
いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中ですぐれているのは愛です。
仙台のぞみ教会
2026年04月~最新のメッセージ
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2026年6月21日「イエス・キリストの告白」(ヨハネの手紙第一4:1~6)
現在、特定の宗教を信じる人は減少しているが、スピリチュアルなことに関心を寄せる人はむしろ増えている。体系的な宗教の教義より、自分の内なる霊的な直観を信じる傾向もある。当時の小アジアも、多様な霊的観念が重層的に折り重なる文化があった。
今日は第一に、「吟味されるべき霊の根源」について見ていきたい。ヨハネは「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者たちがたくさんに世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい」(Ⅰヨハネ4:1)と忠告している。教会に集う人には神様の聖霊がとどまっているが(3:24)、その教会にも様々な霊が入り込んでくる。ヨハネは言っている人が一見正しそうだったり、表面的に人が誠実でまじめそうだったりする場合でも、それが何から来ているか吟味する必要があると述べている。近年の日本の教会の歴史を見も、たびたび問題がはびこり間違いを繰り返してきた。しかしヨハネは、それを簡単に見分ける方法も述べている。すなわち「人となってこられたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです」(4:2)という点である。「神が人となる」「十字架によって贖われる」などは、人間の理性や悟りで理解出来るものではない。それを信じられるのは神様からの悟らせがあったからである。一方、言っていることは立派でも、これらを否定して「理性的に」説明しようとするものは、神様からのものではない。
第二に「キリストを告白しない霊について」について見ていきたい。宗教を比較すると、聖書が言っていることと他の宗教が言っていることは、一見「似ている」と思えることもある。その結果。「どんな宗教も究極的には同じ救いにいたる者である」という人もいる。だが、それは大きな間違いであり、さらにヨハネは「反キリスト」だとまで断言している(4:3)。当時、流行のギリシア哲学のグノーシス主義に基づいて肉的世界と理想的なイデアの世界の二元論で世界を捉え「現実生活の問題を直視せず、神様の世界だけを考える信仰」と考える人もいた。信仰と生活がバラバラになり、現実の自分の罪や隣人の痛みを無視することになる。だがイエス様は神でありながら私たちと同じ生活をされ、現実社会の痛みの真ん中に立たれた。「イエスを告白する」とはそういうことである。理念的な神様の世界を夢見ているその瞬間も、私たちを食い荒らす「反キリスト」は「すでに世に来ているのです」(4:3)とヨハネは忠告する。
第三に「神から出た者に約束される勝利」について見ていきたい。ヨハネは「あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました」(4:4)と述べている。父なる神様はイエス様に万物をお与えになった(ヨハネ3:35)。そのお方が私たちのうちにおられる。世の人々は世のことの範囲内で話し、その権威は絶大に見える(Ⅰヨハネ4:5)。また世の人々に神様のことを伝えることも無駄に思えたりもする。でも神様は私たちに語り続けることをお求めになっている。私たちにとっては理解できないこと、無理だと思うことも多い。でも神様の視点から見ると「彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者より偉大だからです」(4:4)。そして、私たちは自分で判断するのではなく、まず語ることである。私たちが選ぶのではなく、神様に聞き従う者は神様が選んでいる。
2026年6月14日「御父の前での確信」(ヨハネの手紙第一3:20~24)
今の世は、人と人との関係や社会全体の関係が昔と異なってきている実感がある。「愛が希薄になっている」という根本的な変化が原因ではないだろうか。それでは、私たちは愛をどこに求めたらいいのか。まず自分を愛することも重要である。
今日は第一に「平安を持つことの確信」について見ていきたい。ヨハネは「たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます」(Ⅰヨハネ3:20)と述べているが、その背景には他人の指摘や次回によって自分を心を責めるという痛みがある。だがヨハネは「自分の心を責めること」に無関心になれというのではない。痛みを痛みとして受け止めても平安がるというのである。責める者に対して頑なになるのではなく、神様のことばによって自分の心を見つめていくことで、神様の側に属している自分を発見する。ヨハネは「神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです」(3:20)という。頭ではわかっているが、「神様が赦してくださり、愛してくださる」という原点に戻れば平安は得られる。罪を責められたときの自分自身の感覚ではなく、神様側の視点で自分という存在を見つめ直せば、罪ある自分を神様はそのままで愛してくださっていることが分かる。
第二に「御父の前での確信」について見ていきたい。ヨハネは続けて「愛する者たち。自分の心を責めないなら、私たちは神の御前に確信を持つことができます」(3:21)と述べている。「自分の心を責める」ことから解放されるには、「神の御前に確信を持つ」という信仰者としての立ち位置が重要である。「自分は神様の子とされたのか」「本当に神様に愛されているのか」という自分の感覚ではなく、「神様が約束してくださった」というみことばを確信して受け止める必要がある。神様の約束は変わらない。しかし、それを認められないのは私たち自身の心の揺れ動きが理由である。私たちは、神様のみことばに立つことを実践として毎日の生活の中で行うことで、神様の恵みを最大限に受け止めることができる。ヨハネは「求めるものを何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです」(3:22)と言い切っている。それは神様に従ってきたヨハネの長い人生の結論である。そして私たち後進に「子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合う」(3;23)ように勧めている。一方、自分の心を責め「どうせ求めても無駄だ」と考え始めると、祈りは無駄だと感じ、神様の恵みを減少させていく。すべては私たちが神様のみこころを求めることである。
第三に「神のうちにとどまる」ことについて見ていきたい。ヨハネは「信じること」と「愛すること」の密接な関係について述べている(3:23)。ヨハネは神様のうちのとどまり愛を実践することを勧めている。その愛は「自分自身の愛」でなく「神様からあふれる愛」である。「自分自身の愛」はやがて枯れ渇きを感じてしまう。ヨハネは「神の命令を守る者は神のうちにとどまり、神もまた、その人のうちにとどまります。神が私たちのうちにとどまっておられることは、神が私たちに与えてくださった御霊によって分かります」(3:24)と述べている。私たちが神様のうちにとどまることで、神様の愛は私たちにとどまる。その愛は枯れることはなく豊かな実を結ぶ(ヨハネ15:4)。
2026年6月7日「神から生まれた者」(ヨハネの手紙第一3:11~18)
今年の教会のテーマは「互いに愛を持って仕える教会」である。このヨハネの手紙を見ると、愛について同じようなことを繰り返していることが分かる。彼は、大事なことを一人ひとりの心に留めたかったのであろう。
今日は第一に「互いに愛する愛」について見ていきたい。ヨハネは「互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です」(Ⅰヨハネ3:11)と述べている。「使信」は手紙であるが、当時は手紙を託された人たちが文字だけではなく手紙を出した人の思いをことばで伝えていた。この場合は、神様からの「ことば」と、それを伝える弟子たちがイエス様に訓練されて生活の中で体験したことを教会に伝えていた。このことは、高齢となったヨハネ自身は「イエス様に直接教えを受けた」ことを自慢しているのではない。むしろ、切れやすく(ルカ9:54)イエス様にボアネルゲ(雷の子)とあだ名されたヨハネが変えられてきた謙遜の体験を前提としている。そして「自分のはじまりのころ」ではなく、神様が初めから語られてきたみことばを指している。
第二に「兄弟に愛する愛」について見ていきたい。ヨハネは、兄弟という最も近しい関係の間柄でも悪いものが入り込むととんでもない罪を犯すということを、カインとアベルの例で説明している(Ⅰヨハネ3:12)。なぜ、このようなことが起きたのか。ヨハネは「自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかった」(3:12)ことが、自分の過ちや罪を認めることが出来なくなって殺意にいたったと言っている。本来、神様から罪を指摘されたときに方向転換をしなければいけなかった。「カインの末裔」という言葉があるように、私たちは罪を認められずに滅びに走ってしまう傾向がある。さらに、その罪は「世に対する憎しみ」に発展しがちである。このような罪を受け止め距離を置こうとすると、今度は自らの罪を突き付けられた世があなたがたを憎む(3:13)ことにもなりうる。
第三に「憎しみから解放されたクリスチャンの生き方」について考えていきたい。でヨハネは、憎しみのために兄弟を殺したカインと対極の生き方として、イエス様の生き方を取り上げ「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです」(3:16)と述べている。これこそが私たちがイエス・キリストの中に見た愛だというのである。若いころのヨハネも、私たちのために十字架の上でご自身を犠牲にされるとは思ってもみなかった。それを目の当たりにし、罪深かった自分のためにいのちを捨てられたことを理解し、「それによって私たちに愛が分かったのです」(3:16)と述べている。私たちは「カインの末裔」として神様に反逆し兄弟たちと敵対してきた。そんな私たちのためにいのちをすてて究極の愛を示された結果、同時代に生きていた弟子たちは、初めてイエス様の説かれてきた愛を理解でした。高齢となったヨハネは、その愛を伝えるべきだと強く思い、その愛を生活の中でも表すべきだと述べている(3:17)。だから高齢となったヨハネは、若い世代に「子どもたち。私たちは、ことばや口先だけでなく、行いと真実をもって愛しましょう」(3:18)と繰り返し主張している。。
2026年5月31日「神から生まれる者」ヨハネの手紙第一3:1~10
キリスト者には、神の子としての生き方が示されている。神の子であればこそ、神の性質を受け継いでいく。それは日常の歩みの中に証しされる。
1 神の子としての自覚
「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。」(1)
キリスト者は神の子どもである。それは神のすばらしい愛の業によることであり、人の側からすれば完全に受け身である。御父は御子イエスを十字架に渡されて、私たちの罪のため贖いを成し遂げてくださった。これにより、今、私たちの罪は赦されて、神の子どもとされたのである。
神の子としての私は、キリストの似姿に変えられ続ける。そして、やがて来る主イエスの再臨を待ち望む。
「愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることを知っています。」(2)
このことは、神の約束の言葉を信仰によって受け止めることによって確立される。信仰を欠いた自己評価に縛られてはならない。
2 今知っているキリスト
「あなたがたが知っているとおり、キリストは罪をとり除くために現れたのであり、この方のうちに罪はありません。」(5)
キリストは、罪が取り除かれるために現れた。罪とは「律法に違反すること」(4)である。
それ故、罪とは単なる社会における規範への違反ではない。神が定められた規範が重要であって、それに対する違反は神への背信になる。このことは、最初の人エバがサタンから受けた誘惑であった。「蛇は女に言った。『園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」(創世記3:1)
サタンは神の言葉を捻じ曲げて女に問いかけている。女はサタンの言葉を修正したが、その論理が微妙に神の言葉から離れていく。そこにサタンが入り込み、神の言葉を否定し、女を誘惑した。女がサタンに屈したことが、罪の根本原因となった。神から来られた主イエスだけが、この罪を清め、それを取り除くことができる。
3 神の子としての証し
「神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人にとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」
神から生まれた者とサタンから出ているものがある。サタンから出ているものとは、人の生まれながらの性質を起因としたものである。人の評価によっては、両者の区別ができないことがある。場合によっては、サタンから出たものの方が人の評価を受けることがある。
ここで大切なことは、神の前に聖とされているかどうかである。キリスト者は罪を犯さない人であるということではない。罪を犯すことがあっても、悔い改めによって聖をとり戻す。
それが「罪を犯さない」ということである。それは神の種が、その人にとどまっているからである。その結果、キリストにとどまり続けることができる。
2026年5月24日「賜物としての聖霊」(使徒の働き2:1~4、36~38)
「ペンテコステ」とは過越しの祭りから「50日目の日」という意味である。イエス様の予言通り、この日「もう一人の助け主」が下された。私たちがきよめられ聖霊様が下されたからこそ、罪ある者の中に聖なるものが宿り、神様を見上げることができるのである。
そもそも「過越しの祭り」は、モーセに率いられてエジプトから脱出するとき神様の滅びが過ぎ越されるように門柱に羊の血を塗って奴隷の民から神の民とされた記念の日であり、シナイ山で律法が与えられた50日目であった。しかし今、旧約時代に石に書かれた律法を、新約時代に神様のことばは私たちの心に書かれた。それが「揺れ動きながら時に神様に反抗しがちな私たち」が常に神様のみことばのもとに修正されるのは、聖霊様の働きのためである。このときペテロは、「神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」(使徒2:36)という現実をイスラエルの民に突き付けたが、それまで皆はイエス様の十字架を「単なる事件」とやり過ごしていた。私たちは罪に鈍感であり、神様への反発から自分の罪を無視し「普通のこと」と考えがちである。そんな私たちは、聖霊様の働きで初めて自分の罪が自覚できる。罪を自覚することとなった民は、恐れおののいて「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」(2:37)とペテロたちにすがるように問うている。ペテロは「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(2:38)と勧めた。
私たちの感覚では「罪汚れのある私の中に、聖なる聖霊が同居して葛藤している」と考えがちである。だが、汚れと聖が同協することはあり得ないと聖書は強調している。聖霊が注がれたということは、私はすでにまったく清められ、そこに賜物として聖霊様が注がれたというのが正しい見方である。だからこそ「めぐみにより罪が贖われ、清められた」原点に戻り、自分の行動を自覚していかなければならない。私たちはペンテコステの出来事を読むにあたって、2000年前の弟子たちだけでなく「今の私たち」の中にも注がれ、日々働かれていることを自覚していきたい。私たちは様々な出来事の中に聖霊の導きを受けている。その聖霊を受けたペンテコステの恵みを考えたい。
2026年5月17日「反キリストへの警戒」(ヨハネの手紙第一2:18~29)
先日、出席した市内のキリスト教会の会議の出席者は、すべて教派が異なっていた。カトリックもプロテスタントもいたが、一致して祈ることができた。現代は、さまざまな悲惨なニュースがあるが、今こそクリスチャンは何をなすべきかを考える必要がある。
今日は第一に「終わりの時代の反キリスト」について見ていきたい。ヨハネは、教会に集まって来る若い親しい人びとに、老齢となった自分から「幼子たち」(Ⅰヨハネ2:18)と呼びかけている。そして彼は、十字架以降の時代を「今は終わりの時です」と述べている。この「終わりの時」とは、仏教の末法思想のように「教えが変化してくる」という意味ではない。キリスト教では、「神様のことばは不変であるが、その真実が明らかになってくる耳朶となった時代」「それと連動して、偽キリストや反キリストが現れてくる時代」を指している。この「反キリスト」は「私たちの中から出て」(2:19)くるというものである。もちろん、教会から離れた人が反キリストということではない。そうではなく、多くのキリスト教系の宗教のように、教会にいて信仰に迷う人びとに、イエス様のことばを曲解して独自の解釈で人々を取り込む人々である。今の時代が悲惨な時代であり、価値観が揺らぐ時代であるからこそ、神様のみことばに立ち返る必要がある。
第二に「真理にとどまるクリスチャンの歩み」について見ていきたい。今日の箇所には「とどまりなさい」という言葉が6回も出ている(19,2:24,27,28)。旧約聖書の時代は、預言者や王などの特別な人しか油を注がれた選びの民になれなかった。しかし今、神様は「すべての人にわたしの霊を注ぐ」(使徒2:17)と言われている。赤ちゃんは言葉を知って、親とのかかわりを理解しているから親子になっているわけではない。親からの一方的な愛情の中で、この愛に応えて関係を深めることで親を「知る」。同じように神様と人間との関係も、自分の内なる知恵や悟りで神を認識したのではない。神様の一方的な愛のうちに神様と出会い、神様に応答することで関係が深まる。それが信仰なのである。その神様の愛が「すべての人」に注がれるようになった。それがペンテコステであり、ヨハネが「あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知っている」(Ⅰヨハネ2:21)と表現した関係である。私たちは神様のことばにとどまり、信仰を持って応答すべきである。
第三に「来臨の主の前に備える」について見ていきたい。ヨハネは、みことばのうちにとどまれば「キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じる」(2:28)と述べている。多くの人は、自分の人生の結末をどこに置くことができるのだろうか。死を恐れる多くの人は、「人生の意味がなくなってしまう」「死後は虚無の世界に投げ出される」ことを恐れているのではないか。一方、死から解放されているクリスチャンは「キリストが現れ御前に立つ」ことの期待と喜びがある。聖書の最後は「主よ、来てください」(黙示録22:20)のことばである。人生の最後にキリストの御前に恥を感じない、そして心の底から喜びを持って「主よ、来てください」と人生を歩めるか、それを基準にして毎日の生活を重ねていきたい。これはヨハネのいう「キリストのうちにとどまる」ということである。
2026年5月10日「御父の愛のうちに」(ヨハネの手紙第一2:12~17)
今日は母の日である。母の日は、日本では森永のキャンペーンで1937年からはじまった。一方、父の日は1981年からで、母の日からずいぶん遅れてである。商業主義で始まった日本の状況とは異なり、世界的にはどちらも教会から出て来たイベントである。
今日は第一に「愛の源泉としての御父の愛」について見ていきたい。ヨハネは、ここで「子どもたち」(Ⅰヨハネ2:12)から語りかけているが、これは14節の「幼子たち」とはニュアンスが違い、年老いたヨハネから見た神の家族にあるすべての人である。「父なる神」と「神の子どもとされた私たち」の関係は「縦の関係」であるが、これは「主人と奴隷」とか「上司と部下」世にある主従関係とは異なる。ヨハネは、愛が注ぐ慈悲深い父と私たち、そして私たちの中の家族愛をヨハネは「愛の流れていく縦の関係」と捉えている。ヨハネは「あなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されたから」(2:12)、父なる神様の愛のもと、私たちは神の家族とされたと伝えたかった。さらに彼は、「父たち」(2:13)と呼び掛けている。彼は別に母を無視しているのではなく「信仰の先輩」という意味で、父なる神を知った方という意味である(2:13)。神様を「父」と呼べるのは、私たちの罪が贖われ、神様のご計画が明らかになった十字架以降の話で、旧約の時代の人はとても想像できないことであった。だが、父なる神様が一方的に子としてくださり贖いをしてくださった結果である。
第二に「御父の愛に生かされることへの応答」について見ていきたい。次にヨハネは「若者たち」(2:13)「幼子たち」(2:14)と呼び掛けている。彼らは霊的な成長段階で、日々苦悩し弱さを感じながら成長し次世代の教会を担うそうである。たしかに彼らは日々の生活で失敗はするが、神様に受け入れられたことで、すでに「圧倒的な勝利者」(ローマ8:37)である。だから若者たちの戦いは「勝つか負けるか不安定な状態」ではなく、神様にあって圧倒的な勝利者であることを確かめるための鍛錬なのだという。さらに「幼子たち」は、神様によってすでに選ばれ、いずれ神様との関係を知るまでの訓練課程なのだと言っている(Ⅰヨハネ2:14)。だから私たちは、日々の試練の中で迷うのではなく、そのたびに「結果の保証された訓練」だと受け止め、神様の愛を再確認すべきなのである。
第三に「世にとらわれない御父の愛」について見ていきたい。ヨハネは「あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません」(2:15)というのは、世を全否定しているわけではない。旧約の律法で定められた「清いもの」と「清くないもの」の垣根が取り払われ、十字架の贖いですべてのものが清くされた(使徒11:9)。しかし、それがクリスチャンの中に入るとき、汚れとして働くこともある(2:16)。私たちが神様との関係を見失い「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」(Ⅰヨハネ1:16)として捉えると、私たちの中に「清くないもの」「罪への道」として働いてしまう。だから「信仰は息苦しい」と感じる人もいる。神様によって清くされたすべての世のものを否定しないが「世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます」(2:17)という点を見上げながら、そこに軸会を置いた生き方をすることである。
2026年5月3日「宥めのささげもの」(ヨハネの手紙第一2:1~11)
連日、アメリカの「福音派」のことが取り上げられ、日本でも「福音派」について「理解できない頑固な人々」というイメージがマスコミで語られる。私たち教会も福音派ではあるが、アメリカのような政治的価値観や行動に対しては違和感を感じる。
今日は第一に、「キリスト者のためにとりなしてくださる方」について見ていきたい。ヨハネは、この手紙の中心のテーマは「私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです」(Ⅰヨハネ2:1)だと書いている。罪は目に見えないが確実に存在し、それが入ると家庭や社会、そして社会全体を破壊してしまう。だが罪が当たり前にある社会では、それを自覚することはできない。しかしイエス様を信じ、みことばに耳を傾けるとき、見えざる罪を認識し自覚するようになる。だが、それは「罪を犯さなくなる」ことを意味するのではない。それでも罪にとらわれるのが人間である。だがヨハネは、そんな私たちに「私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます」(Ⅰヨハネ2:1)と語っている。「とりなしてくださる方」とは「弁護者(パラクレートス:παράκλητος)というが、人間の弁護士氏のように「罪を軽減する」存在ではなく、罪を真正面から受け止めて裁きを受け、そのことを持って断絶された神様と私たちと関係を「とりなし」てくださる存在である。
第二に「宥めのささげ物としてのイエス様」について見ていきたい。ヨハネはイエス様を「この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけではなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です」(2:2)と説明している。この「宥めのささげ物」とは、「契約の箱の蓋」のことを指す。これは旧約聖書のレビ記を読むと分かり、大祭司のアロンが自分の罪の代わりに雄牛をほふり、その血を民のために雄やぎをほふり、「宥めの蓋」と呼ばれた契約の箱の蓋にふりかけた(レビ16:11-17)。私たちは「償い」は理解できるが「贖い」「宥め」はイメージしにくい。「贖い」「宥め」の主体は自分の側にあるのではなく、神様の側の「気持ち」にあり、神様の望む方法でなされる。そして、その広がりは自分自身だけでなく、罪に影響を受けた世界全体にまで広がる(Ⅰヨハネ2:2)。
第三に「罪から解放された者としての応答」について見ていきたい。ヨハネは「もし私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることが分かります」(2:3)と書いている。罪から贖われた私たちは、神様とともに歩み、神様の命令に従って生きることになる。この「命令」とは、イエス様が命じられたように「互いに愛し合いなさい」という命令である。そして「神を知る」とは「神様の情報を蓄積する」ことではなく、「神様との関わり=信仰と応答を重ねる」ことである。だからヨハネは「神を知っていると言いながら、その命令を守っていない人は、偽り者であり、その人のうちに真理はありません」(2:4)と述べ、その反面「しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです」(2:5)と述べている。私たちは、イエス様の十字架で罪を贖われた神様の愛を受け止め、日々の生活の中でどう応答しているか、それが重要なのである。
2026年4月26日「いのちの現れ」(ヨハネの手紙第一1:1~10)
トルストイの『復活』という小説の冒頭に、いのちにあふれる春の様子を描いた描写がある。しかし、今、そのロシアの大地を戦車が走っているのは残念なことである。「ヨハネの福音書」と「ヨハネの手紙」は、神様は愛であるというテーマは共通している。
今日は第一に「神のいのちの現れ」について見ていきたい。この手紙は「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」(Ⅰヨハネ1:1)からはじまり、恒例となったヨハネが、後輩たちに優しく語るように「いのちの現れ」について伝えている。この「初めからあったもの」(1:1)とは、神様が世界の「第一原因」であったことを述べ伝えている。そして、その宇宙全体の時間的、空間的広がりを、ちっぽけな「私たち」「自分の目」「自分の手」と対比し、その中にイエス様としてのいのちの現れを、事実としてしっかりと確かめたと述べている。そして、ヨハネは「いのちとしての神様」の現れを伝えようとしている。これまでは神様の思いを律法の中で受動的に感じる必要があったが、イエス様と共に過ごしみことばに触れるという能動的な関係の中で感じられるようになった。ヨハネは、この経験を自分だけの特別なものとして話しているのではなく、自分が生涯をかけて経験したものを読者も経験してほしいと願っている。
第二に「交わりの中心としてのいのち」について見ていきたい。キリスト教信仰における「交わり」は「コイノニアκοινωνία」と言われ、「分かちあい」という意味もある。その中心は「父また御子イエス・キリストとの交わり」であり、このような「交わり」の中で、神様に対する喜びや感謝が生まれる(1:4)。人によっては人間関係に傷つき他人との交わりに臆病な方もいる。しかし教会における「交わり」は、人と人とのダイレクトな交わりではなく、神様の前にある「兄弟姉妹」であり「父また御子イエス・キリスト」の目を通した「交わり」である。たまに「神様と自分の関係だけで良い」という方もいるが、神様は教会の「交わり」。具体的には、利己的な祈りではなく、他人に対する「祈り」を通した「交わり」を求めている。「祈りたい」「祈って欲しい」という双方向性は、また自分自身を開放し神様にある関係性を深めていくことになる。
第三に「交わりに欠かせない罪のきよめ」について見ていきたい。ヨハネは「私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです」(1:5)と述べている。コイノニアの「交わり」の中には、罪が入り込んではいけない。人間は神様から自由意思を与えられ、選択をすることができる。その自由意思の中で「神様に向かう方向へ選択する」か「神様から離れる方向の選択」かが、人生の意味を大きく変える。そして、ヨハネの言う「もし私たちが」(1:6)とは、ヨハネ自身を含めたすべての読者であり、罪が入る可能性はすべての人間にある。そのとき「自分には罪がない」(1:8)と言うか、それとも「自分の罪を告白するなら」(1:9)という選択をするかは重要である。そして真実で正しい神様を信頼し交わることで。神様の前における罪をきよめ、許される(1:9)ことが、どれほど大きな恵みであることだろうか。
2026年4月19日「愛による献身」(ヨハネの福音書21:12~19)
「松原湖畔にて朝イエスさまと出逢いました」からはじまる、山内修一さんの作詞作曲のゴスペルに「松原湖畔にて」という曲がある。今日の箇所は弟子たちが湖畔でイエス様にあったが、これは「三度目」(ヨハネ21:14)であった。
今日は第一に「交わりの回復」について見ていきたい。イエス様は十字架の前に弟子たちと「最後の晩餐」をとられたが、この朝食は「闇と光」の対比の様に思える。「最後の晩餐」の直後に弟子たちは十字架につけられたイエス様から逃げ、関係は断絶した。だがイエス様は復活し、弟子たちの中に現れた。そして関係を壊した弟子たちを、「さあ、朝の食事をしなさい」(21:12)と、再び招かれた。朝の光の中に現れたイエス様の姿は一層輝いて見え、たしかな復活を感じさせるものだろう。しかし、その輝かしい姿のイエス様を前にして、イエス様を裏切った想いのある弟子たちの方は様々な罪の思いが頭をよぎったことだろう。特に「三度私を裏切る」と指摘され(13:38)、その通りになったペテロはいかばかりだっただろう。その弟子たちに「イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた」(21:13)のである。ペテロは、復活のイエス様の前に自らを恥じたものの(21:7)、十字架によって私の罪がたしかに許されたことを確信したからこそ、イエス様から食事を受け取り共に食べたのである。
第二に「主への愛に対する問いかけ」について見ていきたい。弟子たちが食事を済ませたあと、イエス様はペテロに「わたしを愛していますか」と繰り返しなされた。この1,2回目の「愛」は、神様の無償で普遍的な愛である「アガペー(ἀγάπη)」を意味している。イエス様が「あなたはこの人たちが愛する以上に」(21:15)という問いは、ペテロの愛の大きさや卓越差を認めているのではなく、逆に他の人以上にひどい裏切りをしてしまって他の人以上に悔いているという意味である。だからこそ「罪が許された」という喜びや神様への感謝は他の人以上になっているというのである(ルカ7:47)。私たちも、負いきれない自分の罪の大きさに愕然とするとき、神様の愛の大きさが分かり感謝が生まれる。
第三に「イエス様の愛に対するペテロの応答」について見ていきたい。イエスさアmの問いかけに対して、ペテロは「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」(ヨハネ21:15)と答えた。だが、この「愛」は友愛や友情といった人間的な愛「フィレオ―(φιλíα)」でしかない。だが、それでも自分の可能な全身全霊をかけて愛したいと、すべてをさらけだし「あなたがご存じです」(ヨハネ21:15)と述べている。このペテロに未熟な「子羊」たる人間を牧するように命じた。後にこの記事を書いたヨハネの目には、来たるべき「教会」が浮かんでいたのだろう。教会はイエス様が「わたしの子羊」(21:16)と責任を持ってくださる。イエス様は、さらに「ヨハネの子シモン」と正式名を持って呼ばれた。そして「牧しなさい」と、神様とともにある豊かな生き方へ導く役割を任された。さらにイエス様は三度問いかけたが、一度もペテロの裏切りを指摘しなかった。イエス様の三度の問いかけは「愛」を問いかけ続ける中で罪と愛を自覚する。ここから神様の用意された愛を基盤とした新しい時代がはじまる。ここに教会の原点がある。
2026年4月12日「魂をすなどる働き」(ヨハネの福音書21:1~11)
4月は移動の多い時期で、環境の変化によって新しい自分の環境を再認識することがある。十字架のあと、イエス様と弟子たちの関係性は新しい段階に入った。弟子たちは、イエス様と個別にたましいでつながることになる。
今日は第一に「ガリラヤで漁師に復帰した弟子たちの行動」について見ていきたい。イエス様の復活は弟子たちにとって、たしかに衝撃だった。だが、その直後の彼らはまるで気が抜けたようになっていた。その後の生き方をどうするか分からず、弟子たちのうちの七人(ヨハネ21:1)は、ガリラヤに帰り漁師となった(21:3)。イエス様は、彼らを宣教の先兵として訓練を受けさせてきたはずだが、彼らにはその熱気が感じられなかった。だが漁師になった彼らは何も捕れず、生活に空虚さを感じていた(21:3)。そこにイエス様が現れた。だが彼らには、イエス様のことに気づかなかった(21:4)。弟子たちも私たちも、日常の生活の中で復活のイエス様とどうかかわるか、それが問われる。
第二に「復活の主との出会い」について見ていきたい。私(牧師)自身が教会に行きはじめたときに「復活を信じる」ことがなかなか受け入れられなかった。どう考えても頭ではわからず、復活を信じている教会の人たちが信じられなかった。そんな私が復活を信じたのは突然ではなく、日常の生活の中でみことばに従っていくことで分かってきた。このときイエス様は弟子たちの集まっている所に現れ、約束通りガリラヤで弟子たちとお会いになった。このとき「イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった」(21:4)とある。その距離は「二百ペキス」(21:8)約90メートル離れていた。そこからイエス様は、舟の上の弟子たちに「食べる魚がありませんね」と声をかけられた(21:5)。彼らにとって「夜通し漁をして魚が捕れない」というのは、死活問題である。その現実を鋭く指摘されたわけである。その彼らにイエス様は「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます」(21:6)と声をかけ、そのことばに従うことでおびただしい魚が捕れた。ポイントは、イエス様が「彼らの日常に入ってこられたこと」、そして「みことばに従うことで大きな実りがあること」である。私たちも祈りの中で迷い、イエス様の姿が見えなくこともある。それでも祈り、みことばに耳を傾けて決断していくことが重要である。それを通して私たちは恵みと復活のイエス様に出会う。さらにペテロは、イエス様と出会ったときの大漁のこと、自分がイエス様を三度否定したこと、そのイエス様が会いに来てくださったことなど個人的な思いがよぎり、イエス様との新しい関係が築かれた。
第三に「魂をすなどる働きへの召し」について見ていきたい。「こうして彼らは陸地に上がると、そこには炭火が起こされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた」(21:9)とあるが、イエス様が朝ごはんの準備をして待っておられた。一緒に食事をとることを、聖書は重視していると同時に非常に人間的な行為でもある。イエス様と魚を食べるという体験を通し、弟子たちは「あなたがたを人間を捕る漁師にしてあげよう」という、かつてのイエス様のことばを思い出し、自分たちの最初の使命を思い出したことだろう。そこには弟子たちのこれからの働きに対する、イエス様の励ましが感じられた。