ルカの福音書にある金持ちのように、本当の神様を抜きにしてどん欲に人間的な平安を求めた(ルカ12:19)結果、それが何の役にも立たないこととなった(12:20)。将来に対する物質的な備え否定しているのではない。しかし、そこに本当の神様との関係がないと何の意味がなくなるというのである。だが本当の神様の与える平安は、いつまでも続いていく。

 第二に「御父の愛の交わり」について見て行きたい。イエス様は、さらに「『わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたがたは喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです」(ヨハネ14:27)と述べた。弟子たちはイエス様が去って行くことを悲しんだ。しかしイエス様が「父なる神様のもとに行って戻って来る」、すなわち私たちの罪の代価を払いに行くことのめぐみ、そして父なる神様がその贖いを認めてイエス様を復活させることのめぐみは、どれほど大きいか。そして罪ある私たちを、イエス様を十字架につけられてまで贖おうとした愛の大きさも分かろう。人間は、そのことをどれほど理解しようとしているのか。しかしイエス様を愛しているなら、父なる神様の愛とめぐみが分かるはずだという(14:28)。私たちの中に、イエス様への愛がどれほどあるか、イエス様のことばに従うことを喜んでいるか。それは父なる神様の愛とことばを確信し、聖霊様を受け入れているかにかかって来る。それを内省していきたい。

 第三に、「信仰に拠る愛の回復」について見て行きたい。さらにイエス様は、「今わたしは、それが起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったとき、あなたがたが信じるためです」(14:29)と述べている。このときの弟子たちは信仰を失いかけていた。イエス様は、さらにこれから来る十字架の苦難の出来事を超えて、バラバラになる弟子たちが再び信仰を取り戻すために、このことをあらかじめ告げられた。信仰は、まず「事実」を受け止め、そして「感情」が起きて来る。しかし、このときの出来たちは「恐れの感情」が先だってしまっている。だからイエス様の十字架と復活という「事実」をイエス様がいくら伝えても、「そんなことがあるはずはない」と凝り固まってしまっていた。だからイエス様は、苦難出来事が起こったときにイエス様のことばを思い出すようにされた。現実の起こった出来事を神のことばの中に見出して受け止め、そして恐れや不安を超えて行く。それこそが信仰である。この「ヨハネの福音書」が書かれたのは期限85~90年ごろと言われ、イエス様が昇天して50年後である。このころ各地で教会ができてきた反面、イスラエルが滅びて神殿が壊され、クリスチャンに対する迫害が強くなった。ヨハネは、そんな現実の中で「イエス様の預言を思い出せ」という気持ちもあったのだろう。イエス様は、ローマの権力も神のことばと教会に何もできないと預言されていた(14:30)。その神様の権威の大きさ、愛と平安の揺るがなさは、イエス様の預言されたとおりであった(14:31)。

2025/06/15

2025年6月8日「約束の聖霊」(ヨハネ14:26、使徒2:1〜8)

 今日はペンテコステの記念礼拝である。「過ぎ越しの祭り」から50日たって聖霊が降臨し、教会がはじまった。最近、私(牧師)は黙示録のエペソ教会のところを読んでいて、「初めの愛から始めてしまった」(黙示録2:4)を読み、聖霊の働きで教会がたち御言葉を通して神様の愛を知ることを考えた。

 今日は、第一に「聖霊はイエス様と父なる神様の約束である」という点に見て行きたい。イエス様は「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」(ヨハネ14:26)と述べている。聖霊が贈られることは旧約聖書に何度も預言されてきた。例えばエゼキエル書には、バビロン捕囚で絶望に打ちひしがれていた人々に、神様は「息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ」(エゼキエル37:9)と述べられた。この「息」「風」というのは神様の「霊」であり、神様は「死んだ」私たちに「聖霊」をお与えになり「生きる」存在とされた。この「聖霊」は三位一体の神様であり、神様の霊そのものが私たちの中に働かれる。この勝利は、何か華々しいことを私たちに求めるのでなく「待つ」ことを求められた。使徒の働きでは「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」(使徒1:4)とイエス様は言われた。ただし漫然と待つのではなく、「いつも心を一つにして祈っていた」(1:14)とあるように、祈り、自分の心を見つめて備え、受け入れられるように心のかたくなさや罪を見つめて待ち臨まなければならない。

 第二に「聖霊降臨の出来事」について見て行きたい。初めて聖霊が与えられたとき「天から突然、激しい風が吹いてきたような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。」(2:2)という。この出来事は「風」と表現される聖霊を現わしたこのときだけの特別な出来事であり、本来、目に見えない聖霊が私たちの中に入ってきたことを客観的に知らしめた現象であった。さらに「炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった」(2:3)ともある。神様は、たびたび炎の中に現れて、「穢れを焼き尽くす」というご自身の特性を表現されている。史上初めて聖霊が贈られたこのときは、聖霊や父なる神様の属性を人々の目に分かるように特別に表現されたのである。さらに聖霊を受けた人々は、そのあかしとして「異言」を話すようになった。このときの「異言」は訳の分からないことばではなく、「御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた」(2:4)として、見ている人にも通常と異なるが意味が分かるように聖霊が語らせたのであろう。それと同時に、神様の福音は言葉の壁を超えてすべての国に届けられるというメッセージでもあるのだろう。

 第三に「人々の驚きと反応」につい見て行きたい。「さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気に取られてしまった」(使徒2:5,6)。彼らは様々な用事で各地から国際都市であるエルサレムに来ていた「国際人」であるが、ガリラヤから来た田舎者である弟子たちが、国際人である「それぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか」(使徒2:7,8)と驚いた。神様は、集まってきた人からは蔑みの対象でしかなかった状況の弟子たちをあえて用い、神様のことを各国語で流ちょうに話させることで、彼らの中に起こった聖霊の働きを彼らの中に届ける役割を与えた。もちろん中にはかたくななままの者もいたが(2:13)、神様は弟子たちを通して、この日多くの人たちを導いた(2:41)。私たちも聖霊様を受け入れ、神さあのことばを届ける証し人として、壁も領域も超えて届けて行きたい。

2025/06/08

2025年6月1日「真実な愛」(ヨハネ14:18〜23)

 次週はペンテコステ(聖霊降臨日)であり、その次の日曜日は「父の日」である。両者は直接関係ない。だが「父は子に良いものを与える」(マタイ7:11)というように、父なる神様の愛は、私たちの日常に寄り添って導いてくださる聖霊という「助け主」を私たちの内に贈ってくださった。

 今日は第一に「聖霊が与えられ私たちを孤児にはしない」ことについて見て行きたい。イエス様は「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです」(ヨハネ14:18-19)と言った。実はその前に、もうしばらくしたら自分は弟子たちと離れ、「わたしが行くところに、あなたがたは来ることはできません」(13:33)と言った。これはイエス様の十字架→復活→父の身元に行くという近い未来を指している。弟子たちは、後に聖霊が下されたときに「孤児にしない」という本当の意味が分かることになる。だが、この時点では生活のすべてを捨ててついて来たイエス様がいなくなるということは、「イエス様が政治的に実現させるイスラエルの栄光の復活」を考えていたこの時点では弟子たちにとって、非常なショックであった。さらに「世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます」(14:19)に至っては、聖霊の働きによるさらに強い関係を築けることを指しているなど想像もつかなかっただろう。

 第二に「戒めを守る愛」について見て行きたい。私たちがイエス様との関係において大事なことは「わたしの戒めを保ち、それを守る」(14:21)ことだと言う。「戒め」というと「懲罰」「束縛」を想像してしまうが、本来戒めとは、その人に対する愛から来ることばであり、それを守ることは信頼に応えることである。そして本来は、愛と信頼関係にある相手の「戒め」を守ることは喜びでもある。イエス様は「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です」と述べており、その結果、その人には「わたしを愛している人は私の父に愛され。わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します」(14:21)という変化が起きると述べている。神様のことばに耳を傾け喜びを持って従うことで、神様の愛が私を通して「愛の実践として」現わされ、神様の愛の内に生きる生き方をするように人生が変化する。それは私から出たことではなく、神様の側、聖霊の働きによってなされることである。だからイエス様は「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります」(14:20)と述べている。

 第三に「ともに住まわれる主」について見て行きたい。このようなイエス様のことばに対して、使徒のひとりであるイスカリオテでない方のユダ(ユダ・タダイ)が「主よ。私たちにはご自分を現わそうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、どうしてですか」(14:22)と質問した。彼は、イエス様が離れていくことに対して、むしろ人々の中に力を現わして「イスラエルの政治的な復活」を望んでいた。だがイエス様は、自分がなそうとしているのはそういうことではなく、私たちの内側に働いて変えていくことを指しているのを説明した。イエス様は「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」(14:23)と答えているのは、一見、質問とかみ合っていないようであるが、実はその後の聖霊降臨の出来事を考えると、適確に応えられていたことが分かる。つまりイエス様を愛し、みことばに耳を傾け戒めを守る人には、父なる神様に拠って聖霊が下されて私たちの内側に働き、私たちを導いてくださるというのである。「神の御国」とは「イスラエルの政治的な復活」の実現ではなく、絶たれ孤児となった私たちが神様との関係を復活させ、永遠のいのちを得ることである。

2025/06/01

2025年5月25日「真理の御霊」(ヨハネ14:11〜17)

 来週、6月8日はペンテコステ(聖霊降誕日)である。ただ私たちは「教会歴」だから思いをはせるのではなく、「聖霊が下された」ことがどれだけ重要な出来事かを常に考えて行かなければならない。イエス様は「いのちを与えるのは御霊です」(ヨハネ6:63)と言い切っている。

 今日は第一に「信仰によって御霊が与えられる」ことについて見て行きたい。イエス様は「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしは言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい」(14:11)と弟子たちに話し、父なる神様とイエス様の関係ついて話された。弟子たちは日常的にイエス様を見ていた。だが父なる神様は、はるか天の上におられるとしかイメージできていなかった。しかしイエス様は、のちに下される御霊が弟子たちの内に働かれることを理解できるように、イエス様の言うことや成して来た奇跡は内なる父の働きであるというのである。だからイエス様がそういうのを信じるべきだし、信じられないなら起こっていることを虚心に見れば、内に父なる神様がおられ働いているとしか考えられないだろうというのである。イエス様は、私たちが信じないものになるのではなく、信仰の世界に導かれ聖霊を受け入れることを求められている。

 第二に「御霊の働きによるイエス様の働き」について見て行きたい。イエス様は「まことに、まことに」と念を押した上で、「わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです」(14:12)と述べた。弟子たちは、超人的なわざを行ってきたイエス様が彼らから離れていく運命を恐れていた。しかしイエス様は、御霊が下されることによって新しいイエス様との関係が始まり、彼ら自身が「さらに大きなわざ」を行うようになるというのである。イエス様と私たちの関係は聖霊の働きによってさらに強められ、私自身がイエス様以上の働きができるとはにわかには信じられない。だが「今の自分が(自分の弱さや限界を)どう考えているか」ではなく、そんな私の弱さや限界を充分分かった上で、「イエス様のことばを信じ、聖霊を受ける」ことを求めておられる。その上でイエス様は「あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます」(14:13)という力強い約束をしてくださった。ただ注意すべきは「わたしの名によって」という点で、これは単にイエス様の名前を「唱える」というのではなく、イエス様の人格を信じイエス様を第一に愛するスタンスで求めるべきではある。「祈り」とは「全幅の信頼」なのである。その祈りに対して、イエス様は「何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです」(14:13)と述べ、神様の側も私たちの祈りを何とか受け止めたいと考えておられるというのである。

 第三に「御霊への応答としての愛」について見ていきたい。さらにイエス様は「わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたにともにいるようにしてくださいます」(14:16)と述べておられる。イエス様は「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」(14:13)と述べておられる。この「戒め」とは「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます」と述べたもので「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13:34)というものである。この愛の出発点は「わたしがあなたがたを愛したように」というイエス様の愛にあり、それを起点として私たちの交わりを築いていく。その愛の関係は、聖霊が働かなければ自分自身では実現できない。それをイエス様が父なる神様に願い、私たちとともにいつまでもおられる(14:16)。そのめぐみの偉大さを受け止めることとともに、その祈りや関係は自分自身の身勝手なものではなく、イエス様が私を愛してくださったという出発点から築かれた関係でなければならない。そのイエス様の重いと約束に立って御霊の交わりを広げて行きたい。

2025/05/25

2025年5月18日「不信仰の結末」(Ⅰサムエル31:1〜13)

  サウルは、神との関係よりも、民の歓心を買うことに心を向けてきた。そのために平然と神の言葉に反してしまう。聖書はサウルの生涯を通し、転機がどこにあったのかを明らかにしている。後の時代の人が、悔い改めの機会を見失わないで、神と共に歩むためである。

1 不信仰の結末

 サウルは民に期待され、イスラエルの王となったが、内部的に大きな問題を抱えたままで

あった。元来イスラエルは、幕屋を中心とした部族の連合体であった。それが民の求めにより王政へと移管したのである。この過程で、神への信仰は引き継がれるべきであった。けれどもサウル王は、神の御心よりも民の思いや自分自身の好みを優先した。そして神が罰っせよと命じたアマレクを、自分の好みのゆえにとっておいた。ペリシテとの戦いにおいてイスラエルが打ち破られるのは、この不信仰の罪に対する神のさばきであった。

「あなたが主の御声に聞き従がわず、主の燃える御怒りをもってアマレクを罰しなかったからだ。それゆえ主は今日、このことをあなたにしたのだ」(28:18)

2 生きることと死ぬこと

 サウルは民の前には強い王であることを印象つけようとしていた。それだけに、負傷しても自分の弱さを見せたくなかった。サウロが恐れたのは、生ける神ではなく、偶像を祀るペリシテ人に捕えられ、なぶり者にされてしまうことであった。結果として、自分の剣の上に倒れ込む。サウルに仕えていた道具持ちも続いたので、陣営は大混乱になり、兵たちは敗走するばかりだった。

サウルの自死は、サウル自身の死生観から出ている。民の前にプライドを保つために、神への悔い改め以上に、自らの死を選択した。信仰者は、生きることと死ぬことの意味を見出していかねばならない。生ける神と結びついているなら、それを見誤ることはない。「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です」(ピリピ1:21)

3 引き継がれる信仰

 サウルの遺体は頭が切り落とされて、その体はペリシテの神殿の前にさらしものにされた。この状況を知ったヤベシュ・ギルアデの住民たちは、夜陰に紛れて遺体を取り戻す。この人々は、サウルが王になったとき、ペリシテから解放された人々である。サウルは、このとき、王としての力が確立していなかったが、民の叫びを聞いて、全イスラエルに布告を出し、ペリシテと戦ったのである。ヤベシュ・ギルアデの人たちがしたことは、ダベデが王とされるときの基礎となっていく。(サムエル記第二1)

希望が見えなくとも、信仰をもって立ち上がるとき、神はそこに働いてくださる。それゆえ、信仰者は、目の前の現実に支配されるのではなく、信仰の原点に目を注ぐべきである。

2025/05/18

2025年5月11日「苦境での道筋」(サムエル30:1~9,18~24)

 今話題のバイオリニストの吉川ひまりさんは、天才だといわれると「わたしは天才ではありません。できないところを何百回も練習するのです」と答えるという。私たちもできないことがあったとき、それをどう受け止めるかが重要である。聖書は困難なとき、神様を見上げるように勧めている。

 1.絶体絶命に陥ったダビデ

 ダビデは、ペリシテ人の首長アキシュのもとに身を寄せていたので、仕方なくイスラエルと戦わなければならなくなった。しかし「イスラエルの勇士ダビデ」を信じ切れなかった他のペリシテ人たちは、ダビデたちをツィクラグに帰した。内心ほっとして帰った彼らが見たのは、略奪し焼き払われたツィクラグの町であった(1サムエル30:1-3)。三日の行軍で疲れ切った彼らにとって、追撃戦はとても無理に思われた。第一、どこに行ったかもわからず、戦う気力も残っておらず、ただ泣くしかなかった(30:4)。兵士たちはダビデについていくことで勝ち取ろうとしてこれまで踏ん張って来たものが、すべて失われた状態でもあった。その失望はダビデに対する怒りへと変わり、「ダビデを石で打ち殺そうと言い出した」(30:6)。ダビデからすると、ともに戦ってきた信じる人々の心が一変した瞬間だった。

 2.主を見上げたダビデ

 ダビデは人々の怒りや殺意に受け止めた上で、「自分の神、主」(30:6)を見上げる選択をした。サウル王から逃れてペリシテ人アキシュのもとに身を寄せ、しばしの安穏を得たときに忘れていたことが、何もかも失ったときに初めて神様を見上げることができたのである。ダビデはアヒメレクの子祭司エブヤタルに「エポデを持ってきなさい」(30:7)と言い、神様の御心を伺った。これに対する神様の御心は略奪隊を「追え」(30:8)というものであった。そこで疲れ切った六百人の部下を連れて追撃戦に出て行った。しかし六百人のうち二百人もが、べゾル川を渡る前に疲れ切ってとどまった。軍事的には大変なことである。

 3.主によって得られた勝利

 追撃隊は途中で倒れていたアマレク人の奴隷エジプト人を助けた(30:11-14)。この人物がアマレク人たちの去った方向に案内をした(30-15-16)。アマレク人たちは「捨てた」ものを、神様はダビデを導くために「用いた」ことを考えると、そこに神様の業の不思議さを見ることができる。案内された先には「その地いっぱいに散って食べたり飲んだりし、お祭り騒ぎをしていた」(30:16)アマレク人たちがいた。疲れ切ったダビデの四百人がまともにアマレク人の大軍とぶつかったら勝ち目はなかったことであろう。しかし、神様の導きにすぐ反応したダビデたちは、らくだで逃げたアマレク人四百人を残してすべて打ち取った。劇的な勝利をおさめ凱旋してきたダビデは、ベソル川のもとで待っていた部下たちに、まず安否を尋ねて彼らをねぎらった(30:21)。しかし、よこしまな者たちは「彼らは一緒に行かなかったのだから、われわれが取り戻した分捕り物は、分けてやるわけにはいかない」(30:22)と言った。たしかに命がけで戦って得たものを、待っていたものに分けると分けるものの3分の1が減ってしまうので一理ありそうではある。しかしダビデは、兄弟たちよ。主が私たちに下さった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ」(30:23)とたしなめた。本来は自分たちの力では取り戻せなかったものが、神様の導きと働きによって手に入れることができたというのである。ペリシテ人の町でしばしの安穏にいたダビデにはなかった発想である。何もかもなくすというショッキングな出来事の中で神様を見上げたダビデたちは、神様に従った結果、何も失うことなく、再び神様が私たちに与えてくださったという信仰を取り戻した。私たちも困難な中でこそ、真剣に神様に向き合って、神様が私たちにすべてを与えてくださったことを再確認したい。

2025/05/11

2025年5月4日 「敵との関係」(サムエル第一29:1~11)

 ダビデは敵地に逃げ込むことで安全を確保できた。けれども肝心の信仰は現実を前に弱められ見失いかけていた。そのことを通し、信仰と実生活の関係を考えてみたい。世俗の価値観が押し寄せてきてい中で、主は、私たちに何を語っておられるのか。

1 矛盾に満ちたダビデの生活

 ダビデはサウルの反乱分子と思い込まれていた。それでアキシュの保護のもとに暮らすことができた。けれどもダビデの行動は、大きな矛盾を生むことになってしまう。アキシュと共にいるなら、やがてイスラエルと戦うことになってしまうからである。ペリシテ人は全軍が一つになって行動をとった。そこでダビデだけが離れて別行動をとるということができなくなる。気がついたときには信仰と相反する側に立つことになってしまう。現実に合わせて信仰を後退させてはならない。

  1. 糾弾されたダビデ

 ダビデについてのアキシュと首長たちの印象はまるで違っていた。アキシュは、ダビデの誠実さを確信していたが、他の首長たちはダビデが強力な敵であったことを主張する。そんな男を連れて行くのが如何に危険であるかと訴えた。実際にイスラエルと戦ったら、裏切ってイスラエルの側につくかも知れないからだ。ここに問われたのは、ダビデはどちらの側につく者であるのかということである。ダビデ自身は、矛盾を抱えて身動きができない状態になっていた。

 キリスト者の証しが、神様が人間的なものに置き換えられてしまうことがある。今日、私たちはそうした誘惑を受けているのではないでないか。信仰者は、自分の立ち位置の確認が求められる。

3 神の側につく歩み

 アキシュはダビデを信頼していた。それだけにダビデを護衛長までにした。それでも他の首長たちの声を無視できないというのがアキシュの立場である。この後、ペリシテ人とイスラエルの戦闘が始まり、サウルはそこで戦死するが、ダビデは、その戦いに巻き込まれないですみんだ。ダビデはこのアキシュの言葉を主の御心と受け止めた。そこにダビデの思いに先んずる神の恵みがあった。

 課題や困難が目の前に迫ると、神様の御心を求めることが希薄になることがある。もし、そのままであるなら、信仰そのものが破綻してしまうかもしれない。今日、私に語られる主の声はないだろうか。誰かが、私に求めていることかも知れまない。それは主の前に誠実さを取り戻すことになる。

2025年4月27日「サウロ王が抱えた闇」(サムエル第一28:5~19)

  生ける神を信じるとはどういうことだろうか。サウロは、ペリシテ人との全面戦争をひかえて、神に見捨てられていることを自覚させられた。それは、聖書が示す最も深い闇である。サウロは神への信仰を口にしながら、その歩みで自己中心性を捨てようとしない。神のことばに従がわない。そのサウロを反面教師とし、私と神との関係を問い直すことが求められる。

1 サウロの恐れ

 サウロは「ペリシテ人の陣容を見て恐れ、その心は激しく震えた。」(5)陣容はそれまでと大きく違っていた。圧倒的な勢力の差がある。けれどもサウロの恐れは、神に見捨てられているという自覚によって倍化している。サウロは、これまで強さを前面に出して民を統率してきた。けれども軍事的な勢力の差を目の当たりにし、イスラエルを支える最も重要な支えが失われていることに気がついた。それは生ける神との関係である。

 神との関係は、神のことばに聞き従がうことで見出される。そのことを抜きに神に助けを求めるのは信仰の道ではない。

2呼び出されたサムエル

 サウロは、「口寄せや霊媒を追い出した」(3)そこには、兵の戦意を強めるため、イスラエルをきよめる意図があった。律法によれば、口寄せや霊媒は禁止事項であったからである。(レビ19:31)けれども、サウルは、霊媒によって、サムエル死者の世界から呼び戻そうとした。そのため偽装して「霊媒する女」に会いに行く。女はサウルに言った。「あなたは、サウルがこの国から霊媒や口寄せを断ち切ったことを御存じのはずです。それなのに、なぜ、私のいのちを罠にかけて、私を殺そうとするのですか」

 霊媒をしたら、そのことが伝えられただけで処罰されてしまい、おそらく死刑になる。この女からすれば、どうしてそんなことを頼むのかということになる。

 これに対してサウルは「主は生きておられる」といって、女の安全が守られることを約束した。サウロは立ち返るべき起点を取り違えている。「生ける神」は、霊媒の中に御心を現す方ではないからだ。

3 神の言葉の実現

 女は、死者を呼び出すといっても、口先でごまかそうと思っていたのではなかろうか。ところが、「神々しい方が地から上って来るのを見」たので驚いた。サウルは、それはサムエルであることを知る。そしてサムエルに相談した。「私は困り切っています。ペリシテ人が私を攻めてくるのに、神が私から去っておらます。…それで、私がどうすればよいか教えていただくために、あなたをお呼びしました。」しかし、サムエルの言葉は、サウロの期待と正反対であった。イスラエルがペリシテに蹂躙されるのは、主の言葉の実現であると告げる。「主は、私を通して告げられたとおりのことをなさったのだ。」(17)もし、サウロが、この言葉を真摯に受け止めることができたなら、もう一度、神様との関係を築き直せたかも知れない。神の憐みを軽んじてならない

2025/04/20

 

2025年4月13日「キリストの受難」(Ⅰペテロ2:19~25)

 イースター直前の「棕櫚の主日」は、民衆がイエス様のエルサレム入城時に道に棕櫚を敷いて歓迎した故事による。しかし、その一週間で民衆の気持ちは変わり、イエス様と命を共にすると覚悟したペテロも逃げた。この手紙は、弱さを自覚したペテロがキリスト教弾圧の時期に書いたものである。

 今日は第一に「不当な苦しみに耐える信仰」について見ていきたい。ペテロは「もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです」(Ⅰペテロ2:19)と手紙に書いている。人間は今まで信仰を保っても「悲しみ」に陥ると信仰が揺らいでしまいがちになる。しかしクリスチャンは、神様の恵みによって備えられた「神の御前における良心」によって立つことで悲しみに立ち向かう。人間は自分自身では打ち勝つことのできない苦しみや悲しみも、神様のゆえに立つことができる。そして神様は、信じ頼る人に道を備えてくださって、苦しみや悲しみを喜びに変えてくださる。苦しみや悲しみは自分で乗り越えるのではない。神様に拠り立つことで「罪を犯して打ちたたかれ、それに耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それに耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです」(2:20)とペテロは述べている。キリスト教弾圧の中で、このことばは当時のクリスチャンの心に響いたことであろう。

 第二に「キリストの模範と召し」について見ていきたい。ペテロは、さらに「このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された」(2:21)と、手紙を出した各地方のクリスチャンに述べている。これらの人びとは政治的宗教的に追われて難民化(ディアスポラδιασπορά:まき散らされた人々)していた。もともと選民思想のあったユダヤ人にとって、諸国の人びとに蔑まれて仮住まいをしている状態は耐え難いことだっただろう。しかしペテロは、「あなたがたは旅人、寄留者なのですから」(2:11)とアブラハム以来の歴史を想起させ「異邦人の中にあって立派にふるまいなさい」(2:12)と述べている。そして、この状態こそが「召された」状態であり「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された」(2:21)と述べている。そしてイザヤ書の53章9節を引用しながら、イザヤ書で書かれた「彼」がイエス様なのだと断言している(2:22)。さらにイザヤ書の53章7節もイエス様だと述べている(2:23)。悲しみは自分でわざわざ引き寄せるものではない。外から来るものである。だが人ではなく、神様が与えられた苦難は特別の恵みである。そのイエス様の生き方をなぞり模範とする生き方は(2:21)、神様にあって備えられた恵みであるという。

 第三に「苦難の結果と須久木」について見ていきたい。ペテロは「キリストは自ら、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた」(2:24)と述べている。しかし「私たちが罪を離れ、義のために生きる」ことは何と難しいことであろう。私たちの本来の性質は罪に生き、神様と敵対してきたものであった。その私たちが罪を離れ、神様を見上げて生きることは何と難しいことだろうか。だが、その人間の罪にまっすぐに向き合って、私たちの罪の代価となり、私たちの罪を一身に受けられたのがイエス様である。「罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった」(2:22)方が、「十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた」(2:24)ことを知れば、私たちは自分の罪の大きさに向き合わざるを得ない。だが私たちは、「その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた」(2:24)と完了形で述べられている。私たちは自分の罪の性質に向き合い、イエス様の十字架を信じた段階で、すでにすべての罪が贖われ神様との関係を回復した。その真実さをかみしめ、その恵みに感謝していきたい。

2025/04/13
2025/04/06

2025年4月6日「迷いからの後退」(Ⅰサムエル27:1~12)

 日本では、子どもが安心してひとりで出歩いているが、そのことに驚く外国人の方は多い。人が生きていく上で安心できる場所を確保できるかは重要である。これに対して日常的に「恐れ」に襲われていると、平常では考えられない行動をとってしまう。このときのダビデがそうだった。

 今日は第一に「ペリシテへの逃亡」について見ていきたい。サウル王の執拗な追跡に対して、ダビデは「私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない」(Ⅰサムエル27:1)と考えるようになった。だが敵対勢力であるペリシテ人の土地に逃げ込むことをダビデ一人で判断して、「一緒にいた六百人の者を連れて、ガテの王マオクの子アキシュのところ」(27:2)へ逃げて言った。このアキシュは、ダビデが恐れて「気が変になったふり」(21:13)を恐れてやり過ごそうとしたアキシュの息子である。だが今回は、サウル王に敵対している勢力を統率しているダビデが、自分を頼って来てくれたので「敵の敵は味方」と受け入れた。一方、ダビデが敵対勢力のペリシテ人に助けを求めたことから「サウルは二度と彼を追おうとしなかった」(27:4)。この行動によってダビデの家族や部下も安心を確保でき、一年四か月滞在できた(27:7)。その点では目の前の成功を得たように見える。しかし、その行為は神様の御前にどうだったのだろうか。

 第二に「失われた真実性」について見ていきたい。ダビデはアキシュに「もし、私があなたのご好意を得ているなら、地方の町の一つの場所を私に下さい。そこに住みます。どうして、このしもべが王国の都に、あなたと一緒に住めるでしょう」(27:5)と言い、ガテから40キロ南にある田舎のツィクラブを与えられた。実はダビデのことばは本心ではなく、王であるアキシュの目の届く範囲から逃れるための言い訳でしかなかった。アキシュは、ダビデはイスラエルから追われているので自分と一緒にイスラエルと戦ってくれるだろうと期待していた(27:12)。だがダビデは、イスラエルの敵である「ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人を襲った」(27:8)上に、それがばれないように「男も女も生かしてはおかず」(27:9)皆殺しにした。これらの民族が神様の御前にどうだったのか。彼らを皆殺しにするのはどうだったのか。今日の倫理観からダビデの行動を判断するのは難しい。だがダビデはイスラエルのネゲブ地方を襲ったとアキシュ王に報告し(27:10)、分捕り物を王に献上していた。完全にアキシュ王をだまして自分たちの安心を確保していたことになる。

 第三に「霊的な闇からの回復」について見ていきたい。このような行動を続けていた結果、あるときアキシュ王と一緒にイスラエルのネゲブを攻めいらなければならない羽目になり(29:9-10)、戦いに出かけている間に拠点であるツィクラブに帰ると、アマレク人に襲われて自分たちの家族が連れ去られて町が焼かれていた(30:2-3)。さらにダビデは、彼を信じてついてきた部下たちから「ダビデを石で撃ち殺そう」(30:5)とまでに追い詰められた。だが、この厳しい状況にあったとき、彼は心を奮い立たせた(30:6)神様の御心を求めた(30:7-8)。ツィクラブでの一年四か月は、ダビデとその仲間他tにとってしばしの「安心」を与えたかもしれない。しかし、それは神様の御心を求めることなく、偽りを続けた上での「安心」でしかなかった。私たちは、しばしば自分の都合のよい願望を「神の御心」と思い込んで都合よく利用してしまう。しかし神の御心を求めるということは、自分の願望とは異なるものが出ても従うという覚悟をともなわなければならない。このとき神様は、どこに逃げたかもわからない敵を「追え」(30:8)と命じ、動けなくなっていた二百人を置いて四百人が追撃を開始し(30:10)、すべてを取り戻すことができた(30:18)。この事件は、目の前の「安心」に浸っていたダビデたちに、霊的な回復をもたらした。困難の中で神様の御心を受け止め、霊的に奮い立つこが大切である(30:6)

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