2022年11月27日

バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、

 天の御国は激しく責める者たちがそれを奪い取っています。     マタイ11:12

 

    バプテスマのヨハネの登場は、イスラエルに神の約束を思い起こさせるものであり、失いかけていた希望を抱かせるものであった。

 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(1:2)

 人々は、このヨハネが語るメッセージに耳を傾け、あらゆる地域から集まってヨルダン川でパプテスマを受けた。そこに暗黒を払拭する新しい時代の到来を感じとっていた。このときヨハネは、自分はキリストではなく、「自分より後から来る方」を明らかにするのが自分の務めであると言っている。そして間もなくヘロデ王によって捕らえられてしまう。

 主イエスは、「ヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた」(4:12) そして「この時からイエスは宣教を開始」(4:17)したことが記されている。

 天の御国のメッセージは、ヨハネが主イエスに先行している。それは主イエスの到来を指し示すものであったけれど、「その日から天の御国は激しく責められている」つまり悔い改めは、天の御国に入るということで有効性を欠いてはいない。どのようなかたちでかはわからないが、確かに多くの人たちが天の御国に殺到しているのだと知る。

 「天の御国は激しく責める者たちがそれを奪い取っています。」

  ここに天の御国についての正しい理解をすることと、御国の祝福を渇望することが求められている。人々は、自分勝手な神の国の理解で、主イエスから離れていくからである。「奪い取る」という表現は、暴力的なイメージのため敬遠されるかも知れない。けれども、あえてこの言葉が用いられたのは、霊的な目覚めを促すためである。

 「ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたがたは信じず、取税人たちや遊女たちは信じたからです。あなたがたはそれを見ても、後で思い直して信じることをしませんでした。」(21:32)

2022年11月20日

神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。

             Ⅰコリント12:18

 

    人のからだには密接な繋がりがある。例えば腎臓は尿を作るだけでなく、人体ネットワークでバランスを保つ要の働きをしているという。以前、NHKの「人体」という番組で、その不思議な働きが語られていた。からだはそれぞれの器官が仕え合うことで機能する。見た目には見劣りするような器官であっても、それがどんなに大きな働きをしていることか。

 主イエスの教会は、御霊によって新しく生まれたキリストのからだである。この場合のからだ(単数)は、部分(複数)によって構成されている。「私たちは大勢いても、一つのからだです」(10:17) それは単に全体と個を意味することではない。

   社会学的には、個の集合として全体が考えられる。けれども、ここでパウロが指摘するのは、個が全体に抑制されるようなことではなく、一人一人がキリストとの結びつきによって互いが生かされることである。からだの仕組みにおいて、各部分は独立した働きをするものではないし、異なる他の器官を排除したりするものでもない。ロボットと違うのは、部分が互いに仕え合うことによって全体の調和を保たれることにある。

  「目が手に向かって、『あなたはいらない』と言うことはできないし、頭が足に向かって、『あなたがたはいらない』と言うことはできません。」(21)

 人のからだにおいては強さとか見栄えばかりが注目される。それに対しキリストのからだでは、弱い部分であったとしても、他の器官の関わり方が重要なこととされる。

 「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」(26)

 聖餐式によって、私たちはキリストのからだの一部であることを告白する。共に生かされていることは何と幸いなことであることか。

2022年011月13日

  目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい人たちに福音が伝えられています。                                                                                                     マタイ11:5

   キリストは救い主を意味する言葉である。その到来は、人々にどのような期待を抱かせたであろうか。現実に不当な苦しみに苛まれている人であれば、御力によって一刻も早くそこから解放してくれることを願うのは自然なことである。

 牢獄でキリストのみわざを聞いたバプテスマのヨハネにとって、彼の弟子たちが教える主イエスの評判は気が気でなかったに違いない。ヨハネは、不倫を犯した王の罪を糾弾したことによって王の怒りを買い、牢獄に投獄されていた。AD54年頃ヨセフスによってに書かれた「ユダヤ古代史」によれば、ヨハネが閉じ込められていたのは、高い山のいただきに作られた天然の要塞の中にあったという。「おいでになるはずの方はあなたですか、それとも、別の方を待つべきでしょうか」(3)

 この問いは、バプテスマのヨハネならずとも、彼の弟子たちにおいても共通した疑問であったろう。これに対して主イエスは、イザヤ書35章と61章に記された預言の言葉から答えておられる。 

 注目しなければならないのは、福音が証しされているとする人たちである。ここでは「目の見えない者、足の不自由な者、ツァラアトに冒された者、耳の聞こえない者、死人、貧しい者」とある。社会の中では隅に押しやられているような人たちである。けれども御言葉を照らしてみれば、それはメシアによる神の国の到来を告げるものであった。

 大きな政治的な変革とか、社会の劇的な改革だけを願っていると、聖書が語る神の国を見過ごしてしまう。むしろ、私たちのそば近くに為されている福音による神の業に目をとめる者でありたい。そこにこそ、私に語りかける神の恵みが秘められているからである。

2022年11月06日

信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。    ヘブル11:1

 

    十一月の第一日曜は、多くの教会で聖徒の日として先に天に召された兄姉を記念している。死は誰にも避けられない。長寿を全うしようが、アンチエイジングをしようが、死は必ずやってくる。その死後において希望を持つことができることは、何と幸いなことであることか。

   しかし現代人の多くは、目に見えない神を実在しないものとしている。信仰を口にする人であっても、軸足を不確かさに置いているという矛盾を抱えている。そこでは信じる対象がつき詰められることなく、信じたことへの反省もないまま放置されていないだろうか。

 聖書における信仰は、そのように不確かなものを対象としているのではない。神への信仰によって「望んでいた」ものが見えてくるからである。「目に見えないものを確信させる」(1)の「見えないもの」とは、神の実在とその契約によってもたらされる恵みである。これは信仰生活という長いスパンを通じて、その人の中に明らかにされてくる。信仰の人アブラハムにおいてもそうであった。アブラハムは神からの召命を受けてから「彼は主を信じた」(創世記15:6)と告白するまで長い年月を要している。その後も神の試練を受けて信仰の成長を遂げている。

 キリスト者の信仰生活も、ときどきの試練や問題に直面しながら、信仰によって歩むことで共におられる神を知る。信仰の「保証」というのは、実験的に得られるものでもなければ、先駆けて手にするものでもない。もしそういうことであるなら、「信仰」ではなく、「取引き」であろう。それは愛とは異なる次元のことである。

 望んでいることが保証となるのは、そこに愛と信頼による歩みがあるからである。そうして神を身近に知るようになる。そのひとつひとつこそが、待ち望んでいることの確信とされていく。

2022年10月30日

自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。

             マタイ10:38,39

 

 キリスト者は、十字架を仰ぎみることから信仰の道を歩み始める。そこで罪の赦しを受け、永遠のいのちを受け継ぐ者とされる。

 誤解してならないのは、それは信仰の出発点であり、決してゴールではないことである。だからキリスト者となった者は、「自分の十字架を負って」主に従う者とされる。「わたしにふさわしい者」とされるのは、その召しに従って主イエスの弟子になることである。

 十字架はローマにおける死刑の道具である。罪のない神の子が、それを負うことは本来ならあり得ない。主イエスはそのため人々から罪人とされ、辱めを受けられた。主イエスがあえてそれを負ったのは、「わたしにふさわしい」者のためである。

 「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。」(Ⅰペテロ2:21)

 「自分の十字架」を負うのは、主イエスの愛に生かされていることによる。負うことは引き受けることで、そこにおいて私たちは古い自分に出会う。自分の十字架は、愚鈍、無意味、絶望、死として迫ってくる。けれども私に注がれるキリストの愛によって、新しく造り変えられ神のいのちに生かされる。そして日々キリストの似姿に変えられていく。単なる義務感なら負うことはできない。権利だけを主張すれば、違った道を見出すことはできよう。そうしたことは人間的には赦されることであり、場合によって人に賞賛されるかも知れない。

 しかし目を止めなければならないのは、誰のための「いのち」であるかである。自分のためのいのちは、それを求め続けることで失ってしまう。それに対し、「わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです」とある。

2022年10月23日

    からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。  マタイ10:28

 

   キリスト者は、御名のため人に憎まれたり、それまでの関係性が壊されるということがある。

「兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。」(10:21) 

    日本においては、キリシタンの迫害が思い起こされる。信仰による価値観が世の利害と対立し、社会はおろか家族からさえも信仰を捨てよう強く迫られたようなことが起こり得る。

こうした信仰に対する反対は、カルト宗教のように信仰者の側の反社会性が起因しているのではない。キリスト者の真実さや正しさが、それに反対する勢力によって憎しみの対象とされてしまうのである。

   そんなとき恐れに支配されてしまうと、信じることの意味とか歩むべき方向性までもが見えなくなってしまう。恐れは信仰を後退させる。それ故、

御言葉によって、信仰が再構築されなければならない。人に対して抱く恐れよりも、「たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことのできる方」こそが恐れられるべきであるとする。

 この恐れは、人を恐れることと同質のものではない。主イエスは、この権威の持ち主を「あなたがたの父」(29)と言っておられるからである。父は子を滅ぼすことを願ってはいない。子が生きることが父の願いであり、父はそのために最大の愛を注がれる。けれども子がその父の愛を軽んじ、せっかく父が備えられたものを無視し続けたならどういうことになるか。

 そのときには父の怒りがあらわれる。「ゲヘナで滅ぼすことのできる方」は、このような父の愛への反逆に対するさばきである。

信仰者は、天の父を視点に置いて信仰生活を送る。それは恐怖に怯えるようなことではなく、父としてキリスト者を愛をもって導かれる全能の神への信頼によるものである

2022年10月16日

    いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。     マタイ10:16

 

 神の国の福音を伝えるということは、神の恵みでありすばらしい働きである。同時にそれはどんなに困難なことであることか。

 主イエスは、「狼の中に羊を送り出すよう」と言われた。羊には狼がいることが見えていない。だから、しっかりと目を開けて敵の存在を意識し、備えなければならない。

 ここで心構えとして語られたのは「へびのような賢さ」である。この場合のへびは、自然の中に生息している蛇である。

 子供の頃、私は、家で飼っていた鶏の卵が他の動物に食われないよう、鶏小屋に板を貼り付けたり、土台付近に小石を敷きつめたりした。いたちがに襲われたりしたからである。それでもどこからか蛇が侵入してきて、卵を全部食われてしまった経験がある。あの冷徹な目には、恐ろしい程に状況を素早く察知して判断する能力が隠されているのだと思う。

 主イエスは蛇と並んで鳩を例にとりあげられた。「鳩のように素直でありなさい。」

 鳩もまた子どもの頃に一時期飼っていた。伝書鳩がブームであったからである。夕方近くなって放鳥すると、家の上空を何周かして鳩小屋に帰って来る。中には野鳩に誘われて帰って来ない鳩がいたりもしたが、見つけたときにわかるように足環をつけておく。何回かそうしてとり戻した。

 鳩と他の鳥の違いは、人に慣れることであると思う。また狭い所に入れても決して騒いだりはしない。マジックで鳩が用いられることがあるが、あれは鳩の性質を利用したものと言えよう。どんなに優れたマジシャンであっても、帽子から鶏を取り出すなどという芸当をすることはできない。そんなことをしたら、鶏に頭をつつかれて失敗に終わるであろう。

 信仰的な素直さというのがある。疑いの目だけで人をみていたら、人はその人の語る言葉を信じない。反対に何でも信じてしまったら、巧妙な罠に嵌って、どうにもならない事態に陥ってしまう。こうした知恵はどこから与えられるか心配に及ばない。蛇の賢さも鳩の素直さも創造者のものである。その創造者ご自身が信仰者に既に与えておられる

2022年10月09月

   袋も二枚目の下着も杖も持たずに、旅に出なさい。働く者が食べ物を得るのは当然だからです。                                                                                                             マタイ10:10

 

    今日、旅に出るときには、より多くの快適さが求められている。そのための持ち物は、趣味や用途によって実に多様である。それに対し、2千年前のイスラエルでは、旅は危険を伴うものであった。山道では強盗に襲われる恐れがあったし、旅先で必要なものが得られないなら休む場所も見いだせず、飲食することも事欠いてしまったであろう。

   そうであれば、福音宣教の旅においては、持ち物において万全の備えが必要と考えてしまう。けれども主イエスは「胴巻きに金貨も銀貨も銅貨も入れてはいけません」(9)と言われた。金銭であれば、旅のためにいくら用意すればいいかおおよその額が予測できる。主イエスは、それをきっぱり否定するばかりか、旅行用の袋も着替えのための二枚目の下着も持たずにと言われた。

 それらは福音を伝える働きに対して、神が報酬として必要なものを与えてくださるからである。この神との直接的な信頼関係を持つことが優先されている。

 実際問題としてこの部分を欠くときに、旅に出ることでの不足があれやこれやと際限なくなってしまうのではなかろうか。あるいは、そのために出かける決心がつかず、いつまでも延長されることになったかもしれない。

 しかし主イエスは、使徒たちに宣教に遣わされる神を信頼して直ちに踏み出すことを迫っておられる。天の父は、必要なものを知っておられる(6:32)からである。

 今日、福音宣教者への必要は、教会を通して神から与えられている。教会は、その使命を神から受けている。その中で、私の役割がどこにあるかを祈り求めていきたい。そこで私たち自身の手と足を、主の働きに用いていただくためである。

2022年10月02日

  収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい                                                                                            マタイ9:37,38

     

   子どもが遊びに夢中になっているうちに迷子になってしまうように、人は日常生活にかまけている中で、自分の立ち位置を見失ってしまうことがある。そこでは何が必要なことであるかさえわからなくなる。目の前に病む人が多くいても、それによって福音のメッセージが見えなくなったり、薄められたりはしない。それ故、主イエスがガリラヤの町や村を巡るとき、常に心がけておられたのは「御国の福音を宣べ伝える」(10:35)ことであった。

   人々はあらゆる病を抱えて主イエスのもとに来た。現状をみれば人々は「弱り果てて倒れていた」(36) それは「皮を剥がれる」という意味の言葉で、追い詰められていたことが、病だけのことではないことを暗示させる。主イエスは、こうした「群衆を見て深くあわれまれた。人々が抱えていた苦しみや悩みを体全体で共感し、受け止められたのである。その上に立って、「収穫」のときを見つめておられる。

    収穫というのは、終末のときにおける神の審判のときであり、このときには全ての業が神の目的に沿って評価される。主が群衆を見られたとき「彼らが羊飼いがいない羊のよう」であったのは、神の言葉によって羊を養う者がいなかったからである。

それ故、「収穫のため働き手」を必要としている。これは神から送っていただくものであり、人の努力や思いで達成されるものではない。

    様々な課題を負っている中で、主イエスの持つビジョンは希望に溢れている。何故なら、「収穫は多い」と確信しておられるからである。私たち自身は、主イエスのチャレンジに応えていく必要がある。このため働き人が起こされるよう、祈り求めていきたい。

2022年09月25日

   そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。すると、彼らの目は開いた。マタイ9:29

 

   障がい者に対し、健常者はしばしば差別的である。そのためコミュニケーションがとれないこともある。しかし障がい者には、健常者の及ばない特性があったりする。健常者には気が付かない発想や能力が与えられることも珍しいことではない。

 主イエスが道を歩いていると、目の見えない二人の人がついて来た。彼らは「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んでいた。

 「ダビデの子」は、ユダヤ人が待ち望んだ救い主を意味していた。それに続く「あわれんでください」は、神の契約による慈愛の求めである。あわれみは女性の子宮を示す言葉で、母の深い慈愛によっていのちが育まれる意味がある。二人の目の見えない人は、その神からの慈愛が主イエスによって注がれると信じていた。

 目の見えない二人が、ヨロヨロと主イエスの後を追いかけている。その姿は、人々の目には哀れに映ったであろう。叫び続ける様に狂気を感じとった者がいたかもしれない。しかし、傍観しているその人たちこそが神のあわれみを必要としていた。何故なら、誰も罪と死の支配から逃れられないでいるからである。それは、彼らが問題としていたローマによる支配よりも遥かに深刻なことであった。

 主イエスは、家に入ったところで目の不自由な二人の信仰を確かめられた。「わたしにそれができると信じるのか」彼らの答えは「はい」であった。(28)

 イスラエルの民は、神との契約によってあわれみを受けてきた。それが主イエスによって新しくされる。ここで確認された信仰は神のあわれみが注がれるための通り道である。「すると、彼らの目は開いた」とあるように、闇に塞がれていた世界に光が入ってきた。

2022年09月18日

 イエスは振り向いて彼女に言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、そのときから彼女は癒された。      マタイ9:22   

 

  闇の中では光は見えない。けれども光の気配を感じたり噂を聞くことがある。それが真実なものであれば、そこに希望に繋がる道を見出すことができるだろう。

 主イエスのうしろから近づいて、その衣に触れた女は、12年の間、長血をわずらっていた。(20) 当時、こうした病の持ち主は、汚れた者とされ、家族からも社会からも隔絶され、非人間的な扱いを受けていた。

「彼女の床であれ座った物であれ、それに触れたなら、その人は夕方まで汚れる。」(レビ15;23)

 この女の立場に自分の身を置いて考えてみるなら、その生活がどんなに辛いことであったか想像に難くない。日常、汚れた女と呼ばれ、そこから自分の力で抜け出ることができない。

 マルコの福音書の平行個所では、多くの医者にかかりながら「何のかいもなくむしろもっと悪くなっていた」(マルコ5:26)とある。この先も絶望しかないように思える。

 そうした状況の中で女は主イエスの噂を聞いた。そして「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えた。(21) どうしてそのように考えるに至ったかはわからない。けれども、それが大きな決断であったことは客観的に知ることができる。実際に女は危険を冒して主イエスの衣に触れたからである。

 群衆がそれに気づいたなら、女は立ちどころに排斥され、厳しい非難を受けることになったであろう。けれども、女のその行動に気がついたのは主イエスお一人であった。そして「あなたの信仰があなたを救ったのです。」と言われた。主イエスに対する信頼が「あなたの信仰」とされ、それが救いの言葉とされた。そこに闇から抜け出る道が備えられた。

2022年09月11日

 私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることでありませんか。

           第一コリント10:16

 

   コロナ感染が拡大する中で、多くの教会では礼拝のやり方が大きく変わった。分散して小グループで集まったり、オンラインを併用しているところもある。特に教会として対応が迫られているのは、聖餐式をどのようにするかということである。実際に聖餐式によってクラスターが発生したという話は聞いたことがない。それでも、客観的に見れば、密の状態で飲食を共にしていることになる。

 感染対策に万全を期すことは重要であるが、そうしたことで聖餐式の意味が見失われてしまってはならない。それは教会にとって本質的なことだからである。

 パウロの時代、コリント教会では両者の区別が明確にされないでいたところがあった。

「あなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。」(11:20)

 皆が一緒に集まり食事をすることが習慣になっていたが、そのときには我先に食べる者がいて(11:21)混乱していた。共に食事をすることは教会の始まりのときから守られてきたことで、愛の共同体にふさわしいことであるが、それは主イエスが定められた聖餐式とは違っている。パウロは聖餐式を「私たちが神をほめたたえる賛美の杯(16)」という。

 ここに示される「キリストの血」は、主イエスの十字架によって流された契約の血である。「賛美の杯」はそれにあずかることである。

  「あずかる」というのは、深い交わりを意味する言葉でキリストとの結びつきを意味している。この重大な出来事に対し、肝心の教会の当事者たちが、全く無自覚な様相を呈していたなら如何なることになるか。

    パウロは神の恵みに反する行為に心を痛めながら、そうした人々に転換を迫っている

 

 

2022年09月04日

   だれも、真新しい布切れで古い着物に継ぎを当てたりはしません。そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなります            マタイ9:16

 

  福音は、信じる者に新しい生き方を提示する。その変化により伝統とか習慣を重んじる人たちとの間に対立が生じることがある。事によっては激しい衝突になったり、人々から非難を受けることもあろう。けれどもそれは、福音の恵みの深さをあかししていく機会でもある。

 ヨハネの弟子たちは、「イエスのところにきて、私たちとパリサイ人はたびたび断食しているのに、なぜあなたがたの弟子たちは断食していないのですか」と言った。(14)

 断食は祈りに専心するため自らを戒めることであり、ヨハネの弟子たちやパリサイ人は、信仰のために不可欠なこととしていた。それに対し、主イエスの弟子たちは断食をしていなかった。それは宗教的な真剣さに欠けるように思えたのであろう、彼らは自らの疑問を率直に主イエスにぶつけたのである。

 主イエスの答えにある「真新しい布切れ」は、福音がそれまでの律法の理解では見出されないものであることを明らかにしている。それは神との新しい契約の中に造られる神との新しい関係である。

   これに対し、古い着物はイスラエルにあった伝統的な律法理解である。これがイスラエルを最初のときから導いてきたのであるが、継ぎを必要とする程に破れ目があった。その歴史には不信仰があり、神からの離反があり、異教徒による侵略があったからである。

    福音は、その破れを補強する発想で理解してはならない。「そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなります」

    福音を聞きながら、今までの自分に固執していることはなかろうか。そこに留まるのではなく、福音が持つ神の恵みに生きることが求められている。そこに新しい歩みが始まる。

2022年08月28日

   イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。」

                マタイ9:12

 

「青春は密なもの」育英高校野球部の監督による優勝インタビューが、世代を越えて大きな感動を呼んでいる。その言葉が、コロナ禍で活動が制限され続けてきた高校生たちの思いを汲むものであったからである。

相手の立場にどれだけ寄り添うことができるかによって、言葉の持つ意味が全く違ったものになってくることを思わされる。

「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」(11)

パリサイ人からすれば、主イエスが取税人や罪人と一緒に食事をすることは全く理解できないことで、非難の矛先にしている。一般のユダヤ人たちであっても主イエスの振る舞いに同じような感想をもったのではあるまいか。けれども福音書の著者であるマタイは、自分自身が取税人であったことを述べた後に、罪人として差別を受けた側の立場に立って主イエスの言葉を記している。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。」(12)

病気の人が医者の所に行くのは自然な行為である。医者は患者に寄り添い、その病が何かを知った上で必要な治療がされるよう努める。主イエスは罪人の側に立って、ご自身が癒し主であることを示された。ここには、社会にあって見下げられ、軽蔑されていた人々に対する、主イエスの真実な愛が示されている。人々から非人間的な扱いを受けていた人々にとって、それは慰めと励ましに満ちたものであった。

反対にこの例えの「丈夫な人」は、医者を必要としていない。それは自己義認に満足しきっているパリサイ人の姿である。彼らは律法に拘泥し、形骸化した信仰により主の愛を見失っていた。

私たちは、信仰によって主イエスが立たれたところに招かれている。そこから私たちに寄り添う主の真実な愛が見えてくる。

2022年08月21日

   イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。                  マタイ9:2

 

 信仰とは神に対する信頼である。そこには、人間関係においての常識を越えなければならないことがある。信仰のためには、非常識であっていいというのではない。非常の事態において働かせた信仰を、常識の枠の中で見失ってはならないのである。

 「人々が中風の人を床に寝かせたまま、みもとに運んだ」(2) これも驚くべきことだが、マルコ2:4では更に普通でない。

  「群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人をつり降ろした」

 人々が家に集まっている中でされたこの行為は、一般的には非難されることが含まれていた。しかし共観福音書は一致して「イエスは彼らの信仰を見て」と証言している。彼らと言われる人たちが、熱狂さだで他のことは何も考えることができない人たちであったのではない。主イエスに対する信仰に基づいた行動であった。その信仰は常識や慣習に制限されるものではなく、備えられたタイミングを人間的な判断で逃すものでもない。中風の人は、主イエスによる癒しより罪の赦しを願っている。病床にあって、罪がどんなに当人を苦しめることであったか。また、主イエスこそ、そのことを為してくださる方であることを確信したか。主イエスはそうした全てを見られたのである。

 床に伏して身動きもままならない状態。人としての希望や価値も失いかけていたのであるまいか。主イエスは、その人に「子よ、しっかりしなさい」と励まされた。そして「あなたの罪は赦された」と宣言される。

 何もできないまま弱さを曝け出してイエスの前に置かれた人。それは神の前にある私たちひとりひとりの姿でもある。そこに主イエスの憐みが注がれ、罪の赦しが告げられる。信仰によりその業を受け止めるとき、キリストにある新しい創造の業が始まる。

2022年08月14日

  イエスが向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、 悪霊につかれた人が二人、墓場から出て来てイエスを迎えた。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。   マタイ8:28

 

    人々から暗黒と言われる地がある。様々な問題が山積し、希望が持ちにくいことの表現でもある。普通であれば、そんな地は無視したり、何かの方法で飛び越えてしまうだろう。しかし、福音宣教においてはそうではない。その地を目標において宣教が為されることがある。

   主イエスの一行は、舟でガリラヤ湖の対岸に着いた。そこはガダラ人の住む地域で、その町のギリャ化された文化は、ユダヤ人の律法による習俗習慣とは大きく異なっていた。主イエスの一行が岸に着くと、墓場から出て来た二人の男が彼らを迎えた。ガリラヤでは、多くの人たちがイエスを迎えたのであるが、ここでは様相が全く違う。二人の男は、「墓場から出て来た」という。ここに行動における異常性と社会からの隔絶が表れている。

 「彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった」

 この男たちは人とのコミュニケーションという点では、全く成り立たなくなっていたのではあるまいか。それが多くの悪霊を宿し、支配される要因になったのかも知れない。主イエスが湖を渡られた理由は、この男たちに会うためである。ガダラの地で主イエスが他に何かをしていない。けれども初対面においての悪霊に憑かれた人の言葉は激しく攻撃的であった。

 「神の子よ、私たちと何の関係があるのですか。まだそのときでないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか。固い主イエスへの反発と拒絶。しかしその魂の奥底に、救いを求めるこの人本来の姿がある。主イエスは御言葉によって、その魂を回復に導かれた。それは、この時に失われた豚の数よりも遥かに尊いものである。

2022年08月04日

   イエスは言われた。「どうして怖がるのか。信仰の薄い者たち。」それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。  マタイ8:25

 

   予想もしない困難な状況に、平常心がすっかり失われてしまうことがある。弟子たちにとって湖での経験は、それまで培ってきた経験と主イエスに対する信仰が、根本から揺り動かされる出来事であった。もともとガリラヤ湖で漁師をしていた彼らは、この地方の気象が変わり易いことは常識として知っていた。けれどもこのときの嵐は、自分たちの想定を遥かに超えたものであった。

   弟子たちは、主イエスに従って舟に乗り込んだのだった。(23) それが結果として、未曾有の嵐に巻き込まれ、いのちの危機に瀕している。こうした中で、弟子たちの主イエスに対する信頼はどんどん小さくなっていった。

 一方、 海が荒れ舟が大きく揺れる中で、主イエスは眠り続けていた。それ程までに疲れていたということであるが、嵐という事態にあって何の恐れも抱いていないことによる。けれども、弟子たちにとって、そのような主の態度が受け入れられなかった。

 「弟子たちは近寄ってイエスを起こして、『主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます。』と言った。」(25)

 非常事態のときであるから、そのような心理状態に陥ったのは当然ともいえる。もし、自分が同じ立場に追い込まれたなら、弟子たちと同じようなことを言ったかもしれない。けれども、主イエスが弟子たちに求められたのは、主イエスの言葉による信頼であった。

 「どうして怖がるのか。信仰の薄い者たち」

 弟子たちは困難に直面した時に主イエと関係で距離を感じていた。信仰においては、主イエスの存在を自分たちと同じレベルにまで引き下げている。この弟子たちへの主イエスの言葉は、叱責というよりも失敗に対し気付きを与えるためである。弟子たちは、ここで主イエスによる御言葉の力を経験した。それが神からの平安の原体験となった。

「風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった」(25)

2022年07月31日

イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」 マタイ8:19

 

   主イエスに従うということが、全く誤解して 受け止められることがある。多くの群衆が主イエスのもとに集まったとき、ある律法学者がとった態度もそうである。

   「先生、あなたの行かれるところにはどこにでもついていきます」

 一見すると、そこには従順な姿勢がみてとれる。弟子となることに何の問題もないように思える。主イエスの弟子たちの召しは「わたしについて来なさい」であった。けれども、この場合の主イエスの応答はそっけない感じがする。そのまま受け入れているのではないからである。おそらくこの律法学者は、主イエスの力と人気につき動かされていたのではあろう。それは「先生」という呼びかけにもあらわれている。その言葉は律法の教師(ラビ)を意味するものであり、自分もその特権と尊敬を得たいと考えていたのではあるまいか。けれども主イエスについて行くというのは、そのようなことではない。

 「狐には穴があり、空の鳥には巣がある」

   狐は単独で行動することが多いので、地上の動物の中では自由であるかのように考えられる。主に従いますという言葉からは、群衆とは別の道を行っているようであるけれども、狐が穴に帰るように律法学者としての領域から出ることはできなかった。天上の存在のように思われがちな空の鳥も、地上に支えられた巣に帰っていく。主に従うことは、自己の中に確保されたそのような場所から抜け出る覚悟がいる。

 「人の子には枕するところもありません」

 弟子たちが伝道活動をしていくときに、野宿するようなことも度々あったであろう。厳しく辛い経験を覚悟しなければならない。それでも主について行くのは、主イエスのいのちを得る召命による。そこに立つことは、如何に幸いなことであることか。

2022年07月24日

イエスは彼女の手に触れられた。すると熱が引き、彼女は起きてイエスをもてなした。

               マタイ8:15

 

    人は病によって孤独が深まることがある。やむを得ないない場合もあろうが、病気で人との関係性が絶たれたりする。それは当人にとって病状による痛みより辛いこともある。

 ペテロの姑は熱病で床に臥せていた。彼女の夫は既に他界していたのであろう。経済的な基盤を失っていたため、娘の夫であるペテロの家で同居していた。ペテロは漁師であったので、家の中では彼女がする仕事もあったと思われる。

 その姑が熱を出して床に臥せていた。ペテロはそんな姑を家に置いて、主イエスの話を聞くため会堂に来ていた。礼拝が終わってから、ペテロは主イエスを家に招いている。ヤコブとヨハネが同伴した(マコ1:29)のは、主イエスと友人たちで昼食を共にしたいと思ったからであろう。家の中では姑が床に臥せているにに、そのことを主イエスに伝えたのは、近所の人たちであった。(マコ1:30) ペテロは主イエスの話を聞くことに熱心ではあったが、姑が抱える病と主イエスの業が結びつくとは思っていなかったのかもしれない。

 主イエスは、そのペテロの家に入られた。姑の癒しはペテロの願いによるのではなく、主イエスの業が先行している。ペテロの内では、姑の病のことは閉ざされていたのではあるまいか。主イエスは、そうしたペテロの家で姑が「熱を出しているのをご覧になった」(14)。そして「彼女の手に触れられた」(15)。病んでいる姑の手には、彼女の人生そのものが刻まれていたであろう。主イエスがその手に触れたとき、姑の病も、悩みも苦しみも受け入れられた。そこに生活の隅々にまで及ぶ主イエスの憐みと、福音による生き方の転換が示されている。主イエスに触れた姑は「熱が引き…起きてイエスをもてなした」 病を負われる主イエスは、私たちの生活のあらゆる部分に目を注いでくださる。病むところに触れて癒し、新しく作り変えてくださる。

   

2022年07月17日

   主よ。あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをください。そうすれば、私のしもべは癒されます。    マタイ8:8

 

     主人としもべの関係というのは、今日の横並び社会では誤解されてしまうかもしれない。主人が持つ権威の意味が、横暴さとか傲慢の意味にとられてしまいがちだからである。

  主イエスの前に進み出て百人隊長は、しもべ(若者)が病で死にそうになったとき(ルカ7)、主イエスの前に謙遜に進み出て癒されるように懇願した。ここには、病に苦しむしもべを気遣う優しさが溢れている。見方によっては、ローマの権威を傘にした行為であるかのようであるが、そうでないことは彼自身の言葉によって明らかにされる。

 「あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません」

 ルカ7章に記された平行記事では、ユダヤ人の長老たちが百人隊長の善行により、主イエスに癒していただく資格があると主張している。

 ローマの百人隊長であるから、政治的には被征服民であるユダヤ人に対して絶対的な権威をもっていた。それをもって主イエスに命じることもできたであろう。しかし、この百人隊長は主イエスがローマ社会の上にある権威の持ち主であることを知っていた。人となられた神は世界の王であり、ローマの支配にはない。そうであればユダヤ人たちが推奨した資格など何になろうか。

 しもべの癒しは緊急性を要するものであった。だからこそ、主イエスは「行って、彼を治そう」と言われた。(7) けれども百人隊長は、それを断って「ただ、おことばをください。そうすれば、私のしもべは癒されます」と言った。 主イエスの恵みの御言葉に対する絶対的な信頼である。この信仰こそが、神の業を展開されるものである。しもべが癒されたのはその結果であった。

2022年07月10日

   すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることができます。」と言った。     マタイ8:2

   突然、主イエスの前に一人の男が姿を現したことは、群衆にとって予想もしない衝撃的なことであった。全身がツァラアトに冒されていたからである。
  この病が持つ外形的な変化は患者を大いに苦しめるものであったが、それ以上に辛い思いをさせたのは神の前に汚れた存在として社会から隔離されたことであった。
  その病に全身冒された男が、群衆が取り巻いているイエスの前に立ったのである。もし、主イエスに語りかけるタイミングを逃したら、群衆は汚れた者として彼を排除したに違いない。しかし男はその危険を侵して主の前にひれ伏した。そこに並々ならぬ決意を秘めた信仰者の姿を見ることができる。
  「主よ。お心一つで私をきよくすることができます。」
 この男はどこかで主イエスが語る神の国の福音と、為された癒しの噂を聴いたのであろう。そして、主イエスこそが真の救い主であることを確信したのである。だから「イエスに向かってひれ伏した(礼拝した)」(2)のだった。
 神の前での汚れは、人間のどのような努力によっても消し去ることはできない。けれども、主イエスにはその汚れをきよめることがおできになる。男は、そこに神の御心があることを察知した。そして主の御手が延ばされた。「わたしの心だ。きよくなれ」
 この神の憐みに触れて人の汚れがきよくされていく。それは今日の私たち自身の姿でもある。

 

2022年07月03日

   わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。ヨハネ10:11

 

   羊は人類の歴史と共に飼われてきた。世界最古とされるラスコーの壁画においても、馬や牛に混じって山羊とか羊が描かれている。

 イスラエルの父祖であるアブラハムは牧羊を生業とし、その生活スタイルはイサク、ヤコブに引き継がれた。出エジプトの後に、イスラエルはカナンの地で農耕するようになるが、牧羊の文化はそのまま残っていく。

 とりわけ羊と羊飼いの関係は、神の前にイスラエルが置かれている状況を物語ってきた。エゼキエル書には、指導者たちが神から離れた民を放置してきた責任が、神を敵にしている牧者の姿として語られている。

 「牧者たちよ。主のことばを聞け。神である主はこう言う。わたしは牧者たちを敵とし、彼らの手からわたしの羊を取リ返し、彼らにわたしの羊を飼うのをやめさせる。」(エゼ34:10)

 主イエスが「わたしは良い牧者です」と言われるのは、このような偽教師や偽預言者とは別であることを認識させるためである。「良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」とある羊は、家畜として飼われている羊のことではなく、神の言葉に飢え渇いている民を指している。

    良い羊飼いである主イエスは、羊が生きるために御自分のいのちを捨てられる。それは十字架にかかられた主イエスの姿である。私たちはそこで自分の罪に気がつき、悔い改めをする。そして信仰をもって復活の主イエスを仰ぎ見とき、神の愛が豊かに注がれていることを知るようになる。「羊がいのちを得…それも豊かに得るためです。」(ヨハネ10:10)

2022年06月26日

   ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に家を建てた賢い人にたとえることができます。 マタイ7:24

 

   神の言葉を聞くことは、その人の内なるところに変化を来すものである。それが生活全域に及んでくる。もし何も起こらないとすれば、どこかに壁があるからと言える。

 主イエスはそうした人たちを「愚かな人」に譬えられた。せっかく備えられた神の恵みを、自らの意思によって拒んでいるからである。この「愚かな人」に対比して語られるのは「賢い人」である。この賢さというのは、神の言葉のうちに先のことを見通し、今に備えていることによる。今だけを見ていたら、そのような発想も意思も持つことはなかったであろう。

 岩の上に家を建てることは容易なことではない。ルカ6:47には「地面を深く掘り下げ」とある。パレスチナは乾燥地帯であり、東風が吹けばどこであれ砂漠からの砂に埋もれてしまう。掘って岩盤にたどり着くためには、相当な時間と労力を費やすことだったろう。

 神の言葉を聞いて行うには労苦が伴う。福音と世の価値観との違いより思索を深めたり、思い悩んだりすることもあろう。あるいは祈りによって神の言葉の真意を探ろうと努めることもある。

 そうした中で見出すのが神の言葉という岩盤である。賢い人の賢さとは、このように神の言葉を深い地点に掘り下げて受け止めることである。それは同じ砂に覆われても、手で払い去ることぐらいしかしない愚かな人の生き方とは全く違う。この違いが明らかにされる「そのとき」が来る。

2022年06月19日

   良い木が悪い実を結ぶことができず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。

                                                                マタイ7:18

 

 実がなる木というのは、花を観賞するのとは違った味わいがある。多くの人は、ぶどうの花というものを知らない。いちじくに至っては、文字通り無花果である。ぶどうは実がなってこそであるが、木がどういう木であるかが決定的なことである。葉が見事に茂っていても、ノブドウのように食べられない種類があるから。

 主イエスは、良い木と悪い木のたとえを語られた。偽預言者に騙されないないためであるが、実をもって良い木であるか悪い木であるかを見分けなさいと命じられた。偽預言者と偽教師は羊のなりをして信仰者に近づくからである。彼らは、その「内側は貪欲な狼」(15)と言われている。はじめから神のいのちから出たものではない。

    私たちは、木の内側を確かめることができないけれども、その実を見るならそれが良い木か悪い木かを見分けることができる。実は聖霊の実である。キリスト者は、神によって生まれた良い木である。それ故に、神はキリスト者のうちに良い実を結ばせられる。この実によって、悪い実と悪い木を見分けるのである。けれども木そのものは良くても、栽培方法が悪ければ実をつけることができない。

   「茨からぶどうが、あざみからいちじくがとれるでしょうか」(16)

 木に十分に土の養分が吸収されなければ、良い木が良い実を結ぶことは困難であろう。良い木として植えられた私たちが、茨やあざみに心を奪われるようであってはならない。せっかく神によって良い木として植えられたのである。聖霊により神との信頼関係に生き、良い実を結ばせる者でありたい。

2022年06月12日

  狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。   マタイ7:13

 

    人生において、決勝点をどこに求めるかでその人の歩みは大きく違ってくる。主イエスが示されたのは、一方が滅びでもう一方がいのちである。もし仮に、誰かにどちらかを選ぶように聞かれたなら、間違いなくいのちを選択するだろうと思ってしまう。けれども、実際には「滅びの道に入って行く者が多い」と主は言われた。

 どうしてそのような結果になってしまうのか。その理由は、人々が行先ではなく、門の大きさと道の広さだけを見ているからである。滅びの門の大きさと道の広さとは、神を無視した今の現実社会であり、その価値観ということであろう。そこでは他の人と同じ考え方をしていることが、その人の生き方の基盤となっている。しかしそれは、人が本来的に抱える人生の悲惨を、軽減するものでも取り去るものでもない。

 これと対称的なのは、主が歩むよう命じられた狭い門とそれに続く細い道である。この狭さは、多くの人が殺到して狭くなるのではなく、人々が注意を払おうとしないことの狭さである。その狭さは、各人の自己意識の中につくられていく。人間的な評価では、狭さは意味のないこととされてしまう。けれども神の言葉への応答ということではそうではない。この狭さの中で、人は魂が打ち砕かれる。主イエスがその狭さの中で、十字架につけられているからである。

 「虐げとさばきによって、彼はとり去られた」(イザ53:8)

  細い道は、神との関係を密接な関係を作っていき、やがていのちに至るものとなる。

 

2022年06月06日

   すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。  使徒2:2

 

    五旬節(ペンテコステ)は第50という意味で、出エジプトの過ぎ越しから数えて50日目である。律法では小麦の刈り入れを祝う「七週の祭」または「刈り入れの祭」として定められていた同時に、イスラエルの民がシナイで神から律法を授与された記念日とされてきた。この日、石に刻まれた律法は更新され、神の言葉が人の心の中に記された。(エレミヤ31:33)

 復活の主イエスは、弟子たちに「父の約束」(使徒1:4)である聖霊を待ち望むよう命じられた。そこで弟子たちは主の言葉を信じて、心を一つにして熱心に祈っていた。するとペンテコステの日、突然、天から大音響を伴う風が吹いてきて、信者の上に火のようなものがとどまった。

そこで人々は聖霊に満たされた。これが聖霊降臨の出来事であり、教会時代の幕けとなった。

 ペンテコステの出来事は、信者が聖霊によって律法を心に刻まれ、キリストの証人として宣教の働きに召し出されることを意味している。すべてのキリスト者は、御霊の導きと助けによってキリストの証人となり、積極的に主をあかしし、主の愛を実践する者とされた。

​ 旧約時代、この祭は大麦の収穫の終わりであると共に、小麦の刈り入れの始まりを告げていた。新約的な意味では、諸国の霊的な刈り入れということができるキリスト者は、御言葉を伝えることによって、主を深く知ることができるようになる。このようにして、恵みに恵みが加えられている。宣教のために祈ると共に、自分の身近なところで主をあかしする者でありたい。

2022年05月29日

   求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。 マタイ7:7

 

    日本人の遠慮がちな性格は、海外の人からすると理解されないばかりか、深刻なトラブルのもとにさえなることもあると言われる。それが元で、せっかくの人と人との繋がりさえも遠避けてしまうからである。主イエスは、キリスト者が神の前に遠慮したり躊躇したりせずに、より積極的に求めるように言われた。

 「求めなさい、探しなさい。たたきなさい」は神への祈りである。神に求めるのは、自分が置かれている状況から、解決のできない課題を自分の責任の中で考えるからである。問題や課題があっても、それを評論家風に客観視するだけでは、神に求めるという意思は生まれて来ない。

 けれどもいざ祈りを実践してみると、それが頭で考えた程に容易でないことに気がつく。直ぐに止めてしまったり、結果を見ずに諦めてしまうことが多いからである。私たちはそんな弱さを抱えているが、祈りにおいて見失ってならないのはそこに主イエスの約束が伴っていることである。

 「だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(8)

  祈りが聞かれる根拠は、それが「あなたがたの天の父」からの恵みによる。この神に祈るとき、自分と神の関係がそのまま表れる。祈りが単なる想念になっていたのでは、神から何かを得ることは期待できない。しかし主イエスが「あなたがたの父」と言われる方へのものであれば、良いものを与えてくださる恵みを確信することができる。

 それ故、祈ることは神の約束に立って、与えられた役割を果たすことと言えよう。主イエスによる、このチャレンジに応えていきたい。

2022年05月22日

   さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。    マタイ7:1

 

    仲間内の言葉によって交わりが崩壊してしまうことがある。主イエスが「さばいてはいけません」と言われたのは、互いを「兄弟姉妹」と認め合う関係においてであった。そこに生じた何かのトラブルが、さばきの言葉へと発展することがあった。さばきが神の国の交わりを阻害するものとなっていた。

 ここではさばくのは誰かが重要なポイントになる。兄弟とさばくのは「あなたがた」であるが、その「あなたがた」をさばくのは神であると主イエスは言われる。従って、人をさばいたりしたら反対に人からさばかれるという人生訓的なことが言われているのではない。

 「自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられる」

 秤自体が変化しているのではない。ただ、兄弟をさばくということで、自分に同じ秤を適用しないことが問題とされる。そのために兄弟の目のちりは見えても、自分の目の中にある梁に気が付かない。

 ここで求められたのは、まず「自分の目から梁を取り除きなさい」(5)である。それは自分の罪を自覚し、悔い改めに導かれることを意味する。「梁をとり除ける」のは、主イエスの十字架による罪の赦しだけがこれを可能とする。そうするとき、「ちりをとり除くことができます」(5)とあるように、福音による恵みの分かち合いの道が開かれる。

2022年05月15日

 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。   マタイ6:33

 

 ある社会における成員が、共通して保っている生活様式のことをライフスタイルという。それは自分自身を確立する方法として広く社会に受け入れられている。

 キリスト者にとってのライフスタイルは、第一に神の国とその義を求めることである。主祈りにおいても「御心の天で行われるように地でも行われますように」と祈る。

 けれども多くの場合、生活の諸要素における様々な悩みや心配が、神の国とその義を見えなくしいることがある。直面している課題が、その人の本来的な生き方を隅の方に押しやっているのである。そこでは神になり替わって現実が第一の座を占めている。。

 主イエスは、そのような人の弱さを受け止めながら、天の父が注いでおられる恵みの業に目を止めるように導かれた。

 「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ」(30)

 天の父なる神からの愛は少しも変っていないのに、人の側では問題によって神との関係までが大きく揺らいでしまう。それは人の持つ神への信仰が薄いからであると指摘された。神の愛が不変であることは、私たちが自然を観察することでも悟り得る。鳥も花も神の恵みによって、養われているからである。生活の中に派生する悩みに引き回されている限り、私たちは心配から解放されることはない。

 そんな私たちに、神は今も天の父として関わってくださる。天の父としての無限の愛が、私たちに一番必要なものを備えられるのである。それに加えて、私たちが求める祈りのためにもに具体的に答えられる。私たちが、神の国と義を求めるのは、この父の愛への応答である。

 

2022年05月08日

   自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。    マタイ6:20

 

    私たちは日常生活で何かしらを宝としている。特別に価値あるものでなくても、あるいは他の人には宝に見えなくとも、自分にとっては大切な宝であったりする。その宝とは、金銭的な価値が高い物に限ったことではない。芸術や経験や知識のようなものであっても、自分にとっては大切な宝となり得る。

  主イエスは、そうした宝そのものが悪いというのではなく、それを積んでいる場所が問題であることを指摘された。

 宝が積まれる所は天と地に分かれる。地上では「虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます」(19)とある。つまりせっかく蓄えた宝が、地上においては価値を失っていくのである。宝のために注がれた労力や人の評価はそれを保証するものではなく、時の経過と共に価値を減らしていく。

 これに対し天に積まれた宝は、「虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません」(20)とある。

  ここに言われる天は、信仰によって転換された世界である。そこに宝を預けることは、聖別して神のものとしていることになる。それが自分の宝として残るのであるから、地上と全く様相が違っている。そこでの宝は価値を変質させたり、減額させたりはしない。

 それでは、天の口座はどこに開設されているのか。どこに行けば宝を預けることができるのだろうか。それは私たちの日常を離れてあるのではない。「御心が地で行われますように」という信仰と祈りの中に開かれる。

 私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦します

                           マタイ6:12

  

  私たちの祈りは、しばしば個人的な問題に集中しがちである。目の前の困難が解決した

り乗り越えられることを、最大の祈りの答えとして期待する。それは悪いことではないが、祈りそのものがバランスを欠いていることはなかろうか。結果として自分の根本的な必要が何であるかを見失うことに繋がっているのである。

 主イエスは、私たちが祈るべき言葉として「私たちの負い目をお赦しください」と教えられた。「負い目」とは、神の前に抱えている罪のことである。罪が罪として自覚されなければ、払わなければならない負い目としての意味が伝わらない。この罪が聖められないところに神との交わりはないのだが、人の生まれながらの性質として、そうした部分に触れるはことは拒絶され、神の言葉は無視されてしまう。

 けれども、この罪に真正面に向かうのが主イエスの十字架である。私たちは主の十字架を仰ぎ見ることで神の前に負っている罪が如何に重いものであるかを自覚することができる。おそらくその罪は氷山の一角であろう。そんな私であっても、主の祈りでは「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました」と祈る者へと変えられていく。

 かつては赦せなかったことが、ここでは「赦します」になっている。赦すことが自分の罪の赦しに繋がっている。祈りが赦しを生んでいくとき、私たちは神の国の中にいる。

2022年4月24日

  ですから、あなたがたはこう祈りなさい。

    「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。」 マタイ6:9 

 

 祈りは神との会話である。祈りを通じて、私たちは神と交わりをすることができる。弟子たちは、主イエスが祈っている姿を見て、どのように祈ったらいいのかを聞いた。(ルカ11:1) その祈りが魅力であり、自分たちに欠けているものに映ったからであろう。そこで主イエスが弟子たちに教えられたのが主の祈りである。

 この祈りでの呼びかけは「天にいます私たちの父」である。主イエスは神の独り子であるが、ここでは全能の神が「私たちの父」とされている。父と子という関係では、信仰者は主イエスと同列に置かれていて兄弟姉妹である。父なる神が如何に愛と責任をもって人を導かれるかということであり、わたしたちはそこに全幅の信頼を寄せることができる。

「御名が聖なるものとされますように」は、以前の翻訳では「御名があがめられますように」となっていた。「聖なるものとされますように」となったのは、原語の聖別するという意味をより忠実に汲み取ったことによる。私たちは罪が支配している世界に住んでい日々の歩みには神の御心と大きくかけ離れ現実がある。しかし、福音に生きる私たちは、そこに聖なる神の支配が及ぶように祈り求めていく。罪の力に挫折したり、諦めたりするのでなく、信仰によってそこに神の業が働くことを信じていく。

2022年04月17日

イエスは言われた。恐れてはいけません。

 行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこで私に会えるのです。      マタイ28:10

 

    イースターは、神が私たちのために救いを達成してくださった歴史的な出来事である。主イエスの復活により、私たちは真の希望を持つことができるようになった。主イエスの死が神のいのちに飲み込まれた。それにより私たちは罪の支配から解放されたのである。

 四つの福音書は共通して、主イエスの復活に最大のスポットライトを当てている。けれども、この重要な出来事において、弟子たちは最初の目撃者から外れている。マタイの福音書によれば、復活の現場に一番近くいたのはマグダラのマリヤである。このマリヤは人々の蔑みの対象であったかも知れない。(ルカ8:1~2) この書の著者であるマタイがかつて取税人であったのと同じように、社会の片隅に追いやられていた人たちが、福音の重要なメッセージを最初に委ねられていく。

 マリヤは主イエスの十字架を目撃しているが、復活においてはその現場に立ってはいない。それでも墓の状態と御使いの言葉により復活を確信する者に導かれた。マリヤは恐れと不安を抱きながら、自分が経験したことを弟子たちに伝えるため弟子たちのいるところに走って行った。その途中、復活の主がマリヤの前に現れた。そこで、主イエスは言われた。「わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこで私に会えます」(10)

 主イエスは、御使いがマグダラのマリアに告げたメッセージを繰り返された。そこに復活の主に出会うところがあることが示されている。ガリラヤは彼らの生活の場であった。そこで聞いた主の言葉は、

主イエスの死と復活を通じて新しく主イエスとの出会いの場となった。以前の日常はここに新しくされた。主イエスを裏切って身を潜めている弟子たちが、ここでは「わたしの兄弟たち」と呼ばれている。罪の赦しによる新しい主との関係がつくられている。

2022年04月10日

    三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 マタイ27:46

 

    主イエスは十字架上で七つの言葉を言われた。マタイの福音書では、その中で一つだけを記している。「エリ、レマ、サバクタニ」の声は、主イエスの十字架の光景と共に、そこにいた者たちの脳裏に強く焼き付いたのであろう。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」 この言葉は詩22篇からの引用であり、絶望に瀕したダビデの魂からの叫びであった。それと共に、キリストが神に見捨てられることの預言の成就となる。人にとって神に見捨てられること程の絶望はない。

 「どうか、私から遠く離れないでください。苦しみが近くにあり、助ける者がいないのです。」(詩22:11)

 神に近くあるのが祝福の証であるのに対し、神が遠く離れてあるのは希望がないことであり死そのものである。そこでは人の一切の働きは無意味化されてしまう。けれども多くの人はその事実に向き合うことを拒絶している。死への恐れが実態を見えなくしている。

 キリストの苦難の描写は、他のダビデの詩にも語られる「嘲りが私の心を打ち砕き、私はひどく病んでいます。…彼らは私の食べ物の代わりに毒を与え、私が渇いたときに酢を飲ませました。」(詩69:20,21)

 ここでも「私が渇いたときに酢を」(詩69:21)は「酸いぶどう酒を…飲ませようとした」(マタイ27:48)を予表させる。そしてこのように詩篇に語られたことは、神によって再び回復の道が備えられることを証ししている。ダビデの場合は死の前で助けが与えられるが、主イエスにおいては死を過ぎてのことである。

「あなたは、私に答えてくださいました。私は、あなたの御名を兄弟たちに語り告げ、会衆の中

であなたを賛美します。」(詩22:21~)

  人の本来的な悲惨は、罪の報酬として死が定まっていることである。それは神の恵みから永遠に引き離されることである。キリストは、その罪を身代わりとなって負ってくださった。私たちの救いはこれをおいて他にない。

2020年04月03日

   あなたが祈るときには、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸をしめて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。       マタイ6:6

 

    祈りは神との対話である。そのことは、言葉を介して神と一対一の人格的な交わりをすることを意味する。もし祈る側に神に対する信頼が欠けているとするなら、神への祈りというパフォーマンスはできても、真実な意味での祈りをすることができない。

 主イエスは、「あなたが祈るときには、家の奥の自分の部屋に入りなさい。」と言われた。当時、人々の前で自分を飾るような祈りをすることが横行していたからである。長く祈ることや、言葉数を多くすることが人々に評価される実態があった。

   こうした祈りが人に見せるための祈りであったのに対し、主イエスが教えられたのは「隠れたところで見ておられるあなたの父」に対するものである。そこには祈る者に向き合っておられる生ける神の臨在がある。それ故祈りをするときには、外界に影響されたり邪魔されたりすることがないようにするのである。

  「家の奥の自分の部屋に入って戸をしめる」のは、隠れたところで見ておられる父なる神に祈るための心構えである。公的な祈りとか、皆で祈ることが意味をなさないということではない。ただ祈りが人々に向けたものになっているところでは、神との対話は成立しない。

    信仰によって神の前に立つ者にとって、人の目が遮断される所こそが神が臨在される場所である。この隠れた所でささげる祈りは神の前に隠されてはいない。祈る者の神への信頼だけが、隠れたところにおられる父なる神の愛を見出すことができる。そこで心の秘密が明らかにする。神は、そうした祈りに「あなたに報いてくださいます」と耳を傾けてくださる。

2022年03月27日

   人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。             マタイ6:1

 

    人は善に対する憧れをもっている。そして善行というものは、人の内側から出てくる純粋な善意から発するものと考えることが多い。だから多少の疑いはあっても、そのことを表立って批判をする人はあまりいない。むしろ良いことをしたことへの称賛の声の中に、陰の部分は隠されてしまうのではなかろうか。

    新約時代のユダヤ社会においては、律法による生活の縛りとは別に、このような善行を行うことが神への信仰を直に示すものとして民衆に求められていた。しかしここでの主イエスは、「人に見せるため

に善行をしないように」と言われた。見せるための善行というのは、それ自体がショー化していることである。人々は会堂や通りで善行がされるのを日常的に見ていた。彼らの善行は、人々に褒め称えられることで、自分が義なる者であることを確認するためであった。

     これに気を付けなければならないのは、それが神の義と似通ってはいるけれども全く別物であるからである。その違いは天の父による報いによって明らかにされる。ここにあるのは、自分の義を人々の評価によって得ようとする企みである。神の義に対する確信のなさを、人の業によって補完しようとする試みとも言える。

 しかし主イエスが示す福音は、私のような罪人を神が憐れんでくださったことに始まる。神の愛が私を新しく生かし、その結果として善行を生むのである。パリサイ人や律法学者たちがしたように、今日でも神の憐みを人間的な業に置き換えている人たちがいる。そこでは社会的な称賛が最も価値あることになるので、それを自己宣伝することもあろう。それ故、私たちも気を付けなければならない。福音の恵みも喜びも、天の父から与えられるものだからである。

 

2022年03月20日

    しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。                                                                                                       マタイ5:43

 

    互いに兄弟と呼び合う親しい関係が、ある時を境に壊れてしまい、敵として憎み合うようになったら、それは修復できないことであろうか。

 主イエスは、「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」と言われていることを取り上げられた。この前半は、レビ記19:18に記された律法であるが、後半はそこから派生した慣習法である。「隣人を愛する」ということが、一方では敵への憎しみを増幅させる要因にもなっていた。

 敵となっている者との関係は、決して受け入れることのできない現実であった。理想とか信念でこの壁を打ち砕くことは難しく、人間的な手段で交わりを回復することはほとんど不可能である。

 しかし主イエスは、そのような怒りと憎しみが支配する地上に身を置かれ、神との和解によって新しい人を造り出された。ここにあるのは、神の愛に生かされたキリスト者の姿である。そこでは、自分の敵を憎むのではなく、「自分の敵を愛し」と呼びかけられる。その愛は「迫害する者のために祈る」ということで実践される。

 ここで重要であるのは、現状を変えるために何かをすることではなく、その人のために祈ることである。実際に、敵となっている人とか、迫害する者に対しては、怒りとか復讐心がこみあげてくるということは自然なことである。そんな状態で何ができるであろう。そのままでは自分をコントロールすることさえもできない。

 たとえそんな状態であっても、キリストの愛に基礎を置いた歩みは可能である。それが祈りである。祈りの中では、不平や不満が吐き出されることもある。そうした中で、神への信頼を勝ち取っていくときに、敵のために祈ることができるようになる。このことは、人を憎しみの連鎖から解放し、神のこどもにふさわしく整えられたものへと造り変えていく。

2022年03月13日

    しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の足台だからです。      マタイ5:34

 

    良い人間関係とか社会の公正さにおいて、言葉の真実さは不可欠である。現実には偽りが多いからこそ真実さが求められる。誓うことは言葉が確かであることの保証を求めることであり、聖書において度々用いられてきたことであった。誓いそのものを反聖書的とする教派があるが、それはこの個所での御言葉を極端に誤解して解釈したことによる。

   ここで主イエスが問題にされたのは、誓うという行為そのものが悪であるということではない。当時のパリサイ人や律法学者が、神以外の何かに誓うことで言葉への責任をとろうとしないことを指摘されたのである。彼らは誓いの対象を二つに分けて言い逃れの道を開いていた。例えば神に対して誓ったことは果たさなければならないけれど、神以外のものに対して誓ったものについてはその対象の序列によって責任も変わってくるというふうにである。

   イエスが指摘された誓いの対象とされていたのは、「天」(34)、「地」(35)、「エルサレム」(35)、「自分の頭」(36)であった。ユダヤ人たちは、これ以外にも様々な名称を用いて、日常的に誓うことをしていた。もったいぶって何かに誓い、言葉の真実さを印象づけていながら、一方において実際には誓いを果たしていない。その言い訳のための序列が考え出されていた。表面的には真実を装いながら、自分が偽り者とされることがないよう防波堤を築く。そこに言葉の真実さが失われてしまった。

それを回復する真実な言葉。主イエスは「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とすると。(37)

言われた。

   私たちは神の前での真実さが問われている。それを示すのも私自身の責任ある言葉である。

2022年03月06日

 「姦淫してはならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。 マタイ5:27

 

    罪とは神の律法に対する違反である。それはこの世における法律とは異なっている。世の法律では、心の中のことまで裁くことができない。誰かに殺意をもっていたとしても、それが犯罪として裁かれるのは殺人という行為に結びついたときに限られる。それ故に、殺意そのものが単独で裁かれることはないし、行為に及ばなければ無罪である。

 けれども、神の律法においてはそうではない。主イエスは、心の中で起きている罪は、それが外に現れた行為と同質のものであることを指摘された。

 「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです」

 実際問題として、心の中の罪が犯罪を防いでいるのは、法律などによって社会が罰しているからである。恐怖がブレーキとなっているのであって、決して罪の邪悪さが薄まったのでも消失したのでもない。

 ただし誤解のないように言うと、主イエスは心の中の罪を、律法によって裁くように言ってはおられるのではない。もしそうしたらなら、すべての人が重罪人として裁かれるに違いない。ここに、地上における罪意識と神の前における罪意識の違いがある。地上に限って罪を考えた場合、心の中の罪は野放し状態になりかねない。それはやがて自己矛盾を生み、あるいは爆発して犯罪に至らしめるかもしれない。

 神の前に自分の罪を自覚するとき、そこに働く神の憐みと赦しを見出す。それがキリストにある新しい人をつくっていく。

2022年02月27日

 ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うよう教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。       マタイ5:19

 

    神の国での価値判断は地上においてのものと異なる。主イエスは、「律法の一点一画も消え去ることはない」と言われた後、「戒めの最も小さいもの」について触れられた。もし戒めが人から出たものであるなら、小さい戒めは軽んじられるであろう。それを破ったことで問題になることはないかもしれない。けれども律法は神から授与されたものである。主イエスは、最も小さな戒めでも、それを破ったり、破るように人々に教える者に対して「天の御国で最も小さい者と呼ばれる」と語られた。

 小さな戒めとは、十戒のような根幹を成すような律法ではない。たとえば「脱穀をしている牛に口籠をかけてはならない」(申命25:4)という戒めがある。旧約の時代において、実用性を抜けば、そこにどのような神の御心があるかわからなかったであろう。けれども、この戒めは新約のパウロによって、霊的なもので蒔かれたものが物質的なもので刈り取るという文脈で解説されている。(Ⅰコリント9:9~10)

 同様に人が小さな戒めとしていることの中に、多くの神の御心が隠されている。それらは霊的な無知のため悟らないでいるだけである。それ故、律法を自ら破ったり、破るよう人に教えることは御心を軽んじることに繋がる。このように戒めを軽んじた者は、天の御国において「一番小さい者」として受け入れられている。ただし地上でとった態度の事実は消えていない。天の御国ではその誤りが明らかにされ、恥として知らされる。

2022年02月20日

    あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気ををなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。                                                                                                         マタイ5:13

  人は社会的な生き物であると言われる。個人が唯一的にあるのではなく、絶えず他者との関係の中で生きているからである。けれども義を求めて歩むキリストにとって、社会はそのまま受け入れられるものでもない。

 主イエスは前の個所で「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせる」(11)と言われた。そこで問われるのは、キリスト者と社会との関係であり役割である。この点を解くべく、主イエスは「あなたがたは地の塩です」と言われた。ここに神の視点による新しい自己の認識がはじまる。

 食生活に塩は無くてはならないものである。肉や野菜に味付けするのに塩がなかったら、おいしい料理を作ることはできない。また食材を保存をするにも塩を欠くことはできない。同じように、社会が健全さを保つのに、キリスト者の存在は欠かせない。

 けれども塩そのものは自己主張するものではない。他の食材に浸透することで役割が果たされる。仮に塩そのものが塊として残ったなら、人はその料理をまずいものと評価する。

 社会におけるキリスト者の役割も同じである。キリスト者がいることによって、社会の腐敗が防止される。もしキリスト者がいなかったなら、社会はもっと悪いものになって滅んでいたに違いない。

 キリスト者はそんな重要な役割を担いながらも、その存在自体を自己主張するのではない。社会の中に溶け込んで、自分の姿が見失われてしまうこともある。それでも義を求めて義に渇く生き方と、地の塩として歩むことには、少しの乖離も矛盾もない。

 今日、地の塩としてのキリスト者の役割が問い直されている。私がそこで果たすべき働きとは何であろうか。

 

2022年02月13日

 義に飢え渇いている者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。               マタイ5:6

      

    人は水と食料がなければ生き延びることはできない。どんなに強い人であろうと自分だけで生きていることはない。空気を含め、一刻一瞬、外からのものを取り入れている。創造のときから、人は「食べてよい」(創2:16)と神が備えられたものを必要としている。

   更に人には神のいのち(息)が吹き込まれている。(創3:7) それ故に人は神の属性である義に生きるものである。義に飢え渇くというのは、魂が神の恵みを失っていると感じることであり、信仰の戦いにおいて魂が危機的な状況に立たされていることを意味する。もしそこで神を仰ぎみることをやめてしまうなら、義に対する飢えも渇きも無感覚になってしまうだろうが、霊的には死んだことになる。

「彼らの目は脂肪でふくらみ、心の思い描くものがあふれ出る」(詩73:7)

 人間的に考えれば、神の義に飢え渇くことは辛いし、不信者のふるまいは妬みを起こしかねない。そこに不信仰に陥らせる誘惑があり、躓く一歩手前ということもあろう。

 けれども主イエスは、そのような状況に置かれている者の幸いを語られた。「満ち足りる」のは神は既に義に飢え渇いている者を、紙が祝福されているのだからである。それは人間的な感覚ではなく、神の一方的な業である。義において空っぽである人の中に神は働かれ、主イエスによって御自身の宮とされた。それは信仰者においては現在の出来事である。神の義が見えないようなところにも、福音によって神の国の御支配がある。主イエスの十字架はそのあかしであり、教会は聖餐によってそのことを確認してきた。それ故、神の義は手の届かない理想ではなく、苦しみや悩みを抱える今日という現実の中に働いている。

 パウロは、迫害による死の危険の連続でありながら、自身は主の恵みであったと総括する。それができたのは、パウロがいつも主イエスが天から注がれる祝福に生きていたからである。それは今も私たちの魂を生き返らせ、あふれ出る恵みとなっている。

2022年02月06日

    心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。 マタイ5:3

    幸いという言葉はわかりきっているようでありながら、人によって捉え方に大きな違いがある。それは抽象的な概念となっていて、多くの人は幸いの実像を具体的につかめていないのではなかろうか。
   主イエスが語られる幸いは、人が考える意味での幸いとは全く違っている。それは目には見えないけれども日常の中で個人の中に注がれる神の祝福のことである。「幸いなるかな」(文語訳)という訳が原語に近く、「何と幸いなことか」という感嘆の表現で語られている。
    ここで最初に幸いとされているのは、「心の貧しい者」である。富むことを神からの祝福と考えた当時の常識からすれば、主イエスが語られたことは逆説であり、人々に相当なインパクトを与えたであろう。今日でも多くの場合、心の貧しさは否定的な意味に用いられる。子供の情操教育においては、いかにして心豊かに育てるかが課題である。
   「心の貧しい」の心の原語は霊を指していて、心理よりも深いところに存在する人間の本質に迫る言葉である。また貧しいは直接的には物乞いを意味する。それ故、単に個人の精神状態を指しているのではない。貧しいは無いことであるが、無いことがそのまま祝福になるのではない。そこに主イエスを通して神の祝福が注がれるからこそ、貧しさは幸いにされるのである。ここに福音による価値の逆転が起きる。主イエス御自身が、それを成し遂げてくださるからである。心の貧しさという闇は、主イエスという光によって「天の御国はその人たちのものである」と変えられることが約束されている。そこに時間的な切れ目はない。天の御国とは、神が御支配する領域を意味している。このとき「心の貧しい者」は孤独に放置されるのではなく、祝福を受ける器として神の国の一員になっている。それは驚くべき神の祝福である。

2022年01月30日

   イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」

                マタイ5:19

 

    福音の広がりにおいて、主イエスの弟子であるペテロの果たした役割は大きい。そのペテロが主イエスの召しにあずかったことについて、共観福音書は一致してペテロがガリヤラ湖で漁をしていたときであったと語っている。

 主イエスが語られた「わたしについて来なさい」という言葉は、何となく唐突な印象が残るかも知れない。ヨハネの福音書によると、ペテロはその前にバプテスマのヨハネのところに行っている。(ヨハネ1:40) 

 主イエスが宣教を開始されたのはヨハネが捕らえられた後であり、ペテロとアンデレはユダヤからガリラヤに帰って漁をしていた。ペテロがヨハネに何かを期待していたのであれば、ヨハネの捕縛という出来事は彼らの心に少なからず失望を与えていたかも知れない。漁師という日常に戻ったとは言え、その生活に満たされていたということではなかったであろう。

 主イエスの視点はそうしたところに注がれる。ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ペテロとアンデレが「湖で網を打っているのをご覧になった」(18) 

 主イエスの召しは御自身の側から発している。ペテロの側に事情や背景があったとしても、主の召しに対しては従属的なものである。

 主は「あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」と言われた。主の言葉への彼らの反応は素早い。「彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。」(20) このように決断したのは、主イエスの言葉に何かを感じたからに他ならない。見落としてならないのは、主の言葉が先行し、彼らがそれに従ったことである。それは生涯を通して貫かれた信仰のかたちである。信じて歩んでみることが如何に大切なことであるかを知る。「人間をとる漁師になる」という主の約束は、彼らが多くの人に福音を伝え、救いに導いたことで実現した。

2022年01月23日

    闇の中に住んでいた民は、大きな光をみる。死の陰の地に住んでいた者たちの上に、光が

昇る。     マタイ4:16

 

   いのちは光によっている。光の届かないところでは、基本的に生きることができない。いのちと光の関係は生物に限ったことではない。

  人は、魂が闇に支配されたことにより神からのいのちを失っている。BC700年頃、イザヤは、イスラエルが偶像礼拝によって神から離れ、国内が暗黒と化していることを預言した。
 「地を見ると、見よ。苦難と暗闇、苦悩の闇、暗黒、追放された者」(イザ8:22)
 歴史をひもとけば、その後にイスラエル民族が辿った悲惨と苦悩を思い起こすことができる。神の選びの民であったはずが、その姿はかつての栄光を完全に失っている。
 そのようになった根本原因は、民が神との契約から離れたことによる。周囲に満ちた罪の誘惑に負け、神ならぬものを神として礼拝したのであった。ゼブルンとナフタリの地は、死の陰の地に住んでいる民の土地となった。
 しかし主イエスによる福音は、この「死の陰の地に住んでいた民の上に光が昇る」出来事である。長く人々に蔑まれ、異邦人の土地とされてきた人たちが光を見る。主イエス御自身がこの地にそこに住み、「神の国は近くなった」と宣言されたからである。死の陰の地は、神の愛といのちを発信する所となった。
 神から離れることによる闇は、私たちの社会の中にも広がっている。多くは闇を自覚しないし、光を求めようともしない。
 そうした時代であるからこそ、真摯に神に向き合い、自分の魂の奥底に潜む闇を自覚しなければならない。悔い改めは、神と一対一で真摯に向き合うことから始まる。そこでこそ自分の魂の奥底に潜む闇を自覚することができる。私に語られる神の言葉に応答して従う。私たちが信仰により、主から発する大いなる光で満たされるために。

2022年01月16日

   イエスは答えられた。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」と書いてある。  マタイ4:4

 

    人には、神の言葉から引き離そうとする誘惑者の力が働いている。「試みる者」(3)(サタン

は、最初の人アダムとエバを神の言葉に逆らわせた。(創3:4.5)

    主イエスが公生涯に入ろうとされるときにも、サタンは、尤もらしい理由によって神の言葉に逆らわせようとして誘惑した。

 「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるよう、命じなさい」

    このとき主イエスは、40日40夜、断食をした後であり、空腹感は極限にまで高められていた。「あなたが神の子なら」というのは仮定のことではなく、神の子であるのだからの意味である。この場合、空腹という肉体的に必要とされていることに、御自身の力を発揮することは尤も短絡的な解決方法であるが、それが神の御心に叶うことであるかどうかである。もし主イエスがサタンの言葉のままに行動したなら、一時的な空腹感は満たされるであろう。けれども、結果として神の言葉に従うことの祝福を失ってしまう。それは人にとって最大の不幸となる。それにもかかわらず人は、しばしば人生の問題に場当たり的な対応をしてしまう。主が指摘したのは、そのように人間的な思考でしか得られない問題解決ではなく、神が御言葉によって啓示しておられる御心に踏みとどまることの重要さである。それこそが「神の口から出るひとつひとつの言葉」に生きることである。

 人は聖霊と神の言葉に導かれて生ける神と出会うことができる。信仰がないところでは、神の言葉は無意味化されてしまう。そうではなく、信じて神の業を見出す者でありたい。

2022年01月09日

 イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降ってこられるのをご覧になった。 マタイ3:16

 

    ヨハネによるバプテスマは、悔い改めの意味をもっていた。人々はユダヤ全土からヨハネがいる荒野にやってきたのも、悔い改めを告白して新しくされるためであった。集まってきた人々の中には、サドカイ人やパイリサイ人たちのように、自己保身や自己肯定を捨てない人たちもいたが、ヨハネはそのような人たちの罪を厳しく指摘している。

 「まむしの子孫たち、だれが、迫りくる怒りを逃れるようにと教えたのか」(7)

 そのような中で、主イエスはガリラヤから、百キロ程の距離にあるヨルダン川のヨハネのもとに来た。ヨハネは主イエスと向き合ったとき、自分こそがこの人からバプテスマを受けるべきと直感した。けれども主イエスは「今はそうさせてほしい」と言われた。この「今」はこの時代のことである。そこでヨハネは主イエエスに水のバプテスマを授けた。この行為に三位一体の神が応答したことが語られている。

 「すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降ってこられるのをご覧になった」

 御霊は鳩のようにとあるのは、主イエスが平和の主であることを語っているのであろう。このとき天が開けて、御父の声が聞こえた。「これは私の愛する子、わたしはこれを喜ぶ」この天からの声というのは、イザヤ42章1~4節の内容と同じである。マタイがこれを預言の成就と言わないのは、直接に御父の声であったからである。しかしそこには人のためにへりくだって寄り添ってくださる救い主の姿が描かれている。主イエスがヨハネからバプテスマを受けられたのは30歳を過ぎた頃からである。ここから3年間の公生涯に入る。それは御父が愛する御子さえも犠牲にして世を愛されることの証である。