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 2026年09月13日

   王は相談して金の子牛を二つ作り、彼らに言 った。『もうエルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上った、あなたの神々がおられる。」

                                                                                         列王記第一12:28

 

    人は神の被造物であって、人が作った神は神ではない。ところが神の創造のときから、人には自らが神の地位に立ちたいという誘惑が働いている。

 新しく北イスラエルの王となったヤロブアムは、自分の政権が南のレハブアム王の失政という政治的な力関係だけで支えられていることに、強い不安感を抱いていた。やがて人々の熱気が覚めてしまったら、礼拝のためエルサレムの神殿に行く人々が増えてくるのではないかと心配した。そうしたら、人々と自分の関係が切り裂かれるからである。

 そこで王は、民がエルサレムに行かないようにと、金の子牛を二つ作った。王国の北ベテルと南に位置するダンに置くためである。このことは、イスラエルの出エジプト以来、厳しく主から禁じられていた偶像礼拝に対する明白な違反である。金の子牛は、モーセがシナイ山で神と会見していたときに、アロンが民に命じて作らせたものである。民たちが暴動を起しそうになったため、それを宥めて民を落ち着かせるためであった。アロンの言い訳は、見えない神を見えるようにしたということだった。偶像を造って神とすることは、人が神の地位に立つことでもある。このことは、イスラエルにおいて重大な罪として神に裁かれた。(出エジプト32:21)

 しかしイスラエル史において決して忘れてはならない出来事が、ヤロブアムによっていとも簡単に再現されてしまった。そこには、人を容易くコントロールできるとした支配者の傲慢さと、神のことばから離れている民の現実があった。

 今日、人の作った神が、新しい産業の発展によって巷に溢れている。AIやロボットの製作者の中には、自らを神の位置に押し上げている人々がいると聞く。

 こうした時代に生きるわたしたちは、自分自身の立ち位置を見失ってはならない。それを是正するには、信仰によって主を仰ぎ見る以外にない。

2026年09月06日

「あなたの父上は、私たちのくびきを重くしました。今、あなたは、父上がわたしたちに負わせた過酷な労働と重いくびきを軽くしてください。そうすれば、私たちはあなたに仕えます。」  

                                                                                                          列王記第一12:4

 

   人の痛みや苦しみに共感できることは、為政者の基本的な資質として求められることであろう。

 ソロモンの子レハブアムは、王位に就いたとき、父ソロモンによる統治が民に大きな不満を抱かせていたことを知った。

 「今、あなたは、父上がわたしたちに負わせた過酷な労働と重いくびきを軽くしてください。そうすれば、私たちはあなたに仕えます」(4)

 ヤロブアムの口によるこの民衆の訴えは、若い王の足元をみての誇張ではなく、真実に同胞の苦しみを覚えての提案であった。長老たちは、この言葉の背景に並々ならぬ緊急事態が迫っていることを察知し、王に民の要求を受け入れることを提言した。

 けれども、レハブアム王は、その長老たちの提言を退け、「自分たちとともに育ち、自分に仕えている若者たち」の助言に従ってしまう。状況を判断しきれず、民の苦しみや痛みを理解することよりも、自分たちにとっての損得を優先させたのである。

 「私の父がおまえたちのくびきを重くしたのなら、私はおまえたちのくびきをもっと重くする。」(14)

 そこにレハブアム王の偏狭さと傲慢さが明らかにされている。それは若さが為せる愚かさとも言えるが、結果的にこの意思決定が、イスラエルを二つに分裂していく要因となった。注視すべきは、ここに神に愛された民のトップが、民のために憐みの心を失ってしまった現実があった。それは根本的には、レハブアム心が神から離れてしまったことによる。そのことが民の心を王から引き離した。

 ヤロブアムは、この状況の中で正義を回復させる者として登場してくる。けれども、その過程でイスラエルに偶像礼拝を持ち込み、国を二つに分裂させてしまった。重いくびきに苦しむ民を解放すべき人が、更に深い闇を作り出し民のくびきを更に重くしていくのである。

 その混乱と絶望を聖書は記している。しかし、この底知れない闇の中に救い主が救い主が待ち望まれた。主イエスは、その闇が極まるときに、くびきを軽くする救い主として天から送られてきた。

「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」マタイ11:28

2026年08月30日

 この女たちは、主がかつてイスラエル人に、「あなたがたは彼らの中に入ってはならない。彼らをあなたがたの中に入れてもならない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる」と言われた、その国々の者であった。    列王一11:2

 

  キリスト者は神の御言葉を聞き、そこに人生の意味を見い出す。もし、その関係性が断たれてしまったら、神によって備えられた存在の意味は失われ、我欲が支配する意思に身を委ねることになってしまうだろう。

 ソロモンが王に就任したときには、父ダビデが持っていた信仰を、しっかりと受け止める気概があった。ところが、国が安定して争い事がなくなり、富が蓄積されるようになる中で、ソロモン自身の信仰が変化していく。

 罠となったのはソロモンが愛した女たちであった。その我欲と信仰の相克において生じる自己矛盾は、ソロモンが歳を重ねるに従って覆い隠せるものでなくなってしまう。そして遂には、「シドン人の女神アシュタロテと、アンモン人の、あの忌むべき神々ミルコムに従った」(5)

 このことは、ソロモン自身と王国の上に重大な問題を引き起こす原因になった。それによってイスラエル分裂という悲劇の元を引き起こしてしまったからである。

 政治的にみるなら、ハダテの動き(14)は反乱者による内部分裂としかみないだろう。罪の本質に迫ることはない。けれども神は、事の起こりがソロモン自身の不信仰であったことを明らかにしている。それは唯一の神よりも、女たちを愛するところから出たものであった。ソロモンの犯した罪は深く、神の怒りを引き起こした。

 けれどもソロモンは、神がダビデと結ばれた契約を元に取り扱われていく。ここに神の前に結ばれた契約の優先性がある。キリスト者は、主イエスの十字架によって結ばれた契約の上に立っている。

キリストによる新しい契約は、今の私において有効なものとされている。そのことは何という恵みであろうか。私たちはこの恵みよって今生かされている。

2026年08月26日

   今、イスラエルの神よ。どうかあなたのしもべ、私の父ダビデに約束されたおことばが硬く立てられますように。  列王一8:26

 

 約束されたことが、困難や長い時間を通して遂に実現されたら、待ち望んでいた人にとって大きな感激を産むに違いない。 

 イスラエルにおいて、ソロモンによって建設された神殿はそのような意味をもっていた。それは、主なる神がダビデに約束されたものであったからである。ダビデ自身は、建設に必要な資材を、周辺の国々からとり集めたが、主によって神殿を建設することは禁じられ、次の世代に託された。

 神殿の原型は幕屋礼拝であり、イスラエルがエジプトを脱出したときから継続されていた。それは移動ができるように組み立て式であったので、構造事態は簡素なものであったが神殿では様相が一変する。

 王権がダビデからソロモンに引き継がれたとき、ソロモンは主が父ダビデに約束された神殿建設に着手し、これを完成させた。それは王権の基礎が固められたことであり、周辺の国々にイスラエルの繁栄を誇示する機会となり得たであろう。

 けれども、ソロモン自身は、この事業が主から出たことであり、主が導かれたことであったと確信していた。それ故に「どうかあなたのしもべ、私の父ダビデに約束されたおことばが硬く立てられますように」と祈っている。

 こうして建設された神殿は、礼拝のための中心施設であり、バビロンによって破壊されるまでの約400年間、保たれていくことになる。その後、バビロンからの帰還した人々を中心に、第二神殿が建設されたけれども、その神殿はAD70年にローマ軍によって破壊され、地上から姿を無くしている。

 しかし聖書の約束によれば、神の約束はイエス・キリストの言葉に引き継がれたのであり、キリスト者自身が神の神殿とされている。    

 「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の御霊が自分の内に住んでおられることを知らないないのですか。」(第一コリント3:16)

2026年08月16日

  善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてくださぃ。

                                                               列王記第一3:9

 

     「もし宝くじで当選し、とんでもないお金が手に入ったら、何に使いますか。」そんな娯楽半分の質問がインタビューされているテレビ番組をみたことがある。「クルーズ船に乗って、海外旅行をしてみたいです。」「家を新築し、ゆっくり趣味を楽しんで生活をしたいなあ」

 実現しそうにないことであっても、生活の中に溶け込んでいる価値観や世界観。現代は、最も大切なことが、こうした物質的なこと、あるいは金銭的なものにすっかり置き換えられてしまっている。それですべてが足りると考えてしまっている。

   紀元前1000年、イスラエルの王ソロモン祈りは、そのような感覚に対比されるのではなかろうか。ダビデの後継者としてソロモンが王とされたとき、主なる神は夢のうちにソロモンにあらわれて言われた。

 「『あなたに何を与えようか。願え』と仰せられた。」(列王第一3:5)

 ソロモンがイスラエルの王として国を治めて行く上で、何を基本にしていこうとしていこうとしているのか。神からの問は、その内面が明らかにされるものであった。そのときソロモンは、「善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。」と応えている。

   多くの人が願う長寿ではなく、敵を圧倒する強い軍隊でもない。また饗宴を催して自己自賛するための富でもなかった。ただ善悪を判断する知恵の心を求めたのである。それが主の御心にかなうものとされた。

 ソロモン自身は、様々な才能に秀でた人であった。けれども、そうしたことに奢り高ぶるのではなく、民を治めるには善悪を判断する神からの知恵がなければならないと考えていた。それは父ダビデの信仰を引き継いだものである。

 主なる神は、こうしたソロモンの姿勢を喜ばれ、更なる祝福が増し加えられた。ソロモンが神と共に歩む期間、この約束が破られることはなかった。

2026年08月09日

   あなたがたはすべてのことをよく知っていますが、思い起こしてほしいのです。イエスは民をエジプトの地から救い出しましたが、その後、信じなかった者たちを滅ぼされました。 ユダ5

 

    自己過信が招く失敗というものがある。自分ではすべてを把握しているつもりであったのに、思わぬ所に落とし穴があったことなどによる。

 ユダの手紙には「あなたがたはすべてのことをよく知っていますが」とある。手紙の宛 先となった教会の中に、キリスト教信仰についての知識が共有されていた。人々に知識を求める意欲があったのか、あるいはその地方が知的なことを育む風土であったからかもししれない。表現そのものは普通で、決して皮肉を籠めたことでも、ことさらに揶揄しているのでもない。

  けれどもユダに届いた報せによれば、信徒の生活面において、知識量に反し肝心なことが抜け落ちていた。それはきよさからの逸脱である。つの間にか信徒の間に広まってしまった不敬虔。その結末に対する恐れや、悔い改めへの呼びかけの声も消えていた。しかしそれは神の聖なる民の実質的な反逆であり、主イエスをキリストと告白することを否定する不信仰への道である。

 ユダは、ここで不信仰によって滅ぼされたイスラエルの民を思い出して見よと語りかける。モーセが神と会見していたとき、金の小牛を祀ったイスラエルの民には厳しい神のさばきが下ったことなどである。(出エジプト32:27)

 旧約時代にイスラエルを導かれた主が、この手紙ではイエスと同一とされている。それが「イエスは民をエジプトの地から救い出しました」と語られる。それは、出エジプトと主イエスによる罪からの解放が、同じ主の働きであったことによる。そうであれば、不敬虔をそのままにしていいはずがない。直ちに悔い改めをして、滅びへの道から方向転換をしなければならない。

2026年08月02日

   私たちが御父の命令にしたがって歩むこと、それが愛です。あなたがたが初めから聞いているように、愛のうちを歩むこと、それが命令です。           Ⅱヨハネ

 

 キリスト教信仰において、聞き従うということほど重要なことはない。それは信仰の入口であり、それを醸成させるものであり、やがて完成へと導くものであるのだから。

 主イエスの弟子たちも、初めは「イエスについて行った」(ヨハネ1:37) そこには好奇心とか冒険心があったろうし、主イエスという人格への信頼と期待が含んでいた。それらの中でも一番彼らの心を動かしたのは、御父の御旨によって歩む主イエスの姿である。そこに御父に対する愛と信頼を見出すことができた。

 神の愛は、御父と一体になっているので、御父から離れた所に神の愛は知り得ない。どんなに神の愛を論じたとしても、神の命令として愛を受け止めるのでなければ、その全体が偽りになる。

 ヨハネ第二の手紙においても強調点は神の愛であり、内容が第一の手紙と大きく異なることはない。書かれた年代も、宛先も同じであったのかもしれない。見方によっても、もう既に語られたことの繰り返しというふうにも映る。ただし、この比較的に短い手紙の中に、著者の心情が色濃く投影されていると言える。

 著者がヨハネは、老身を鞭打つようにしながら、「私たちが御父の命令にしたがって歩むこと、それが愛です」と訴えている。それだけ、当時の教会の中に、愛の実質が問われていたことが垣間見られる。おそらくそうしたことが日常化し、教会が危機的なことになっていたのではなかろうか。

   罪を単なる人の欠けと考えるグノーシス主義の影響もあったであろう。それは人となって来られたキリストの働きを虚しくするものであった。その反キリストが、教会の交わりを壊し、福音を台無しにしていたのである。

 今日、多くの人が抱くキリスト観はこれに近いものがある。そうした時代であるからこそ、初めから聞いていること」に立ち戻る必要がある。そこでの変革が、日常の生活の場で「愛のうちを歩むこと」を可能とする。教会の交わりは、そうした証しがなされる所である。

2026年07月24日

    あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。  Ⅰペテロ5:7

 

   心配するあまり、前に進めなくなることがある。いろいろなことを考えると、不安だけが増してくるのである。

 聖書の「思い煩い」という言葉は、「分ける」という言葉からきているようだ。それは、心が一つのものに向けられず、集中していない状態のことを言う。

 問題が山積していると、自分で何とかしなければならないと、重荷を一身に背負ってしまう。そこには、責任感、使命感そして自尊心などと共に、失敗したらどうなってしまうかという不安が入り混じっている。

 そうした状態になっても、問題がうまく解決できれば良いのであるが、なかなか思ったとおりにならないのが現実である。結果として心が散り乱れ、心配のあまり、生活のリズムはおろか体調まで影響が及んでしまうことがある。

 使徒ペテロは、「いっさいを神にゆだねなさい」とすすめている。また詩篇55:22には「あなたの重荷を主にゆだねよ」とある。「ゆだねる」という原語の意味は「ころがす」あるいは「投げかける」ということだという。

 自分で重荷を持つことは大変な労力を要する。ときには、重圧に押し潰されてしまうこともある。けれども、一旦、それを地べたに置いて転がしてみたら、難なく荷を移動させることができることを見出す。そんな経験をしたことはないだろうか。

 主に委ねることは、あなた任せの態度をとることではない。自分自身を主の御手の中にある小さな存在として捉え直すことである。そこに 恵みによって為すべきことがみえてくる。

 私たちは、知らない間に自己が尊大になってしまう。自分以外に解決の道を見出すものがないと考えてしまう。そうした私たちが、主の前に徹底的に謙遜にさせられるのが「ゆだねる」ということである。その信仰により「神があなたがたのことを心配してくださる」という、神の恵みを知るのである。

2026年07月17日

   何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている私たちの確信です。   1ヨハネ5:14

 

  多くの人は、信仰を自分の経験と考えの枠の中で考えている。そのために、御言葉が約束する神の祝福を、絵空事として簡単に廃棄してしまう。「祈っても無駄だ」「祈りは叶えられない」と。

 それに対し、使徒ヨハネの祈りに対する確信は何と力強いことか。何としても伝えなければならないこととして、熱烈に訴えられているのではないか。

 これは、論理とか法則のようなものではなく、それまでの信仰生活によって紡ぎ出された確信であった。ただし、誤解してならないのは、「みこころにしたがって祈る」という制限があることである。それは祈る者と祈る対象の関係性を示すものであって、祈りが何であるかを物語っている。 

 祈りにおいて最も重要なことは、神の前に心が開かれることである。心が開かれているなら、みこころにかなうことができるけれど、そうでないなら、みこころにかなうことはできない。

 そのため、みころにかなうためには、祈る者の側に祈りに対する備えも大切にされる。神に祈りながら、自分が神に替わる立場であるかのように祈ることがあるからである。

 神が祈りを聞かれるというのは、神が祈る者の言葉に従がうことではない。神が祈りを受け止め、そこに神の業が備えららるのである。たとえ、自分の訴えがそのまま聞かれなくても、そこに神の業がなるのを信じていく。そうした祈りを求めていきたい。

2026年07月10日

   神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。

                                                                                     1ヨハネ5:3

 

 かる鴨親子の移動が報道されていた。親鳥にしっかりついてくる子鴨の様子は、何ともほほえましかった。自然界において、産んでくれたものと、生れたものの関係は深く結びついている。

 キリスト者は、神から生れた者であるのだから、神を愛し、神のことばを守ることは当たり前のことであったはずだった。ところが、そのことがうまくいかない。罪の介入である。キリスト者であっても、神の言葉に従がわねばならないという意識が、「重荷」として反発してしまうことになったりする。

 原因はいろいろ考えられるのであるが、一番大きいのは、生れながらの自己意識が、神への愛に向かわせないで、欲望に捉えられてしまっているからではなかろうか。神の愛をとり違えているのだ。

 こうしたことは、イスラエルの歴史の中にもみられた。神がイスラエルの民を奴隷から解放されたとき、神のことばへの従順を求められた。

 「あなたがたが確かにわたしの声に聞き従がい、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆ

る民族の中にあって、わたしの宝となる」(出エジプト19:5)

 このときイスラエルは、契約によって神の民としての祝福が約束された。けれどもその後、民は「わたしの声に聞き従う」ことをしなくなってしまう。信仰によってではなく、自分の業に頼ったからであった。

 主イエスによる新しい契約で、イスラエルと同じ間違いをしてはならない。神の命令は、私に向けた神の愛から出たものである。それを守るのは、神の愛への真摯な応答である。私にとってそれは重荷ではなく、ますます神の愛を知ることになる。

2026年07月03日

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。       1ヨハネ4:18  

 

    恐れを締め出すものとして愛がある。 一般的には、愛の反対語として考えられるのは憎しみだろう。あるいは無関心こそが愛に対峙する概念だとする人たちもいる。人間関係において無関でいることは、愛という意思が発露することさえなくしてしまうからである。

 そうした議論においては無視されているけれど、心の深いところで、愛にブレーキをかけているのが恐れである。

 この箇所で使徒ヨハネは、主イエスによって示された愛を「全き愛」と表現した。全きというのは、それが神からのものであり、偽りを含まない完全なものであることを示している。それは神のさばきという究極の状況においても、変質したり色あせてしまうことがない。

 「愛には恐れがない」というのは、そうした愛の姿を裏書きした表現である。人間的な愛であれば、どこかに打算が混じったり、欲が介在したりすることもある。人の前では愛として隠せたとしても、そうしたことは神の光の中では無力である。

 人のすべての営みが問われる神のさばきでは、愛としていたことさえも恐れに代わってしまうことがある。そこに密かに抱え持っていたものが明らかにされてしまうからである。

 けれども、そんな弱点を持つ者であっても、既に神の愛に生かされている者は、神のさばきから解放されている。

 恐れは主イエスの十字架によって、既に取り去られているからである。この愛に信頼して、主に近づく者とされたい。主は、そうした歩みを祝福し、ますます愛に生きるよう導いてくださる。

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2026年06月28日

  愛のないものに神は知りません。神は愛だからです。神は愛だからです。1ヨハネ4:7

 

     愛がわかるというのは、どういうことだろうか。たとえば目とか鼻や耳のように、人の器官をもって、愛を確かめるというようなことではない。認識といっても、野辺の花に季節を感じたり、古びた景色に歴史を感じたりする、印象のようなものと違うのではなかろうか。

 母の日のカーネーションのように、たとえ一輪の花であっても、人はそれを贈ってくれた人に愛を感じたりする。この場合、花を受け取る人とそれを贈ってくれた人とがいるわけで、愛はそのように別人格との関わりの中に見出されると言えよう。単独の人格の中には愛は生れない。してみれば、Aiがどんなに技術革新されようとも、そこに愛を見出すことはできないのだ。

 神が愛であることを知るというのは、神という存在を受け入れることから始まる。全く神を否定してしまったら、どうして神の愛を知ることができよう。それは、存在しない人を知ろうとするようなことで、勝手に作り出した観念的な産物での理解になってしまう。

 ヨハネが「神は愛だからです」というのは、主イエスの弟子として召されてから、老年に至った現在まで、神の愛に生かされてきたという体験による。それは紛れもない現実で、知れば知るほど愛は神からのものであり、人間社会の中に求められていた愛とは性質が違うことが分かった。中でも、主イエスの十字架は、神の愛が示された出来事と確信した。この愛を愛として受け止めるとき、自分の中に同じ愛が生れる。これは感情に支配されるのものではなく、内住のキリストを証しするものである。そして、この愛は、互いの愛によってますます認識される。

 頭から神を否定していては、神の愛を知ることはできない。それは神の最大の祝福を、自らの判断で逃すことになる。

2026年06月21日

   人となって来られた、イエス・キリストをを告白する霊はみな、神からのものです。

                                                                                          1ヨハネ4:2

 

「今朝早くに家を出て、東京駅から新幹線で仙台に来ました」 と客が話せば、「そうでしたか」と応じる。何の疑いもない。けれども、御子が地上に来られた事情についてはそうはいかない。

 主イエスは、神の御子という立場を捨てて、世に来られた。この事実を受け止めるということは、頭で考えるだけでは起こり得ない。なぜなら、その告白は自分の心が神のことばに探られたことの結果だからである。

    自分を捨てるということは、主イエスの生涯において、徹頭徹尾貫かれた姿勢であり、そのクライマックスが十字架であった。キリスト者は、このキリストを仲介者として神に前に受け入れられる。その過程で、己が罪のゆえに打ち砕かれることが、神への信仰の道を開かせる。それは最初から最後まで神から出たことであった。

 「人となって来られた、イエス・キリストを告白する」というのは、そのような恵みにより、主イエスを救い主(キリスト)として信仰を持つようになることに他ならない。この信仰が神と人との前に公にされる。

 人は生れながらの性質を抱えたまま、このような信仰に至ることはない。辛い修行を重ねようと、また、あらゆる学問を研鑽しようとも自らの努力や才覚によって、啓示に替わる知識を得ることも、体験することもできない。

 だからこそ、キリストの現れについて、預言者イザヤは、「わたしたちが聞いたことを、誰が信じたか」(イザヤ53:1)と書き記した。常識的にもないことだし、人の頭に浮かぶことで

もなかった。

 それだけに、「イエス・キリストを告白する霊が「みな」と書き添えてあることは、それが神からのものであることを明らかにしている。

 そのことは、キリスト者ひとりひとりにとって何と力強く心に響くことだろうか。

2026年06月14日

    愛する者たち、自分の心が責めないなら、私たちは確信を持つことができます。

                                                                                                 ヨハネの手紙第一3:21

        

 「洗面器に入った水が揺れ動いているとき、鎮めるために一番いい方法は何だと思いますか」。先日、趣味で合気道を習っているという牧師から質問を受けた。八月に行われる平和祈祷会のため、世話人の皆とチラシの発送作業をしていたときのことである。考えあぐねていると、一人の牧師が「洗面器を床に置くことだと思います」と答えた。正解であった。

 質問者によると、これと同じことが 信仰生活においてもあるというのである。彼が合気道に興味をもったのも、キリスト教信仰と共通するのを見るからだという。それから、彼の証しを聞くことができた。

 確かに、私たちは、何か何かの原因で、心が揺れ動いて自分でコントロールできない状態に陥ってしまうようなことがある。解決しようと焦ってしても、事態を悪化させるばかり。それは洗面器の水を鎮めようとしながら、かえって溢れさせてしまうよなものであろう。

 主が求めておられるのは、一旦、その問題から手を放して御父に委ねることである。「自分の心が責められる」(20)というのは、自分の中で何とかしようとしている状態ではないだろうか。そこでは不安や怖れを募らせながら、逃れるための道筋がどこにも見出せないのである。そこで示されているのは、自分が握り閉めているものを、御父の手に委ねることである。

 「神は私たちの心より大きな方であり、すべてをご存じだからです。」(20)

 自分だけで解決しようとすると、御父との距離ができて信仰そのものが揺らいでしまう。たとえ自分なりに解決したとしても、欠陥や綻びのため、御前で心安らかでいられないことになるのではなかろうか。

    これに対し、御父の前に取り扱われたものは、神からの平安を伴うものである。これこそが私たちが保つべき確信である。

2026年06月07日

   子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実を持って愛し合いましょう。

 ことばには重さがある。同じことばであっても、どのような状況で、誰によって語られたかにより、重さは全く違ってくる。重いことばというものは、私たちの人生を支えるものとなり、生涯に渡って自分自身と深く関わってくる。それに対し、「ことばや口先だけ」のことばがある。

   その場凌ぎの出まかせで、何の責任を負わないことばである。そうしたものは、風に吹き飛ばされる枯れ葉のようだ。舞い散らされてそのまま行方しれずである。

 キリスト者の信仰は、行いと真実さによって裏打ちされたものである。それは神から出たものであり、主イエスがいのちをかけて証しされたものである。だから、ことばそのものが大変に重い。この原点を見失ってしまったら、ことばそのものがたちまちにして空洞化してしまう。

 「互いに愛し合うべきこと」(13)を考えた場合どうであろうか。教会にあっては、これこそ行いと真実をもって内実化されなければならない。教会はその愛が証しされる場である。

 けれども、その教会の中でさえ、互いに愛することが、口先だけで実質を伴わないことがある。交わりの中で、愛を口にしながら、心の底では兄弟を憎んでいるようなことが起こり得る。

 ヨハネは「カインのようになってはいけません」(12)と警告している。カインは神へのささげものという行為の中で、弟アベルに対する怒りを持ち、それを殺人に発展させてしまった。

 カインがそこに至る前、主なる神は「罪はあなたを待ち伏せしている」(創世4:7)と注意を呼びかけられた。しかしカインの心に生じていた怒りが、神のことば軽いものとしてしまった。

 カインと対称的なのが、主イエスによる兄弟愛である。それは神から出たものである。その愛は

キリストが十字架で死なれたように、兄弟のために自分のいのちを捨てる。そこに行いと真実による愛の証しがある。

2026年05月31日

 愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。    ヨハネ3:1

 

    巣作りに励む燕がみられる季節になった。雛のため、かいがいしく飛び回る親鳥の姿は、何と愛おしいことかと感嘆させられる。

 いうまでもなく、人が誰の子であるかは、親を主体として受け身である。養子になるということでは、本人が関わることもあろうが、それにしても受け身の要素が大きいのでなかろうか。

 できれば違う親のもとに生まれてみたかったと空想することは、誰であれ一度は考えてみたことがあるかもしれない。それにしても、出生においての親からの譲りものは動し難く、自分の選択権というものはどこにも見出せないことに圧倒されてしまう。

 私たちが神の子とされるというのも、自分の意思とか修行とか功徳の積み上げによってではない。徹頭徹尾において神の恵みが先行したことによる。

  「私たちは今すでに神の子どもです」

   ヨハネがこのように書くのは、自分が神の子であるという自覚が持てないキリスト者がいたからであろう。神の子にされることを憧れながら、今の自分がそうであるとは考えない。不穏な出来事や、まといつく試練に直面し、神の子になるという希望を失いつつあった人がいたのである。あるいは、世間の風当りの強さにより、神様との距離だけが離れているかのような受け止め方をしていた。

 ヨハネは、そうした迷いを見越したかのように、「今すでに神の子とされているのですよ」、と優しく語りかけている。ここに成し遂げられた神の業の上に、信仰の基礎を置くようにという強い勧告がある。そのことにおいては、キリスト者の信仰は全く受動的なのである。

 自己嫌悪から逃れられない罪の自覚があっても、その人を神の子として養子縁組をしてくださったのは神ご自身である。そうであればこそ、神の子としての備えをすることができる。このことにおいて、人からの批判も気にすることはない。罪人であった私を愛し、子として受け入れてくだくださった方を見上げるだけである。

2026年05月24日

   聖書があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまで、わたしの承認となります。 使徒1:8


 ペンテコステは、聖書が天から降臨したことを記念する日である。主イエスは、十字架につけられる前に、「もうひとりの助け主」について語られた。(ヨハネ14:16) 
 また、死から復活されてからは、弟子たちに御自身が生きていることを示されるとともに、聖霊を祈り待ち望むよう命じられた。そこで弟子たちは主の言葉を信じて熱心に祈っていた。
 ペンテコステの日、突然、天から大音響を伴う風が吹いてきて、信者の上に火のようなものがとどまった。そのとき人々は聖霊に満たされ、多国語で神のことばを語り出した。これが主イエスの約束による聖霊降臨の出来事である。

 キリスト者の歩みは、聖霊の導きと助けを受けることができる。聖霊は教会を通して証しされる

ので、聖霊が天から降ったことは教会時代の幕開けでもある。
 旧約聖書との関連では、ペンテコステとは第50という意味で、5旬節とも呼ばれる。この日は、モーセに率いられたイス
ラエルの民が、シナイ山で律法を授与された記念日とされていた。律法では「七週の祭」または「刈り入れの祭」としてある。
 この祭は大麦の収穫の終わりであると共に、小麦の刈り入れの始まりを告げていた。これが刷新

されたので、新約的な意味では諸国の霊的な刈り入れということができる。
  つまりペンテコステの出来事は、信者が聖霊によって律法を心に刻まれ、キリストの証人として

宣教の働きに召し出されることを意味している。
 すべてのキリスト者は、御霊の導きと助けによってキリストの証人となり、積極的に主をあかしする者とされた。また、キリスト者は、御言葉を伝えることによって、主を深く知ることができるようになる。このようにして、恵みに恵みが加えられている。
 この日、世界宣教のために祈ると共に、自分の身近なところで主をあかしする者でありたい。

2026年05月17日

 幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。  第一ヨハネ2:18

 

    時代をどのように見るかによって、考え方や価値観が違ってくる。ときには人生観までも根本から揺るがされることになるであろう。

 ヨハネが「今は終わりのとき」というのは、ヨハネが生きている時代に限ったことではない。ましてや、今日とか現代に飛躍して考えることとは違う。

 ここでは、主イエスによって新しく神の恵みに生かされる時代を指し示している。ここでは「キリストの現れ」(28)が、「反キリスト」が来ることと対をなして語られている。それが「今」という言葉によって、切迫感をもって語られている。

 「反キリスト」は、ヨハネの手紙における独自の表現である。主イエスは、終末のときに「偽キリストたち、偽予言者たちが起こる」と言われた。(マタイ24:24) 実際に反キリストが来ているので、今が「終わりのとき」であることが明らかにされている。

 反キリストは、もともとが神からのものではない。そのことで動揺するのでなく、神からのものにとどまる必要がある。

 19世紀末、ドイツの哲学者ニーチェは、「反キリスト」という本を書いて、西洋キリスト教文明を批判した。「反キリスト」は「神は死んだ」という。それが神なき時代の虚無を克服する超人として描かれている。

 しかしそこには、信仰者としての神からの恵みの視点が欠落している。今日の社会における反キリストも、同じような性質を帯びているところがある。

 そうした流れに巻き込まれないために、日々の信仰生活の中に、神からのものが何であるかを見出す者でありたい。

2026年05月10日

    世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。

                                                               Ⅰヨハネ2:17

 

   「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」(本居宣長 方丈記)

       川の流れのように、すべてのものが過ぎ去っていく。日本人は昔から、こうした無常という考え

    方に慣れ親しんできた。

  それに対し御言葉は「世と、世の欲は過ぎ去ります」と警告している。そこには、すべての物事

    の第一原因である創造者の視点がある。ヨハネが、世が過ぎ去るというのは、何かに生まれ変わ

    ると言った輪廻転生の考えではなく、世が一時的な仮のもので、本体が別のものであることを示

    している。

  過ぎ去っていくものと永遠に生きるもの、このどちらに価値をおいて歩んでいるかが、人生最

   大の問題になる。ただし、世のものは目で見えるけれども、永遠のものは信仰によらなければ知る

   ことができない。この場合の世には、「世の欲」も絡んでいる。具体的には「肉の欲、目の欲、暮

   らし向きの自慢」(2:16)である。

  もし世だけに関心を置くのであれば、信仰に生きる人は愚かに映るであろう。しかし、最終的に

 その真偽が明らかにされたとき、永遠と滅びに分けられる。永遠は神のいのちに生きることで、そ

 こでは神からの平安と喜びと感謝がある。反対に、神を知らない者には、地上のいのちが断たれた

 後、魂の行き場がない。

  日本的には、過ぎ去ることの中に美意識を持つという考えもある。けれども、その存在を支える

    根拠が欠けているのでなかろうか。

   神への信仰を持つとき、世が過ぎ去ることは解放でもある。人としての様々な縛りや苦しみ

  から解き放されるからである。そこに新たな希望が備えられるのである。

 2026年05月03日

  もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。 ヨハネ2:1

 

   キリスト者の生き方として、罪を犯さないようになるということがある。それは信仰を持つ前に、罪に対して無感覚であったり、無責任であったものとは大きく異なる。

 それでは、キリスト者は罪を全く犯すことはないかというと、そう言い切れない部分がある。「もしだれかが罪を犯したなら」と言われる部分である。サタンは、その罪を糾弾して神への信仰を崩そうとする。

 それに対して働くのが主イエスにある神の恵みである。「私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます」 (1)

 とりなしてくださる方は、「パラクレートス」という言葉が使われていて、弁護者と訳すことができる。法廷で罪を犯した者を弁護する人は、罪を割り引くことによって罰が軽減されることに努める。

 けれども、主イエス・キリストによるとりなしは、御父に対して罰の軽減を願うものではない。罪は罪とされるのであるが、その罪に対する罰が、既に主イエスの十字架によって裁かれていることによる。

 「義なるイエス・キリストがおられます」というのは、罪が正当に裁かれて、神の前に罪赦された者としてあるキリスト者の立場をいっている。

 このことは罪を犯しても平気だという、安易な考えを呼び起こすものではない。罪を犯したなら、直ぐに罪を告白して、主イエス・キリストによるとりなしの恵みに与るのである。とりなしてくださる方の存在は、私たちをいよいよ神の愛に近づける。

2026年04月26日

   私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。 Ⅰヨハネ1:3

 

  人との交わりが、孤独を癒すことがある。たった一言の助言であっても、タイムリーなときの適切な言葉であれば、それが次に進むための備えになるであろう。

 けれども、朱に交われば赤くなるの譬えのように、交わりが間違った方向に歩む起因になることもあるから注意が必要だ。

 キリスト教信仰にとって交わりは極めて本質的なことであるが、それは御父と御子を中心にするもので、世の交わりとは異なっている。信仰は自分の世界に閉じこもるものではなく、御父と御子を中心とした。、交わりの中に築かれるものだからである。

 信仰に入るときには、神の御前での自分が意識させられる。そこで問われる自己は、極めて個人的なことであり、神以外に誰の目にも触れられないことであろう。その中でキリストの十字架に対峙する。そして罪の赦しを信じ、キリストを主と告白する。

 その信仰によって新しくさせた人は、神のいのちの交わりに与る。「御父また御子イエス・キとの交わり」と言われるものである。ここで言われる交わりとは、ギリシャ語でコイノニアという言葉が用いられている。その意味するところは、「交わり」「共有」「分かかち合い」「共同体」などの意味を持つ。

 教会において交わりを持つことは、一人一人が御父と御子の交わりを持つ者とされていることによる。互いが兄弟姉妹であるという関係性の上に成り立つ。それはキリストのからだにおける各器官の働きと合致する。それぞれが賜物を与えられていて、それは他の器官のために働くのである。

 それ故、教会の交わりは社交などのような世の交わりとは異なる。信仰によって互いが結びつき、仕え合い、愛の内に建て上げられるものでなければならない。

2026年04月19日

   彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上にわたしを愛していますか」  ヨハネ21:15

 

   人との対面で、心の傷は最も触れられたくないものである。できれば何もなかったかのように通り過ぎてしまいたいかもしれない。

 ペテロにとって、復活の主イエスに出会ったことは、裏切りという罪を犯した自分に向き合うことであった。主イエスが「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」(13:38)と警告されたことはそのまま実現し、自己嫌悪に留まるだけではなく、罪人としての蔑みから逃れられないものになっていた。

 主イエスの復活は、ペテロにとって他の弟子たちと同じように大変な驚きであったが、そうであればこそ、自分のような罪人が親しく主イエスに近づくことはできないという気持ちになっていたのではあるまいか。

  けれども主イエスは、そうしたペテロを他の弟子たちと共に朝の食卓に招かれた。夜通し働いて何も捕れなかったのに、もう一度、網を入れて引き上げているので、空腹感も通常の倍であったろう。

 主イエスが備えられた食事を終えて、皆が落ち着きをとり戻した頃、主イエスはペテロに語りかけた。

 「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上にわたしを愛していますか」

 他の弟子たちと比較して「この人たち以上に」と言われるのは、ペテロの弟子としての優位性のことではなく、ペテロ自身が抱える罪の重さから来るものである。それが復活の主イエスによって赦されている。その主イエスが注がれる愛の応答としての愛である。

 どんなに医療が発達しても、心の傷は人の手によって癒すことはできない。その原因である罪をご自身で負われ、復活されたキリストが触れることで新しく作り変えられる。

2026年04月12日

  イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」

                                                   ヨハネ21:6  

 

   復活の主イエスは、日常の中でどのように見出され、意味付けられていくのか。クリスチャンであれば、誰でも直面する問題ではなかろうか。復活を教理的に受け止めても、それだけでは内的な変化をもたらさないからである。

   ヨハネは、死から復活された主イエスが、ガリラヤで弟子たちに会われた次第を記している。

このときの弟子たちには、「私は漁に行く」 (3)というペテロの言葉に追随して「私たちも一緒に行く」と応じている。そこには、主イエスの復活を積極的に証しして行こうとする姿勢がみられない。「漁に行く」というペテロの言葉の裏には、主の復活を知りながら十字架を前に裏切ってしまった心のわだかまりが潜んでいたのかもしれない。そうだとすれば、自らの罪悪感に打ちひしがれ、惰性で生きようとする姿であったろう。その弟子たちが、一晩中、湖で漁そして何も捕れなかったのは、主から離れた働きの虚しさを体現していると言える。

 けれども、復活の主イエスは、そのような弟子たちの只中に立ってくださった。「舟の右側に網を打ちなさい」という言葉は、かつてペテロが弟子に召されるときに、主イエスにかけられた言葉を思い出させる。「深みに漕ぎだして、網を下ろして魚をとりなさい。」(ルカ5:4)

  このとき、弟子たちの様子は主イエスの御手の中に掌握されていた。それに対し弟子たちの応答は復活の主イエスを認識したものではなく、明け切らない空の下でぼんやりしたものであった。その状態で主イエスの言葉に従った。弟子たちが、個人的に復活の主イエスとお会いしたのはこのときであった。わたしたちは、自分の罪の弱さを見つめながら主の御言葉に導かれる。復活の主はそこにご自身を現してくださる。 

2026年04月05日

「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私には分かりません。」

                                     ヨハネ20:13  

 

  今日、復活という言葉は、本来の意味を離れて多様に使われている。「敗者復活戦」など、一度失われたものが、再びとり戻したときなど、「復活した」という表現が用いられたりする。復活(よみがえり)にそうした意味がないわけではないが、復活は現実にはあり得ないことを前提にしていないだろうか。常識的に言えば、死は不可逆なものであり、一度死と判定された人が生き返ることはない。それゆえ、多くの人は、主イエスの復活をまともに信じることはできないと考えている。

 けれども、福音書は、主イエスの復活を史実として証ししている。死からよみがえられたことが歴史的な事実であって、主イエスが神の子であったことが公にされたことだからである。

 このために第一の証言者として立てられたのは、12弟子ではなく、マグダラのマリアであった。

 マリヤは、十字架で死なれた主イエスのことを悲しむため、他の女たちを誘って墓に来ていた。主イエスは、十字架に付けられる前に、自分はよみがえりであると言われていたが、誰しもそのことが死から復活することであるとは考えないでいた。このマリアにしてもそうである。

 だから墓が空になってるのを見たマリヤの驚きは尋常なものではなかった。それでもよく観察すると、墓の状況は主イエスが復活されたことを証言していた。入口を塞いでいた大きな石は転がされ、封印は解かれていた。墓の中に主の体はなく、衣は体を包んだ状態のままに置かれていたからである。マリアは、そうした光景に驚きながらも、そこに立っていた二人の御使いに尋ねている。

「だれかが私の主を取っていきました。どこに置いたのかわかりません」 

 福音書は、主イエスの復活について数多くの状況証拠を記している。けれども、それをもって復活を証明しているのではない。だからこれを基に論理的に復活を証明しようとしても、おのずと限界がある。墓の前でマグダラのマリアが経験した混乱を、解決することはできないであろう。

 神は全能の力をもって主イエスを死者からよみがえらせたが、それは信仰を通して各人に受け止められるのである。既に復活された主イエスは、「マリア」と呼ばれた。マグダラのマリアが、それに応答したとき、復活の主との新しい出会いが始まった。

 

2026年03月29日

 彼らはその場所でイエスを十字架につけた。また、イエスを真ん中にして、こちら側とあちら側に、ほかの二人の者を一緒に十字架につけた。    ヨハネ19:18

 

    人は自分の本当の姿を見ることに耐えることができるだろうか。褒められることとか、評判になっていることなら真っ先にみたいだろうが、そうではなく心の奥底に隠れていた罪が顔の前に出たたとき、正視できないまま絶望に陥ってしまうであろう。

 神の御子イエスを十字架につけるということは、全くにして異常な出来事であった。それも偶発的なことによったのではなく、誤解とか無知によったのでもない。そこには、ユダヤ人たちの心の奥に隠された、はっきりとした意思が働いていた。

 ピラトは主イエスに罪が認められないので、釈放しようと努力した。それにも関らず、主イエスは十字架につけられた。それも、このとき十字架につけられた罪人たちの真ん中にしてである。それは、他の二人の死刑囚よりも、主イエスの罪が重いとしたからであった。

 実際に主イエスを十字架につけたのはローマ兵たちである。ユダヤ人たちは、それを取り巻くようにしてみている。そこに何かの抗議があった抵抗がされたのではなかった。

 最初からそのことが決まっていたかのように、淡々と事が行われていった。ある人たちからすれば、奇妙かも知れない。主イエスが神であるなら、悪に対して強力な力をもって制圧すべきでないかと。けれども、主イエスは十字架の上では全くの無力である。

 大事なことは、そこに父なる神の御心があったことである。その御心故に主イエスは、罪の贖いを成し遂げられたのである。わたしたちは、信仰をもってそれを受け止める。そこにひとりひとりの救いがある。

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