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2026年07月~最新のメッセージ

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 2026年07月19日「みこころにかなうもの」

​以前のメッセージ・ダイジェストはこちらをご覧ください。

2026年8月2日「神に愛を失わない日常」(ヨハネの手紙第二1:1~13)

 先日、熊本を中心に大きな地震があった。前回のときは、同盟教団の九州の教会が一丸となって活動し、キリスト教として隣人愛を表した。ヨハネの手紙の第一も第二も同時期に成立したが、ヨハネは、愛が見えにくくなっていた当時の教会への危機感があった。

 今日は第一に「真理としての愛」について見ていきたい。「長老から、選ばれた婦人とその子どもたちへ」(Ⅱヨハネ1:1)とあるが、これはもちろん人間的な愛ではなく神様の愛によるものである。さらに、このころギリシア哲学も「真理」を追究していたが、キリスト教のいう心理とは決定的に違う。ギリシア哲学の場合、頭の中で考えた論理であり、日々の生活のどう表していくかという発想はもたない。一方、キリスト教の場合、日々の生活の中において神様のみこころを求め証ししていく。私たちは日々の悩みや苦しみに直面すると、生活から離れたところに理想的な状態を求めてしまう。しかしヨハネの生涯においては、現実の中に神様の働きを見出して来た。神様が、イエス様が「恵みとあわれみと平安が、真理と愛のうちに、私たちととも」にあるというのが、彼の求める真実な状態なのである。「神がともにいる」というのが、私たちの救いであり希望なのである。

 第二に「愛の命令と喜び」について見ていきたい。私たちは「誰かに命令される」という状態を嫌がり「自由」を求めがちである。しかし「従う」と「自由」は対立するのだろうか。「キリストの愛を知る」というのは「神様の命令にしたがう」ことなしにはあれない。つまり神様に対する深い信頼があれば、その命令を自分の生き方の中に見出していける。「御父から私たちが受けた命令の通りに、真理のうちを歩んでいる人たち」(1:4)「私たちが初めから持っていた命令」(1:5)とは、「私たちは互いに愛しあいましょう」というものだとヨハネは言っている。神様の愛に対する絶対的な信頼があれば、神様が私たちを愛したように「私たちは互いに愛しあいましょう」という命令は、どれほど私たちの人生を豊かにし自由にするものだろうか。神様の命令は私たちを奴隷的に従わせるものではなく、私たちの現実に関わって父として私たちをよりよく導くものである。神様の命令にしたがうことで、自分自身がよい方向に変えられ、その結果、神様を深く知ることになる。

 第三に「気をつけるべき反キリストの動き」について見ていきたい。ヨハネは、このころ「イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない者たちが、大勢世に出て来た」(1:7)と警告している。彼らはイエス様のことばを曲解し、自分たちの都合に合わせて理解しようとしていた。本来、自分の弱さや間違いを認めて罪を告白することを、「現実の弱い自分から脱却して、より次元の高い存在にならなければ」と考える。魅力的な見解に見えるが、そもそも私たちの罪は大きすぎ本質的過ぎて自分たちの努力や気持ちの切り替えでなんとかできるものではない。でも当時、そんな「反キリスト」(1:7)的な考えが蔓延し、神様の豊かな報いを阻害している現状があった。神様の恵みを受けるには、私たちのどうしようもない罪を見つめ、イエス様の救いしか罪の贖いができないと心底告白することで、はじめて神様が私たちをどう扱かおうとしていらっしゃるのか、その愛の大きさに気づき、日々の生活に神様が働かれていることに気づく。

2026/08/02

2026年7月26日「あなたに救いが来る」(ルカの福音書19:1~10)

 人間は、「いくら話してもしょせん人は、分かり合えない」と孤独に感じることがある。しかしイエス様は飼葉桶で生まれ、最後は人に裏切られて十字架につけられた。そんな生涯を見るとき「この方ならわかってくれるかもしれない」と希望を見出す。

 今日は第一に「この世の成功者の寂しい心」について考えていきたい。今日の聖書の箇所はエリコの街で、「するとそこに、ザアカイという名の人がいた。彼は取税人の頭で金持ちであった」(ルカ19:2)と書いてある。ザアカイは、この世の人間が求めている「有名になる」「自分がトップに立ちたい」「自分が金持ちになりたい」をすべて持っていた。しかしザアカイには人に言えない秘めたる思いがあった。8節には「だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します」(19:8)とある。一般には欲張りの取税人だと思われているザアカイだが、「だれかから脅し取らず」勤勉に忠実に仕事をして不正はしていなかったことが分かる。しかも「取税人の頭」ということは、それなりに有能で同僚の信任も厚かったことだろう。それでも人々からは、「ローマの取税人」だというだけで、「不正に蓄財した嫌な奴」とあらぬ軽蔑を受けていた。どれほど悔しい思いであっただろう。

 第二にザアカイの行動を見ていきたい。そんなザアカイの街に噂のイエス・キリストがやってきた。心に忸怩たる思いを抱えていたザアカイは、心の救いを求めて「噂通りの男なのか、それともうわべだけの男だろうか」と会いに行った。しかし聖書は、「背が低かったので、群衆のために見ることができなかった」(19:3)とある。人々はザアカイを嫌っていて前にも出してもらえなかったのである。だからザアカイは、「それで、先の方に走っていき、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った」(10:4)とある。彼は子どもではない。社会的に地位のあった年齢のいった男である。だが「この人は、本当に自分の孤独を分かってくれるのだろうか」と世間体を顧みず、木に登ったのである。

 第三に「キリストの救い」について見ていきたい。イエス様一行が近づいてくると、なんと神の子と評判のイエス様が、沿道いっぱいの群衆ではなく「ザアカイ、わたしはあなたの家に泊まるためにこの町にやってきたのだよ」とを名指しで声をかけられた。ザアカイは感動した。ザアカイを「罪人」と侮蔑していた人びとの目線と違って、イエス様はザアカイの心のうちにある信仰を見た。彼は「この人は私の心の中の思いをすべて分かってくださる」と確信し、「財産の半分を貧しい人に施す」そして「脅し取ったものがあれば、4倍にして返す」(19:8)と言った。ザアカイは、救いがあれば財産も地位もいないといったのである。そんなザアカイを、イエス様は「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから」(19:9)と本当に喜んでくださった。

 私たちも「人に知られない自分」という存在がある。一緒に買い物に行ったり食事をしたりする人はいるが、心のうちを打ち明けられない。どんなに他人のために尽くしても理解されない。どんなに自分が努力しても誰も見てくれないと思い悩むときがある。でもイエス様は、そんな人を「見つけ出し」「救い出す」ために来られた。私たちの中にも「ザアカイ」さんがいる。でもイエス様は、必ず見つけてくださる。

2026/07/26

2026年7月19「みこころにかなうもの」(ヨハネの手紙第一5:13~21)

 写真の焦点同様に、キリスト教信仰も、神様のみこころにしっかり焦点をあわせることが大事である。ヨハネは手紙の最後に、「誰」とか「どこの教会」とは言わず「神の御子の名を信じているあなたがたに」、この手紙の目的を書いている(Ⅰヨハネ5:13)。

 今日は第一に「神様の御心を求めるすばらしさ」について見ていきたい。私たちは、子どもが駄々をこねて泣いて要求するように、神様に祈っていないだろうか。ヨハネは「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださる」(5:14)と書いている。神様のみこころは何か、私たちに何を与えようとさせているかを考えなければならない。そのためには自我をおさえて、神様との関係を考え、それを求めているのが「祈り」である。そして、神様のみここにかなう祈りは聞いてくださるというのは、ヨハネの長い全生涯を通した「確信」なのである(5:14)。さらに「私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります」(5:15)と断言している。だから神様との関係を考えれば「今必要なものである」「待つべきものである」「別のよい道が用意されている」のどれかしかない。だから神様のみこころを考えれば、祈りは、もっともよいモノがもっとも良い時に与えられることが約束されているということになる。これがクリスチャンの確信である。

 第二に「罪を犯した兄弟たちのためのとりなし」について見ていきたい。ヨハネは、この手紙の中で教会での「愛」について語って来た。彼は「祈りは必ずかなえられる確信」を語った後で、「罪を犯している教会の仲間」について語っている。私たちは「罪を犯している仲間」のためには、祈るのではなく、つい裁いてしまいがちになる。だがヨハネは、「罪を犯している仲間」は表面上平穏で、世にあってはうまくいっているかもしれない。だが、「神様から一時離れている」ことは「たましいの危機」であるので祈るべきである。それが教会の愛の交わりなのである。それでは「死に至らない罪」と「死に至る罪」とは何だろうか(5:16)。ヨハネは語っていないが、イエス様はそのことに言及してはいる(マタイ12:31)。だが「許される罪か許されない罪か」を心配したり人をさばいたりするのではなく、御使いに粘りに粘って許しを請うたアブラハムのように(創世記18:22-33)、イエス様の罪の許しを確信しどこまでもとりなしの祈りをすべきなのである。

 第三に「神様に属している自覚」について見ていきたい。ヨハネは「神は愛です」(Ⅰヨハネ4:8)と繰り返し述べている。美しく広い世界が目を塞ぐ十円玉2枚で見えなくなるように、神様の愛がどれほど大きくても、私たちの心がわずかでも頑なであれば見えなくなってします。私たちは「神から生まれた者」であり、神様は「その人を守っておられ、悪い者はその人に触れることができない」(5:18)のである。多くのクリスチャンは、自分の人生が神様によって守られてきたという実感を持っているはずである。私たちが「神に属している」(5:19)こと以上に確実なものはない。一方「世全体は悪い者の支配下にある」(5:19)ので、私たちは常に「神に属している者」としての自覚をもって、神様に祈り求めていくべきなのである。

2026/07/19

2026年7月12日「闇に打ち勝つ信仰」(ヨハネの手紙第一5:1~12)

 先日会ったある牧師は、高校時代、陸上選手で名をはせていたが、遊んでいたトランポリンで失敗して脊髄を損傷して以来、車いす生活になった。トップの栄光を寸前でつかみ損ね絶望したが、その後の人生を見たときに何が勝利かと思ったという。

 今日は第一に「神から生まれた者の勝利」について見ていきたい。ヨハネは「イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです」(Ⅰヨハネ5:1)と強調している。クリスチャンは、その人がどんな境遇でどんな人生を歩んできたとしても、「神から生まれた者」として「兄弟姉妹」という関係性をつくれる。これは「人類みな兄弟」という抽象的なキャッチフレーズとは異なる。神様が愛した人々であれば、そこにはすでに関係性があり、神への信仰を通じて愛の実践ができる。そして「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です」(5:3-4)とあるが、私たちは神様から与えられた「勝利」がある。世の中には競技、出世、お金での勝利などたくさんある。しかし、ここでの「勝利」は、人間が厳正でしゃにむに追求している勝利とは違う。このような勝利は、自分の人生で一瞬に過ぎ去るもので、人生の終わりに意味を見出せるものではない。高齢者施設で話を聞くと、多くの人は「自分の人生は若いときのままだと思ったが、こんな終わりは予想しなかった」という。一方、クリスチャンは決して翻ることのない神の愛に生き、実践する生涯が保証されている。それが「世に打ち勝つ」(5:5)ということで、過去の勝利が永遠に続くという文法が使われている。

 第二に「勝利への証し」について見ていきたい。ヨハネは「世に打ち勝ったあなたがたが、頑張っていきなさい」とは言っていない。また信仰があれば何でも勝てるとも言っていない。勝利者は「イエス・キリスト」(5:6)であり、私たち自身の努力や栄光ではない。私たちがイエス様を救い主として告白したときに、御霊が与えられ、私たちの内側が清められ変えられた。そして私たちの中にイエス・キリストを位置づけ受け入れていくことが重要なのである。この「水と血によって」(5:6)とは、洗礼と十字架の犠牲だと思われるが、イエス様が私たちの罪の真ん中に来て私たちを清め御霊を与えてくださったという重要な認識を指していると考えられている。

 第三に「キリスト者においての証し」について見ていきたい。キリスト教信仰は、宗教的知識を学び理解することで成立するのではない。自分の罪を自覚し、神様がイエス様の十字架のように自分たちが完全に清められたという神様の証しを受け入れる。それが重要なのである。そこには厳しい修行も学びもない。「もう少し理解し納得してから」という考えも違う。ただ「神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということ」(5:11)、そう証しする神様を受け入れる「決断」があるだけである。私たちが、神のみことばに真剣に向き合わなければ、神様の恵みを受け入れることはかなわない。それが、私たちが「いのちを持つか持たないか」という重要な分かれ目となる(5:12)。その重みを改めて噛みしめたい。

2026/07/12

2026年7月5日「全き愛の強さ」(ヨハネの手紙第一4:13~21)

 近年、世界で戦争が多発し、力こそ必要だと社会が考え始めている。でも本当にそうか、立ち止まって考えなければならない。しかしダビデは、苦難の中で力の象徴である戦車や馬でなくもとめるのではなく「主の御名を呼び求める」(詩編20:7)と述べた。

今日は第一に「神の愛にとどまる」ことについて見ていきたい。ヨハネはこれまで神の愛について論じてきた。彼は若いころイエス様に出会って、今、老齢になったこの時期に、手紙で神の愛について繰り返し語っている。そのヨハネは「私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられる」(Ⅰヨハネ4:13)と確信をもって述べている。多神教の場合、神は身近であるが神と人との関係性が薄く、時に裏切られることもあり神に大きな期待を置いていない。祈りはその場しのぎになり、自分の求めるままに安易に祈っている。一方、聖書は、私たちと神様との関係性の深さを語っている。そして私たちの信仰生活全体を通して結びつきを確信していく。この結びつきは神様側からの働きが大きく、私たちは御霊の働きによるものであり、私たちが神様と交わり結びつくためには私の側が壁を作らず御霊を受け入れるべきである。

 第二に「恐れを締め出す愛」について見ていきたい。聖書は「私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられる」(4:16)と言い「こうして、愛が私たちにあって全うされました」(4:17)と述べている。ヨハネは自分の人生を貫くように、いつも神の愛を感じている。曽於人生で神様の愛を感じなかったことはなかった。常に神様の愛で人生が満ちあふれていたとヨハネは実感している。ただ、それは何も障害がない人生ではない。「この世において、私たちもキリストと同じであるからです」(4:17)というように苦難の道を歩いて神様への信仰を全うし、天の御国を継いだイエス様と同じだというのである。だが、そこには「恐れはありません。全き愛は恐れを締め出します」(4:18)とヨハネは言う。自分にとってこの世の宝だったものを失うことは、地上という価値観だけで見ると苦痛でしかない。しかし、もし私たちが神様の愛で行かされていることを実感していれば、それが「ちりあくた」だとしか思えなくなる(ピリピ3:8)。神様を100%信じて頼り切るのではなく、自分の力に頼るところを残しているなら、それは「安全策」ではなく「恐れ」の部分を残しており(Ⅰヨハネ4:18)、さばきの日に確信を持てなくなる。

 第三に「互いの中に証しされる愛」について見ていきたい。さらにヨハネは「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見える神を愛することはできません」(4:20)と述べている。ヨハネは、神様と私の愛の関係性について述べてきたが、それを身近な関係性の中に表すべきだと勧めている(4:21)。しかしヨハネがあえて手紙に書いたということは、初代教会の中にも兄弟姉妹を愛せない状況が蔓延していた証左でもある。互いに憎み合い傷つけあうことも、人間の関係だから教会でもありうることである。しかし、それは神様を偽り者とすることになる。ヨハネは、それを許容せず「神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています」(4:21)と、教会が教会であることの基盤だと主張している。

 

2026/07/05

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