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2026年01月~最新のメッセージ

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​下のボタンで目的の日のメッセージにとべます。

 2026年03月01日「剣をさやに収め」
 2026年03月22日「」
 2026年02月01日「互いを愛する戒め」
 2026年03月08日「ペテロの失敗」
 2026年03月29日「」
 2026年02月08日「愛と信仰」
2026年03月15日「問われた王権」
 2026年02月15日「神の愛のうちに」
 2026年02月22日「賛美礼拝」

​以前のメッセージ・ダイジェストはこちらをご覧ください。

2026年3月8日「ペテロの失敗」(ヨハネの福音書18:12~27)

 人生を振り返ると失敗の経験があり、苦しみや痛みとして残っていることは多い。クリスチャンといえども、信仰に入ってからも何度も失敗を重ねている。だが失敗から来る挫折の中で、神様からの取り扱いを受けて新しい生き方がはじまることもある。

 今日は第一に、「信仰にあゆみにおける失敗」について見ていきたい。ペテロは後にイエス様の福音を伝えた中心人物であるが、この失敗は四福音書全部が記述している。これはペテロを批判するためではなく、ペテロに対するイエス様の愛について述べたのである。ペテロにとっても弟子たちにとっても、イエス様が捉えられること(ヨハネ18:12-13)、そして自分たちがイエス様を裏切ることは考えもできなかった。ペテロは、人々がイエス様に捕らえられたときについて行ったが、信仰によってついて行ったのではない。門番の召使いの女に「あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね」と聞かれたときも、ペテロは明確に否定した(18:17)。そこには数時間前にイエス様についていく、「あなたのためなら、いのちも捨てます」(13:37)とまで言ったペテロの情熱はない。人は「自分は誘惑に負けない」と思っていても、いかに頼りないものであるか。

 第二に「大祭司の権威とイエス様の権威」について見ていきたい。イエス様と大祭司の家で大祭司は、より厳密には、人々は前大祭司であり現大祭司のカヤパのしゅうとアンナス対面した。人々が正式な大祭司ではなくアンナスの方に権威があると感じていたことが分かる。アンナスの権威は、信仰でなく現世の政治的な権力から来るものであり、彼は正式な権威がないのに裁判をしようとした(18:19)。「わたしは世に対して公然と話しました」「何も隠れて話してはいません」(18:30)と答えたイエス様に対して、アンナスは、「人々から隠れて」「正式な宗教上の立場なく」権威をふるおうとしていた。父なる神様の権威で語るイエス様に対峙するアンナスが、いかに不正なものか分かろう。このとき下役はイエス様を平手で打ったが(18:22)、イエス様は彼に裁判としての正当性もないと言われた(18:23)。この世ではしばしば、人間関係や政治的な圧力が善悪を曲げてしまうこともある。だからこそ私たちは天を見上げ、みことばによって立つことが必要である。

 第三に「失敗の自覚からの立ち直り」について見ていきたい。イエス様の一番弟子を自認していたペテロがイエス様を否定したとき、「無自覚」「自己弁明」「認罪」の段階を経ていた。まずペテロは、敵に裁かれようとしていたときイエス様の側につかず、傍観者の様にふるまい、無自覚に敵の側についてしまった。さらに周りの者たちにイエス様の仲間か取られたとき「ペテロは否定して、『弟子ではない』と言った」(18:25)。彼は自分の身を守るためにウソをつき、自己弁明をしていた。彼は信仰ではなく「人間イエス」しか見えなくなっていた。そんなペテロの転機になったのが罪の自覚、すなわち認罪である。ペテロの三回目の否定(18:26₋27)の直後、「すぐに鶏が鳴いた」(18:27)。それまで自己保身のために紙を否定していたペテロは、自分がいかに罪深い行動をしていたか理解した。さまざまな失敗の中で自分自身の立ち位置を見失うことはある。だが、みことばに立ち返るとき新しい生き方が備えられている。そこに神様の恵みと愛がある。

2026/03/08

2026年3月1日「剣をさやに収め」(ヨハネの福音書18:1~11)

 先週の音楽礼拝では、近所の方々も多く訪れ、福音宣教の可能性も見いだせた。この際にイースターのチラシも配ることができた。一月後はイースターで、今は受難節。イエス様の苦難を、再度、思い起こす良い時期である。

 今日は第一に「ご自身を明らかにされる主の姿」について見ていきたい。イエス様は闇の中でも、ご自身を積極的にあかしされていた。このとき、イエス様一行は祈りをささげていたキデロンの谷の向こうの園で祈りと集まりをしており、園で野宿する予定だった。エルサレムから谷を降りた園は、人々の目にも触れにくく、イエス様を捕らえようとする勢力からは絶好の機会であった。そこへ祭司長たちに情報を流していたユダが、イエス様の敵対勢力を連れてきたが(ヨハネ18:3)、イエス様は何が起ころうとしているかはわかっていた(18:4)。さらに谷に囲まれた園であるから敵対勢力からは「誰がイエス様か」は判別にしにくかったが、イエス様は「だれを捜しているのか」(18:4)「わたしがそれだ」(18:5)と進み出た。イエス様は敵や闇の勢力に対して「世の光」としてはっきりとご自身を表された。敵対勢力は、田舎者に対する侮蔑の意味をともなって「ナザレ人イエスを」(18:5)と言ったが、これに対して神の御子でありながら否定するのでなく、神様から与えられた役割を正面から受け止めている。

 第二に「イエス様の名によるイエス様の力」について見ていきたい。大勢で武装してきた敵対勢力に対して、イエス様は少人数で武器も持っていない。だがイエス様が再度「わたしがそれだ」と答えたとき、「彼らは後ずさりし、地に倒れた」(1:6)。彼らは、イエス様に「ナザレ人イエスを」と言ったが、「わたしがそれだ」と言ったイエス様は神の御子である。神の御子としての圧倒的な本性が彼らに圧倒したのではないか。以前も、憤りを持ってイエス様を町の丘の崖まで追い詰めた人々も何もできなかったことがあった(ルカ4:28-30)。だからイエス様が、このときの敵対勢力を圧倒し、また立ち去ることも可能だった。しかしイエス様は、そうされなかった。さらに「わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい」(ヨハネ18:8)と一人残られた。傍目に見れば「弟子集団の崩壊」に見えたかもしれないが、これもイエス様の計画通りであった(18:9)。「私の中のイエス様は何か」「闇は何で光は何か」それをしっかりと見極めなければならない。

 第三に「剣をさやに収める」ことについて見ていきたい。「力には力を」「武器には武器を」というのが世の倣いである。剣を持っていたペテロは、それを使った(18:10)。ペテロは圧倒的な兵力に対して剣をふるったのは「イエス様を信じて戦えば、神様の力で圧倒的な兵力に対抗できる」と彼なりの信仰の表れだったのだろう。しかしイエス様は「剣をさらに収めなさい」(18:11)と言われた。さらにイエス様はペテロに、この状況、そしてこれから起こることについての父なる神様の御心を説明された(18:11)。イエス様は、これから起こる十字架の苦難を拒むことができた。だがイエス様は、自由意思の中で父なる神様のみこころに沿うことを選ばれた。このときイエス様が拒まれなかったからこそ、今、私たちは父なる神様との回復し、永遠のいのちにあずかることができたのである。

2026/03/01

2026年2月15日「神の愛のうちに」(ヨハネ17:21〜26)

 「神の愛に満たされる」ことは、教会にとって欠くことができない。今年は、どのようなビジョンで成長していくべきか。昨年末からヨハネの福音書を通して「愛」について考えてきた。教会とはどんな存在で、神様はどんな愛を表そうとしえいるのか。

 今日は第一に、「愛のうちに一つになる」ことについて考えていきたい。イエス様は、十字架のときが近づいたこの時点でも、「父よ。あなたがたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしのうちにいるようにしてください」(ヨハネ17:21)「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」(17:22)と、私たちのとりなしの祈りをされている。この時代、イスラエルの民は自分たちだけが聖別された民族だと考えていたし、「世」はしばしば神様に敵対する存在であった。しかしイエス様は、「彼らも一つ」になり、イエス様とも一体になるように祈られた。これは人間側からではなく、神様側からの選びなのである。教会は「世」の中にありながら、その中に神様が働かれている点で「世」とは一線を画し、しかも「すべての人」がここに招かれている。イエス様の目には、弟子たちも含み闇に飲み込まれた「世」が見えていた。だが、その頼りない弟子たちに神様の救いのわざを託された。またイエス様は繰り返し「一つになる」と述べられたように、自分というものを突き詰めていくのでなく「全体」の中の自分を見ていく必要がある。

 第二に「愛の中における成長」について見ていきたい。なぜ「一つになる」必要があるのか。イエス様は「わたしの栄光を、彼らが見るため」(17:24)だと述べている。「私」という信仰者は、単独で神様の前にいるのではなく「キリストのからだ」の一部である。さまざまな役割や特性が複雑に支え合い「キリストのからだ」としての教会を構成している。その関係の中で神様の栄光を見るときイエス様と完全に一つとなり(17:23)、私たちをとおして「あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知る」(17:23)ことになる。十字架直後の弟子たちの裏切りは、イエス様にとって深い悲しみであっただろう。しかし、それが分裂を生むのではなく神様の愛のうちに一つになっていく過程で、神様の不思議で偉大なわざを知るようになる。

 第三に「神の愛の栄光を見る」ことについて見ていきたい。さらにイエス様は「わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください」(17:24)と祈られ、その理由は「わたしの栄光を、彼らが見るためです」というのである。旧約聖書の時代、神様の栄光を幕屋なり神殿で見るようにされた。しかし、豪華な神殿は神様の栄光を意識するようにできるが、罪人である私たちはその栄光の前には立てない。だがイエス様は、罪人である私たちがイエス様と同じ距離や関係性で「彼らもわたしとともにいるようにしてください」(17:24)と祈られた。それは「世界の基が据えられる前からわたしを愛された」(17:24)愛と栄光であり、創造の際に被造物である世界や人間に神様の愛が満ちあふれていることを見ることができる。それは芸術作品を見るときに作者の人柄を理解し近くに感じるようなものである。私たちは、世界を通して神様を知ることを許されている。

2026/02/15

2026年2月8日「愛と信仰」(ヨハネ16:24〜33)

 今日は衆議院議員の投票日である。私(牧師)は二十歳になったとき投票用紙が郵送されてきたとき「自分も国民として受け入れられていた」と実感したことを思い出す。イエス様は、私たちを神の国の国民として、愛を持って迎え入れられようとされている。

 今日は、第一に「祈りの中に示された神様の愛」について見ていきたい。こんときイエス様は、弟子たちに「まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです」(ヨハネ16:24)と述べている。三年余りの生活の中で弟子たちはイエス様に様々な頼みごとをしてきたはずだが、イエス様は「何も求めたことがありません」と言い切った。「イエス様の名によって求める」というのは、「イエス様が私たちの願いを伝える」のではなく(16:26)、イエス様の名を通して「父なる神様に私たちが直接求めることができるようになる」のである。つまり、小さな一介の被造物である私が全能の神に直接求めるというのは大変なことである。だが「私の卑近な願いを何でも便利に聞いてくれる」というのではない。闇の中にいる私たちを救い関係を回復したいという神様の御心が実現するように、私を取り扱い受け入れてくださっている。イエス様の名を通して祈る私たちの祈りは神様に確実に届いており、その求めの中でたしかに神様の取り扱いを受けている「喜びが満ちあふれるようになる」。イエス様は、それを「求めなさい」というのである。

 第二に「天からのイエス様という信仰」について見ていきたい。イエス様は「わたしは父のもとから出て、世に来ましたが、再び世を去って、父のもとに来ます。」(16:28)と言われたが、弟子たちはこのことばに対して「ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます」(16:30)とはっきりと述べている。ただ弟子たちは「今あなたははっきりとお話しくださり」「今、分かりました」(16:29-30)と述べている。私たち人間にとっては、「今、ここにある気持ち」が一番確実だと考えてしまう。しかしイエス様は「「あなたがたは今、信じているのですか」(16:31)と尋ねている。私たちのその時の感情は不確実なものである。欠陥が多い今の信仰とは違う、さらに別次元の信仰がやって来ることをイエス様は示している。そこでは、イエス様を信頼しきっていると思っていた弟子たちが考えてもみなかった罪にとらわれた自己の姿があり(16:32)。神様が備えられた「時」に考えもしなかった方法で信仰に建て直される。

 第三に「勝利者としてのキリストの姿」について見ていきたい。イエス様もクリスチャンも現実を見ない理想主義者だという人もいる。イエス様は、弟子たちに裏切られ一人になっても「父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません」(16:32)と述べられた。「ともにおられる」といっても、十字架の痛みはイエス様がすべて受けられ、父なる神様がそれを半分になったわけではない。だが、イエス様は「父なる神様がともにおられる」ことの希望や重要性を弟子たちに伝えられた。私たちも「世にあっては苦難が」(16:33)あるが、だが苦難を負う中で、祈りを通し「神様が私とともにおられる」ことを知っていく。その確信が喜びと平安になり、圧倒的な勝利を得ているのである。

2026/02/08

2026年2月1日「互いを愛する戒め」(ヨハネ15:9〜17)

 先日ラジオで中学生の娘の反抗期の話があったが、私たち人間自身が神様に反抗してきた。律法は、何が神様に背く行為かを明らかにするが、イエス様の時代、人々は律法を追いきれなくなっていた。そこでイエス様は律法の本質と内側からの戒めを語った。

 今日は第一に「戒めとしての愛」について見ていきたい。イエス様は「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15:9)と述べられた。この愛は人間同士の愛とは少し異なる。父なる神様から出た愛で、滅びに向かう人間に向けられ、イエス様の苦難の中を歩む中で示された。この愛はイエス様の十字架の上にも注がれ続け、神様からの人間への愛として成就した。これは旧約聖書で、アブラハムが息子イサクを生贄としようとした事件にひな形が見られる(創世記22:1-14)。彼は息子への愛を断ち切って殺そうとしたわけでもなく、そのような命令をした神様への信頼を捨てたのでもなかった。イエス様はさらに「わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです」(ヨハネ9:10)。人が創造されたときから、神様は人間が戒めを守り神様の愛のうちに幸せに暮らすことを望まれた(創世記2:15-17)。

 第二に「愛がもたらす喜び」について見ていきたい。イエス様は、このような愛のうちにとどまるなら、「喜びで満ちあふれるようになる」(ヨハネ9:11)という。この愛は一過性のものではなく、内側から持続的にあふれるものである。サマリア人の女は愛を求めて夫を次々に変えてきたが、愛に飢え乾いていた(4:7-26)。だが神様の愛にとどまるなら、乾くことのない愛があふれ続けるという(4:14)。このときイエス様は十字架への途上であり、客観的に見れば苦難と恐れの中にあった。しかし、イエス様はそれを「わたしの喜び」(9:11)であり、「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(9:13)と自覚している。これこそが人間を愛した神様の愛であり、イエス様は私たちを「友」と表現された。そのイエス様の行動の中に、私たちは神様の愛の実在を確信し、その喜びは私たちの内側にあふれている(9:11)。

 第三に「愛の戒めに生きる」について見ていきたい。戒めは時に人を縛って不自由なものとする。律法に形式的に縛られていた当時のユダヤ人たちがそうであった。しかしイエス様の「戒め」は、罪の奴隷から解放し自由にするものであった。私たちが神様に敵対していたときは、戒めは不自由な干渉にしか思えない。しかし信仰によって神様の愛を見出したときには、神様の愛に応えたい、大事にしていきたい、仕えていきたいと思うのは自然なかたちではないだろうか。イエス様は私たちを、単に「上下関係のなかで命じられたことを行うだけのしもべ」ではなく、「わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です」(9:14)と説明された。聖書の中で「神の友」と描写された人がひとりいる。アブラハムである。彼は絶望的な人生の瞬間を幾度となく直面したが、「彼は神を信じた」ことから義と認められ「神の友」と呼ばれた(ヤコブ2:23)。「神の友」とはとても呼ばれる資格のない私たちが、神様の招きによって導かれている幸いを覚えたい。

2026/02/01

2026年1月25日「愛のあらわれ聖霊」(ヨハネ14:15〜21)

 かつてエペソの町はエーゲ海の東にあり地中海貿易の港として栄えていたが、現在、温暖化により砂で埋まり遺跡しかなく、現在の港は遠くにある。この変化は自然現象ではあるが、初めの愛から離れ教会が変化したのは人の責任である。

 今日は第一に「もう一人の助け主」について見ていきたい。イエス様は「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたとともにいるようにしてくださいます」(ヨハネ14:15-16)と述べられている。この愛とは単なる感情ではなく、父なる神の愛でありそのために「助け主」が与えられる。この「助け主(パラクレートス:ο Παρακλητος)」とは「側に呼び寄せられた者」という意味であり、「弁護者」と訳されることもある。罪の側にある私たちが、神様の愛のうちに呼び寄せられる者が「助け主」であり、それが私たちの信仰生活には重要である。そして「助け主」は、イエス様が父なる神様にお願いして送っていただいたという(14:16)。つまりイエス様は私たちをとりなし、イエス様の願いを父なる神様は全面的に受け入れられた。

 第二に「ともにおられる聖霊」について見ていきたい。イエス様は続けて「この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることはできません」(14:17)と「助け主」のことを説明されている。「助け主」は霊であるから目には見えないだけでなく、人間の罪が神様のわざから目をそらさせているので「知ることもできない」と言われている。だが神様に目を向ければ、知るだけでなく「あなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです」(14:17)と、その確かな臨在を理解できる。何もない荒野を40年間旅しなくてはならなかった旧約時代のイスラエルの民は、昼に夜に神様がたしかに臨在されていることが支えであった。私たちの信仰生活も、日々の生活の中で「主がともにおられる」ことを感じ取っていくことは大きな力になる。聖書は、私たちのうちに聖霊がおられ。内側で働いておられるようになることを約束している。そのことによって、私たちは内側から霊的にも支えられている。

 第三に「互いの愛の再発見」について見ていきたい。イエス様は「わたしは、あなたがたと捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます」(14:18)と言われた。イエス様の時代、多くの孤児がいたが、親に裏切られ捨てられた孤児が受ける心の傷は深い。この時点で弟子たちの間では、現実に裏切った者、近い将来裏切る者など、不穏な空気が支配していた。しかしイエス様は「自分は裏切ったり捨てたりしない」という。たしかにイエス様を一時的に見なくなり混乱が起こる。だが、イエス様の死と復活を通して再び見るようになるという(14:19)。この「あなたがた」とは、そのときの弟子たちだけでなく、イエス様のみことばをとおして見出す人々を指す。福音書は同時代のイエス様の外見については一切描いていない。ヨハネはイエス様を見ているが、それ以上に大切なのは「信仰によって分かる」ことだというのである(14:20)。それによって私たちの中に神様の愛が現れ、神様との愛の関係を再発見することである。

2026/01/25

2026年1月18日「主にある互いの愛」(ヨハネ13:31〜38)

 昨日は阪神淡路大震災から31年の日であった。この震災からボランティア活動がさかんになった。教会の「奉仕」(ディアコニア(διακονία)」は、一般の「自主的な」ボランティアとは異なり、自分の思いより神様の思いが優先されるという違いがある。

 今日は、第一に「愛により神の栄光を受ける」ことについて見ていきたい。ヨハネは後年、折に触れて「互いに愛し合いなさい」と言い続けてきたが、ヨハネの福音書の記述するこの場面は、裏切りのためにユダが出ていく(ヨハネ13:31)場面であった。信頼すべき人が自分を裏切る状況は、とても「互いに愛し合う」状態ではない。普通なら怒りや落胆で混乱するところであるが、ユダが出て言った瞬間に、イエス様は「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました」(13:31)と宣言された。ユダの行動は自分にとっては苦痛と恥辱にあふれた十字架刑に直結するが、イエス様は父なる神様の計画された「罪の贖い」という偉業や「神の愛」を表すために求められたものだという自覚があった。それが「神が、人の子によって栄光をお受けになったのなら、神も、ご自分で人の子に栄光を与えてくださいます」(13;32)ということばになったのである。

 第二に「ここに示された新しい戒めとしての愛」について見ていきたい。イエス様は「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13:34)と述べられた。これまでイエス様は愛について語ってこられた。それなのに「新しい戒め」とはなぜか。これまでともに行動していたイエス様と弟子たちの関係はいったん切られる(13:33)。だがイエス様が目の前におられなくなったときに、弟子たちの中には新しい信仰のかたちが創られ始めることになった。そのためには、自分の罪の邪悪さを自分自身で自覚し、その贖いために十字架があり、そこに神様の愛が注がれていることを自覚する。それによって私と神様の関係が立て直され、私と隣人との関係が「互いに愛し合う」関係となる。「愛」とは業ではなく関係性である。そして「奉仕=仕える」ことは、自分の罪の自覚とへりくだりがないとできない。そこから生まれる愛は「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたが私の弟子であることを、すべての人が認める」(13:35)ことになる。

 第三に「いのちを捨てる愛」について見ていきたい。ペテロに尋ねられたイエス様は「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません」(13:36)と繰り返した。これに対してペテロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます」(13:37)と熱く語ったが、そんなペテロにイエス様は「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」(13:38)と答えられた。イエス様は、「自分のことは分かっている」と思っているペテロの中にある罪の本質を突き付けられた。このときのペテロたちとユダを比較すると、イエス様を裏切る点は同じだがペテロの方は自分が裏切る想定はまったくなかった。さらにユダの行動について「栄光を受けた」と弟子たちには理解できないことばで表したが、ペテロに対してはストレートに述べられた。ペテロは後年、このことばにより自分では知ることのできない罪を自覚しただろう。

2026/01/18

2026年1月11日「わたしはあるという方」(ヨハネ13:16〜20)

 今年の歩みを見据えたときに、ガラテヤ書5章13節の「愛を持って互いに仕え合いなさい」という御言葉が思い浮かぶ。もちろん神様は教会を愛されているが、その境界がアイに満たされているかどうかは問われることである。

 今日は第一に「弟子は主人にまさらない」ことについて見ていきたい。イエス様は、弟子たちの足を洗った後に「しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません」(ヨハネ3:16)と述べられた。イエス様は弟子たちに「互いに足を洗う」ことを勧めたが、なかなか困難なことである。今の基準なら「自分で自分の足を洗え」とか「洗うのではなく洗われる人になれ」となるだろう。しかし、ここではイエス様が模範を示されたことに着目すべきであろう。弟子たちは「来たるべき神の国」にあってイエス様の右腕になり、高い優位な地位を得たいと思っていた。彼らはイエス様が自分たちの足を洗われたことはかなり衝撃だっただろう。その一方で弟子たちは真意を理解できず、十字架につけられるという究極の「ヘリ下り」の場面を経て「つまづき」を経験してしまった。イエス様は、今の弟子たちの弱さやつまづきも、その後の立ち直りや最後には互いに仕え愛し合うようになることを見通されていた(13:17)。

 第二に「主を見失うことの危険」について見ていきたい。ただイエス様は「わたしは、あなたがたすべてについて言っているのではありません」(13;18)と、イエス様の命令を行う「幸い」(13:17)から外れている者がいると分かっていた。私たちは自分の罪や無力感に直面することがあり、自分を責め立てることもある。その結果「自分はキリスト教信仰には向いていないのでは」と考えることがある。だが私がイエス様を選んだのではなく、イエス様が「わたしは、自分が選んだ」(13:18)である。そのことを疑ってはならない。だが同時に「すべてについて」選ばれたわけではなく、そのような勢力には十分に気を付ける必要がある。だが、そうした状況においても神様は働いておられ、すべてのことはあらかじめ語られており(13:19)、すべてのことは「聖書の成就」(13:18)のためにある。だから主を見失うのではなく、神様こそが何物にもよらず影響されず確固たる意志と存在がある「わたしはある」(13:19)ことを確信するべきである。揺れ動くはかなげな私たちの生の中で「わたしはある」方に基盤を置きたい。

 第三に「受け入れることと受け入れられること」について見ていきたい。イエス様はたびたび父なる神様と自分との関係を表されていた(12:44-45)。たしかに人々は、イエス様を信じていたが、現世のイエス様に言動という非常に限られたものであった。だがイエス様は「わたしが遣わすものを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。そして、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです」(13:20)と述べられた。私たちの信仰は段階を経て深化する。聖書に語られたひとつのことばが、次の信仰の足掛かりとなる。だから神様が聖書で語られたことばが、イエス様を遣わされた神様を受け入れる、イエス様を受け入れるようになる。通常、自分と同等以下のものでないと理解できない人間が、イエス様のヘリ下りによって神様を受け入れられる幸いを感謝したい。

2026/01/11
2026/01/04

2026年1月4日「愛に始まる新しい業」(ヨハネ13:1〜15)

 2026年の最初の主日礼拝である。私(牧師)は、最近、黙示録2章4節の「あなたは初めの愛から離れてしまった」という箇所が気になっている。これはエペソの教会が出来て60年たったころ、また原点に戻って「初めの愛」について考えていきたい。

 今日は第一に「足を洗うことの中に示されたイエス様の愛」について見ていきたい。聖書には「世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された」(ヨハネ13:1)と書かれている。これは直接付き添ってきた弟子たちだけでなく、イエス様を信じたあらゆる人を意味している。イエス様は「足を洗う」という行動で、最後まで愛を示された。ヨハネはこの時、弟子たちの中で一番若い青年で、その時点ではイエス様の行為がよくわからなかったが、後年、歳を取ってその重みが理解できたのではないか。この時、イエス様はユダの裏切り(13:2)も十字架のことも知っておられたが、自分がどこから出てどこに帰ろうとしているのか知っておられたため(13:3)、確信を持って愛を証しされた。私たちの平安は、愛を持って受け入れてくださる方によってもたらされる。

 第二に「足を洗うことと罪の赦し」について見ていきたい。この時の様子を、作者であるヨハネは、この時の様子(13:4-5)を息遣いに触れるような描写を行っている。当時、サンダルで旅をし土埃で汚れた足を洗うのは奴隷の仕事でので、イエス様が自らの手で自分たちの汚れた足を洗っている姿は衝撃的だろう。だから、ペテロは思わず「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか」(13:6)「決して私の足を洗わないでください」(13:8)と発言している。だが「イエス様の足洗い」は、私たちが取り除くことができない罪を取り除きイエス様との新しい関係が築かれることの象徴的な行為であった。だからイエス様は「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります」(13:8)とペテロに話された。だが、このことばを表面的に捉えたペテロは「主よ、足だけでなく。手も頭も洗ってください」(13:9)と申し出たが、イエス様は「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです」(13:10)と話された。イエス様は、ペテロが裏切り、離反し、後に悔い改めて聖徒としての働きまで見通していた。クリスチャンは水浴(バプテスマ)によって「きよめられ」でも、罪を犯さないわけではなく常に足洗い(悔い改め)が必要である。それがイエス様の業なのである。

 第三に「イエス様の業にならう弟子の姿」について見ていきたい。イエス様は「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません」(13:13)と述べている。イエス様は「今は分からなくても、後で分かるようになる」(13:7)と述べ、分かるようにまで「待つ」ことをしてくださる方である。分からないからほおっておくのではなく、それまではみことばに従ってイエス様を模倣すべきであろう。私たちは、人生の中で自分がどのような方向で歩んでいけばいいかわからないこともある。そんなとき、イエス様はたがいに愛を持って「足を洗い合う」イエス様を思い出し、それを模範として歩んでいきたい

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