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2025年07月~2025年09月

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2025年9月28日「罪のない御子」(ヨハネ8:44〜51)

 一年ほど前から仏教者と宗教について対話する機会をとっている。その方々も真理の探究者であることには変わりないが異なるところもある。仏教は人間の心の中に「仏」があるという。しかしキリスト教は、罪にまみれた私の内側から救いが出るのではなく、外から神様がもたらしてくれるとする。

 今日は第一に「イエス様に反発した律法学者とパリサイ人の出所」について見て行きたい。イエス様は「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています」(ヨハネ8:44)と、イエス様に反発する律法学者やパリサイ人の出所を「悪魔である父から出た者」だと非常に厳しい指摘をした。彼らにすれば「神に選ばれたアブラハムの子孫」であることが、自分たちの絶対の正しさを誇る根拠となっていた。たしかにイエス様は、彼らがアブラハムの血統であることを知りながら、その心の中にある罪の性質は「悪魔である父から出た」ものであるというのである。私たちは「そうは言っても、自分はそんなにひどくないだろう」と考えてします。しかし私たちが持っている罪の性質とは「あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています」「真理に立っていません」(8:44)というもので、そこを自覚することからイエス様の救いが始まる。

 第二に「神から出ている御子」について見て行きたい。さらにイエス様は、イエス様を訴えようとする律法学者やパリサイ人たちに「あなたがたのうちのだれか、わたしに罪があると責めることができますか」(8:46)と問うている。イエス様は四六時中、弟子たちや人々と一緒にいた。もし罪ある行動をとったら、彼らは鬼の首を取ったように糾弾しただろう。さらに言えば、イエス様の言動に罪がないというだけでなく、「罪がない全き清い者」として神様から備えられた存在でもある。イエス様は自分自身を「神から出た者」(8:47)と表し、「悪魔である父から出た者」である律法学者やパリサイ人とを対比させている。その違いとは「神から出た者は、神のことばに聞き従います」(8:47)と述べている。先に述べたように、イエス様が人間の罪を背負い神様への宥めの供え物となるには、神様ご自身が関わって贈られた存在だからである。律法学者たちが自分たちの血統の原点だと考えているアブラハムも、愛する息子イサクを供物として差し出す試練を与えられ苦労した。その途上でアブラハムは、イサクの問いに「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ」(創世記22:8)と答えた。神様は、アブラハムが愛する息子イサクをささげ物とすることを直前で止められた。神様はその信仰を神様は認められ、アブラハムの発した言葉通り、神様は御子イエスをささげ物とされた。アブラハムの信仰は、「愛する息子も神様から与えられたものである」という考え「神から出た者は、神のことばに聞き従います」(ヨハネ8:47)と考え行動した。しかし、その子孫である律法学者たちは、宗教時権威も地位も、自分たちのものとしてイエス様のことばに聞き従わなかった。

 第三に「御父の栄光を求める」という点について見て行きたい。イエス様は「わたしは自分の栄光を求めません」(8:50)と述べている。教会で毎週唱える「主の祈り」も、一番初めの祈りは「(神様の)御名があがめられますように」と唱える。私たちは日々の生活の中で、神様に頼りたいことやお願いしたいことが多くある。だが、それらの前に何よりも神様の栄光を求めるべきである。律法学者たちは、自分たちの栄光が失われるのを畏れ、イエス様を蔑み反抗した。そしてイエス様を、「サマリア人で悪霊につかれている」(8:48)と、当時、一段低く見られたサマリア人(出身地が近かっただけでサマリア人ではない)だと差別的発言をしている。これに対して神様を敬うべき彼らが、神様に聞き従っていない。そう考えると、私たちが神様の栄光をささげる「主の祈り」を心から唱えることができるのは、すでに「私たちが神様から出ている者」とされているのである。その幸いを覚えたい。

2025/09/28

2025年9月21日「アブラハムの子」(ヨハネ8:37〜43)

 日本には1549年にザビエルの伝道によってキリスト教が伝わったが、その後、1587年には秀吉によって「バテレン追放令」が出された。その背景には、「宣教師が日本の住民を奴隷として海外に売っていたのではないか」という不信感があったからだという説もある(異説あり)。

 今日は第一に「アブラハムの子孫」について見て聞きたい。イエス様は「わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています」(ヨハネ8:37)と述べたが、イスラエルの民は「アブラハムの子孫」ということに誇りを抱いていた。それは神様が直接アブラハムの子孫を祝福し、大いなる国民とした歴史からである(創世記12:1-3)。アブラハムは、神様のことばに従い一族を連れて、高齢者になっていたにもかかわらず未知の土地に旅立とうとしていた。そこに彼の信仰があった。本来、イスラエル人が誇るべきは「アブラハムと同様の信仰でつながっている」ことなのに、彼らは「血脈」しか誇っていない。その結果、アブラハムが従おうとした神様に対して反抗するという矛盾に陥っていた。そんな彼らを、アブラハムの子孫であるが「あなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたの内に入っていないからです」(ヨハネ8:37)と指摘している。

 第二に「行いをともなう信仰」について見て行きたい。イエス様は「わたしは父のもとで見たことを話しています。あなたがたは、あなたがたの父から聞いたことを行っています」(8:38)と述べている。イエス様の言う「父」とは「父なる神様」のことである。イスラエル人は「私たちの父はアブラハムです」(8:39)と主張するが、イエス様は「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはずです」(8:39)と反論している。つまり、アブラハムの子孫だというのであれば、アブラハムが聞き従った父なる神様に従うはずである。それなのに、神の選びの民であるイスラエル人が、神様から下された御子を殺そうとしている(8:40)。そんな矛盾があるだろうか。ルカの福音書でイエス様は、王の息子の結婚式に招待されたのに、それを無視して日常生活を送ったり、ひどい場合は結婚の招待状を持ってきた王のしもべを殺したりした住民の話をした(ルカ22:1-6)。これは神の民として招かれ福音を伝えられたにも関わらず、それを無視したり、預言者までも殺して来たイスラエルの歴史のたとえでもある。しかし、これは当時のイスラエル人だけでなく、私たち異邦人も含めたすべての民に向けられている神様の招きを示している(22:8-10)。私たちはイスラエルの民と同じように招待を無視したり、ふさわしくない対応(ヨハネ8:12)をしてはいないだろうか。

 第三に「私たちの応答の部分」について見て行きたい。イエス様は「神があなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。わたしは神のもとから来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わされたのです」(ヨハネ8:42)と述べている。イエス様や弟子たちも神様を「父」と呼び、イスラエル人たちも「父」と呼んでした。しかしイスラエル人は、アブラハムとの「血縁的つながり」を誇り、その中で「父」と呼ぼうとしていた。だから信仰面で自分たちの中に矛盾が起きようとも、自分たちの今までの慣習や態度を曲げることができなかった。しかし神様のことばは、神様を愛し聞き従うことによってのみ私たちの中で力を発揮する。それが「応答」ということである。イエス様は「あなたがたは、なぜわたしの話が分からないのですか」(8:40)と言う。イスラエル人たちは「神の民」としての誇りを持ちながら、実際は「罪の奴隷」でしかなかった。イスラエルのその後の歴史を見ても「罪からの自由」ではなかった。イスラエルの民は自分たちが方向転換をして福音の中で自由を得る機会を失ってしまった。聖書は、この出来事を通して私たちが福音に招かれていること、それに聞き従う機会が用意されていることを語っている。

2025/09/21

2025年9月14日「本当の自由」(ヨハネ8:31〜36)

 アメリカのニューヨークの玄関口である旧移民局の場所に自由の女神(世界を開く自由)が建っている。だが今、アメリカの移民の自由が脅かされている。また今の人は「自由」についてあまり気にしていないが、現在も自由のための戦いが行われている。私たちの求める「本当の自由」とは何か。

 1. 本当の弟子

   主イエスは「ご自分を信じたユダヤ人たち」に「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です」(ヨハネ8:31)と述べている。一方で、「あなたがたはわたしを殺そうとしています」(8:37)と表現したように、イエス様のことばを聞いて信じようとしたが、一転して敵意を向けている人たちがいた。彼らは、心のうちに根を張らなかったので、後に主イエスを十字架につけようと叫ぶことになった。一時的な信仰は「あなたがたの真実の愛は朝もやの様、朝早く消え去る露のようだ」(ホセア5:4)と表現されたように、主イエスのことばが心の中にとどまらない。表面的なものでいつの間にか消えてしまう。種が根を張るためには、実生活の中でじっくりと育てる必要がある。神は日々の出来事の中で私たちを語りかけ、導き、信仰を育ててくださる。そのため、心を開いて御言葉を受け止める必要がある。独りよがりの信仰であってはならない。

 2.罪の奴隷である現実

 主イエスは、群衆に「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:32)と述べた。このことばに対して、誇り高い民族であるイスラエル人はカチンと来て「私たちはアブラハムの子孫であって、今まで誰の奴隷になったこともありません。どうして『あなたがたは自由になる』と言われるのですか」(8:33)と反論した。彼らは、自分たちが「神の民」としての誇りがある。彼らが奴隷であった時代の苦難は、思いだしたくない黒歴史であった。エジプトやバビロン捕囚などの歴史を言うだけでなく、その時点においてもローマ帝国の属国としての立場に貶められていた。しかしイスラエルの民は、自分たちは神の民であるから、昔のように自分たちはローマからも政治的に解放されるという意識があった。しかしイエス様は「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」(8:34)と諭した。主イエスは、政治的・社会的なことではなく、神の前での立場、罪に支配されている人間の立場を述べている。この主イエスの言葉にイスラエルの民が反論したように、多くの人は「自分は罪の奴隷ではない」「自分たちは自由を謳歌している」と思い込んでいる。人は、神のみことばなしに自分の罪を見つめることができないし、自分の意志によって罪の奴隷とする鎖を断ち切ることができない。

 3.罪からの解放による自由

 主イエスは「奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます」(8:35)と述べ、奴隷と、自由人である息子のちがいについて述べた。アブラハムは、息子イサクが与えられる前に長い間不妊だったサラの代わりに、奴隷のハガルに子どもを得ている。その子イシュマエルは、やがてアブラハムの家を出される描写がある(創世記21:14)。一方、息子イサクはずっと父の家にとどまっていた。アブラハムは、ハガルとイシュマエルには十分な手当てをしている(21:12-21)。だから「奴隷だから辛く当たったのでは」と早合点をしてはいけない。しかし神は、私たちを「奴隷」ではなく「息子」として父の家を受け継がそうとしておられる。このエピソードは、そのひな形なのである。しかも、私たちを罪の奴隷から解放し、「父と子」という信頼関係の中で交わりを築けるようにされた。「子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由なのです」(ヨハネ8:36)

私たちは、主イエスによって、罪の奴隷から解放され息子として迎えられたのである。そこに、わたしたちの本当の自由がある。

2025/09/14

2025年9月7日「どこからどこへ」(ヨハネ8:21〜24)

 先日、中露朝の首脳会談の様子が放映され、その中で親しみを演出するために雑談があった。報道によると、話題は、臓器移植などで部品のように「永遠の命」を得ることは可能かだったという。古今東西、独裁者は「永遠に命」を望むが、「永遠のいのち」の意味が取り違えられているように思う。

 今日は第一に、「イエス様が満ち地に遣わされたキリストである」ということについて見て行きたい。イエス様は、避難する律法学者たちに「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることはできません」(ヨハネ8:21)と言い、彼らとの間に断絶があることを述べられた。そして、ご自身が「自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っている」(8:14)と証しされた。この「知っている」は「知識や情報がある」ことではなく存在そのものを証しされたのである。例えば、私たちは日々の多忙の中で、自分の存在の意義や意味を忘れがちである。さらに「自分の生きる先に何があるのか」については考えられないし答えが出ないと思っている。私たちの多くは自分の存在そのものについて確信ができないままに、日々過ごしている現実がある。だが「イエス様を知る」ということは、私たち自身が「自分がどこから来て、どこに行くのか」について明確な回答を得ることができる。このとき、イエス様は宮で教えられていた。宮の至聖所は明確な仕切りがあり、入ることができない。イエス様は、律法学者たちに決して超えることのできない「罪による神様との隔て」があるという。しかし律法学者たちは、救世主を捜しながら、それを見つけることはできなかった。それはイエス様が現さなかったのではなく、彼らの罪が本質を見牛なされたのである。私たちも信仰をもって神のことばを受け止めなければならない。

 第二に、「ユダヤ人たちの受け止め方」について見て行きたい。イエス様は彼らに「「あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世のものですが、わたしはこの世のものではありません」(8:23)と述べられた。彼らは、律法に従って生きられない人々を「地の民」として蔑んでいた。そして自分たちこそ神様に従った清い生き方をしていると思い込んでいた。だからこの発言は、律法学者たちにとっては我慢ならないものだっただろう。律法学者たちは、イエス様を「ナザレ村のイエス」としか認識していなかった。しかし家系をたどっていけば、旧約聖書に救世主が生まれると預言された「ダビデの子孫」であることは、詳しい彼らならわかっただろう。だが彼らは、それを認めようとしなかった。一方、ローマ支配に苦しんでいた人々はイエス様に、旧約聖書に預言された「ユダヤの王」を期待していたが、それは現実的・政治的な王であり、本当の意味での救世主とは考えていなかった。だから政治的・経済的問題ではなく、人の内側の心の罪を問題にするイエス様が分からなかった。だが私たちの人生の問題を根本的には解決できない。

 第三に「『わたしはある』と言われた方への信仰」について見て行きたい。この「ある」はギリシア語の「エゴ―、エイミ(ἐγὼ εἰμί)」と表現する。「私」という存在が二重に強調された表現である。弟子たちがカペナウムから湖に乗り出したとき、暗闇の中で強風にあった(6:16-19)。そのときに湖を歩いて近づいて来たイエス様を、何か分けられない恐怖として恐れた(6:19)。人生の中で不安に陥ったとき、私たちも神様が差しのべる手が、神様からのものではなく何か分からなくて恐れてしまうことがある。しかし、イエス様が「エゴ―、エイミ」(6:20)と語りかけたことばを信じてついていくと、船は安全についた(6:21)。8章の部分でも、心を閉ざしイエス様を批判的に見ていた律法学者たちに、イエス様は「わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬことになるからです」(8:24)と手を差し伸べられている。私たちも信仰をもってそれを受け止めたい。

2025/09/07

2025年8月31日「世の光なる主」(ヨハネ8:1〜11)

 先日、私(牧師)は健康診断を受けてきたが、もし神様の視点で私の心が診断されたらどうなるかと考えてしまう。とても耐えられないほどの罪が暴き出され、恥ずかしくて生きていけないと思う。しかし、そんな自分でも闇の中を歩むのではなくて、キリストゆえに神様の前に立てることを感謝したい。

 今日は、第一に「罪を裁こうとする人々の姿」について見て行きたい。このとき宮でイエス様が人々にメッセージをしようとしている状況で「律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て」(ヨハネ8:3)、さらに宮の真ん中に立たせてメッセージを中断させ、「先生、この女は姦淫の場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように私たちに命じています。あなたは何と言われますか」(8:4)と問い詰めた。イエス様は、人の内側から出てくる罪の結果を述べているし(マルコ7:20-23)、モーセの律法によれば「石打ちの刑」にすべきだとされている(レビ20:10など)。彼らは、イエス様が多くの罪人を赦しながら、「正しい」という自負のある自分たちを批判していることを根に持ち、イエス様の行動が律法に違反し、さらに神様に逆らっているというレッテルを貼り、「エスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった」(マルコ8:6)だけであった。そこには姦淫の女の、罪から立ち返りという視点はまったくなかった。

 第二に「罪に向き合われているイエス様の姿」について見て行きたい。このときイエス様は、真正面から律法学者やパリサイ人たちに向き合い、論争しようとはされなかった。ただ「身をかがめて、指で地面に何か書いておられた」(8:6)だけである。この場面はよく絵画のモチーフとされるが、頭ごなしに怒鳴りつける律法学者たちと、身をかがめて字を書いているイエス様の対比が興味深い。さらにモーセの律法は石に刻まれたものであるが、地面に書いた文字はすぐに消えてしまうという対比がある。。律法学者たちは「石に刻まれた律法」の権威に拠りたのみ、イエス様のことばやすぐに消えてしまうように見える。しかし永遠に残り力ある権威はイエス様のことばであった。いきり立つ彼らに対してイエス様は「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」(8:7)と言った。もちろん姦淫は罪であるし、裁かなければならないものである。しかし人の手によるさばきが「本質的な罪」を取り去ることができるのだろうか。イエス様のことばは、「さばきを実行する」ことが最終目的ではないこと、人間の持つ罪の本質とはなにかという点を突くものであった。しかもイエス様の語られたことばは、モーセの律法以上の権威をもっていた。だから「自分たちは律法に照らして正しく生きてきた」という律法学者たちの自己認識に対して深く問いかけ、彼らの中にある罪に気づかせた。神様が人間に与えられた「良心」は自分の中の罪を照らすものである。そして当時の世界では「立派だ」と敬われていた「年長者たちから」(8:9)から、それまでの人生の中の多くの罪を思い起こさせることとなった。

 第三に「イエス様による罪からの解放」について見て行きたい。誰もいなくなった宮で、イエス様は彼女に「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか」(8:10)と問うと、女の人は「はい、主よ。だれも」(8:11)と答えた。するとイエス様は「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」(8:11)と述べられた。これはイエス様が明らかな罪を見逃したのではない。イエス様は、姦淫の罪として直ちにさばいて石打ちの刑(=死)という結果をもたらさなかっただけである。この女の人を含めた私たち全員の罪をイエス様が負われて十字架で贖われるという道を選ばれたことが、後に分かろう。私たちは「時効だからいいだろう」「軽微だからいいだろう」と罪を処理しがちである。しかし、それでは通じない。私たちはただイエス様の十字架に贖われなければならない罪の大きさと恵みを、もう一度考えなければならない。

2025/08/31

2025年8月24日「罪からの回復」(サムエル記第二24:10〜19)

 人が善悪を判断する基準に「良心」というものがある。この「良心」は、人によって違い、同じ出来事でも「両親がとがめる」という人も「良心が傷まない」という人もいる。今日の箇所は、サムエル記の最後であるが、ダビデが罪と「良心のとがめ」が書かれており、彼の偉大さを物語るものではない。

 今日は第一に、「罪の自覚と良心の痛み」について見て行きたい。このときダビデは「民を数えた後で、良心のとがめを感じ」神様に「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ、今、このしもべの咎を取り去ってください。私は本当に愚かなことをしました」(Ⅱサムエル24:10)と告白した。この「罪」とは、「神様に反逆する思い」のことである。人間の「良心」は、神様に対する罪を感じ取る「警告ランプ」のようなものである。ことときダビデは、周辺国と比較して自分の築いてきた王国の成果を数値で評価しようとした。イスラエルはほかの国とは異なり、神様に従う国である。だから部下のヨアブは、そのことを進言しダビデの人口調査を止めようとしたが(24:3)、ダビデは激しくその進言を叱責した(24:4)。ダビデが強行した人口調査は9カ月以上の時間がかかり部下たちの大きな負担となった上に(24:8)、人口は大きく減っていた(25:9)。そこでダビデは、人口調査が神様の御心に反しており、王としての自己満足と傲慢さのためであると気づかされた(24:10)。「罪」とは法律違反という意味ではなく、神様への発行を意味する。人口調査は法律に違反しているものではないが、神様が王国をダビデに与えた意味や御心に反したものであった。それに気づくのが「良心」である。

 第二に「罪のさばきと贖い」について見て行きたい。「罪」には「さばき」がともなう。神様がすべてを赦せば、人間は「罪」を軽く考えてしまう。神様の恵みはそれを超えたところにある。このとき神様は、ダビデに三つのさばきを示された(24:11-13)。神様が立てた王であるダビデの罪は、ダビデ個人の罪にとどまらず国民すべてに及ぶ。イスラエルの民は、ダビデの発案で始まった人口調査が神様の意図ではないと気づくことであった。神様は三つの選択肢を与えたが(24:13)、これに対して人よりも神様を畏れていたダビデは、あえて「それは私には非常に辛いことです。主の手に陥らせてください。主のあわれみは深いからです。私が人の手には陥らないようにしてください」(24:14)というさばきを申し出た。これに対して神様は、御心に反して自らの国力を誇るために人口を調査しようとしたダビデに、一日に7万人という国がなくなる勢いで人口が減っていくさばきを与えた。自分の罪で国民が死んでいくのを見て、ダビデはどれほど心を痛めたことだろう。神様のさばきは人のさばきと比べ物にならないほど恐ろしい。しかしダビデは、神様のあわれみにすがった。神様は「わざわいを下すことを思い直し」御使いに「もう十分だ。手を引け」(24:16)と述べた。サムエル記は、イスラエルという国が神様のあわれみによって存在しているということを示そうと、最後にこの出来事を記したのではないか。

 第三に「信仰による罪からの回復」について見て行きたい。民を打っている御使いを見たダビデは、神様に「この私に罪があるのです。私が悪いことをしたのです。この羊の群れが一体何をしたでしょうか。どうか、あなたの御手が、私と私の父の家に下りますように」(24:17)と祈った。目をそむけたくなるような状況に、ダビデは王としての虚栄はなく、心の底から神様に祈った。神様はこの祈りに対して、エルサレムの先住民族であるエブス人の土地に祭壇を築くように言われた(24:18)。だがエブス人アラウナにすれば、ダビデたちが来たときには自分を征服してきたように思えただろう(24:20)。だがダビデは自分の罪を告白し、さらに征服者が「奪う」のではなく土地も牛も代金を払って「買いたい」(24:21、24)と述べたのは驚きだっただろう。ここに後年、神殿が築かれた(Ⅱ歴代誌3:1)。

2025/08/24

2025年8月17日「主は生きておられる」(サムエル記第二22:1〜7)

 新聖歌の227番に「キリストの愛われに迫れり」という曲があり、キリストの愛が作者の現実に迫って来るようすがよく歌われている。作者の現実は具体的には歌詞には見られない。むしろ現実よりも「キリストの愛」そのものに目を向けている。今日のダビデの賛美も同様である。

 今日は第一に「死に直面する中での祈り」について見て行きたい。ダビデは「死の波は私を取り巻き、滅びの激流は私をおびえさせた。よみの綱は私を取り囲み、死の罠は私に立ち向かった」(Ⅱサムエル22:5-6)と歌った。大瀬健三郎は「洪水はわが魂に及び」という旧約聖書の詩編から引用したタイトルの小説を書いたが、この「洪水」は、1970年代の世相を比ゆ的に描写したものである。ダビデの「激流」も同じだろう。だがダビデは、「私は苦しみの中で主を呼び求め、わが神に叫んだ」(22:7)と祈ることをやめなかった、祈っていながら変化が見えないときは、神様が遠くに去ってしまったように思う。しかし神様は、そんな時こそ、たしかに私たちの祈りを聞き届けられておられる。

 第二に「主に結びつく信仰」について見て行きたい。ダビデはこの賛美を「特にサウルの手から救い出された日に、彼はこの歌のことばを主にうたった」(22:1)。信仰というものは、ある日、突然現れるものではなく、さまざまな経験と祈りの中で蓄えられてくるものである。だが、それだけではない。ダビデは「地は揺るぎ、動いた。天の基も震え、揺れた。主が怒られたからだ。煙は鼻から立ち上り、その口から出る火は貪り食い、炭火は主から燃え上がった」(22:8-9)と賛美しているが、これはイスラエルの民が出エジプトの出来事(出エジプト19:17-18)と自分の今の出来事を重ねている。私たちも個人の経験だけで、過去の出来事を現在の自分と切り離して考えるべきではない。神様がこれまで人間に成してきたすべての御業の中で考える必要がある。さらにダビデは「主は、高い所から御手を伸ばして私を捕らえ、大水から、私を引き上げられました」(Ⅱサムエル22:17)と賛美している。私たちは大水が迫り流されようとしているとき、たしかに神様は、そこに降りてこられて私を引き上げようとされている。それは新約聖書においてはキリストであり、そこにしっかりと結びつくことで、私たちは私たちを押し流そうとする「洪水」から引き上げられるのである。

 第三に「主は生きておられる」ということを見て行きたい。ダビデは「主は生きておられる。ほむべきかな、わが岩。わがむべきかな、わが救いの岩なる神」(22:47)と賛美している。「主は生きておられる」という表現は、旧約聖書の中に40数回出てくる。またサムエル記第二の中でも、ダビデは「主は生きておられる。主は私のたましいを、あらゆる苦難から贖いだしてくださる」(4:9)と賛美している。このとき、ダビデを喜ばそうとした二人がダビデの敵サウル(ヨナタンの父親)孫のイシュ・ボテの首を持ってきた。イシュ・ボテは、たしかにサウルの孫であるが、ダビデの親友ヨナタンの息子でもあった。その二人に対してダビデは、上述の「主は生きておられる」と述べた。すなわち彼は、ダビデ対サウルとか、サウルの累計を殺せばダビデが喜んで褒美がもらえるとか、そんな人間的な視点から考えるべきではない。ダビデは、常に神様の視点から考えようとしていた。彼は「あなたは、民の争いから私を助け出し、国々のかしらとして保たれました」(22:44)と賛美し、力もなく家系も誇るべきでない自分が王となっているのは、ただひとえに神様によるものだと確信していた。このような神様の導きに対して、私たちは感謝と賛美をもって神様とつながる。それが信仰である。私(牧師)が前にいた教会の木工師は、祈りを捧げ、材料を選び誠実を尽くして作っていた。現在の工業製品の方が精度は高いかもしれない。しかし誠を尽くして捧げ、感謝を交わすことで、工業製品とは違う交わりが生まれると思う。それは神様と私たちの関りの原点であろう。

2025/08/17

2025年8月10日「罪を贖う宥め」(サムエル記第二21:1〜11)

 今年は戦後80年になる。戦争のことを考えると「あれはいったい何だったんだ」と考えてしまう。今日の箇所はサムエル記の大筋からすると「ふろく」のような位置づけだが、罪が個人に属するだけでなく、神様と民族との契約の中でも考えて行かなければならないことを示している。

 今日は第一に「明らかにされたイスラエル民族の罪」について見て行きたい。聖書は「ダビデの時代に、三年間引き続いて飢饉が起こった」(Ⅱサムエル21:1)という異常事態があったことが記されている。ダビデは「主の御顔を求め」たところ、神様からは「サウルとその一族に、血の責任がある。彼がギブオン人たちを殺戮したからだ」(21:1)という御言葉があった。このギブオン人は、ダビデから500年前、モーセの後継者であるヨシュアがカナンの地に入ったとき、先住民であるギブオン人は神様に従いイスラエルと盟約を結んだ(ヨシュア9:15)。この盟約の前提としてギブオン人が「先住民ではなく遠い国から来た」(9:6)とウソをついたが、後に不誠実さがばれたがイスラエルの族長たちは神様にかけて結んだ契約だったからと盟約を破棄しなかった(9:19)。だがサウルは、その盟約を無視し彼らを抹殺しようとした(Ⅱサムエル21:1)。国が不安定になったとき、弱い立場や少数者を抑圧しようとする。サウルの行為は、人の目には「イスラエルとユダの人々への熱心のあまり」(12:2)と見えたが、それ自体は神様の前の契約を無視しようとする者であった。

 第二に「求められた贖い」について見て行きたい。飢饉が、サウルが神様を前にしたイスラエル民族の誓いを無視したことが原因だと知ったダビデは、ギブオン人たちを呼んで「私が何をもって宥めを行ったら、主のゆずりの地が祝福されるだろうか」(12:3)と尋ねた。これに対して彼らは「私たちとサウルおよびその一族との間の問題は、銀や金のことではありません。また、私たちがイスラエル人のうちで人を殺すことでもありません」(12:4)と述べ、イスラエルに対する怒りはお金で解決できる訳でもないし、復讐心を振りかざしたいというわけでもないと答えた。彼らは「私たちを絶ち滅ぼそうとした者、私たちを根絶やしにしてイスラエルの領土のどこにも、いさせないように企んだ者、その者の息子の七人を私たちに引き渡してください」(12:5-6)と述べ、サウルらの罪を適正に裁いてほしいのと述べた。特にもう死んでいるサウルでなく、彼の行動を助長した息子たちをさばいてほしいというのである。この申し出はサウルの子孫であり、ダビデの親友ヨナタンの子どもメフィボシェテが含まれるというつらいものであった(12:7)。ダビデにとって、かつてのヨナタンとの誓い(Ⅰヨナタン20)を守ることと、ギブオン人たちとの誓いの両方の板挟みになることであった。だが契約は、人間の心情ではなく神様との関係であり、それを重視しなければならない。

 第三に「宥めの結果として与えられた平安」について見て行きたい。私たちのいのちは神様によって与えられている。そのいのちを打ち壊す行為に対しては「血の責任」贖わなければならない。私たちは生まれながらに見怒りの子であった私たちは、イエス様の十字架と血の贖いによってきよめられた。イエス様自身は父なる神様の前に「宥めの供え物」となり、私たちに対する神様の見怒りが説かれた。このときもサウルの息子七人が「血の贖い」となっていのちを落とした。サウルの側女アヤの息子二人もいのちを落としさらし者となっていた(Ⅱサムエル12:8-9)。母であるリツパは、息子たちの遺体が鳥や獣の犠牲にならないよう数カ月間見守っていた(12:10)。絶望の日々であっただろう。その行いを聞いたダビデは(12:11)、サウル王の息子たち、親友であったヨナタンの息子の死体がさらされていることに無頓着であることに気づかされた。ダビデは、息子たちの骨を集めてサウルの墓に丁寧に葬った(12:14)。そうして初めて神様は「この国の祈りに心を動かされた」(12:14)のである。

2025/08/10

2025年8月3日「父の愛と悲しみ」(サムエル記第二18:24〜33)

 かつて作家の遠藤周作氏は、日本人がキリスト教を受け入れられないのは、聖書に描写された神様が厳しく見えるように見えるからではないかと言っていた。ご本人は、聖書は人間の弱さや不完全さを認めることであると考え、名作を多く生み出した。

 級は第一に「ダビデに反抗したアブサロムと、ダビデ」について見て行きたい。アブサロムの反乱は華々しくはじまり、愚かな死という結果に終わった。「アブサロムはラバに乗っていたが、らばが大きな樫の木の、茂った枝の下を通った。すると、アブサロムの頭が樫の木に引っ掛かり、彼は宙吊りになった」(Ⅱサムエル18:9)となり、「ヨアブの道具持ちの十人の若者も、アブサロムを取り巻いて彼を打ち殺した」(18:15)となった。このような結果は、ダビデもまったく予想できなかったし、ダビデが息子アブサロムに対する思い(18:5)も十人の若者も想像できなかった。これはダビデの愛と同時に、ダビデ自身が犯した罪の結果、アブサロムが反抗するようになったという重荷があった。

 第二に「求められる良い知らせ」について見て行きたい。戦争において「良い知らせ」とは一般には勝利であるが、ダビデにとってはそれよりも「アブサロムが無事でいられるかどうか」であった。そういう中で戦場からの伝令が来るのを、ダビデは待ち望んでいた(18:24)。見張りが、伝令が近づくのを知らせると、ダビデは「ただ一人なら、吉報だろう」(18:25)と言った。だが、兵士たちが考える一般的な「吉報」(アブサロムが討たれてダビデ軍が勝利する)と、ダビデが望んでいた「吉報」(息子アブサロムが生きたまま捕らえられる)とは全く異なっていた。二番目の伝令である「ツァドクの子アヒマアツ」(18:27)は、実はアブサロムが討たれたことを知っていて、自分が王に直接伝えたいと思っていた人物であった(18:19)。ただヨアブはアヒマアツが王に伝えに行くことを止めて、クシュ人の伝令を走らせた(18:20)。だが「まずダビデ軍の勝利を伝えてから」というヨアブの思惑とは異なり、クシュ人の伝令よりアヒマアツの方が早く着いてしまった。ダビデはアヒマアツに真っ先に「若者アブサロムは無事か」(18:29)と問うたが、彼はアブサロムの死を伝えなかった(18:29)。次いでやって来たクシュ人は、ダビデの「若者アブサロムは無事か」(18:32)に対して、アブサロムは死んでダビデに歯向かう者はいなくなったことを伝えた(18:32)。それを聞いたダビデは大いに悲しんだ(18:33)。クシュ人はダビデ軍に対する「良い知らせ」を確かに伝えた。しかし、そのときのダビデの心情を鑑みて伝える必要もあった。「福音」も「良い知らせ」という意味がある。しかし「良い知らせ」をどう伝えるかは、時と場合を見極めなければならない。

 第三に「ダビデの嘆きに見る愛の真実さ」について見て行きたい。ダビデは「わが子、アブサロム。わが子、アブサロムよ。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに」(18:33)と周りのことも気にせずに嘆いた。本来、命がけで戦った兵士たちは凱旋の喜びにあふれて胸を張って帰ってくるはずであった。しかし王の嘆きを見ると兵士たちは「まるで戦場からにげて恥じている兵がこっそり帰るように」(19:3)帰ってこざるをえなかった。これに対して将軍ヨアブは、ダビデに「あなたは今日、隊長たちも家来たちも、あなたにとっては取るに足りないものであることを明らかにされました。今、私たちは知りました。もしアブサロムが生き、われわれがみな今日死んだなら、それはあなたの目にかなったのでしょう」(19:6)という痛烈な批判をした。ダビデはかろうじて王としての役目を思い出し、「立って、門のところに座」り(19:8)、通常のように凱旋する兵士たちを迎える王の行動を行った。アブサロムを失ったときの取り乱しようは、王としては人びとに理解されないものであった。息子アブサロムへのダビデの愛は真実であった。そこに神様の愛の反映を見ることができる。

2025/08/03

2025年7月27日「人を活かす知恵」(サムエル記第二17:1〜14)

 私たちの人生には大きな決断を迫られることがある。今までの経験や知識、人間関係などから判断するかもしれないが、その背景にある神様の導きを忘れることはできない。今日の箇所は、ダビデ王が自分の息子アブサロムのクーデターから間一髪救われた場面である。

 今日は第一に「敵に立ったアヒトフェル」について見て行きたい。ダビデの三男アブサロムは、多くの人心を捉えて王位を狙った。中でも彼に軍事参謀となったのは、それまでダビデの助言者だった大変に優秀なアヒトフェルであった(Ⅱサムエル16:23)。このクーデターはダビデ家の家族間の争いというより、ダビデから人心が離れて行ったことを示している。一説によると、アヒトフェルはダビデが姦淫を犯したバテ・シェバの祖父であったともいう。だからこそダビデは、アヒトフェルの助言をなんとかしてくれるように神様に祈った(15:31)。このときアヒトフェルが立てた作戦は、すぐに追撃の軍隊を組織してダビデ王だけを抹殺するものであった(17:1-2)。ヨルダン川を背にして休んでいるダビデ軍を急襲すればダビデ軍は総崩れとなる。だがアヒトフェルは、兵士たちはアブサロムの味方となるように生かしつつ、ダビデただ一人を抹殺しようとした。アヒトフェルがダビデへの強い私怨を持っているのに対して、ダビデはアヒトフェルの殺害や呪いではない祈りであった点に注意したい。

 第二に「ダビデのために働いたフシャイの働き」について見て行きたい。三男アブサロムは、父ダビデに比べて軍事的な経験は少ない。そこで、もう一人フシャイという人も呼び寄せた。しかしこのフシャイは、アブサロムのそばに置いたダビデの間者でもあった。アヒトフェルの立てた作戦に対して驚いたフシャイは、ダビデ軍を一刻も早くヨルダン川を渡らせるように時間を稼ごうと、アブサロムに「このたびアヒトフェルの進言した助言はよくありません」(17:7)と進言した。そして「あなたは父上と疎の部下が戦士であることをご存じです。彼らは、野で子を奪われた雌熊のように気が荒くなっています」(17:8)と述べ、ダビデは戦いになれているから兵をから離れたところに隠れているだろう。だから、この作戦では目的を達成できないと主張した(17:9)。これはバレたら命を失うような大芝居であるから、ダビデに対するフシャイの忠誠心が分かる。全イスラエルの長老が納得した(17:4)神のような助言をすると言われたアヒトフェルの助言(16:23)を覆すのは大変だっただろう。さらに「フシャイは「全イスラエルをダンからべエル・シェバに至るまで海辺の砂のように数多くあなたのところに集めて、あなた自身が戦いに出られることです」(17:11)という、アブサロムのプライドを刺激し、しかも大変時間のかかる方法を提案した。そうしておいてダビデに人を遣わし、急いでヨルダン川を渡るように伝言をした(17:16)。休息に入っていたダビデ軍にとって、夜になろうとするのに川を渡り荒野に移動するのは大変であったが、ダビデはフシャイのことばを信じて行動した。

 第三に「いのちを与える主」について見て行きたい。フシャイが、当時、神のような助言をすると言われたアヒトフェル(16:23)を大変なことであった。彼一人では不可能だっただろう。だがアブサロムとイスラエルの長老たちは「アルキ人フシャイの助言は、アヒトフェルの助言よりも良い」(17:14)といった。聖書は「これは主がアブサロムにわざわいをもたらそうとして、主がアヒトフェルのすぐれた助言を打ち破ろうと定めておられたからである」(17:14)とその背後に神様の働きがあったと述べている。フシャイの軍事参謀としての実力は、アヒトフェルにはるかに及ばない。その助言が採用されたことはアヒトフェルにとってはショックだった。彼はダビデに反旗を翻し。アブサロムに仕えていくという選択をしたことに絶望して自死した(17:23)。またフシャイの助言に従って戦場に出て行ったアブサロムも戦死した。そこには人の能力や野望を超えた神様の確かな働きがあったと言わざるを得ない。

2025/07/27

2025年7月20日「今日の呪いに代えて」(サムエル記第二16:5〜12)

 今日は参議院選挙である、だが選挙戦の一部ではお互いの批判が目立つこともあった。私たちは信仰者としてどう振舞うべきか。パウロはテモテへの手紙の中で、権力を預かる者を誹謗中傷するのではなく、祈り、神様にとりなし、感謝をささげるべきだと述べている(Ⅱテモテ2:1)。

 今日は、第一に「ダビデを責め続ける人」について見て行きたい。ダビデはイスラエルに敵対する人々と戦い、また国内では先代のサウル王からも攻撃されてきた。だが今は、武器ではなくイスラエルの同胞から責められるようになってきた。またダビデの息子たちが憎み合い、長男アムノンが三男アブサロムの命で殺されるという事態となった(Ⅱサムエル13:29)。さらにその後、アブサロムは父ダビデにクーデターを起こした(15:10)。さらに「ダビデ王がバフリムまで来ると、見よ、サウルの家の一族の一人が、そこから出てきた。その名はゲラの子シムイで、さかんに呪いのことばを吐きながら出てきた」(16:5)と、サウル前王の遺族からも憎まれた。そんな中でも、ダビデは神様に対する信頼と息子アブサロムに対する愛は失ってはいなかった。

 第二に「批判を素直に受け止めるダビデ」について見て行きたい。サウル前王の遺族は「出ていけ、出ていけ。血まみれの男、よこしまな者よ」(16:7)と呪いのことばを吐いたのに対して、ダビデの部下のアビシャイは「わが主君である王を呪ってよいものでしょうか。行って、あの首をはねさせてください」(16:9)と述べた。かつてダビデは、前王サウルを手にかけようとした人物に対して「神様に油を注がれた者を手にかけるとは」と怒ったことがある(1サムエル26:16)。それほど重いことであるため、アビシャイの提言は妥当でもある。しかしダビデは、この呪いのことばを武力をもって排除することなく、「ツェルヤの息子たちよ。これは私のことで、あなたがたに何のかかわりがあるのか。彼が呪うのは、主が彼に『ダビデを呪え』と言われたからだ」(Ⅱサムエル16:10)と受け止めた。そして「見よ。私の身から出た私の息子さえ、私のいのちを狙っている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。放っておきなさい。彼に呪わせなさい。主が彼に命じられたのだから」(16:11)と部下たちに述べた。現在、権威主義的な国家の場合、トップを批判したり呪ったりしたら、国家や為政者の権威を貶めるものとして直ちに重い刑罰を受けるだろう。またサウルの遺族であるシムイの非難にも多くの誤解が含まれている。しかしダビデは、シムイに呪いのことばを吐かせる神様が、自分の罪を指摘していると受け止めた。信仰は、すべて自分に都合のいいことばかりが起こるのではない。神様からの不都合なアプローチにも心を広げ、神様を信じて受け止めていくことを求められることもある。

 第三に「今日の呪いを変えられる日」について見て行きたい。ダビデは「おそらく、主は私の心をご覧になるだろう。そして主は今日の彼の呪いに代えて、私に良いことをもって報いてくださるだろう」(16:12)と 部下たちに言っている。もしシムイを通じて投げかけられた呪いのことばが永遠に続くなら、ダビデにとっても無化にとってもたまったものではなかっただろう。しかしダビデは神様を信頼し、今日の呪いを祝福に変えてくださることを信じていた。私(牧師)が神学校時代の先生は「クリスチャンの特徴は信仰的楽天主義だ」とよく言っていた。自分の罪をえぐり出されるようなシムイのことばにダビデが傷つかなかったわけではない。だがクリスチャンは悪い状況にとらわれるのではなく、神様がきっと状況を変えてくださること信じている。アブサロムが死んでダビデ復権すると、シムイはダビデに助命懇願をし(19:18-21)、ダビデの部下アビシャイは死刑を提言している。だがダビデの態度は一貫しており、油を注がれたものを呪ったシムイの罪は罪として(Ⅰ列王記2:8)、あくまで「神様と私の問題」であると受け止めて(Ⅱサムエル19:22)、シムイを助けている(19:23)。

2025/07/20

2025年7月13日「砕かれた頑なな心」(サムエル記第二12:1〜13)

 今日の急速な社会の変化を見ると、例えばAIが裁判を行うことも可能になり、あらためて「人とは何か」問われる時代となる。しかし罪意識のない機械が人をさばくのはどうなのか。私たちは今、聖書が示す「罪」についてあらためて注目しなければならないときではないか。

 今日は第一に「御言葉による罪の自覚」について見て行きたい。先週の箇所では、ダビデはウリヤを裁いて死刑にするのではなく、戦死というかたちで殺すこととした。そうすればダビデは自分に嫌疑がかからないと判断した。もしばれたらダビデはすべての信頼をなくすが、隠し通すことができれば自分に影響はないと考えた。だが神様は、ダビデの心と行動のすべてを見通しおられた。だが神様は、ダビデの罪そのものを指摘するようなことはされなかった。その代わりに預言者ナタンをダビデのところに送って「富んでいる人が、貧しい人の子羊を奪い取った話」(Ⅱサムエル12:1-4)というたとえ話を語らせた。この「富んでいる人」はもちろんダビデを表していて、その通り神様はあらゆる面でダビデを祝福されていた。一方、雌羊を奪われた「貧しい人」はウリヤのことであるが、このたとえ話はダビデが行ったことの半分だけ、つまりウリヤを殺したことは含まれていなかった。しかし、その半分のたとえ話でも、ダビデは激しい怒りで「主は生きておられる。そんなことをした男は死に値する」(12:5)と断じた。ここでダビデは、神様に従う倫理観を持ちながら、罪を犯すのは「自分のことではない誰か」と考えている。私たちクリスチャンの多くも、そうはなっていないか。しかし神様のみことばは、私たちの罪を浮かび上がらせ、自分自身の罪を自覚させる。

 第二に「神様に砕かれた頑なな心」について見て行きたい。神様は、ダビデに「どうして、あなたは主のことばを蔑み、わたしの目に悪であることを行ったのか」(12:9)と述べられた。神様は「神様のことばを蔑む」ことが「悪を行う」ことと密接に関係していることを指摘された。ダビデは王となって多くのものを与えられた結果、以前のダビデでは考えられないような変化が、ダビデ自身も知らない内に起こっていた。しかしダビデは、ナタンを通して伝えられた神様のことばに、すぐに反応して「私は主の前に罪ある者です」(12:13)と立ち返った。ダビデは部下の妻を奪い姦淫を犯した。さらに自分の手を汚すことなく部下を死に追いやった。人間的には大変な罪である。しかし、それよりも大きく、そしてそれらの罪の源流となったのが「神様への不信仰」である。ダビデもイスラエル民族として「神様への不信仰」の罪の大きさをいやというほど聞かされてにもかかわらず、ほんの少しの成功体験が目を曇らせてしまった。ダビデは神様の前に罪を認め、ナタンも「「主も、あなたの罪を取り去ってくださった。あなたは死なない」(12:13)と宣言した。もちろんそれで社会的な報いがなくなるわけではない。しかし私が神様の前に罪を認めるというスタート時点に立たなければ神様の恵みはない。自分にとって決して居心地の良いものではないが、そこからしか神様との回復の道はない。

 第三に「あわれみによって起こる再生の道」について見て行きたい。本当ならば、ダビデは部下たちの信頼を失い王位を負われたかもしれない。ダビデ自身も「そんなことをした男は死に値する」(12:5)と言い切っている。しかし神様は、神様側のあわれみによってダビデの罪を取り去ってくださった(12:13)。これは、この事件だけの話ではない。へブル人への手紙には(キリストの)「血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか」(へブル9:14)とある。罪によって死んだも同然のダビデ、自分のことで死んだ夫に対して苦しみ続けるバテ・シェバ、そして同じように罪に死に苦しみにとらわれたすべての人を、ダビデの子孫に救い主を誕生させ十字架につけることで救うという神様の壮大な恵みの業を指し示している。

2025/07/13
2025/07/06

2025年7月6日「誘惑の罠」(サムエル記第二11:1〜15)

 今日の箇所はダビデの人生最大のスキャンダルが細かに書かれている。その内容は、一国の王としてしてはならない事件であるが、著者サムエルはダビデの罪を明らかにする中で分かってくる神様の恵みを書きたかったのではないか。ダビデは、このどん底から神様は新しく作り替え用いてくださった。

 今日は第一に「ダビデが陥った罪の誘惑」について見て行きたい。ダビデの人生を根底から壊してしまう罪は、何気ない日常の中で起こった。まずイスラエルの全軍が出陣する中で、ダビデは王宮にとどまっていた。そこにダビデの気のゆるみが見える。ヤコブの手紙には「人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に惹かれ、誘われるからです」(ヤコブ1:14)とあるが、誘惑する側ではなく、自分の側に問題があると述べている。ダビデが欲に陥ったのは「ある夕暮れ時、ダビデが床から起き上がり、王宮の屋上を歩いている」(Ⅱサムエル11:2)という平穏な日常の中であった。さらにダビデは「その人が誰か知りたい」という欲望が起こった(11:3)。さらに報告者は、はっきりと「あれはヒッタイト人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバです」(11:3)と述べたので、本来であればここで引き下がらなければならなかった。しかしダビデは、自分の権威をかさに着て人妻を呼び寄せて寝た(11:4)。ダビデは王であり強さを持っていたが、聖書は彼の弱さに目を留めている。

 第二に「責任逃れの偽装工作」について見て行きたい。ダビデの行為の結果、バテ・シェバは身ごもった(11:5)。聖書はさらっと書いているが、この間、バテ・シェバはどれほど苦しんだだろうか。彼女は、先の見えない苦しみの中でダビデがどのように対応するのか、ダビデから距離をとるように「人を送って」伝えた。ダビデは、そこではじめて事の重大さに気づいた。夫ウリヤは当然怒って周りの人に伝えるだろう。そうすると自分たちが命懸けで戦っているときに部下の妻を妊娠させるとはと、一気に信頼は落ちたことだろう。そう考えたダビデは、ウリヤを戦場から呼び寄せて家に帰し、子どもは夫婦生活の中でできたのだと世間に思わせるような工作しようとした。ダビデはウリヤを帰すようにヨアブに命じ、やって来たウリヤにあまり意味のない質問をした(11:7)。当然、ウリヤは「なぜ私が」と感じただろう。さらに、おかしなことに王からウリヤに贈り物がなされた(11:8)。ダビデからすると、ウリヤに好意を示すことで疑いの目を向けられないという浅はかな考えであったが、ウリヤから見ても他の部下から見ても異常な行動に思えた。「ウリヤは自分の家に帰らなかった」(11:10)という報告を受けたダビデは「なぜ、自分の家に帰らなかったのか」と尋ねたが、これに対してウリヤは「神の箱も、イスラエルも、ユダも借庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。それなのに、私が家に帰り、食べたり飲んだりして妻と寝るということができるでしょうか」(11:11)と答えた。その背後には「それなのに王は、いったい何をしているのですか」という指摘が隠されていた。ダビデは、本来、ここで引き返して立ち返るべきだったのだろう。

 第三に「死を招いた罪」について考えたい。ダビデはあろうことかヨアブに「ウリヤを激戦の真っ正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼らが討たれて死ぬようにせよ」(11:15)という命令を下した。ウリヤは、これまで忠実に仕えた人、信じて共に戦った仲間に裏切られることになる。一方、ヨアブはウリヤを呼び戻す命令を受けたときも、今回の命令を受けたときもおかしいと思ったはずである。しかしヨアブは、将軍としての矜持を捨ててダビデの罪を覆い隠すような手伝いをした。戦死を装ったダビデの工作は一見成功したように見える。だが神様の前には罪を覆い隠すことができなかった。そしてダビデとその子孫は大きな償いを払うことになった。だが、その一方で、そんな弱さを持つダビデを見捨てずダビデの子孫を通して救い主を与えられた恵みと愛の大きさを考えていたい。

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