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2023年03月26日

 王は心を痛めたが、自分の誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって、与えるように命じた。  マタイ14:9

 

     誕生日を祝う風習は、ギリシャ文化の影響によるものとされている。ローマ帝国の支配を受けていたヘロデ王の誕生を祝うため、ユダヤの官邸には多くの有力者が招かれていた。そこで披露された少女の踊り。それは思いのほかヘロデを感動させるものだった。そして出席者一同の喝采を浴びたのだろう。そこで義父にあたるヘロデは、少女にとんでもない約束をしてしまう。

 「求めるものは何でも与える」(6)

 ヘロデは、きっと少女が子供らしいものを口にするだろうと予想したのである。ところが少女の求めにより、その場の空気は一瞬にして凍り付いてしまう。「娘は母親にそそのかされて、『今、ここでバプテスマのヨハネの首を盆に載せて私にください』と言った。」(8)

 少女自身は、自分の言っている言葉の意味をわかっていないに違いない。演じた踊りの延長か、何かの遊びの感覚であったのかもしれない。けれどもそれは人々が預言者として敬っていたバプテスマのヨハネを、裁判もしないで処刑することを意味していた。

 この企みは少女の母親であるヘロデヤから出たことであった。ヨハネがヘロデに対しヘロデヤの結婚を「あなたが彼女を自分のものにするのは律法にかなっていない」と糾弾していたからである。ヘロデヤは罪を指摘され、それを悔い改めるのではなく、罪を指摘し続けるヨハネに恨みを積み増していたのである。

 ヘロデ王自身は、ヨハネを死に追いやることが良くないことであることが自覚できたが、列席の人々の前で誓ったというプライドが、その愚かな行為を止めることができないものとしてしまう。

 こうしてバプテスマのヨハネは処刑され、預言者としての働きは終結した。しかし主イエスのさきがけとしての働きは、これによって決して失われてはいない。

2023年03月19日

  天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝をみつけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。                                                                                                                           マタイ13:44

 

    人生で何が価値あることなのか。人によって考え方が全く違うであろう。ある人にとって大事なことも、別の人では無意味とされてしまったりする。反対につまらないとされていたことが、違う人の中で絶大なものとして評価されることがある。

   主イエスは、「天の御国は畑に隠された宝のようなものです」と言われた。隠された宝は、人に知られていないけれど、圧倒的な価値あることとして語られている。この宝は土地の所有者の知らないときに、別の所有者によって隠されたのであろう。古代では、金製品などの宝を畑の中に隠して保存するということがなされた。それ故、後の時代の人に発見されるということもあった。

 主イエスの譬えでは、畑の中に宝をみつけた人は、その宝だけを抜き取ってはいない。堀った土を埋め戻し、持っている物すべてを売り払い、その畑を買うのである。これは畑とその中にある宝を自分の所有とするための正当な手続きである。発見者は「喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」(44) 

  ここに宝の発見者が抱く喜びの大きさが語られている。その中で価値の転換が起こっていることに気がつく。売り払う自分の持ち物のひとつひとつは、これまでの人生の中で大事に考えてきたものである。けれどもその全てを売り払ってでも、代価にして買い取りたいもの、それが天の御国ということである。天の御国は信仰によって個人的に見出す神の宝である。その代価として、持っているす

べてを売り払ったとしても余りある。

2023年03月12日

  天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔きます。どんな種よりも小さいのですが 、成長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります。 マタイ13:32

 

    初めて種を蒔いて、それが成長していく様子を観察したときの感動を覚えているだろうか。小さな種が芽生えて成長するのは自然の営みであるけれど、人には決してできない不思議な業であり、神の創造の力を強く思わされる。

 人が蒔く種の中で、最も小さいのがからし種であった。主イエスはこの種を用いて、神の国のたとえを語られた。からし種は畑に蒔かれ芽が出ると、他のどんな野菜よりも大きく成長して木にまでなる。これは人によってみ言葉が宣べ伝えられ、神の国が展開していくことをあらわしている。

    このとき、弟子たちの多くは漁師であり、日々の生活に追われている人たちであった。彼らは

主に従って歩んではいたが、実際に神の国が見えるものでなかった。からし種の小ささ孤独感が宿るとすれば、それは弟子たちが口に出せないまま抱いていた感情ではなかったか。

   主イエスの評判は、ユダヤという限られた地域において評判になっているとは言え、政治的に圧倒的な力をもっているのはローマ帝国である。どんなに抵抗しても、その影響によってユダヤ的なことが浸食されている。そうした中で語られた御言葉は、見た目において「どんな種よりも小さい」のである。しかし、からし種の場合、これが地に蒔かれると、成長してどんな野菜よりも大きくなる。多年草であるからし種は、人の身丈以上に成長するからである。枝を張って木にまでなるのだから、他のどんな野菜と比較しても格段の違いがある。このたとえは、御言葉を語り伝える弟子たちの心を鼓舞したであろう。同時に私たちの信仰の歩みにおいての励ましである。

 主イエスの御言葉の終点は、「すべての国民」(28:19)であり、「地の果て」までである。(使徒1:8) それはやがて空の鳥が安全を求めて巣を作るようになる。地上的な価値観では見出せない広がりがここにある。

2022年03月05日

   持っている人は与えられてもっと豊かになり、持っていない人は持っているものまで取り上げられるのです。 マタイ13:12

 

   才能や努力だけではなく、それに結びついた幸運などによって結果を出せる人のことを、「持っている人」と表現することがある。一旦、このレッテルが貼られてしまうと、自分からそれを剥がすことができない。人々はその人が成功したときには、「やっぱり」と満足気に評価し、そうでないと 「持っていたはずなのに」と落胆を隠そうとしない。

 しかし主イエスが「持っている人」と言われたのは御言葉に裏打ちされた神の国の奥義を知ることであって、そこから切り離された能力とか幸運といったたぐいのことではない。それが神の国の奥義として種蒔きのたとえの中で語られた。

 小さな種の中には、創造者によって収穫に至るまでの全ての能力が備えられている。種は人の手によって地に蒔かれる。神は人がその業を通して神の祝福に与るようにされた。神の奥義で言えば、人は宣教の言葉によって神の愛がどんなに豊かで祝福に満ちたものであるかを知るのである。

  けれども、種はその蒔かれた土壌によって、成長が大きくことなる。直ぐに鳥に食べられてしまう道端もあれば、根を張れない石地もある。茨では成長が塞がれてしまう。このたとえでの土地は、御言葉を受け止める私たちの心である。土地が耕され、茨が塞がないように整えられていなければ、多くの良い実を結ぶことができない。

 「もっている人」は、御言葉に対して心を開き、その結果、日常生活の中で神の国の恵みを会得している人たちのことである。このような人は信仰から信仰に導かれ、さらに神の祝福を持つようになる。逆に信仰において神の祝福を持たなければ、自分が既に得ていたものさえも失うことになる。このマイナスは量り知れない。

2023年02月26日

   主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。 ヨシュア5:15

 

    中国春秋時代に活躍した孫子の兵法に、「彼を知り己を知れば百戦殆(あや)うからず」とある。信仰の戦いにおいては、自分の力の強弱よりもその戦いの本質が何であるかを見極め理解しておくことの方が重要であるように思う。

   モーセが死した後、イスラエルの民は、約束の地を目指してヨルダン川を渡ってから、その地で過ぎ越しのいけにえをささげたとある。長い停滞から激変しているようであるけれども、川を背にしていることからすると戦略としては最も弱い陣形になっている。もし敵に急襲されたなら、逃げ場がない民は絶滅されてしまうかもしれない。

 新しくリーダーとなったヨシュアにとって、このように約束の地への一歩一歩が緊張の連続であったろう。その前に立ち塞がっていたのがエリコの城壁であった。もし直接的な戦いになったなら、多くの犠牲を出す激戦になることが予想される。ヨシュアがその城壁を見上げていると、一人の人が抜き身の剣を手に持って立っていた。(13)

 ここで「ヨシュアは彼のところへ歩み寄って言った。『あなたは私たちの見方ですか、それとも敵ですか』 味方なら直ぐに手助けをしてほしいし、敵であるなら一戦を構えることになる。このヨシュアの行動に対しその人は言った。「わたしは主の軍の将として、今、来たのだ」(14)

 迫りくる危機に、ヨシュアの頭の中は真っ白になっていたのではあるまいか。緊張状態でパニックになりかけている。そんなヨシュアに、この人は主の軍の将として、これから為される戦いが主の戦いであることが明かされる。そこにおいてヨシュアに求められたのは、主の御言葉に信頼しての徹底的なへりくだりであった。「あなたの足の履物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。」(15)

   様々な問題に囲まれると、そこだけに頭がいって主との関係が途絶えてしまうことがある。けれども主が願っておられるのは、そうした中で主に深く信頼することでなかろうか。ヨシュアの偉大さは、しっかりとモーセの謙遜さを引き継いでいることにあると思う。

2023年02月19日

     私たちの神、主はホレブで私たちに告げられた。

「あなたがたはこの山に十分長くとどまった。あなたがたは向きを変えて出発せよ。」

                                      申命記1:6

 

   本日は教会総会の日である。昨年末から、年間聖句を祈り求めてきた。そこで与えられたのが、「あなたがたは向きを変えて出発せよ」である。

 モーセとイスラエルの民は、「あなたがたはこの山に十分長くとどまった」と主から言われた。

この山ホレブはシナイ山を意味する言葉であり、エジプトから脱出したイスラエルの民はこの山

で神から契約の言葉を授かった。

  その契約に基づいて、「アモリ人(カナン人)の山地に、またすべての近隣の約束の地に入って

いくはずであった。ところが実際には、大きな壁に直面し、約束の地に入るための動きがストップしてしまう。カデシュ・バルネアから遣わされた偵察隊の報告を聞いた民が、これから約束の地に入っていくことなど不可能と判断し、モーセと神に逆らったからである。

 神が備えられた地は、信仰によって与えられる約束の地であった。それを人間的なレベルに引き下げてしまうとき、神からの約束も祝福も見えなくなってしまう。結果として、イスラエルは、38年間、このカデシュ・バルネア周辺にとどまっていた。

 向きをかえて出発するのは、そのときの不信仰から神の約束に立ち返ることによってである。

そこで問われるのは、一人ひとりが神の言葉にどのように向き合っているかである。私たちの教会も長く山に留まっていたのではあるまいか。それはそれなりに理由があり説明されることではある。けれども現状維持を神は望んでおられないであろう。再出発のため、御言葉との向き合い方を正していきたい

2023年02月12日

  だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。  マタイ12:50

 

   一般的に、家族は人間関係で最も繋がりが深いとされている。親や兄弟は子供の頃から自分を知っているので、それだけ信頼が寄せられる。逆にそのために反発が生じるということもあろう。ともあれ家族というものは他に代替えできない関係性に置かれている。

 主イエスが群衆の中で話しておられたとき、「母上と兄弟方が、お話ししようと外に立っています」と告げる者がいた。家族の中で何かの用事が生じたというのではなく、主イエスに対する噂に家族の皆が心配して様子を見にきたものと思われる。主イエスが悪霊につかれていると言う噂が郷里にも流れていたので、主イエスに合って言葉を交わしたかったのかもしれない。最悪の場合は連れ戻そうという思いもあったであろう。

 そんな母と兄弟たちの心配を察知すればこそ、戸口に立っている彼らのために話を切り上げて会いに行くのが常識ではないかと考えてしまう。ところが主イエスは、その家族にではなく群衆に向かい続けて言われた。

「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」

 主イエスは、神を「わたしの父」としている。ここでは血の繋がりによる家族ではなく、ご自身が神の御子であることを明確にした上での家族関係が語られた。それは肉の家族を無視することではなく、むしろそれを包摂する福音を前提にしている。ここに「天の父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母」ということの意味がある。それは信仰によって生み出される、新しい神の家族の姿である。

「あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」(エペソ2:19)

2023年02月05日

 悪い姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。 マタイ12:39

 

    人の真実さは何によって計られるべきか。言葉以上に信じるものを求めるなら、それは歪な関係を構築することにならないだろうか。

 主イエスに敵対するパリサイ人たちは、主イエスの言葉には耳をかさないで天からのしるしを求めた。主イエスが神らしい驚くべき超常現象を示せるなら、自分たちも神として認めるかもしれないという態度である。証拠の有り無しを判断の基準とする現代人の思考に近く、合理的であるとも言える。主イエスは多くの病むを癒し悪霊を追い出す業をしていたが、このしるしを求める人たちにとってみれば、それらのことは決定的なことではなく、神の子を示すに不十分な業であった。

 主イエスは、こうした人々に対し「悪い姦淫の時代はしるしを求めます」と言われた。旧約聖書のマラキ書において、神とイスラエルの関係が夫婦に置き換えられている。そこでは神との契約への真実な応答が求められたのに、現実のイスラエルは言葉以外のものを求めた。そのことが姦淫の罪とされている。

 しるしを求めることは、同時に神の言葉を軽視した。主イエスは、この時代において、そうしたしるしはないと断言しておられる。そして唯一「預言者ヨナのしるし」は別であるとされる。ヨナは人々によって海に投げ出され、大きな魚に飲み込まれた。(ヨナ1) 魚の腹の中に三日三晩いて、そこから吐き出されたことは、主イエスが人々によって十字架に死に、三日目に復活されたことの型である。

 そこに示されたしるしは、人々が求める方法によって立証されたことではなく、神の真実な証しとして天から啓示されたものであった。主イエスヘの信仰は自分の量りによって真偽をさばくのではない。内なる罪に支配されている者に、どうして真理なる神をさばけようか。しるしを求めることは、そうした愚かさを露呈している。信仰者は、示された言葉に心を開くことが求められる。この点で、ヨナの説教に悔い改めたニネベの人々の模範がある。

2023年01月29日

良い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い者は悪い倉から悪い物を取り出します。

             マタイ12:35 

 

 スーパーなどで生鮮食品を買うとき、何がいいものであるか見分けがつかないことがある。見た目だけの勘で判断した結果、家に帰ってから後悔したという経験は多くの人が持ち合わせているのではなかろうか。そんなとき、選ぶことのポイントを教えてもらうと、そうしたことの間違いは軽減されるだろう。

 主イエスと論争したパリサイ人は、当時の社会にあっては好ましい人物であるように思われていた。けれども宗教的に熱心なこの人たちは、主イエスの教えが律法に基づいた伝統を破壊するものとしてことごとく対立した。それは日に日に激化し「どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた」(14)とある。

    一方、主イエスの言葉と働きを見聞きして、「もしかしてこの人がダビデの子なのでなかろうか」(23)という人たちがいた。ダビデの子とはメシアの意味であり、それを待ち望む人々の期待がある。「悪霊につかれて目も見えず、口もきけなかった人」が、主イエスの癒しによって「ものを言い、目も見えるようになった」のだから、人々の驚きと熱狂が主イエスを救い主に押し立てたとしても頷ける。

 こうした主イエスの業に対するパリサイ人たちの評価は、全人格的な否定を意味するものであった。「この人が悪霊を追い出しているのは、ただ悪霊どもの頭ベルゼブルによることだ」(24)

 今日的な評価であれば、両者は見解の違いということでスルーされてしまうかも知れない。しかし主イエスは、ここに聖霊に逆らうことの罪があることを指摘された。それが如何に深い罪であるかをしることが重要である。この罪は、社会的な評価では隠されていても、その人が発する言葉によってはっきりと表れてくる。パリサイ人の言葉を反面教師として、その危険性を安易に見逃してはならないと思わされる。

2023年01月22日

   人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。        マタイ12:12

 

    健康のためなら死んでもいい、というジョークが一時ささやかれたことがあった。それは、いささかやり過ぎと思える健康志向に対し、本来の目的を見失ってはいけないという、自嘲とも警告とも受け取れるような言い方であった。

 「人間は羊よりもはるかに価値があります」と主イエスは言われた。「そんなことはわかっている」と怒りを込めた反論が返ってきそうである。けれども律法により生活が規制されていた当時の人々の中には、その価値が逆転しているとしか思えないような行動がみられた。

 安息日に会堂の中に片手が萎えた人がいるのをみたパリサイ人は、「安息日に癒すのは律法にかなっていますか」と質問した。単純にわからないことを聞くというのであれば、質問することに意味はある。けれどもここでは、「イエスを訴えるため」(10)とある。彼らは、主イエスが律法を守ることを知っていた上で、この片手の萎えた人を癒すであろうことを予測していた。彼らの律法の解釈によれば、そうした奇跡を行えば安息日に労働をしたということで律法を破ることになる。

   彼らの質問は、「イエスを訴えるため」(10)であった。それは悪意によって仕組まれた罠であったが、主イエスの反論が彼らの論理を破綻させる。安息日に穴に落ちた羊であれば、それを引き上げるではないか(11)というものである。当時の口伝律法であっても、そうした行為を禁ずるものはない。むしろ主イエスはそれを「良いことをする」(12)ことだと言われた。

 律法により安息日を厳格に守っていたパリサイ人。彼らはその日を「聖とする」ことを取り違えていた。聖とすることは律法によって礼拝者の行動を縛ることではなく、束縛から解放されて神を礼拝する意味であったからである。この信仰に立った礼拝こそが安息日に求められていたことであった。そこに「羊よりのはるかに価値のある人間」の発見がある。

2023年1月15日

 人の子は安息日の主です。マタイ12:8

 

    聖書は、神は天地創造を六日で完成し、七日目に休まれたと伝えている。「神は第七日目に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべての業を休まれた」(創世2:2)

 神が休まれたということは、この休みが創造の業に組み込まれ如何に重要なことであるかということでもある。こうして旧約時代に一週間が七日とされたが、安息日が聖なる日と定められたのは、出エジプトの出来事によってである。モーセの十戒には「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」(出エジプト20:8)とある。

 現実の生活をおくる中で、人はどうしても神を忘れた行動をとってしまう。そうした中で、安息日を聖なる日として分け、神礼拝に心を注ぐことは、人の本来の歩みを回復させるのに必要なことであった。

 しかしイスラエルの歴史において律法の安息日規定が、不信仰の罪によって歪められてしまう。特にバビロン捕囚以後においてその傾向は著しく、他の様々な口伝律法を加えることになってしまう。

  マタイ12章でのパリサイ人は、弟子たちが律法を守っていないとして、主イエスを糾弾した。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」(2)

  指摘されたのは、麦畑の穂を摘んで食べたということであった。問題とされたのは、他の人の畑の収穫物を勝手に食べたことではない。穂を摘んで食べるという行為の中に、収穫、脱穀という労働が含まれており、それが安息日の規定違反であるとされたのである。

 安息日に労働を休み、その日を聖なる日とすることは正しいことである。その本来の意味を見失って、人が造り出した条文によって裁いている。これは神礼拝に隠れたパリサイ人自身の自己肯定の姿であった。

 主イエスは旧約聖書の事例によって「読んだことがないのですか」と彼らのみ言葉への不理解を示された。その上で安息日の神礼拝において最も重要なことが「真実な愛と神を知ること」(ホセア6:6)であるとされる。創造の秩序の中に組み込まれた安息日。ここでは、その主ご自身が安息日の主であることを宣言しておられる。

2023年01月08日

 たとえ私が人の異言や御使いの異言で話したとしても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。Ⅰコリント13:1

 

    新しい年が明けて、ニューイヤーコンサートを楽しんだという方もおられるであろう。どんな演奏スタイルであれ、演奏者は最初に一つの音に合わせることに集中する。そこに造り出されるハーモニーが聴衆の感動を呼ぶのだと思う。逆に誰かが全体を無視して自己主張を始めたら、個人技は優れていてもコンサートは失敗に終わるに違いない。

 教会に集う私たちは、それぞれが聖霊の賜物を受けている。その賜物が愛という調和を無くして自己主張を始めたなら、教会としての役割を果たすことはできない。なぜなら教会の働きは、「愛に根差し、愛に基礎を置いている」(エペソ2:17)からである。

 使徒時代においては教会の中で異言が語られることがあった。異言というのは、聖霊の満たしによって人が超常的に他国の言葉を語ることである。キリスト者にとって、それは聖霊の満たしを確証することで、信仰を力づけることであった。けれども教会の外にいる未信者にとっては理解不能の躓きとなるかもしれない。実際、説き明かす人がいない所での異言は、教会に混乱を来すことが危惧された。(14:23)

 パウロ自身は「だれよりも多くの異言を語って」(14:18)いた。けれども教会の中では、それを説き明かす預言を語ることに集中した。「異言で語ることは自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させ」(14:4)るからである。この愛がなければ異言は「騒がしいどらや、うるさいシンバル」になってしまう。

 私たちの信仰は、教会という交わりの中で成長していくのである。どんなに自分が確信していることであっても、教会の中でそれがどう受け止められるかを考える必要がありそうだ。全体の調和というハーモニーが乱されていないかどうか、それを見極めるのは愛による。

2023年01月01日

 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。   ローマ12:2

  

    山歩きをする人が標識を見誤ったら、たちまち道に迷ってしまう。その向きが曖昧になっているものは標識としての役に立たないばかりか有害でさえある。神は、私たちが恵みの高根に至ることができるよう、日々、御言葉をもって導いていてくださる。私たちは、信仰をもってそこに立つとき道に迷うことはない。

 使徒パウロは、信仰者の歩むべき道とこの世に調子を合わせる道とを対比させている。ローマ教会内には神への信仰から離れ、この世の傾向に歩調を合わせている人たちがいた。しかしパウロは、それがキリスト者の目指す歩みではないと断言している。そこで求められているのは、「心を新たにすることで、自分を変えていただく」ことである。

 ここでの「心」は、人の単なる知的な能力のことではなく、理解し行動していく能力のことを意味している。コロコロ変わるのを心とすれば言い訳も出て来ようが、実践力を指すものであるならば神の前での責任が伴ってくる。心が新しくされることは、コロサイ人の手紙では「あなたがたは古い人をその行いと共に脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです」とある。(コロサイ3:9.10) つまりこれは聖霊の恵みによって為される神の業であって、決して自分の願いや努力をベースとしているのではない。新しくされるのは、神の創造の力によってである。

  創造による新しさが向かうのは神の御心を知ることにある。「そうすれば、神の御心は何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるかを見分けるようになります。」(2)

   この世と調子を合わせる者は、神の御心を自分のものとして知ることはできない。新しい年の初めに、自分の内側が神の恵みで満たされるようにしたい。そこに新しい神の創造の業を見出すことができるだろう。そこから信仰による新しい一歩を踏み出すことができる。

2022年12月25日

  いと高きところに、栄光が、神にあるように地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。   ルカ2:14

 

   キリスト誕生のメッセージは、御使いたちによって羊飼いたちに伝えられた。本来なら王とか祭司長、あるいは律法学者たちに伝えられるべきであったろう。常識的にはその方が一般民衆に早く届くと考えてしまう。

   しかしそれを拒否しているのは、「みこころにかなう人々に」という天の側の判断である。このときユダヤの王であったヘロデは、ローマの宗主権によって民衆を強圧的に支配していた。彼は、人々の支持を得るため神殿を再建したのだが、全くといっていい程に信仰心はなく、道徳的には問題が多い人物であった。

   それを正すべき祭司長や律法学者は、気まぐれな王の機嫌を損ねないように気を遣うばかりで、御言葉から神の声を聞いて人々に伝えるという姿勢を失っていた。

   そうした中にあって、御言葉は世の人々から疎んじられ、差別されていた羊飼いたちに焦点を当てている。羊飼いたちは、「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになりました」という御使いたちの声を聞いた。

 ここで召された「あなたがた」は、社会的な立場によって捨て置かれるのではなく、人間的な価値観によって弾き飛ばされるのでもない。天からの招きによって、キリストが直接的に結びつくところに、福音のメッセージがあかしされている。

   神からの祝福は、人の業においては無条件である。けれどもそれを受けるには、「みこころにかなう人々」とあるように信仰が求められている。

 羊飼いたちは信仰をもって素直に御使いたちの言葉に応答することができた。そこには血によって選ばれた民ではなく、信仰によって招き入れられる新しいイスラエルの民が語られている。その恵みの大きさの故に「栄光が神にあるように」と賛美がささげられる。私たちは、クリスマスにおいて同じ信仰をもって応答しよう

2022年12月18日

   ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来

られたひとり子としての栄光である。    ヨハネ1:14

 

  出会いが人生を大きく変える。主イエスの弟子ヨハネは、十代のときに主イエスの弟子となって、福音書を書いたのはそれから七八十年後のことである。それでも若いころに主イエスを知ったことの驚きと感動は少しも衰えてはいない。このことはキリストを知ったという事実が、如何に大きな衝撃であったかということを証ししている。

   既にエルサレムは崩壊し、イスラエル国家は滅亡してしまっている中で、人となられた神をどの

ように言ったら皆にわかってもらえるか。ヨハネは迫害の手を逃れながら、常に人々に届く言葉を考えていたのであろう。それが「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」 という表現になっている。

 キリストの受肉は、神の慈愛による謙卑と罪からの贖いのために不可欠のことであった。それは

人々が求めた政治的な救いとは違っていた。キリストの十字架と復活は、人の内にある罪を指摘し、

その結果である死の力からの解放を告げ知らせるものだからである。

 けれども当時の蔓延するヘレニズムの社会にあっては、キリストはギリシャの神々と同列に誤解

されてしまいかねない。その物語に登場する英雄は、祖先を神にもつ半身人間であるからである。そうした見方に反証するように、ヨハネは「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来ら

れたひとり子としての栄光である」と言っている。

 気まぐれで人間臭いギリシャ神話の神々ではなく、生きて現実に働いておられるまことの神。その神が主イエス・キリストによって啓示された。御子が父のみもとから来られたことは、人の勝手な空想によるのではない。「この方は恵みとまことに満ちておられた」(14)  老齢になったヨハネの

「私たちはその方をみた」という激しい息使いが聞こえそうである。主イエスの言葉と業と人格において明らかにされた神の恵みの真実さ。ここに救いの証しの確かさがある。

2022年12月12日

 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。  ヨハネ1:9

 

  冬至を前にしたこの時期は、日没が一番早くなる。天文台の計算によると仙台での11日の日没が午後4時16分。冬至の頃には4分程遅くなるようだ。勿論、日の出はまだ遅くなっていくので、昼の時間は短くなっていくのだけれど、日の出のことを考えなければ、夜が早いことでの峠は越えたような気がしないでもない。そんなことを考えて喜んでいるのは自分だけだろうか。

 動物であれ植物であれ、いのちをつなぐのに光は不可欠である。光の届かない深海の生物であっ

ても、間接的に光の恩恵を受けている。誰かのの言葉でなくても、日常的に「もっと光を」と言ってみたくなる。

 光も神の被造物であるが、聖書ではしばしば神を啓示するのに光が用いられている。神の光を拒絶している人の闇が明らかにされるためである。光は闇の中に輝いている。けれども、そのままでは人の中に光は届かない。そこで神は人になって人の中に住まわれた。これがクリスマスである。バプテスマのヨハネは、人となられた神を預言して「すべての人を照らすそのまことの光」(9)と言った。

 「そのまことの光が来ようとしていた。」

  ヨハネがユダの荒野で活動を始めたとき、主イエスはまだガリラヤのナザレで生活をしていたと

思われる。主イエスは「まことの光」であるから、「来ようとしていた」というのは、主がガリラヤ

からユダの荒野へ行かれることであると考えられなくもない。

 けれどもこの個所での「来ようとしていた」は、御子が人の姿をとって天から降られることを表現したものであろう。パブテスマのヨハネは、そのことを人々に証しするために立てられたのである。「この人は証しのために来た。光について証しするためでであり、彼によってすべての人が信じるためであった。」(7)

 人の内にある闇は今も深い。けれどもそこに「まことの光」が届くため、神は如何に入念に備えられていることか。私たちの知らないところで、神の絶大な愛が注がれていると気づかされる。

2022年12月04日

 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 マタイ11:28

 

   人はそれぞれに重荷を負って生きている。重荷をバネとして積極的に人生を切り開く人もいる。けれども問題は、それに耐えきれないで弱ってしまうことではなかろうか。重荷を下ろすところが見つからないのである。人の批判を恐れたり、自分のプライドであったり、自分の側にも容易に荷を下ろせない理由がある。

そうした煩悶を重ねながら、越えられない限界が見えてしまうと、前に進む気力までも失ってしまう。そのときには生きることの意味さえわからなくなって、不条理という闇の中に座り込んでしまうことだってある。

 主イエスの言葉を、そうした人が持つ弱さに付け込む宗教者の勧誘と考えてはならない。主は根拠も無しに空約束するのではなく、休ませるための土台を築かれているからである。主イエスは、「重荷を負っている人」が休みを得ることができるために来られた。「わたしは心が柔和でへりくだっている」(29)とあるように、神の御子のへりくだりこそが、私たちの重荷の根本的な解決を生む。なぜなら神との交わりで障害であった罪を十字架によって取り去り、神との関係で罪を赦し、神と共に歩むことができる道を開かれたからである。

 「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」(29)

 主イエスとくびきを共にするとは、私たちが主と共に重荷を負いながら歩むことである。そこでは重荷がなくなってしまうのではない。けれども、以前のように孤独の中で負うのではなく、主イエスと共に負うのである。そのとき「たましいに安らぎが来る」と約束されている。

 人が重荷を負い続けることの中で失った「たましいの安らぎ」。それを約束されることは何と幸いなことか。主は今あなたにも「わたしのもとに来なさい」と呼びかけておられる

 

2022年11月27日

バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、

 天の御国は激しく責める者たちがそれを奪い取っています。     マタイ11:12

 

    バプテスマのヨハネの登場は、イスラエルに神の約束を思い起こさせるものであり、失いかけていた希望を抱かせるものであった。

 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(1:2)

 人々は、このヨハネが語るメッセージに耳を傾け、あらゆる地域から集まってヨルダン川でパプテスマを受けた。そこに暗黒を払拭する新しい時代の到来を感じとっていた。このときヨハネは、自分はキリストではなく、「自分より後から来る方」を明らかにするのが自分の務めであると言っている。そして間もなくヘロデ王によって捕らえられてしまう。

 主イエスは、「ヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた」(4:12) そして「この時からイエスは宣教を開始」(4:17)したことが記されている。

 天の御国のメッセージは、ヨハネが主イエスに先行している。それは主イエスの到来を指し示すものであったけれど、「その日から天の御国は激しく責められている」つまり悔い改めは、天の御国に入るということで有効性を欠いてはいない。どのようなかたちでかはわからないが、確かに多くの人たちが天の御国に殺到しているのだと知る。

 「天の御国は激しく責める者たちがそれを奪い取っています。」

  ここに天の御国についての正しい理解をすることと、御国の祝福を渇望することが求められている。人々は、自分勝手な神の国の理解で、主イエスから離れていくからである。「奪い取る」という表現は、暴力的なイメージのため敬遠されるかも知れない。けれども、あえてこの言葉が用いられたのは、霊的な目覚めを促すためである。

 「ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたがたは信じず、取税人たちや遊女たちは信じたからです。あなたがたはそれを見ても、後で思い直して信じることをしませんでした。」(21:32)

2022年11月20日

神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。

             Ⅰコリント12:18

 

    人のからだには密接な繋がりがある。例えば腎臓は尿を作るだけでなく、人体ネットワークでバランスを保つ要の働きをしているという。以前、NHKの「人体」という番組で、その不思議な働きが語られていた。からだはそれぞれの器官が仕え合うことで機能する。見た目には見劣りするような器官であっても、それがどんなに大きな働きをしていることか。

 主イエスの教会は、御霊によって新しく生まれたキリストのからだである。この場合のからだ(単数)は、部分(複数)によって構成されている。「私たちは大勢いても、一つのからだです」(10:17) それは単に全体と個を意味することではない。

   社会学的には、個の集合として全体が考えられる。けれども、ここでパウロが指摘するのは、個が全体に抑制されるようなことではなく、一人一人がキリストとの結びつきによって互いが生かされることである。からだの仕組みにおいて、各部分は独立した働きをするものではないし、異なる他の器官を排除したりするものでもない。ロボットと違うのは、部分が互いに仕え合うことによって全体の調和を保たれることにある。

  「目が手に向かって、『あなたはいらない』と言うことはできないし、頭が足に向かって、『あなたがたはいらない』と言うことはできません。」(21)

 人のからだにおいては強さとか見栄えばかりが注目される。それに対しキリストのからだでは、弱い部分であったとしても、他の器官の関わり方が重要なこととされる。

 「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」(26)

 聖餐式によって、私たちはキリストのからだの一部であることを告白する。共に生かされていることは何と幸いなことであることか。

2022年011月13日

  目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい人たちに福音が伝えられています。                                                                                                     マタイ11:5

   キリストは救い主を意味する言葉である。その到来は、人々にどのような期待を抱かせたであろうか。現実に不当な苦しみに苛まれている人であれば、御力によって一刻も早くそこから解放してくれることを願うのは自然なことである。

 牢獄でキリストのみわざを聞いたバプテスマのヨハネにとって、彼の弟子たちが教える主イエスの評判は気が気でなかったに違いない。ヨハネは、不倫を犯した王の罪を糾弾したことによって王の怒りを買い、牢獄に投獄されていた。AD54年頃ヨセフスによってに書かれた「ユダヤ古代史」によれば、ヨハネが閉じ込められていたのは、高い山のいただきに作られた天然の要塞の中にあったという。「おいでになるはずの方はあなたですか、それとも、別の方を待つべきでしょうか」(3)

 この問いは、バプテスマのヨハネならずとも、彼の弟子たちにおいても共通した疑問であったろう。これに対して主イエスは、イザヤ書35章と61章に記された預言の言葉から答えておられる。 

 注目しなければならないのは、福音が証しされているとする人たちである。ここでは「目の見えない者、足の不自由な者、ツァラアトに冒された者、耳の聞こえない者、死人、貧しい者」とある。社会の中では隅に押しやられているような人たちである。けれども御言葉を照らしてみれば、それはメシアによる神の国の到来を告げるものであった。

 大きな政治的な変革とか、社会の劇的な改革だけを願っていると、聖書が語る神の国を見過ごしてしまう。むしろ、私たちのそば近くに為されている福音による神の業に目をとめる者でありたい。そこにこそ、私に語りかける神の恵みが秘められているからである。

2022年11月06日

信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。    ヘブル11:1

 

    十一月の第一日曜は、多くの教会で聖徒の日として先に天に召された兄姉を記念している。死は誰にも避けられない。長寿を全うしようが、アンチエイジングをしようが、死は必ずやってくる。その死後において希望を持つことができることは、何と幸いなことであることか。

   しかし現代人の多くは、目に見えない神を実在しないものとしている。信仰を口にする人であっても、軸足を不確かさに置いているという矛盾を抱えている。そこでは信じる対象がつき詰められることなく、信じたことへの反省もないまま放置されていないだろうか。

 聖書における信仰は、そのように不確かなものを対象としているのではない。神への信仰によって「望んでいた」ものが見えてくるからである。「目に見えないものを確信させる」(1)の「見えないもの」とは、神の実在とその契約によってもたらされる恵みである。これは信仰生活という長いスパンを通じて、その人の中に明らかにされてくる。信仰の人アブラハムにおいてもそうであった。アブラハムは神からの召命を受けてから「彼は主を信じた」(創世記15:6)と告白するまで長い年月を要している。その後も神の試練を受けて信仰の成長を遂げている。

 キリスト者の信仰生活も、ときどきの試練や問題に直面しながら、信仰によって歩むことで共におられる神を知る。信仰の「保証」というのは、実験的に得られるものでもなければ、先駆けて手にするものでもない。もしそういうことであるなら、「信仰」ではなく、「取引き」であろう。それは愛とは異なる次元のことである。

 望んでいることが保証となるのは、そこに愛と信頼による歩みがあるからである。そうして神を身近に知るようになる。そのひとつひとつこそが、待ち望んでいることの確信とされていく。

2022年10月30日

自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。

             マタイ10:38,39

 

 キリスト者は、十字架を仰ぎみることから信仰の道を歩み始める。そこで罪の赦しを受け、永遠のいのちを受け継ぐ者とされる。

 誤解してならないのは、それは信仰の出発点であり、決してゴールではないことである。だからキリスト者となった者は、「自分の十字架を負って」主に従う者とされる。「わたしにふさわしい者」とされるのは、その召しに従って主イエスの弟子になることである。

 十字架はローマにおける死刑の道具である。罪のない神の子が、それを負うことは本来ならあり得ない。主イエスはそのため人々から罪人とされ、辱めを受けられた。主イエスがあえてそれを負ったのは、「わたしにふさわしい」者のためである。

 「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。」(Ⅰペテロ2:21)

 「自分の十字架」を負うのは、主イエスの愛に生かされていることによる。負うことは引き受けることで、そこにおいて私たちは古い自分に出会う。自分の十字架は、愚鈍、無意味、絶望、死として迫ってくる。けれども私に注がれるキリストの愛によって、新しく造り変えられ神のいのちに生かされる。そして日々キリストの似姿に変えられていく。単なる義務感なら負うことはできない。権利だけを主張すれば、違った道を見出すことはできよう。そうしたことは人間的には赦されることであり、場合によって人に賞賛されるかも知れない。

 しかし目を止めなければならないのは、誰のための「いのち」であるかである。自分のためのいのちは、それを求め続けることで失ってしまう。それに対し、「わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです」とある。

2022年10月23日

    からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。  マタイ10:28

 

   キリスト者は、御名のため人に憎まれたり、それまでの関係性が壊されるということがある。

「兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。」(10:21) 

    日本においては、キリシタンの迫害が思い起こされる。信仰による価値観が世の利害と対立し、社会はおろか家族からさえも信仰を捨てよう強く迫られたようなことが起こり得る。

こうした信仰に対する反対は、カルト宗教のように信仰者の側の反社会性が起因しているのではない。キリスト者の真実さや正しさが、それに反対する勢力によって憎しみの対象とされてしまうのである。

   そんなとき恐れに支配されてしまうと、信じることの意味とか歩むべき方向性までもが見えなくなってしまう。恐れは信仰を後退させる。それ故、

御言葉によって、信仰が再構築されなければならない。人に対して抱く恐れよりも、「たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことのできる方」こそが恐れられるべきであるとする。

 この恐れは、人を恐れることと同質のものではない。主イエスは、この権威の持ち主を「あなたがたの父」(29)と言っておられるからである。父は子を滅ぼすことを願ってはいない。子が生きることが父の願いであり、父はそのために最大の愛を注がれる。けれども子がその父の愛を軽んじ、せっかく父が備えられたものを無視し続けたならどういうことになるか。

 そのときには父の怒りがあらわれる。「ゲヘナで滅ぼすことのできる方」は、このような父の愛への反逆に対するさばきである。

信仰者は、天の父を視点に置いて信仰生活を送る。それは恐怖に怯えるようなことではなく、父としてキリスト者を愛をもって導かれる全能の神への信頼によるものである

2022年10月16日

    いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。     マタイ10:16

 

 神の国の福音を伝えるということは、神の恵みでありすばらしい働きである。同時にそれはどんなに困難なことであることか。

 主イエスは、「狼の中に羊を送り出すよう」と言われた。羊には狼がいることが見えていない。だから、しっかりと目を開けて敵の存在を意識し、備えなければならない。

 ここで心構えとして語られたのは「へびのような賢さ」である。この場合のへびは、自然の中に生息している蛇である。

 子供の頃、私は、家で飼っていた鶏の卵が他の動物に食われないよう、鶏小屋に板を貼り付けたり、土台付近に小石を敷きつめたりした。いたちがに襲われたりしたからである。それでもどこからか蛇が侵入してきて、卵を全部食われてしまった経験がある。あの冷徹な目には、恐ろしい程に状況を素早く察知して判断する能力が隠されているのだと思う。

 主イエスは蛇と並んで鳩を例にとりあげられた。「鳩のように素直でありなさい。」

 鳩もまた子どもの頃に一時期飼っていた。伝書鳩がブームであったからである。夕方近くなって放鳥すると、家の上空を何周かして鳩小屋に帰って来る。中には野鳩に誘われて帰って来ない鳩がいたりもしたが、見つけたときにわかるように足環をつけておく。何回かそうしてとり戻した。

 鳩と他の鳥の違いは、人に慣れることであると思う。また狭い所に入れても決して騒いだりはしない。マジックで鳩が用いられることがあるが、あれは鳩の性質を利用したものと言えよう。どんなに優れたマジシャンであっても、帽子から鶏を取り出すなどという芸当をすることはできない。そんなことをしたら、鶏に頭をつつかれて失敗に終わるであろう。

 信仰的な素直さというのがある。疑いの目だけで人をみていたら、人はその人の語る言葉を信じない。反対に何でも信じてしまったら、巧妙な罠に嵌って、どうにもならない事態に陥ってしまう。こうした知恵はどこから与えられるか心配に及ばない。蛇の賢さも鳩の素直さも創造者のものである。その創造者ご自身が信仰者に既に与えておられる

2022年10月09月

   袋も二枚目の下着も杖も持たずに、旅に出なさい。働く者が食べ物を得るのは当然だからです。                                                                                                             マタイ10:10

 

    今日、旅に出るときには、より多くの快適さが求められている。そのための持ち物は、趣味や用途によって実に多様である。それに対し、2千年前のイスラエルでは、旅は危険を伴うものであった。山道では強盗に襲われる恐れがあったし、旅先で必要なものが得られないなら休む場所も見いだせず、飲食することも事欠いてしまったであろう。

   そうであれば、福音宣教の旅においては、持ち物において万全の備えが必要と考えてしまう。けれども主イエスは「胴巻きに金貨も銀貨も銅貨も入れてはいけません」(9)と言われた。金銭であれば、旅のためにいくら用意すればいいかおおよその額が予測できる。主イエスは、それをきっぱり否定するばかりか、旅行用の袋も着替えのための二枚目の下着も持たずにと言われた。

 それらは福音を伝える働きに対して、神が報酬として必要なものを与えてくださるからである。この神との直接的な信頼関係を持つことが優先されている。

 実際問題としてこの部分を欠くときに、旅に出ることでの不足があれやこれやと際限なくなってしまうのではなかろうか。あるいは、そのために出かける決心がつかず、いつまでも延長されることになったかもしれない。

 しかし主イエスは、使徒たちに宣教に遣わされる神を信頼して直ちに踏み出すことを迫っておられる。天の父は、必要なものを知っておられる(6:32)からである。

 今日、福音宣教者への必要は、教会を通して神から与えられている。教会は、その使命を神から受けている。その中で、私の役割がどこにあるかを祈り求めていきたい。そこで私たち自身の手と足を、主の働きに用いていただくためである。

2022年10月02日

  収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい                                                                                            マタイ9:37,38

     

   子どもが遊びに夢中になっているうちに迷子になってしまうように、人は日常生活にかまけている中で、自分の立ち位置を見失ってしまうことがある。そこでは何が必要なことであるかさえわからなくなる。目の前に病む人が多くいても、それによって福音のメッセージが見えなくなったり、薄められたりはしない。それ故、主イエスがガリラヤの町や村を巡るとき、常に心がけておられたのは「御国の福音を宣べ伝える」(10:35)ことであった。

   人々はあらゆる病を抱えて主イエスのもとに来た。現状をみれば人々は「弱り果てて倒れていた」(36) それは「皮を剥がれる」という意味の言葉で、追い詰められていたことが、病だけのことではないことを暗示させる。主イエスは、こうした「群衆を見て深くあわれまれた。人々が抱えていた苦しみや悩みを体全体で共感し、受け止められたのである。その上に立って、「収穫」のときを見つめておられる。

    収穫というのは、終末のときにおける神の審判のときであり、このときには全ての業が神の目的に沿って評価される。主が群衆を見られたとき「彼らが羊飼いがいない羊のよう」であったのは、神の言葉によって羊を養う者がいなかったからである。

それ故、「収穫のため働き手」を必要としている。これは神から送っていただくものであり、人の努力や思いで達成されるものではない。

    様々な課題を負っている中で、主イエスの持つビジョンは希望に溢れている。何故なら、「収穫は多い」と確信しておられるからである。私たち自身は、主イエスのチャレンジに応えていく必要がある。このため働き人が起こされるよう、祈り求めていきたい。

2022年09月25日

   そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。すると、彼らの目は開いた。マタイ9:29

 

   障がい者に対し、健常者はしばしば差別的である。そのためコミュニケーションがとれないこともある。しかし障がい者には、健常者の及ばない特性があったりする。健常者には気が付かない発想や能力が与えられることも珍しいことではない。

 主イエスが道を歩いていると、目の見えない二人の人がついて来た。彼らは「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んでいた。

 「ダビデの子」は、ユダヤ人が待ち望んだ救い主を意味していた。それに続く「あわれんでください」は、神の契約による慈愛の求めである。あわれみは女性の子宮を示す言葉で、母の深い慈愛によっていのちが育まれる意味がある。二人の目の見えない人は、その神からの慈愛が主イエスによって注がれると信じていた。

 目の見えない二人が、ヨロヨロと主イエスの後を追いかけている。その姿は、人々の目には哀れに映ったであろう。叫び続ける様に狂気を感じとった者がいたかもしれない。しかし、傍観しているその人たちこそが神のあわれみを必要としていた。何故なら、誰も罪と死の支配から逃れられないでいるからである。それは、彼らが問題としていたローマによる支配よりも遥かに深刻なことであった。

 主イエスは、家に入ったところで目の不自由な二人の信仰を確かめられた。「わたしにそれができると信じるのか」彼らの答えは「はい」であった。(28)

 イスラエルの民は、神との契約によってあわれみを受けてきた。それが主イエスによって新しくされる。ここで確認された信仰は神のあわれみが注がれるための通り道である。「すると、彼らの目は開いた」とあるように、闇に塞がれていた世界に光が入ってきた。

2022年09月18日

 イエスは振り向いて彼女に言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、そのときから彼女は癒された。      マタイ9:22   

 

  闇の中では光は見えない。けれども光の気配を感じたり噂を聞くことがある。それが真実なものであれば、そこに希望に繋がる道を見出すことができるだろう。

 主イエスのうしろから近づいて、その衣に触れた女は、12年の間、長血をわずらっていた。(20) 当時、こうした病の持ち主は、汚れた者とされ、家族からも社会からも隔絶され、非人間的な扱いを受けていた。

「彼女の床であれ座った物であれ、それに触れたなら、その人は夕方まで汚れる。」(レビ15;23)

 この女の立場に自分の身を置いて考えてみるなら、その生活がどんなに辛いことであったか想像に難くない。日常、汚れた女と呼ばれ、そこから自分の力で抜け出ることができない。

 マルコの福音書の平行個所では、多くの医者にかかりながら「何のかいもなくむしろもっと悪くなっていた」(マルコ5:26)とある。この先も絶望しかないように思える。

 そうした状況の中で女は主イエスの噂を聞いた。そして「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えた。(21) どうしてそのように考えるに至ったかはわからない。けれども、それが大きな決断であったことは客観的に知ることができる。実際に女は危険を冒して主イエスの衣に触れたからである。

 群衆がそれに気づいたなら、女は立ちどころに排斥され、厳しい非難を受けることになったであろう。けれども、女のその行動に気がついたのは主イエスお一人であった。そして「あなたの信仰があなたを救ったのです。」と言われた。主イエスに対する信頼が「あなたの信仰」とされ、それが救いの言葉とされた。そこに闇から抜け出る道が備えられた。

2022年09月11日

 私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることでありませんか。

           第一コリント10:16

 

   コロナ感染が拡大する中で、多くの教会では礼拝のやり方が大きく変わった。分散して小グループで集まったり、オンラインを併用しているところもある。特に教会として対応が迫られているのは、聖餐式をどのようにするかということである。実際に聖餐式によってクラスターが発生したという話は聞いたことがない。それでも、客観的に見れば、密の状態で飲食を共にしていることになる。

 感染対策に万全を期すことは重要であるが、そうしたことで聖餐式の意味が見失われてしまってはならない。それは教会にとって本質的なことだからである。

 パウロの時代、コリント教会では両者の区別が明確にされないでいたところがあった。

「あなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。」(11:20)

 皆が一緒に集まり食事をすることが習慣になっていたが、そのときには我先に食べる者がいて(11:21)混乱していた。共に食事をすることは教会の始まりのときから守られてきたことで、愛の共同体にふさわしいことであるが、それは主イエスが定められた聖餐式とは違っている。パウロは聖餐式を「私たちが神をほめたたえる賛美の杯(16)」という。

 ここに示される「キリストの血」は、主イエスの十字架によって流された契約の血である。「賛美の杯」はそれにあずかることである。

  「あずかる」というのは、深い交わりを意味する言葉でキリストとの結びつきを意味している。この重大な出来事に対し、肝心の教会の当事者たちが、全く無自覚な様相を呈していたなら如何なることになるか。

    パウロは神の恵みに反する行為に心を痛めながら、そうした人々に転換を迫っている

 

 

2022年09月04日

   だれも、真新しい布切れで古い着物に継ぎを当てたりはしません。そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなります            マタイ9:16

 

  福音は、信じる者に新しい生き方を提示する。その変化により伝統とか習慣を重んじる人たちとの間に対立が生じることがある。事によっては激しい衝突になったり、人々から非難を受けることもあろう。けれどもそれは、福音の恵みの深さをあかししていく機会でもある。

 ヨハネの弟子たちは、「イエスのところにきて、私たちとパリサイ人はたびたび断食しているのに、なぜあなたがたの弟子たちは断食していないのですか」と言った。(14)

 断食は祈りに専心するため自らを戒めることであり、ヨハネの弟子たちやパリサイ人は、信仰のために不可欠なこととしていた。それに対し、主イエスの弟子たちは断食をしていなかった。それは宗教的な真剣さに欠けるように思えたのであろう、彼らは自らの疑問を率直に主イエスにぶつけたのである。

 主イエスの答えにある「真新しい布切れ」は、福音がそれまでの律法の理解では見出されないものであることを明らかにしている。それは神との新しい契約の中に造られる神との新しい関係である。

   これに対し、古い着物はイスラエルにあった伝統的な律法理解である。これがイスラエルを最初のときから導いてきたのであるが、継ぎを必要とする程に破れ目があった。その歴史には不信仰があり、神からの離反があり、異教徒による侵略があったからである。

    福音は、その破れを補強する発想で理解してはならない。「そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなります」

    福音を聞きながら、今までの自分に固執していることはなかろうか。そこに留まるのではなく、福音が持つ神の恵みに生きることが求められている。そこに新しい歩みが始まる。

2022年08月28日

   イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。」

                マタイ9:12

 

「青春は密なもの」育英高校野球部の監督による優勝インタビューが、世代を越えて大きな感動を呼んでいる。その言葉が、コロナ禍で活動が制限され続けてきた高校生たちの思いを汲むものであったからである。

相手の立場にどれだけ寄り添うことができるかによって、言葉の持つ意味が全く違ったものになってくることを思わされる。

「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」(11)

パリサイ人からすれば、主イエスが取税人や罪人と一緒に食事をすることは全く理解できないことで、非難の矛先にしている。一般のユダヤ人たちであっても主イエスの振る舞いに同じような感想をもったのではあるまいか。けれども福音書の著者であるマタイは、自分自身が取税人であったことを述べた後に、罪人として差別を受けた側の立場に立って主イエスの言葉を記している。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。」(12)

病気の人が医者の所に行くのは自然な行為である。医者は患者に寄り添い、その病が何かを知った上で必要な治療がされるよう努める。主イエスは罪人の側に立って、ご自身が癒し主であることを示された。ここには、社会にあって見下げられ、軽蔑されていた人々に対する、主イエスの真実な愛が示されている。人々から非人間的な扱いを受けていた人々にとって、それは慰めと励ましに満ちたものであった。

反対にこの例えの「丈夫な人」は、医者を必要としていない。それは自己義認に満足しきっているパリサイ人の姿である。彼らは律法に拘泥し、形骸化した信仰により主の愛を見失っていた。

私たちは、信仰によって主イエスが立たれたところに招かれている。そこから私たちに寄り添う主の真実な愛が見えてくる。

2022年08月21日

   イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。                  マタイ9:2

 

 信仰とは神に対する信頼である。そこには、人間関係においての常識を越えなければならないことがある。信仰のためには、非常識であっていいというのではない。非常の事態において働かせた信仰を、常識の枠の中で見失ってはならないのである。

 「人々が中風の人を床に寝かせたまま、みもとに運んだ」(2) これも驚くべきことだが、マルコ2:4では更に普通でない。

  「群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人をつり降ろした」

 人々が家に集まっている中でされたこの行為は、一般的には非難されることが含まれていた。しかし共観福音書は一致して「イエスは彼らの信仰を見て」と証言している。彼らと言われる人たちが、熱狂さだで他のことは何も考えることができない人たちであったのではない。主イエスに対する信仰に基づいた行動であった。その信仰は常識や慣習に制限されるものではなく、備えられたタイミングを人間的な判断で逃すものでもない。中風の人は、主イエスによる癒しより罪の赦しを願っている。病床にあって、罪がどんなに当人を苦しめることであったか。また、主イエスこそ、そのことを為してくださる方であることを確信したか。主イエスはそうした全てを見られたのである。

 床に伏して身動きもままならない状態。人としての希望や価値も失いかけていたのであるまいか。主イエスは、その人に「子よ、しっかりしなさい」と励まされた。そして「あなたの罪は赦された」と宣言される。

 何もできないまま弱さを曝け出してイエスの前に置かれた人。それは神の前にある私たちひとりひとりの姿でもある。そこに主イエスの憐みが注がれ、罪の赦しが告げられる。信仰によりその業を受け止めるとき、キリストにある新しい創造の業が始まる。

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