top of page

 2026年2月22日

 詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。

                               エペソ人への手紙5:19

    

    音楽は人の歴史と共にあった。聖書には、最初に竪琴と笛を奏でたユバルという人の名が記されている。(創世記4:21)ユバルは、家畜を飼う者の祖先ヤバルの弟であった。農耕がされる前、牧畜が生活のなりわいであったときから、音楽があったということになる。鳥のさえずりや、吹き抜ける風の音、あるいは季節ごとに移り鳴く虫の声にさえ、人は音楽を感じてきたのであろう。

 音による表現をするとき、対象を誰にするかで内容が大きく違ってくる。歌うとか演奏をするとき、共感してくれる人がいる。自分に向かってということがあるとしても、そのときの対象は自分ということになる。

 これらに対し、神に向かって歌い演奏するというのが賛美である。賛美では、それが神へのささげものになる。それは神の恵みに対する応答であり、その行為は聖なるものとされる。

 新約聖書の著者である使徒パウロは、エペソ教会の信徒たちに「主に向かって心から賛美し、歌いなさい」と手紙を書き送った。

「心から」というのは全身全霊でということで、単なる形式によるものとか、義務的な態度によるものではないことが呼びかけられている。なぜなら、神への賛美は、神の愛に生かされた者たちに与えられた特権で、そのこと事態が最高の栄誉であるからである。

 賛美にどれ程の意味があるのかと疑いを持つこともあるだろう。音楽は楽しければいいという考えもある。けれども、ひとつひとつの音に意味を見出し、響きを求めていくとき、より大きな力に生かされている自分自身を見出すのではなかろうか。神の愛に対する心からの応答に勝るものはない。

2016年2月15日

   父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにおられるように、すべての人を一つにしてください。 ヨハネ17:21

 

   アメリカの公民権運動の指導者であったキング牧師は、1963年8月、「I Have a Dream 私には夢がある」という説教において、「偉大な国」アメリカのことについて語っている。それは人種差別を越え、すべての人が一つとなって、聖書が示す約束の地を待ち望むものであった。

 主イエスは、神の国のあり方として、「すべての人を一つにしてください」と祈られた。これは、ひとりひとりが同質にされることではない。また個性が失われることでもない。ましてや、何らかの圧力によって個々人が強制的に服従させられるということではない。

 ここで一つにされられるのは、愛によって赦しと和解が得られることによる。赦しがなければ、敵意と争いはそのまま残る。和解のないところに、信頼が醸し出されることはない。

 生まれながらの人は、このような愛を自分の中に見出すことはできない。は愛という理想を掲げることはできたとしても、それを実践することにおいては絶望の壁を前に立ち尽くしてしまうのではなかろうか。

 しかし主イエスは、そのような私たちに向かって父なる神と子なる神の間にある愛を示してくださった。その愛は、御父と御子の関係が、愛と信頼で結ばれていたように、私たちの現実においても体験させられるものである。

 御父は霊であるから、私たちは御父を見ることができない。それでも私たちは、御父の愛を確かに知ることができる。それは主イエス・キリストと御霊によってである。その愛によって、御父と一つであるとの自覚が与えられる。困難や危機は、身の回りの関係性を破壊していく。そのようなとき、神の側にいることを知ることができる。その恵みは何と大きな幸いであることか。

2026年2月8日

 今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ち溢れるようになるためです。    ヨハネ16:24

 

     視点がずれてしまうと、相手とのコミュ二ケーションがなり立たない。意思の疎通があると思っていたことでも、誤解や間違いが生じてしまったりする。

  主イエスは、「今まで、あなたがたは、わたしの名によって求めたことがありません」と言われたという。弟子たちにしてみれば、そのまま受け入れるには難しかったのではなかろうか。

    弟子として主に召されて三年余りの日を過ごしている。その間、何度となく主に求めているからである。祈りを教えてもらったり、病人を癒してもらっらり、助けを叫んだり、真理を求めたりしてきた。

  それなのに、求めたことがないと言われるのは、「わたしの名によって求め」るということである。主イエスが言われる「わたしの名」とは、主イエスが今為そうとしていることを理解し、受け止めたことでのことである。

 弟子たちが、そうした主イエスの名を知らないのは、彼らの考えるメシア像が十字架に向かう主イエスと真逆であったことによる。

 それでも主イエスは、その弟子たちに「求めなさい。そうすればうけます」と約束された。弟子たちは、この後、主イエスから離れ、混乱し、弟子集団としての機能は崩壊していく。

 主イエスとの関係性は、距離が離れていくばかりであった。しかし、この状況における祈りこそが「求めなさい」ということである。そこに見るのは、信仰によって知る新しい主イエスの姿である。そのとき主は、信仰者を「喜びが満ち溢れるように」してくださる。

2026年2月1日

  わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。                                                                                                                            ヨハネ15:12

 

   赤ちゃんを抱く母親の姿に、純粋な愛を感じじて暖かい気持ちになることがある。小さな頭を撫でたり、柔らかな手に触れる仕草だけで、そこに親の愛が伝わっているようにみえる。

けれども、人は成長するにつれて、愛に渇いたり、傷ついてしまうのはなぜだろうか。

 現実には愛を求めながら、それを得られなかったり、傷ついたり、誤解されたりしている。それは生まれながらの愛がもつ限界とも言えよう。

 それに対し、主イエスが弟子たちに示された愛があった。「わたしがあなたがたを愛したように」は完了型で書かれている。すなわち、弟子たちに現された主イエスの愛は、そこで留まって終わるものではなく、弟子たちに関係性を作っていくものである。

 それは弟子たちが、主イエスの愛に習って互いに愛し合うことによって実践される。もし、自分自身を拠り所としたら、途中で挫折してしまうに違いない。自分の中にある愛は底が浅いので、外に注ぎ出したらすぐに尽きてしまうからである。

 しかし主イエスからの愛は、どんな状況の中でも尽きることがない。十字架において示される主イエスの愛は、人の持つ絶望の中にも、神の愛が注がれていることを示している。

 キリスト者は、信仰によってこの愛を見出した。それ故に「互いに愛し合うこと」に従順であることができる。それが戒めとして語られても、重荷になって苦しんだり、自分にはできないと諦めたりするのではない。かえって、神の愛が自分を捉えていることを確信し、その愛に応答しようと励むのである。

 神の愛は、互いに愛することによって見出される。教会はその愛を証ししたい。

2026年1月25日

   わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。 ヨハネ14:16

 

  互いに愛するということは、口で言うほど簡単なことではない。現実には、ユダが主を裏切ったように、愛が大事だと思う人であっても、裏では相手を傷つけるようなことをしている。

 それでも主イエスは、互いに愛することを「新しい戒め」とされた。それは「わたしがあなたがたを愛したように」(13:34)である。

   このことは、この愛が人の感情によって左右されるものではなく、神から出たものであることを証ししている。主イエスは、弟子たちの足を洗うことによって、その模範を示されたのであった。

 そして、その愛に加えて、「もう一人の助け主」が語られている。その方は御父から送られて来られる方であって、主イエスと同じく人格を持った方である。この方を知ることでは、「もしわたし愛しているなら」(15)という条件が設定されている。その上で、「わたしが父にお願いすると」とあるように、互いの愛という信頼関係の中でわたしたちを助けるために備えられる。

 とかくすると、人は愛を自分の思いの中に閉じ込めてしまう。そこでは古い自分が主人であり、新しい戒めも従属的なものとしてしまう。そのままであるなら、互いの愛は、絵に書いた餅のままになってしまうのではあるまいか。

 現実の信仰生活では、直面する課題のために心が揺れ動いている。そのような中で、「もうひとりの助け主」が与えられていることは、何と幸いで心強いことか。主はここに、「いつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます」と約束されている。

2026年1月18日

   わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。   ヨハネ13:34

 

  一般的に、見えないものの価値ということでは、愛は最も上位に置かれるのではなかろうか。年老いたヨハネが、エペソの教会で繰り返して言い続けたのは、互いに愛し合いなさいであったという伝説がある。

 福音は神の愛を明らかにしている。その愛を知り、生かされるのがクリスチャン生活といことができる。神が人を愛しておられることは、神のひとり子イエス・キリストが十字架で死なれたことによって、はっきりと示された。

 キリスト者は、キリストの十字架の中に、自分の罪が裁かれたことを信じている。その告白が為されたとき、罪はキリストの血によってきよめられ、神の平和が与えられたのであった。その恵みに対する応答が「互いに愛する」という応答である。

 主イエスは、これを新しい戒めと言われた。この新しさは、律法による戒めに縛られた生き方と決別して、内側から主の愛に生きるものである。

 こうしたことは自動的に起きることではなく、一瞬一瞬を信仰によって主に結びつくことによってのみ可能となる。もしそこに不信仰が忍び込んでしまったら、互いの愛は抜け殻に変質してしまう。

 互いの愛は、内にあるキリストの愛が、真実なものとして生かされる場である。これは主との生きた関係であるので、常に新しいものとされていく。ひとりひとりの自覚が問い直されている。

2026年1月11日

   まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしが遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。 ヨハネ13:20

 

  知り合いの魚屋の娘さんは、カレイだけは苦手で食べれないそうだ。どうやら、子どもの頃に、店先に並べられたカレイに目が合ってしまったらしい。悲しそうに見上げる目。「それを思い出すだけで、体中がぞくぞくする」のだそうである。

 人間関係においても、直ぐに友達になれる人もいれば、何年経っても口が効けないことだってある。そこで関係を阻むのは、身体的なことではなく、心がどのように作用しているかによる。

 主イエスは、人が神を受け入れる者となるために、神から遣わされた方である。人となられたのは、人の心の中に生まれながらにして、神への敵意が住みついているからである。その頑なさはどこまでも強固である。だけれど、ただひとつ心が開かれる可能性があった。それは、神の御子のへりくだりによるものである。

 「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従がわれました」(ピリピ2:8)

 ここに動かしようのない神の愛が証しされた。それは何かを試して結論を得ようとする実証的なものではない。神からの啓示そのものが真実性を明らかにしていた。それに応答することが信仰であり、「わたしが遣わす者を受け入れる者」である。

 もし主イエスの人間的な側面だけを受け入れるのであれば、それは「わたしを受け入れる」ことにならない。それは父なる神との関係性を否定しているからである。

 神のへりくだりの中で見る私という存在はあまりに罪に満ちている。そこに働かれる神の業を受け止めることができるかどうか。それが私と神との関係を作っていく。

2026年1月04日

   世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。ヨハネ13:1

 

 主イエスの生涯は、神の愛で貫かれている。生活の中で証しされた神の愛が、如何に真実であるかを明らかにしている。

 常識的にみるなら、師である主イエスが弟子たちの足を洗うということはあり得ないことであった。それは、師と弟子の関係という立場を逆転することであった。したがって弟子たちの内面では強い抵抗感があったに違いない。それでも、弟子たちが主イエスの為されるままであったのは、その場の張り詰めた雰囲気であったのではあるまいか。けれども、順番がペテロに回ってきたとき、それまで耐えてきた心の叫びが、はち切れて外に出た。

 「決して私の足を洗わないでください。」

 ペテロは、主イエスにこんなことまでさせられないと決意したのだろう。彼の自尊心が、そうさせたのかもしれない。あるいは他の弟子たちが何も言わないことに、強い非難が含まれていた。ペテロとしては、主イエスがその申し出を喜んでくれるものと予想していた。

 ところが、主イエスの応答は、賞賛の言葉ではなく、関係性の断絶という予想外のものであった。

 「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります」(8)

 ここでは「あなたを洗う」ということが、中心に置かれている。それが主イエスの愛の究極の姿であった。ペテロは、それを師と弟子の関係という、単なる人間性による縦の関係でしかみていなかった。ここから弟子の足を洗うということが、主イエスの十字架による罪の赦しであったことが見えてくる。

 わたしたちは誰もが罪による汚れを内在している。これがきよめられなければ、神との関係を築くことはできない。主イエスの愛はこの一点に集中して注がれていた。

2025年12月28日

   イエスは大きな声でこう言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。」    ヨハネ12:44

 

   今日、人を信じることが揺らいでいる。約束していたことが平気で破られたり、偽情報に騙されたり、人間関係に疑いが先行し、亀裂が生じたりしているからである。

 かつて人間不信といえば、偏屈で捻じれた性格のようにいわれたものである。それが今では、自己防衛のための当たり前な生き方になってしまっている。信頼という糸が、細く見えにくいものになっているのであるまいか。

 人が神を知るのは信仰による。信仰がなければ、神を知ることも近付くこともできない。一片の雲が太陽の輝きを隠すように、小さな疑いが神を見えなくすることがある。

 主イエスを信じた議員たちが、パリサイ人に追放されることを恐れて距離を置こうとしたのも、主への信仰に疑いを感じていたからであった。(12:42)そこで信仰の告白をしなかったことが、「神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛した」(43)と言われている。主イエスを信じることが、現実的な価値観により断ち切られてしまったのである。

 このような状況の中で、主イエスは、祭りに集まった群衆に向かい、大声で言われた。

「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです」(44)

 主イエスへの信仰が、父なる神を信じることと同質であることを宣言された。受肉された神の御子は、人々の敵意と蔑みに囲まれている。しかし、そこに力強く神が証しされている。信仰により、主イエスが持つ人間性という壁は打ち破られ、「わたしを遣わされた方」という無限の存在に置き換えられる。大声で叫ばれた主の声は、わたしたちが御父に結ばれるため、広げられた招きである。

2025年12月21日​

  光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。      ヨハネ1:5

 

   光と闇は際立った対称である。全くの闇の中では光を見出すことはできない。その支配はどこまでも深い。それでも、一条の光が差すとき、闇は一瞬にして追い払われてしまう。

 人は、しばしば霊的な闇を経験する。困難や恐れの中で、歩むべき方向を見失ってしまうのである。また、無自覚的に闇の中にいることもある。神への背信により、良心が失われているときである。そんな絶望の中にあっても、幸いなことに光なる神の働きがある。

 ヨハネは、主イエスの降誕を闇の中に差す光として描いた。それは主イエスがすべての人を照らす「まことの光」であったからである。光はいのちを作り出すように、「まことの光」は、人に神からのいのちを明らかにし、それに生きるように備えられる。

 生まれながらの人は、その光もいのちも知らない。それ故、神の前では自分が闇の中にいるということも気がつかないでいる。死を恐れるにしても、自分が闇の支配に飲み込まれてしまうことを考えようとしない。その意味で、人は闇の牢獄に閉ざされた存在と言い得よう。

 けれども主なる神は、そのような人の世界に光として天から下って来られた。神である光が、人の世界に入られることは異常なことであった。そこでは神の栄光は脱ぎ捨てられ、貧しく弱い人のかたちをとる必要があったからである。

 利害に支配される人の考えから出たことでのあれば、そのような行動をとることはあり得ない。人の生来の性質は自己保身であるからである。それに反し、主が貧しくなられたのは、ひとえに父なる神の愛による。

 「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」(3:16)

2025年12月14日

  あなたの神、主に、しるしを求めよ。よみの深みにでも、天の高みにでも。イザヤ7:11

 

   言葉の真実さが疑われる時代である。情報という言葉はあっても、そこに責任が伴わなかったり、真偽が検証されないまま放置されたりしている。けれども、真実な言葉以上に人の生き方を確かにさせるものはない。まやかしの言葉は巷に溢れている。それが何の役にも立たないことが明らかにされたとき、自分が真実から離れた不安定さの上に立っていることに気が付くのではなかろうか。

 BC700年頃、イスラエルの王アハズは、南の大国エジプトの動きを注視していた。エジプト軍の勢力に、イスラエルは対抗できないと考えていたからである。そこでアハブ王が安全保障として頼りにしたのは大国アッスリアであった。

   ところが、そのアッスリアが同盟関係を破り、突然、イスラエルに攻め込んできたのである。

その情報に触れたとき、「王の心も民の心も、林の木々が風に揺らぐように揺らいだ」(7:2)

 そのとき預言者イザヤからアハズに主の言葉が告げられた。

 「あなたの神、主に、しるしを求めよ。よみの深みにでも、天の高みにでも」

 「あなたの神」とは、あたたが頼みとした神という意味と、あなたが頼みとするべき神という意味を持つ。偶像としての神を信じ、よみの深みや天の高みを探しても、そこに何かを見出すことはできない。けれども真実な信仰によって主なる神を求めるなら、主自らが与えられるしるしを見ることができる。

 クリスマスにおける御子の誕生の預言は、このアハズ王への知らせの中に組み入れられた。不安と恐怖が取り巻く中で、インマヌエル(神が共におられる)のしるしが備えられる。

 世俗中心のクリスマスが盛んであるときに、信仰によって神の栄光をみる者でありたい。そこにこそ、信じる者が神の子とされる特権(1:12)がある。

2025年12月07日

  闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。

                                                                                                                         ヨハネ12:35

 

   アドベントの第二週、一年で一番、日没が早い時期になった。いたる所でイルミネーションが飾られ、闇を照らしている。その意味では、光が溢れているけれど、それで闇が追い出されたのでないことは、誰もが承知していることである。地上に戦争は絶えることはなく、憎しみ、人の悪い行いや考えが増すばかり。それだけ闇の支配に置かれれいる世の現実があると言えるだろう。

 主イエスは、「わたしが世にいる間は、わたしが世の光です」と言われた。(9:5)

 人の目に見えない神であるが、神はそのひとり子を世に遣わされることにより、人が神の恵みと栄光を知ることができるようにしてくださった。光がなければ何も見ることができないように、わたしたちは主イエスなしで神を知ることはない。キリスト者は、信仰によりこの光の中に入れられた者である。この恵みをいただいた者が、主体的に光の子として日常を歩むことが期待されている。

  「闇があなたがたを襲うことがないように」とは、光の子に立ち塞がるように闇が迫っている

ことへの警告である。闇だけに目を向けたら、光への信仰は恐れに縛られてしまうに違いない。

 けれども主イエスは、すでに道を備えておられる。そこをどのように歩むのは、わたしたち一人一人の信仰にかかっている。

 「あなたがたは光があるうちに歩きなさい。」

 いのちは光に支えられている。光がなかったら、いのちを営むことはできない。クリスマスはまことの光の到来である。アドベントクランツに、蝋燭の火が灯されるのを見ながら、わたしたちのため、徹底的に身を低くされたキリストを想起したい。

2025年11月30日

    一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。  ヨハネ12:24

 

 麦は雨が少ない地域の原産であるため、もともとと湿害に弱いとされている。そのため耕作するには、種をまくタイミングが重要になる。ヨエル書では、「主は…初めの雨と後の雨を降らせてくださる」(2:23)とある。ここに言われる「初めの雨」とは9月から10月頃に降る雨のことであり、この雨で土が柔らかになった土地に麦の種をまく。通常は5・6日で発芽するが、湿気が多すぎると成長することができない。

   反対に、雨の時期を逃して、種を乾燥させてしまうと発芽することはない。

  主イエスは、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです」と言われた。種が死ぬとは、まかれた種が土の水分を吸収し、内側にある胚芽が、外側の殻を破る状態のことである。

 そのことは誰もが知る自然現象であるが、主イエスが持つ死の意味を語っている。多くの人において、死とは無意味なこととされてしまっている。あるいは、死の恐怖を避けるため、なるべく意識しないような模索が積み重ねられている。

 けれども主イエスは、死を全く新しく捉えておられる。「死ぬなら」とあるのは、主イエスが受けられた十字架の死のことである。ただし、この死は、主イエス個人の死に留まるものではない。なぜなら、それは「多くの人のために流される、罪の赦しのために流される契約の血」(マタイ26:28)であるからである。

 キリスト者は、信仰によってこの死の内に入れられた。そこにキリストにある新しいのいのちが生かされる。そのとき、祝福として多くの実を結ぶ者とされていく。

2025年11月23日

   マリヤは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。   ヨハネ12:3

 

    標高三千から五千メートルの山が連なるヒマラヤの山岳地帯に、オミナエシ科の高山植物が自生している。オミナエシ自体は日本の野原にもみられ、強い匂いを発することが知られている。

 ヒマラヤのその植物から抽出された油は、ナルドの香油としして、ローマ帝国内では最高級品として扱われた。ベタニヤに住むマリアが、どのような理由で壺に入ったこの香油を手に入れたのかはわからない。それにしても、貧しい家庭にあって、唯一の財産となり得る物であったろう。

   マリアは、その高価な香油を、「イエスの足に 塗り、自分の髪でその足をぬぐった」(3)その瞬間に高価な香油としての金銭的な価値は失われてしまった。マリアのした行為に対し、多くの人が下すであろう評価をユダが代弁している。

 「どうしてこの香油を三百デナリで売って、貧しい人たちに施さなかったのか。」(5)

 希少価値とか労働価値という量りでみたら、社会的にもっと有効な用い方があるという主張は理にかなっているとみられる。けれども、主イエスはそうした批判を諫められた。

 「そのままにしておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのす。」(7)

 そこにいた人たちは、誰もマリアのしたことは理解できなかった。一時的な感情とか無分別という判断をした人もいたう。けれども、マリアは、主イエスの葬りの日に備えていたのである。それは信仰による主イエスとの関係により、霊的に知り得たことであった。そこに放たれた良い香りは、歴史を超えて、世界中に伝えられている。

2025年11月16日

   あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」ということばを、あなたの耳は聞く。 イザヤ30:21

 

    迷いのない人生というものはない。誰であれ、歩むべき道の選択に迷いを感じてしまうことがある。失敗したらどうなってしまうかを予想すると、恐れや不安が押し寄せて来ることもある。どちらに転んでもいいものなら、成り行き任せに歩むのも一興と笑っていられる。けれども、危機的な状況においては、そんな呑気はことを言ってはおられない。判断の一つ一つが、人生を分けるものになり、死活問題に直結してしまう。

 そうしたときに、親とか友人、あるいは親しい人からのアドバイスは大変にありがたいものだ。

「しっかりしなさい」とか「自分で決めなさい」と励ましの声がする。けれども、それであっても、迷いが払拭されないどころか、実際にはますます足がとられ、混乱の沼から抜け出せなくなってしまったらどうしよう。

 そんな状況の中であっても、キリスト者は「これが道だ。これに歩め」ということばを聞くことができる。それは信仰によって、天を見上げたとき、御言葉の中から主ご自身が語りかけられるものである。

 イザヤは預言者に召されたときから、主が語られる言葉を記録して民に伝えてきた。このときのイスラエルは、外国からの侵略により、社会全体が大きく変化することがが迫られていた。

 しかしイザヤは、社会という横の関係より、神と自分という縦の関係を重要とすることの大切さを民に訴えた。なぜなら、神は、存在の基礎を置いてくださった方であり、個々の人生の意味を備えてくださる方であるからである。このお方を信仰によって上を見上げるのであれば、必ず歩むべき道が見出される。

2025年11月09日

    信じるなら、神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。 ヨハネ11:40

 

  思っていたこととは全く異なる現実。死という出来事は、ときどき周りの人々にそのような印象を抱かせることがある。そうしたことが信仰心を打ちのめし、深い失望へと追いやってしまったりすることもあるだろう。

 マルタが弟ラザロの死に直面したとき、主イエスはどうして来てくれなかったのかという、それまでの信仰が否定的な疑念に置き換わってしまった。これまでのように信頼のまなざしで主をみつめるのではなく、期待が裏切られたことへの失望と抗議を秘めたものになっていた。

 けれども主イエスは、そのような現実の中に立たれた。姉妹たちが期待した奇跡はなく、主の振る舞いそのものにキリストらしさが見えない。この状況の中で、主イエスは「信じるなら、あなたは神の栄光を見る」と言われた。

 この言葉を、どのように受け止めたらいいであろうか。現実には起こり得ない愚かな人のたわごととしたら、すかさず主イエスから離れて、信仰を捨ててしまったであろう。けれどもマルタは、主イエスから完全に離れてしまったわけではない。主の求めに応じて、民と共に墓に案内している。

 その墓の前で主イエスは、「石を取り除けなさい」と言われた。神の言葉というのは、どうにもならない現実世界の中にあって、神の現実への招きとして語られる。信仰とは、このすべての権威の上におられる方の言葉を仰ぎ見ることである。

 主イエスの言葉に対するマルタの反応は、そうした信仰ではなかった。「もう臭くなっています」という言葉は、主の業を否定するものであった。それは常識的な判断ではあるが、主イエスへの信仰と結びついたものとは言い難い。主イエスは、そのマルタをもう一度、信仰に呼び戻すため語られた。「信じるなら、神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか」 ここに、倒れかけた信仰を支え、立て直される主イエスの働きをみることができる。

2025年11月02日

   わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。

                                                                                                      ヨハネ11:25

   今日は、多くの教会で召天者の記念礼拝をしている。キリスト者にとって、信仰のうちに死なれた方々は、天に召された人たちである。そこには再開の希望が与えられている。

 信仰を別にすれば、日常生活そのものが、いのちを証ししているようでもある。食べたり、飲んだり、働いたり、学んだりするのも、いのちがあるからだと言える。

 けれども、それはただ生きているだけとも言えてしまう。また、身近にいのちが失われることを経験すると、いのちが消えることの儚さに、耐え切れない程の悲しみを覚えてしまう。あの人は、どこにどこに行ってしまったのかと途方に暮れる。

 キリスト者にとって幸いなことは、信仰により神からの永遠のいのちが約束されていることである。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」

 よみがえりは、主イエスが神の御子であることを公に示すことであった。人である限り、死はどんなに努力しても、克服できない敵である。主イエスは、十字架において死なれることにより、人の死そのものを身に負われた。

 神はこのキリストを墓に捨て置くことをせずに、三日目に死人の中からよみがえらせてくださった。それは神の御子が十字架という犠牲を払ったことにより、罪のための償いが完全に為されたことを証ししている。これにより、わたしたちは神との平和が回復し、受け入れられる者となった。

 キリストのよみがえりは、歴史上の出来事であるけれど、信仰を通して知られるものである。そこに見えない神と信仰者との、深い人格的な繋がりがある。  

 

2025年10月26日

   もし、あなたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、「わたしは見える」と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。 ヨハネ9:41

 

 自分が盲目であることを、想像することができるだろうか。見えることは疑いようにない事実であるし、否定する要素はどこにもないように思えるに違いない。目を瞑ったりして、一時的に光を遮ったとしても、すぐに光のある世界に帰って来れるからである。

 けれども見えるということは、単に目で物の存在を捉えるということだけではないだろう。パリサイ人たちが、「わたしは見える」といっていたのは、自分たちこそが神の光をもっていて、律法を知らない愚かな人たちに真理を示すことができると考えたからであった。

 主イエスは、そうしたことが盲目であるとした。

 「もし、あなたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。」

 ここには自分は見えると言っている者が盲目であると指摘されている。神への信仰を口にしながら、神の意図とは反対に働いていたからである。パリサイ人たちは、律法に関する知識が豊富であり、他の人を導くことができるとしていた。それでいて、人の子の啓示に対しては心を閉ざす。この矛盾した姿勢を保っていることが盲目ということであり、「あなたがたの罪は残ります」と言われる所以である。

 もし、はじめから見えていないのなら、自分が光を持っていると主張したりはしない。あるいは、主イエスに出会った盲人のように、光を求めて主イエスとの新しい出会いに導かれるかもしれない。

 私たちは、自分が神の前に盲目になっていないかと、問いかけてみる必要がある。神の言葉に反発し、他の何かを光としてしまっている生き方である。それはしばらくは役立つものであっても、決して神のいのちに替わるものではない。罪は未解決のまま残ってしまう。

2025年10月19日

   あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であっったのに、今は見えるということです。     ヨハネ9:25

 

  百聞は一見にしかずとことわざにあるように、昔から見えることは物事を知る上でより確かなこととされている。今日でも情報の80パーセントは視覚を通して得られると言われている。けれども信仰においては、「見える」ということが問い直されなければならない。

   主イエスに見出された生まれながらの盲人は、「行って、シロアムの池で洗いなさい」という主イエスの言葉を信じ、従がうことによって見えるようになった。

 この人は、それまで道端で物乞いをしていた。生まれながらの運命に逆らうこともできず、人々から罪人と蔑まれるしかなかった。その人に、主イエスは目を注がれた。そして直接、目に触れられた。それにより、人格的な繋がりを得た。このときから盲人は、それまでの人間不信を捨て、主イエスの御言葉に従がったのである。そして盲目であった目が開かれた。

 彼にとって、目が見えることは否定することができない事実であるが、パリサイ人たちは、この人が主イエスによって目が開かれたと語ることを受け入れようとしない。

 「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」(24)

 冷静に考えてみれば、パリサイ人の態度は異常である。どうして目が見えるようになった人の話を聞こうとしないのかと呆れてしまう。

 けれども、自分自身の内にある不信仰ということを考えてみれば、霊の目が開かれるとはこのようなことだと納得させられる。主イエスの手に触れるとき、信仰への道が備えられるのだから。

2025年10月12日

   パリサイ人たちも、どのようにして見えるようになったのか、彼に尋ねた。彼は、「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです。」  ヨハネ9:15

 

    健常者にとって、「見える」ということは、普通に当たり前なことである。そのため、見えない人に出会うことがあっても、それは自分とは別世界の人であるかのように接してしまう。そうしたところでは、自分が見えない側にいるとは想像もつかないことでなかろうか。

 けれども、主イエスは、見える者の中にある霊的な盲目性を明らかにされた。「わたしが世にいる間は、わたしが世の光です」(5)人が霊的には闇の中に置かれているからである。

 パリサイ人たちが、目が開かれた人に「どのようにして見えるようになったのか」と詰め寄ったのも、神の御業に決して心を開かないで、真理を知ろうとしない彼らの愚かさによる。彼らは、生まれながらの盲人の目が見えるようになるとは、考えられないという以上に、罪人の中に神の業が為さされることはないとしていた。

 一方、目が開かれた盲人は、率直に自分の中に起きた出来事を告白した。「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです。」

 癒しは主イエスが盲人の目に泥を塗られたことからはじまった。主イエスがなされた出来事を、御信仰をもってうけとめたのである。このことは、パリサイ人たちが主張する罪との因果関係を打ち砕くものであった。盲人が、「私が洗いました」と言うのは、主イエスの言葉に信頼をもって従がったことを証ししている。

 ここには、パリサイ人や律法学者の頑なな心から出る態度と、信仰をもって素直に応答した盲人の信仰が対比されている。不信仰が働くとき、見えると言っていることの中に、暗黒が広がってしまう。主イエスという光がなければ、人は神の国の栄光を見ることはできない。

 

2025年10月05日

    イエスは答えられた。「この人が罪を犯した のでもなく、両親でもありませんん。この人に神のわざが現れるためです。ヨハネ9:3  

 

    いつの時代でも、どのようにして幸福を得るかが、人の絶えざる課題とされてきた。そうした中では、不幸なことは否定的に受け止められるばかりでなく、どうしてそうなったのかと、しばしば説明が求められてきた。

 主イエスに出会った盲人は、それまでどれ程多くの人々に、自分の身の上について論じる言葉を聞かされてきたことか。それは押しなべて、弟子が発した言葉と同じである。

 「この人が盲目に生まれたのは、誰が罪を犯したからですか」(2) 

   こうした考えは、多くの人が抱く素朴が疑問である。それと共に、問う人自身が半ば納得しかけている答でもあった。それだけに弟子たちにとって、応答した主イエスの言葉は全く想定外であり、驚くべきものであったであろう。

 けれども、この場面で一番心を動かされたのは、この盲人自身であったのではなかろうか。なぜなら、主イエスは「この人に神のわざが現れるため」(3)と言われたのだから。

 物乞いをしている人に、人々が寄せる視線には厳しいものがあった。そこには不幸への責めと侮蔑が混じっていた。これまで盲人は、そうした圧力に抗いたくても、他に賛同者を得ることができないまま、更に深い穴に蹴落とされるだけであったに違いない。

 けれども主イエスの言葉には、それとは全く違った香りと光がある。盲人の中に、最高の栄誉となる神のわざが潜んでいると語られたのであるのだから。

 今まで絶望の中に閉ざされていた盲人の未来に、一点の光がさしている。凍り付いていた心が溶かされ、愛と勇気を抱くように変えられていく。それは、福音による新しい人の創造の業であった。

2025年09月28日

   あなたがたのうちだれが、わたしに罪があるると責めることができますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。 ヨハネ8:46

 

   近代以降、真理は理性によって客観的に裏づけられる合理的なものとされてきた。人々はそれまでの権威とか伝統に疑いを持ち、知性によって得られる真理によって、新しい時代が開かれると期待した。今日であっても、真理を似たものと考えている人は多い。

 けれどもヨハネが語る真理とは、そのような概念と同じではない。この真理は、神の御子の啓示そのものであり、主イエスに信仰によって結びつくことによってだけ得られるものである。

    律法学者やパリサイ人たちは、主イエスの言葉を決して受け入れようとしなかった。そして、その言葉によって主イエスを断罪しようとした。自分たちが抱く宗教的な権威や、それを支える社会的な習慣の中に、大きな矛盾があることを主イエスによって指摘されたからである。

  「あなたがたのうちだれが、わたしに罪があるると責めることができますか」

 この問い律法学者やパリサイ人たちが無力であったのは、彼らの糾弾に反して、主イエスの側に何の罪も汚れもなかったことを示している。そこに地上での無罪性が明らかにされたばかりでなく、罪のための宥めの備え物として、完全であったことが示されている。そこで主イエスは、信仰によってご自身に結び付くように招かれた。

「わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか」(46)

 主イエスは、み言葉を聞こうとしないユダヤ人たちを排除しようとしているのではなく、聞き従がうように導かれておられる。それでも言葉を信じないのは、その内なる人が積極的に主を拒むからである。内在する様々な欲望が、神の言葉を見失わせてしまっている。 

 

2025年09月21日

あなたがたがアブラハムの子なら、アブラハムのわざを行うはずです。 ヨハネ8:39

 

    父と子というのは、遺伝だけでは済まされない深い繋がりがある。日常の何気ない振る舞いや、考え方などの上にも、父の姿が映されていることに驚かされることがある。

 主イエスとの論争で、ユダヤ人たちは「私たちの父はアブラハムです」(39)と言っている。それは主イエスが「あなたがたは、あなたがたの父から聞いたことを行っています」と言われたことへの反論であった。このとき主イエスは「わたしは父のもとで見たことを話しています」と言っておられる。それは神の子としてユダヤ人たちが真の信仰から離れていることを糾弾したのである。同時に、ご自身が天の御父と深い関係にあることを指し示していた。

 この言葉に反発して、ユダヤ人たちは「私たちの父はアブラハムです」と言ったのである。ユダヤ人にとって、アブラハムという存在は、自分たちのルーツだけではなく、選びの民としてのプライドの拠り所であった。それ故に、歴史的な事実として自分たちがアブラハムの子であることをもって、主イエスの主張を論破しようとしたのであった。

 このときユダヤ人たちの中に、「アブラハムのわざ」がみられたなら問題がなかったであろう。けれども、血統としてアブラハムとの繋がりはみられても、信仰の父であるアブラハムのわざがみられなかった。アブラハムの子としての関係は、生ける真の神との信仰により成り立つものである。律法に縛られ、形骸化した信仰の中では、信仰による神との深い繋がりを持つことはできない。そのことが、「アブラハムのわざ」を行えない要因になっていた。

 わたしたちは、自分の信仰を吟味してみなければならない。本当にキリストと基にして神との関係を築いているかどうかと。神の愛と平和のうちに私の業があるだろうか。

© 2023 by COMMUNITY CHURCH. Proudly created with Wix.com

bottom of page