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 2024年04月21日

   まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。  マタイ25:40

 

    今日、社会の各層に格差が拡大している。経済的なことを言えば、世界の1割である富裕層が所有する富は、全体の富の75パーセントにも及ぶという。反対に最底辺に置かれている人たちの50パーセントの富というのが、全体の2パーセントにしかならないのだそうだ。富む者が勝利者とされ、貧しい者は敗者として社会の隅に追いやられている。

 主イエスは「わたしの兄弟たち、それも最も小さい者たち」に親切を施すことが、「わたしにしたこと」と言われた。それが終末における羊と山羊を分ける判断とされた。

 ここに言われる「小さい者たち」は、「わたしの兄弟たち」であるから信仰者たちのことであり、社会の一番底辺にいる人たちを直接的に指しているわけではない。けれども、その兄弟たちは各地を旅し、飢え渇いている者、着る者をなくして裸同然となっている者たち、牢に入れられた者、あるいは病気をして弱っている者などである。あるい捨て置かれたようとしている人たちを、主イエスは「わたしの兄弟たち」と呼ばれている。

 そうした憐みと共感は、キリストの徹底的なへりくだりに伴うものである。「小さき者」のため何かをすることは自己犠牲を伴う。あるときには危険であり人々から非難されることもある。それを押してするのは、信仰によって生まれたキリストの愛が根底にあるからである。そうでなければ何もすることにならない。それ故、「これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」と言われる。

 主イエスは、貧しい小さな者を特別に扱って社会が変革されるような運動を命じているのではない。ひとりひとりが信仰によってキリストの愛に生かされ、置かれた所でその愛が実践されていくことこそが求められている。

2024年04月14日

    主人は言った。「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。  マタイ25:21

 

     人生の意味とか価値を考えていくと、迷路に嵌って何も見えて来ないということがある。せっかく見出したものが、裏切られ輝きを失ってしまうことだってあるだろう。

 主イエスのタラントの譬えでは、「天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預けた人のよう」(25:14)となっている。ここでは人生そのものが、主人からタラントを託されたしもべに置き換えられている。

  1タラントというのは6千デナリに相当すると考えられる。1デナリは労働者1日分の賃金であるから、1タラントにしても大金である。

 しもべが主人からタラントを預かったのは、しもべに対する主人の信頼と期待による。その額は、しもべの能力によって5タラント、2タラント、1タラントと違いがある。主人から預かったタラントをどのように考えるかによって、その用い方が大きく違ってきた。

 「 5タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに5タラントもうけた。」(16) これは預かったタラントを、主人の思いを汲んで働いたことの結果である。そのことに対する主人の評価は、「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」である。

 主なる神は、私たちを天の御国での働きに召しておられる。その愛に応えるとき、更に祝福を加えられる。それは神との1対の関係であり、他の人との比較によって評価されるものではない。忠実さによって働きが実るとき、その成果は主なる神と共に喜ぶことになる。けれどもそこに不信仰が入り込むと状況は一変する。主への信仰により、人生の真の価値と意味を見失わない歩みが求められる。

20240年04月07日

 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油は持っていなかった。マタイ25:3 

   弁当を忘れても傘を忘れるなとは、変わり易い北陸地方の天候として、今も語り継がれている諺である。重要なものは何かを見間違うと大変なことになってしまうことは、私たちの日常の中にままあることと言えよう。

 主イエスが語られた天の御国のたとえでは、花婿を迎える10人の娘のことが語られている。ここで問題になっているのは「ともしびは持っていたが、油を持っていなかった娘たち」のことである。ユダヤの結婚においては、婚約は法的な意味で結婚である。けれどもその期間が過ぎて実際の結婚生活が始まる前に、花婿は宴の準備をしてから、花嫁の家に行って花嫁を招くという儀式があった。譬えで語られる10人の娘は花嫁の友人たちで花婿を迎える役割を担っていた。それは同時に、キリストと教会の関係をあらわしている。霊的な意味において、教会はキリストを花婿として迎えるからである。

 「油は持って来なかった」娘たちというのは、うっかり忘れてしまったということではない。そのことを「愚か」と断定されているのは、初めからそうした選択をしなかったことのためである。それは知識が十分でなかったということでもない。ランプに油が必要なことと、花婿がいつ来るか分からないことは知っていたのである。けれども、自分の内にそのための備えが必要であると考えなかった。

    ここで言われる油は、聖霊を意味することである。神はしばしば油注ぎをもって、聖霊による神の祝福をあかししてこられた。また主イエス自身がしばしば聖霊の助けについて語られた。

  油を用意していないというのは、聖霊を宿していないことを意味する。信仰が形骸的になってしまい、最も重要な聖霊の恵みを失っていることに気がつかない姿である。自分自身の中に、そうした愚かさがないか吟味する必要がある。

2024年03月31日

 イエスは死人の中からよみがえられました。  マタイ28:7

 

 暖かな陽気の中、モンシロチョウが飛ぶ姿を見ることができるようになった。昆虫の中でも、蝶はトンボなどと違って完全変態である。寒い冬の間は蛹(さなぎ)であったのが、脱皮したときには美しい蝶に変身している。その過程で幼虫であったときの古い体の各器官は造り変えられ、新しい器官に置き換えられている。

 イースターは罪とその結果である死に対する勝利を宣言する。キリストの内にある者は、罪の贖いによって復活のいのちを受けた。ここにキリストにある新しい人を着たのである。生まれながらの人は、罪の奴隷としてサタンの支配にあった。そのため死の恐から逃れられないでいた。罪に対しては誰もが無力であり、罪の結果である死の力に抗うことはできない。人が持つこの根本問題のため、キリストは罪の贖いとして十字架につけられた。

 神はこのキリストを死者の中から甦らされた。ガリラヤからエルサレムに登ってきた女たちは、主イエスが十字架につけられる様子を遠くから見ていた。(27:55) かつて主イエスは、社会の底辺に押し遣られていた女たちの弱さを理解し、慰め、生きる勇気を与えてくれた。この人たちにとって、主イエスは唯一の希望であり、そこに新しい明日がやってくることを夢見ていた。けれども、その主イエスが人々によって重罪人として十字架につけられてしまった。その汚名を晴らすにしても、彼女たちの置かれていた立場はあまりに弱い。

 そんな彼女たちに、御使いたちによって福音が届けられた。「主イエスは死人の中からよみがえられました」。ここに彼女たちが想像もしなかった神の業が知らされる。人が為し得ないことを、神はしてくださった。そしてここに主イエスによる人生の転換がある。復活の事実が、信じる人々を罪と死の支配から解放させる。

2024年03月24日

 ピラトは彼らに言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし彼らはますます激しく叫
び続けた。「十字架につけろ」   マタイ27:22

 

     罪が罪とされるとき、誰の責任であるかが問われる。罪の責任を負った者の罪が裁かれる。

 それでは主イエスの裁判において、罪の責任を負った者は誰であったろうか。福音書は主イエスに罪がないことを明示している。ユダヤ人たちは、主イエスを死刑にしようとしていたが、それは主イエスの側に何かの罪があったからではなく、罪に定めようとする者たちの画策であった。「祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするためにイエスに不利な偽証を得ようとした。」(26:59)

  ローマ総督ピラトの裁判で、最も激しく主イエスを十字架につけるよう叫んでいるのは群衆である。ピラトは、「あの人がどんな悪いことをしたのか」(27:23)と言ったように、民衆の訴えに対して弁護しているかのようである。

 歴史として語られるピラトは、悪徳にまみれた行政官として名高いが、福音書においてそうした部分は伏せられている。主イエスへの尋問において、ピラトに正義を行う力がなかったことだけが書き留められた。

 それに反し、民衆の声が制御できない程に拡大していく。そのことは、民衆の側にある罪の責任が大きいことを明らかにしている。それはその時代に生きたユダヤ人に限ったことではなく、神を無視していきる私たち一人ひとりの問題である。

 主イエスは、その民衆の声の中で十字架につけられた。この時点で民衆の大悪が裁かれないのは、罪から立ち直るための神の憐みによる。

2024年03月17日

   ですから、主人によってその家のしもべたちの上に任命され、食事時に彼らに食事を与える、

 忠実で賢いしもべとはだれでしょう。   マタイ24:4。

 

   人の関心は時代の動きに左右される。多くの人は、今をそのときの思想とか流行に沿って考えているのでなかろうか。キリスト者においては、そこに信仰的な視点が見失われていないかを考えてみる必要がある。

 なぜなら、主イエスは、「目を覚ましていなさい。あなたの主人が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから」(42)と警告しているからである。

  災害などの大きな出来事が起きて人の心が不安定さを増し加えていくときに、終末のときのことが心を占めていくことがあるだろう。人は、それは「いつの日なのか」を知りたがる。けれども主イエスは「あなたがたは知らないのですから」と言われた。いつかは気になるかもしれないが、そうしたことで信仰者が神の言葉を聞く姿勢から離れてしまうことに注意すべきである。ここには神の言葉を聞き続けることによって、神との生ける関係を継続していくことの大切さがある。

 そのことが主イエスの譬えでは「しもべたちが、食事時に食事をする」こととして語られている。この譬えには、「主人によってその家のしもべたちの上に任命され」たしもべが、役割を果たしている。それを継続するためには、今日という日のために与えられた務めを果たす忠実さと思慮深さがなければならない。終わりのときの備えは今日の働きの中にある。今、求められているのは、このような自覚を持った主の働き人である。主はその働きを祝福される。

2024年03月10日

   天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。                                                                                                                                     マタイ24:35 

   梅の開花が見られるようになり、春が近づいていることを実感させられる。四季の移り変わりは、繰り返される自然の法則として誰の目にも定着している。

 「願わくば、花の下にて春死なん」(西行)

   この歌にあるように、日本人の感性として四季の変化はそのまま死生観を形成しているのではなかろうか。

それに対し聖書の神は自然と一体の神ではなく、自然を創造し無にすることができる方である。

 紀元前700年頃に活躍した預言者イザヤは、「草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ」(イザヤ40:8)と言ている。ここでの草と花は再生するもので

はなく、消え去っていくものとして覚えられている。

 イザヤは、そうした自然の営みに対立するものとして、「私たちの神のことばは永遠に立つ」

と預言した。

 主イエスは、このイザヤの預言を引用して「わたしのことばは決して消え去ることがありません」と言われた。イザヤが前段で語った草と花のことが「この天地」に置き換わっている。それは前節で「この時代が過ぎ去ること」(34)とした内容と重なっている。

 ここに示される神の国は、創造の業に遡ると同時に宇宙論的に拡大される世界である。その過程として、自然を含めたこの時代は消え去っていくのだということである。そこには自然の循環を根拠にした死生観も、自然をモデルにした自然神学も入り込む余地はない。

 むしろそれとは違う「わたしのことば」にに対する信仰が求められている。主イエスは、ことばによって語りかける神の御子である。ことばの内にすべての権能を譲り受けている。私たちは、御子の御子の言葉を信じることによって、神の言葉が実現することを証しする者とされている。

2024年03月03日

   あなたが逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい。 マタイ24:20

 

   東日本大震災から13年になろうとしている。あのとき津波の被害を受けた地方では、昔からの

言い伝えが再評価された。「津波てんでんこ」というもので、津波が来るときには各自の判断で一

刻も早く逃げよという意味であった。

 主イエスは終末のときの艱難として、「荒らす忌まわしい者」が聖なるところに立つ(15)ことを預言された。決定的ともいえる邪悪な者による、聖なるものの略奪と支配であり、誰も経験したことがないような苦難があるという。

 「そのときには、世のはじまりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。」(21)

   このときの対応として第一に命じられたのが、一刻も早く逃げることである。

 「ユダヤにいる人たちは山に逃げなさい。屋上にいる人は、家にある物を取り出そうとして、下に降りてはいけません。畑にいる人は上着を取りに戻ってはいけません。」(16,17,18)

   何を差し置いても、直ちに逃げることが優先される。その行動を躊躇させるのは、逃げることで失うことへの戸惑いと未練である。そのことは、主が罪悪に満ちたソドムとゴモラの町をさばかれたときの出来事を想起させる。ロトとその妻は「山に逃げよ」 という主の言葉を聞きながら、それに従い通すことができなかったからである。(創19:26)

    逃げるのが安息日にならないよう祈るのは、そうした事態になっても、慌てずに主の憐みの御手に委ねることができるためである。予期しないことが起こったとき、「そんなことは有り得ない」という先入観や偏見が働いて、正しい判断ができないでしまうことがある。終わりのときのために祈ることは、そうした事態でも神の言葉に信頼する行動につながる。それは失うことの未練を断ち切り、主の憐みを求める歩みとなる。

2024年02月25日

   御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。                                                                                                            マタイ24:14

 

    自然災害や戦争が続くと、人類の滅亡を視野にした終末論が語られる。現代にはびこる異端の宗教の中には、そうした時期に発生しているものがある。

 主イエスの弟子たちは、世の終わりの兆しにどんなことがあるかを主に問いかけた。

「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか」(3) そこで主イエスが言われたのは、「人に惑わされないよう気をつけなさい」(4)ということであった。主イエスがこのように言われるのは、そのとき人々が主が語られたことよりも、惑わす者の声を聞いてしまうからである。それはかつてイスラエルの民が、バビロンへの捕囚を前にして、エレミヤが語るエルサレム滅亡の警告ではなく、偽預言者たちが語る勝利の言葉を聞いたことに似通っている。

 それ故、終末を前に備えなければならないことは、語られる主の言葉が本物であるか、偽物であるかを見分ける感覚であると言えよう。このことは、日常の信仰生活によって培われるものであって、終末を前に付け焼刃的に備ええられるものではない。本物を見失うのは、主主の言葉への信頼が育っていないからである。

   主イエスの弟子たちが、終末の兆しに関心を寄せたのも、根本的には主の言葉に対する信頼が十分でなかったからではあるまいか。それに対し主イエスは、既に語られた御国の福音を宣教することが優先されることを言われた。弟子たちが終末のことで浮足だってしまうのではなく、福音宣教に励むためにである。

 終末では自己保身の道を探るのではなく、失われている羊を見出すことにこそ心を砕く。その羊とは「全世界のすべての民族」である。私たちは、この働きを継続しているときに、終末を迎えるのである。

2024年02月18日

いつも喜んでいなさい     第一テサロケ5:16

 

    渡り鳥が北に移動する季節である。もし白鳥や鴨たちが渡ることを止めてしまったら、どんなに餌があったとしても、生き残っていくのは難しいであろう。

   キリスト者の生き方を特徴づけるのは、いつも喜んでいるということである。キリスト者でありながらそこに生きることを見失ったなら、生きた信仰を貫くことはできない。

 この場合、いつも喜ぶというのは、福音によって既に与えられている恵みを信仰によって受けとめていくことである。悲しみや怒りのような感情を、無理になくしたり否定してしまうようなことではない。

 しろ正面からそれを受け止める。ただし湧き出る感情に流されてしまうのではなく、信仰によって、自分の立つべきところを定めるのである。それは御言葉を手がかりににして、共におられ主の御心を探ることでもある。そのとき自分を見失わないで、天からの慰めと励ましを受けることができる。これがいつも喜ぶことの秘訣となる。

   テサロニケ教会の信徒たちの中には、福音による喜びが消えかかっていた人たちがいた。パウロが教会を離れていた期間に、人々をおそった苦難(2:3)とか、信仰を揺るがす誘惑(3:5)に晒されたからである。

 私たちにおいても、目の前の課題だけを見つめていたら、どこからも喜びは湧いてこないということがあるだろう。そこでは「喜びなさい」という言葉は、虚しい響きにしか聞こえないかもしれない。けれども、そうしたときこそ、十字架を通して勝利者となられた主の姿を仰ぎみる者でありたい。主は御心を示されるに違いない。それは喜びを見出すことになる。地中にある芽が土を押しのけて生え出るように、主のいのちが喜びとしてわき上がってくる。

2024年02月11日

  だから、見よ。わたしは預言者、知者、律法学者を遣わすが、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して回る。

                マタイ23:34

 

   金メッキが剥がれて偽物であることがわかった途端、その価値が一気に失われるということがある。映画や演劇で人気であった役者が、私生活やスキャンダルが暴かれたことで、それまでのイメージや幻想が打ち砕かれてしまうということも同じであろう。

 偽善という仮面を被った律法学者やパリサイ人たちは、人々の前では神への忠実な信仰者であるかのようにふるまっていた。彼らは律法を守ることにおいては人々の模範であり、何一つ人々に指摘されることがない完璧な者とされてきた。

 しかし主イエスは、その仮面をはぎ取られ、彼らの抱える邪悪性を明らかにされた。それは彼らが自らの罪を自覚し、そこから立ち返るためである。ここにおける裁きは、彼らが自己義認しているようなものではなく、神に敵対し拒絶していることを知るためである。

 「それだから、わたしは、預言者、知者、律法学者たちをあなたがたにつかわすが、そのうちのある者を殺し、また十字架につけ、そのある者を会堂でむち打ち、また町から町へと迫害して行くだろう。」

 この場合、主からつかわされた「預言者、知者、律法学者」とは、偽善者と言われた人々のことではない。福音を信じて主イエスの証人となった人々のことを指している。だから、この人々に対する迫害は、イスラエルの歴史の中で、預言者の血を流した人々の罪と変わるところがないということを浮き彫りにしている。

 主イエスがこの預言された時点で、エルサレムには神殿が残っていた。けれども主イエスの十字架と復活の後、起源70年にエルサレムはローマ軍によって占領され、神殿は崩壊してしまう。そのときから神殿は「捨てられた家」となって今日に至っている。こうして主イエスの言葉の真実さが明らかにされていく。

 神の大いなる愛と招きを拒絶した人の結末は悲惨で痛ましい。けれども、その人々の不信仰で頑なな心のありようが、別の面で主イエスの言葉の確かさを証ししている。

2024年02月04日

   わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。

                              マタイ23:23

 

    聖書に出てくる植物名は、その時代によって翻訳が違っていることがある。マタイ23:23で「はっか」と訳されていたものが、2017年版の新改訳聖書では「ミント」となっている。「いのんど」が「イノンド」。片仮名になったのは、外来語から転化したものであることを示している。新共同訳では「ディル」と訳された。これは、今日、香味料としてこの名称が一般化したことによる。

 これらの植物の葉とか種子は、古くから薬や香味料として広く用いられた。特にイスラエルの神殿礼拝においては、捧げ物として欠くことができないものに数えられていた。祭壇に動物が捧げられるとき、血の匂いはすさまじかったので、このような香料はそれを消し去るものとしても珍重されたのである

 律法学者やパリサイ人は、これらの十分の一を納めていると主イエスは言われた。それは、日常生活においてもこれらが用いられていたということであろう。その十分の一を納めるのが悪いということではない。問題なのは、10分の1を正確に測ることに心を砕いているが、「律法の中ではるかに重要なもの」をおろそかにしていることである。

 自分たちのささげ物が、偽善的な生活の隠れ蓑になっていたのである。確かに香料は、人々の中に一瞬の爽やかさを与えることができる。けれども、その内面が腐敗していたなら、それは偽りでしかない。律法が本来求めるのは、「正義とあわれみと誠実」である。それは、人々の前でパフォーマンスをして身を飾るようなことではない。主イエスの中に生かさることによってこそ得られるのである。

2024年01月28日

   わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは一人の改宗者を得るのに海と陸をを巡り歩く。そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのだ。

                                                                                          マタイ23:15

   偽善者という言葉は、偽信者のことであるが、演劇においての俳優という意味をもっている。当時、上演された演劇では俳優は仮面をかぶって演じたので、人々が見る表とは違う裏の顔があったことの意味が加わる。

  律法学者やパリサイ人に対する主イエスの批判が厳しいのは、彼らが律法を語りながら、人々を律法が目指すところとは真逆な方向に追い遣っていたからである。もし、彼らの語ることが明らかに律法から離れたものであったなら、民衆はその誤りに気がつき、律法学者やパリサイ人を批判したであろう。

 ところが彼らの冠った仮面では、律法や律法から派生した伝承を含めてそれを完全に守っているかのようにみせかけていた。本心のところでは、律法違反のことを平気で破っていてもである。それを責められた場合に備えて、律法から言い繕う言い訳を考え出していた。こうした教えのため、民衆は本当の意味での罪の自覚がされないでいた。そのため、罪からの回心も、悔い改めも起こらない。そこには罪の赦しがないので、改宗した人であっても、「彼らより倍も悪くしてしまった」のである。

  問題は罪をどう自覚するかである。人間的に考えれば非人道的なこととか戒めへの違反が罪ということになる。それに対し聖書は、神の前での罪を信仰によって自覚するよう導いている。それを混同したり、その違いを見失ったりすると神の救済の意味が歪められる。結果として改宗者を「ゲヘナの子にしてしまう」

  この時代に求められるのは、偽りのない真実な神への信仰である。仮面によって自分の本心を秘匿するのではなく、へりくだりをもって主に向き合う信仰者でなければならない。

2024年01月21日
 だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。マタイ23:12

 
 近頃、東京に完成した「麻布台ヒルズ」は、大阪のあべのハルカスを抜いて日本一高いビルとなった。高所恐怖症の人にとっては興味がないことかもしれないが、高いというだけで観光客を集めている。高い所から下を見るというのは景観のことばかりではなく、生まれながらの人が持っている本能を少なからず満足させるものであるだろう。

   主イエスが言われるように、人間関係においても「自分を高くする」ことがある。それが外見的なことによる差別ならば、社会的な批判によって修正されることもある。けれども人に見えない内側のことになると、人の真の姿が隠れたまま固定化してしまったりする。

 主イエスが指摘された「律法学者たちやパリサイ人たち」は、モーセの座についています。(2)と言われたように、自分たちの宗教的な立場を高い所に置いていた。そのことにより、人々をさばく側についていた。律法の本来の目的は、心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして神と愛することであった。(37) それに続いて隣人を自分と同じように愛することが命じられている。(39)

  けれどもパリサイ人や律法学者の視点からは、そうした部分が欠落し、律法から派生した細かな戒めを守ることだけが重要なこととされていた。彼らは当時の社会で尊敬を集め、社会のオピニオンリーダーであった。しかし群衆の中には、パリサイ人たちから距離を置き、弟子たちの方に身を寄せる者たちが出てきた(1)

   そうした群衆と弟子たちに向かって主イエスは言われた。「あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。」 (11) 「仕える」ということは奉仕することであって、自分を低くすることによって初めて成り立つ働きである。人間的には目立たないことであっても、神によって価値が定まり「高くされる」ことがある。神の愛に生かされることだけがこれを可能にする。

2024年01月4日

 あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。 マタイ22:2

 

   新約聖書を初めて読んでみたけれど、冒頭の部分だけで何が何だかわからなくなってしまったと聞くことがある。「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイ1:1)とあり、系図が延々と書き連ねてあるからである。

 まるで読者を無視したかのような書き出しに、それまで持っていた聖書に対する興味と感心が、一気に消え失せてしまったという人は少なくない。

 けれども著者マタイの意図は読者を迷わすことではなく、「ダビデの子、イエス・キリスト」を歴史的な事実として語ることにあった。キリストがダビデの子孫であることは、預言者たちの証言であったからである。イザヤ9:2~7   11:1~9   エレミヤ23:5~6 33:14~18   エゼキエル34:23,24   37:25

   しかし現実にみるユダの王たちの姿は、人々が待ち望むキリストの姿とは乖離していた。信仰的な王も登場したが、それでも人間的な弱さを露呈していた。あるいは全く不信仰なまま生涯を終えた王もいる。

 「あなたがたはキリストについてどう思いますか」という主イエスの問は、「あなたにとってメシアとはどういう方ですか」ということである。もしメシアを政治的な意味で考え、力による解放を願うなら、どこまで行っても現実とのギャップは埋めることはできない。その間隙を埋めるべく、主イエスは詩110篇を用いながら「どうしてダビデは御霊によって」(43)と語っておられる。

 ここに「ダビデの子」としてあかしされるメシアと、御霊によって示されるメシアが一つにされる。「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方」(ローマ1:4)である。

 

 

2024年01月07日

 ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。

                                                                          テサロニケ第一5:11

 2024年は、大きな自然災害と共に始まった。今後、被害がどれだけ拡大するかしれない。日本同盟基督教団では広域災害対策本部が立ち上がり、社会局長を中心に支援活動が始まろうとしている。

 初代教会が抱えた困難さは、自然災害の類ではないが、抱える問題に立ち向かう信仰者の姿勢の中には共通するものを見出すことができる。

 パウロがこの手紙を書き送ったテサロニケの教会内には、信仰の理解に関することで誤った考えが広がっていた。それは教会とは何であるかという本質的な問題を提示していた。ある人たちが主イエスの再臨が既に起こってしまったかのように主張していたのである。(Ⅱテサロニケ2:2) そこには教会に及んだ迫害による大きな困難が影響している。

 このような理由で混乱していたテサロニケ教会であったが、パウロは福音の原点に帰ることで教会がかつての輝きを取り戻すように導いた。そこでは自分がどこに立っているかを自覚することが重要なこととされる。キリスト者は、闇の力に支配されているのではなく、光の子とされているということである。困難や試練はあっても、それが主の日の出来事と混同されてはならない。共におられる主を信じ、存在そのものが神の栄光を表すものとされていく。

 けれども人としての弱さや限界があることも知っておかなければならない。そうでないと、信仰の戦いを勝ち抜くことはできない。「互いに」という教会内での関係性は、キリスト者の信仰が共に成

長する秘訣である。教会の問題を解決する秘策や奇跡があるのではない。互いの愛によって働く信仰が停滞していた歩みを前進させる。

 キリストの体である教会は「互いに励まし合い、互いに徳を高め合う」(5:11)のである。

 

 

2023年12月31日

あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

                                                                              マタイ22:36 

 

    人間関係の中で、愛ほどに重要なことはないであろう。このことは愛のない世界を想像して みただけでも、容易に推し量ることができる。けれども、その愛が歪んでいたり、誤解したり、人を傷つける要因となっているとしたら、否定的なものとされてしまうに違いない。結果として人は愛に失望し、それに代わるものを求めるのではなかろうか。

 ここでの根本的な問題は、生まれながらの人は愛そのものを罪の影響の下でしか知らないことである。自我が心の王座を占めているので、愛でさえも自分本位なものになってしまう。その自己中心の姿を隠すことができない。

 主イエスは、最も重要な戒めとして「あなたの神、主を愛しなさい」と言われた。そして隣人を愛することは「それと同じように重要です」と付け加えられた。神を愛する命令は愛しているからである。神の側に愛がないのに愛せよということはない。その愛は「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして」である。ここでの愛は人々の前にみせるパフォーマンスのようなものではなく、真剣に神と向き合うことが求められている。そこには強い意志による信仰が伴う。一時的な感情に流されてしまうようなものではない。

   こうして神との関係が回復されるとき、その人の中に神の愛が入ってくる。神から離れていたときには見失っていた愛である。そこで自分が神に愛されている存在であることを知る。そのとき人は「あなたの隣人を自分と同じように愛しなさい」(39)という戒めを守る者へと変えられるのである。

  自分の中に愛がないのに、人の前であるかのように振舞うことは心苦しい結果を生む。それに対し、神の愛が心の底から湧き出たら隣人を愛することが喜びとなるであろう。

2023年12月24日

 御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。 ローマ1:3.4

 

  神の御子は、人のかたちをもって世に来られた。それは空想の産物ではなく、哲学的な観念から派生したものでもない。歴史の中に確かに刻まれた出来事である。それは人々が待ち望んだメシアによる政治的な救いとは違っていた。キリストの福音は、人の内にある罪を指摘し、その結果である死の力からの解放を告げ知らせるものだからである。

  パウロは、福音を語るのに「御子は肉によればダビデの子孫から生まれ」とクリスマスの出来事を語っている。マタイはそれを、福音書におけるダビデの系図として記した。そこに契約が人の側の都合によって変わるものでないことが明らかにされている。それはまた、これから語られる新らしい契約を確かなものとする。

   神が人となられるということは、そこに神の側の徹底的なへりくだりがあったことを示している。力による変革であれば、へりくだりの必要はなく、もっと強い力が求められるであろう。力対力の対決では、敵に弱みを見せたら勝つことはできない。けれどもクリスマスにみられる「御子」は「肉によれば」ということを強調している。

「肉」は人間性を示すもので、人としての限界や脆さを含んでいる。それは人となられた御子の姿であり、御子が人の立場に立って御自身を明らかにされたことである。そこに大きな犠牲が払われている。御子にとって辛いことであるが、父なる神からすればもっと耐えがたいことである。ただ神の愛がそのことを可能にした。神は常に契約を守ることによって、御自身の愛が変わることがないことを明らかにしておられる。キリスト・イエスにおいてなされた神の約束は、復活という希望を約束している。

2023年12月7日

御子は見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。

                      コロサイ1:15

 

 すっかり雲に覆われた空にあっては、青空と輝く太陽は見ることはできない。そんな天気でも雲に裂け目があるなら、そこから注ぐ光の中に青空も太陽も見ることができるであろう。

 多くの人は、「神がいるなら見せてみろ」という。主イエスさえも、人々から神の子としてのしるしを求められた。こうした勝手な要求によって、自分たちの論理の正当性を主張する。

 けれどもそれは、最初から視点がずれている結果に過ぎない。神を見るためのポイントは、主イエス・キリストの中にあるからである。

   聖書は見えない神のかたちとして、主イエス・キリストを伝えている。この場合のかたちというのはイメージのことであり、実際の人のような姿かたちをしているというのではない。そうではなく、主イエスの歩まれた生涯、語られた言葉、あるいは為された業を通して見えない神を知ることができるということである。

 そのため御子は、神としての御自身の栄光の姿を捨てて、人のかたちをとって地上の世界に住まわれた。この人となられたまことの神を、見世物か何かの実験材料のような態度で接してはならない。へりくだりの姿を上から目線で見るのではなく、自分のような罪人に徹底的に愛を注がれている証しとして知るのである。

  このように受肉された主イエスは、「すべての造られたものより先に生まれた方」である「すべての造られたもの」とは、創造の初めの前ということであり、主イエスご自身が創造に関わった方であることを意味している。

 この御子により、私たちは「贖い、すなわち罪の赦しを得て」(14)いる。それは「聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせる」(22)ためである。クリスマスにおいてはこの主イエスを賛美し、感謝する。

2023年12月10日

「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」神は死んだ者の神ではなく、生き ている者の神です。 マタイ22:32

 

    聖書の知識はあっても「聖書も神の力も知らない」(29)ということがある。それだと聖書を教訓的に捉えるだけで、信仰をもって実生活に生かすことができない。

 主イエスのもとに来たサドカイ人(23)というのは、富裕な貴族や祭司階級が属していた。彼らは、モーセ五書は信じていたが、霊の不滅や死者の復活については信じていなかった。

 ここでの主イエスへの質問は、復活はないとする自分たちの考えの正しさを示すためである。

それでも「先生」と呼びかけているのは、主イエスの答えに矛盾が生じることを予測し、それを糾弾しようとする狡猾さのあらわれである。そこで提題したのが、子がないまま死んだ7人兄弟の妻のことであった。

    律法によれば、「もし、ある人が、子がないまま死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を残さなければならない」(24)とある。その兄弟の長男が子を残さければ、次男が妻となって子を残さなければならない。その次男も子を残さないまま死に、末の兄弟まで同じようであった。そして妻も死んだ。そうしたら復活の日に、妻は誰のものになるのかというのである。

 現実の世界では夫婦であったものが、復活のときには混乱になるではないかというのである。そのことを神と人との関係に当て嵌めている批判している。しかし主イエスは、サドカイ人の批判に対し、復活が地上において経験できることと全く異なったものであることを語られた。

  「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」

 地上世界にあって、神はひとりひとり現れの時間軸が異なっているけれど、別々の神ではなく同じ神である。人間的には死んで過去の人となっても、神との関係においては連続している。ここに生ける神のあかしがある。

2023年12月03日

 カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。     マタイ22:21

 

  キリスト教信仰が、日常的な社会生活を営むことに対立するかのように考えられることがある。有名なところでは、1893年(明治26)東京大学教授であった井上哲治郎が「教育と宗教の対立」を著し、日本主義をとなえてキリスト教を排撃したことがあげられる。背景となったのは、当時の教育事情と井上自身の宗教観であった。

 主イエスが語る神の国に激しく対立したのが、ユダヤ教におけるパリサイ派の人々であった。彼らは論理で主イエスを打ち負かすことができなかったので、言葉の罠をかけることで、主イエスがユダヤ社会に適合しないことを人々に訴えようとした。

 そこで主イエスに「カエサルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか」(17)と詰めよらせた。もし「納めるべきでない」と答えたら、ローマ総督に訴え出て取り締まってもらうつもりでいる。逆に「納めるべき」と言えば、民衆の反感を買うことになる。どちらにも逃げ道がないような仕掛けであったが、主イエスは「カイサルののものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」と言われた。

  これは基本的には税金を納めるべきことを推奨している。けれどもそれはローマ帝国の権威に信仰的に屈服するということではない。神は人々を治める権威をカエサルに与えているとの信仰であり、その唯一の神に栄光を帰すというのである。従って税金をめぐってカエサルと対立するものではないし、神への信仰を妥協するものではない。

 自ら信仰の枠組みを小さく設定し、解決のない頑なな心を抱えてゴールにひた走っていることはなかろうか。

2023年11月26日

   招かれる人は多いのですが、選ばれる人は少ないのです。      マタイ22:14 

 

 何かのことで、人は選ばれるということがある。選ばれたときに、選ぶ側の思いが意識されれているなら、そこを起点とした働きは良いものが期待される。

   反対に自分の存在を特別のように意識して、選ぼうとされる側との関係を絶つということがあったらどうだろう。そこでは選びそのものの意味が変質してしまうに違いない。

 主イエスは、天の御国を王の息子の結婚式に譬えられた。この譬えでは、この結婚式に招かれた人と選ばれた人のことが問題になる。招かれた人が、そのまま選ばれた人でなくなってしまうからである。

 イスラエル民族は、長い間、神の聖なる民として神の言葉を委ねられたきた。そのことは、

結婚式の披露宴に招かれたことにたとえられている。王の息子の結婚式であるから、そこに招

かれるのは特別な意味をもっている。

 ところが、招かれた人たちの反応は、王の思いを全く無視し、反逆的な行為を重ねている。

「ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出ていき、残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、

殺してしまった。」(5.6)

 これは神の選びの民イスラエルが、如何に神の愛に対する信頼を裏切ったかを説明している。

結果として、王は怒り、その町を焼き滅ぼしてしまう。これに代わって結婚式に招待されたのは、しもべたちが「大通りにいって、出会った人みな」(9)であった。この人たちは、民族や国の差別が全くない。こうして招かれた多くの人の中に、礼服を着ていない人がいた。この人は、王が備えた礼服を拒否した人である。王の問に対し黙っていたのは、彼自身の頑迷さによる。

 招かれることは恵みの選びである。不信仰により、その恵みの機会を見失ってはならない。

2023年11月19日

     家を建てる者たちが捨てた石   それが要の石となった。

  これは主がなさったこと。 私たちの目には不思議なことだ。 マタイ21:42

 

    日本の家屋は、スギとかヒノキなどの木材を用いて建てられている。これに対してイスラエルでは、ローマの影響を受けるようになってからは石を用いて家を作るようになった。用いられる石のほとんどは石灰岩であった。これは加工し易く、仕上がりが滑らかであったことによる。

 「家を建てる者たち」は、そうしたことを生業とする専門職である。それだけに、石の良し悪しを見分ける目利きであった。

 その「家を建てる者たちが捨てた石」であるから、専門家が見て家の材料として全く役に立たないと判断した石ということになる。ところが、全く別のところでその石が用いられる。それは主が建てられる家においてである。そこでは、捨てられた石が「要の石となった」。要の石というのは、二つの壁を結びつける重要な石のことである。これは詩118篇22節の引用とし

て語られている。

 要の石は、厳選されなければならない。それが砕けてしまったら、全体が崩壊してしまうからである。ここに「家を建てる者たち」と「主がなさったこと」の違いが明瞭にされる。祭司長や長老といった律法の専門家は、主イエスを十字架に追いやった。それは石を捨てたことになる。けれども父なる神は、主イエスを死から復活させ、新しいイスラエルという家を作られた。そこでは主イエスが中心の役割を果たしている。

 人の価値判断が神への信仰を失わせることがある。神の御子を人々が捨てた行為は、その最たるものである。けれども主はその最悪を、神の救いのための要石としてくださった。そこに罪人に対する和解の福音がある。

2023.11.12

   それからイエスが宮に入って教えておられると、祭司長たちや民の長老たちがイエスのもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたにその権威を授けたのですか」    マタイ21:23

 

   知らない人が、突然、自分の家に入ってきたら、心を閉じて抵抗するのは当然のことである。あるいは「何の権威によってこんなことをするのか」というかもしれない。けれどもその人が私を愛し、私に迫っている危険から救済しようとしているのだと知ったら、心を閉じたままであるのは愚かなことになる。

 律法学者や祭司長たちは、主イエスが宮で行っていることを受け入れられなかった。ユダヤ人にとって宮は神が臨在する聖なる所であった。それ故、宮に入って教えることができるのは、祭司長や律法学者など人々に認められた権威がなければならないと考えていた。

 主イエスのことは人々の中に広く知られるようになっていたけれど、主イエス自身はルールに従って宮で教えるための権威を得ていたわけではない。だから彼らが「何の権威によって、これらのことをしているのですか」と問うたことを、殊更に不信仰と断じることはできない。

 けれどもここでは、祭司長や民の長老たちが得ている権威を問わなければならない。彼らは主イエスに向けて「だれがあなたにその権威を授けたのですか」と迫っている。そこには自分たちこそが権威者なのだという主張がある。ルール上は確かにそうであった。しかしその実像は自己保身だけを優先するいい加減なものであった。そのことは主イエスによるバプテスマのヨハネについての問の中で

明らかにされる。(25)

 神の言葉が持つところの権威は、人の要請によって出来上がったものではない。聖書は神の啓示としてのキリストを語っている。

 

2023.11.05

    今の時の艱難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。                                             ローマ8:18

 

    多くの人にとって、苦難があることが信仰の躓きになっている。神が信仰者と共におられるのなら、どうしてこのような苦しみに直面するのかというのである。押し寄せる苦難は、しばしば信仰者を孤立させたり、疑いの渦に巻き込んだりするのである。

 しかしパウロは、苦難そのものを信仰に対立するものと見なしてはいない。かえって信仰の質を更に高めるものであると語っている。苦しみはやがて与えられる希望のための過程であり、そこには比較にならない程の質的な違いがあるというのである。

 このことを、被造物における束縛からの解放をもって説明している。「被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。」(19)  被造物の中には意思を持っていないと断じているものがあるが、それらを含めて神の栄光に変えられるときが来るのを待ち望んでいる。それで今の滅びを受け入れているというのである。

「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。」(21)

   ここに私たちは、神の贖いの業における宇宙的な広がりを見るのである。創造者による圧倒的な摂理の力が、私が抱える苦難さえも神の栄光の中にとり込んでいく。被造物全体の贖いにおいては、苦難さえも神の栄光に変えられるための過程である。そのことは、女性が出産するときに発する呻きの声に似ている。苦しみではあるが、いのちの誕生を喜ぶことができるからである。そのときには、先の苦しみより後の喜びの方がずっと優ったものになる。

 「被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに生みの苦しみをいきています。」

(21) ここに苦難を抱えた私たちの希望がある。

2023年10月29日

   あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でも受けることができることになります。

                                                                                マタイ21:22

 

    信じなければ成り立たないことがある。仮に強度の人間不信に陥り何もかも疑い出したら、正常な社会生活を営むことはできないであろう。

    聖書において信じるということは、人格的なことであって、危険リスクをとり除いて機械的に関係づけることではない。人口知能によって選別したり削除するシステムとは根本的に違っている。

 神を信じるということにおいて最も重要なことは、神と人格的な関係が構築されることである。

この関係は罪からの悔い改めに起因していることであるが、そこだけに留まっていたのでは全く不

十分になってしまう。主イエスとの生きた関係は主の御言葉を聞き、それに従うことによって得ら

れるものだからである。

 主イエスは、葉ばかりが茂って実のない無花果を枯らされた。この出来事は、形骸化した信仰者

に対する神の裁きを予兆する出来事と言える。そこに垣間見えるのは、当時の宗教指導者や民衆の中に見られた人間中心の信仰のあり方である。

 その状況を打ち破るのに、主イエスがとられた手法は祈りであった。祈りは信仰を必要とする。

かたちばかりの祈りもあるけれど、そこにいのちがないことは、祈っている当の本人が一番自覚できるであろう。

  信仰がなければ、祈りを継続することはできない。「信じて祈り求める」のは、そうした疑惑に

打ち勝って為される。祈る者に対し、主イエスは「何でも受けることができることになります」と約束しておられる。

  信仰から引き離そうとする力は強い。誘惑の声は「祈っても無駄だ」と主張し続ける。だからこ

そ真理の帯をもって信仰の姿勢を正さなくてはならない。そして祈り求めるのである。

2023年10月22日

 そして彼らに言われた。『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、お

まえたちはそれを『強盗の巣』にしている。    マタイ21:13

 

  エルサレムは、ダビデによって建てられたイスラエルの町である。この名前の意味は、ヘブル語のイール・シャローム「平和の町」からという解釈が最も有力で、昔から聖なる都、平和の礎とされてきた。

 主イエスが宮清めをされた宮とは、この町の丘に建てられている神殿のことである。ユダヤ人にとって、神殿礼拝は最も重要な宗教行為であり、祭りの度に国中から多くの人々が集まってくる。神殿には隣接したところに異邦人の庭と言われる領域があり、そこでは両替人とか鳩を売る者たちが、宮に捧げものをする人たちを相手に商売をしていた。

 主イエスがこの町に入って最初にしたのは、こうした人々を異邦人の庭から追い出すことであった。「それからイエスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちを皆追い出し、両替人の台

や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。(12)

 もしも人権という観点から見たならば、主イエスの行為は暴力的なものとして責められるであろう。祭司長や律法学者たちの抗議の声が記されている。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたにこれらの権威を授けたのですか」(21:23)

 ここで主イエスは、宮についてのイザヤの預言を用いられた。「わたしの家は、あらゆる民の

祈りの家と呼ばれる」(イザ56:7)

 それは回復されたイスラエルにおける神殿の姿についての預言であり、福音が指し示す神殿のイメージに重なってくる。信仰が形骸化しているところでは、無自覚的に宮さえも「強盗の巣」になってしまう。そうしたことでの方向転換が迫られている。

2023年10月15日

   向こうの村へ行きなさい。そうすればすぐに、ろばがつながれていて、一緒に子ろばがいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。 マタイ21:2

 

   平和を実現させるために、圧倒的な力によっって相手を屈服させるという考え方がある。そうした意味での平和は、初代ローマ皇帝の時代から多くの人たちの支持を集めてきた。これは「ローマの平和」と呼ばれていて、今日同じような意味で積極的な平和主義という言い方がされたりする。

 けれども福音は、そのように人の力に頼った支配をもとに平和を実現するものではない。それまで敵対にしていた神と和解し、関係が修復されることを平和の土台としている。「実に、キリストこそ私たちの平和です」(エペソ2:14)

 それ故、エルサレムに入場したときの主イエスは、皇帝を連想させる威容を誇るような姿ではなく、へりくいだりと柔和さを明らかにするものであった。預言者によって語られた救い主としてのあかしである。

 「見よ。あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、

子ろばに乗って」(マタ21:5,ゼカリヤ9:9)

 ここで用いられたろばは、荷ろばとしても「誰も乗ったことのない子ろば」(ルカ19:30)であった。誰も乗ったことがないのは、まだ若く、人を乗せるのに慣れていないからである。人の評価では使用に耐えないが、主イエスはその頼りないろばを選ばれた。平和を実現させるため、人間的な意味での力を用いず徹底的にへりくだられているからである。人には評価されなくても、神の栄光のために備えられた働きがある。「それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい」とあるように、それを止める権威を人は持たない。

  今日、至る所で平和が脅かされている。そうした中、私たちは力による支配ではなく、柔和な王による平和をあかししていきたい。

2023年10月08日

   イエスは立ち止まり、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」

                                                                                                                 マタイ20:32  

 

   秋の陽は釣瓶落としと言われる。北欧のような速度ではないけれど、たちまちのうちに暗くなる

ので、その分だけ光を求めるということがある。

 もし慣れないで光が届かない暗黒の世界にいたら、普通のようには暮らせないのでなかろうか。精神的に追い詰められてしまうかもしれない。目が見えないということは、光が届かないことと同じである。けれども健常者にはその苦しみがよく分かっていない。

   人生の中で希望を失ったことがため、光が届いていないと思えることがある。そこでは絶望だけが現実となっている。けれども福音は、その闇の中に光を造り出された方を証ししている。

 主イエスがエリコの町を出て行くと、目の見えない二人の人がイエスについて行った。(29) 同

じ記述がマルコ10:46にあり、そこでの一人の盲人の名は「バルティマイ」と記されている。

 彼らの主イエスへの訴えは、群衆を苛立たせる程に激しいものがあった。騒乱となれば、支配者の弾圧によって民衆まで巻き添えを食ってしまう。そこで群衆は彼らを黙らせようとした。

(31) しかし二人の盲人は、その群衆に抑えつけられて黙るのではなく「ますます『主よ。ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。』と叫んだ。」(31)

 それは暗闇の中に光を求める切なる叫びである。絶望の中に希望を求める強い信仰と言える。

「イエスは立ち止まり、彼らを呼んで言われた。『わたしに何をしてほしいのですか』と問われた(32)

 二人の盲人は、これまで人々に邪魔者として扱われ、迷惑な者とされていたであろう。日常的には、その存在さえも無視されて生きてきた。けれどもここに、信仰による叫びがあった。その声に足を止められる主は、「何をしてほしいのか」と語りかけておられる。そのしもべとして仕える姿勢から、闇から光へと転換をする主の力が働く。それは信仰をもって主を待ち望む者が、御顔に輝く光の内を歩むためのものである。2コリント4:16

2023年10月01日

   人の子が、仕えられるためにではなく、仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。 マタイ20:28

 

   社会的に高い地位について名声を得たいとすることは、多くの人が持つ隠れた願望ということができる。けれども、それがあからさまな態度に出ると、人々から不評を買ったり相手を不機嫌にさせてしまう。

 主イエスの弟子たちが、ゼベダイの息子たちの母のことで腹を立てたことのは、彼女が主イエスにこのようなことを願ったからであった。

「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばをください。」(21)

 ヤコブとヨヘネの母は、天の御国では自分の息子たちに特別な地位を与えてほしいとした。他の10人の弟子たちが腹を立てたのは、彼らも御国で偉くなりたいと考えていたのに、ヤコとヨハネの母が自分の息子を優先してほしいとしたからである。子を思う親の素朴な気持ちであったろう。彼らの家はガリラヤ湖で漁をする網元であったので、(マコ1:20)その社会的な地位が、母の願いの背景にあったのかもしれない。

  いずれにせよ、福音があかしする神の国に対し、彼らが如何に無知であったかを如実に示している。しかし主イエスはこれを怒らずに諭された。世の権力者は、力によって支配下の人々を自分に仕えさせようとする。けれども天の御国においてはそうではない。「仕えられるためにではなく、仕えるために」と言われている。その行動は自我による支配ではなく、神から生まれる愛によって基礎づけられている。「贖いの代価」は、主イエスの十字架そのものである。私たちは、その杯を飲むことによって、キリストのいのちに生きる者とされる。

2023年09月24日

   最後に来たこの者たちが働いたのは1時間だけです。それなのにあなたは、1日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。  マタイ20:12

 

   唯物的な労働価値という考え方によれば、労働者の報酬はそこに払われた労働の量によって決められる。多く働いた人が多くの報酬を得、少なく働いた者は報酬が少なくなるのは当然とされる。

 けれども主イエスが語られた天の御国のたとえでは、この原則がそのまま適用されるのではない。1時間だけしか働かなかった者と、朝から晩まで1日の労苦を辛抱した者たちの報酬が同じ1デナリとされている。

 労働の量ということに着目すれば、両者の間には圧倒的な開きがある。ぶどう畑での仕事は、暑さと闘う過酷な重労働である。報酬が払われるときに、1時間しか働かない者に1デナリ支払われたのであるから、それより長く働いた者により多くの報酬が与えられることを期待するのに無理はない。

 ところが、朝早くから働いた者たちの手に主人から渡されたのは同じ1デナリであった。そのとき、朝から働いてきた者たちの不満が一気に爆発した。彼らは、主人が不正をしているかのように、主人を厳しく詰問した。それに対する主人の答えは、1時間しか働かない人に1デナリ支払ったのは、主人の気前の良さによるで、十分に合理的なものだと説明される。これこそが神からの報酬の意味を端的に説明している。

 ここで重要なことは、主人からの報酬が人の側の労働の量によって基礎づけられたものでないことである。人がどんなに功徳を積んだとしても、それが直ちに天の御国における価値を生むものではない。そうではなく、価値のない人が神の恵みによりぶどう園での新しい生き方をする。ことこそが報酬そのものなのでである。そこに愛、喜び、平安、感謝の実が結ばれるからである。

2023年09月17日

   いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。

                                                       テサロニケ第一5:16 

 

    秋の空を絵に描くなら、迷うことなく青い絵の具を手にとるだろう。白色も黄色も赤色だって使っておかしくないけれど、圧倒的にキャンバスを埋めるのは、コバルトブルーのようなものではなかろうか。

  テサロニケの教会に書き送ったパウロの手紙には、そんな澄みきった空のような明確なメッセージが込められている。このときパウロは、テモテによってテサロニケ教会の人たちが困難に耐え、硬く信仰に立っていることを知って大いに喜んでいた。パウロ自身は、その町の人々によって追われたのであったから、残してきた教会の人たちがどんな様子であるか、どうしても確かめたかった。

  けれども、今いるコリントからテサロニケまでは直線距離にして400キロも離れている。パウロは何度か足を向けたのであったが、ことごとく道が閉ざされてしまった。物理的には、両者の関係は絶たれたに等しい。けれどもキリストにあってはそうではない。この手紙によって、共にキリストのいのちが溢れていることを見ることができる。

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。 すべてのことにおいて感謝しなさい」

   パウロの言葉は、テサロニケ教会が置かれていた困難さを背景に更に輝きを増してくる。また「いつも」「たえず」「すべて」という言葉によって、普遍性を持ったものとして覚えられる。手紙の読者は、パウロがいつもどんなふうに自分たちを気遣い、祈っていてくれているか理解したであろう。

 この交わりを可能にしているのが、キリストの内にあるという事実である。困難さや問題は、どの時代においても形を変えてある。雨の日や風の日もあるけれど、キリストにある輝きを失わない生き方をしたい。

2023年09月10日

    イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできるのです。    マタイ19:26

 

 子どもの頃、裁縫をしている祖母が手にしている針に糸を通すのは私の役目だった。それをしながら「どうしてこんな簡単なことが祖母にはできないのだろうと不思議だった。人にはできないことの譬えで、主イエスは「らくだが針の穴を通るほうが易しいのです」(24)と言われた。らくだは馬とは違い、狭いトンネルのような所も恐れずに進むけれど、針の穴を通ることは絶対にできない。考えるまでもないことを、主イエスは何故、言われたのであろうか。それは人にはできないと考えていることを、神の視点で考え直すために他ならない。

    この個所に登場する青年は、主イエスが「あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい」(21)と言われた命令に従うことができなかった。律法については「子どもの頃から、すべて守ってきました」と主張していたが、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(19)という戒めについては実践できない。

 結果として、この青年は主イエスから離れていった。私たちは多かれ少なかれ、この青年のよう

な自己矛盾を抱えているのではなかろうか。人の前では良い顔をしているようなことが、心の内に隠された自分と乖離していることがある。その間隙を埋めることは絶対にできないと考えて、そうした部分を無視したり、忘れ去ろうとしている。そこに真実さが失われてしまう。

 しかし、このできない部分を変えてくださるのが主イエスの恵みである。「神にはどんなことでもできる」と言われるのは、人がアッと驚くような奇跡のことではない。頑なに閉じてしまった心が、主の恵みにより新しくされるよってである。

2023年09月03月

  イエスは彼に言われた。『帰って、あなたの財産を貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになります。』 マタイ19:21

 

 今日、若いときに人生に目標を定めることは、それ自体において肯定的に受け止められるのではなかろうか。その点から考えるなら、主イエスのもとに来た青年(20)は、一見、その言葉に極めて模範的な態度がみてとれる。

「先生、永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか」

 決してふざけた質問でもなければ、主イエスを言葉によって罠にかけようとするのでもない。この青年が抱える個人的な悩みの故に、主イエスの前に立ったのであろう。それは神の御国に入ることについての揺れ動く疑問であった。これについては、これまで多くの律法の教師から教えられてきたことであったが、納得できない部分があったので、「良い先生」として評判の主イエスに尋ねたのである。

 その青年の問に、主イエスは「いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい」とされた。これはパリサイ人のように、数多くの律法を守り通すことを命じたのではない。むしろ、自分を神の国に入るべき人としているこの人が、自分が今までしてきた方法では神の国に入れないことを気付かせるものである。

 青年の自己義認が欺瞞であることは、主イエスの「あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい」という言葉によって明らかにされた。元来律法は、罪の奴隷であった民が、契約によって神の民として整えられるためのものであった。青年は「それらすべてを守ってきました」(20)と言ったが、彼自身はモーセの十戒である「むさぼり」を罪として認めようとしない。

 神の国は人の行いによって開かれるものではない。自己肯定により罪を覆い隠すなら、神の国を見出すことができない。そこに私たちの生き方の転換が迫られている。

2023年08月27日

   イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」   マタイ19:14

 

     親が子どもの祝福のため、主イエスに手を置いて祈っていただくとしたら、それは親として自然で麗しいことであるように思う。主イエスの弟子たちが、主イエスの前で「誰が一番偉いか」(18:1)という議論をしたことに比べれば、親たちの主に対する信頼は余程深い。

 けれどもこのとき、「弟子たちは連れて来た人たちを叱った」(13) 何故、そんな態度をとったかはっきりわからないが、主イエスの言葉からすれば、弟子たちが考える天の御国のイメージに子どもたちは含まれていなかったのであろう。当時、子どもたちは人として完成されていないと考えられていた。そのため、宗教的にも一人前に扱われることはなかった。弟子たちからすれば、そんな子どもたちを主の前に連れて来た人たちのことを常識がない無礼者に映ったのであろう。

 しかし主イエスは、その「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません」と言われた。ここでは連れて来ることと、主イエスが呼ばれることに断絶はない。連れて来た人たちのことは、主イエスがあらかじめ呼ばれたかのようである。それ程までに子どもたちが大切にされる理由は、「天の御国はこのような者たちのもの」であるからである。

   弟子たちの感覚では、天の御国に入るには人間的に評価されるものを必要としていた。その点からすると、ここに来ている子どもには何も備わっていない。未経験で無知である子どもは、弟子たちの判断では無意味の領域に押し遣られてしまういたのであろう。主イエスはその子どもたちを指して、「天の御国はこのような者たちのものなのです。」と言われる。そこに主イエスの側から先行する恵

みの業が垣間見える。主イエスは、その子どもたちの上に手を置かれた。恵みを受けるのは信仰によるのであるが、その信仰さえも主の業としてあるかのようだ。

  

2023年08月20日

創造者ははじめの時から、「男と女に彼らを創造され」ました。 マタイ19:4

   

 近年、女性の社会進出が進み、管理職など責 任あるポストに女性が就くことが珍しくなくなってきた。それでも国連などの統計では、欧米と比較して日本では社会的・文化的な意味での性差別が根強く残っていると指摘される。

 パリサイ人たちが、主イエスに離婚について問かけたとき、彼ら自身の中にユダヤ教による性差別があった。けれどもそうした部分は彼ら自身の律法解釈によって見えなくされている。そこで問題にされているのは、主イエスの律法解釈による対立であった。彼らの問には、「試みるため」(3)とあるように、主イエス追い詰める道具にしたいという意図が隠されている。

 この策略に対する主イエスの答えは「あなたがたは読んだことがないのですか」(4)である。主イエスは、男女の性の違いを、「創造者ははじめの時から、『男と女に彼らを創造され』ました」と語られた。ここでの性は、創造の秩序の中で互いの性の違いを理解し、受け止めていくことが語られている。結婚は神が結び合わせたもので、二人は一体なのである。(6) 

 離婚というのは、この神の創造の業に反する人間側の業であることに気付かなければならない。パリサイ人は離婚における離縁状が律法に照らして問題であるかどうかを問いかけている。それは律法を隠れ蓑にした自己保身と自己義認のための勝手な律法解釈であった。主イエスは、それが神の意図から遠く離れていることを明らかにさたれた。、

 今日において性が問われるとき、性が本来的に持つ意味と役割を無視してしまう方向に流れる危険があることを気をつけなければならない。そこで聖書から、本来的な性の意味を理解し回復していくことが求められる。

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