聖書の小窓

 

2020年2月23日

  しかし、イエスは言われた。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。         ルカ11:28 

 

    特別な才能をもった人が社会で活躍していると、その親の教育方法がマスコミに取り上げら

れたりする。それに触発され、人々の関心は、才能が開花した秘訣に向けられる。

   主イエスが、群衆の中で話をしておられると、ひとりの女が声を張り上げて言った。

 「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです」(11:27)

  ここでの「幸い」は、神の祝福を意味する言葉であり、主イエスの母マリヤに対する最高度

の賛美であった。主イエスは、その言葉に「いや」と言われた。それは母マリヤに対する称賛

を否定するものではない。「いや」は、「むしろ」(2017年新改訳・新共同訳)の意味で、マリアに向けられた幸いを「神のことばを聞いてそれを守る人たち」に向けるためであった。

 このとき女は「声を張り上げ」たのであるから、その行動は群衆の中にあって目立ったであろう。その声に賛同する人たちも、少なからずいたに違いない。けれどもそこには、福音が語る神の国という視点が悟られていない。人間的な評価だけが先行し、信仰によって真摯に神と

向き合おうとしない。

 主イエスは「神のことばを聞いてそれを守る人たち」に目を向けさせる。この女に限らず多くの人たちは、み言葉から離れた所に立って神の業をみようとしていた。「天からのしるし」を、神の子を信じるための条件のように迫っていた。

 けれども主イエスは、私たちのそば近くにある神の国の福音を語る。その祝福は選ばれ

た特別な人にあるのでなく、「み言葉を聞き、それを守る人」の中に見出されるのだと。人間的な評価の中に福音の恵みを見失ってはならない。

2020年2月16日

    しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国があなたがたに来ているのです。     ルカ11:20

 

    新約時代、多くのユダヤ人たちは神の国の到来を待ち望んでいた。そのときが来たら、王なる神がイスラエルを支配し、ローマによる搾取という現実から開放されると信じていた。

 そう言う人達に対し主イエスは、「わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国があなたがたに来ているのです」と言われた。モーセによってエジプト全土にぶよが大発生したとき、呪法師たちがいった言葉である。「これは神の指です」(出エジプト8:19)神の指とは、イスラエルいがエジプト脱出のときにあかしされた神の力のことである。

 主イエスが悪霊につかれた人から悪霊を追い出しておられたとき、群衆の中に「ベルゼブルによって悪霊を追い出しているのだ」と言う者がいた。そこにはっきりと神のあかしがあるのに、主イエスの意図を捻じ曲げ、真反対の解釈をしがいたのである。

 この人たちは、長らく神の国を待ち望んでいるのであるが、主イエスによる神の国を受け入れることも信じることもしない。その最大の理由は、啓示された言葉によって神の国を知ろうとせず、知識と自分たちの願望を基礎としていたことによる。神の国は、ダビデやソロモンの時代におけるイスラエルの繁栄をイメージとしていた。

 そこに欠けていたのは、イスラエルの歴史が神の恵みによるもので、全ての民の祝福のために備えられているという視点でであった。

 「神の国があなたがたに来ている」とは、日常の現実世界の中に、既に神が働いていることを教えている。私たちはそこに、決してサタンに負けない勝利を信じていく。

2020年2月9日

  

      こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために熱心に祈り続けていた。

                                                       使徒12:5

 

    福音は、爆発的にローマ社会に広まっていた。迫害によって、フェニキア、キプロス、アンテオケに散らされた人々が、御言葉を語り続けたことによる。(使徒6:19)

  その人たちは。それまでユダヤ人以外に語ることはなかったが、アンテオケに来てからはユダヤ人以外の異邦人にも福音をあかしした。そこで多くの異邦人が主に立ち返り、人々から初めてキリスト者と呼ばれるようになった。

 そうした動きを政治的な力で封鎖しようとしたのが、ヘロデ大王の孫にあたるヘロデ・アグリッパ1世(BC10~AD44)であった。彼は、ヨハネの兄弟ヤコブを殺害(12:2)し、それがユダヤ人に喜ばれるのをみるや、ペテロを捕らえ牢に閉じ込めた。ここでペテロまでも殺されてしまったら、福音のあかしは一機に減退してしまったであろう。

 ペテロは二本の鎖につながれ、二人の兵士の間に置かれた。更に、それを四人1組の兵士4組が監視していた。(4,6)それは神の国の働きに対し、世の力が真っ向から牙を剥いたときである。この状況の中で「教会は彼のために熱心に祈り続けていた」(12:15) 世の力が猛威を振るう中で、人間的な力によって対抗しようとすればれに、瞬く間に封じ込められてしまう。しかし御言葉は、そうしたときに祈り続けていくことが如何に重要なことであるかを伝えている。

 人々が祈り続ける中に、御遣いによるペテロの解放の業が展開していく。その驚くべき出来事に、教会の人たちまでが初めは信じられないでいた。けれどもペテロの監禁は事実であり、牢から解放された証言者が多数いる。扉をたたき続けたペテロの姿は、天の門が開かれるため求め続けるキリスト者の祈りでもある。必ず開かれる確信によって祈り続けたい

2020年2月2日

   あなたの父が持っているバアルの祭壇を取り壊し、そのそばのアシュラ像を切り倒せ。そのとりでの頂上に、あなたの神、主のために石を積んで祭壇を築け。 士師6:25~26

 

    信仰の教父たちは、人生の転換点において祭壇を築いてきた。イサク、ヤコブにとっても祭壇は自分の弱さを自覚し、信仰によって神の力に生かされるターニングポイントであった。

「アブラハムは自分にあらわれてくださった主のために、そこに祭壇を築いた」(創世

記12:7,8 13:4,18 22:9  26:25 33:20 35:1)

   デオンは御遣いをみたとき、主のため祭壇を築いて「アドナイ・シャロム」と名付け

た。(6:24) それは主は平安の意味する言葉である。けれどもそれは十分ではなかった。

ミデヤン人と戦おうとするとき、信仰におい更に主の取り扱いを受けなければならなかった。父の支配にある家庭環境は、カナンの偶像礼拝の影響が強かったからである。

「あなたの父が持っているバアルの祭壇を取り壊し、そのそばのアシュラ像を切り倒せ」

 バアルは肥沃神であり、アシュラは女神である。それは戦いと関係していたのかも知れない。主はギデオンに身近にあるバアル礼拝を断ち切り、主との関係に生活を築き直すように求められた。

 「そのとりでの頂上に、あなたの神、主のために石を積んで祭壇を築け」

 ここに求められる祭壇は、モーセが出エジで定めたものではない。幕屋の聖所に置かれ

た祭壇は、アカシア材で作られ、青銅で覆われていた。(出エジプト27:1~8)けれども、

ギデオンが築くように言われたのは、石を積んで作るものであった。それはイスラエルの教父たちが辿り、築き上げてきた祭壇を思わせる。主の戦いにおいて、一番に求められたのは、あいまいさを排除して、神への信仰によって新しくされることだったが。この確信が怖れを克服させていく。

2020年1月26​日

   そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、私に向かって誇るといけないから。 士師7:2

 

 世の戦いにおいては、数は力として認められている。必然的に少数者であることは、戦いには向かないとされてしまう。

 しかし主はギデオンに「あなたといっしょにいる民は多すぎる」と言われた。このときのミデヤン人の軍勢は13万5千人(8:5)であった。それに対してイスラエルは3万2千人(7:3)である。数においては圧倒的に不利な立場にあった。それでも「多すぎる」と言われるのは、これか

ら交わされる戦いが主の戦いであることを知るためであった。もしイスラエルがそのまま出て行ったなら、戦いに勝利しても彼らは主がミデヤン人をイスラエルに渡されたからと考えず、自分たちの力によって勝ち取ったと誇るに違いなかった。

 「イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、私に向かって誇るといけないから」(2)

    数においての不利を克服すればれば、それは素晴らしい成果となろう。けれどもそこに信仰がなければ、その誇りまでも主に向かってしまう。表面上の結果が良くても、最悪の状況に陥ってしまう。

 力を頼りに場当たり的な対応をしていては、主に立ち返るための信仰を回復することができないのである。ここで主が求められるのは、弱さの中に働かれる主を信仰をもって受け止めることである。武力によってではなく、共におられる主を確信することによって、恐れずに前に進むのである。

 今日においても、私たちは信仰の戦いに直面することがある。様々な困難を前に、そこで主が何を求めておられるかを知る者でありたい。信仰の戦いにおいて必要なのは、自分を頼りとする力ではなく、共にいてくださる主が勝利に導いてくださるという確信であるのだから。

2020年1月19日

   すると、主は彼に向かって仰せられた。

「あなたのその力で行き、イスラエルをミデアン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」    士師記6:14

 

   ギデオンが聖書に登場した時代、イスラエルはミデヤン人に圧迫されていた。生活用品から収穫した穀物までも、すべてミデヤン人に力ずくで収奪されてしまった。そのため、イスラエル人は山々にある洞窟や、ほら穴、要害を自分たちのものにした。(2) ときにギデオンは酒ぶねの中に隠れぶねながら収穫した麦の脱穀作業をしていた。この時点でギデオンには、ミデヤン人と戦おうとする意志がなかったことがわかる。預言者が、主の名によってミデヤン人を追い出すよう告げていた(8~10)けれども、その言葉がギデオンの心を打つことはなかったのである。

 ところが主の遣いがギデオンに現れて言った。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる」(12)  それは主によるギデオンへの召命である。「勇士よ」との呼びかけは、ヨシュアのような戦士であれということである。しかし、ギデオンは御遣いの言葉に応じることができない。そのためイスラエルの現在の悲惨さ理由にして、戦いの支え「主が共におられる」ということを否定した。そして主の遣いと反対のことを言う。「今、主は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました。」(13)

  現状がこうなっているのであるから仕方がない、諦めて現状を受け入れるという考えは今日に通じる。そこでは今が主の言葉への信仰によって変えられると考えない。主が備えられ脱出

の道への拒絶である。

  けれども主の言葉は、ギデオンのそうした弱さに向けられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデアン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」(14)

  否定した信仰が御遣いにより再度チャレンジを受ける。ここに主の憐みがある。そしてこのことへの応答がギデオンのその後の働きとイスラエルの歴史を作っていく。

2020年1月12日

   主はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしは、エリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。 ヨシュア6:2

 

    エリコは、イスラエルの民が約束の地に足を踏み入れるにあたって最初に攻略すべき町であ

った。このためモーセの後を継いだヨシュアは、まずは斥候を遣わして、住民の様子を偵察させた。その情報によれば、住民はイスラエルのことで震えおののいていることが知られた。(2;24)

 エリコの町は「イスラエル人のために、城壁を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者はなかった。」(6:1)とある。切迫した戦いに備えて、完全な防備がされていたのである。エリコにとってイスラエルは恐怖であったが、イスラエルにとってもエリコは怖い存在であった。軍事的にみれば、イスラエルのような野営集団よりも、エリコのような城壁のある方が有利である。それにエリコの住民は、イスラエルにはない鉄の武器をもっていた。数は多いとは言え、もし力対力の対決であるなら、相当の犠牲を覚悟しなければならない。

 そうした状況の中で、主はヨシュアに「エリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した」と言われた。「渡した」は完了形である。それは、これが神の戦いであって、イスラエルの民がその器として用いられることを意味している。渡されたのだから「聖絶」(6:17)する。ただし聖絶(ヘーレム)は、旧約時代に限定された神の裁きであり、他に拡大して適用されてはならない。目前には不利に追込まれている状況と困難が迫っていたが、信仰の目を通してみると、そこには既に勝利を約束する主の臨在があった。この戦いは軍事力に頼った侵略ではなく、神の業として攻略するものであった。そのため、ひとつひとつの過程において主なる神との関係が求められている。

  現実に直面する様々な問題の中で、それに立ち向かう主の方法が何かを考えよう。人間的に不可能とされることでも、主は祈りのうちに導きを備えてくださる。

2020年1月5日

   求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見出だします。たたきな。さいそうすれば、ひらかれます。  ルカ11:9

 

    主イエスの生涯を垣間見るときに、日々、祈りに多くの時間を費やしておられたことに驚かされる。ガリラヤでの宣教のときから、主イエスは群衆に囲まれ、ゆっくりと食事を摂ることもできなかった。それでも日常的に、父なる神への祈りのときを欠かすことはなかった.

 弟子たちは、主イエスの祈る姿に影響を受け、自分たちも祈れるように、「祈りを教えてください」と願った。そうした弟子たちの求めに応じ、祈りの内容を教えられたのが主の祈り(ルカ11:2~4)である。ルカはそれに続いて、祈りに関する主イエスの教えをつけ加えた。旅人と友人のたとえ(11:5~8)と父親と子供のたとえ(11~13)である。

    旅人と友人のたとえでは、神は祈りを確かに聞いてくださる方であることが強調されている。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見出だします。たたきなさい。そうすれば与えられます。」

   祈りにおいての確信が強ければ、直ぐに答えがないからと言って途中で諦めたりしない。主の導きを捜し続け、解決の糸口を求め続ける。

 一方、父親と子供のたとえにおいては、互いの信頼関係が強調されている。それ故、父は子に対して良いものを与えものだと。それが天の父においては、最良の求めに聖霊が与えられる理由として説明されている。キリスト者の立場からみるなら、神が祈りに聞かれる方であることは、既に聖霊が与えられていることによって知ることができる。祈ることで聖霊の助けがあるからこそ神への信頼が深まる。しかし祈ることをしなければ、こうした恵みを何一つ知ることはない。自分の主観だけの判断では神を見出すことはない。今年の教会の目標は祈りの民であることである。まずは自分の祭壇を立て直す者でありたい。 

   

2019年12月29日

   あなたの神、主に立ち返り…御声に聞き従うなら、主はあなたを元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、主があなたを散らした先の、あらゆる民の中から、再びあなたを集められる。  申命記30:2.3

 

    モーセに導かれたイスラエルは、神との契約によって約束の地に導かれた。申命記は、民が40年に渡る荒野での生活を終えて、約束の地であるカナンに入る直前に、再度、神との契約を思い出させる内容となっている。この契約では、神の言葉を信仰をもって受け入れるか否かによって、祝福かのろいが及ぶものとされている。

 「私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことがあなたにのぞみ」(30:1)

 以後のイスラエルの歴史は、この契約の言葉を中心にして展開した。御言葉に聞き、信仰によって歩んだ時には周辺の民族に勝利し、民は平安のうちに過ごすことができた。反対に御言葉から離れた時には、周辺の国々に侵略され、悲惨な状況に陥ってしまう。

 更に、ここで語られた預言は、イスラエルの民が霊的に堕落し、信仰から離れてしまってから後のことに触れている。そうした中にあって、再び信仰に立ち返る日のことに焦点を当てている。

 「あなたの神、主に立ち返り…心を尽くし、御声に聞き従うなら」(1:2)

 立ち返る(ヘブル語シューブ)とは、主への方向転換を意味する言葉である。それは単なる反省とか改悛というものではなく、向きを変えることで主の御言葉に聞く姿勢を明確にしている。これは霊的な覚醒であり、主の御言葉への信頼によって築きあげられるものである。

 立ち返ることの約束は、「繁栄を元どおりにし、あなたをあわれみ、…ふたたびあなたを集められる」である。傷つき散らされた民はそこで癒され、交わりが回復される。今年は私たちの教会も傷ついている。そうであればこそ、新しい年に向かうに当たって、この祝福の約束を土台としたい

2019年12月22日

    マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその

  罪から救ってくださる方です。 マタイ1:21

 

   クリスマスは、主イエス・キリストの誕生を祝う日である。神のひとり子は、聖霊によってマリヤの胎に宿り、ヨセフの家系によりダビデの子孫として生まれた。

 当時、ユダヤを支配していたヘロデ大王はローマの傀儡政権であり、彼自身はユダヤ人が憎むエドム人であった。一旦権力が脅かされると、妻や自分の子さえも虐殺した程に猜疑心が強く、国民にも家族からも怖れられた。ローマがそれを許容したのは、反乱を防止して人民を搾取するのに都合がよかったからである。大王はその力関係を利用することで勢力を拡張した。

 現実は、手を伸ばしても先が見えない程に闇に覆われている。人々は社会の矛盾に心が疲弊し、どこにも希望を見ることができないでいた。世の中を改革しようとする努力も、将来に対する計画も虚しいものになっていた。

 神の救いの業は、こうした状況の中に進行していく。怖れを希望に変える神の愛である。人を罪から救うためには、罪の性質を持つ人には不可能であった。神のひとり子が聖霊によってマリヤの胎に宿った理由はそこにある。

 一方、ヨセフにとって、許婚のマリヤの懐妊は全く想定できない出来事であった。その事情

をマリヤから聴いても俄かに信じることができなかった。そのヨセフに御使いが語った。

「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。(1:21)  ヨセフはこの言葉を信仰をもって受け止めた。不安と怖れ、疑い、人間不信、そうしたものが渦巻く中で、神の言葉は新しい希望を作り出していく。ヨセフの信仰による決断が、神の救済の歴史を塗り替えていった

2019年12月15日

   人の子は失われた人を探して救うために来たのです。  ルカ19:10

 

   人が一生懸命になる動機の一つに、誰かをを見返してやりたいという反発心が働くことがある。ときには地位や財力が、そうした欲求を満たす道具にされたりする。

   ザアカイが取税人になった経緯を、福音書の記者ルカは書いていない。けれども短い記事の中に人々とザアカイの間に社会的な葛藤があったことが描写されている。「彼は取税人の頭で金持ちであった」

    この時代、取税人は、ユダヤ人社会の中で最も蔑まれるべき職業とされていた。ローマの手先として働く彼らは、ユダヤ人の裏切り者であり、救い難い罪人とされていた。それでも、取税人は自らが望んで獲得した職業であった。罪人と罵られることを気にしなければ、その地位と財力は人々を見下すのに十分であった。おそらくその偏狭な考えは、幼い頃から形成されたのだろう。あるいは「背が低かった」という肉体的ハンディーが、心理に影響を与えてきたのかも知れない。

   そのザアカイは、主イエスの一行が町の中を通ったとき「どんな方か見ようとした」(3) けれども群衆が壁となって、見ることができなかった。それでも主イエスをみたいという思いは消えず、「先の方に走って行き、…いちじく桑の木に登った。(4)

  ここではザアカイが木の上にいて、木の下におられる主イエスを見下げる構図になっている。主イエスは、その状態でザアカイに「急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているあるから」(5)と言われた。

 ここに罪人を招くため、徹底的にへりくだっておられる主イエスの姿がある。ザアカイは罪人のまま受け入れられることを悟り、その愛に即時的に反応した。「主よ。ご覧ください。……」(8)

 ザアカイに救いを宣言した主イエスは、私たちを救いに招いておられる。

2019年12月8日​

   あなたがたがは、今がどのような時であるか知っています。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。 ローマ13:11

 

   異常気象の影響で、季節外れに昆虫が這い出てきたり、初冬に桜が咲いたりということ起きている。自然の営みでは、時は常にいのちと連動している。そのため時が狂うと育つものも育たなく、命そのものさえ失ってしまう。

 「植えるのに時があり、植えたものを抜くのに時がある。」(伝道者3:2)

 パウロは、時を知ることで神の前に置かれているキリスト者の状況を客観的に顧みるよう促している。「今がどのような時であるか知っています」

     ここに用いられている「時」は、カイロスという言葉で、人間生活における特定の期間を表す言葉である。特にここでは終末論と結びつき、キリストによる救いの時から再臨による神の国の完成のときまでとなっている。

 その期間は、時間の経過と共に刻々と狭まっている。「私たちの信じたときよりも、今は救いがもっと近づいているのですから」(11) そうした緊張感の故に「眠りから覚めるべき時刻がもう来ています」と奨められる。

 信仰によって時を正しく理解すれば、「闇の業」(12)などをして時を空費している場合でないことに気がつく。「遊興、泥酔、淫乱、好色、争い、ねたみの生活」は、ことごとく闇すなわちサタンに組みする働きである。日の出を前に、闇を照らす灯を探して何になろう。

 キリスト者は皆、闇の中から昼の生活に導き入れられている。それ故、「闇の業を脱ぎ捨て」る決意がいる。そこから直ちにキリストという「光の武具」(12)を身につける行動に移る。そこでの瞬時の判断が求められている。

 どっちつかずであったら、敵の攻撃に打ち負かされてしまう。間を置かずにキリストを着るのである。

2019年12月1日

 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。 ローマ13:1

 

      12章の悪に負けないで善を行うことで、13章では上に立つ権威に従うということが語られる。上に立つ権威とは、社会の中で突き出ている権威のことで、具体的にはローマの諸侯、総督、官吏などを指していた。

 この手紙はAD56年頃に執筆されているので、皇帝ネロの時代である。前皇帝クラウディス

のときには、ローマからのユダヤ人の追放令が発せられているので、キリスト者の中にはその理不尽な取り扱いに反発する思いがあったであろう。あるいは神の国の福音を、ローマの支配からの脱却と同一視して考える者もいた。

 そのような人たちからすれば、上に立つ権威は対立している敵であり、打ち破らなければならない勢力であった。けれどもパウロは、そうした権威は神によって立てられているとする。

 更には「権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです」(2)と急進的に反抗する者を諫めている。ここに社会の秩序を維持するための権威が、神によって定められていると言われている。人の感覚では、それは人の手によって作られたもので、多くの欠陥を残している印象がある。けれども、神はそうしたものを用いているということを考えなくてはならない。ここに戦うことによってではなく、従うことによる愛の実践がある。

 「人に従うより、神に従うべきです」(5:29)

  今日、社会の中にある権威を軽んじて、その背後にある御心を見失ってはならない。

2019年11月24日

 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。 ローマ12:15

 

   人は喜怒哀楽を、からだをもって表現する。舞踊とか歌、あるいは各種の芸術もそうした欲求を満たすために発展した。聖書の中にも、喜ぶときに踊ったり、悲しいときに衣を引き裂いて嘆く人の姿をみることができる。

    もしこの箇所が、「喜ぶときに喜び、悲しむときに悲しめ」であるなら、人の自然なあり方

としてそのまま受け入れられるであろう。けれどもパウロがここで言うのは、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」ということである。

    その前提となっているのは、教会の交わりにおける兄弟姉妹の関係が既にあることである。ただしそれは無制限に広げられてはいない。ここでの主体は自分にではなく、兄弟である人の心に置かれている。自分の感情は、その兄弟が抱く感情に対して従の関係になっている。スポーツの試合などで、応援している仲間同士が勝利を喜ぶというようなことはある。けれども

日常的には自分の感情が相手が抱いている感情と一致しないことがある。相手の感情に対し自分は無感動ということさえある。そうした中で、兄弟として一対一で向き合い共感する。

「共に」が命令形で語られているが、生まれながらの人の感情からは決して出て来ない。これが為されるのは、キリストの愛によって神の家族が形成されるからである。

 常識的には、人の感情は自分の意思に従属する。喜べと言われて喜べるわけでないし、悲しめと言われて泣くのでもない。もし表面的に感情を繕うようなあったとしても、それは自分を守るだけのことである。「共に」を実践するためには、意思をもって相手の感情の中に入っていく。それは人格的な受容によってだけなされるものである。

 キリストの愛に満たされることだけが、これを可能とする。共にあるとき、自分と相手はそこにキリストがおられることを知る

2019年11年17日​

    愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。 

                                           ローマ12:9

 

 神の愛は、教会の礼拝を通してあかしされる。教会ではそれを受けて、兄弟姉妹の交わりの中で愛が実践されなければならない。

 パウロは神の愛(アガペー)を強調した後で、この愛に「偽りがあってはなりません」と言っている。ここでの言葉はギリシャ劇の役者ということから偽善を意味するようになった。役者は仮面をかぶって、別の人格を演じたからである。

 教会においての兄弟姉妹の交わりが、あたかも劇を演じるように表面的なものであったら偽りと言われて仕方がないだろう。

 もしこうした状況があるなら、それを放置するのではなく、原因を求めて直ちに修復しなければならない。

「悪を憎み、善に親しみなさい」 何が善で悪であるかは、自分よがりに判断するのではなく、礼拝を通して「自分を変えていただく」(12:2 2017訳)ことによる。

 「善に親しむ」ということは、直訳では善にくっつくということである。ぴったりと善に貼りついて隙間がないことである。

 この善(アガソス)は神からのものであって、人間的な倫理観によるものではない。主イエスは、富める青年に「尊い方(アガソス)は、神おひとりのほかには、だれもありません」と言われた。(マルコ10:18)

 したがって善に親しむことは、主イエスとしっかり繋がって神の愛に生かされ続けることを抜きに実践することはできない。

 神の愛は、ロマンチックな雰囲気によるのではなく、信仰による業によって共有される。

「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」(11)

 御言葉に従うことにより、聖霊によって内側から神の愛が燃える経験が求められている。教会が「艱難」(12)に置かれることもある。それに耐え「祈りに励む」(12)のも神からの愛である。常にこの愛に生きる教会でありたい。

2019年11月10日

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげものとして献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。   ローマ12:1

 

 私たちの教団の信仰告白には、「人は…神の戒めを破って罪を犯し、神のかたちを毀損した」とある。「毀損」(きそん)とは、壊すことであり、ここでは罪により神との人格的な関係を壊してしまい、人が持っていた本来的ないのちが失われていることをいう。

 しかし福音は、この人が置かれた悲惨の中に神の限りない憐みが注がれたことを告げる。「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理が、罪と死の律法からあなたを開放したから

です。」(8:2)

 この神の全き愛に対し、人の側から公に応答するのが礼拝である。そこで人は見えない

神と会見するのであるが、神が臨在する場にいればいいということではない。真実な献げ

ものをしてこそ礼拝となる。それでは何を献げたらいいのだろうか。そこで問われるのは、物そのものではなく、献げる人の信仰である。

 「信仰によってアベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによ

って、彼が正しい人であることが証しされました」(へブル11:4)

 パウロは、神の測り知れない愛を語った後、神へのささげものとして「あなたがたのからだ」を献げなさいと命じている。「からだ」が語られるのは、肉体をもつ私の全てをもって神に応答するためである。私の判断ではとてもささげものにならない。それを神の憐みと命令によって献げる。そこでは礼拝の形式にではなく、信仰者の日常が神への礼拝へと向かわせる。

 私はどのような礼拝をしているかを根本から問い直したい。主への礼拝は、全力を注ぐに十分なる価値がある。

2019年11月3日​

     あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

                                                         ヨハネ14:1

 

 信じていたことが、突然に信じれなくなってしまう。そんなときには、不安が心に押し寄せてくるだろう。生きていることの土台が、根底から揺り動かされることだってある。

   主の弟子たちは、3年半、主イエスと寝食を共にしてきた。主が語られる神の国の言葉を、日々の生活を通して聞くことが喜びであった。だからこそ、ガリラヤからエルサレムへと向かう旅は、神の国の実現という期待を背負って、希望に満たされるはずであった 

   実際、一行がエルサレムに入ったとき、多くの群衆に歓喜をもって歓迎された。ところがエルサレムの人々の興奮は一時のことであり、主イエスの一団と宗教指導者との対立が鮮明になってくる。弟子たちは、期待していたことと現実の挟間に心が動揺していた。

   主が「わたしが行くところに、あなたはついて來ることができません」と言われたとき、その言葉はかなりショックだったのではないか。ペテロは「あなたのためにはいのちも捨てます。」(13:37)と答えている。強がる者もいたが、多くの弟子の心は波立っていた。

 弟子たちがそうなったのは、主イエスの言葉を信仰によって受け止めていなかったからである。自分たちの思い込みの方が先行し、それに合わない言葉は勝手に排除していた。結果として、弟子たちの心には、恐れと不安が残っていた。

 主イエスは、その弟子たちに「恐れないで神を信じ、わたしを信じなさい」と言われた。

 現実を見れば、事態は一途に悪化している。けれども主イエスが約束された言葉を信じる

とき、現実の向こうに広がる神の国をみることができる。主イエスは、ひとり十字架への

道を歩まれた。そこから罪と死に勝利して復活された。神の国を公に示され、そこに迎えてくださる。

 それ故、道であるキリスト(14:6)に全く信頼して歩むとき、真理と知り、いのちの恵みを確かにする。

2019年10月27日​

    救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。  ローマ11:26

 

   人は不信仰と信仰を結ぶ術を持たない。神から離れた者には悪のわなと網が待ち受け、その辿る道でつまずき倒れるだけである。(11:9) もしイスラエルの歴史を少しでも辿るなら、神の民がその不信仰の故にどんなに大きな悲惨を経験したかを知ることができる。

 それでは神は、そのような不信仰な民を完全に退けてしまわれたのか。イスラエルに与えられた祝福の約束は潰えてしまったのか。主はかつてアブラハムに「地上のすべての民族はあなたによって祝福される」(創世12:3)と約束された。この約束は反故にされたのか疑問が残る。

 それに対しパウロは「絶対にそんなことはありません」(11:1)と強く否定した。そして取り上げあげたのは、「ヤコブから不敬虔を取り払う」イスラエルへの終末的預言である。

引用したイザヤ書59:21には「彼らと結ぶわたしの契約」となっている。イザヤは預言の中で、イスラエルの不信の罪は癒し難く、民の間での「公正は退けられ、正義は遠く離れている」(イザ59:14)と罪を糾弾する。

   しかしその絶望的なほどの不信仰が語られた後に、「西のほうでは、主の御名が、日の上るほう(東)では、主の栄光が恐れられる」(59:19)と神の民が起こされるとの記述がある。それは異邦人の中にあかしされる福音を預言している。

 パウロは、イスラエルは不信仰だけれど、異邦人は信仰があると言ってはいない。異邦人は「生まれながら御怒りを受けるべき子」(エペ2:3)である。けれどもシオンから救いが出て、神との関係を阻んだ「罪」を取り去ることを伝える。それこそがイスラエルの始祖と結ばれた「わたしの契約」だと。異邦人とイスラエルは同じ不信仰を抱えている。しかし不従順の中で、契約により共に神の取り扱いを受けている。こ

2019年10月20日​

  見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのはいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみにとどまっていればであって、そうでなければあなたも切り落されるのです。    ローマ11:22

 

  神は歴史を通してご自身を啓示される。アブラハムを始祖とするイスラエル史は、神の慈しみが先行している。それは祝福のための契約であり、イスラエルは神の民としてより分けられ特別な恵みを受けていた。

 けれども、その民が不信仰を続けることによって、神の恵みから断ち切られてしまう。そして神の祝福の約束はユダヤ人以外の異邦人に引き渡された。異邦人への福音の拡大は、ユダヤ人の視点からみれば、神による新しいパラダイムシフトであった。

 パウロはこれを純正なオリーブの木が台木を残して切り倒されたこととして描いた。純正なオリーブの木とはイスラエルのことであり、

歴史的にはBC586バビロン捕囚であり、預言的にはロAD70に起こったローマによるエルサレム崩壊と侵略を含むことになる。

 この切り倒されたオリーブの木には、野生のオリーブの木が接ぎ木されたとパウロは言う。

野生のオリーブとは異邦人キリスト者のことである。接ぎ木された野生のオリーブの枝は、

純正なオリーブの台木から栄養を受けることができる。それは異邦人キリスト者が、イスラエルの始祖であるアブラハム、イサク、ヤコブの信仰の遺産を受け継いで成長できることを意味している。

 ただし、それは約束の恵みにとどまっていることによるのであって、そうでなければイスラエルがそうであったように、不信仰が続くのであれば神に切り倒されてしまう。

 神の慈しみを知る者は、同時に神の厳しさを認識しておく必要がある。

2019年10月13日

彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子7000人が、わたしのために残してある」それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。

            ローマ11:5

 

    恵みによって救われる実例として、パウロは預言者エリヤを引き合いにした。BC9世紀、北イスラエルではアハブ王の影響により、国中にバアル信仰が蔓延していた。エリヤは、主の召しによりたった一人でバアルの預言者と対決して勝利する。Ⅰ列王18:19~40

 しかしエリヤは、アハブ王の妻イゼベルがエリヤ殺害の命令を下したことを聞くと恐れて逃れてしまう。憔悴したエリヤは死を願った。19:4 

 信仰の原点を求め神の山ホレブにいたとき、主はエリヤに「あなたはここで何をしているのか」と問う。これに対しエリヤは答えた。

「私は万軍の主に熱心に仕えました。…しかしイスラエルの民はあなたの預言者を剣で殺しました。…ただ私だけが残りました。」

 エリヤは、預言者としてバアル信仰に立つ人々と戦う中で孤独感を深めていった。バアルとの対決では人々が驚嘆するものであったが、エリヤ自身にしてみると「私だけが」残されたという思いを強くした。

 主はそんなエリヤに「バアルにひざをかがめていない男子7000人がわたしのために残してある」と言われた。自分だけが残されたと主に訴えるエリヤに、主は男子7000人という同じ信仰の仲間がいることを示された。この大群衆についてエリヤは何も知らないでいた。エリヤが関わったことではなく、主ご自身が「残してある」と言われるものであった。

 ここに恵みによって残された人たちの姿がある。それは人の働きによって救われたのではなく、主の恵みの故に導き備えられた人たちである。「それと同じく、(福音を聞く)今も、恵みの選びによって残された者(キリスト者)がいます」

2019年10月6日

  しかし、信じたことのない方を、どのようにて呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか         ローマ10:14

 

  どんなにすばらしいニュースであっても、それが届いていなければ、そこにいる人は何も知ることはできない。届ける働きがなければ、そこにどのような変化も起こらない。

 福音が「ユダヤ人とギリシャ人の区別はありません」(10:12)と言うとき、救われるための壁が完全にとり去られたことを意味していた。それは人の願いや努力によってはどうにもならなかった。パウロはそれをどんなに歓喜に満ちた思いで書き連ねたことだろう。

 だからこそ、福音宣教の担い手を痛切に求めた。福音はそれまで断絶していた神と人の交わりを回復させ、人は神の恵みを受けることができるようにされた。そしてユダヤ人と異邦人との間にあった民族的な壁をとり除かれ、同じ主に仕える者とされた。

 「同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かな恵みをお与えになるからです。」(12)

 神は、この恵みのニュースを人の言葉によって伝えられるよう備えられた。救いは100%神の業として行われ、そこに人の業が必要とされることはない。けれども、福音そのものは人の働きが介在して届けられる。

 「しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか」

 誰であれ、人を通さないで福音を聞いた者はいない。そこには必ず福音を心で信じ、口で告白した人の働きがある。ここに福音の宣教者の働きが強く求められている。主は働き人が与えられるため祈るよう求めておられる。

2019年9月29日

  人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。 ローマ10:10

 

 福音は救いをもたらす神の力であり、それまでの人生観と価値観を一変させる。それ故、ユダヤ人が何の疑いも持たず、当たり前だと思っていた律法についての考え方を根本から覆した。パウロは主から異邦人の使徒として召されてはいるが、ユダヤ人の救いを心から願っていたので、自分を敵視している同胞に対してとりなしの祈りをささげていた。(1)

 人が神の前に義とされるのは、律法によるのではなく信仰による。

  「モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いています。」(5)

    しかし現実には、律法とそれに関連した口伝律法が、ユダヤ人の生活の隅々までを支配していた。とり分け安息日に関する戒めは厳しく、歩くことのできる歩数や、持ち上げることが許される重量なども規程していた。

   それに対し福音は、律法を守ることによってではなく「心に信じて義と認められる」ことを告げる。考えようによっては、律法を守ることより心においての方が難しい。律法は外面的なことであり、そこには内心を偽ることができるが、心はごまかしたも偽ることもできないものである。もし心そのものが神の光に照らされたら、その罪深さに恥じ入るほかないであろう。

 しかしそんな心であっても、神の言葉を信じることができるものとされた。主の十字架と復活の出来事を自分の罪のためと信じ、主イエスを人生の主として受け入れるとき、神のいのちに生かされる。この救いは神の業であって、人から出たものではない。それは責任逃れのまま人任せになることではない。「口で告白して救われる」とあるのは、神の業に対し身をもって主体的に応答する行為である。それが信仰である。

2019年9月15日

こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなに

  されるのです。    ローマ9:18 

 

    稲穂が色づいて刈り入れを待っている。先日の台風では千葉県を中心に被害が大きかったけれども、宮城県下は天候に恵まれ例年以上に豊作が見込まれそうだ。天候は人の思いではどうにもならず、受け入れるしかない。それに逆らったからといって、どうにもならない。

 神の憐みも神の専権事項であり、人の思いによって支配されたり、選別されるものではない。「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」(9:15)

 神が人を憐れまれるのは、愛される価値のない人を、限りなく愛しておられるからである。もし、神の愛が人の業によって選別されるなら、その愛は人の考えに支配されたものになるであろう。神の憐みは人によらず、徹頭徹尾神に起因している。

 神が「みこころのままにあわれむ」ことは、「それなのになぜ、神は人を責められるのですか」(9:19)という反発を生むことがある。それは人が神の被造物であって、その置かれている立場を見失ったことによる誤解である。

「形造られた者が形造った者に対して『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか』

と言えるでしょうか。(9:20)

 それでも神が「みこころのままにかたくなに」されることは、より納得しがたく、言い逆らう思いを強くしているかもしれない。神がそのようにされるのは、「滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐」(22)しておられるからである。実際、神は滅ぶべき

怒りの対象とされていた者であっても、「ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださった」(24)

 人知を遥かに超えた神の愛がある。その愛に全幅の信頼を寄せることこそ求められている。

2019年9月8日

 神はモーセに言われました。「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ」        ローマ9:15]

 

   神の愛は、「あわれみ」あるいは「いつくしみ」としてあらわされる。その愛は神の自由な選択として人に注がれる。人のどんな条件にも左右されるものではない。奴隷から神の民とされたユダヤ民族であったが、血の繋がりがそのまま神の民を保障するものではなかった。また口伝律法のような人の側の基準が神の祝福を約束するのではない。その神の自由な選びは、教父たちの歴史の中に明らかにされている。

 イヤクの妻リベカは、その胎にエサウとヤコブを宿した。その子どもたちが生まれる前に、主はおおせられた。

「二つの国があなたの胎内にあり

二つの国民があなたから分かれ出る。

一つの国民は他の国民より強く

兄が弟に仕える」(創世記25:23)

 信仰の人イサクの子どもでありながら、神の民に数えられたヤコブと、そこから別の道に導かれたエサウ。その岐路は神の一方的な選びにあって、人の何かによってはいなかった。この神の選びは、救いについて人の業の関わりを否定する。逆に考えれば、人は神の救いを人が設定した条件や功績の中に考え易いのである。誤解してならないことは、人は神の選びを根拠にして良いことのための努力や働きをしなくていいというのではない。人が自分自身と社会のために良き業をすることは自明のことである。けれども、それがそのまま神の救いに繋がるものではないことを知らなければならない。

 神の選びは、そのような人の思いを謙遜にさせる。そのことは自分の業を誇るのではなく、絶えず神の恵みと慈しみを求めるように向けさせる。また人間的な弱さがあっても、それに落ち込むのではなく、恵みによって立ち直る動機となり得る。

2019年9月1日

    私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 ローマ8:37

 

    古来、戦いにおける勝利の秘訣は、敵を知り己を知ることとされている。パウロが経験したキリスト者の敵は、艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣であった。(8:35)  それはどれだけ彼の活動を苦しめたか知れない。けれどもそうした中にあって、彼が最大の敵としていたのは、外からのものではなく、内に働く肉の力であった。肉は神の愛から引き離そうとして人に働き、律法さえも罪を犯す機会に変えてしまう。結果として、人を罪の奴隷状態から抜け出れなくしてしまうのである。

 そうした中において「私たちを愛してくださった」キリストは、罪に支配された肉を処罰し、死者の中からのよみがえりにより、神のいのちに生きるようにしてくださった。

 この罪と死に対する勝利こそが、他のすべての問題の中にあっても「圧倒的な勝利者」(37)とする。なぜなら御霊ご自身が、神の御計画の内に導いてくださるからである。キリスト者は、御霊により祈ることで、神の御胸が何であるかを知ることができる。そこに信頼するときに、神の御計画の中に歩んでいることを見出すことができる。

 パウロは、その後の歩みにおいて、こうした神の導きを立証することになった。「何とかして…あなたがたの所に行けるように」(1:11)願っていたローマ行きは、やがて囚人としてローマに護送されることで実現する。

 使徒の働きは、その全ての中に神の御計画があったことをあかししている。そして、ローマというこの世の絶対的な権威に対して、福音の力が如何に圧倒的に勝利者であったかを雄弁に語っている。

2019年8月25日

私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 ローマ8:37

 

    古来、戦いにおける勝利の秘訣は、敵を知り己を知ることとされている。パウロが経験したキリスト者の敵は、艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣であった。(8:35)  それはどれだけ彼の活動を苦しめたか知れない。けれどもそうした中にあって、彼が最大の敵としていたのは、外からのものではなく、内に働く肉の力であった。肉は神の愛から引き離そうとして人に働き、律法さえも罪を犯す機会に変えてしまう。結果として、人を罪の奴隷状態から抜け出れなくしてしまうのである。

 そうした中において「私たちを愛してくださった」キリストは、罪に支配された肉を処罰し、死者の中からのよみがえりにより、神のいのちに生きるようにしてくださった。この罪と死に対する勝利こそが、他のすべての問題の中にあっても「圧倒的な勝利者」(37)とする。なぜなら御霊ご自身が、神の御計画の内に導いてくださるからである。

 キリスト者は、御霊により祈ることで、神の御胸が何であるかを知ることができる。そこに信頼するときに、神の御計画の中に歩んでいることを見出すことができる。

 パウロは、その後の歩みにおいて、こうした神の導きを立証することになった。「何とかして…あなたがたの所に行けるように」(1:11)願っていたローマ行きは、やがて囚人としてローマに護送されることで実現する。

 使徒の働きは、その全ての中に神の御計画があったことをあかししている。そして、ローマというこの世の絶対的な権威に対して、福音の力が如何に圧倒的に勝利者であったかを雄弁に語っている。

2019年8月25日

   あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。  ローマ8:15

 

   奴隷の体に刻まれた苦痛の記憶は消し難い。それ故、奴隷が主人の縛りから逃れて自由の身になったなら、そこから再び主人の支配に服すことは恐怖のどん底に突き落とされる思いに等しいだろう。

 パウロは「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる奴隷の霊を受けたのではなく」と、強い調子をもって罪の奴隷であったことからの決別を説いている。そこに後戻りすることは決っしてないと断言する。それは罪の奴隷であった私たちが、キリストの死と復活のうちに、再び罪の支配を受けないからである。

「子とする御霊を受けた」とは、キリスト者が神の子とされたことである。それを保障する聖霊を受けていることを示している。聖霊は、日々の信仰生活を助けるばかりでなく、神の祝福を相続するものであり、そこに神の絶大な愛があかしされている。

 この父なる神への応答が「アバ、父」という呼びかけである。主イエスは、ご自身を遣わされた方を天の父と言われた。その父なる神が、ここでは子供とその父親の間で用いられる「アバ」という言葉で表現されている。

 その幼子的な呼びかけは、子供が父親の愛に全人格的に信頼を寄せていることを意味している。かつて神との関係は互いに敵意を挟んでいた。それが今は、御霊によって神を「アバ父」と呼ぶ者とされた。そこには奴隷が抱いた恐怖は微塵もなく、愛のうちにある喜びと希望が満ちている。

 この深い信頼関係が、神と共にあるキリスト者の信仰生活を実のあるものとしていく。たとえ困難が押し寄せても、この愛が失われることはない。

2019年8月18日

肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神は

ご自身の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。     ローマ8:3

 

    善悪の違いを教えられても、人にはそれを実行する力がない。かえって、「したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています」(7:19)とパウロは告白する。それは自分の内に住み着いている罪が、善いとされていることに反発する力を生み出しているからである。パウロがいう肉という言葉には、そのような人間性が抱えているところの本質的な矛盾が明らかにされている。

 この現実に対し、「律法にはできなくなったことを、神はしてくださいました」 それは神

の一方的な恵みとして、主イエス・キリストによって実現した。

 「神はご自身の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです」

 人の内に住み着いている罪は、それに見合う処罰によってしか取り去ることができない。

罪を処罰なしに安易に受け入れてしまうなら、聖さも正義も損なわれてしまう。犯罪者が、権力者によって何の咎めもなく釈放されたら、正義は失われ社会は大混乱してしまうであろう。 

   罪が罪として裁かれなければ、理不尽さから出ることができない。神が御子(イエス・キリスト)を、「罪深い肉と同じような形で罪のきよめのために遣わさ」されたのは、人の内に住み着いている罪を処罰されるためであった。それは人が神から受けなければならない処罰を、御子が身代わりとなって受けたことで、歴史的に1回だけ起きた出来事である。神は主イエス・キリストを死者の中から復活させられた。それにより、人は肉において処罰され、聖霊によって生きるものとされた。

2019年8月11日

私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。

                 ローマ6:18 

 

   誰であれ、自分を良くみられたいという思いがある。人を説得するような場合には、自らの知識とか経験の優越性を基礎にして論理を組み立てる。しかしパウロは、ローマの教会の人たちに、罪人としての自己の姿を赤裸々に告白した。

「私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。」

 真に福音を理解してもらうためには、神の前での自己の姿を正しく知ってもらわなければならない。「自分の肉の内に善が住んでいない」とは、日常生活の奥深くに、神に反逆する罪の性質が働いていることを明らかにする言葉であった。何が善であるか、悪は何であるかを知っていても、それで十分ではない。むしろ、そこに生きようとしないで、善に反逆する正反対の自己の姿があって、その力に支配されている。それが罪の奴隷ということである。

「私には良いことをしたいとう願いがいつもあるのに、実行できないからです。」(6:18)

 キリスト者になる前のパウロは、パリサイ派に属する律法の教師であった。律法を民に語り、罪を犯す者を断罪もした。そのパウロが自分の内に善を行う力がないと語るのは、パウロの個性というよりも、神の前での人がそのようであるという認識による。

 奴隷は主人による支配を受け、死の恐怖に晒されている。罪の奴隷としての人は、サタンの支配を受け、死の恐怖から逃れ出ることができないでいた。福音は罪の奴隷となっている人の現実を直視する。その絶望的状況の中に神の恵みがみえてくるとき、心の底から感謝が溢れてくる。

2019年8月4日

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。   ローマ6:23  

 

    多くの人は、自分が自律的に生きていると考えている。たとえ、日々、仕事や勉学を強いられるにしても、そこには自ずと制限があって、誰の支配も許さない自由な時間が与えられているからである。決して自分を

奴隷とは考えない。そこからすると、パウロが神から離れた人を罪の奴隷というのを素直に受け入れがたく感じてしまうだろう。

「あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義について自由にふるまっていました。」(6:20)

 神にに反抗するこの自由について、カルヴァンは「悲惨とのろいの自由」と言っている。

なぜ罪の奴隷であるのか。それは人の中に住む罪の性質が人を完全に支配し、そこから逃れることができなくしているからである。「罪の報酬は死です」(6:23)

 人は一生涯、罪を主人として生活し、その働きの代価として死があるということである。

この死は神のいのちと対局に置かれているものであって、本来の人が求めるべき神との関係では的外れになっている。けれども、御言葉による現実理解が罪の自覚を促し、神の賜物として「主キリスト・イエスにある永遠のいのち」を希求させる。

 「しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」

 結局のところ、人は「死」か「永遠のいのち」の二者択一が迫られている。あれかこれかであって、その中間というものはない。人が決して自律的ではあり得ないのは、罪に支配された人間性の持つ弱さの故である。

 しかし感謝すべきことには、神は賜物としてキリストを与えてくださった。それは人の働きによるのではなく、無代価の恵みである。このキリストのうちに「永遠のいのち」がある。

2019年7月28日

私たちは知っています。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはありません。死はもはやキリストを支配しないのです。

                  ローマ6:9 

     

 近代科学の急速な発展によって、医療が恩恵を受けてきたことは喜ぶべきことである。以前には治療が不可能とされてことも、最新の医療技術によって救われた人は多い。

 しかし、そのことは医療が死を征服したとか死に打ち勝ったということを意味するものではない。その死とは、生命体として個体が活動を停止するだけのことではなく、神の恩恵といのちの源からの断絶を意味する。もし、死を生命活動に限定して考えるなら、それは死が持つ力と支配を過少に捉えていることになる。

 創世記の記述によれば、人は神から離れて罪を犯した時点で、死を抱える存在となった。 

(2:17) それは神のいのちによる祝福と保護からの疎外であった。

 創世記には、最初の人アダムは、930年生きて死んだと記述がある。(5:3) この長寿が何を意味することなのか論議が重ねられてきた。ただ、単純に考えても、アダムが死んだという事実は重いものがある。人はどんなに長寿であっても、死は固有の問題として残り、直面させられるからである。

 しかし第二のアダムであるキリストは、私たちの死を担ってくださった。「キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはありません。」「死者の中からよみがえる」ということは、死の原点に立って罪が処理され、加えて新しい創造の業がされることによって可能なことである。そこに罪のない仲保者の介入と、それを受け入れる神の働きがなければならない。キリストの内にされたこの恵みを信仰によって受け止めるとき、私たち自身が死から解放される。ここに圧倒的な神の恵みがある

2019年7月21日​

しかし、恵みの賜物は違反の場合と違います。もし一人の違反によって多くの人が死んだのなら、神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、なおいっそう、多くの人に満ちあふれるのです。           ローマ5:15

 

   人はなぜ死ぬのか。死はどこから来たのか。いのちの不思議さに驚嘆し、その根源を探求する人であっても、死の原因を根源的に問う人は少ないのではなかろうか。聖書は、神に創造された最初の人であるアダムが神への違反行為をしたことを死の原因とする。神の言葉への違反は罪(単数)とされ、それまで人に与えられていた神の恩恵と祝福から疎外された。

 アダムの罪は、それ以後、人の内に深く入り込み、すべての人の中に住み付いた。その結果、神を神とせず、感謝もせず、その思いはむなしくななり、神の怒りが天から啓示されている。(1:18)

 パウロはここに、一人の違反によって、すべての人に死が広がったという構図を示している。そして一人の人イエス・キリストによってもたらされる神の恵みを対応してみせている。いずれも一人の人が核となっているのであるが、それは後者の出来事のための雛形であるからとパウロは言う。

 「アダムは来るべき方のひな型です。(14) 雛形は、それを元にして作る製品にこそ価値があるのであって、雛形そのものが製品以上に評価されることはない。その上、両者の間には決定的な違いがある。アダムの場合は神への違反行為ということが罪となって広がったものであるのに対し、主イエスにおいては神の恵みと賜物によって、すべての人に広がっているからである。

  アダムの違反によって死に定められたのに対し、主イエスにおいては多くの違反が義と

認められた。恵みと賜物が如何に絶大なものであるかを知る必要がある。

2019年7月14日

そればかりではなく、艱難さえも喜んでいます。それは、艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 

ローマ5:3~4

 

 信仰によって義とされたことは、艱難(苦難)さえも喜びに変質させてしまう。艱難が我慢して耐えるだけのものであるなら、そこに意味を見出すことはできない。そのために挫折してしまうということもあるだろう。けれどもパウロは、信仰者は外からの艱難に遭遇しても約束によって支えられ、内側に忍耐という欠けがいのない萌芽をつくり出すという。そして忍耐は、練られた品性を生み出すと。

 練られた品性というのは、鍛冶屋が強靭な鋼を作るために、鉄を幾度も熱い火の中に入れ、

熱せられた鉄の塊を打ちたたくことに似ている。某ローマ書注解では、「日本語の熟語で練達以外にないであろう」とある。つまり「練られた品性」とは、道徳上の特性のことではなく、艱難を信仰をもって受け止め、約束を信じて歩む者の内側から鍛えられ滲み出てくるものである。この練られた品性が希望を生み出すのである。誤解してはならないことであるが、パウロは信仰があるなら艱難が直ちに喜びになると言っているのではない。もしそんなことなら、無責任なご利益宗教と変わらなくなってしまう。

 また艱難についての哲学的な理論を展開しているのでもない。むしろ、自分の経験してきたこととを、今まで述べてきたことに照らして力強くあかししているのである。艱難さえも喜びに変えられるなら、全てのことが喜びである。実際、パウロは喜びの秘訣を見出したかのように語っている。それを短絡的に捉えてしまうのではなく、希望に至るための信仰の過程として受け止めるとき、私たち自身も同じように確信するであろう。

2019年7月7日

 彼は不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを信じました。

                                                                                             ローマ4:20

 

     聖書が語る信仰は、信頼度が固いか薄いで到達するところのものが全く違ってくる。信仰の父と呼ばれるアブラハムについて、パウロは、「神には約束されたことを成就する力があることを信じました」と語る。

   アブラハムの信仰の固さは、常識的には神の祝福を信じられない現実において、彼がなおも神の言葉を信じ続けたことにおいて示されている。神の約束は「あなたの子孫を地のちりのようにならせる」(創世記13:16)であった。しかし、子孫が数え切れない程に増え広がるという

のに、この時点でアブラハムと妻サラとの間にはひとりの子供もいなかった。

    神の約束の言葉と現実の乖離は、アブラハムを深く悩ませた。そのとき神は、アブラハ

ムを天幕の外に連れ出し、星空を見上げさせて言われた。「あなたの子孫はこのようにな

る。」(創世記15:6)

 この神の呼びかけに、聖書は「彼は主は信じた」とアブラハムの応答が記されている。このときの夜空に不信仰の目を向けるなら、どこまでも闇が広まって不安は尽きなかったであろう。しかし、信仰の目をもって神の言葉を受け入れたとき、一つ一つの星の輝きは神の約束を確証させる希望の輝きとなった。

 この出来事は、アブラハムの信仰を更に堅固なものにした。神に「イサクを全焼のいけにえとして神にささげなさい」(創世記22:2)と言われたが、信仰によって神に従った。それは御言葉に対する信頼があったからである。

 キリスト教信仰は、内在化する信仰心だけの世界ではない。神の言葉への信頼が、神と新しい世界との関係を開くのである。

2019年6月30日​

不法を赦され、罪をおおわれた人は、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。

                ローマ4:6,7

 

   聖書は一貫して、罪の赦しによる罪の支配からの解放を告げている。救いは人の願いや努力によるのではなく、一方的に人に注がれる神の恵みに起因している。ローマ4:6でパウロが引用したのは、ダビデによる詩篇32:1であった。この詩はユダヤ的な文学表現である平行法が用いられていて、上の句の「不法を赦され、罪をおおわれた人」と下の句の「主が罪を認めない人」は同じ内容のことを言っている。

「不法」は  詩31:1で「そむき」となっていることからも、神の律法に対する違反が罪であることがわかる。ユダヤ人はこの律法を神から託されていた。一方、ユダヤ人以外の民族は、生まれながら心の中に律法が刻まれている。それは万人に共通の良心としてである。

  今日、罪は法律とか道徳規範に照らして語られるが、聖書がいう罪は「そむき」により、神と人の関係が壊れることである。罪は個人の心の奥に内在し、人への神の祝福を奪い、人を幸いの道から遠ざけてしまう。

 それ故、決して問題を放置してはならないが、自分では罪を取り去ることができない。それは人の手で修正されて済むことではない。なぜなら神との関係が回復していないからである。

 しかしそのような私たちに「不法を赦され、罪がおおわれる」道が備えられた。問題が深刻であったればこそ、罪赦されることの恵みは大きい。

 ダビデを通して語られた罪の赦しの幸いは、千年の時を越えてパウロによって確認された。今は、そこから二千年の時である。時代は大きく移り変わっても、罪の問題の大きさと、罪の赦しの恵みは変わることはない。

 

 

 

2019年6月22日

しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。       ローマ3:21

 

   水泳をするにはゴーグルを必要とする。なくても泳ぐことはできるが、これがないと水の中を鮮明にみることができない。人が真の神を見出し、神との関係に生きるために律法は欠くことができないものであった。律法がないと罪を罪として自覚できない。神は、神の民とされたイスラエルに、律法によって祝福と呪いの道を示された。(申命記28章)  それは、民が行いによっては、神の前に義とされることがないことを知り、信仰によって神との関係を回復することを知るためである。

 ところがイスラエルの歴史は、信仰から離れて罪を犯し、神の栄光から遠くされたことを明らかにしている。それは律法が指し示す道からの離脱である。それでも、民の中には、律法をもっていることによる選民意識が残っていた。そこには律法の勝手な解釈による自己義認と、異邦人を全く受け入れようとしないユダヤ民族至上主義がある。

 パウロは、ユダヤ人が存在の拠り所としているこの律法について、「律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められない」(3:20)という。律法は、それを行う者の義を示すためのものではなく、神の基準から離れた人の罪を諭すものであると。

 そして、この倒錯した状況の中で、神の恵みにより「律法とは別に」、信仰による神の義が示されたことを力強く語る。その信仰とは、律法が求めることを神が代わって為されたキリストの業を信じることである。

 これが「律法と預言者によってあかしされ」(3:21)とあるのは、信仰による義が突然に生じた考えではなく、神の御心の内に予め備えられていたことを明らかにするためである。

 今、神は、すべての人に向けて信仰による神との関係の回復の道を開いておられる。私たちは、この招きの声を聴いて、信仰によって応答することが求められている。

2019年6月22日

 義人はいない。一人もいない。

               ローマ3:10 

 

    人は痛みの感覚によって体の異常を知る。たとえば足の怪我であれば、激痛によって骨折を考えることができる。胃に痛みがあれば、胃に何かの異常が生じていることがわかるであろう。

 罪は可視的なものではないので、痛みと根本的に異なるのであるが、罪を自覚するということではこれと近い関係にあるといえないだろうか。なぜなら罪とは神との関係に異常が生じていることであり、そこに罪意識が働くことで人は罪を自覚するからである。痛みは本来的に人の命を守るのになくてはなrないものである。ただし、体の異常があっても痛みを生じないことがあるように、人は罪の只中にあっても、罪に無感覚になっていることがある。それは人にとって好ましいことではなく、極めて危険な状態ということができる。

 パウロによれば、律法が与えられたユダヤ人は、その律法を通して罪が自覚されるようにされた。彼らがもっていた律法は、自分の義を誇るために備えられたのではなく、罪を悟るためのものであった。それに対し律法を持たない異邦人は、神が心の中に書かれれた良心という律法によって罪を自覚する。この場合、善悪を判断する良心は、社会の要請として自然発生的に形成されたものでなく、生まれながら各個人に神が植えつけられたものである。

「彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。」(2:15)

それ故、ユダヤ人も異邦人も律法の光の中にすべての行いが照らされて神に裁かれる。

  「義人はいない。一人もいない。」

 この点で例外がない。そのことは、誰も特別視してはならないことを示している。罪は他の誰かのことではなく、私個人が生ける神の前に抱える深刻な現実である。

2019年5月19日​

私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって救いを得させる神の力です。 ローマ1:16 

 

    パウロの時代、ローマ社会全体からみれば、キリスト者の数は少数派であった。ローマは帝国の中心ではあるが、エルサレムから見れば西の果てになる。そのローマ教会は活発に宣教活動をしていた。けれどもローマに住むユダヤ人には異端として扱われ、ローマ人からは風習の異なる神を礼拝するおかしな人々とみられた。

  福音は主イエスの十字架と死からの復活を中心に語る。ローマ社会においては十字架は重罪を犯した者に科せられる罰であり、恥そのものでもあった。それ故、福音が語られるとき、教会の中でもそれを恥として受けとめる人々がいたのであろう。主イエスの教えに共感し受け入れても、福音に対しては眉をひそめる人がいたのかもしれない。

 しかしパウロは、自分の宣教の中心が福音であって、そこに微塵の揺らぎもないことを宣言する。そして、この福音こそユダヤ人とかギリシャ人といった民族の壁を取り去って、「信じるすべての人に救いをもたらす神の力」(16)であると語る。

 パウロはかつて福音を恥とした。キリスト者が十字架につけられた主イエスをあかしするのをみて、神を冒涜しているとして激しく反対した。そのパウロが、神の恵みによって主イエスの復活を信じる者とされた。

 それゆえパウロは、そうした自分の原体験を基礎にこの言葉を語っている。人々が考える神の力は政治的な優性とか軍事的な勝利をイメージしていたところがある。けれども、ここにパウロが示すのは、人を罪と死の支配から救い出し、人を新しくする力である。それは決して人間的なもので対応できるものではない。

 信仰者の現実には大きな壁が立ち塞がっているが、それを越えて神の力が発揮されるのは、信仰によって神の業をみていくことによる。

2019年5月12日​

   私は、ギリ​シャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければな

らない負債を負っています。 ローマ1:14

 

    福音は、民族や文化を越えて人と人を深く結びつける。パウロの時代、一般的なユダヤ人の認識では、ギリシャ人も未開人も異邦人と同列に数えていた。宗教的には、神の祝福の枠から外れた民としていた。以前はパウロもそのように考えていたがいたが、回心してから大きく変わった。異邦人のための使徒として神に召し出されてから、福音において異邦人と自分を関係づけている。

 「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。」

 福音を伝えるだけであるなら、「負債を負う」という必要はなかったであろう。宣教者としてあるだけで十分に役目を果たすことはできたのである。けれども、パウロの心の中には、自分のように神から遠い者であった者が、溢れるばかりの神の恵みを受けて異邦人のための使徒とされたという感動が生きていた。

 そこで異邦人である人たちと自分を結びつけるのが「返さなければならない負債」という表現になった。誤解してならないことは、パウロは金銭的に彼らに負債があったのではない。人間的に縛られていたのでもない。負債は責任をもって受け止める者にとって、どうしてもしなければならないことである。それゆえ、ここでの負債は、神の恵みを真正面で受け止め、それに全力で応答しようとするパウロの意思と言える。

 パウロは設立されたばかりのローマ教会に対し、人間的な意味での権威をもって関わろうとはしていない。むしろ、徹底的に神に依り頼むことで自らをしもべの位置に置いている。そこから神の愛が溢れ出て、どうしても福音を語らなければならないことの動機となっている。私たちが福音を語るとき、神の愛にどれだけ生かされているかが問われる。神の絶大な恵みを知るとき、そこに「返さなければならない負債」として福音宣教の使命が生まれる。

 

 

 

 

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