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2026年01月~最新のメッセージ

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2026年1月11日「わたしはあるという方」(ヨハネ13:16〜20)

 今年の歩みを見据えたときに、ガラテヤ書5章13節の「愛を持って互いに仕え合いなさい」という御言葉が思い浮かぶ。もちろん神様は教会を愛されているが、その境界がアイに満たされているかどうかは問われることである。

 今日は第一に「弟子は主人にまさらない」ことについて見ていきたい。イエス様は、弟子たちの足を洗った後に「しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません」(ヨハネ3:16)と述べられた。イエス様は弟子たちに「互いに足を洗う」ことを勧めたが、なかなか困難なことである。今の基準なら「自分で自分の足を洗え」とか「洗うのではなく洗われる人になれ」となるだろう。しかし、ここではイエス様が模範を示されたことに着目すべきであろう。弟子たちは「来たるべき神の国」にあってイエス様の右腕になり、高い優位な地位を得たいと思っていた。彼らはイエス様が自分たちの足を洗われたことはかなり衝撃だっただろう。その一方で弟子たちは真意を理解できず、十字架につけられるという究極の「ヘリ下り」の場面を経て「つまづき」を経験してしまった。イエス様は、今の弟子たちの弱さやつまづきも、その後の立ち直りや最後には互いに仕え愛し合うようになることを見通されていた(13:17)。

 第二に「主を見失うことの危険」について見ていきたい。ただイエス様は「わたしは、あなたがたすべてについて言っているのではありません」(13;18)と、イエス様の命令を行う「幸い」(13:17)から外れている者がいると分かっていた。私たちは自分の罪や無力感に直面することがあり、自分を責め立てることもある。その結果「自分はキリスト教信仰には向いていないのでは」と考えることがある。だが私がイエス様を選んだのではなく、イエス様が「わたしは、自分が選んだ」(13:18)である。そのことを疑ってはならない。だが同時に「すべてについて」選ばれたわけではなく、そのような勢力には十分に気を付ける必要がある。だが、そうした状況においても神様は働いておられ、すべてのことはあらかじめ語られており(13:19)、すべてのことは「聖書の成就」(13:18)のためにある。だから主を見失うのではなく、神様こそが何物にもよらず影響されず確固たる意志と存在がある「わたしはある」(13:19)ことを確信するべきである。揺れ動くはかなげな私たちの生の中で「わたしはある」方に基盤を置きたい。

 第三に「受け入れることと受け入れられること」について見ていきたい。イエス様はたびたび父なる神様と自分との関係を表されていた(12:44-45)。たしかに人々は、イエス様を信じていたが、現世のイエス様に言動という非常に限られたものであった。だがイエス様は「わたしが遣わすものを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。そして、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです」(13:20)と述べられた。私たちの信仰は段階を経て深化する。聖書に語られたひとつのことばが、次の信仰の足掛かりとなる。だから神様が聖書で語られたことばが、イエス様を遣わされた神様を受け入れる、イエス様を受け入れるようになる。通常、自分と同等以下のものでないと理解できない人間が、イエス様のヘリ下りによって神様を受け入れられる幸いを感謝したい。

2026/01/11
2026/01/04

2026年1月4日「愛に始まる新しい業」(ヨハネ13:1〜15)

 2026年の最初の主日礼拝である。私(牧師)は、最近、黙示録2章4節の「あなたは初めの愛から離れてしまった」という箇所が気になっている。これはエペソの教会が出来て60年たったころ、また原点に戻って「初めの愛」について考えていきたい。

 今日は第一に「足を洗うことの中に示されたイエス様の愛」について見ていきたい。聖書には「世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された」(ヨハネ13:1)と書かれている。これは直接付き添ってきた弟子たちだけでなく、イエス様を信じたあらゆる人を意味している。イエス様は「足を洗う」という行動で、最後まで愛を示された。ヨハネはこの時、弟子たちの中で一番若い青年で、その時点ではイエス様の行為がよくわからなかったが、後年、歳を取ってその重みが理解できたのではないか。この時、イエス様はユダの裏切り(13:2)も十字架のことも知っておられたが、自分がどこから出てどこに帰ろうとしているのか知っておられたため(13:3)、確信を持って愛を証しされた。私たちの平安は、愛を持って受け入れてくださる方によってもたらされる。

 第二に「足を洗うことと罪の赦し」について見ていきたい。この時の様子を、作者であるヨハネは、この時の様子(13:4-5)を息遣いに触れるような描写を行っている。当時、サンダルで旅をし土埃で汚れた足を洗うのは奴隷の仕事でので、イエス様が自らの手で自分たちの汚れた足を洗っている姿は衝撃的だろう。だから、ペテロは思わず「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか」(13:6)「決して私の足を洗わないでください」(13:8)と発言している。だが「イエス様の足洗い」は、私たちが取り除くことができない罪を取り除きイエス様との新しい関係が築かれることの象徴的な行為であった。だからイエス様は「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります」(13:8)とペテロに話された。だが、このことばを表面的に捉えたペテロは「主よ、足だけでなく。手も頭も洗ってください」(13:9)と申し出たが、イエス様は「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです」(13:10)と話された。イエス様は、ペテロが裏切り、離反し、後に悔い改めて聖徒としての働きまで見通していた。クリスチャンは水浴(バプテスマ)によって「きよめられ」でも、罪を犯さないわけではなく常に足洗い(悔い改め)が必要である。それがイエス様の業なのである。

 第三に「イエス様の業にならう弟子の姿」について見ていきたい。イエス様は「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません」(13:13)と述べている。イエス様は「今は分からなくても、後で分かるようになる」(13:7)と述べ、分かるようにまで「待つ」ことをしてくださる方である。分からないからほおっておくのではなく、それまではみことばに従ってイエス様を模倣すべきであろう。私たちは、人生の中で自分がどのような方向で歩んでいけばいいかわからないこともある。そんなとき、イエス様はたがいに愛を持って「足を洗い合う」イエス様を思い出し、それを模範として歩んでいきたい

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