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 2026年07月24日

    あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。  Ⅰペテロ5:7

 

   心配するあまり、前に進めなくなることがある。いろいろなことを考えると、不安だけが増してくるのである。

 聖書の「思い煩い」という言葉は、「分ける」という言葉からきているようだ。それは、心が一つのものに向けられず、集中していない状態のことを言う。

 問題が山積していると、自分で何とかしなければならないと、重荷を一身に背負ってしまう。そこには、責任感、使命感そして自尊心などと共に、失敗したらどうなってしまうかという不安が入り混じっている。

 そうした状態になっても、問題がうまく解決できれば良いのであるが、なかなか思ったとおりにならないのが現実である。結果として心が散り乱れ、心配のあまり、生活のリズムはおろか体調まで影響が及んでしまうことがある。

 使徒ペテロは、「いっさいを神にゆだねなさい」とすすめている。また詩篇55:22には「あなたの重荷を主にゆだねよ」とある。「ゆだねる」という原語の意味は「ころがす」あるいは「投げかける」ということだという。

 自分で重荷を持つことは大変な労力を要する。ときには、重圧に押し潰されてしまうこともある。けれども、一旦、それを地べたに置いて転がしてみたら、難なく荷を移動させることができることを見出す。そんな経験をしたことはないだろうか。

 主に委ねることは、あなた任せの態度をとることではない。自分自身を主の御手の中にある小さな存在として捉え直すことである。そこに 恵みによって為すべきことがみえてくる。

 私たちは、知らない間に自己が尊大になってしまう。自分以外に解決の道を見出すものがないと考えてしまう。そうした私たちが、主の前に徹底的に謙遜にさせられるのが「ゆだねる」ということである。その信仰により「神があなたがたのことを心配してくださる」という、神の恵みを知るのである。

2026年07月17日

   何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている私たちの確信です。   1ヨハネ5:14

 

  多くの人は、信仰を自分の経験と考えの枠の中で考えている。そのために、御言葉が約束する神の祝福を、絵空事として簡単に廃棄してしまう。「祈っても無駄だ」「祈りは叶えられない」と。

 それに対し、使徒ヨハネの祈りに対する確信は何と力強いことか。何としても伝えなければならないこととして、熱烈に訴えられているのではないか。

 これは、論理とか法則のようなものではなく、それまでの信仰生活によって紡ぎ出された確信であった。ただし、誤解してならないのは、「みこころにしたがって祈る」という制限があることである。それは祈る者と祈る対象の関係性を示すものであって、祈りが何であるかを物語っている。 

 祈りにおいて最も重要なことは、神の前に心が開かれることである。心が開かれているなら、みこころにかなうことができるけれど、そうでないなら、みこころにかなうことはできない。

 そのため、みころにかなうためには、祈る者の側に祈りに対する備えも大切にされる。神に祈りながら、自分が神に替わる立場であるかのように祈ることがあるからである。

 神が祈りを聞かれるというのは、神が祈る者の言葉に従がうことではない。神が祈りを受け止め、そこに神の業が備えららるのである。たとえ、自分の訴えがそのまま聞かれなくても、そこに神の業がなるのを信じていく。そうした祈りを求めていきたい。

2026年07月10日

   神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。

                                                                                     1ヨハネ5:3

 

 かる鴨親子の移動が報道されていた。親鳥にしっかりついてくる子鴨の様子は、何ともほほえましかった。自然界において、産んでくれたものと、生れたものの関係は深く結びついている。

 キリスト者は、神から生れた者であるのだから、神を愛し、神のことばを守ることは当たり前のことであったはずだった。ところが、そのことがうまくいかない。罪の介入である。キリスト者であっても、神の言葉に従がわねばならないという意識が、「重荷」として反発してしまうことになったりする。

 原因はいろいろ考えられるのであるが、一番大きいのは、生れながらの自己意識が、神への愛に向かわせないで、欲望に捉えられてしまっているからではなかろうか。神の愛をとり違えているのだ。

 こうしたことは、イスラエルの歴史の中にもみられた。神がイスラエルの民を奴隷から解放されたとき、神のことばへの従順を求められた。

 「あなたがたが確かにわたしの声に聞き従がい、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆ

る民族の中にあって、わたしの宝となる」(出エジプト19:5)

 このときイスラエルは、契約によって神の民としての祝福が約束された。けれどもその後、民は「わたしの声に聞き従う」ことをしなくなってしまう。信仰によってではなく、自分の業に頼ったからであった。

 主イエスによる新しい契約で、イスラエルと同じ間違いをしてはならない。神の命令は、私に向けた神の愛から出たものである。それを守るのは、神の愛への真摯な応答である。私にとってそれは重荷ではなく、ますます神の愛を知ることになる。

2026年07月03日

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。       1ヨハネ4:18  

 

    恐れを締め出すものとして愛がある。 一般的には、愛の反対語として考えられるのは憎しみだろう。あるいは無関心こそが愛に対峙する概念だとする人たちもいる。人間関係において無関でいることは、愛という意思が発露することさえなくしてしまうからである。

 そうした議論においては無視されているけれど、心の深いところで、愛にブレーキをかけているのが恐れである。

 この箇所で使徒ヨハネは、主イエスによって示された愛を「全き愛」と表現した。全きというのは、それが神からのものであり、偽りを含まない完全なものであることを示している。それは神のさばきという究極の状況においても、変質したり色あせてしまうことがない。

 「愛には恐れがない」というのは、そうした愛の姿を裏書きした表現である。人間的な愛であれば、どこかに打算が混じったり、欲が介在したりすることもある。人の前では愛として隠せたとしても、そうしたことは神の光の中では無力である。

 人のすべての営みが問われる神のさばきでは、愛としていたことさえも恐れに代わってしまうことがある。そこに密かに抱え持っていたものが明らかにされてしまうからである。

 けれども、そんな弱点を持つ者であっても、既に神の愛に生かされている者は、神のさばきから解放されている。

 恐れは主イエスの十字架によって、既に取り去られているからである。この愛に信頼して、主に近づく者とされたい。主は、そうした歩みを祝福し、ますます愛に生きるよう導いてくださる。

​​

 

2026年06月28日

  愛のないものに神は知りません。神は愛だからです。神は愛だからです。1ヨハネ4:7

 

     愛がわかるというのは、どういうことだろうか。たとえば目とか鼻や耳のように、人の器官をもって、愛を確かめるというようなことではない。認識といっても、野辺の花に季節を感じたり、古びた景色に歴史を感じたりする、印象のようなものと違うのではなかろうか。

 母の日のカーネーションのように、たとえ一輪の花であっても、人はそれを贈ってくれた人に愛を感じたりする。この場合、花を受け取る人とそれを贈ってくれた人とがいるわけで、愛はそのように別人格との関わりの中に見出されると言えよう。単独の人格の中には愛は生れない。してみれば、Aiがどんなに技術革新されようとも、そこに愛を見出すことはできないのだ。

 神が愛であることを知るというのは、神という存在を受け入れることから始まる。全く神を否定してしまったら、どうして神の愛を知ることができよう。それは、存在しない人を知ろうとするようなことで、勝手に作り出した観念的な産物での理解になってしまう。

 ヨハネが「神は愛だからです」というのは、主イエスの弟子として召されてから、老年に至った現在まで、神の愛に生かされてきたという体験による。それは紛れもない現実で、知れば知るほど愛は神からのものであり、人間社会の中に求められていた愛とは性質が違うことが分かった。中でも、主イエスの十字架は、神の愛が示された出来事と確信した。この愛を愛として受け止めるとき、自分の中に同じ愛が生れる。これは感情に支配されるのものではなく、内住のキリストを証しするものである。そして、この愛は、互いの愛によってますます認識される。

 頭から神を否定していては、神の愛を知ることはできない。それは神の最大の祝福を、自らの判断で逃すことになる。

2026年06月21日

   人となって来られた、イエス・キリストをを告白する霊はみな、神からのものです。

                                                                                          1ヨハネ4:2

 

「今朝早くに家を出て、東京駅から新幹線で仙台に来ました」 と客が話せば、「そうでしたか」と応じる。何の疑いもない。けれども、御子が地上に来られた事情についてはそうはいかない。

 主イエスは、神の御子という立場を捨てて、世に来られた。この事実を受け止めるということは、頭で考えるだけでは起こり得ない。なぜなら、その告白は自分の心が神のことばに探られたことの結果だからである。

    自分を捨てるということは、主イエスの生涯において、徹頭徹尾貫かれた姿勢であり、そのクライマックスが十字架であった。キリスト者は、このキリストを仲介者として神に前に受け入れられる。その過程で、己が罪のゆえに打ち砕かれることが、神への信仰の道を開かせる。それは最初から最後まで神から出たことであった。

 「人となって来られた、イエス・キリストを告白する」というのは、そのような恵みにより、主イエスを救い主(キリスト)として信仰を持つようになることに他ならない。この信仰が神と人との前に公にされる。

 人は生れながらの性質を抱えたまま、このような信仰に至ることはない。辛い修行を重ねようと、また、あらゆる学問を研鑽しようとも自らの努力や才覚によって、啓示に替わる知識を得ることも、体験することもできない。

 だからこそ、キリストの現れについて、預言者イザヤは、「わたしたちが聞いたことを、誰が信じたか」(イザヤ53:1)と書き記した。常識的にもないことだし、人の頭に浮かぶことで

もなかった。

 それだけに、「イエス・キリストを告白する霊が「みな」と書き添えてあることは、それが神からのものであることを明らかにしている。

 そのことは、キリスト者ひとりひとりにとって何と力強く心に響くことだろうか。

2026年06月14日

    愛する者たち、自分の心が責めないなら、私たちは確信を持つことができます。

                                                                                                 ヨハネの手紙第一3:21

        

 「洗面器に入った水が揺れ動いているとき、鎮めるために一番いい方法は何だと思いますか」。先日、趣味で合気道を習っているという牧師から質問を受けた。八月に行われる平和祈祷会のため、世話人の皆とチラシの発送作業をしていたときのことである。考えあぐねていると、一人の牧師が「洗面器を床に置くことだと思います」と答えた。正解であった。

 質問者によると、これと同じことが 信仰生活においてもあるというのである。彼が合気道に興味をもったのも、キリスト教信仰と共通するのを見るからだという。それから、彼の証しを聞くことができた。

 確かに、私たちは、何か何かの原因で、心が揺れ動いて自分でコントロールできない状態に陥ってしまうようなことがある。解決しようと焦ってしても、事態を悪化させるばかり。それは洗面器の水を鎮めようとしながら、かえって溢れさせてしまうよなものであろう。

 主が求めておられるのは、一旦、その問題から手を放して御父に委ねることである。「自分の心が責められる」(20)というのは、自分の中で何とかしようとしている状態ではないだろうか。そこでは不安や怖れを募らせながら、逃れるための道筋がどこにも見出せないのである。そこで示されているのは、自分が握り閉めているものを、御父の手に委ねることである。

 「神は私たちの心より大きな方であり、すべてをご存じだからです。」(20)

 自分だけで解決しようとすると、御父との距離ができて信仰そのものが揺らいでしまう。たとえ自分なりに解決したとしても、欠陥や綻びのため、御前で心安らかでいられないことになるのではなかろうか。

    これに対し、御父の前に取り扱われたものは、神からの平安を伴うものである。これこそが私たちが保つべき確信である。

2026年06月07日

   子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実を持って愛し合いましょう。

 ことばには重さがある。同じことばであっても、どのような状況で、誰によって語られたかにより、重さは全く違ってくる。重いことばというものは、私たちの人生を支えるものとなり、生涯に渡って自分自身と深く関わってくる。それに対し、「ことばや口先だけ」のことばがある。

   その場凌ぎの出まかせで、何の責任を負わないことばである。そうしたものは、風に吹き飛ばされる枯れ葉のようだ。舞い散らされてそのまま行方しれずである。

 キリスト者の信仰は、行いと真実さによって裏打ちされたものである。それは神から出たものであり、主イエスがいのちをかけて証しされたものである。だから、ことばそのものが大変に重い。この原点を見失ってしまったら、ことばそのものがたちまちにして空洞化してしまう。

 「互いに愛し合うべきこと」(13)を考えた場合どうであろうか。教会にあっては、これこそ行いと真実をもって内実化されなければならない。教会はその愛が証しされる場である。

 けれども、その教会の中でさえ、互いに愛することが、口先だけで実質を伴わないことがある。交わりの中で、愛を口にしながら、心の底では兄弟を憎んでいるようなことが起こり得る。

 ヨハネは「カインのようになってはいけません」(12)と警告している。カインは神へのささげものという行為の中で、弟アベルに対する怒りを持ち、それを殺人に発展させてしまった。

 カインがそこに至る前、主なる神は「罪はあなたを待ち伏せしている」(創世4:7)と注意を呼びかけられた。しかしカインの心に生じていた怒りが、神のことば軽いものとしてしまった。

 カインと対称的なのが、主イエスによる兄弟愛である。それは神から出たものである。その愛は

キリストが十字架で死なれたように、兄弟のために自分のいのちを捨てる。そこに行いと真実による愛の証しがある。

2026年05月31日

 愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。    ヨハネ3:1

 

    巣作りに励む燕がみられる季節になった。雛のため、かいがいしく飛び回る親鳥の姿は、何と愛おしいことかと感嘆させられる。

 いうまでもなく、人が誰の子であるかは、親を主体として受け身である。養子になるということでは、本人が関わることもあろうが、それにしても受け身の要素が大きいのでなかろうか。

 できれば違う親のもとに生まれてみたかったと空想することは、誰であれ一度は考えてみたことがあるかもしれない。それにしても、出生においての親からの譲りものは動し難く、自分の選択権というものはどこにも見出せないことに圧倒されてしまう。

 私たちが神の子とされるというのも、自分の意思とか修行とか功徳の積み上げによってではない。徹頭徹尾において神の恵みが先行したことによる。

  「私たちは今すでに神の子どもです」

   ヨハネがこのように書くのは、自分が神の子であるという自覚が持てないキリスト者がいたからであろう。神の子にされることを憧れながら、今の自分がそうであるとは考えない。不穏な出来事や、まといつく試練に直面し、神の子になるという希望を失いつつあった人がいたのである。あるいは、世間の風当りの強さにより、神様との距離だけが離れているかのような受け止め方をしていた。

 ヨハネは、そうした迷いを見越したかのように、「今すでに神の子とされているのですよ」、と優しく語りかけている。ここに成し遂げられた神の業の上に、信仰の基礎を置くようにという強い勧告がある。そのことにおいては、キリスト者の信仰は全く受動的なのである。

 自己嫌悪から逃れられない罪の自覚があっても、その人を神の子として養子縁組をしてくださったのは神ご自身である。そうであればこそ、神の子としての備えをすることができる。このことにおいて、人からの批判も気にすることはない。罪人であった私を愛し、子として受け入れてくだくださった方を見上げるだけである。

2026年05月24日

   聖書があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまで、わたしの承認となります。 使徒1:8


 ペンテコステは、聖書が天から降臨したことを記念する日である。主イエスは、十字架につけられる前に、「もうひとりの助け主」について語られた。(ヨハネ14:16) 
 また、死から復活されてからは、弟子たちに御自身が生きていることを示されるとともに、聖霊を祈り待ち望むよう命じられた。そこで弟子たちは主の言葉を信じて熱心に祈っていた。
 ペンテコステの日、突然、天から大音響を伴う風が吹いてきて、信者の上に火のようなものがとどまった。そのとき人々は聖霊に満たされ、多国語で神のことばを語り出した。これが主イエスの約束による聖霊降臨の出来事である。

 キリスト者の歩みは、聖霊の導きと助けを受けることができる。聖霊は教会を通して証しされる

ので、聖霊が天から降ったことは教会時代の幕開けでもある。
 旧約聖書との関連では、ペンテコステとは第50という意味で、5旬節とも呼ばれる。この日は、モーセに率いられたイス
ラエルの民が、シナイ山で律法を授与された記念日とされていた。律法では「七週の祭」または「刈り入れの祭」としてある。
 この祭は大麦の収穫の終わりであると共に、小麦の刈り入れの始まりを告げていた。これが刷新

されたので、新約的な意味では諸国の霊的な刈り入れということができる。
  つまりペンテコステの出来事は、信者が聖霊によって律法を心に刻まれ、キリストの証人として

宣教の働きに召し出されることを意味している。
 すべてのキリスト者は、御霊の導きと助けによってキリストの証人となり、積極的に主をあかしする者とされた。また、キリスト者は、御言葉を伝えることによって、主を深く知ることができるようになる。このようにして、恵みに恵みが加えられている。
 この日、世界宣教のために祈ると共に、自分の身近なところで主をあかしする者でありたい。

2026年05月17日

 幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。  第一ヨハネ2:18

 

    時代をどのように見るかによって、考え方や価値観が違ってくる。ときには人生観までも根本から揺るがされることになるであろう。

 ヨハネが「今は終わりのとき」というのは、ヨハネが生きている時代に限ったことではない。ましてや、今日とか現代に飛躍して考えることとは違う。

 ここでは、主イエスによって新しく神の恵みに生かされる時代を指し示している。ここでは「キリストの現れ」(28)が、「反キリスト」が来ることと対をなして語られている。それが「今」という言葉によって、切迫感をもって語られている。

 「反キリスト」は、ヨハネの手紙における独自の表現である。主イエスは、終末のときに「偽キリストたち、偽予言者たちが起こる」と言われた。(マタイ24:24) 実際に反キリストが来ているので、今が「終わりのとき」であることが明らかにされている。

 反キリストは、もともとが神からのものではない。そのことで動揺するのでなく、神からのものにとどまる必要がある。

 19世紀末、ドイツの哲学者ニーチェは、「反キリスト」という本を書いて、西洋キリスト教文明を批判した。「反キリスト」は「神は死んだ」という。それが神なき時代の虚無を克服する超人として描かれている。

 しかしそこには、信仰者としての神からの恵みの視点が欠落している。今日の社会における反キリストも、同じような性質を帯びているところがある。

 そうした流れに巻き込まれないために、日々の信仰生活の中に、神からのものが何であるかを見出す者でありたい。

2026年05月10日

    世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。

                                                               Ⅰヨハネ2:17

 

   「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」(本居宣長 方丈記)

       川の流れのように、すべてのものが過ぎ去っていく。日本人は昔から、こうした無常という考え

    方に慣れ親しんできた。

  それに対し御言葉は「世と、世の欲は過ぎ去ります」と警告している。そこには、すべての物事

    の第一原因である創造者の視点がある。ヨハネが、世が過ぎ去るというのは、何かに生まれ変わ

    ると言った輪廻転生の考えではなく、世が一時的な仮のもので、本体が別のものであることを示

    している。

  過ぎ去っていくものと永遠に生きるもの、このどちらに価値をおいて歩んでいるかが、人生最

   大の問題になる。ただし、世のものは目で見えるけれども、永遠のものは信仰によらなければ知る

   ことができない。この場合の世には、「世の欲」も絡んでいる。具体的には「肉の欲、目の欲、暮

   らし向きの自慢」(2:16)である。

  もし世だけに関心を置くのであれば、信仰に生きる人は愚かに映るであろう。しかし、最終的に

 その真偽が明らかにされたとき、永遠と滅びに分けられる。永遠は神のいのちに生きることで、そ

 こでは神からの平安と喜びと感謝がある。反対に、神を知らない者には、地上のいのちが断たれた

 後、魂の行き場がない。

  日本的には、過ぎ去ることの中に美意識を持つという考えもある。けれども、その存在を支える

    根拠が欠けているのでなかろうか。

   神への信仰を持つとき、世が過ぎ去ることは解放でもある。人としての様々な縛りや苦しみ

  から解き放されるからである。そこに新たな希望が備えられるのである。

 2026年05月03日

  もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。 ヨハネ2:1

 

   キリスト者の生き方として、罪を犯さないようになるということがある。それは信仰を持つ前に、罪に対して無感覚であったり、無責任であったものとは大きく異なる。

 それでは、キリスト者は罪を全く犯すことはないかというと、そう言い切れない部分がある。「もしだれかが罪を犯したなら」と言われる部分である。サタンは、その罪を糾弾して神への信仰を崩そうとする。

 それに対して働くのが主イエスにある神の恵みである。「私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます」 (1)

 とりなしてくださる方は、「パラクレートス」という言葉が使われていて、弁護者と訳すことができる。法廷で罪を犯した者を弁護する人は、罪を割り引くことによって罰が軽減されることに努める。

 けれども、主イエス・キリストによるとりなしは、御父に対して罰の軽減を願うものではない。罪は罪とされるのであるが、その罪に対する罰が、既に主イエスの十字架によって裁かれていることによる。

 「義なるイエス・キリストがおられます」というのは、罪が正当に裁かれて、神の前に罪赦された者としてあるキリスト者の立場をいっている。

 このことは罪を犯しても平気だという、安易な考えを呼び起こすものではない。罪を犯したなら、直ぐに罪を告白して、主イエス・キリストによるとりなしの恵みに与るのである。とりなしてくださる方の存在は、私たちをいよいよ神の愛に近づける。

2026年04月26日

   私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。 Ⅰヨハネ1:3

 

  人との交わりが、孤独を癒すことがある。たった一言の助言であっても、タイムリーなときの適切な言葉であれば、それが次に進むための備えになるであろう。

 けれども、朱に交われば赤くなるの譬えのように、交わりが間違った方向に歩む起因になることもあるから注意が必要だ。

 キリスト教信仰にとって交わりは極めて本質的なことであるが、それは御父と御子を中心にするもので、世の交わりとは異なっている。信仰は自分の世界に閉じこもるものではなく、御父と御子を中心とした。、交わりの中に築かれるものだからである。

 信仰に入るときには、神の御前での自分が意識させられる。そこで問われる自己は、極めて個人的なことであり、神以外に誰の目にも触れられないことであろう。その中でキリストの十字架に対峙する。そして罪の赦しを信じ、キリストを主と告白する。

 その信仰によって新しくさせた人は、神のいのちの交わりに与る。「御父また御子イエス・キとの交わり」と言われるものである。ここで言われる交わりとは、ギリシャ語でコイノニアという言葉が用いられている。その意味するところは、「交わり」「共有」「分かかち合い」「共同体」などの意味を持つ。

 教会において交わりを持つことは、一人一人が御父と御子の交わりを持つ者とされていることによる。互いが兄弟姉妹であるという関係性の上に成り立つ。それはキリストのからだにおける各器官の働きと合致する。それぞれが賜物を与えられていて、それは他の器官のために働くのである。

 それ故、教会の交わりは社交などのような世の交わりとは異なる。信仰によって互いが結びつき、仕え合い、愛の内に建て上げられるものでなければならない。

2026年04月19日

   彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上にわたしを愛していますか」  ヨハネ21:15

 

   人との対面で、心の傷は最も触れられたくないものである。できれば何もなかったかのように通り過ぎてしまいたいかもしれない。

 ペテロにとって、復活の主イエスに出会ったことは、裏切りという罪を犯した自分に向き合うことであった。主イエスが「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」(13:38)と警告されたことはそのまま実現し、自己嫌悪に留まるだけではなく、罪人としての蔑みから逃れられないものになっていた。

 主イエスの復活は、ペテロにとって他の弟子たちと同じように大変な驚きであったが、そうであればこそ、自分のような罪人が親しく主イエスに近づくことはできないという気持ちになっていたのではあるまいか。

  けれども主イエスは、そうしたペテロを他の弟子たちと共に朝の食卓に招かれた。夜通し働いて何も捕れなかったのに、もう一度、網を入れて引き上げているので、空腹感も通常の倍であったろう。

 主イエスが備えられた食事を終えて、皆が落ち着きをとり戻した頃、主イエスはペテロに語りかけた。

 「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上にわたしを愛していますか」

 他の弟子たちと比較して「この人たち以上に」と言われるのは、ペテロの弟子としての優位性のことではなく、ペテロ自身が抱える罪の重さから来るものである。それが復活の主イエスによって赦されている。その主イエスが注がれる愛の応答としての愛である。

 どんなに医療が発達しても、心の傷は人の手によって癒すことはできない。その原因である罪をご自身で負われ、復活されたキリストが触れることで新しく作り変えられる。

2026年04月12日

  イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」

                                                   ヨハネ21:6  

 

   復活の主イエスは、日常の中でどのように見出され、意味付けられていくのか。クリスチャンであれば、誰でも直面する問題ではなかろうか。復活を教理的に受け止めても、それだけでは内的な変化をもたらさないからである。

   ヨハネは、死から復活された主イエスが、ガリラヤで弟子たちに会われた次第を記している。

このときの弟子たちには、「私は漁に行く」 (3)というペテロの言葉に追随して「私たちも一緒に行く」と応じている。そこには、主イエスの復活を積極的に証しして行こうとする姿勢がみられない。「漁に行く」というペテロの言葉の裏には、主の復活を知りながら十字架を前に裏切ってしまった心のわだかまりが潜んでいたのかもしれない。そうだとすれば、自らの罪悪感に打ちひしがれ、惰性で生きようとする姿であったろう。その弟子たちが、一晩中、湖で漁そして何も捕れなかったのは、主から離れた働きの虚しさを体現していると言える。

 けれども、復活の主イエスは、そのような弟子たちの只中に立ってくださった。「舟の右側に網を打ちなさい」という言葉は、かつてペテロが弟子に召されるときに、主イエスにかけられた言葉を思い出させる。「深みに漕ぎだして、網を下ろして魚をとりなさい。」(ルカ5:4)

  このとき、弟子たちの様子は主イエスの御手の中に掌握されていた。それに対し弟子たちの応答は復活の主イエスを認識したものではなく、明け切らない空の下でぼんやりしたものであった。その状態で主イエスの言葉に従った。弟子たちが、個人的に復活の主イエスとお会いしたのはこのときであった。わたしたちは、自分の罪の弱さを見つめながら主の御言葉に導かれる。復活の主はそこにご自身を現してくださる。 

2026年04月05日

「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私には分かりません。」

                                     ヨハネ20:13  

 

  今日、復活という言葉は、本来の意味を離れて多様に使われている。「敗者復活戦」など、一度失われたものが、再びとり戻したときなど、「復活した」という表現が用いられたりする。復活(よみがえり)にそうした意味がないわけではないが、復活は現実にはあり得ないことを前提にしていないだろうか。常識的に言えば、死は不可逆なものであり、一度死と判定された人が生き返ることはない。それゆえ、多くの人は、主イエスの復活をまともに信じることはできないと考えている。

 けれども、福音書は、主イエスの復活を史実として証ししている。死からよみがえられたことが歴史的な事実であって、主イエスが神の子であったことが公にされたことだからである。

 このために第一の証言者として立てられたのは、12弟子ではなく、マグダラのマリアであった。

 マリヤは、十字架で死なれた主イエスのことを悲しむため、他の女たちを誘って墓に来ていた。主イエスは、十字架に付けられる前に、自分はよみがえりであると言われていたが、誰しもそのことが死から復活することであるとは考えないでいた。このマリアにしてもそうである。

 だから墓が空になってるのを見たマリヤの驚きは尋常なものではなかった。それでもよく観察すると、墓の状況は主イエスが復活されたことを証言していた。入口を塞いでいた大きな石は転がされ、封印は解かれていた。墓の中に主の体はなく、衣は体を包んだ状態のままに置かれていたからである。マリアは、そうした光景に驚きながらも、そこに立っていた二人の御使いに尋ねている。

「だれかが私の主を取っていきました。どこに置いたのかわかりません」 

 福音書は、主イエスの復活について数多くの状況証拠を記している。けれども、それをもって復活を証明しているのではない。だからこれを基に論理的に復活を証明しようとしても、おのずと限界がある。墓の前でマグダラのマリアが経験した混乱を、解決することはできないであろう。

 神は全能の力をもって主イエスを死者からよみがえらせたが、それは信仰を通して各人に受け止められるのである。既に復活された主イエスは、「マリア」と呼ばれた。マグダラのマリアが、それに応答したとき、復活の主との新しい出会いが始まった。

 

2026年03月29日

 彼らはその場所でイエスを十字架につけた。また、イエスを真ん中にして、こちら側とあちら側に、ほかの二人の者を一緒に十字架につけた。    ヨハネ19:18

 

    人は自分の本当の姿を見ることに耐えることができるだろうか。褒められることとか、評判になっていることなら真っ先にみたいだろうが、そうではなく心の奥底に隠れていた罪が顔の前に出たたとき、正視できないまま絶望に陥ってしまうであろう。

 神の御子イエスを十字架につけるということは、全くにして異常な出来事であった。それも偶発的なことによったのではなく、誤解とか無知によったのでもない。そこには、ユダヤ人たちの心の奥に隠された、はっきりとした意思が働いていた。

 ピラトは主イエスに罪が認められないので、釈放しようと努力した。それにも関らず、主イエスは十字架につけられた。それも、このとき十字架につけられた罪人たちの真ん中にしてである。それは、他の二人の死刑囚よりも、主イエスの罪が重いとしたからであった。

 実際に主イエスを十字架につけたのはローマ兵たちである。ユダヤ人たちは、それを取り巻くようにしてみている。そこに何かの抗議があった抵抗がされたのではなかった。

 最初からそのことが決まっていたかのように、淡々と事が行われていった。ある人たちからすれば、奇妙かも知れない。主イエスが神であるなら、悪に対して強力な力をもって制圧すべきでないかと。けれども、主イエスは十字架の上では全くの無力である。

 大事なことは、そこに父なる神の御心があったことである。その御心故に主イエスは、罪の贖いを成し遂げられたのである。わたしたちは、信仰をもってそれを受け止める。そこにひとりひとりの救いがある。

2026年3月22日

   イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。

    「見よ、この人だ。」  ヨハネ19:5

 

   主イエスは、普段どのような服装をしていたのか。福音書にそのようなことが全く記されてはいない。ある人たちにとって興味が沸くことであったとしても、そうしたことを書く意味がなかったのである。当時の身なりなど誰しも察しがつき、関心がなかったからである。

 けれども、主イエスがピラトの官邸で鞭打たれ、そこから出て来られたときの姿を、ヨハネはしっかりと書き留めた。

 茨の冠は、王と公言していた主イエスを揶揄し、あざけるためにローマ兵がこしらえたものだった。その茨が持つ棘の長さは10センチにも達し、兵士たちは意図的に主イエスの頭に食い込ませたので、顔中に血が吹き出ていたに違いない。

 紫の衣は、もともと主イエスが着ていたものではない。これも主イエスが王であると言ったことへのからかいとして、そのときのローマ兵が用意したものである。王ならば、赤いのマントを身に着けたら良かろうと、演出を試みたのである。

 「彼らはイエスに近寄り、『ユダヤ人の王様、万歳』と言って、顔を平手でたたいた。」(3)

 官邸から引き出された主イエスは、敵意を持って集まった民衆の蔑みに晒されている。

 「ピラトは彼らに言った。『見よ、この人だ。』」(5)

 そこには、この男はローマに逆らうような者ではないし、そんな力もないというピラトの感想が込められている。このとき、ピラトは主イエスについての判断を、民衆に投げかけている。それは民衆の支持を得て、自らの地位を保とうとする野心から出たものである。

 けれども、民衆の求めは、そんなことで鎮まりはしなかった。そしてピラトの考えとは反対に作用した。

 「彼らは叫んだ。『除け、除け、十字架につけろ』」(15)

 エルサレム入場では、歓呼して迎えた民衆が、悪魔の手先のように心変りしている。そこに罪に支配された人の姿がある。

2026年3月15日

   すると、彼らは再び大声をあげて、「その人ではなく、バラバを」と言った。バラバは強盗であった。  ヨハネ18:40

 

   何が善で何が悪であるか。そうした境界が見え難くなってきたような気がする。善悪を測る尺度が、社会の変化と共に違ってきたからだろうか。

 けれども人の心の奥底には、もともと悪に傾く性質がある。善を一心に求める者の中に、巨大な悪が潜んでいたりする。

 主イエスがローマ総督ピラトの前で受けた裁判では、人の罪が持つ忌わしさが赤裸々に描き出されている。ピラトは、主イエスを尋問したときに、「私はあの人に何の罪も認めない」と言っている。(38)それにも関らず、主イエスは釈放されることもなく、重罪人として十字架刑が処せられることになる。これが何かの間違いなら冤罪だが、意図的な行為が強く絡んでいるので、不当な決定について決して申し開きができることではない。更に、悪いものにしているのは、過ぎ越しの祭りに釈放される囚人の選定についてである。

   ピラトは、「おまえたちはユダヤ人の王を釈放するか」と民衆に問いかけた。ピラトの思いでは、こうして無罪である主イエスを釈放しようとしたようである。ところが、民衆は「その人ではない。バラバを」と言った。

   このバラバは強盗であったので、主イエスは民衆により、強盗よりも悪い者とされたことになる。これがピラトの裁判による最終判断とされた。公正さが求められる権威ある機関により、最悪のことが決められてしまう出来事。そこに人の罪の現実があることを痛感させられる。そのことは、私と無関係なことではない。私こそがその罪の構成員であると自覚させられる。

2026年3月8日

    シモン・ペテロは立ったまま暖まっていた。すると、人々は彼に「あなたもあの人の弟子ではないだろうね」と言った。ペテロは否定して、「弟子ではない」と言った。   ヨハネ18:25

 

    誰であれ、自分の弱みとか失敗を公にされることは好まないであろう。その点からすると、シモン・ペテロの失敗が、歴史を越えて全世界に伝えられているのは、特異なことだと言えるのではないだろうか。何故なら、ペテロは後に、主イエスの福音を伝える働きをした中心人物であったからである。

 主イエスが人々に捕らえられ、祭司長の裁判を受けようとするとき、ペテロはその庭にもぐり込むことができた。しかし、人々に「あなたもあの人の弟子ではないだろうね」と問われると、自分がそうであると認めることができなくなって、「弟子ではない」と言ってしまった。

 ペテロ自身が、そんなことを言うとは考えもしないことであった。なぜなら、数時間前に、ペテロは主イエスに向かって「あなたのためなら、いのちも捨てます」と言っていたのであるからである。(13:37)

 このときのペテロの告白は嘘であったとか、軽薄なものであったということではない。実際、ペテロは剣を抜いて、主イエスを捕らえようとした人々と戦っている。けれども、主イエスが無抵抗のまま人々に捕らえられるとは、考えもしないことだった。その混乱の中に、ペテロの主イエスに対する信頼が揺らいでしまう。

   庭で暖をとっているペテロの姿は、主イエスの弟子としての体を成していない。心理的には主イエスから離れ、敵の側に身を寄せていた。そのとき、鳴いた鶏の声は、ペテロの眠っていた良心呼び覚ます。そしてペテロは、この惨めな敗北の中から新しく造り変えられる。その恵みの絶大さ故に、かつて罪の中にあった自分の姿を晒け出し、自分の失敗を公にしている。私たちが同じ恵みに与るためである。

2026年2月29日

 剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。 ヨハネ18:11  

 

   剣は武力の象徴である。抜き差しのならない対立が起こったとき、相手を屈服させる手段として

剣を用いることが、歴史の中で繰り返されてきた。

 ユダの裏切りによって、主イエスと弟子たちは、ローマ兵たちと祭司長やパリサイ人たちが遣わし

た下役たちにとり囲まれた。(3)過ぎ越しの祭りは、祭司長たちからすれば、主イエスを捕らえる

絶好のチャンスであり、これを逃したなら、主イエスに傾く民衆をコントロールできないとの危機

意識がある。

 それ故、捕縛のための隠密作戦は、決して失敗してはならない。ローマの兵士たちの手には、武

器とたいまつが握られていた。

 弟子たちは、それまで主と祈りを共にしていたので、兵士たちの乱入は不意を突かれたかたちに

なる。戦うための準備もなく、武器となる剣の数も全く足りていない。それでも、この時点におい

て弟子たちは、いのちがけで戦おうとした。

 「シモン・ペテロは剣を持っていたので、それを抜いて、大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を

切り落とした。」(10)

 弟子たちが武器で対抗しようとしたことは、自己防衛としての判断であった。それに捨て身の正

義感が加味していたであろう。

 けれども主イエスは、「剣をさやに収めなさい」と弟子たちを諫められた。そこで指摘されたのは、弟子たちの軽率さではなく、父なる神の御心としての杯を飲むことであった。この杯には、

罪の贖いのための神の呪いが含まれている。十字架刑がどんなに恐ろしいものであるか、否定する

ものは何もない。それでも、主イエスはこの杯を「父がわたしに下さった杯」と言われた。そのこ

との背後にある、父の愛への全き信頼である。

 今日、私たちは、闇が支配する力の対決に巻き込まれようとしている。剣を収め、主の愛に生きることが試されている。

2026年2月22日

 詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。

                               エペソ人への手紙5:19

    

    音楽は人の歴史と共にあった。聖書には、最初に竪琴と笛を奏でたユバルという人の名が記されている。(創世記4:21)ユバルは、家畜を飼う者の祖先ヤバルの弟であった。農耕がされる前、牧畜が生活のなりわいであったときから、音楽があったということになる。鳥のさえずりや、吹き抜ける風の音、あるいは季節ごとに移り鳴く虫の声にさえ、人は音楽を感じてきたのであろう。

 音による表現をするとき、対象を誰にするかで内容が大きく違ってくる。歌うとか演奏をするとき、共感してくれる人がいる。自分に向かってということがあるとしても、そのときの対象は自分ということになる。

 これらに対し、神に向かって歌い演奏するというのが賛美である。賛美では、それが神へのささげものになる。それは神の恵みに対する応答であり、その行為は聖なるものとされる。

 新約聖書の著者である使徒パウロは、エペソ教会の信徒たちに「主に向かって心から賛美し、歌いなさい」と手紙を書き送った。

「心から」というのは全身全霊でということで、単なる形式によるものとか、義務的な態度によるものではないことが呼びかけられている。なぜなら、神への賛美は、神の愛に生かされた者たちに与えられた特権で、そのこと事態が最高の栄誉であるからである。

 賛美にどれ程の意味があるのかと疑いを持つこともあるだろう。音楽は楽しければいいという考えもある。けれども、ひとつひとつの音に意味を見出し、響きを求めていくとき、より大きな力に生かされている自分自身を見出すのではなかろうか。神の愛に対する心からの応答に勝るものはない。

2016年2月15日

   父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにおられるように、すべての人を一つにしてください。 ヨハネ17:21

 

   アメリカの公民権運動の指導者であったキング牧師は、1963年8月、「I Have a Dream 私には夢がある」という説教において、「偉大な国」アメリカのことについて語っている。それは人種差別を越え、すべての人が一つとなって、聖書が示す約束の地を待ち望むものであった。

 主イエスは、神の国のあり方として、「すべての人を一つにしてください」と祈られた。これは、ひとりひとりが同質にされることではない。また個性が失われることでもない。ましてや、何らかの圧力によって個々人が強制的に服従させられるということではない。

 ここで一つにされられるのは、愛によって赦しと和解が得られることによる。赦しがなければ、敵意と争いはそのまま残る。和解のないところに、信頼が醸し出されることはない。

 生まれながらの人は、このような愛を自分の中に見出すことはできない。は愛という理想を掲げることはできたとしても、それを実践することにおいては絶望の壁を前に立ち尽くしてしまうのではなかろうか。

 しかし主イエスは、そのような私たちに向かって父なる神と子なる神の間にある愛を示してくださった。その愛は、御父と御子の関係が、愛と信頼で結ばれていたように、私たちの現実においても体験させられるものである。

 御父は霊であるから、私たちは御父を見ることができない。それでも私たちは、御父の愛を確かに知ることができる。それは主イエス・キリストと御霊によってである。その愛によって、御父と一つであるとの自覚が与えられる。困難や危機は、身の回りの関係性を破壊していく。そのようなとき、神の側にいることを知ることができる。その恵みは何と大きな幸いであることか。

2026年2月8日

 今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ち溢れるようになるためです。    ヨハネ16:24

 

     視点がずれてしまうと、相手とのコミュ二ケーションがなり立たない。意思の疎通があると思っていたことでも、誤解や間違いが生じてしまったりする。

  主イエスは、「今まで、あなたがたは、わたしの名によって求めたことがありません」と言われたという。弟子たちにしてみれば、そのまま受け入れるには難しかったのではなかろうか。

    弟子として主に召されて三年余りの日を過ごしている。その間、何度となく主に求めているからである。祈りを教えてもらったり、病人を癒してもらっらり、助けを叫んだり、真理を求めたりしてきた。

  それなのに、求めたことがないと言われるのは、「わたしの名によって求め」るということである。主イエスが言われる「わたしの名」とは、主イエスが今為そうとしていることを理解し、受け止めたことでのことである。

 弟子たちが、そうした主イエスの名を知らないのは、彼らの考えるメシア像が十字架に向かう主イエスと真逆であったことによる。

 それでも主イエスは、その弟子たちに「求めなさい。そうすればうけます」と約束された。弟子たちは、この後、主イエスから離れ、混乱し、弟子集団としての機能は崩壊していく。

 主イエスとの関係性は、距離が離れていくばかりであった。しかし、この状況における祈りこそが「求めなさい」ということである。そこに見るのは、信仰によって知る新しい主イエスの姿である。そのとき主は、信仰者を「喜びが満ち溢れるように」してくださる。

2026年2月1日

  わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。                                                                                                                            ヨハネ15:12

 

   赤ちゃんを抱く母親の姿に、純粋な愛を感じじて暖かい気持ちになることがある。小さな頭を撫でたり、柔らかな手に触れる仕草だけで、そこに親の愛が伝わっているようにみえる。

けれども、人は成長するにつれて、愛に渇いたり、傷ついてしまうのはなぜだろうか。

 現実には愛を求めながら、それを得られなかったり、傷ついたり、誤解されたりしている。それは生まれながらの愛がもつ限界とも言えよう。

 それに対し、主イエスが弟子たちに示された愛があった。「わたしがあなたがたを愛したように」は完了型で書かれている。すなわち、弟子たちに現された主イエスの愛は、そこで留まって終わるものではなく、弟子たちに関係性を作っていくものである。

 それは弟子たちが、主イエスの愛に習って互いに愛し合うことによって実践される。もし、自分自身を拠り所としたら、途中で挫折してしまうに違いない。自分の中にある愛は底が浅いので、外に注ぎ出したらすぐに尽きてしまうからである。

 しかし主イエスからの愛は、どんな状況の中でも尽きることがない。十字架において示される主イエスの愛は、人の持つ絶望の中にも、神の愛が注がれていることを示している。

 キリスト者は、信仰によってこの愛を見出した。それ故に「互いに愛し合うこと」に従順であることができる。それが戒めとして語られても、重荷になって苦しんだり、自分にはできないと諦めたりするのではない。かえって、神の愛が自分を捉えていることを確信し、その愛に応答しようと励むのである。

 神の愛は、互いに愛することによって見出される。教会はその愛を証ししたい。

2026年1月25日

   わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。 ヨハネ14:16

 

  互いに愛するということは、口で言うほど簡単なことではない。現実には、ユダが主を裏切ったように、愛が大事だと思う人であっても、裏では相手を傷つけるようなことをしている。

 それでも主イエスは、互いに愛することを「新しい戒め」とされた。それは「わたしがあなたがたを愛したように」(13:34)である。

   このことは、この愛が人の感情によって左右されるものではなく、神から出たものであることを証ししている。主イエスは、弟子たちの足を洗うことによって、その模範を示されたのであった。

 そして、その愛に加えて、「もう一人の助け主」が語られている。その方は御父から送られて来られる方であって、主イエスと同じく人格を持った方である。この方を知ることでは、「もしわたし愛しているなら」(15)という条件が設定されている。その上で、「わたしが父にお願いすると」とあるように、互いの愛という信頼関係の中でわたしたちを助けるために備えられる。

 とかくすると、人は愛を自分の思いの中に閉じ込めてしまう。そこでは古い自分が主人であり、新しい戒めも従属的なものとしてしまう。そのままであるなら、互いの愛は、絵に書いた餅のままになってしまうのではあるまいか。

 現実の信仰生活では、直面する課題のために心が揺れ動いている。そのような中で、「もうひとりの助け主」が与えられていることは、何と幸いで心強いことか。主はここに、「いつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます」と約束されている。

2026年1月18日

   わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。   ヨハネ13:34

 

  一般的に、見えないものの価値ということでは、愛は最も上位に置かれるのではなかろうか。年老いたヨハネが、エペソの教会で繰り返して言い続けたのは、互いに愛し合いなさいであったという伝説がある。

 福音は神の愛を明らかにしている。その愛を知り、生かされるのがクリスチャン生活といことができる。神が人を愛しておられることは、神のひとり子イエス・キリストが十字架で死なれたことによって、はっきりと示された。

 キリスト者は、キリストの十字架の中に、自分の罪が裁かれたことを信じている。その告白が為されたとき、罪はキリストの血によってきよめられ、神の平和が与えられたのであった。その恵みに対する応答が「互いに愛する」という応答である。

 主イエスは、これを新しい戒めと言われた。この新しさは、律法による戒めに縛られた生き方と決別して、内側から主の愛に生きるものである。

 こうしたことは自動的に起きることではなく、一瞬一瞬を信仰によって主に結びつくことによってのみ可能となる。もしそこに不信仰が忍び込んでしまったら、互いの愛は抜け殻に変質してしまう。

 互いの愛は、内にあるキリストの愛が、真実なものとして生かされる場である。これは主との生きた関係であるので、常に新しいものとされていく。ひとりひとりの自覚が問い直されている。

2026年1月11日

   まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしが遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。 ヨハネ13:20

 

  知り合いの魚屋の娘さんは、カレイだけは苦手で食べれないそうだ。どうやら、子どもの頃に、店先に並べられたカレイに目が合ってしまったらしい。悲しそうに見上げる目。「それを思い出すだけで、体中がぞくぞくする」のだそうである。

 人間関係においても、直ぐに友達になれる人もいれば、何年経っても口が効けないことだってある。そこで関係を阻むのは、身体的なことではなく、心がどのように作用しているかによる。

 主イエスは、人が神を受け入れる者となるために、神から遣わされた方である。人となられたのは、人の心の中に生まれながらにして、神への敵意が住みついているからである。その頑なさはどこまでも強固である。だけれど、ただひとつ心が開かれる可能性があった。それは、神の御子のへりくだりによるものである。

 「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従がわれました」(ピリピ2:8)

 ここに動かしようのない神の愛が証しされた。それは何かを試して結論を得ようとする実証的なものではない。神からの啓示そのものが真実性を明らかにしていた。それに応答することが信仰であり、「わたしが遣わす者を受け入れる者」である。

 もし主イエスの人間的な側面だけを受け入れるのであれば、それは「わたしを受け入れる」ことにならない。それは父なる神との関係性を否定しているからである。

 神のへりくだりの中で見る私という存在はあまりに罪に満ちている。そこに働かれる神の業を受け止めることができるかどうか。それが私と神との関係を作っていく。

2026年1月04日

   世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。ヨハネ13:1

 

 主イエスの生涯は、神の愛で貫かれている。生活の中で証しされた神の愛が、如何に真実であるかを明らかにしている。

 常識的にみるなら、師である主イエスが弟子たちの足を洗うということはあり得ないことであった。それは、師と弟子の関係という立場を逆転することであった。したがって弟子たちの内面では強い抵抗感があったに違いない。それでも、弟子たちが主イエスの為されるままであったのは、その場の張り詰めた雰囲気であったのではあるまいか。けれども、順番がペテロに回ってきたとき、それまで耐えてきた心の叫びが、はち切れて外に出た。

 「決して私の足を洗わないでください。」

 ペテロは、主イエスにこんなことまでさせられないと決意したのだろう。彼の自尊心が、そうさせたのかもしれない。あるいは他の弟子たちが何も言わないことに、強い非難が含まれていた。ペテロとしては、主イエスがその申し出を喜んでくれるものと予想していた。

 ところが、主イエスの応答は、賞賛の言葉ではなく、関係性の断絶という予想外のものであった。

 「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります」(8)

 ここでは「あなたを洗う」ということが、中心に置かれている。それが主イエスの愛の究極の姿であった。ペテロは、それを師と弟子の関係という、単なる人間性による縦の関係でしかみていなかった。ここから弟子の足を洗うということが、主イエスの十字架による罪の赦しであったことが見えてくる。

 わたしたちは誰もが罪による汚れを内在している。これがきよめられなければ、神との関係を築くことはできない。主イエスの愛はこの一点に集中して注がれていた。

2025年12月28日

   イエスは大きな声でこう言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。」    ヨハネ12:44

 

   今日、人を信じることが揺らいでいる。約束していたことが平気で破られたり、偽情報に騙されたり、人間関係に疑いが先行し、亀裂が生じたりしているからである。

 かつて人間不信といえば、偏屈で捻じれた性格のようにいわれたものである。それが今では、自己防衛のための当たり前な生き方になってしまっている。信頼という糸が、細く見えにくいものになっているのであるまいか。

 人が神を知るのは信仰による。信仰がなければ、神を知ることも近付くこともできない。一片の雲が太陽の輝きを隠すように、小さな疑いが神を見えなくすることがある。

 主イエスを信じた議員たちが、パリサイ人に追放されることを恐れて距離を置こうとしたのも、主への信仰に疑いを感じていたからであった。(12:42)そこで信仰の告白をしなかったことが、「神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛した」(43)と言われている。主イエスを信じることが、現実的な価値観により断ち切られてしまったのである。

 このような状況の中で、主イエスは、祭りに集まった群衆に向かい、大声で言われた。

「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです」(44)

 主イエスへの信仰が、父なる神を信じることと同質であることを宣言された。受肉された神の御子は、人々の敵意と蔑みに囲まれている。しかし、そこに力強く神が証しされている。信仰により、主イエスが持つ人間性という壁は打ち破られ、「わたしを遣わされた方」という無限の存在に置き換えられる。大声で叫ばれた主の声は、わたしたちが御父に結ばれるため、広げられた招きである。

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