
仙台のぞみ教会
いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中ですぐれているのは愛です。
2023年09月24日
最後に来たこの者たちが働いたのは1時間だけです。それなのにあなたは、1日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。 マタイ20:12
唯物的な労働価値という考え方によれば、労働者の報酬はそこに払われた労働の量によって決められる。多く働いた人が多くの報酬を得、少なく働いた者は報酬が少なくなるのは当然とされる。
けれども主イエスが語られた天の御国のたとえでは、この原則がそのまま適用されるのではない。1時間だけしか働かなかった者と、朝から晩まで1日の労苦を辛抱した者たちの報酬が同じ1デナリとされている。
労働の量ということに着目すれば、両者の間には圧倒的な開きがある。ぶどう畑での仕事は、暑さと闘う過酷な重労働である。報酬が払われるときに、1時間しか働かない者に1デナリ支払われたのであるから、それより長く働いた者により多くの報酬が与えられることを期待するのに無理はない。
ところが、朝早くから働いた者たちの手に主人から渡されたのは同じ1デナリであった。そのとき、朝から働いてきた者たちの不満が一気に爆発した。彼らは、主人が不正をしているかのように、主人を厳しく詰問した。それに対する主人の答えは、1時間しか働かない人に1デナリ支払ったのは、主人の気前の良さによるで、十分に合理的なものだと説明される。これこそが神からの報酬の意味を端的に説明している。
ここで重要なことは、主人からの報酬が人の側の労働の量によって基礎づけられたものでないことである。人がどんなに功徳を積んだとしても、それが直ちに天の御国における価値を生むものではない。そうではなく、価値のない人が神の恵みによりぶどう園での新しい生き方をする。ことこそが報酬そのものなのでである。そこに愛、喜び、平安、感謝の実が結ばれるからである。
2023年09月17日
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。
テサロニケ第一5:16
秋の空を絵に描くなら、迷うことなく青い絵の具を手にとるだろう。白色も黄色も赤色だって使っておかしくないけれど、圧倒的にキャンバスを埋めるのは、コバルトブルーのようなものではなかろうか。
テサロニケの教会に書き送ったパウロの手紙には、そんな澄みきった空のような明確なメッセージが込められている。このときパウロは、テモテによってテサロニケ教会の人たちが困難に耐え、硬く信仰に立っていることを知って大いに喜んでいた。パウロ自身は、その町の人々によって追われたのであったから、残してきた教会の人たちがどんな様子であるか、どうしても確かめたかった。
けれども、今いるコリントからテサロニケまでは直線距離にして400キロも離れている。パウロは何度か足を向けたのであったが、ことごとく道が閉ざされてしまった。物理的には、両者の関係は絶たれたに等しい。けれどもキリストにあってはそうではない。この手紙によって、共にキリストのいのちが溢れていることを見ることができる。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。 すべてのことにおいて感謝しなさい」
パウロの言葉は、テサロニケ教会が置かれていた困難さを背景に更に輝きを増してくる。また「いつも」「たえず」「すべて」という言葉によって、普遍性を持ったものとして覚えられる。手紙の読者は、パウロがいつもどんなふうに自分たちを気遣い、祈っていてくれているか理解したであろう。
この交わりを可能にしているのが、キリストの内にあるという事実である。困難さや問題は、どの時代においても形を変えてある。雨の日や風の日もあるけれど、キリストにある輝きを失わない生き方をしたい。
2023年09月10日
イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできるのです。 マタイ19:26
子どもの頃、裁縫をしている祖母が手にしている針に糸を通すのは私の役目だった。それをしながら「どうしてこんな簡単なことが祖母にはできないのだろうと不思議だった。人にはできないことの譬えで、主イエスは「らくだが針の穴を通るほうが易しいのです」(24)と言われた。らくだは馬とは違い、狭いトンネルのような所も恐れずに進むけれど、針の穴を通ることは絶対にできない。考えるまでもないことを、主イエスは何故、言われたのであろうか。それは人にはできないと考えていることを、神の視点で考え直すために他ならない。
この個所に登場する青年は、主イエスが「あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい」(21)と言われた命令に従うことができなかった。律法については「子どもの頃から、すべて守ってきました」と主張していたが、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(19)という戒めについては実践できない。
結果として、この青年は主イエスから離れていった。私たちは多かれ少なかれ、この青年のよう
な自己矛盾を抱えているのではなかろうか。人の前では良い顔をしているようなことが、心の内に隠された自分と乖離していることがある。その間隙を埋めることは絶対にできないと考えて、そうした部分を無視したり、忘れ去ろうとしている。そこに真実さが失われてしまう。
しかし、このできない部分を変えてくださるのが主イエスの恵みである。「神にはどんなことでもできる」と言われるのは、人がアッと驚くような奇跡のことではない。頑なに閉じてしまった心が、主の恵みにより新しくされるよってである。
2023年09月03月
イエスは彼に言われた。『帰って、あなたの財産を貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになります。』 マタイ19:21
今日、若いときに人生に目標を定めることは、それ自体において肯定的に受け止められるのではなかろうか。その点から考えるなら、主イエスのもとに来た青年(20)は、一見、その言葉に極めて模範的な態度がみてとれる。
「先生、永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか」
決してふざけた質問でもなければ、主イエスを言葉によって罠にかけようとするのでもない。この青年が抱える個人的な悩みの故に、主イエスの前に立ったのであろう。それは神の御国に入ることについての揺れ動く疑問であった。これについては、これまで多くの律法の教師から教えられてきたことであったが、納得できない部分があったので、「良い先生」として評判の主イエスに尋ねたのである。
その青年の問に、主イエスは「いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい」とされた。これはパリサイ人のように、数多くの律法を守り通すことを命じたのではない。むしろ、自分を神の国に入るべき人としているこの人が、自分が今までしてきた方法では神の国に入れないことを気付かせるものである。
青年の自己義認が欺瞞であることは、主イエスの「あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい」という言葉によって明らかにされた。元来律法は、罪の奴隷であった民が、契約によって神の民として整えられるためのものであった。青年は「それらすべてを守ってきました」(20)と言ったが、彼自身はモーセの十戒である「むさぼり」を罪として認めようとしない。
神の国は人の行いによって開かれるものではない。自己肯定により罪を覆い隠すなら、神の国を見出すことができない。そこに私たちの生き方の転換が迫られている。
2023年08月27日
イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」 マタイ19:14
親が子どもの祝福のため、主イエスに手を置いて祈っていただくとしたら、それは親として自然で麗しいことであるように思う。主イエスの弟子たちが、主イエスの前で「誰が一番偉いか」(18:1)という議論をしたことに比べれば、親たちの主に対する信頼は余程深い。
けれどもこのとき、「弟子たちは連れて来た人たちを叱った」(13) 何故、そんな態度をとったかはっきりわからないが、主イエスの言葉からすれば、弟子たちが考える天の御国のイメージに子どもたちは含まれていなかったのであろう。当時、子どもたちは人として完成されていないと考えられていた。そのため、宗教的にも一人前に扱われることはなかった。弟子たちからすれば、そんな子どもたちを主の前に連れて来た人たちのことを常識がない無礼者に映ったのであろう。
しかし主イエスは、その「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません」と言われた。ここでは連れて来ることと、主イエスが呼ばれることに断絶はない。連れて来た人たちのことは、主イエスがあらかじめ呼ばれたかのようである。それ程までに子どもたちが大切にされる理由は、「天の御国はこのような者たちのもの」であるからである。
弟子たちの感覚では、天の御国に入るには人間的に評価されるものを必要としていた。その点からすると、ここに来ている子どもには何も備わっていない。未経験で無知である子どもは、弟子たちの判断では無意味の領域に押し遣られてしまういたのであろう。主イエスはその子どもたちを指して、「天の御国はこのような者たちのものなのです。」と言われる。そこに主イエスの側から先行する恵
みの業が垣間見える。主イエスは、その子どもたちの上に手を置かれた。恵みを受けるのは信仰によるのであるが、その信仰さえも主の業としてあるかのようだ。
2023年08月20日
創造者ははじめの時から、「男と女に彼らを創造され」ました。 マタイ19:4
近年、女性の社会進出が進み、管理職など責 任あるポストに女性が就くことが珍しくなくなってきた。それでも国連などの統計では、欧米と比較して日本では社会的・文化的な意味での性差別が根強く残っていると指摘される。
パリサイ人たちが、主イエスに離婚について問かけたとき、彼ら自身の中にユダヤ教による性差別があった。けれどもそうした部分は彼ら自身の律法解釈によって見えなくされている。そこで問題にされているのは、主イエスの律法解釈による対立であった。彼らの問には、「試みるため」(3)とあるように、主イエス追い詰める道具にしたいという意図が隠されている。
この策略に対する主イエスの答えは「あなたがたは読んだことがないのですか」(4)である。主イエスは、男女の性の違いを、「創造者ははじめの時から、『男と女に彼らを創造され』ました」と語られた。ここでの性は、創造の秩序の中で互いの性の違いを理解し、受け止めていくことが語られている。結婚は神が結び合わせたもので、二人は一体なのである。(6)
離婚というのは、この神の創造の業に反する人間側の業であることに気付かなければならない。パリサイ人は離婚における離縁状が律法に照らして問題であるかどうかを問いかけている。それは律法を隠れ蓑にした自己保身と自己義認のための勝手な律法解釈であった。主イエスは、それが神の意図から遠く離れていることを明らかにさたれた。、
今日において性が問われるとき、性が本来的に持つ意味と役割を無視してしまう方向に流れる危険があることを気をつけなければならない。そこで聖書から、本来的な性の意味を理解し回復していくことが求められる。
2023年08月13日
私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分をあわれんでやるべきでなかったのか。
マタイ18:33
赦しについて「仏の顔も三度まで」とか、「堪忍袋の緒が切れた」とことわざにある。同じ意味では、兎も七日なぶれば噛みつくというのもある。大人しい兎であっても、我慢の限界を越えたら怒るということである。それらは皆、共通して赦しが限界点に紐づけられている。
ペテロが主イエスに罪の赦しについて質問したとき、彼自身の発想にも赦しには許容範囲があることを前提にしていた。
「兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか」(21)
それに対する主イエスの答えは、「七回を七十倍するまで」であった。ペテロは、自分の寛容さを示すため「7回」を口にしたのであったが、主イエスが示された赦しはそれを遥かにしのぐものであった。その言葉に戸惑うペテロたちに、主イエスは天の御国のたとえを示された。
このたとえでは、1万タラントの負債がある家来が王のものに連れて来られる。家来が勝手に作り出したものであったが、とても支払うことができない負債金額である。それでも王は、妻も子も家も全てを売り払って支払うよう命じた。
そこで家来は必死に王に憐みを求める。その様子を見ていた王は、憐みを起こして家来の負債を免除してやった。ところがその家来は、出て行った先で、百デナリの貸しのある仲間に出会う。そこで自分が貸していたものを支払えと迫る。仲間がもう少し待ってくれと頼んだのだが、それを受け入れることができなかった。そのことを聞いた王は、この家来を牢に入れてしまう。
問題になっているのは、罪の赦しが何に基礎づけられているかである。一般社会においての罪の赦しは、等価の支払いが原則であろう。目には目をという法もそこに入る。懲罰は罪に見合った罰の支払いという考え方である。赦しに至らなくても、そこで折り合いとつけるのである。しかし神の赦しはそうではない。神の赦しは、神ご自身が罪の代価を払われている。信仰の交わりにおいては、その恵みに生きることが求められる。
2023年8月06日
あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。 マタイ18:19
心を合わせることで、祈りほど重要なものはないだろう。主イエスは「まことに、もう一度あなたがたに言います」と断ってから、このことを言われた。けれども実際に祈ってみると、心を合わせることがそれほど容易なことではないことがわかってくる。他人が祈っているときに、雑念が入ってしまったり、違うことを考えてしまうこともある。こうした部分が克服されるためには、弟子たちのように訓練される必要があるだろう。教会によっては、そのようなプログラムをもっているところもある。
けれども心を合わせることを、祈っている時間のことだけに限って考えてしまってはならない。主イエスは、「地上でつなぐ」ことの具体例として祈りのことを語られたからである。この「つなぐ」のは、兄弟の間で罪が取り除かれたことの結果として与えられることである。
逆に言うなら、信仰者の交わりの中で罪を残しておいた状態では、心をつなぐことはできないし、心を一つにして祈ることもできない。互いの中に憎しみや怒りが手つかずで残っているのに、どうして心を合わせて祈ることができようか。
キリスト者は皆、主イエスの恵みによって神の前における自分の罪を赦していただいた。けれども、そのことは信仰者の間にある罪をあいまいにしてしまうことではない。罪は罪として語られ、罪を示された者は直ちに悔い改めの方向に向かわなければならない。このことは、神の前における自己責任の部分である。
共に祈ることの中では、こうした部分も浮き彫りにされてくる。それは主が共にいてくださることの確証へとつながる。
2023年07月30日
あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を探しに出かけないでしょうか。 マタイ18:12
小さいこととか少数であることは、人に無視される要因となり得る。主イエスの時代、子どもは人として存在していないかのような扱いを受けていた。
しかし主イエスは、「わたしを信じるこの小さい者のひとり」を、その小ささによって軽んじてはならないことを言われた。(6~10)
そのことが弟子たちにわかるよう、百匹の羊のたとえを話されている。
「羊が百匹いて、そのうちの一匹がいなくなったら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を探しに出かけないでしょうか」
羊は人類の歴史と共に飼われた家畜であり、群れを作る習性があることはよく知られている。山の中で放牧されていたこの羊の一匹が群れから迷い出たとしたら、それはいのちの危険が迫っている状況と言える。
そのとき羊飼いがとる行動は、「九十九匹を山に残して、迷った一匹を探しに出かけ」ることだと主イエスは言われた。羊飼いではいかなくても、実際に動物を飼ったことがある人なら、主イエスが言われることがより深くわかるのではなかろろうか。いなくなった羊のために、直ちに探しに行かなければならないという心の迫りがある。否定的にみる人や損得勘定だけでは、「九十九匹を野に残して迷った一匹を探しに出かけたりしません」という考えに傾くかもしれない。
しかし、この一匹の迷った羊を探す羊飼いの姿は、天におられる父なる神の御顔をみている御使いの顔と重ねられている。(10)そこには小さい者に対する世の評価と神が見出される価値の違いがある。
2023年07月23日
まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。 マタイ18:2
主イエスの弟子たちは、「天の御国では誰が一番偉いのですか」とイエスに問うた。マルコの福音書によると、弟子たちはカペナウムの家に入るまで、道々ずっとこの話題で持ち切りであった。(マコ9:34)
この弟子たちによる偉さのランク付けは、自分は天の御国においてどこに位置付けされるかという自己中心から発している。
現実のイスラエルは堕落していたので、弟子たちも民衆もそれに替わる新しい天の御国を夢見ていた。それ故、神の国が到来すれば、自分たちは支配の側につけると信じていた。そこで弟子たちは皆、少しでもいいポストに就きたいという思いをもっていたのである。
けれども弟子たちの問に対する主イエスの答えは、弟子たちの全く想定していないことであった。
「向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません」
向きを変えるということは、悔い改めるということである。弟子たちが求めていることは、はじめから方向がずれていたのである。
そのままでは、誰が一番偉いかというどころか、あなたがた自身が天の御国には入れないのですよと主イエスは言われる。
そこで示された方向は「子どもたちのように」なることである。当時の評価であれば、子どもたちは人として数えられない。その弱さのゆえにとるに足らない存在とされていた。しかしここで注目されなければならないのは、神のことばへの信仰ということである。御言葉を素直に受け入れることでは、子どもたちの立ち位置は模範であり良き教師である。そこには真っすぐに上を見上げる備えがあるからである。私たち自身の姿勢が問い直される。
2023年07月16日
しかし、あの人たちをつまずかせないために、湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けると、ステルタ銀貨が一枚みつかります。それをとって、わたしとあなたの分として納めなさい。 マタイ17:27
神殿は神との公的な会見をする聖なる所であり、パリサイ派にあれサドカイ派であれユダヤ人にとって最重要な場所である。その維持管理のために神殿税が徴収されていた。
この「神殿税」(24)は、ギリシャ語原語では「2ドラクマ」という貨幣の単位になっている。(2016新改訳聖書下段注参照) その昔、モーセに導かれたイスラエルの民は、登録のために自分の贖い金を主に納めるよう求められた。
「登録される者がそれぞれ納めるのは…半シェケル」(出エジプト30:13)
このようにしてモーセの時代に定められた自分のための主への贖い金が、主イエスの時代においての神殿税(2ドラクマ)になっている。
金額そのものは、労働者が働く2日分の賃金になる。それを払うか払わないかは、イスラエル社会においては、まともな人であるかそうでないかの判断する最低限の基準であった。
ペテロは税を徴収する人に「払います」と言っているが、面倒をかけないでおこうという気持ちであったのだろう。そこで主イエスは、ペテロが家に入ったとき、王の子とそうでない人との貢ぎ物の違いの譬えを語られた。ここで地上の王国と対比されるのは天の御国である。子が税や貢をしないのは、天の御国も地上の王国と同じである。
この譬えでは、キリスト者は王の子という関係にある。それ故、神へのささげものは、義務によって徴収されるべきではない。しかし、そのことで神殿税を払わないと、人々から不信仰な者とされてしまう。そうした誤解を生まないよう、また躓きを与えないよう神殿税を払う。神殿税を払うということでは、ペテロの判断と主イエスが言われたことは同じ結論となる。しかしその受け止め方が違っている。それは義務として行ったのか、それとも躓きを防ぐための愛の好意だったのか。ここに証し人としての姿がある。
2023年07月09日
私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いに対する愛を、主が豊かにし、あふれさせてくださいますように 1テサロニケ3:12
ことわざに、 遠くの親類より近くの他人というのがある。確かに遠方に住んでいる親類より、近くに住んでいる友人や知人の方が何かあったときに実際的に助けになるということはある。
しかしここに記された関係は、遠くにいて血のつながりもなく国が異なる人たちとの信仰による深い繋がりである。
パウロたちは、伝動活動をする旅行者であった。テサロニケの町の人からみれば異邦人である。その上、この手紙を書いているコリントからテサロニケは400キロの距離がある。
最短の道を歩いても10日はかかったであろう。それでもパウロは「何度もテサロニケへ行こうとしたのです。」(2: 18 )という。それが何かの理由でできななかった。それで仕方なく手紙にしたのであるが、その内容から両者の結びつきが愛と信頼に満ちたものであったことを伺い知ることができる。それは「自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています」(2:8)とまで言わせている。その愛から生まれたのが祈りであった。パウロの祈りは、「あなたがたの互いに対する愛を、主が豊かにし、あふれさせてくださいますように」とある。
この愛は主イエスの内から出ている。決して人の倫理道徳による教えから出たものではない。「豊かに」とあるのは、収穫に向かって成長していくからである。オアシスから湧き出る泉の水は、乾いた大地を潤し、あらゆる生き物を生かしていく。
教会に与えられた愛も、教会の内に留まるのではなく、個人の器から「あふれ出る」ものである。それは祝福となって教会の周辺に、あるいは地域全体への広がりを持っていく。
2023年07月02日
いつまであなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。
マタイ17:17
主イエスと弟子たちが群衆のところにいくと、一人の人がイエスに近寄って来て御前にひざまずいた。息子がてんかんで、大変に苦しんでいたからである。てんかんは突然にけいれんしたり意識を失ってしまう。この人の息子も、これまで何度もそうした危険なことがあった。
「何度も火の中に倒れ、また何度も水の中に倒れました。」(15)
父親は弟子たちのところへ息子を連れて来たが、弟子たちには治すことはできなかった。そこで父親は主イエスのものにきて御前にひざまづいたのであるが、半分はあきらめているところがある。
息子を伴っておらず、「もし、おできになるなら」(マルコ9:22)と言っているからである。
主イエスは、この人を含めた群衆に向かって「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか」と答えておられる。この人の信仰はどっちつかずで、それは不信仰な曲がった時代においての信仰の特色でもあった。父親の態度は一見すると熱心であるようだけれど、神への信仰という点では委ね切っていない部分がある。
主イエスの癒しは、それぞれ神との関係が正されることと結びついている。息子である当人が動けるのに、父親だけがその信仰によって癒されることを求めるということはできない。たとえ肉親であろうと、信仰は誰かに肩代わりしてもらうものではない。本人が主イエスのもとに立つことから始まる。「その子をわたしのもとに連れてきなさい」(17)
2023年06月25日
すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを 聞け」という声がした。 マタイ17:5
教会の前の通りは、小中学生の通学路になっている。ときどき子どもに親が付き添っている姿を目にするが、子供の成長を親はどんなにか喜んでいることか。それは互いの会話から十分に察するとができる。おそらく、親は子供に必要なものはすべて揃えてあげたいと思っていることだろう。
主がペテロたちを高い山に連れていかれたのは、神の御子としての栄光の姿を知らせ、父なる神との関係を教えるためであった。そこにモーセとエリヤが現われて主イエスと話し合った。このことは十字架への歩みが旧約聖書に記された預言に沿ったものであることを証言している。
そのとき天からの啓示で「これは私の愛する子、彼の言うことを聞きなさい」という声がした。主イエスは前の箇所で人々に捨てられることを預言さられるが、それは神から愛されなかったからではない。十字架に至る苦難の道にも神の愛は変わりなく注がれている。だからその言葉に従うようにと命じられた。
しかし弟子たちは、そのような主の姿を受け入れることができない。それは自分たちが期待するメシアの姿ではないからである。
主イエスの苦難には、罪と死から人々を救う目的がある。そのために御子をさえ惜しまずささげられた父なる神の愛が注がれている。その愛の対象は私たち罪人である。このことは、アブラハムがそのひとり子イサクを全焼のいけにえとして神にささげたのと同じであった。人間的な愛の基準で測るなら、愛を破壊する行為と非難されるかもしれない。しかし信仰においては、完全な愛のあらわれであったことを見失ってはならない。
2023年6月18日
人はたとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せば良いのでしょうか。 マタイ16:26
健康のためなら死んでもいい、という言葉が話題になったことがある。それは誰が考えても矛盾したことであるが、多くの人の中に広まった背景には、健康ブームが高じて手段が目的化していたのかもしれない。
いのちこそ第一とすべきことは、誰に言われなくても自明のことである。それでも人は「全世界を手に入れても、自分のいのちを失う」ようなことをしてしまう。それは、いのちそのものが人の手の中にあるかのように誤解して求めているのではなかろうか。いつまでも生きていたいという願望が、あらゆるものを支配し、不滅でいられるという妄想を生み出している。
しかし主イエスは、「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです」(25)と言われる。ここでのいのちは、生物学的な意味でのいのちのことではなく、神が人のために本来的に与えておられるいのちのことである。
アダムの子孫である人は、その罪のゆえにサタンの支配下に置かれ、本来的ないのちの輝きを失ってしまった。それが回復されるためには、代価をもってサタンからいのちを買い戻さなければならない。しかし、「たましいの贖いの代価は高く、永久にあきらめなくてはならない。」(詩49:8)
神は、そんな人の現実に対し、御子を通して恵みの道を開いておられる。それが主イエスを信じることによって得られるいのちである。
「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしについて来なさい」
この招きに信仰をもって応答するとき、神のいのちが明らかにされる。自分の十字架は日常の中に起こる個人的なイエスとの出会いである。それは神のいのちを見出すことに繋がっている。
2023年6日11日
シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。 マタイ16:16
主イエスとは誰であるのか。今日、人々に問うなら、広く知られている聖人とか、最も影響力の強かった歴史上の人物として答えるかもしれない。それは主イエス時代に民衆が置かれていた状況と大きく違っている。彼らは、主イエスから発せられる御力と人格の真実さを日々に体験していたからである。それ故、民衆の中には、主イエスに対する確かな期待があった。
「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」(14)
エリヤは偶像礼拝が蔓延したイスラエルの信仰を立て直した預言者であり、エレミヤは
イスラエルの不信という罪とその結果を指摘しながら、なおもそこに神の憐みが注がれていることを
預言した。パプテスマのヨハネは主イエスと同じ時代に生き、人々に悔い改めを迫って神の国の到来を預言している。それらの働きはどれも新しい時代を予感させるもので、民はその声に動かされ評判になった。
けれども主イエスが弟子たちに問うのは人間的な評価ではなく、信仰における主イエスとの個人的な関係である。
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」(15) 人々がどのように言っているというのではなく、あなたはどう信じているのかが突き詰められた。
主イエスの言葉に、弟子たちの中には戸惑った者がいたかもしれない。心が見透かされていると恐れてもおかしくない。そんな中で、シモンペテロだけが「あなたは生ける神の子キリストです」と告白している。それは救いにおいて父なる神との関係そ示すもttも重要な心理であった。「このことを明らかにしたのは血肉によるのでなく、天におられる私の父です」(17) ここにはペテロ自身が十分に理解していない部分が含まれている。それでも神の啓示が先行している。それは人の弱さを覆う神の恵みの現れである。
2023年6月04日
あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでいることを知らないのですか。 第一コリント3:16
自分の家に客を迎えるとしたら、まずは家の中を片付けるだろう。客の目に触れてもらいたくない物をしまったり、汚れが目立つ所をきれいにするのではなかろうか。けれども作業をすればする程、普段は気にしなかった汚れがますます目立ってしまうことだってある。そんなときは深く落ち込んでしまうに違いない。
キリスト者に聖霊が注がれるということは、神の御霊がその人の心の内に住まわれることだとパウロはいう。それはまた、主イエスが罪人ザアカイに言われたことでもある。「今日、あなたの家に泊まることにしているから」(ルカ19:5) 罪と汚れの中にあった者の中に聖霊が来られるのは、キリストによって罪と汚れがすっかり聖められているからである。自分ではできなかったものを、神は恵みによって取り去ってくださった。その証しとして聖霊が注がれたのである。それがどれ程に大きな恵みであるか、当人の自覚が求められている。
コリント教会に集まっていた人たちというのは、ユダヤ人もいればギリシャ人のもいた。そうした教会であっても、神の神殿が如何に重要な意味を持つものか十分に知ることができた。彼らはギリシャ語に翻訳された旧約聖書を読むことができたからである。ユダヤ人の歴史において、神殿は神礼拝の中心であり最も聖なる場所であった。そこに神が臨在されてきた。
キリスト者が内に神の聖霊を宿すことは、神殿に神の霊が宿ることと同じこととパウロは指摘する「あなたがたは神の神、神の御霊が自分のうちに住んでいることを知らないのですか」
もし、このような自覚があるのであれば、体を聖なるものとして備えるのは当然のことではないかと。自分のからだが神の器としてあるのであれば、それをもって神の栄光を現わしたい。
2023年05月28日
私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。 Ⅰコリント2:12
キリスト者の信仰は聖霊によって支えられ導かれている。これがどんなに大きな恵みであるかは、主イエスご自身が弟子たちに明らかにしておられる。
「あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。(ルカ11:13)
ペンテコステ(五旬節)は、この約束の聖霊が 信仰者に注がれた記念の日である。主イエスが天に上げられた後、信者は「いつも心を一つにして祈っていた」(使徒1:14)
ユダヤの三大祭りの一つである五旬節は、小麦の刈り入れが始まるときとされている。三つの祭りは、それぞれユダヤ民族がエジプトから脱出した出来事と関連づけられていて、五旬節は律法が与えられたことを記念する日であった。
それ故、五旬節の日に天から聖霊が注がれたことの意味は大きい。モーセを通して石に刻まれてある律法でではなく、エレミヤの預言が成就した出来事であったからである。
「わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す」(エレミヤ31:32)
使徒パウロが第二回伝道旅行でコリントに行ったとき、「私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることをしませんでした」と言っている。(第一コリント2:1) この場合の神の奥義とは、主イエスの十字架と復活による救いのことであり、それをギリシャの哲学のように語ることをしなかったという意味である。なぜなら、福音による神の救いは聖霊によることであり、人間に知恵に支えられるものでないからである。そうであれば、私たち自身が聖霊の導きと満たしを求めるのは当然のことである。
2023年05月21日
空模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることはできないのですか。
マタイ16:3
空模様から天気を予測することができる。夕方、西の空が赤ければ、「明日は晴れる」と言い、朝方、東の空が赤ければ、「今日は荒れ模様だ」と言う。(3) 夕方、西の空が赤く染まるというのは、西の空には雲がないことによる。天気は西から東に移るので、その翌日は晴れる。朝焼けは、東の空が晴れていて西から湿った空気が近づいてくるときにおこる。このことは、イスラエルにおいても日本においても基本的に同じである。このような予測は、気象に関する特別な知識がなくても経験上なされてきた。そしてそれはほぼ間違うことなく当たる。
しかし主イエスは、人々が空模様に対して的確な判断をしているのに、「時のしるしを見分けることができない」と言われた。「時のしるし」というのは、神が人々の救済のため天から啓示しておられることである。人々がこの「しるし」を見分けることができないのは、神が求められる信仰によってではなく、堕落した霊による価値判断をしているからに他ならない。ユダヤ人たちは、モーセが出エジプトのときにしたような奇跡を神からのしるしと考えていた。
主イエスはそのような傾向を「悪い、姦淫の時代」と言われた。そして「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません」と警告された。ここに言われる「ヨナのしるし」は主イエス・キリストの死と復活を意味している。ヨナは三日三晩大魚の中にいて、そこから地上世界に返された。主イエスは死んで葬られた後、三日三晩して復活された。両者に共通しているのは、①罪の代償としての死。②三日三晩の死の苦しみ。③ 死からいのちへの転換。④ 証言者の言葉による実証などである。
今の時代を、主イエスの言葉でみたらどうであろう。霊的に堕落した物の考え方が、神からのしるしを見えなくしていないだろうか。
2023年05月14日
しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、子犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」 マタイ15:27
信頼を寄せた人に拒絶されたら、心が深く傷ついて関係性を絶ってしまうかもしれない。どんなに説明を聞いても納得できず、「期待した自分が馬鹿だった」と自分を責めたり、あるいは相手への失望感を口にすることだってある。
主イエスのもとに来たカナンの女(15:22)は、自分の娘のため、主イエスの前に必死に癒しを求めていた。それに対して、主イエスは一言も答えていない。それでも叫び続けるため、「弟子たちは…イエスに願った。『あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。』」(23)
弟子たちのこのような行動を、女は全く気が付かなかったというのではないだろう。皆に迷惑がられている。それでも女は、機を見て主イエスのもとに来て、「主よ、お助けください」と娘の癒しを願っている。世間的には、あつかましいと批判されることである。
そのとき、主イエスはどうしてこの女の願いを聞いてあげれないかを説明している。それは「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に与えることになる」(26)からであると。これは民族や人種の差別ではなく、福音宣教の順序を示したのであった。
この言葉に女は「主よ、そのとおりです。ただ、子犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」と返している。食卓から落ちるパン屑も、主人の慈愛のあらわれではないか。
ここには、自分は主イエスの前に何かを願うにふさわしい者ではないという自覚がある。そんな自分ではあるけれど、神の憐みは尽きないので自分の上には注がれないはずはないという確信。主イエスは、この女の言葉に「あなたの信仰は立派です」と言われた。
私たちがここで問われるべきことは、主の恵みに対し強い確信を置いているかということである。信仰は主イエスとの生きた関係であり、何かの説明で終わるものではない。たとい全ての道が閉ざされたとしても、主の恵みの約束を根拠に一滴の恵みを求め続ける信仰者でありたい
2023年05月07日
私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。
第一テサロニケ2:4
現在のギリシャになっているテサロニケは、マケドニアの中心都市であった。BC356、歴史に名高いアレキサンダー大王は、この町の近いベラでマケドニア王フィリッポス2世の子として生まれている。
パウロは第二回の伝道旅行で、テサロニケを訪れ福音宣教をした。(使徒17:1) およそAD51年頃のこととされる。そこからアテネ、そしてコリントへと渡っている。マケドニアに残ったテモテとシラスは、数か月後に下ってきてコリントでパウロに合流した。(使徒18:5) そのときテサロニケ教会の様子を聞いたパウロは、教会が成長していることを喜ぶと共に、福音が間違った方向で捉えられかねないことを懸念した。それを正すために書いたのがこの手紙であり、新約聖書の中で最も早く書かれた書物の一つとされている。
パウロにとって福音宣教で誤解してもらいたくなかったのは、この働きは人を喜ばせるためにではなく、神を喜ばせるためにしているということである。この表現は、迫害しているユダヤ人に対しては反意的に用いられている。「ユダヤ人は…私たちを迫害し、神に喜ばれることをせず、すべての人と対立しています」(2:15) また手紙の結びでも繰り返されている。「あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきか私たちから学び、現にそう歩んでいるのですから、ますますそうしてください。(4:1)
神に喜ばれる働きは、神に認められ宣教を委ねられた福音から生じている。その真実性は、神との生きた関係にある心が証しする。この点、ユダヤ人の教えでもなければ、ギリシャ人の哲学でもない。「心をお調べになる神」の前に、恥じることのないよう福音宣教に励みたい。
2023年04月30日
この民は、口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 マタイ15:8
実際には役に立たない考えのことを、机上の空論と言ったりする。この場合、考えていることと現実の出来事が乖離しているのである。どんなに立派な考えや理論であっても、それが現実から離れたものであるなら何の意味もなさないということもあろう。
神の言葉を敬う態度をみせながら、その心が神から遠く離れているというのはどうであろうか。ここには両者の距離が指摘されるだけでは済まされない問題がある。言葉を発する側に、神への不信という罪が内在しているからである。
ユダヤ人たちは、律法の解釈を変形させた「言い伝え」(コルバン)によって、神の言葉と自分たちの行動にある間隙を埋め合わせしてきた。そこに立っている限りにおいては、民は律法を忠実に守っているように装うことができた。例えば律法 には「あなたの父と母を敬え」(出エジプト20:12)とある。これが良い親子関係であれば何の問題もない。けれども親子関係のどこかが崩れているなどして、親の言うことを素直に聞けないという場合である。律法を盾に親が求めることに対し、「言い伝え」によって自分たちの生活を優先して親に与えなくてもいいような抜け道を作っていた。
「神へのささげもの」になったものは、「その物をもって父を敬ってはならない」(5)というのである。ここでは神が語られているけれども、言った者の中にその信仰が働いていたのでない。そこにあるのは、目的とするものを親には触れさせないための策略だけであった。
主イエスは、こうしたやり方は神の言葉を空文にするものだと指摘された。そこでイザヤの預言が用いられているのは、このようなことがユダヤ人の歴史の中に広く為されてきたからである。律法はユダヤ民族を神の民にふさわしく整えられるために備えられていた。けれどもそれが曲解されるとき邪悪な自己肯定のための道具に変質してしまった。このような不信仰がどれほどくりかえされてきたことか。神の言葉は私の義を代弁するものではない。それは内に隠れた罪を明らかにし、キリストにあって新しく造り変えるためのものである。
2023年04月23日
イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので「主よ。助けてください」と叫んだ。
マタイ14:29,30
信仰の歩みにおいて予想もしない困難や試練に直面すると、土台としていることが揺らぎ疑問を持つことがある。自分は幻想を見ているのではないか、騙されているのではないかと不安になったりするのである。
深夜、湖の上を歩いて渡っておられる主イエスを見た弟子たちは、そのような体験をしたのではなかろうか。ペテロを筆頭とする主の弟子たちは、これまで主イエスが神の子であることを身近にみてきた。それは疑いようのない事実で、自分たちが証ししてきたことである。そんな弟子たちが、パンの奇跡の後で主イエスを幽霊と見間違って怯え、叫び声をあげている。困難に伴う疲労が不安を呼び寄せ、彼らを信仰から引き離したのかもしれない。
このとき主イエスはパニックに陥った弟子たちに近付かれ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と声をかけられた。御言葉を聴くとき、主の臨在という確信が与えられる。それが不安を解消させていく。
そこでペテロは、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と叫んだ。(28)
ペテロの求めは、信仰に歩むための直感的なものであったろう。あるいは主イエスの御言葉への確信を深めたいと思ったのかもしれないない。けれども、実際に湖の上に足を乗せ歩み始めたところで「強風をみて怖くなり、沈みかけた」とある。
この出来事は、その後のペテロの生涯を描く一枚の絵のようだ。主イエスの十字架の場面では、ペテロは周囲の恐れから信仰の道を踏みはずしてしまうからである。しかし主イエスはそんな弱さを抱えたペテロに「手を伸ばし、彼をつかんで」くださった。(31)
弱さを抱える点で私たちも同じではあるまいか。だからこそ私たちは主の御声を聞かねばならない。慈しみ深い主は、私たちのためにとりなしておられ、怖れの中で沈みかけるその手を引き上げてくださる。
2023年4月16日
イエスは舟から上がり、大勢の群衆をご覧になった。そして彼らを深くあわれんで、彼らの中の病人たちを癒された。 マタイ14:14
立ち塞がる現実が受け入れがたいと感じてしまうことがある。その中で正しくあるためには、誹謗と理不尽さと孤独に耐えなければならないかもしれない。それは主イエスが歩まれた道でもある。
主イエスがヘロデ王が言っていることを聞かれたとき(14:1)、受け入れがたい心の痛みを感じていたのではあるまいか。ヘロデは自分の権威をとり繕うためだけの理由でパプテスマのヨハネを殺害した。その愚かな行為は、神の言葉を踏みにじるもので、この国にあって絶対してはならないことであった。もし主イエスが力をもって対抗するなら、全能の力を発揮して処罰することも可能である。
しかし主イエスの目は、主の言葉を求めて従って来た多くの群衆たちに向けられる。彼らが王やその取り巻きと違って、信仰が深かったというのではない。主イエスの言葉に救いを求めているけれど、根底には邪悪なヘロデ王と変わることがないものを有している。実際、最後に主イエスを十字架に追いやったのは群衆たちであった。ガリラヤ人はエルサレムの住民と違って良い人たちだと誰が言えよう。ここにイスラエルを治めるヘロデ王と、世界を治められる主イエスが対比されている。
主イエスは、やがてご自身に刃を向けることを承知の上で、彼らの必要のために愛をもって働かれた。主イエスは「深くあわれんで、彼らの中の病人を癒された」とある。そこには人々の求めに対する最大限の応答がある。それは病を作り出す罪の本質に迫って、 御言葉により新しく人を造り変える神の業であった。
私たちは現実の厳しさに、心が塞がれてしまうことがあるかもしれない。そんな私の中にも、主イエスが「深くあわれんで」くださっている。その愛の触れて、今というときに主イエスが語られる御言葉に心を開いていきたい。そうするとき、主イエスのうちに新しい自分を見出すであろう。
2023年04月09日
イエスは死人の中からよみがえられました。 マタイ28:7
人は過去を変えることはできない。できればタイムマシンに乗って過去の出来事を塗り替えたいと思っても、それが実現できるのは空想の世界でしかない。正直に言うなら、人は過去の出来事に縛られていて、それに苦しんでいるのではあるまいか。
仙台市出身の作家恩田陸の作品に「夜のピクニック」という小説がある。高校生活最後を飾る「歩行祭」。それは夜間に80キロを歩き通すイベントで、その非日常の中に高校生たちのドラマが描かれている。その中盤の会話に、突然、CSルイスの「ナルニア国物語」のことが語られている。「もし、自分がもっと早くこの本に出合っていたら、自分の人生は変わっていたかもしれない」と。ナルニア国物語は、キリスト教世界観を童話風に描いたものである。
現在の私は、過去から未来へと繋がっている。その私は、今というときに転換を必要としていないだろうか。なぜなら死という夜が迫ってきていて、自分の力だけでは何をしてもそれを取り去ることができないからである。
イースターは、罪とその結果である死からの解放である。2千年前、エルサレムの「女たち」は、主イエスが十字架につけられる様子を「遠くから見ていた」(27:55) 主イエスは、当時、社会の底辺に押し遣られていた女たちの弱さを理解し、慰め、生きる勇気を与えてくれた。この人たちにとって、主イエスは唯一の希望であり、そこに新しい明日がやってくることを夢見ていたのである。けれども、その主イエスは人々によって重罪人として十字架につけられてしまった。その汚名を晴らすにしても、彼女たちの置かれていた立場はあまりに弱い。
しかし、そんな彼女たちに御使いたちによってメッセージが届けられた。「主イエスは死人の中からよみがえられました」。ここに主イエスによる人生の転換がある。そして復活の事実が、信じる人々を罪と死の支配から解放させる。
2023年04月02日
三時頃、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」これは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。 マタイ27:46
主イエスの生涯は、絶えず父なる神への祈りの中に導かれていた。そうであればこそ、十字架上での祈りに疑問を持つ方がおられるかもしれない。「わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」主イエスは、激しい苦痛の中でそれまでの信仰を捨てたのであろうかと。
しかし、この祈りは父なる神の御心に従って、罪の代価としてご自身が神の裁きを受けている姿である。「お見捨てになった」というのは、罪に対する神の怒りが、割り引かれることなく注がれているからに他ならない。
この祈りを耳にした多くの人たちは、その言葉を全く誤解して聞いた。「エリ」(我が神)を預言者エリヤ」を呼んでいるものだと解したのである。(47.49)それは単に発音が似ていたことによるミスということだけでは済まされない。霊的な意味において民衆が鈍感になっていて、自らの罪に無感覚であったことを証明している。
もし神の救いの全体を知りもしないで、断片的に主イエスの言葉を聴いたなら、このときのローマ兵たちのように、それを敗北者の嘆きとして受け止めるであろう。実際に、今日でもそのように主張する人たちがいる。
しかし「エリ、エリ、レマサバクタニ」は、決して神への信仰に絶望した祈りではない。反対に、極限にまで苦しみに立たれた方の神への信頼の祈りである。この祈りは、ダビデの祈りの引用でもある。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」(詩22:1)
ダビデにしても、このような祈り生む現実があったが、裏返せば神への動くことのない信頼があった。そこに真の礼拝者の姿がある。
私たち自身、様々な弱さや痛みを抱える者である。けれども主イエス御自身が絶望の中に身を置いてくださった。その主イエスが私たちのためにとりなし、罪と死の支配から解放される道を切り開かれる。そこに真の慰めと平安があることを覚えたい。