イースターってなあに?

 
近ごろは巷でもよく聞くようになった「イースター」。じっつはキリスト教のお祭りなんです。
みなさんもご存知の「クリスマス」よりも、もっと大事な日かもしれません。
そんな「イースター」について、もっとよく知ってみませんか?
 
イースターってなあに?(初級編)
 

最近、巷で耳にするようになった「イースター」。でも本当のところはよくわからない人も多いと思います。実はキリスト教の大切なお祭りで、とても意味の深いものです。この「イースター・プロジェクト」は、ちらし(トラクト)―ホームページー教会での礼拝を関連させて、少しでも多くの人にイースターについて知ってもらいたいというプロジェクトなのです。

Q1:イースターってなあに?

キリスト教の「復活祭」のことです(→「イースターってなあに?(中級編)」参照)。後に、春の訪れを祝う様々な国や民族の伝統も合わさりました。

Q2:イースターっていつなの?

イースターエッグ

イースターはクリスマスのように毎年決まった日付に行われるのではありません。「春分の日の後の、最初の満月の次の日曜日」なので、最も早くて3月22日、最も遅くて4月25日になってしまいます。ちなみに次に3月22日がイースターになるのは2285年、次の4月25日がイースターになるのは2038年だそうです。ちなみに2008年は3月23日と、二番目に早い日程になったイースターでした。

Q3:なぜイースターのシンボルは卵なの?

石のように固くて死んだように見えるものから新しい命が生まれる。そんな卵を「復活のシンボル」とするのは、昔からいろいろな民族に伝わる考えで、聖書の記述と直接の関係はありません。でもユダヤ人がユダヤ教の「過ぎ越しの祭り」で新しい命のシンボルとして食べていてなじんでいたことや、イエス様が石でフタをした墓からよみがえったこと(→「聖書の舞台(生活・習慣)」のは行「墓と埋葬」参照)などが「卵から生まれる」イメージだったことから、イースター(復活祭)のシンボルとして使われるようになりました。

Q4:なぜイースター卵はカラフルなの?

これも、聖書の記述と直接の関係はありません。マグダラのマリヤがローマ皇帝に赤い卵を贈って「キリストの復活」を説明したとか、「ある皇帝が「キリストの復活など、赤い卵同様、ありえない」と言ったことから卵を赤くしたとかイエス様の血の犠牲を表しているとか、いろんなお話はあります。今では赤以外に上の写真のような様々な色に塗って楽しんでいます。「聖書の舞台(生活・習慣)」のあ行「イースター」では、映画「名探偵コナン 世紀末の魔術師」の話をしていますが、ここでお話しした「インペリアル・イースター・エッグ」などは、ロシアのロマノフ王朝でつくられた豪華絢爛なイースターエッグの説明もしています。

Q5:なぜイースターと言えばウサギなの?

これも、聖書の記述と直接の関係はありません。この項目の執筆者はイギリスに住んでいたことがありますが、かの地では、春になると子ウサギが湧いて出るように道端を跳んでいるんです。日本の田舎のカエルみたいでした。春になると湧いて出る多産のウサギは、多くの民族で春の豊饒のシンボルでした。またドイツでは、日本のなまはげのようや、サンタクロースのように、裁判官ウサギが良い子に卵やキャンディを届けるという風習がありました。このあたりがイースター・バニーの起源のようです。

イースターってなあに?(中級編)
 

「初級編」では、一般的なイースターのお話をしました。続く「中級編」では聖書を踏まえたキリスト教的なイースターの見方について書いていきたいと思います(ここは秋山牧師ではなく、ホームページ管理の信者が書いています。より詳しくは「ブログ牧師室」等の秋山牧師のページをご覧ください。)

Q6:復活ってなあに?(その1:原罪)

アダムとイブのお話はご存知ですか?エデンの園(→「聖書の舞台(国・場所)」のあ行「エデンの園」参照)で幸せに暮らしていて神様との良い関係を築いていたにもかかわらず、蛇にそそのかされて神様から「食べてはいけない」と唯一命じられた禁断の木の実を食べた話です(お話では「リンゴ」と間違って話されることもありますが、違います)(→「旧約聖書を読んでみよう」の「アダムとエバ」参照)。それ以来人間は神様との良い関係が断たれ、罪の中で生き、やがては死の中での苦しみを受ける存在となったのです。これを原罪と言います。

この罪はものすごく大きくて、借金で言えば国家予算規模の負債を抱えたようなものです。人間の少々の善行ではとても贖いきれません。人間は滅ぶしかなかったのです。

当時のイスラエルのお墓

Q7:復活ってなあに?(その2:十字架)

こんな借金を返すことのできるのは、唯一神様だけです。神様は正しい方ですから、罪にまみれた人間をそのまま許すわけにはいきません。一方、人間を愛していましたから、そのまま滅ぼすのは忍びなかったのです。そこで唯一筋を通しながら人間を救う手立てとして、有史以来の人間のすべての罪をかぶる身代わりを、神様自身が用意する必要があったのです。それがイエス様です。

しかし、いかにイエス様と言えども、有史以来、未来までのすべて人間の罪を被るのは簡単ではなく、十字架の直前に「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイ26:39)と祈っています(ただ「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と続けていますが)。

そもそも十字架というのは「神に呪われた者」になされる、大変な苦痛を伴う刑罰ですが、イエス様の苦しみの本質は神様との関係が断たれ、ひとり黄泉の国で全人類の罪を背負うことだったのです。

 

Q8:復活ってなあに?(その3:死から復活へ)

イエス様が十字架につけられたのがユダヤ教の祭りの日である金曜日(1日目)→次の土曜日が2日目→そして日曜日(3日目)の朝に墓から生き返りました。クリスチャンが信仰の宣言を行う「使徒信条」の中に「…十字架につけられ、死にて葬られ、黄泉に下り、三日目に死人の内よりよみがえり、天に昇り、全能の神の右に座したまえり…」と言うのがこれなのです。よく「三日後」と間違えて解説しているネット記事もありますが、金曜日から「三日後」だと月曜日になってしまいます。イエス様が十字架につけられて死んだのが金曜日の午後三時(マタイ27:46)で、復活されたのが日曜日の明け方以前(マタイ28:1~6)ですから、この世の時間で50時間後と言うことです。

黄泉の時間の進みかたは知りませんが、この間にイエス様は全人類の罪の苦しみを背負いながら、それをすべて贖い、しかも自力で死から生還したのです。復活と言うのは単なる肉体の蘇生ではなく、アダムとイブから続く神様と人間の断絶を回復し、その後の人類の罪の歴史をすべて贖った歴史的な大事業のことをさします。

Q9:神様との関係の回復って?

ハリウッド映画の話を想像してください。ある人物が連邦政府からの抹殺指令によってCIAだか軍隊に追われる身になる。すべての政府組織が彼を敵対し追い詰める。そんな中で主人公を守るヒーローが現われて彼を守りながら逃亡を手助けする。最後には、主人公にかけられていた嫌疑が晴れ、それが大統領暗殺を未然に防ぐことになり、ホワイトハウスに主人公が招かれ大統領に親しく声をかけられて大団円。そんな栄華です。荒唐無稽な話で、もし現実にそんな目にあったら大変なことになることは容易に想像できるでしょう。私たち人間は、生まれながらにこのハリウッド映画の主人公のような立場で苦しんでいるのです。逃亡生活の中にもつかの間の休息はありますが、置かれた立場を考えると本当の平安はありません。

人間の作ったわずか200年の歴史しかない連邦政府でさえ恐怖なのですから、罪にまみれ「神に敵対する」私たちは、いかに危機的な目にあっていることでしょう。また、大統領と親しく交わるなどは映画の中だけの話で、普通は気軽に近づこうとしたらSPに銃を突き付けられます。人間である大統領でさえそうなのですから、神様には近づくこともできません。

こんな関係だった私たちが、神様を気軽に「父なる神様」と呼ぶことができ、「敵対する者」から「相続人」と呼ばれるようになったことは驚くべきことです。ハリウッド映画でヒーローの役は、ドロドロ傷つきながらも主人公を守るブルール・ウィルスあたりでしょうが、それよりももっと傷を負い、十字架で死んでまで私たちって神様との関係を回復してくださったのはイエス様です。

 

Q10:イースターの喜びとは?

ここまで様々な例えをしてきました。「先祖代々のとても返しきれない借金を肩代わりしてもらって、お金の心配がいらなくなった」「連邦政府に追われて不安な逃亡生活をしていたが、すべての嫌疑が晴れて大統領に招かれ感謝された」など、まるで映画の中の話ですが、それでも主人公の晴れ晴れとした気持ちがわかるでしょう?

しかしイースターとは、イエス様ば私たちの罪を肩代わりして読みに下り、その罪をすべて贖って復活されて、私たちが神様と永遠に生きることを実現してくださった日を記念するのですから、先の映画の主人公よりどれほど平安で喜びが深いかわりますか?

クリスマスは有名ですが、この一連の神様の計画が具体的に(旧約聖書の時代から人間の罪の贖いは計画されていたが、それが具体的に始まったという意味)はじまった日です。一方、イースターは「その計画が完成した日」なのです。罪の贖いと永遠のいのちはキリスト教信仰の中心ですから、イースターがいかに重要な日かわかると思います。

イースター・トリビア(一般ネタ)
 

ここでは、イースターの季節に友達に話せる面白ネタを書いてみます。聖書とは関係ないかもしれませんが、楽しんでください。

1.ピーターラビットお父さんは、マクレガーさんの奥さんにパイにされた。

これは都市伝説などではなくて、原作の本文にも書いていある公式設定なのです。ピーターラビットの公式ホームページの「キャラクター紹介」でも、パイにされたお父さんが紹介されています(→「ピーターラビット日本公式サイト」の「ビアトリクスの描いたキャラクターたち」参照)。ちなみに、ディズニー映画の「三匹の子ぶた」のお父さんはソーセージになったことが、ディズニー映画の中で描かれています(→「3匹の子豚のおとうさんの姿が衝撃」参照)。この辺のブラックジョーク…いいのでしょうか?

2.日本料理には卵の殻を割らずに、黄身と白身を逆転させたゆで卵をつくる秘儀がある。

秘儀「黄身返し」です。江戸時代の『万宝料理秘密箱』(1785年)にあり、永らく再現不可能な技法とされましたが京都女子大学の研究で再現され、現在ではYouTubeにも作り方がたくさん載っています(→秘儀!『黄身返し』)ので、挑戦されてはいかがでしょう?このころの江戸時代は、天下泰平の世が長く続き、文化文政時代の直前で小金持ちになった商人らの「食通」が、変わった趣向を喜んだ時代です。豆腐を使って百種類の変わった料理を考案した有名な『豆腐百珍』(1782年)もほぼ同じ時代に出版されました。この「黄身返し」は、見た目のインパクトで食通らに受けたと思いますが、味はただのゆで卵です。

3.ディック・ブルーナーの絵本に出てくるこのキャラの本名は「ミッフィー」ではない。

ええ~「ミッフィー」でしょう?と思った方は、若い方だと思います。福音館版の絵本は1964年以来540万部を売り上げていますが、ここでは「うさこちゃん」と名づけられています。一方、講談社版は英語圏の「ミッフィー」を使用していますが、こちらの累積売上は17万部で、その差は30倍になります。

ちなみに、本国での本名は「ナインチェ」と言い、小さいウサギの意味の造語だそうです。日本では一時フェリシモが、キャラグッズを「ナインチェ」と呼んでいたようですが、日本ではほとんど使われていません。

​4.卵の黄身は大きな一つの細胞である。

細胞と言えば、生物の身体を構成する小さな小さな単位ですが、実は卵の黄身は、あれでひとつの細胞なのです。ダチョウの卵とか、どれだけ大きい細胞なのでしょうね。でも「実は卵のほとんどは細胞にためられた栄養(栄養嚢)で、実態はそれほど大きくはない」という意見もあります。実際に大きいのは「海ブドウ」と呼ばれる海藻や、粘菌のたぐいだそうです(→「世界最大の細胞(cell)は何ですか?」)

 

5.LINEのウサギキャラ「コニー」の誕生日はイースターかも知れない。

熊の「ブラウン」とともに、LINEの公式キャラとして有名なウサギの「コニー」ですが、実はデザイン課に所属するOLで、はげた上司がいるそうです。そして誕生日は4月17日。「イースターってなあに?(初級編)」の「Q2:イースターっているなの?」で話した通り、イースターは年によって日程が変わり、3月22日から4月25日の間のどれかになるとお話ししました。ですから、コニーの誕生日4月17日はイースターの日だったかもしれません。ちなみに、直近でイースターが4月17日だった日を探すと1960年4月17日がありました(その次は2022年4月17日です)。もし、コニーがイースター生まれ(1960年4月17日)のウサギだとすると御年60歳。いつまでもはつらつとした若さを失わない女性です。

福音館書店より

イースター・トリビア(聖書ネタ)
 

6.はじめ、使徒たちはイエス様の復活を信じていなかった。

 ここを読んでいらっしゃるノンクリスチャン(クリスチャンじゃない人)の方は、「死んだ人間が生き返るって?信じられない。お話だよ」と思っていらっしゃる方もおられるでしょうが、いいんです。イエス様と三年半もの間一緒に過ごし、いろんな奇跡的な出来事(死者がよみがえったことも含め)を見聞きしながら過ごしていた弟子たちの中の、さらに選ばれた十二使徒(この段階では十一人)でさえも、イエス様の復活に出会った女たちの報告を信じていませんでした。聖書にも「ところが使徒たちはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。」(ルカ24:11)と書かれています。こんなことを、みなさんに信じさせることができるのは神様だけで、私たちはそのお手伝いしかできません。安心してください。

7.500人以上の人が復活後のイエス様に会っていた。

 イエス様の十字架刑はローマによる公開処刑で、ローマ兵がご丁寧にも「しかし、兵士のうちのひとりがわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出てきた。」(ヨハネ19:24)と死亡確認までしています。オカルト系だと「キリストの身代わりに、弟が十字架についたのだ」との話もありますが、イエス様の兄弟の名前もわかっていて、生まれ故郷の近所の人が「この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シメオン、ユダではありませんか。妹たちもみな私たちと一緒にいるではありませんか。」(マタイ13:55~56)と「大工の息子のイエスがが救世主であるはずはない」という批判とともに、家族構成について証言しています。そして弟たちは、十字架以降も元気に活躍しています。

 そして、十字架の後に復活したイエス様は、「日曜日の朝、墓に行った女たち」「エルサレムを離れて故郷に帰ろうとした二人の弟子たち」「イエス様が十字架にかけられ事後処理をどうしようと考えていた、ユダ以外の十一弟子たち」の前に現れます。ここまでなら「弟子たちの創作だ」と言えますが、その後、「ガリラヤ湖畔で七人の弟子たち」の前に現れ、「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れその中の大多数のものは今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。」(Ⅰコリント15:6)と書かれています。ローマ側の記述にもこの事件は書かれており、目撃者が500人も生きていてうわさにもなっていましたから、「復活した」ことについてデマや創作はできません。

 そもそもイエス様の生涯は歴史学の研究対象ですし、聖書の話は、みなさんが使った高校の世界史教科書にもたくさん載っています(→「新約聖書を読んでみよう」の「世界史教科書の真実」参照)。オカルトでもファンタジーでもありません。

荒井献『イエスとその時代』岩波文庫、1973年。

8.イエス様の復活は「敵方」の歴史書にも記されている。

 聖書は「むかしむかしあるところに…」という書き方はしていません。例えば(皇帝アウグストの勅令による)「これは、クレニオがシリアの総督であったときの最初の住民登録であった。」(ルカ2:2)という書き方をしています。日本に置き換えれば「徳川吉宗が将軍であったとき、江戸町奉行であった大岡忠助が寺社奉行になった時に吉宗に命じられて作っ公事方御定書は…」と言っている訳で、ファンタジーでも何でもありません聖書は歴史書としても一級の価値のあるものとなっています。しかしながら、一面的な見方ではなく反対の立場から見てみましょう。

 フラウィウス・ヨセフスという人がいて、ローマ帝国に寝返ったユダヤ人ですが、この人が『ユダヤ古代誌』と言うのをかいていて、日本ではちくま学芸文庫で出版されています。Amazonでも買えます。その中で、「さてこのころイエスという賢人―実際に彼を人と呼ぶことが許されるならば―が現れた。(中略)ピラトは彼が我々の指導者たちによって告発されると、十字架刑の判決を下したが、最初に彼を愛するようになった者たちは彼を見捨てようとはしなかった。すると彼は三日目に復活して、彼らの中にその姿を見せた。」と書いています。彼はイスラエルを滅ぼしたローマ側の人間で、キリスト教を否定したいユダヤ教徒でした(ユダヤ教徒は復活を否定しているからこの記述は捏造だと書いてあるサイトもありましたが、この時点でヨセフスは死者の復活を信じるユダヤ教パリサイ派でした。)。この歴史書自体、後にクリスチャンが挿入したものでウソだという人もいますが、歴史書を捏造して→それによってキリスト教を広めたって、順番が逆だと思いませんか。第一、カリスマが政権によって十字架刑につけられて本当に死んだのなら(復活がなかったら)、そのグループは逃亡し解散してしまいますよ。

​フラウィウス・ヨセフス著、秦剛平訳『ユダヤ古代誌』(全6巻)ちくま学芸文庫、1999年。

9.Noイースター、Noキリスト教!

 「No Music No Life!(音楽がなければ人生なんて!)」をもじってみました。

 クリスチャンでない方から見ると、キリスト教のイメージは「愛」と「寛容」でしょうし、キリスト教徒のイメージはいつも讃美歌を歌って「清く、正しく、美しく」でしょうが、ぜんぜん、そんなことはありません。書いている信徒本人が言うのですから間違いはありません。もちろん、そうありたいと願っているし、神様もそう願っていらっしゃいますが、そこが本質ではありません。イエス様の十字架で罪が贖われ、神様との関係が復活し、永遠のいのちの復活したのだから、今度は神様とともに歩みたいと思うようになったことの副次的な産物なのです。「人間死んだら終わりなのだから、好きなことして生きて行かなくちゃ!」とか「復活、復活って信じているけど、もし復活なかったならバカみたいじゃないか!」とか思う人がいるかもしれませんが、はい、その通りです。復活がなかったらバカみたいです。その点について使徒パウロ(→「新約聖書を読んでみよう」の「目からウロコ」参照)はこんな風に言っています。

 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったら、私たちの宣教は実質のないものになるのです。それどころか私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れなものです。(Ⅰコリント15:13~19)

 使徒随一の理論派のパウロですから、論理的で痛烈です。では、ここまで引っ張っておいてパウロはどう説明しているのでしょうか?(→「ネットで読める聖書(新共同訳)」)

To be continued

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