top of page

2026年04月~最新のメッセージ

Top

​下のボタンで目的の日のメッセージにとべます。

 2026年06月07日「」
 2026年06月14日「」
2026年06月21日「」
 2026年06月28日「」
 2026年05月03日「」
 2026年05月24日「」
 2026年05月10日「」
 2026年05月17日「」
 2026年05月31日「」
 2025年04月19日「愛による献身」
 2026年01月26日「いのちの現れ」

​以前のメッセージ・ダイジェストはこちらをご覧ください。

2026年4月19日「愛による献身」(ヨハネの福音書21:12~19)

 「松原湖畔にて朝イエスさまと出逢いました」からはじまる、山内修一さんの作詞作曲のゴスペルに「松原湖畔にて」という曲がある。今日の箇所は弟子たちが湖畔でイエス様にあったが、これは「三度目」(ヨハネ21:14)であった。

 今日は第一に「交わりの回復」について見ていきたい。イエス様は十字架の前に弟子たちと「最後の晩餐」をとられたが、この朝食は「闇と光」の対比の様に思える。「最後の晩餐」の直後に弟子たちは十字架につけられたイエス様から逃げ、関係は断絶した。だがイエス様は復活し、弟子たちの中に現れた。そして関係を壊した弟子たちを、「さあ、朝の食事をしなさい」(21:12)と、再び招かれた。朝の光の中に現れたイエス様の姿は一層輝いて見え、たしかな復活を感じさせるものだろう。しかし、その輝かしい姿のイエス様を前にして、イエス様を裏切った想いのある弟子たちの方は様々な罪の思いが頭をよぎったことだろう。特に「三度私を裏切る」と指摘され(13:38)、その通りになったペテロはいかばかりだっただろう。その弟子たちに「イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた」(21:13)のである。ペテロは、復活のイエス様の前に自らを恥じたものの(21:7)、十字架によって私の罪がたしかに許されたことを確信したからこそ、イエス様から食事を受け取り共に食べたのである。

 第二に「主への愛に対する問いかけ」について見ていきたい。弟子たちが食事を済ませたあと、イエス様はペテロに「わたしを愛していますか」と繰り返しなされた。この1,2回目の「愛」は、神様の無償で普遍的な愛である「アガペー(ἀγάπη)」を意味している。イエス様が「あなたはこの人たちが愛する以上に」(21:15)という問いは、ペテロの愛の大きさや卓越差を認めているのではなく、逆に他の人以上にひどい裏切りをしてしまって他の人以上に悔いているという意味である。だからこそ「罪が許された」という喜びや神様への感謝は他の人以上になっているというのである(ルカ7:47)。私たちも、負いきれない自分の罪の大きさに愕然とするとき、神様の愛の大きさが分かり感謝が生まれる。

 第三に「イエス様の愛に対するペテロの応答」について見ていきたい。イエスさアmの問いかけに対して、ペテロは「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」(ヨハネ21:15)と答えた。だが、この「愛」は友愛や友情といった人間的な愛「フィレオ―(φιλíα)」でしかない。だが、それでも自分の可能な全身全霊をかけて愛したいと、すべてをさらけだし「あなたがご存じです」(ヨハネ21:15)と述べている。このペテロに未熟な「子羊」たる人間を牧するように命じた。後にこの記事を書いたヨハネの目には、来たるべき「教会」が浮かんでいたのだろう。教会はイエス様が「わたしの子羊」(21:16)と責任を持ってくださる。イエス様は、さらに「ヨハネの子シモン」と正式名を持って呼ばれた。そして「牧しなさい」と、神様とともにある豊かな生き方へ導く役割を任された。さらにイエス様は三度問いかけたが、一度もペテロの裏切りを指摘しなかった。イエス様の三度の問いかけは「愛」を問いかけ続ける中で罪と愛を自覚する。ここから神様の用意された愛を基盤とした新しい時代がはじまる。ここに教会の原点がある。

2026/04/19

2026年4月12日「魂をすなどる働き」(ヨハネの福音書21:1~11)

 4月は移動の多い時期で、環境の変化によって新しい自分の環境を再認識することがある。十字架のあと、イエス様と弟子たちの関係性は新しい段階に入った。弟子たちは、イエス様と個別にたましいでつながることになる。

 今日は第一に「ガリラヤで漁師に復帰した弟子たちの行動」について見ていきたい。イエス様の復活は弟子たちにとって、たしかに衝撃だった。だが、その直後の彼らはまるで気が抜けたようになっていた。その後の生き方をどうするか分からず、弟子たちのうちの七人(ヨハネ21:1)は、ガリラヤに帰り漁師となった(21:3)。イエス様は、彼らを宣教の先兵として訓練を受けさせてきたはずだが、彼らにはその熱気が感じられなかった。だが漁師になった彼らは何も捕れず、生活に空虚さを感じていた(21:3)。そこにイエス様が現れた。だが彼らには、イエス様のことに気づかなかった(21:4)。弟子たちも私たちも、日常の生活の中で復活のイエス様とどうかかわるか、それが問われる。

 第二に「復活の主との出会い」について見ていきたい。私(牧師)自身が教会に行きはじめたときに「復活を信じる」ことがなかなか受け入れられなかった。どう考えても頭ではわからず、復活を信じている教会の人たちが信じられなかった。そんな私が復活を信じたのは突然ではなく、日常の生活の中でみことばに従っていくことで分かってきた。このときイエス様は弟子たちの集まっている所に現れ、約束通りガリラヤで弟子たちとお会いになった。このとき「イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった」(21:4)とある。その距離は「二百ペキス」(21:8)約90メートル離れていた。そこからイエス様は、舟の上の弟子たちに「食べる魚がありませんね」と声をかけられた(21:5)。彼らにとって「夜通し漁をして魚が捕れない」というのは、死活問題である。その現実を鋭く指摘されたわけである。その彼らにイエス様は「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます」(21:6)と声をかけ、そのことばに従うことでおびただしい魚が捕れた。ポイントは、イエス様が「彼らの日常に入ってこられたこと」、そして「みことばに従うことで大きな実りがあること」である。私たちも祈りの中で迷い、イエス様の姿が見えなくこともある。それでも祈り、みことばに耳を傾けて決断していくことが重要である。それを通して私たちは恵みと復活のイエス様に出会う。さらにペテロは、イエス様と出会ったときの大漁のこと、自分がイエス様を三度否定したこと、そのイエス様が会いに来てくださったことなど個人的な思いがよぎり、イエス様との新しい関係が築かれた。

 第三に「魂をすなどる働きへの召し」について見ていきたい。「こうして彼らは陸地に上がると、そこには炭火が起こされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた」(21:9)とあるが、イエス様が朝ごはんの準備をして待っておられた。一緒に食事をとることを、聖書は重視していると同時に非常に人間的な行為でもある。イエス様と魚を食べるという体験を通し、弟子たちは「あなたがたを人間を捕る漁師にしてあげよう」という、かつてのイエス様のことばを思い出し、自分たちの最初の使命を思い出したことだろう。そこには弟子たちのこれからの働きに対する、イエス様の励ましが感じられた。

2026/04/12

© 2023 by COMMUNITY CHURCH. Proudly created with Wix.com

bottom of page