聖書の小窓

 

2020年8月9日

   ところが、夜、主の使いが牢の戸を開け、彼らを連れ出し、「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを語りなさい」と言った。      使徒5:19,20

 

    信仰によって歩み出すとき、それを阻もうとする力も働く。信仰が強ければ強い程、それに対抗する力も巨大になることがある。

    使徒たちが宮の前で多くの力あ業をしていたとき、大祭司とその仲間であるサドカイ人は、使徒たちを捕らえて公の留置場に入れた。この人たちの動機は「妬みに燃えて」(17)とあり、聖霊に満たされていた使徒の姿と対比されている。それでも民衆の中に沸き起こった信仰は、使徒たちの留置により一旦は沈静化されたように見えた。サドカイ派は当時の権力階級であり、誰もその決定に逆らえない状況にあったからである。

   宮は人が神と公に会見する場所であり、祭司たちは神と人の間に立って礼拝のための奉仕をすることが主な務めであった。ところが、ここでは神の言葉を語る使徒たちの働きを遮断することに専念している。それは世俗化し、形骸化した当時の宗教の姿を浮き彫りにしている。

 けれども、そうした人間的な闇の中に主が介入がされるとき、いとも簡単に問題解決の道が開かれた。「主の使いが牢の戸を開け、彼らを連れ出し」(5:19)

 使徒たちは御使いたちによって救出され、宮の中に立って神の言葉を語る者とされた。彼ら

は直接、主イエスに遣わされた人たちである。

 「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを語りなさい」「このいのち」とはキリストのことであり、「いのちのことば」はキリストの言葉である。

 ギリシャ語では、5:24の「ことば」は、ロゴスが、5.20ではレーマが使われているが、両者の意味に違いはない。

 大事なことは、福音の中に神のいのちがあり、それがことばによって人に伝えられることである。「地が闇が覆っている」(イザ8:22) 世界に生きる私たちの務めは、いのちのことばの

宣教にある。そこに神のいのちの実質を見ていくことができる。

2020年8月2日

   彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった。地所や家を所有している者はみな、それを売り、その代金をもって来て、使徒たちのもとに置いた。   使徒4:33

 

   教会の看板は愛である。神は教会を通して神の愛をあらわそうとしておられる。それ故、愛のない教会は存続の危機にある。初代のエルサレム教会には、ガリラヤから主イエスにつき従ってきた人たち、過ぎ越しの祭と五旬節のため来た人たち、それに前からエルサレムに住んでいた人たちがいた。こうした人たちの中には、主イエスへの信仰のため、ユダヤ社会から締め出され、生活に困窮する人もいた。教会はそうした人たちを受け入れ、必要に応じて生活資金が分配された。その原資となったのは、一人ひとりが財を売って得た代金による献金である。

「心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを、自分のものと言わず、すべてを共有していた。」(32)

 それは強制や教えによって導かれたのではなく、皆が自主的に行動したのである。上からの指示によって動いたのでなく、御言葉に動かされ聖霊の示しに従った。

 全財産を売り払ったのは、初代の教会が主イエスの再臨をそれ程に近く考えていた証しでもある。主イエスの再臨は今も待ち望まれているが、私たちは自己管理すべき財産まで教会に委ねたりはしない。

 そうした違いはあっても、初代教会が心と思いを一つにしたことは今も学ぶべきことである。この熱心さの中で使徒たちの力強いあかしがされ、神の恵みが皆の上にあった。33節

ここに示されている恵みは、使徒たちを通して語られる御言葉によって神の愛を実質的に知ることである。そのことが互いの重荷を負い合い、労苦を共にし、互いを労わる交わりを形成した。聖霊がこれを導いておられた。

 今日、教会が向き合う課題があるとき、まず聖霊による信仰の一致を求めたい。そこに互いの愛の交わりが形成される。教会がこの愛に生きるとき、神がそこにおられるというリアリティーが生まれる。

  

2020年7月26日

   これを聞いた人々は心を一つにして、神に向かって声をあげた。「主よ。あなたは天と地と海、またそれらの中のすべてを造られた方です。」  使徒4:24

 

 祈りは神と向き合う現実である。それは個人の脳裏で処理され、昇華されてしまう観念では決してない。

   ペテロとヨハネは、ユダヤの最高議会に引き渡された後、これ以上、イエスの名によって語ってはならないと脅された。それで釈放された二人は「仲間のところに行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した。」二人の証しを聞いた人々は、「心を一つにして神に向かって声をあげた」

   この祈りの中で、詩2篇のダビデの歌が引用される。「なぜ…地の王たちは立ち構え」(25,26)  ここでは、祭司長や王という地上的な権威が、イエスの名という権威の前には愚かなものとされている。主イエスは天地の創造者である。

 「心を一つに」(ホモテュマドン)という言葉は、使徒の働きで12回使われていて、2017年訳では他の箇所で「一斉に」とか「揃って」、あるいは「一団となって」と訳されている。「心を一つに」と訳してあるのは4回で、いずれも祈りの箇所である。(1:4,2:46,4:24.5:12)

 意味は一つの情熱ということになる。一人ひとりの心は常に変わり易いものであるが、神の前に皆の心が揃うことができる。それが祈りである。

「神に向かって声をあげる」というのは、戦いなどで勝したときに喜ぶときの歓声の声であ

る。ペテロとヨハネが議会に引かれて行ってから、人々は二人のために祈り続けていた。その祈りが聞かれ二人が無事に帰って来た。そして主が守ってくださったことを証ししたので、その喜びに皆の心が一つとされた。

 人は、日常生活の中で一斉に行動したり、一団となるということもある。けれども真の意味で心を一つにすることができるのは、同じ信仰によって神に向かうときではなかろうか。

神はそうした所にご自身をあらわしてくださる。祈りの持つその力に、生ける神の現実をみていきたいと思う。

2020年7月19日

   彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。 使徒4:13

 

   驚きは認識を改めさせる。もし経験とか知識の及ばないことに遭遇すれば、何が起こっているかを知ろうとする。そこでの発見は古い概念を打ち砕き、新しい考えを受け入れるのを可能にするだろう。

   神殿の前で、生まれながら足の不自由な人が立ちどころに癒されたとき、人々が抱いた驚きもそのようであった。けれども、それに続く出来事として人々が驚いたのは、大祭司や長老たち律法学者たちを前にして、ペテロとヨハネが主イエスの名について怯むことなく堂々と証言したことによる。これは奇跡ではないけれど、それ以上にインパクトがあった。

   最高議会に引き出された状況で、普通であれば民の指導者たちの求めに逆らうことはできなかったろう。実際、ペテロとヨハネはガリラヤの漁師であり、「無学な普通の人」であった。律法学者に対抗できる学識を積んでいるわけではなく、弟子として主イエスに従っていたときも弱さと無知を曝け出している。主イエスが十字架につけられたときに至っては、ペテロは他の弟子たちと共に、現場から離れて身を潜めていた。そうした弟子としてのふがいなさは、指導者たちの耳にも届いていたに違いない。

 しかし、議会で証言する彼らの大胆さは、権威に屈すると思っていた祭司長たちの予想を覆すものだった。そこに聖霊に満たされて新しくされたペテロたちの姿がある。これを見た人々は復活のイエスが「共にいたのだ」ということがわかったとある。

 困難な時代の到来を預言された主イエスは、弟子たちに王たちの前であかしする機会を語っておられた。

「どう弁明するかは、あらかじめ考えないと心に決めておきなさい。あなたがたに反対するどんな人も、対抗したり反論したりできない言葉と知恵を、わたしが与えるからです」(ルカ21:14)ペテロとヨハネは、主イエスの言葉に生かされて共におられる主イエスをあかしした。

2020年7月12日

   この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。   使徒4:12

 

 多くの人は何かの救いを求めている。ただ、人によって求める内容は違っている。ある使徒は、ローマという政治的な力からの開放を救いと考えた。(使徒1:6)、あるいは3:3の男のように経済的な援助を想定したり、病気や困難からの回復こそが解決の道であることもある。どれも差し迫った問題であろうけれども、ペテロが「この方以外に救いはない」というのは、人間の最も根本的な問題からの救いを指している。それは悔い改めによって「あなたがたの罪はぬぐい去られます」(19)ということであった。

   生まれながら足の不自由な人が癒されたのは、主イエスの御名によって、罪の赦しという恵みが人々のみている前で実現したからである。ルカは癒しに伴った男の内的変化を描いている。この出来事が人々に与えた影響力が絶大であった。それは、繰り返されている人々の驚

きの描写と、そこで仲間に加わった5000人という数によっても知ることができる。けれども、そうした動きと対峙して反応をしたのがサドカイ派の人々であった。

 「祭司たち、宮の守衛長、サドカイ人たちが二人のところにやってきた」(4:1)

 サドカイ人というのは、王や祭司など権力を持つ貴族階級の人が属していて、世俗的な信仰を持っていた。ユダヤの裁判で、主イエスを死罪に定めたのも祭司長であった。(ルカ22:66)

サドカイ派からすれば、宮は自分らが専属して務めを果たす聖域である。その場所で、ペテロたちにより、主イエスについて自分たちの決定した事項が罪とされていた。当然不満があり二人をとり押さえた。しかし処罰する法的な理由も根拠も持たなかった。そこで場当たり的な対応となり二人を留置した。彼らが見えなかったのは、宮の中心である主イエスご自身であった。そうした中でユダヤの​最高議会が開かれ、ペテロとヨハネが引き出された。ペテロは証言して言った。

 「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」

 安逸な生活をむさぼり、宗教儀式に満足しているサドカイ人たちの闇は深い。けれども、ペテロの語る福音は、イエス・キリストの名によって彼らが悔い改め、回復することに向けられている。

2020年7月​5日

    このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を

強くしました。   使徒3:16

 

   キリスト教における救いは、全く神からのものであり、人の側の努力や敬虔さによるものではない。古来、多くの宗教では、人の功徳や良い業の積み上げで達成される救いを信じてきた。ユダヤ教においては、律法を守ることが神の祝福を受けるための条件であった。

 それに対しペテロは、「イエスの名」を信じることによる救いを強調し、救いに関する人の側の業を一切否定した。

  「私たちが自分の力や敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。」(3:12)

   人々は、足の不自由な人に為された奇跡に驚いた。毎日、美しの門に置かれていた足の不自由な人がたちどころに癒されたのだからである。このとき人々が、ペテロの言葉の中に神の業の原因を探そうとしても不思議はない。けれども、そこには施しを求めていたこの男の視点が欠如している。

 そのため、この男の側に奇跡が起こる要因をみつけることはできなかったし、そのようなことがあるはずもないと決めてかかっていた。宮の門で施しを求めることは、同情心で人の憐みを受けることはできるが、その罪深さにより神からの憐みを受けることはできないと考えていたからである。

 しかしペテロは「その名を信じる信仰」を語っている。この場合の信じる主体はペテロではなく、「生まれつき足が不自由な人」である。この男は「その名」を初めて聞いたのではないだろう。毎日、美しの門の前に置かれていたので、主イエスのうわさを数多く耳にしていたが、その知識は断片的であった。けれども「その名を信じること」で、自分との直接的な関わりで真にイエスを知る者に変えられた。からだの癒しはその結果である。

 人は神を人の考えや経験の中に押し留めようとする。しかし「イエスの名」による福音は、

人の業を破り神の業に直結する。その絶大な恵みこそ驚くべきことである。

2020年6月28日

   すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。私にあるものをあげよう。ナザレのイエスの名によって立ち上がり、歩きなさい。」 使徒2;6

 

  教会は敷居が高いと思われることがある。そうした心理的な壁が働いて、キリスト教信仰についてあまり知らないのに、教会の中に入っていいのだろうかと戸惑う人は多い。けれども、福音に触れるのは、そんな中でのことではなかろうか。

 ペテロに出会った足の不自由なた男は、「毎日、美しの門に運ばれてきた」(使徒3:2) 彼は生まれながらの障害のために宮の中に入ることはできなかった。それ故、宮の美しの門をくぐっている人たちと、この男の間には厳として拒絶の壁が存在していた。そのため彼自身、「宮に入る人たちから施しを求める」という生活をしていた。男にとってすれば、宮そのものの存在に、施しを受ける以上のことを期待することができなかったであろう。

 しかしそうした男の行為は、礼拝者たちに複雑な感情を呼び覚ましたに違いない。ある人たちは嫌悪し、露骨に蔑む者もいたであろう。男は、そうした冷たい視線に耐えながら、連日、美しの門に座っていた。それでも僅かに同情を寄せる人がいて、男はそこに望みを繋いでいた。そこには神への信仰の備えとなるようなものは見えない。けれども、ペテロによってその人の中に起こった神の業が伝えられている。

 「金銀は私にはない。私にあるものをあげよう。ナザレのイエスの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

 普通であれば、「ない」ことは関係性を拒絶する。けれども、福音は「金銀は…ない」ところに入ってくる神の業である。ナザレのイエスが、それを可能にする。十字架につけられ主イエスを、人々は蔑みを込めて「ナザレのイエス」と呼んだ。ペテロは「ない」ことの反対に「私にあるもの」を告げる。そのあるものとは、イエスの名による福音である。。この福音が男を新しく立たせる。それは無い者の中に働く神の恵みであった。

 私たちもまた、神の前には何も持たない者である。そうした中に注がれる神の愛と恵みに目を留めたい。そこに新しい神の業が始まる。

2020年6月21日

  彼らはいつも、使徒 たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。

                  使徒2:42

 

   初代教会の特色は、教え、交わり、聖餐、祈りであった。新しくキリスト者になった人たちは、使徒を通して信仰生活のイロハを学んだ。これには「教え」を意味するディダケーという言葉が用いられている。対象は救われた信徒であり、御言葉により霊的育成と信仰による実生活の指導がされた。

  他方、教会は、未信者に対して宣教の務めを担っていた。未信者に福音を告知し、救いに導くのである。これはケリュグマという言葉が用いられている。「宣教の言葉の愚かさを通して、信じる者を救う」(Ⅰコリント1:21)

 教会は、教えのディダケーと宣教のケリュグマのバランスが保たれる中で築かれる。教えだけに傾くと宣教の情熱は失われる。逆に宣教だけが強調されると、霊的な飢餓状態に陥ってしまう。

 「交わり」(コイノニア)とは、社交のことではなく、主にあって分け隔てなく互いを受け入れることである。神の家族の一員として神から与えられたものを互いに分かち合うことによって、天からの喜びと愛が与えられる。そこでは各自は他者のために存在する。

 当時は、信仰を理由に社会から隔絶され、経済的な基盤を失った人もいた。そこでそれぞれが与えられた富を分かち合って、困窮した信徒を助けた。

 「パンを裂く」ことは聖餐式のことである。初代教会では、キリストの十字架を覚えるため、集まる毎にパンを裂くことが行われていた。それにより、キリストの十字架による罪の赦しと、聖餐の上にあらわれるキリストへの愛を再確認した。

 「祈り」はこうした教会の活動の原動力である。様々な問題があっても、祈ることによって、生ける神が彼らと共におられることが明らかにされた。

 教会も組織である以上、時代に応じて絶えず柔軟な思考が求められる。そうでないと硬直化し、時代から取り残されてしまう。一方、周りの変化に合われるあまり、本質的で重要なことが見失われてしまう危険もある。初代教会の姿は、今日の教会のあり方においても本質は同じである。そこに示されていることを生かして教会建設をしたい。

2020年6月14日

  そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます
                             使徒2:38     

 

  人は他人の罪に対しては敏感であるが、自分の罪については気がつかない。もし聖霊が働かなければ、神の前での大きな罪も全くわからないままであろう。

 多くのユダヤ人たちは、聖霊を受けて語るペテロの説教に聴き入った。彼らの多くは敬虔な人たちで、天下のあらゆる国々から来て、エルサレムに住んでいた。(2:5) おそらく過ぎ越しの祭のため巡礼の旅をし、五旬節まで滞在する予定だったのである。

 それ故、主イエスが十字架につけられた同じ時に同じ場所にいた。「近頃、そこで起こったこと」(ルカ24:18)を、彼らが知らなかったことはあり得ない。けれども、そこに自分の罪が関わっているという意識はなかった。

 その彼らは、神殿を前にして語るペテロの説教に深く心を刺された。「このイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」(36)

 ペテロに厳しく指摘された罪とは御子を信じなかったことである。それがキリストを十字架に追いやったとして断罪された。しかしペテロは、使徒の立場から大上段に罪を糾弾するのではなく、自分も同じ罪人で神の憐みに生かされた者として語る。

 それ故「私たちはどうしたらよいでしょう」と恐れる人々に、悔い改めにより神との和解、聖霊の授与を奨めた。そこには敵意はなく、神の愛と赦しが示されている。

 「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(32)

 悔い改めは方向転換である。キリストの名によってバプテスマを受けることで、キリストのいのちの実質が生み出される。それは聖霊の助けにより、日々に成長する。これが賜物として与えられることは何と幸いなことか。

2020年6月7日

 終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、

青年は幻を見、老人は夢を見る。     使徒2:17

 

   五旬節のときに、使徒たちが宮の表に立って「他国のいろいろな言葉で」話している様は、参拝者からすれば非常な驚きであり、奇異な光景に映ったのであろう。「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」(2:13)と嘲る人たちもいた。

 しかしペテロは、「他の11人と共に立って」、これは聖霊が注がれたことによることであると反論した。聖霊が注がれることは「預言者ヨエルによって語られたこと」で、決して酒飲みではないと。

 聖霊降臨が預言の成就であることは、それが突発的な出来事ではなく、「神が定めた計画と神の予知」(23)による一連の出来事であることを意味している。

 ヨエルはBC837~800年頃の預言者である。その時代のある時、イスラエルはいなごの襲来により、収穫が近かった穀物が全面的に食い尽くされた。 (ヨエル書1:4) この未曾有の自然災害による人々の失望と落胆は深かった。そうした中で、ヨエルは人々に悔い改めにより、神との関係を築き直すことを迫った。その預言では、終末の出来事として神の霊が注がれることが語られている。「終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る」

 この約束は、神による回復の業として語られている。「しもべにも、はしため」にもとあるように、そこには男女の差別も社会的な格差も伴わない。霊が注がれるとき、今までにない生き方が備えられる。

 「老人は夢をみる」とあるのは、年をとると過去との結びつきに頼り、夢を語ることはいつしか失われてしまうからであろう。しかし聖霊が注がれるとき、そんな弱さを抱える者であっても、神の前に確かな希望をもって前に歩み出す者へと変えられる。

2020年5月31日

   すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。    使徒2:2

 

   教会は、五旬節(ペンテコステ)の出来事によって新しくスタートした。五旬節は第50を意味する言葉で、イスラエルの民が、シナイ山で律法を授与された記念日であった。また、その律法においては「七週の祭」または「刈り入れの祭」とされていた。

    この日、主イエスの弟子たちは、「皆が同じ場所に集まっていた。約束の聖霊を待っていたのである。主イエスは十字架につけられる前に、「もうひとりの助け主」について言われた。(ヨハネ14:16) 更に死から復活されてからは聖霊を待ち望むよう命じられた。(使徒1:4.8)  そこで弟子たちは主の言葉を信じて熱心に祈っていた。(1:14.2:1)

 この聖霊が天から降ったのは「突然」であるが、預言者と主イエスによって約束されたことの約束の成就でもある。そのとき「激しい風が吹いてきたような響きが起こった」。ヘブル語の風という言葉は息と同じ言葉であり、聖霊によって神の命が吹き込まれたことがあかしされている。

 旧約での五旬節は、律法授与記念であり、小麦の刈り入れの祭であったが、新約のペンテコステは、信者が聖霊によって律法を心に刻まれ、キリストの証人として宣教の働きに召し出されることを意味している。
 キリストという初穂に生かされたキリスト者は、御霊の導きと助けによってキリストの証人となり、積極的に主をあかしする者とされた。また、キリスト者は、御言葉を伝えることによって、主を深く知ることができるようになる。このようにして、恵みに恵みが加えられている。
 日本同盟基督教団では、この日を世界宣教デーとしている。世界宣教のために祈ると共に、自分の身近なところで主をあかしする者でありたい。

 

2020年5月24日

   あなたご自身が、あなたの御座が据えられた場所でこれを聞き、その異国人があなたに向かって願うことすべて、かなえてください。        Ⅰ列王記8:43

 

    ソロモンが建てた神殿は、完成まで7年を要した。資材を得るためフェニキア人の協力を得るなど、周辺の多くの異国人を含め数十万人の労務者が投入された。そこでは最高級の建材が用いられ、調度品も豪華に作られた。その奉献のときには「主の栄光が満ちた」(8:11)とある。

けれどもソロモンは、この神殿には「天も、天の下の天も、あなたをお入れすることはできません」と、神殿そのものが神の栄光を等しくするものでないことを告白している。(8:22) 

   それでは神殿は何のために建てられたのか。その役割は何であるか。その解答はソロモンの祈りの中に見出される。「あなたご自身が、あなたの御座が据えられた場所でこれを聞き、その異国人があなたに向かって願うことすべて、かなえてください。」

   この場合、異国人は神殿の外で祈っているのだが、それを聞かれる神は神殿の中で聞くのではない。祈りを聞かれる「あなたの御座が据えられた場所」とは、地上のことではなく主が臨在される天である。そして主が天におられるからこそ、「あなた向かって願うことすべて、かなえてください」と祈ることができるとの理解が示されている。

    神殿は神との会見の場であると共に、民のために備えられた祈り家であった。困難や苦しみが派生するのは、個人の場合もあるし、国のレベルになることもある。どんな状況であれ宮で祈るとき、主はそこに道を備えてくださる。

   神殿が祈りの家であることは、主イエスの宮清めの出来事からも知ることができる。主イエ

スは、「両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒しされた。…そして人々に教えて言われた。『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」」(マルコ11:15~17)

  教会もまた神の家である。その教会が祈りの家であることを大切にしたい。

2020年5月17日

    この宮、すなわち「わたしの名をそこに置く」とあなたがたに言われたこの場所に、夜も昼も御目を開き、あなたのしもべがこの場所に向かってささげる祈りを聞いてください。

                   1列王8:29

 

  主の宮は、公の礼拝と祈りの場所として、ソロモン王によって建設された。イスラエルの歴史において、礼拝と祈りの場所として長く幕屋が用いられてきた。そこにおいて捧げられる祈りは、民の中に神の臨在をあかしするものであった。

「私たちの神、主は私たちが呼び求めるとき、いつも近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民がどこにあるだろうか」申命4:7

 ダビデは自分が杉材の家に住みながら、主の宮が幕屋であることに心の痛みを感じていた。そこで主の幕屋に替えて宮を建てることを決意した。けれども主は、そのことを子孫に託するように命じられた。

「わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、あなたの王国を確立させる…彼はわたしのために一つの家を建て、わたしは彼の王国をとこしえまでも堅く建てる。」

Ⅱサムエル7:12,13

 ソロモンが建てた宮は、最高の材料と高度な建築技術が用いられた。けれども、所詮それは全能の神の栄光わすものではない。

「実に天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。」8:27

 ソロモンが奉献の祈りで繰り返しているのは、約束という言葉である。宮が建設されたのは、主がダビデに約束されたことである。それはダビデへの約束の実現であるが、より重要なのは「王国をとこしえまでも堅く建てる」とある約束である。

 この宮は、イスラエルのその後の信仰により栄枯盛衰するが、新約においてはキリストによって信者の中に建てられる。ここに「王国をとこしえに堅く建てる」という約束が成就する。

使徒パウロは「あなたがたは自分が神の宮であり」(Ⅰコリント3:16)と語る。ここに、宮の内で祈ることの重要さがある。

2020年5 月10日

  お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。 ルツ1:16

 

   困難に追い詰められた中では、思わぬ一つの決断が、その後の人生に決定的な意味と方向を与えていくことがある。そこでは、個人の人生観、価値観が根本的に問われる。

   ルツ記は、度重なる不幸に見舞われながら、運命に負けず信仰に導かれて歩み出した女性たちの姿を描いている。

 ナオミは、故郷であるユダのベツレヘムに帰ろうとしていた。かつては飢饉で生活に困ったため、一家で異教の地であるモアブに移住したのである。けれども、そこで夫と二人の息子を失ってしまった。残されたのは、亡き息子たちの二人の嫁オルパとルツであった。

息子たちが健常であったとき、この嫁たちはナオミ一家を助け、喜びとなっていたに違いない。けれども、今は、ナオミにとって二人の存在が悲しみと重荷に変質していた。故郷にかえったとしても、ユダヤ社会に異邦人の嫁たちが受け入れられるはずはなく、嘲笑と差別を生むことがわかっていたからである。

  オルパとルツは、「私たちは、あなたの民のところへ一緒に戻ります」(1:10)と言っている。

そのことだけをみるなら、姑のことを気遣う優しい女性であったことを伺い知ることができる。けれども、この両者の歩みを分けたのは、ルツの信仰による神に対する確信であった。

 「お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(1:16)

 もしナオミが日常の中で、不平と不満だけを吐き出していたなら、「あなたの神」はルツに尊ばれることはなかったであろう。困難、理不尽、死別、ナオミは、そうした中にありながら神との関係を堅持していた。ルツはそれをみていたから、「あなたの神」を知り、そこに身を寄せた。

 ルツ記は、ルツがダビデ王の家系となったことを告げている。同じ時代に活躍した師士たちに比べると、小さな出来事である。けれども、この家系からダビデがうまれる。救済の歴史の中での影響は測り知れない。

 

020年5月3日

   あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまで、都にとどまっていなさい。

                                                                                                                     ルカ24:49

 

  主イエスは、復活に対して半信半疑の弟子たちに「わたしの手やわたしの足を見なさい」(39)とご自身の体を示された。そこには、主イエスであることを否定できない、生々しい十字架の傷跡が残 っていた。

 更に主は御言葉によって、ご自身について書いてあることを悟らせた。(46.47)これにより弟子たちが抱えていた不安は、次第に確信と喜びへと変わっていった。けれども主イエスは、そのことを土台として弟子たちを派遣するのではない。

 「わたしの父が約束されたもの」によって「高き所から力を着せられるまで、都にとどまっていなさい」と命じられた。

 「父が約束されたもの」とは、聖霊のことである。主イエスの生涯は、誕生のときから死に至るまでずっと聖霊に支えられてきた。それは父なる神の愛をあかしするもので、主イエスは信じる者に与えられると約束しておられた。

「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」(11:14)

 崩壊しそうであった弟子集団は、復活の主イエスによって再構築されようとしていた。その中核である福音は、人の悟りとか認識によって基礎づけられるものではない。「高き所から力を着せられ」なければならない。なぜなら神の国は人の思いや考えによるものでなく、共におられる復活の主イエスと聖霊により、神の愛を体現するものであるからである。

 この聖霊を受けるためには、信仰を必要としている。「都で待つ」というのも、主イエスの言葉に対する信仰による応答である。ルカは、次の書物である使徒の働きの冒頭部分で、弟子たちが如何に熱心に待ち望んでいたかを記している。(使徒1:14)

 キリスト者は、キリストの復活の証人として召されている。それは聖霊によってあかしされなければならない。これを欠いたまま行動するより、まずは聖霊に満たされることこそが優先される。

2020年4月26日

   これらのことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたの中にあるように」と言われた。 ルカ24:36 

 

  人は困難や限界に直面する中で、不安と怖れに支配されてしまうことがある。そこから一歩も前に進むことができないということも起きよう。復活の主を知った二人の弟子は、急いでエルサレムに戻った。そこには十一人の弟子と仲間たちが、人々を恐れて家の中で身を潜めていた。

 「すると、十一人とその仲間が集まって、『本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された』と話していた」24:33.34

   十字架以後、弟子たちの頭の中で主イエスの存在は過去のものになった。その言葉と現実には深い断絶があった。それ故、女たちやペテロが主の復活を告げた後も、主イエスが生前に言われた言葉が成就したなどと考えない。復活のニュースは届いていたが、信じることができないでいた。

 主イエスは、突然、そのような弟子たちの中に入って来られた。

 「これらのことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『平安があなたがたの中にあるように』と言われた」

    ここでは女たちの場合とは違い、主イエスの側から弟子たちに直接的な語りかけがあった。そのことは、御使いが女たちに伝えた出来事を弱めるものではない。主は、弟子たちが御言葉の確かさに立って、混乱から抜け出ることができるよう働かれたとみるべきであろう。

  主イエスは「平安があなたがたにあるように」と言われた。主から平安を受けることこそが、復活のリアリティーとなる。主イエスは、彼らの真ん中に立つことで、それが疑いようのない事実であることを示された。こうして主イエスを中心とした弟子たちの交わりが再構築される。

   コロナウィルスの感染拡大で、人々は家の中に閉じ込められてしまった。そのため行動は制限され、経済は疲弊し、人と人との繋がりが絶たれている。このままでは先の希望が見えにくい。そんな時代であるからこそ、神の子である主イエスの復活を再認識したい。真の平安はここにしかないのであるから。

2020年4月19日

   イエス御自身が近づいて来て、彼らと共に歩き始められた。     ルカ23:15

 

   新型コロナウィルスの感染を防ぐため、専門家からは不急不要の移動を避け、人との距離を保つことが強く奨められている。疫学的には理にかなったことで、行政が危機感をもって対応するのは当然のことである。

   けれども、この影響により至る所で生活が打撃を受け、経済は縮小し、教会の交わりまでもが疎遠にされている。コロナウィルスが罪の広がりと似ているのは、目に見えない神に敵対する力が働いているからではなかろうか。

 イースターの出来事があったとき、弟子の集団は既に崩壊していた。そこでは主イエスについて来た人々の関係性は不信の剣に寸断され、抱いていた理想は十字架と共に葬り去られてしまっていた。

  エマオに向かう弟子たちが「話し合ったり、論じ合ったりした」のは、主イエスの十字架に関することであり、「暗い顔」(17)をしたのも、混乱と失望が心を占めていたからに違いない。このとき既に婦人たちから主イエスが復活されたニュースを聞いてはいたが、その話をたわごととしか受け止めず、信じることができないでいた。

 しかしそんな彼らのところに「イエスご自身が近づいて来て、彼らと共に歩き始められた」

最初、弟子たちはそれが誰であるかわからないでいた。このときの弟子たちの姿は、彼らの不信仰を晒しているとも言えよう。ルカがそれをあえて記すのは、そこに注がれる恵みの大きさを知るからである。

  主イエスはどん底にいた弟子たちと「共に歩き始められた」。その弟子たちの弱さと無知を受け入れておられるからであった。それは彼らだけのことでなく、今に生きる私たちにとっても大きな慰めである。弟子たちは、主と共に歩みを続ける中で御言葉を聞き、それが復活の主イエスであることに気がつく。

   復活の確信が共有されるためには、主イエス側の「共に」という働きかけがある。それは地理的にも時間的にも制約を受けることはない。教会は信仰により「共に」を経験することができる。そうしてこの時代の試練を乗り越えていきたい。

2020年4月12日

  人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。                ルカ24:7

 

イースターの出来事は、主の言葉を思い出すことの中に確認される。現実を前に意識の底に仕舞い込んでしまった神の言葉を、聖霊による天からの光の中に新しく聞くのである。女たちがガリラヤで主イエスから聞いた言葉は、主の十字架の姿に隠れて霧散してしまっていた。それまで求めていた希望さえ、主イエスのなきがらと共に葬り去られてしまった。

   それでも女たちは、週の初めの日に墓に来た。弟子たちと比べれば、恐れを振り払う勇気ある行動ということができよう。「準備しておいた香料」(1)は、安息日が始まる前に用意したもので、女たちの強い意思と決意が滲み出ている。けれども女たちは、決して主イエスの言葉に従ったのではない。悲しみに打ちひしがれ、埋葬のときを過ごす以外に、慰めを得る術がなかったのである

  しかし、それとは別の方向から事態が展開していく。女たちが全く予想していなかったことが起きた。「見ると石がころがしてあり…主イエスのからだは見当たらなかった。」(2,3)  主のからだがないのであれば、せっかく準備した香料は役に立たない。そんなことより、いったい何が起きたのか、女たちは検討がつかず「途方に暮れていた」(4)

  その女たちに、御使いがあらわれて、主が復活されたことを伝えた。「ここにはおられません。よみがえられたのです。」(6)

  驚き戸惑う女たちに、御使いは、この出来事を確信するため主イエスが語っておられたことを思い出すように導かれた。

「人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われ

たでしょう。」(24:7)

  十字架の前での人々がそうであったように、現実はしばしば神の言葉を封じてしまう。けれども、キリスト者は、それを超えて神の言葉を聞くよう求められている。聖霊に導かれ、そこに信仰をもって歩むとき、復活のいのちを知るのである。

2020年4月5日

  そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのかが分かっていないのです。」 ルカ23:34

 

   人は、誰かの罪を指摘したり裁いたりすることをする。それに対し、たとえ小さな罪であったとしても、罪を赦すことは如何に難しいことであるかと思う。

  けれども主イエスが父なる神に罪の赦しを願ったのは、「そのとき」であった。それは普通の人であれば、怒りが爆発し、呪いの言葉を連発するような状況ではなかろうか。

 赦しを祈られたのは、肉体的な苦痛が極限にまで至っていたときのことである。その前には肉が飛び散るまで鞭打たれ、刑場までの長い道を、よろけながらも十字架を負わされていた。その体が釘で十字架に打ち付けられてからは、肩と腕と肺に強烈な痛みが走っていたに違いない。この刑に処せられた人は、しばしば筋肉に痙攣を起こし、強烈な痛みのため失神状態になり、最後には窒息死するという。人が考え出した最も苦痛の伴う刑であり、そこには呪いの恐ろしさがあった。

 一方、ローマ兵と、それを遠巻きに見物している民衆は、十字架上の主イエスの姿を面白がったり嘲るばかりであった。罪のない神の御子を十字架につけたことでは、彼らはピラトと同罪であった。それ故、彼らに赦しを得られる要素は全くなかった。

 けれども主イエスは、この十字架の上から「父よ、彼らをお赦しください」と父なる神の前に祈られた。それは御子による神の愛が完全にあらわれたときであった。

 「彼らは、何をしているのかが分かっていないのです」とあるように、罪の邪悪さによって裁いてはいない。その邪悪な罪を御自身で負い、神の赦しによって再生される人間像を求めてのとりなしである。ここに人に対する神の愛が完全にあらわれている。

2020年3月29日 

    ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついに

 その声が勝った。  ルカ23:21

   

   教会暦において受難節(レント)は、主イエスが辿られた十字架への道を偲び、悔い改めを

する期間とされてきた。

 今年は新型コロナウィルスの世界的な広がりが、受難節をいつもとは違うものにしている。感染者数の驚異的な増大を前にオリンピックは延期され、社会活動は制限され、経済は後退している。そこには紛れもなく死の影が忍び寄っている。しかし主イエスが歩まれた苦難は、死に勝利したキリストを指し示す。

 主イエスはユダヤの最高議会で死刑に定められた。それに続く総督ピラトによる裁判では、主イエスを断罪する訴えの内容がユダヤでの裁判と全く違ったものとなっていた。そこに死刑に固執した人たちの訴えの矛盾が露呈している。

 「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分はキリストだと

言っています。」(23:2)

 ピラトは人々の声を聞いて訴えを調べたときに、それがユダヤ人の妬みから発した冤罪であることを見抜いた。

 「この人は死罪にあたることは何一つしていません」(15)

この時点においては、ユダヤ人よりもピラトの方が正しい判断をしている。けれどもピラトはここで大きな罪を犯してしまう。その罪とは、主イエスに罪がないのを知りながら無罪を宣言して釈放しなかったことである。それはピラトが正義よりも自己保身に走ったからであった。

 けれども、福音書はそのピラトの行動を押した群衆の責任をより重く描いている。彼らは主イエスを十字架につけるよう叫び続け、その声に押されてピラトが決断したのだと。

「彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。」(21)

 キリストを十字架に追いやった群衆がいた。けれども主イエスは彼らのためにも十字架につけられた。そこに神の愛が注がれている。それを信仰をもって受け止めるとき、悔い改めがおきる。神の救いはここから発し、死と絶望の中にいのちの輝きをあかしする。

2020年3月22日

 

   わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。しかし今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます。             ルカ22:68.69

 

   人は、自分が罪人であると認めることに疎い。あるいはそうした意識を否定し、神に反発することで、ますます罪を深くしていると言った方がいいであろう。そこでは常に自分が王であり、同時に正義の実行者であり続ける。

 ユダヤ人たちは、主イエスに対する妬みの故に、宗教裁判にかけて有罪にしようと企んでいた。そこで求められたのは、主イエスを極刑とするための証拠であった。主イエスは、民の長老や律法学者たちが集められた議会に立たされ、祭司長から尋問された。

  「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい」(67)

 今日の裁判でも行われる人定質問である。そこには巧妙な罠がしかけてあった。主イエスの行いをもっては極刑に処することができないので、言質によって律法違反の証拠をつかもうとするものである。

    祭司長や律法学者たちの考えでは、目の前の主イエスがキリストであるはずはなかった。そのイエスを陥れるには、キリストという言葉は都合がよかった。それをもってローマ政府に反逆して暴動を起こそうとしている者と断罪するとができた。この頑なさのため、主イエスの言葉は「わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えない」となる。主イエスは、そのような祭司長の心の闇を明らかにされる。それでもそこには、なおも救いの手がのべられている。キリストの救いは人の側から起きるのではない。主イエスは、これから起きることを彼らに示された。「しかし今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます。」

 ここには罪を全く悟ることができない祭司長と神の大の能の右につくキリストが対比されている。神の子を前にして心を頑なにする祭司長の姿は、私たちの心に巣くう罪の実相であることを覚えたい。そうした者をとりこみながら、主イエスの十字架の道がある。

2020年3月15日

  主人が婚礼から帰ってきて戸をたたいたら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている人のようでありなさい。 ルカ12:36

 

    不確実の世界にあって、人は先のことを予測するには限界がある。誰が十年後の自分を正確に言い当てることができるだろう。私たちは、明日のことさえもわからない。それでは先のことは何も考えず、行き当たりばったりでいいのだろうか。主の前にあってはそうではない。なぜなら私たちの日常の業は、主の召しと信頼によって意味付けられるものだからである。

   主イエスは、婚礼の席に出かけた主人と、その留守を守るしもべの譬えを話された。この譬の主人は、再臨の主の姿をあらわしている。しもべは、神の国に招かれている者たちということができる。

「主人が婚礼から帰って戸をたたいたら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている人のようでありなさい。」

 しもべに主人の帰りの時間がわからない。そこで状況をどのように受け止めるかで留守の期間の働きが大きく違ってくる。

 「主人が返ったらすぐに戸を開けよう帰りを待っている」のは、主人の召しに対する信頼とと積極的な応答があるからである。ここには、再臨に備えるキリスト者の姿が描かれている。教会は、主がいつお出でになってもいいように、目を覚ましていなければならない。

 しかし主人の帰りが遅いことに、待つことをやめてしまうことがある。ルカの福音書が書かれた時代であっても、主の再臨のときを待ちあぐねた人たちがいた。そのため、主のときを待つ備えができなかったのである。

 待つことは忍耐を要するが、そこに約束される幸いはどんなに大きいことか。(37)

2020年3月8日

   何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは、それに加えて与えられます。  ルカ12:31

 

    3.11の東日本大震災から9年の歳月が過ぎた。あの日、すべてが失われたようであったが、私たちの周りは再び物が満ちている。物質中心の世界にあっては、人々は更なる富を求める。結果として、何が本当に必要なものであるかがわからなくなってしまう。復興は、あの日の気付きを記憶しているであろうか。

 ルカは、主イエスのたとえに続いて、生活のことで心配することのないよう話された。ここでの心配は「何を食べようか」「何を着ようか」である。その根底には貧しさと足りなさに晒されている日常があった。それは富とは相反することである。けれども、人が求めるべきものを見失っていることでは、前段で語られた金持ちと共通している。

 金持ちは、豊作によって得たものを蓄えて更に富もうとした。そこに欠けていたのは、自分のたましいを物と結びつけ、神との関係を無視するか過少にしか考えなかったことである。

 人が心配するのは、何かが足りなくなるのを恐れるからであろう。半面、心配は不可欠だという反論も成り立つ。主イエスは、そのための働きを否定してはいない。心配するなというのは、恐れが先行して食べるとか着るということが第一になってしまうからである。たましいと神との関係が第二、第三のことになってしまうとき、そこに神の恵みと御支配があることを思わない。

 「いのちは食べものよりも大切」(23)と言われることは、いのちの源が主なる神にあって、全能の神がいのちを支えていることを示している。種蒔きをしない烏が養われているのも、野のユリがソロモンより麗しく装われているのも、そこにいのちを養い育てる神の御手が働いているからである。

2020年3月1日

「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえからとりさられる」  ルカ12:20 

    

   人が最も警戒しなければならないことに、自らのうちにある欲がある。それはしばしば自己弁護をしたり、義の装いをしてより高位の権威を自分の側につけようとする。

  主イエスは「遺産を分けるよう、兄弟に言ってください」と願った人に、「どんな貪欲にも

気をつけなさい」(15)と言われた。親が死んで、兄弟の中で遺産を分けることは正当なことで

ある。おそらくこの人は、兄弟の中で遺産を巡ってトラブルになっていたのであろう。その裁

きに主イエスの力を借りようとした。

 しかし主イエスは「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したの

ですか」と言われた。ここに罪の本質を見失って、貪欲を満たそうとしている人の姿がある。

  主イエスの働きは、そうした人たちの義を手助けするのではなく、その罪を明らかにし、その

支配から救うことにある。

 「貪欲」が問題なのは、それが「人のいのち」を滅びへと押し流してしまうからである。主イエスのたとえで語られる金持ちは、豊作になったとき、自分のためにだけそれを用いようとした。蔵を新しくして、そこにすべてをしまい「これから先何年も…さあ休め、食べて、飲んで、楽しめ」(19)と言う。

 この人の場合、安息と平安そして将来の希望の根拠は、全て自らの内に蓄えられた財産にな

っていた。しかし、主イエスはこの人の人生観に決定的な間違いがあることを言われた。「愚

か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。お前の用意したものは、いったい

誰のものになるのか」

 財産と神のいのちは結び付くものではない。それを自分だけのため用いるか、神のためもちいるかが問われる。欲の支配から離れて、神の前にたましいが生かされる道を求めていきたい。

2020年2月23日

  しかし、イエスは言われた。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。         ルカ11:28 

 

    特別な才能をもった人が社会で活躍していると、その親の教育方法がマスコミに取り上げら

れたりする。それに触発され、人々の関心は、才能が開花した秘訣に向けられる。

   主イエスが、群衆の中で話をしておられると、ひとりの女が声を張り上げて言った。

 「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです」(11:27)

  ここでの「幸い」は、神の祝福を意味する言葉であり、主イエスの母マリヤに対する最高度

の賛美であった。主イエスは、その言葉に「いや」と言われた。それは母マリヤに対する称賛

を否定するものではない。「いや」は、「むしろ」(2017年新改訳・新共同訳)の意味で、マリアに向けられた幸いを「神のことばを聞いてそれを守る人たち」に向けるためであった。

 このとき女は「声を張り上げ」たのであるから、その行動は群衆の中にあって目立ったであろう。その声に賛同する人たちも、少なからずいたに違いない。けれどもそこには、福音が語る神の国という視点が悟られていない。人間的な評価だけが先行し、信仰によって真摯に神と

向き合おうとしない。

 主イエスは「神のことばを聞いてそれを守る人たち」に目を向けさせる。この女に限らず多くの人たちは、み言葉から離れた所に立って神の業をみようとしていた。「天からのしるし」を、神の子を信じるための条件のように迫っていた。

 けれども主イエスは、私たちのそば近くにある神の国の福音を語る。その祝福は選ばれ

た特別な人にあるのでなく、「み言葉を聞き、それを守る人」の中に見出されるのだと。人間的な評価の中に福音の恵みを見失ってはならない。

2020年2月16日

    しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国があなたがたに来ているのです。     ルカ11:20

 

    新約時代、多くのユダヤ人たちは神の国の到来を待ち望んでいた。そのときが来たら、王なる神がイスラエルを支配し、ローマによる搾取という現実から開放されると信じていた。

 そう言う人達に対し主イエスは、「わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国があなたがたに来ているのです」と言われた。モーセによってエジプト全土にぶよが大発生したとき、呪法師たちがいった言葉である。「これは神の指です」(出エジプト8:19)神の指とは、イスラエルいがエジプト脱出のときにあかしされた神の力のことである。

 主イエスが悪霊につかれた人から悪霊を追い出しておられたとき、群衆の中に「ベルゼブルによって悪霊を追い出しているのだ」と言う者がいた。そこにはっきりと神のあかしがあるのに、主イエスの意図を捻じ曲げ、真反対の解釈をしがいたのである。

 この人たちは、長らく神の国を待ち望んでいるのであるが、主イエスによる神の国を受け入れることも信じることもしない。その最大の理由は、啓示された言葉によって神の国を知ろうとせず、知識と自分たちの願望を基礎としていたことによる。神の国は、ダビデやソロモンの時代におけるイスラエルの繁栄をイメージとしていた。

 そこに欠けていたのは、イスラエルの歴史が神の恵みによるもので、全ての民の祝福のために備えられているという視点でであった。

 「神の国があなたがたに来ている」とは、日常の現実世界の中に、既に神が働いていることを教えている。私たちはそこに、決してサタンに負けない勝利を信じていく。

2020年2月9日

  

      こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために熱心に祈り続けていた。

                                                       使徒12:5

 

    福音は、爆発的にローマ社会に広まっていた。迫害によって、フェニキア、キプロス、アンテオケに散らされた人々が、御言葉を語り続けたことによる。(使徒6:19)

  その人たちは。それまでユダヤ人以外に語ることはなかったが、アンテオケに来てからはユダヤ人以外の異邦人にも福音をあかしした。そこで多くの異邦人が主に立ち返り、人々から初めてキリスト者と呼ばれるようになった。

 そうした動きを政治的な力で封鎖しようとしたのが、ヘロデ大王の孫にあたるヘロデ・アグリッパ1世(BC10~AD44)であった。彼は、ヨハネの兄弟ヤコブを殺害(12:2)し、それがユダヤ人に喜ばれるのをみるや、ペテロを捕らえ牢に閉じ込めた。ここでペテロまでも殺されてしまったら、福音のあかしは一機に減退してしまったであろう。

 ペテロは二本の鎖につながれ、二人の兵士の間に置かれた。更に、それを四人1組の兵士4組が監視していた。(4,6)それは神の国の働きに対し、世の力が真っ向から牙を剥いたときである。この状況の中で「教会は彼のために熱心に祈り続けていた」(12:15) 世の力が猛威を振るう中で、人間的な力によって対抗しようとすればれに、瞬く間に封じ込められてしまう。しかし御言葉は、そうしたときに祈り続けていくことが如何に重要なことであるかを伝えている。

 人々が祈り続ける中に、御遣いによるペテロの解放の業が展開していく。その驚くべき出来事に、教会の人たちまでが初めは信じられないでいた。けれどもペテロの監禁は事実であり、牢から解放された証言者が多数いる。扉をたたき続けたペテロの姿は、天の門が開かれるため求め続けるキリスト者の祈りでもある。必ず開かれる確信によって祈り続けたい

2020年2月2日

   あなたの父が持っているバアルの祭壇を取り壊し、そのそばのアシュラ像を切り倒せ。そのとりでの頂上に、あなたの神、主のために石を積んで祭壇を築け。 士師6:25~26

 

    信仰の教父たちは、人生の転換点において祭壇を築いてきた。イサク、ヤコブにとっても祭壇は自分の弱さを自覚し、信仰によって神の力に生かされるターニングポイントであった。

「アブラハムは自分にあらわれてくださった主のために、そこに祭壇を築いた」(創世

記12:7,8 13:4,18 22:9  26:25 33:20 35:1)

   ギデオンは御遣いをみたとき、主のため祭壇を築いて「アドナイ・シャロム」と名付け

た。(6:24) それは主は平安の意味する言葉である。けれどもそれは十分ではなかった。

ミデヤン人と戦おうとするとき、信仰におい更に主の取り扱いを受けなければならなかった。父の支配にある家庭環境は、カナンの偶像礼拝の影響が強かったからである。

「あなたの父が持っているバアルの祭壇を取り壊し、そのそばのアシュラ像を切り倒せ」

 バアルは肥沃神であり、アシュラは女神である。それは戦いと関係していたのかも知れない。主はギデオンに身近にあるバアル礼拝を断ち切り、主との関係に生活を築き直すように求められた。

 「そのとりでの頂上に、あなたの神、主のために石を積んで祭壇を築け」

 ここに求められる祭壇は、モーセが出エジで定めたものではない。幕屋の聖所に置かれ

た祭壇は、アカシア材で作られ、青銅で覆われていた。(出エジプト27:1~8)けれども、

ギデオンが築くように言われたのは、石を積んで作るものであった。それはイスラエルの教父たちが辿り、築き上げてきた祭壇を思わせる。主の戦いにおいて、一番に求められたのは、あいまいさを排除して、神への信仰によって新しくされることだったが。この確信が怖れを克服させていく。

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