2021年01月17日

 なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。  ヨハネ6:27

 

   人は何のために生きているのか。また、何のために働いているのか。それは根本的な問いであるが、多くの場合明確にされているわけではない。そのあいまいさは、人の生きる意味と方向性を見失わせている。

 主イエスは「なくなってしまう食べ物のためでなく」と言われた。食うために働いているのだと言い切る人もいるが、食べ物にそれほど関心を持たない人もいるだろう。その違いはあっても「なくなる」という括りの中では同じ範疇に入れられる。

 ここで主イエスは、人が生きるための方向として永遠のいのちを指し示しておられる。永遠のいのちとは神御自身のいのちであり、そこに至る食べ物とは神の言葉である。

 「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべての言葉で生きる」(申命記8:3, マタイ4:4)

  このことは生活のための労働を決して軽視しているのではない。人として生きるための働きはここでも尊重されている。けれども、それが自己目的化してしまうとき、人として最も重要である神との関係が絶たれるという警告が込められている。それが転換されるのは「何をしたら」と人々がいう業でなく、「信じること」と言われる主イエスの側にある働きに自らの存在を委ねることによってである。

 多くの人がこの言葉によって主イエスから離れていく。その中で、主イエスがこの働きに召されたのは、直接的には弟子たちであった。そして弟子たちは福音宣教の働きを通じてそれを成し遂げた。それでは私たちは、永遠のいのちの言葉にどのように関わるべきであろうか。そのための働きは何であるのか。その部分は各々が実際に御言葉に聞くしかない。そこに「永遠のいのちに至る食べ物」の神髄がある。私たちは聖霊の助けの中で、信仰を通じて生ける神の御言葉を聞く。そこに永遠のいのちの働きが生まれる。

2021年01月10日

   この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりであるかどうか、毎日聖書を調べた。    使徒17:11

 

    みことばは神の言葉である。それは人格的なものであり、思想とか法則のようなものとは違う。従って、それを、毎日、どのように聞くかということが極めて重要なことになる。

 パウロとシラスは、第二回目の伝道旅行の途上、ベレアという小さな町で伝道した。この町の人たちは、「毎日、聖書を調べた」とある。二人が、ベレアの東方80キロにあるテサロニケで話したときの聴衆とは対称的な反応である。テサロニケの会堂に集まったユダヤ人たちは「ある者たちは納得して、パウロとシラスに従った。」

 ところが聞く耳を持たず、怒りの感情に支配された人たちによって、彼らの働きは封じられてしまった。「ユダヤ人たちはねたみに駆られ、広場にいるならず者たちを集め、暴動を起こして町を混乱させた。そしてヤソンの家を襲い、二人を探して集まった会衆の前に引き出そうとした」(17:4,5)

 ベレアの人たちは、テサロニケのように妬みによってパウロに敵対するようなことはしない。その特徴は、御言葉に向き合う素直さと熱心である。偏見とか常識に縛られないで、み言葉を聞くということにあった。福音は新しい葡萄酒なので、新しい革袋に入れなければならない。(ルカ5:37)

 熱心さというのは、二人から聞いた御言葉が本当に旧約聖書に記されていることなのかかどうか、自分たちで調べることにおいての熱意である。それは二人の話をはじめから疑ったり否定したりすることではない。かえって御言葉による啓示をより深く知り、皆の信仰が御言葉によって支えられるために必要なことであった。

 主イエスは、「わたしはいのちのパンです」(ヨハネ6:50)と言われた。信仰の基礎として、自分で御言葉を読み、互いに学ぶことを徹底したい。

2021年01月03 

 

 ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。    ペテロの手紙第一2:1,2

 

   今年の教会の目標は、みことばによる成長である。昨年を振り返るとき、コロナウィルスの

影響により活動が制限され、その意味では試練と忍耐の年であった。

 そうした中でも、他の教会に倣って祈祷会と伝道会をオンラインを結ぶなどの試みがされた。それは共に御言葉を学ぶことの楽しさであり、新鮮な発見であった。

 ペテロがこの手紙を記したとき、各地に散っていたキリスト者には、「様々な試練の中で悲しまなければならない」(1:6)状況があった。迫害者による困難が迫っていた。そうした中で、ペテロは、悪魔的な世の力に対抗するために、キリスト者ひとりひとりの信仰が固く保たれるように指導する。困難な状況ではあるが「成長し、救いを得る」(2:2)チャンスであることを告げる。ここにおいての救いは、信仰の初歩である罪と死からの救いではなく、神の国の完成に向かう救いである。そのための備えとして、敵対者に力で対抗して勝利するのではない。神との関係を通りよくするために、まずは自らの内にある罪を捨てて、それから霊の乳を求めることが命じられている。「あなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて…霊の乳を求めなさい」(2:1)

 成長に導く神の言葉は、捨てることで整理された心の中に宿る。心の断捨離が行われてこそ、霊的な栄養が霊的成長を促すのである。それを「生まれたばかりの乳飲み子のように」求めよとある。

 一年の初めに、もう一度自分自身を振り返ってみたい。捨てるべきものがまだ残っていないだろうか。そこから霊の乳である御言葉を求めて歩もう。

2020年12月27日

私は主に申し上げよう。「私の避けどころ、私の砦、私が信頼する私の神と」 

             詩91:2

 

   危機の中で何を避けどころとしているか。そのことは、直接人生観に反映され、生きることのの意味と行動に決定的な影響を与える。

    一年を振り返るとき、主にあって守られていることの幸いを噛みしめる。コロナ禍によって不安に世界が埋め尽くされそうとしているときでも、「全能者の陰に宿る」(1)ことができるからである。

 詩91は詩90に続くもので、困難の中で主に対する強い信頼の言葉で主を賛美している。「あなたは私たちの住まいです」(90:1) 「いと高き方の隠れ場に住む者」(91:1)

  ここには共に神を住まいとする表現があり、「いにしえの神は、住まう神」(申命記33:27)の信仰が引き継がれている。

 「私は主に申し上げよう」(2)の主は、新改訳聖書2016だと太字で記され、3節の主と区別されている。2節と9節の主はヤハウェであり、3節以降それ以外の主は人称代名詞「彼」で書かれている。(新共同訳では神) どれも2節を受けてのことであり、イスラエルと神との契約の真実さにおいてである。

 「避けどころ」は隠れ家あるいは避難所であり、「砦」は軍事的な防御の拠点である。

それは人為的に固められた守りではなく、主との信頼関係の中に主によって築かれたものである。それ故、「私が信頼する私の神」と信仰が告白されている。2節の神はエロヒームであり、この詩の中ではここでだけ用いられている。「私の神」は他の神々とは明確に区別される。

 私たちは、たとえ困難があっても、まずは主の前で自分の信仰的な立場を明確にする者でありたい。「避けどころ」の確かさは、そこにある神との縦のつながりの中でこそ起きる。それは、先に備えられた祝福へと私たちを導く。

2020年12月20日

   博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のおられる所まで来て、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。

マタイ2:9

 

   星は人の手が及ばない神の領域として、たびたび聖書の中に語られている。闇に包まれたときでも、星は確かな方向を示している。その光と闇の違いは、罪の中にある人と聖なる神を分けるものでもある。

   マタイの福音書では、新しく生まれた王のため、殺意に燃えているヘロデ王の姿と、喜びに溢れている博士たちの姿が対称的に描かれている。この違いを生じさせているのは、神が共におられる(インマヌエル)ことである。

  博士たちは、神について確かな知識を持っていなかった。けれども、僅かな知識と星の光を手掛かりにキリストのもとに導かれる。反対にヘロデとその王宮にいた人たちは、律法によるキリスト誕生の知識を持ちながら、不安と恐れに包まれていた。

  博士たちは、ヘロデ王が新しい王の誕生を知らないとは思いもしなかった。そこにおいて博士たちの期待は裏切られてしまう。その博士たちを導いたのは、東の国でみた星であった。この星がどのようなものであったか、私たちは知ることができない。ただ、星は確かに神が導いていることを博士たちに示した。そこに神が共におられるあかしがあった。

  博士たちは、王宮の中では旅の方向性を見失い、見捨てられたような気持になったであろう。けれども、この星の光に励ましと希望を得てキリストのもとに辿り着く。

  私たちは闇の中に放り出されたように思うことがある。そうしたとき、星の光となるのが御言葉である。そこに神の御臨在を覚えていく。クリスマスはその喜びの確かさを教えてくれる。それは私たちにとっても、この上ない喜びである。

2020年12月13日

 

「ダビデの子ヨセフよ。恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。」  マタイ1:20

 

    クリスマスは光と共に闇の中に備えられた。闇は光に反してどこまでも深い。けれども暗い夜空に星が輝いているように、神の光は人の闇を照らし続けている。

 マリヤが身ごもっていることをヨセフが知ったとき、それまでの幸せな気分が一転して、闇の

中に突き落とされたであったろう。二人は婚約はしていたが、まだ一緒にならないでいたからである。ヨセフは、感情に任せて常識を越えるような人ではなかった。

 そのヨセフを「正しい人」(19)とマタイが語るのは、彼が信仰により律法を守る常識人であったからである。「ひそかに離縁しようと思った」のは、マリヤが世間から冷たい仕打ちを受けないためであった。けれども、その内心は、失望、落胆、不安、疑惑、怒りなどが渦巻いていたことだろう。

 主の使いは、突然、そのようなヨセフにあらわれて言った。

 「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリヤをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っているのは聖霊によるのです」

 御使いの幻は、マリアとの約束が神の前に守られていることを告げている。ヨセフはマリアの中に起きていることを、神の導きと御心によって捉えることが迫られた。この決断に、ヨセフ自身が失いかけていた神とイスラエルの契約が呼び覚まされる。ヨセフはダビデの家系ではあったが、現実にはヘロデがイスラエルの王となっていて、ダビデの血筋は無意味化しかかっていた。

 ヨセフが信仰によってマリアとの婚約を履行することは、もう一つの約束である神がダビデと

結ばれたイスラエルの契約の成就をみていくことになった。ヨセフに啓示された神の約束は、希

望となってヨセフの生涯を新しくしていく。

2020年12月6日​

   神はえこひいきをする方ではなく、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。 使徒10:34,35

 

  自分の努力や願いでは受け入れられないことが、依怙贔屓に起因しているとしたら、そこでの失意や落胆は深く、ある場合には怒りや敵意に転嫁していくであろう。もし、救い神の依怙贔屓によるなら、そこから漏れた人の失意は如何ばかりであろうか。

 「神はえこひいきする方ではなく」という訳されている言葉は、新約聖書の中でこの箇所にだけ出てくる言葉である。それは、直訳的には顔を受け入れる者で、不公平を意味する言葉である。聖書全体の中で、神がそのような偏った方であると記されている箇所はない。けれども、イスラエルに対する神の取り扱いは、そのような誤解として定着している面があった。 

 一方において、神に受け入れられることを、民族の特権と考える人たちがいる。アブラハムを

民族の始まりとするイスラエルで、彼らは神の契約によって、神に受け入れられていると考えてきた。

 しかし福音がここに明らかにするのは、主イエスへの信仰によって神に受け入れられる道であ

る。それは、神が救いの計画の中で、最初から定めておられたもので、「神はえこひいきする方でない」と言われるのも、すべての人に開かれている福音の故である。

    福音は「どこの国」(すべての国)の人であっても適用される。そこで求められるのは、「神を恐れ、正義を行う」ことである。神を恐れるというのは、真の神を神として受け入れることである。自分の罪を自覚し、悔い改めることの中でこのことが起きる。

 「正義を行う」ことは、信仰によって神の御心を行うことであり、自分の義を押し通すことではない。神によって新しくされた者は、積極的にこの義を求め、自らもその義を行う者とされる。

 こうした信仰者の歩みは、国々や民族や個人の能力によって違いや差別があるのではない。人が作り上げた差別があったとしても、福音はそうした壁を乗り越えていく。

2020年11月29日

   今、私たちはみな、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、神の御前に出ております。  使徒10:33

 

    神の言葉は、一方的に伝えられるものではない。どんなに大きな拡声器で、大群衆に語ったとしても、そこに備えがないならば、何の実も残らないであろう。

 伝える側に御霊に従う備えが必要であるように、聞く側にも御言葉に従順である姿勢が求め

られる。主イエスが「良い地」(マタイ13:8)について語られたのは、御言葉の聞き方にあった。

 ローマ軍の百人隊長であったコルネリウスは、「敬虔な人で、家族全員とともに神を恐れ、民に多くの施しをし、いつも神に祈りをささげていた。」(10:2)

 コルネリウスがヤッファに宿泊していたペテロを家に招いたのは、御使いによって語られた

ことを真実と受け止めたからである。そこには日常の祈りの生活で培われた真偽を見分ける判

断があった。彼は、ペテロを家に招くことがどんなに重要なことかを理解していた。それ故、

ペテロの到着を待って、友人や知人に呼びかけたので、家には「多くの人が集まっていた」(10:27)

 エルサレムでは、ペテロの語る言葉に耳を傾ける者と、そのことに反対し怒る者に分かれて

いた。けれどもカイザリアのコルネリオは、偏見も予断もなしに神の言葉を聞こうと備えてい

た。百人隊長であればこそ、上からの命令に耳を傾けるのは当然のこととしてきた。ましてや、今、神の言葉を聞くのであれば、全身全霊を傾けて一つも聞き逃すことができないとしている。

 「今、私たちはみな、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、神の御前に

出ております。」

 コルネリウスの日常の祈り、信仰への従順、神の言葉を聞く覚悟は、ペテロの語る福音を真っ直ぐに受け止める備えとなった。その祝福は、彼の家族、親しい友人たちへと広がっていった。ペテロはコルネリウスに招かれた一連の経緯により、異邦人を差別しない神の救いの全体像を理解していく。

2020年11月22日

  すると、もう一度、声が聞こえた。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」  使徒10:15

 

  福音は人生観や世界観を大きく変える力がある。そこに神の愛が根本に据えられるからである。けれども幼少の頃から身についた価値観や宗教観を転換することは容易でない。

 ペテロは、空腹の中で祈っていると夢見心地になり、食べ物に関する天からの啓示をみた。

「すると天が開け、大きな敷布のような入れ物が、四隅を吊るされて地上に降りてくるのが見え

た。その中には、あらゆる四つ足の動物、地を這うもの、空の鳥がいた。…そして『屠って食べよ」という声が聞こえた。』」(10:11~13)

 その中には、ペテロがいつも食べているものもあった。けれども汚れているとされるものがいっしょにある。律法によれば、それに触れても汚れたものとなる。

  「それらの肉を食べてはならない。また、それらに触れてもいけない。それらは、あなたがたには汚れたものである。」(レビ11:8)

 そのためペテロは、食べられるものだけ食べるというわけにはいかず、「主よ。そんなことはできません」(14)と言った。

 「そんなこと」は律法を念頭においており、もともと神の意志を汲んだはずのものである。ところがここでは、神の直接の言葉を離れて自己主張になっている。そこで神は、ペテロに、重ねてこれらのものは、すべて神がきよめた物であることを告げられた。

 「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」(15)

 食べ物の聖いものと汚れたものの壁はとり払われ、宗教的な意味での規制がないとされた。このことは、食べ物に関することに留まることではなく、ユダヤ人と異邦人社会にあった民族的な差別jの壁を打ち壊すことになっていく。

 神は祈りの中に、ペテロの意識を改革された。それは神の愛のうちに福音の広がりとなって実を結ぶ。祈りは自分の願いに留まるものではない。ときには、自己改革によって神の意志を達成することを覚えたい。

2020年11月15日

 ペテロは彼に言った。「アイネア、イエス・キリストがあなたを癒してくださいます。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。」      使徒9:34 

 

 福音は、人を支配していた罪の力から解放されたことを明らかにする。この罪は人の意識とか感覚の奥に潜んでいて、いのちの根源である神との関係を阻んでいる。

 主イエスの十字架は罪を取り除き、サタンによって棄損された人の本来の状態を回復させた。そのことは、個別の病が特定される罪の影響を受けているということではない。

 アイネアは中風のため8年間も床に臥したままであった。ペテロはこのキリスト者に出会うと、その場で主イエス・キリストによる癒しを宣言した。「アイネア、イエス・キリストがあなたを癒してくださいます。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。」

 主イエスが活躍された時代と初代教会においては、福音宣教の補助的な役割として癒しの業が多く用いられた。それは神の言葉の真実性として力強く人々に証しされた。アイネアの癒しは、主イエスによる中風の人の癒しと多くの点で共通している。(マルコ2:1~12) ただし「あなたの罪は赦されました」という言葉がないのは、アイネアが既に罪の赦しを得たキリスト者であったからであろう。

 この癒しでアイネアに求められたのは、立ち上がることと、自分で床を整理することであった。ペテロは、イエス・キリストによってアイネアに呼びかけた。これに意思をもって応答することは、呼び集められた群れである教会の礼拝と結びつく。ペテロは「立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい」と命じている。そこには、以前の生活との決別がある。

 ここには初代教会特有の癒しがあった。けれども主の恵みの業は決して絶たれてはいない。今日も主は、私たちをその名で呼ばれる。その言葉に応答するとき、主の御力と癒しの恵みを経験する。

2020年11月08日

   彼らはサウロを殺そうと、昼も夜も町の門を見張っていた。そこで、彼の弟子たちは夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁伝いにつり降ろした。       使徒9:24.25

 

  神が共におられることは、大きな慰めであり励ましである。それは危険や困難に遭遇することがあっても、身が守られることで証しされる。

  回心したサウルは、ダマスコでユダヤ人からいのちを狙われていた。追手らは、町中でそれを決行することができなかった。ローマ市民権を持つサウロは、ローマ法によって守られていたからである。けれども、一旦、町から出てしまえばそこは無法地帯であった。そこでユダヤ人たちは、「昼も夜も町の門を見張っていた」(24)

 この状況の中で、サウルはダマスコを脱出してエルサレムに戻ることにした。それを可能にしたのは、ダマスコでの宣教活動で実を結んだ彼の弟子たちの助けによる。

 「そこで、彼の弟子たちは夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて城壁伝いにつり降ろした」

 闇の中での救出であり、とても危険なことであった。そこには天使が介在したというような奇跡はない。あるのは、サウロをいのちがけで守ろうとする信仰による兄弟たちの愛である。

城壁の扉が閉じてしまえば、町への出入りはできない。けれどもどうしても町の中に荷物を入れなければならないとき、人々は隠れて城壁伝いに籠を降ろしてそれに入れていた。サウロはその籠に入って救出された。

 イスラエル人がエジプトで奴隷であったとき、赤子であったモーセは籠に入れられて川に流された。それはモーセを思う両親の最大限の愛であった。神はそうした道を通して彼を救われた。

 籠の中に入ったサウロは、細い綱でつり降ろされた。その後のサウロの働きは、この瞬間、この綱に全て託されていたということができよう。しかしその端は主の愛に燃える兄弟姉妹の手につながれている。神はこうしてサウロを危機から救出された。

2020年11月1日​

 神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。

          ペテロの手紙第一1:3

 

 希望をどこに置くかによって、人の生き方は大きく変わってくる。希望は行動の原動力であり、到達目標でもある。けれども、たとえ願ったことが実現したとしても、それが希望であり続ける保証はどこにもない。

 「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」

  豊臣秀吉の辞世の句には、権勢を誇り、栄華を極めた者の悲しい末路が滲み出ている。人は朽ちる存在であって、死に対しては全くの無力である。死は地上の希望を無残に断絶する。たとえ医療が革新的に進歩して、平均寿命が今の二倍になったとしても、そのことが死に対する勝利を生み出すことにはならないだろう。

 しかし神は、こうした人の現実の中に介入された。その理由は「ご自分の深いあわれみのゆえ」である。人は神の御姿を見ることができなし、その愛がどのようなものかわからない。ましてあわれみの深さなど自分から知るよしもない。けれども、神は「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたこと」により、私たちに対するご自身の愛が如何に深いものであるかを啓示しておられる。

 神の子であるキリストの死は、罪と死に支配されている私たちのための死でもあった。それは罪に対する神の裁きである。義である神は、御子の血を罪のための代償とされ、「死者の中からよみがえらせた」(3) この信仰により「私たちは新しく生まれさせられた」

 神は万物の創造者であるが故に、自然においては不可逆的な死を「新しく生まれさせる」ことができる。そこからキリストのいのちに結びついた新しい生き方に向かわせる。そのいのちは信仰によって今という日常の中にあらわれ、将来において約束されている希望を確かにする。たとえ大きな困難や死に直面したとしても消えることはない。