
仙台のぞみ教会
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2025年04月~最新のメッセージ
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2025年4月27日「サウロ王が抱えた闇」(サムエル第一28:5~19)
生ける神を信じるとはどういうことだろうか。サウロは、ペリシテ人との全面戦争をひかえて、神に見捨てられていることを自覚させられた。それは、聖書が示す最も深い闇である。サウロは神への信仰を口にしながら、その歩みで自己中心性を捨てようとしない。神のことばに従がわない。そのサウロを反面教師とし、私と神との関係を問い直すことが求められる。
1 サウロの恐れ
サウロは「ペリシテ人の陣容を見て恐れ、その心は激しく震えた。」(5)陣容はそれまでと大きく違っていた。圧倒的な勢力の差がある。けれどもサウロの恐れは、神に見捨てられているという自覚によって倍化している。サウロは、これまで強さを前面に出して民を統率してきた。けれども軍事的な勢力の差を目の当たりにし、イスラエルを支える最も重要な支えが失われていることに気がついた。それは生ける神との関係である。
神との関係は、神のことばに聞き従がうことで見出される。そのことを抜きに神に助けを求めるのは信仰の道ではない。
2呼び出されたサムエル
サウロは、「口寄せや霊媒を追い出した」(3)そこには、兵の戦意を強めるため、イスラエルをきよめる意図があった。律法によれば、口寄せや霊媒は禁止事項であったからである。(レビ19:31)けれども、サウルは、霊媒によって、サムエル死者の世界から呼び戻そうとした。そのため偽装して「霊媒する女」に会いに行く。女はサウルに言った。「あなたは、サウルがこの国から霊媒や口寄せを断ち切ったことを御存じのはずです。それなのに、なぜ、私のいのちを罠にかけて、私を殺そうとするのですか」
霊媒をしたら、そのことが伝えられただけで処罰されてしまい、おそらく死刑になる。この女からすれば、どうしてそんなことを頼むのかということになる。
これに対してサウルは「主は生きておられる」といって、女の安全が守られることを約束した。サウロは立ち返るべき起点を取り違えている。「生ける神」は、霊媒の中に御心を現す方ではないからだ。
3 神の言葉の実現
女は、死者を呼び出すといっても、口先でごまかそうと思っていたのではなかろうか。ところが、「神々しい方が地から上って来るのを見」たので驚いた。サウルは、それはサムエルであることを知る。そしてサムエルに相談した。「私は困り切っています。ペリシテ人が私を攻めてくるのに、神が私から去っておらます。…それで、私がどうすればよいか教えていただくために、あなたをお呼びしました。」しかし、サムエルの言葉は、サウロの期待と正反対であった。イスラエルがペリシテに蹂躙されるのは、主の言葉の実現であると告げる。「主は、私を通して告げられたとおりのことをなさったのだ。」(17)もし、サウロが、この言葉を真摯に受け止めることができたなら、もう一度、神様との関係を築き直せたかも知れない。神の憐みを軽んじてならない。
2025年4月13日「キリストの受難」(Ⅰペテロ2:19~25)
イースター直前の「棕櫚の主日」は、民衆がイエス様のエルサレム入城時に道に棕櫚を敷いて歓迎した故事による。しかし、その一週間で民衆の気持ちは変わり、イエス様と命を共にすると覚悟したペテロも逃げた。この手紙は、弱さを自覚したペテロがキリスト教弾圧の時期に書いたものである。
今日は第一に「不当な苦しみに耐える信仰」について見ていきたい。ペテロは「もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです」(Ⅰペテロ2:19)と手紙に書いている。人間は今まで信仰を保っても「悲しみ」に陥ると信仰が揺らいでしまいがちになる。しかしクリスチャンは、神様の恵みによって備えられた「神の御前における良心」によって立つことで悲しみに立ち向かう。人間は自分自身では打ち勝つことのできない苦しみや悲しみも、神様のゆえに立つことができる。そして神様は、信じ頼る人に道を備えてくださって、苦しみや悲しみを喜びに変えてくださる。苦しみや悲しみは自分で乗り越えるのではない。神様に拠り立つことで「罪を犯して打ちたたかれ、それに耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それに耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです」(2:20)とペテロは述べている。キリスト教弾圧の中で、このことばは当時のクリスチャンの心に響いたことであろう。
第二に「キリストの模範と召し」について見ていきたい。ペテロは、さらに「このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された」(2:21)と、手紙を出した各地方のクリスチャンに述べている。これらの人びとは政治的宗教的に追われて難民化(ディアスポラδιασπορά:まき散らされた人々)していた。もともと選民思想のあったユダヤ人にとって、諸国の人びとに蔑まれて仮住まいをしている状態は耐え難いことだっただろう。しかしペテロは、「あなたがたは旅人、寄留者なのですから」(2:11)とアブラハム以来の歴史を想起させ「異邦人の中にあって立派にふるまいなさい」(2:12)と述べている。そして、この状態こそが「召された」状態であり「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された」(2:21)と述べている。そしてイザヤ書の53章9節を引用しながら、イザヤ書で書かれた「彼」がイエス様なのだと断言している(2:22)。さらにイザヤ書の53章7節もイエス様だと述べている(2:23)。悲しみは自分でわざわざ引き寄せるものではない。外から来るものである。だが人ではなく、神様が与えられた苦難は特別の恵みである。そのイエス様の生き方をなぞり模範とする生き方は(2:21)、神様にあって備えられた恵みであるという。
第三に「苦難の結果と須久木」について見ていきたい。ペテロは「キリストは自ら、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた」(2:24)と述べている。しかし「私たちが罪を離れ、義のために生きる」ことは何と難しいことであろう。私たちの本来の性質は罪に生き、神様と敵対してきたものであった。その私たちが罪を離れ、神様を見上げて生きることは何と難しいことだろうか。だが、その人間の罪にまっすぐに向き合って、私たちの罪の代価となり、私たちの罪を一身に受けられたのがイエス様である。「罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった」(2:22)方が、「十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた」(2:24)ことを知れば、私たちは自分の罪の大きさに向き合わざるを得ない。だが私たちは、「その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた」(2:24)と完了形で述べられている。私たちは自分の罪の性質に向き合い、イエス様の十字架を信じた段階で、すでにすべての罪が贖われ神様との関係を回復した。その真実さをかみしめ、その恵みに感謝していきたい。
2025年4月6日「迷いからの後退」(Ⅰサムエル27:1~12)
日本では、子どもが安心してひとりで出歩いているが、そのことに驚く外国人の方は多い。人が生きていく上で安心できる場所を確保できるかは重要である。これに対して日常的に「恐れ」に襲われていると、平常では考えられない行動をとってしまう。このときのダビデがそうだった。
今日は第一に「ペリシテへの逃亡」について見ていきたい。サウル王の執拗な追跡に対して、ダビデは「私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない」(Ⅰサムエル27:1)と考えるようになった。だが敵対勢力であるペリシテ人の土地に逃げ込むことをダビデ一人で判断して、「一緒にいた六百人の者を連れて、ガテの王マオクの子アキシュのところ」(27:2)へ逃げて言った。このアキシュは、ダビデが恐れて「気が変になったふり」(21:13)を恐れてやり過ごそうとしたアキシュの息子である。だが今回は、サウル王に敵対している勢力を統率しているダビデが、自分を頼って来てくれたので「敵の敵は味方」と受け入れた。一方、ダビデが敵対勢力のペリシテ人に助けを求めたことから「サウルは二度と彼を追おうとしなかった」(27:4)。この行動によってダビデの家族や部下も安心を確保でき、一年四か月滞在できた(27:7)。その点では目の前の成功を得たように見える。しかし、その行為は神様の御前にどうだったのだろうか。
第二に「失われた真実性」について見ていきたい。ダビデはアキシュに「もし、私があなたのご好意を得ているなら、地方の町の一つの場所を私に下さい。そこに住みます。どうして、このしもべが王国の都に、あなたと一緒に住めるでしょう」(27:5)と言い、ガテから40キロ南にある田舎のツィクラブを与えられた。実はダビデのことばは本心ではなく、王であるアキシュの目の届く範囲から逃れるための言い訳でしかなかった。アキシュは、ダビデはイスラエルから追われているので自分と一緒にイスラエルと戦ってくれるだろうと期待していた(27:12)。だがダビデは、イスラエルの敵である「ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人を襲った」(27:8)上に、それがばれないように「男も女も生かしてはおかず」(27:9)皆殺しにした。これらの民族が神様の御前にどうだったのか。彼らを皆殺しにするのはどうだったのか。今日の倫理観からダビデの行動を判断するのは難しい。だがダビデはイスラエルのネゲブ地方を襲ったとアキシュ王に報告し(27:10)、分捕り物を王に献上していた。完全にアキシュ王をだまして自分たちの安心を確保していたことになる。
第三に「霊的な闇からの回復」について見ていきたい。このような行動を続けていた結果、あるときアキシュ王と一緒にイスラエルのネゲブを攻めいらなければならない羽目になり(29:9-10)、戦いに出かけている間に拠点であるツィクラブに帰ると、アマレク人に襲われて自分たちの家族が連れ去られて町が焼かれていた(30:2-3)。さらにダビデは、彼を信じてついてきた部下たちから「ダビデを石で撃ち殺そう」(30:5)とまでに追い詰められた。だが、この厳しい状況にあったとき、彼は心を奮い立たせた(30:6)神様の御心を求めた(30:7-8)。ツィクラブでの一年四か月は、ダビデとその仲間他tにとってしばしの「安心」を与えたかもしれない。しかし、それは神様の御心を求めることなく、偽りを続けた上での「安心」でしかなかった。私たちは、しばしば自分の都合のよい願望を「神の御心」と思い込んで都合よく利用してしまう。しかし神の御心を求めるということは、自分の願望とは異なるものが出ても従うという覚悟をともなわなければならない。このとき神様は、どこに逃げたかもわからない敵を「追え」(30:8)と命じ、動けなくなっていた二百人を置いて四百人が追撃を開始し(30:10)、すべてを取り戻すことができた(30:18)。この事件は、目の前の「安心」に浸っていたダビデたちに、霊的な回復をもたらした。困難の中で神様の御心を受け止め、霊的に奮い立つことが大切である(30:6)。