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2026年10月~最新のメッセージ

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 2026年11月15日「旅を支える主」
 2026年11月22日「」
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 2026年10月25日「音楽礼拝」

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2026年11月1日「天の故郷への憧れ」(ヘブル人への手紙11:8~16)

 今日は召天者記念礼拝である。死は「終着点」ではなく「通過点」である。どのような「死」を迎えても、神様にある平安は何ものにも代えられない。いいかえれば信仰とは「望みがパッと叶う」ものではなく、「待ち望むことを保証する」ことである。

 今日は、第一に「信仰による旅立ち」について見ていきたい。アブラハムの生涯を見ると「自分とは所詮違う」と考えてしまう。しかしアブラハムは弱さや失敗もたくさん犯したただの人間であり、聖書がアブラハムの生涯を記述しているのは、私たちがどのように神様と関わるべきかを示しているだけである。アブラハムは自分の努力や悟りで信仰を切り開いたのではなく、まず神様の「召し」があったと書かれている(ヘブル11:8)。十二弟子もイエス様に召されてついて行った(ヨハネ1:39)。キリスト教信仰は、神様のかかりかけに心を閉ざすことではなく「応えていく」ことからはじまる。さらに信仰は「俗世とは切り離された崇高なもの」ではなく、自分の日々の生活の中にある。日々の生活の中で神様のことばに耳を傾け答えていくことである。アブラハムも神様の召しに従ってカナンの地に行ったが、そこの生活に同調するのではなく「他国人のように」神様に従う生活スタイルを守り通した(ヘブル11:8)。私たちが今、アブラハムの生涯の中に見出すべきことは、神様の声を聞き、応え、日常生活の中で神様との生活を守り通した点である。

 第二に「信仰による約束の受け止め方」について見ていきたい。聖書は「一人の、しかも死んだの同然の人から、天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように数多くの子孫が生まれた」(11:11)とあるように、神様のみこころは人間の想像を超えて素晴らしい結果をもたらす。しかし、信仰はパッと起こった奇跡の結果、信仰するものではない。それは「何か見せて見ろ、そうすれば信じてやる」ということで、すなわち信じていないのと同じである。神様が求めたのは、神様のことばを信じて待ち望む関係である。アブラハムは超人ではない、「アブラハムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた」(創世記15:6)とある。神様はアブラハムを幕屋の外に行って星空を見上げるように言ったが、彼がそれに従い、神様の「あなたの子孫は、このようになる」(15:5)ということばを、ただ信じただけである。ここから神様の約束の履行がはじまった。イエス様の復活とその後の約束も常識的には考えられないが、それを信じることからはじまるのである。

 第三に「信仰による天の故郷への憧れ」について見ていきたい。余生をゆっくり過ごす生き方にあこがれる人は多い。だがクリスチャンは、「余生」と言われる時間のさらに向こうに、最終的に天の御国に迎え入れられる人生が始まる(ヘブル11:13)。例えばアブラハムは、神様から東西南北見渡す限り、すべてをあなたとあなたの子孫にあたえるという約束のことばをいただいた(創世記13:14-15)。しかし実際の人生の中で手にした土地は、妻サラのための墓地だけだった。さらに天の星のように家族が増えることは見ていない。彼は、神様の約束と現実に手にしたものとの開きを見続けながらも、信じ続けた。だが歴史的に見れば、神様の約束は守られていた。私たちは神様のことばを、神様の視点で見ることで、私たちも神様のことばに従う信仰生活の中で確信を深めている。

2026/11/01

2026年10月18日「消滅した偶像」(列王記第一18:20~38)

 現在は、ひとつの価値観や絶対的基準がよりも多様性を尊重する傾向がある。その結果、キリスト教的価値観を否定する人が増えてきた。しかし太陽がひとつ、月がひとつ様に、神様は唯一であり、それを揺るがしてはならない。

 今日は第一に「どっちつかずの信仰から決断へ」について見ていきたい。この時代、イスラエルの人々は多様な価値観で揺れていた。神様はそれを見越して、モーセに「彼らのためにあなたのような預言者を一人の預言者を起こ」す(申命記18:18)と預言された。それがエリヤである。例えば先週見た宮廷長官のオバデヤも、神様への信仰とアハブ王への恐れの間で揺れ動いていた(Ⅰ列王記18:10-14)。信仰はしているけど、それを表を出せないということは、多くの人々にある。しかしエリヤはアハブ王に問題があると述べている(18:18)が、同時に民衆にも問題があると述べた。そしてバアルの預言者を一堂に集めて対峙し、おかしいと思いながら声に出せないでいる民衆に「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか」(18:21)と決断をせまった。多様化が叫ばれている現在、私たちも日常の様々な場面で決断を迫られている。

 第二に「バアルの預言者と主の預言者の対決場面」について見ていきたい。神様を信じていても、アハブ王に弾圧されてしまう。その結果、民衆は口を閉ざし(18:21)、神様の預言者はエリヤ一人しか残らなかった(18:22)。そして、このときバアルの預言者450人とエリヤ一人という圧倒的に不利な状況の中で対決したが、それが出来たのは、神様のことばに従い飢饉の中で養われ信仰の訓練をくぐり抜けた経験があったからであろう(17:1-24)。それがエリヤの絶対的な神様への信頼となった。エリヤは、雄牛を献げてそれぞれの「神」に火をつけさせる「全焼のいけにえ」の提案を行った(18:23-24)。所詮バアルは偶像であるから何も起こらないが、それでも儀式や踊りの熱狂は人びとを引き付けていた。多くの宗教で、その宗教的儀式によって人々は陶酔し熱狂し、何かすくわれたような気になる。だが「その儀式は何になるのか」を突き詰めたとき、何を起こせるというのか。その愚かさをエリヤは民衆に見せ、嘲笑った(18:27)。それは「人間が作り、人間の基準でしか見えない神」の姿であった。バアルの預言者は「火をつける」という当初の目的を離れ、愚かにも彼らの宗教的儀式に没頭していった(Ⅰ列王記18:28)。

 第三に「築き直された祭壇」について見ていきたい。エリヤの番になったときに彼が行ったのは「祭壇を築き直す」(18:30)ことであった。「主の祭壇」とは端的に言うと「神様とイスラエルとの対話」のための場所である。つまり彼が築き直したのは「石造りの設備」ではなく、イスラエルの民に神様との契約に基づき関係なのである(18:31)。彼は「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのおことばによって私がこれらすべてのことを行ったということが、今日、明らかになりますように」(18:36)と祈った。犠牲となった雄牛は民衆の罪の身代わり、それを焼き尽くす火は神様による清め。たんなる儀式ではない。私たちが迷いの中で立て直すべきは、失われた祭壇(神様との関係)なのである。

2026/10/18

2026年10月11日「信仰の勇者エリヤ」(列王記第一18:1~15)

 収穫の秋となった。しかし世界に目を向けると飢餓が起こっている。その原因は自然気候も政治的問題もあるが、いずれにせよ人間の罪が原因である。「主の祈り」にあるように、日ごとのパンも神様のみことばによることを忘れてはならない。

 今日は第一に「神のことばを託されたエリヤ」について見ていきたい。預言者エリヤは、神様から「アハブに会いに行け」(Ⅰ列王記18:1)という命令を受け、いのちをかけてアハズ王の前に立つことになった。アハズ王は神様に背いて偶像を礼拝した。そもそも私たちの中には神様のことばが書き込まれているが、それに対して反発しようとする罪が偶像礼拝に向かわせている。このときアハブ王に対して、神様はわたしのことばによらなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない」(17:1)と言い、このときは「わたしはこの地の上に雨を降らせよう」(18:1)と言う。数年の苦しみの中で、エリヤが伝える神様のことばは重みをもってきた。現在、起こっている飢饉は自然現象ではなく神様の意志であり、イスラエル全体解神様への回帰を求めていた。だがアハズ王は、神様のことばに従順になって来たかと言うと、ますます反発してエリヤに殺意を持つようになってきた。

 第二に「信仰と現実の間にある恐れ」について見ていきたい。神様を信じていた人が、すべて命がけでエリヤのように行動できるわけではない。宮廷長官のオバデヤは神様を信じていたが、かつてアハブ王の妻イゼベルが神様の預言者を殺すよう命じられた。命令と信仰の間で悩んだオバデヤは、真正面から反対することもできず「百人の預言者たちを救い出し、五十人ずつ洞穴の中にかくまい、パンと水で彼らを養った」(18:4)。それでもアハブ王の信頼を得ていたオバデヤは、このとき、アハブ王と手分けして水源の調査をしていた(17:5-6)。そのときオバデヤはアハブ王と離れて旅をしていたが、そこでエリヤに会った。神を進行するオバデヤは、エリヤに「私の主人エリヤ」(18:7)と告白している。だが彼は、そのときに自分の信仰が試されるような命令を受けた(18:8)。オバデヤにしてみればエリヤと会っただけでも疑いの目を向けられるし、もし知らせに行って戻って来たときエリヤがいないとアハズ王に殺されてしまう(18:12)。預言者百人をかくまった行動は称賛されるが、彼に足りなかったのは「神様のことばへの信頼」で、神様に対する恐れとアハブ王に対する恐れに板挟みにあったとき、神様のことばを選ぶべきであった。

 第三に「信仰による決断」について見ていきたい。オバデヤは「しもべは子どものころから主を恐れています」(18:12)と言いながら、同時にアハブ王を恐れ、神様のことばに踏み出せないでいた(18:10-14)。さらに「私のしたことが知らされていないのですか」(18:13)とだから見逃してくれ自己弁護している。イエス様は「からだを殺しても、魂を殺せない恐れてはいけません」(マタイ10:28)と述べられたが、からだもたましいも滅ぼすことができる神様(10:28)を見えなくさせてしまった。オバデヤを今日的な視点から非難したり、反対に「しょうがなかった」と考えたりすることはたやすい。だが私たちは、日常の様々な選択場面において「何を恐れるか」を見つめ直して、「神様のことばに立つ」という原点に立ち返る必要がある。その決意が必要である(Ⅰ列王記18:15)。

2026/10/11
2026/10/04

2026年10月4日「尽きない恵み」(列王記第一17:1~16)

 かつて聖書をもっと身近に感じて欲しいという思いで、気仙沼の地元の言葉で書いた「気仙語聖書」が作られたことがあった。だが世界的に見ると、聖書をもうことを禁じられている国も、無関心な国もある。神のことばを聞くことの「飢え」が深刻である。

 今日は第一に「神のことばへの渇き」について見ていきたい。この時代は、ヤロブアム王の政権は倒れ、つぎの政権の二代目アハズ王の時代であった。しかし北イスラエル王は偶像礼拝の悪習は続いていた。エリヤはその状況の中に送られた預言者である。エリヤはアハブ王の前に出て「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も下りず、雨も降らない」(Ⅰ列王記17:1)という神様のことばを伝えた。北イスラエル王国は、神様が雨をもたらす「約束の地」だから豊かな地になったが、ヤロブアム以来、その神様から離れてしまった。「露が下り、雨が降る」ということも、神様のことばによるものだというのである。神様は自然現象を通しても、私たちに語りかけられているのに気付くべきであろう。

 第二に「みことばによる養い」について見ていきたい。このとき、エリヤは「烏による養い」そして「やもめによる養い」という訓練を受けた。「ケリテ川」がどこにあるのか現在も分からない。きっと誰も知らない名もない小さな川だったのであろう。エリヤはアハズ王を厳しく糾弾したので、国中の人から追われて、彼に食べ物を与える人もいなかったのだろう。そんなエリヤに神様は「あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた」(17:4)と言われた。一般に良いイメージのない「烏が養う」という人間にはとてもはそうできない体験は、神様は背後に生きて働いているという実感しただろう。私たちも人間の尺度であきらめたり卑下したりすることもあるが、神様は人間の思いもよらない方法で解決してくださる。さらに川が涸れるとシドンのツァレファテに行き、「一人にやもめ」にあなたを養うようにしている(17:9)との神様のことばがあった。貧しい母子家庭である。当時は社会的に最も弱い人であった。その彼女に貴重な水を所望した上に、パンも要望した。エリヤは神様のことば通り行ったが、一方で、厳しい状況の彼女に遠慮がちに「ほんの少しの」「一口の」と言っている。だが彼女の状況は、エリヤの創造を超えて厳しいものであった(17:12)。人間的に考えると、この厳しい状況に対して信仰は役に立たないと思いがちになる。だが神様は、こういうところにエリヤを導き「神のことばに養われる」とはどういうことか、体験させている。

 第三に「めぐみに交わる交わり」について見ていきたい。エリヤは厳しい現実を前に、「まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り」「その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい」(17:13)と言った。彼が自己中心的なのではなく、彼は神様のことばへの全幅の信頼から発したことばである。ルカは、神様がエリヤを遣わしたのは、誰のところでもないどん底の状態のやもめのところであったと言っている(ルカ4:26)。彼女もどん底の中で神様のことばを信頼し「行って、エリヤのことばのとおりにした」(Ⅰ列王記17:15)。その信仰が、やもめとその家族に尽きないめぐみを与えた(17:16)。

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