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2024/07/07

2024年7月7日「十字架刑を求む声」(マタイの福音書27章11~26節)

 外部からキリスト教を見たときに、「清く美しい」というイメージがある。しかし私たちは、美しいイメージの奥にある自分たちの罪や醜さから目をそらせてはいけない。私たちの中には、自分たちでも気づかない大きな罪があり、イエス様の十字架を通して私の罪が暴かれたと考えるべきである。

 今日は、第一に「ローマ総督ピラトの前に置いてのイエス様の沈黙」について見ていきたい。ピラトは裁きのなかで「あなたはユダヤ人の王なのか」(マタイ27:11)と尋ねている。ローマの支配下にあり傀儡政権が王を務めている当時のユダヤで、「自分はユダヤの王である」と自称することは、ローマへの明確な反乱であった。ユダヤの最高法院では「神を冒涜している」というのが死刑に値するが、ローマは宗教的な判断には立ち入らなかった。そこで「ユダヤ人の王と自称している」というローマへの反乱の意思を取り上げていた。しかしイエス様はピラトに「あなたがそう言っています」(27:11)としか答えなかった。そしてイエス様が「祭司長たちや長老たちが訴えている間は、何もお答えにならなかった」(27:12)と書かれている。イエス様は反論したり、ましてや神の御子として裁いたりしようとはせず、彼らの罪をひたすら受け止めようとされている姿勢が見られる。

 第二に「ピラトの裁判における善と悪の選択」について見ていきたい。ピラトは、ユダヤ人の訴えを検討したらイエス様に罪がないことを知っていた。その一方で、ユダヤ人社会から「死刑にしたい」と言っている人物を「無罪だ」という判決を下したら、ユダヤ人社会の反発を食らうと恐れていた。そこで思いついたのが「祭りの中での恩赦」の制度(27:15)であった。これは律法に決められた制度ではなく、祭りのイベントのひとつでしかなかった。ピラトは、まさか行頭や殺人を犯した人物の釈放を民衆が望むとは考えていなかった。多くはユダヤ人のためにローマで戦ったような民衆に人気のある人物が、民衆による恩赦要求の対象となってきた。それがローマ支配下の「ガス抜き」として効果があったためである。だからピラトは、「強盗と殺人でユダヤ人社会に恐怖を与えたバラバ・イエス」か、キリストとして民衆に人気のあったイエス様かという二者択一を用意して、民衆を誘導して判断させようとした(27:17)。ピラトの予想では、ユダヤ社会の一部からは反発があったが、まさかあの悪人と比べたら民衆も悪人を選ばないだろうというものであった。しかし民衆は、ひとこと「バラバだ」(27:21)と答えた。ピラトは、ローマの傀儡政権を預けられた王として、公正な裁判によってローマの権威を徹底させる役割があった。しかし彼は、ユダヤ社会における自分の立場を慮って民衆の反感を恐れ、公正を装いながら自らの判断を放棄する選択を行ったのである。私たちも、この世の論理や人の眼を気にして、神の正義を行うこと曲げてはいないだろうか。

 第三に「十字架を求めた人々の声」について見ていきたい。ピラトは「語ることが何に役にも立たず、かえって暴動になりそう」なのを見て、暴動を恐れる自らの心が悟られないように、ユダヤの律法(申命記21:6-8)にある水を取り、群衆の目の前で手を洗う(マタイ27: 24)とのパフォーマンスをして見せた。さらに聖書は、ピラトが判断を丸投げしただけでなく、イエス様の十字架を決める決定的な役割を果たしたのが群衆であると聖書は述べている(27:21,22,25)。ちなみに十字架刑自体はローマの制度である。普段からローマに反発していた群衆が、ユダヤの律法の石打ち刑ではなく、ローマの総督にローマの死刑方法を求めたことも異常である。そこに神様に対する徹底的な反発心が見て取れる。これは、自分たちとは関係のない「ある一時代」の「ユダヤの一部の人々」にあった心ではない。私たち人間がみな共通に宿している大きな罪なのである。イエス様を「十字架につけろ」と叫んだ群衆の中に、私もいたことを忘れてはならない。

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