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2024年4月~最新のメッセージ

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 2024年04月28日「最上のささげもの」

​以前のメッセージ・ダイジェストはこちらをご覧ください。

2024年4月28日「最上のささげもの」(マタイの福音書26章1~13節)

【140字ダイジェスト】

捧げものはどの宗教でも見られるが、強制となったり、その価値を人間的な尺度で計るようになると歪んだ信仰となる。弟子たちは女性の行為を「高価な香油の無駄使い」と批判した。しかし、それは自分のできる最上をイエス様に捧げ、「十字架の死」の先にある永遠のいのちにつながる最上のものであった。

 信仰者が宗教にささげものをすることは、どの宗教でも見られる。だが、そのささげものの価値を人間的な尺度で計り、ささげもの自体が目的となって強制となると、本来の信仰の意味が歪んでしまう。今日の箇所は、高価な香油をささげた女性を非難する弟子たちの弱さが浮き彫りにされたものである。

 この時、イエス様は「ベタニアで、ツァラトに冒された人シモンの家」(マタイ26:6)におられ、食卓に着いておられた。当時のイスラエルは「ツァラト」という病気に冒された人の家に入ることは汚れた行為であり、ましてや食卓を囲むということは考えられなかった。しかしイエス様は、あと二日で十字架にかけられるという時期であり(26:2)、さらに「そのころ、祭司長たちや民の長老たちはカヤパという大祭司の邸宅に集まり、イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した」(26:3-4)という緊迫した状況にあった。その状況のなかで、社会から隔絶された最も弱い人のところを訪ねられ、寄り添ってともに食卓を囲んでいた。だが「ツァラトに冒された人シモン」を癒やしたという記述もなく、その一方で「ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやってきた。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ」(26:7)という、一見、人間的には非常識な行動がクローズアップされている。この香油は、ソロモン王にも愛されるほど高価なものであった(雅歌1:12、4:13)。この女の人の最大限の感謝、賛美、貢献であり、また香油を注ぐことは葬儀の準備でもあった。「300デナリの高価な香油」を無駄使いしたと思っている(マタイ26:8-9)弟子たちの中で、彼女だけがイエス様の十字架の預言を理解し、自分にできる最大限のささげものをしたのである。

 第二に、「弟子たちの憤慨」について見ていきたい。マルコの福音書では「何のために、こんな無駄なことをするのか。この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに」(26:8-9)と言ったのはユダだと記しているが(ヨハネ12:4)、マタイの福音書では「弟子たちはこれを見て、憤慨していった」(マタイ26:8)とある。つまり言葉を発したのはユダであるが、他の弟子たちも同じように考えていたと弟子たちは後に振り返ったというのである。この時の弟子たちは香油の値段だけしか見ておらず、貧しかったであろう彼女がした行為の大きさが見えていなかった。しかし彼女にとっての香油は「貧しい生活の中での換金できる財産」ではなく、それをはるかに超えた「自分としてイエス様にできる最善のこと」であった。そのことを忘れたときに、信仰やささげものは歪んでしまう。川口葉子姉妹は『宗教研究』(85巻)に、1970年の大阪万博に建てられた「キリスト教館」の話を寄稿していた。そのとき「福音を語る」ことに対することに反対が起こり、「人類の友愛」的なテーマに曲げられた。このときの弟子たちも「貧しい人たちに施しができたのに」(26:9)と述べた。一見立派なものであるが、イエス様の十字架の犠牲と救い、永遠のいのちという「福音」の本質から離れていた。

 第三に「女の人に対するイエス様の評価」について見ていきたい。イエス様は「わたしに良いことをしてくれました」(26:10)、「わたしを埋葬する備えをしてくれたのです」(26:12)と言われたが、聞いていた弟子たちにとってはびっくりした言葉だっただろう。しかしイエス様は常に、自分が十字架につけられることを繰り返し話していた。さらに直前には、それが「二日後」(26:2)であると預言していた。香油を注いだ彼女が「十字架の死」をあらかじめ確信してこの行為を行ったかわからないが、イエス様のこのことばで確信が持てたし、イエス様がそれを肯定してくださったことから、十字架の死とその先の希望が確信できたのではないだろうか。イエス様も、この「福音」が世界中に広がり永遠に残ることを断言された(26:13)。イエス様の「十字架の死」の先には、死を超えた先の永遠の救いといのちがある。

2024/04/28

2024年4月21日「最も小さな者への愛」(マタイの福音書25章31~46節)

【140字ダイジェスト】

「終わりのとき」を考えることは「今をどう生きるか」につながる。イエス様は、ある王のたとえ話を通しれ、終わりのときのために私たちが何をすべきか語られた。私たちは自分の尺度による人間的な愛や善行ではなく、キリストの愛のうちにとどまり、私たちの最も小さな者にこそ仕えることを勧められた。

 聖書に示されている神様は、終わりまでを貫く「アルファでありオメガである」(黙示録1:8)である。私たちは「人生の終わりは考えたくない」と思う。しかし、それを考えることは「私たちが今をどう生きるか」につながる重要な問題であり、「終わり」を語る神様のことば時代を超えて不変である。

 今日は第一に「終わりのときの神の選び」について見ていきたい。イエス様は、「人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちをともなって来るとき、その栄光の座に着きます。そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、羊を自分の右に、やぎを左に置きます」(マタイ25:31-33)と再臨のときを告げている→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「人の子」参照)。そのときイエス様は全世界のすべての権威の上に君臨し、すべての人を裁かれる。羊とやぎは、普段は同じようなところで同じように草を食べ、同じように生活しているように見える。しかし、終わりのときには「羊=神の民」とされる点で決定的な違いが生じる。日本の仏教は「死後はすべて仏となる(成仏)」「何度も輪廻転生する」と考えるが、そうであれば信仰は意味がなくなる。聖なる神様は、聖なる民をより分け「世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国」(25:34)を受け継ぐようにおっしゃる。つまり救いの業は人間の性質や善行の結果ではなく、永遠のはじまりから神様が備えられている。私たちは、私の行為に先行して行われる神様の恵みをしっかり受け継ぐ必要がある。

 第二に「その中で行われる愛の業」について見ていきたい。イエス様は、王である神様が「あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです」(25:35-36)と述べているという。私たちは「神様」であれば使えようとするかもしれないが、様々な問題を抱え社会から切り離された人には「関わらない」という選択をしがちである。人間的な「愛」や「善行」で対応しようとしても限界がある。しかし、私たちの一番貧しく弱いところにキリストは踏み込んで愛してくださった。そのキリストの愛を反映させることで、それを超えることもできる。そうすれば、私たちは「主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか」(25:37)と自覚することなく愛を為すこともできる。アブラハムも、訪れた三人を御使いだと自覚せずにもてなした(創世記18:1-8)(へブル13:2)。イエス様は「いつ」「どこで」「だれに」とは言っていない。日常の中に溶け込んだ愛の業を為す生き方を求めている。それも力や影響力のある人に対してではなく、「もっとも小さい者たちの一人」(25:40)への愛を求められている。

 第三に「愛を失った群れ」について見ていきたい。「それから、王は左にいる者たちにも言います。『呪われた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。』おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。』」(25-41-43)とたとえ話は続く。私たちは「罪」を「悪いことをする」ことだと考えるが、聖書は「何もしなかった」ことが「罪」だと主張する。呪われた者たちは「王をないがしろにしていない」(25:44)と主張している。しかし王は、「おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ」(25:45)と言う。人間的には「王」と「最も小さい者」は雲泥の差がある。しかし、それは人間的判断であり、神様は「最も小さい者」も神様の愛のうちにあるという。もし私たちが「キリストに仕えたい」と考えるなら、イエス様が人生をかけて示されたように、「最も小さい者」に仕え、そこにキリストの愛を為すべきであろう。

2024/04/21

2024年4月14日「預かったタラント」(マタイの福音書25章14~30節)

【140字ダイジェスト】

『ウエストミンスター小教理問答』は、人生の目標を「神の栄光を表し、神を喜ぶこと」だと述べている。私たちは神様から預かった様々なタラント(才能)を用いて、互いに仕え合うことが求められている。そのような神様の信頼にこたえるとき、神様はさらに大きな賜物を与え、人生を豊かにしてくださる。

 私たちは人生の目標をどこに置くのか。『ウエストミンスター小教理問答』では、「人の目的は何か?」にたいして「神の栄光を表し、神を喜ぶこと」だと述べている。私たちの人生がむなしい方向に迷ったり戸惑ったりするとき、私たちは神様にある人生を生きるという立ち位置を忘れてはならない。

 今日は第一に「預けられたタラント」について見ていきたい。今日の箇所は、「主人の家で給仕をするしもべ」「花婿を待つ花嫁」につづく三つ目のたとえである。そこに共通するのは「終わりのときはいつ来るかわからないので、常に備えよ」というメッセージである。このたとえでも、主人が旅に出るときに財産を預けたとある。この一タラントは6,000日分の日給に賃金すると言われている。主人は現在の貨幣価値にすると数千万円から三億円の金を預けたことになる。しもべたちに対する主人の信頼や期待は、大変大きかったと言える。また「預かった」とのことであるから、本来、タラントは人の物ではなく神のものである。タラントは、現在「タレント」という言葉になっているように「才能」神様によって預けられたものであり、その多寡はあるものの、私たちは神様から何らかの「才能」を預かっており「その賜物を用いて互いに仕え合いなさい」(ペテロ4:10)と言われている。

 第二に「タラントの用い方の問題」について見ていきたい。タラントを預かったしもべたちは、それぞれ異なる用い方をした(マタイ25:16-18)。私たちは神様からそれぞれが大きな賜物を預かっている。その賜物を神様はどう用いて欲しいか考える必要がある。このしもべたちは、主人の心をそれぞれ考えてタラントの用い方を考えた。先の二つのたとえでは、「神様はいつ来るかわからない」というものであったが、このたとえでは「さて、かなり時がたってから、しもべたちの主人が帰って来て彼らと清算をした」(25:19)とある。つまり長い時間が立っても神様の御心は変わらないし、しもべたちの主人に対する心がずっと変わらなかったということである。だから主人は、二人のしもべには「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかなものに忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」(25:21,23)とほめている。主人は「よく金儲けした」ではなく、「おまえはわずかなものに忠実だった」(25:21.23)点を評価している。そして、神様の預けた賜物は大きなものであったが、さらに与えられるものは、比較にならないほどの「多くの物」である。私たちは、ひとり一人神様から「タラント」と、それを活かす能力を与えられている。それを私たちの人生の中で、私たちを信頼して預けてくださった神様の御心や期待通りに活かすことが、私たちの人生の目標でもある。

 第三に「タラントを用いなかった失敗」について見ていきたい。最後のしもべは「ご主人様。あなたさまは蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。それで私は怖くなり、出て行って、あなたさまの一タラントを地の中に隠しておきました」(25:24-25)と述べた。先の二人のしもべとは主人に対する信頼が全く異なる。そして主人に対して不満、不平、恐れを抱き、まったく自分勝手な思い込みで行動している。彼はタラントを預かっていながら感謝も信頼もなく、主人のことを「厳しい方だと分かっていました」などと断じている。残念ながら神様を知らない多くの方は、このような思いや頑なさを抱いているのではないだろうか。そこには神様と生きる上での信頼や感謝は欠落している。このようなしもべに対して、主人はその自分勝手な主張を断罪して「悪いしもべだ」と評価している。さらに主人は、彼の一タラントを忠実な二人のしもべに分け与えるのではなく、十タラントに増やしたしもべに与えられた(25:28)。たしかに信頼関係が深まった人に、さらに任せたくなるのは自然なことである。私たちは、神様が私たちに預けてくださっている莫大な「タラント」を、神様の信頼や期待に応じて活かす人生は、ますます豊かなものとなる。

2024/04/14

2024年4月7日「閉じられる天国の門」(マタイの福音書25章1~13節)

【140字ダイジェスト】

神様は私たちを招き聖霊に満たされる「時」を与えられていた。それは大きな恵みであるが、それを軽んじてはならない。油入れを持っていても油を満たして備えなかったため、花婿を迎えられず主人に締め出された愚かな娘たちの轍を踏むことなく、つねに聖霊で満たされて神様を待ち望むことが重要である。

 私たちは天の御国を軽く考えがちだが、イエス様が語られた天の御国は、私たちの想定と異なる部分がある。その時に慌ててしまわないように注意するようにイエス様は勧めている。先週はいつ主人が返って来てもよいように忠実だったしもべの話だったが、今日は備えてなかった花嫁についてである。

 今日は第一に「花婿を迎える備え」について見ていきたい。第一段階は親同士の約束、第二段階は婚約式である。イエス様の父ヨセフと母マリアは、懐妊したときこの段階だった。そして第三が、いよいよ夫婦が一緒になる宴で、多くの方を招くために夕刻から始められた。そのために新郎と友人たちは花嫁を迎えに行く儀式があった。このたとえ話は、この段階である。「そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持ってきていなかった。賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた」(マタイ25-2-3)。この「賢さ」「愚かさ」は知的能力の話ではなく、価値判断の部分を指している。ともしびを持って待つことを軽く考えた娘たちは油を用意しなかった。これは神様の前にどう判断するかという「個人」だけを指すのではなく、聖書でしばしば「花嫁」にたとえられる「教会」も指している。イエス様がたとえ話で娘の数を五人と五人にしたが、注意していないと私たち自身がどちらに転ぶかわからないとの緊張感を持つ必要がある。

 第二に「花婿が来られるときの対応」について見ていきたい。賢い娘たちも愚かな娘たちも、どちらも「花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった」(25:5)と書いてあるが、聖書は寝入ってしまったこと(人間の弱さ)を非難してはいない。しかし、夜中になるまで花婿が来なかったので「もう今夜は来ないだろう」と思っていても、思ってもいないときに花婿(イエス様)は来る。寝入っていたのはどちらの娘たちも同じだったが、両者の違いは「備えて油で満たしていたかどうか」である。聖書は「油を注ぐ」を「聖霊が注がれる」ことであるとしばしば比喩される。クリスチャンは洗礼を受けたのだから「油入れ」は持っている。しかし、そこにたっぷりと「油が注がれている」すなわち「聖霊で満たされる生活を送って来たのか」が命運を分ける。今日、この世の終わりが来るかもしれないし、私自身の死があるかもしれない。しかし「さあ、花婿だ。出迎えなさい」(25:8)という声が来たときに、焦るのか、それとも備えているのか、それが重要である。

 第三に「閉じられた門の前での混乱」について見ていきたい。愚かな娘たちは賢い娘たちに「私たちのともしびが消えそうなので、あなたがたの油を分けてください」(25:8)と頼んだが断られた。「なぜ分けてあげないのだろう」と思うかもしれないが、神様との結びつきはその人のものであり、それを誰かに分け与えたり、誰かの神様との関係を譲ったりすることはできない。賢い娘たちは油を「自分で買ってきた」ので、愚かな娘たちは「油は自分で買ってこなければならない(自分自身が神様との関係を築かなければならない)」ことに気づく。しかし夜中に店を開けてもらうのは時間がかかるし、買って帰ってきたら花婿はすでに来ていて戸が閉じられていた(25:10)。同じように私たちに聖霊が与えられるのは、神様に許された「時」があり、その間に私たちは聖霊を受け入れなければならない。「時」を逃した花嫁たちは、閉じられた戸に向かって「ご主人様、ご主人様、開けてください」(25:11)と叫んだが、主人(神様)は「私はあなたがたを知りません」(25:12)と厳粛に申し渡した。本来、愚かな五人の娘たちも神様に招かれていて、花婿を備えて待つ「時」も与えられていた。今の私たちは、そんな大きな恵みの中に置かれている。そんな神様の招きと「時」を軽んじてあいまいなものとしてしまうことは、破滅的な結果をもたらすことをイエス様は強調している。「ですから、目を覚ましていなさい」(25:13)とあるように、私たちはそんな恵みをしっかりと受けて応答しなければならない。

2024/04/07
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