2021年06月20日

   恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。 

                                                   使徒18:9.10

 

    私たちの思考や行動を停止させる要因の一つに恐れということがある。表立って口にすることはなくても、それが心の底に流れて全身を支配するのである。

 パウロがコリントで伝道をしたとき、ユダヤ人たちに口ぎたなくののしられるという経験をした。(6) そのとき、パウロは「あなたがたの血は、あなたがたの頭上に降りかかれ」と言っている。それは同胞ユダヤ人に対し、神の裁きがあるようにと断罪した言葉であった。それがどのように跳ね返ってくるか予想するとき、パウロはコリントでの伝道の継続は困難と考えていたのであろう。

 けれども神は、パウロに「語り続けなさい。黙ってはいけない」と幻で示された。ここに御言葉そのものが持つ力が示されている。それは「私の民」を救いに導くものである。それ故、困難はあっても御言葉は語り続けられなければならなかった。

 また神は、恐れに満たされているパウロが、そこから解放されるために御自身の臨在を示して励まされた。「わたしがあなたと共にいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない」

​((18:10)

  パウロはピリピで鞭打たれ投獄されている。(16:23) また同じようなことが起きるのではないかという恐れがあったかも知れない。けれども、そのようなことはないと神が否定された。それは主ご自身がパウロと共におられる証しとなってパウロを守られると約束された。以後、危機的な状況に陥ることがあっても、出エジプトにおいて雲の柱と火の柱がイスラエルを守られたように、神はパウロの働きを守られた。

2021年06月13日

神はそのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今はどこでも、すべての人に悔い改めを命じておられます。  使徒17:29

 

 福音を知らないときに、神に対する無知と無関心が大きな罪であると悟ることはない。義なる神が、その罪を裁かれるという発想を持つこともないだろう。経験から言えば、神を知る前にはその無知自体が自覚されることは少しもなかった。それは厚顔な自己肯定の堅い壁に守られていた。けれども、福音を聴くとき、神の前に今の自分のあり方が一対一で鋭く問われる。神の前における不信の罪は、許容されているのではなく、悔い改めによって方向転換するよう備えられていると知るからである。この場合、神に対して無知であることは、それ自体に価値や意味があることではない。

 パウロが語る福音は、彼らの意識の底にある自己肯定の罪を指摘する。それが形となったのが神話に登場する神々であり、その神々は真の神の姿を失わせていた。福音は、そのような人の心の暗部を照らし出し、光の中に導くものである。この悔い改めは、神が全ての人に命じていることである。そこに全ての人に対して分け隔てなく愛される神の御心がある。

 ギリシャ人はユダヤ人のような選民意識は持たなかった。けれども、先祖から伝わる神々の系譜に自分たちのアイディンティティーを重ねていた。ここで問われているのは、神の前に不信と無知を重ねている自己の姿である。その罪は、自分の意識の中で取り去ることはできない。ただ、主イエスの十字架による贖いと血による清めだけが可能とする。今、求められているのは、この福音によっての方向転換である。それは多くの人に神のいのちに生きることの確証となっている。

 

2021年06月07日

 この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりであるかどうか、毎日聖書を調べた。  使徒17:11

 

   生まれたばかりの赤子は、懸命に乳を吸うことによって成長する。何かの理由で、それをやめてしまったら、そのときから命の危険に晒されてしまう。キリスト者にとって霊の乳となるのが御言葉である。(第一ペテロ2:2)

 パウロとシラスがテサロニケの会堂で、聖書に基づいて福音を語ったとき、ある人たちは信じてその教えに従った。けれども、ねたみにかられたユダヤ人たちが、パウロとシラスに立ち向かい、暴動を起こしてその責任を二人に負わせようとした。

 そのためパウロとシラスは、テサロニケからベレアに移って伝道した。同じように会堂に入って、聖書から「イエスこそキリストです」と説明した。これを聞いたベレアの人たちは、「素直で非常に熱心にみことばを受け入れた」。そこには、テサロニケのある人たちのように最初から心を閉ざしたり、偏見をもって活動を妨害するようなことはなかった。むしろ、「はたしてそのとおりであるかどうか、毎日聖書を調べた」

 教えられたことを鵜呑みにするのではなく、積極的に自分たちで真理を確かめることがされた。このような姿勢は、信仰が確立するために極めて重要なことである。当時は、聖書は極めて高価なもので、誰でも手にするようなものではない。パウロの言葉を受けて、それを聖書から調べるため、毎日、会堂に集まっていたであろう。その結果、自分で納得して信じた。この御言葉を学ぶことの熱心さが、教会の基礎を築いていった。この後、パウロがアテネに逃れるとき、べレアの信徒が道案内をしている。(15)また第三回伝道旅行においては、ベレアの信徒が、ギリシャからシリアに向かうパウロたちの旅に同行した。(20:4)

2021年05月30日

    二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」 使徒16:31

 

    自分の人生に何の心配もしていなかったのに、突然、闇に突き落とされるようなことがある。その時には自分を支えていた土台さえも揺れ動き、それは古くて脆い土塀のように粉砕されてしまう。

 牢獄の看守は、地震が発生するまで安眠していた。パウロとシラスが牢獄の奥で祈りながら賛美している声も、囚人たちが夜中でありながら、その声に聞き入っている様子も看守には届いていなかった。

 けれどもその時に発生した地震は、牢獄の土台を揺れ動かしたばかりではなく、ローマに頼りきった看守の生き方を根本から揺り動かした。目覚めると牢獄の扉が開き、囚人を繋ぎ留めておいた鎖が抜け落ちていたからである。それをみた看守は、囚人たちは皆逃げてしまったと判断した。咄嗟に自らの責任の重大さに気が付き剣を手にして自害しようとした。それはローマの処罰が家族にまで及ぶのを防ぐためであったろう。そのとき、パウロの声が牢獄に鳴り響いた。

 「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」(28)

 看守は明かりを求めて声のする方向を見つめた。暗がりに目が慣れてくると、囚人たちは鎖が解かれたまま、全員そこにいたのがわかった。恐れを抱いた看守は言った。

 「先生方、救われるために何をしなければなりませんか」(30)

 二人は「主イエスを信じなさい」と答えた。これは主イエスの御名の上に人生を築きなさいという意味である。「そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」という福音による神の恵みが示された。看守はこの瞬間に人生の一大転機を迎えた。それは彼とその家族に大きな喜びをもたらした。

2021年05月23日

   わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。  ヨハネ14:16


 五旬節(ペンテコステ)と呼ばれるイスラエルの祭りの日、突然、天から大音響を伴う風が吹いてきて、信者の上に火のようなものがとどまった。そこで人々は聖霊に満たされた。(使徒2:1~4) それは主イエスが十字架にかけられる前に、弟子たちに告げられた父なる神の約束である。

「父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」
 ペンテコステとは第50という意味で、昔、モーセに率いられたイスラエルの民が奴隷とされていたエジプトを脱出したときから数えている。出エジプト記によれば、
民はエジプトを出て50日目にシナイ半島にあるシナイ山において神から民族の柱となる律法を授与された。ペンテコステはこの記念日で、七週の祭」または「刈り入れの祭」として長く祝われてきた。「刈り入れの祭り」と結びつくのは、イスラエルの祭りは、歴史的な出来事が1年のサイクルで回る農耕作業と結びついて設定されているからである。この祭は大麦の収穫の終わりであると共に、小麦の刈り入れの始まりを告げていた。新約的な意味では、諸国の霊的な刈り入れということができる。
 ペンテコステの出来事は、信者が聖霊によって律法を心に刻まれ、キリストの証人として宣教の働きに召し出されることを意味している。主イエスは聖霊のことを「もうひとりの助け主」(パラクレートス)と言われた。パラは別に並んでの意味であり、クレートスは慰め主、
励まし主、癒し主、弁護者とも訳される。
 キリスト教信仰とは、この聖霊によって共におられる神の現実を生きることに他ならない。それ故、すべてのキリスト者は、御霊の導きと助けによってキリストの証人となり、積極的に主をあかしする者とされた。また、キリスト者は、聖霊の助けと導きにより主を深く知ることができるようになる。このようにして、恵みに恵みが加えられていくのである。
 

2021年05年16日

   リディアという名の女の人が聞いていた。ティアティラ市の紫布の商人で、神を敬う人であった。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。

            使徒16:14

 

    アジアからヨーロッパへの宣教の拡大は、ピリピの町における一人の女性の回心から始まった。リディアという名のこの女性は、「ティアティラ市の紫布の商人」とある。

 ティアティラは、小アジア西部の町であるから、アジアとマケドニアに跨る海を往来して商業活動をしていたのであろう。

 その商品は紫布であった。これは地中海のアッキ貝からとれる微量の色素を染料としたもので、非常に高価なものとされていた。ただし、リディアが扱った紫布は、ティアティラで生産されたもので、この地方からとれるあかね草を原料そしたものと思われる。(聖書辞典)

    ピリピの町に入ったパウロたちは、安息日に祈りの場を求めて河原にきた。町の中にはユダヤ人の会堂がなかったからである。そこで祈った後であろうが、川岸に行き、そこに腰を下ろして集まってきた女たちに福音を話した。その中にリディアがいて、彼女はパウロが語る言葉に耳を傾けた。このとき「主は彼女の心を開いて」とある。

 それは聖霊によって、御言葉がしっかりとリディアの心の中に受け止められたことを示している。御言葉による救いの確信は、彼女とその家族の者たちがバプテスマを受けたことで証しされた。またリディアはその喜びからパウロの一行を自分の家に招き迎えた。「私が主を信じる者だとお思いでしたら、私の家に来てお泊りください」

 以後、リディアはピリピ教会の中心となり、パウロの宣教を支えていく。パウロにとって大きな励ましであり続けた。

2021年05月09日

   パウロがこの幻を解き見たとき、私たちはマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために召しておられるのだと確信したからである。 使徒16:10

 

 主イエスの信仰者は、様々な困難や試練を通して主の召しの導きを受けることがある。そうしたときには、初めは好ましく思わなかったことも、主が共におられたことの証しへと変えられる。

 リステラを出発したパウロとシラスは、「アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられた」。(6) そのため、「フリュギア、ガラテヤの地方を通っていった」それは大回りではあるけれど、先に巡回した地を訪問するという当初の目的を果たすためであった。ところが、ミシアからビテニアに進もうとしたときに、「イエスの御霊がそれを許さなかった。」(7) このため、「ミシアを通って、トロアスにくだって行った」(6)

 おそらくパウロたちは、この港から出る船でキプロスに行こうとしていたのであろう。ところが、乗ろうとしていた船が出るのを待っていたある日のこと。パウロは反対方向にあるマケドニア人の幻を見た。「渡ってきて助けてほしいと懇願する」姿である。パウロは、その幻に非常に驚き、一緒に伝道旅行をしていたメンバーとそのことを分かち合って、主の御心を求めた。ここでの表現は「私たち」であり、そこに著者であるルカが新しく加わっている。

 そこで得られた「私たち」の結論は、「彼らに福音を宣べ伝えるために、神が召しておられる」という確信であった。これまで途中で道が閉ざされたことも、御霊に禁じられたことも、この働きを急いで実行するためであったと理解した。

 それで「ただちにマケドニアに出かけることにした」他に寄り道をしている暇はない。福音宣教は急を要していた。その応答により、アジアからヨーロッパに展開する新しい宣教の歴史が切り開かれた。

2021年05月02日

パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。

                 使徒15:40

 

    パウロとバルナバによる第一回目の伝道旅行は、キリスト教が普遍化し全世界に宣教されていくために起こった画期的な出来事であった。エルサレム会議においては、異邦人伝道のことが承認される。その手紙がアンティオキア教会にとどいて数日後、パウロはバルナバに、先に伝道した地域を巡回する伝道旅行を提案した。この時点で目的地は「先に主のことばを宣べ伝えたすべての町」(36)にとどまっていた。

 ところが、この旅行にマルコを連れて行くか行かないかでパウロとバルナバの間に意見の衝突が起こる。パウロは「パンフリアで一行から離れて働きに同行しない者(13:13)は、連れていかない方が良い」と考えた。一方、バルナバにしてみれば、マルコは年若い青年であり、一回の失敗で資質を判断すべきでないという主張がある。

 その結果、「互いに別行動をとることになった」(39) このような争いは、二人とも御霊の人であり教会のリーダーであることからして、ふさわしくない行動とみられるかもしれない。けれどもそれは、互いの宣教に対する熱意から出た個性であり、御霊の導きを無視したということはできない。このことで、パウロとバルナバの間に感情的なもつれが生じたけれども、パウロの働きは、結果的に当初に考えていた伝道旅行の地域を遥かに越えていくことに繋がる。一方のバルナバとマルコは別なかたちで主に用いられていく。

  第二回目の伝道旅行は、その最初から躓いてしまった。けれどもパウロとバルナバと離れてシラスを選んだことには、働き全体からみるなら必要なことであったのかもしれない。そこに神の計画が隠されていたのではあるまいか。「主の恵みにゆだねられた」出発は、ほろ苦さが残るものであったが、ここからアジアを越えた働きが展開する。

2021年04月25日

    その後、わたしは倒れているダビデの仮庵を再び建て直す。その廃墟を建て直し、それを堅く立てる。それは、人々のうちの残りの者と、わたしの名で呼ばれるすべての異邦人が主を求めるようになるためだ。  使徒15:16~17

 

    多くの人が誤解していることであるが、神の御心は一方的に上から押し付けられるものではない。愛と信頼を基礎として、聖霊の助けにより道を選びとっていくものである。そのことは、個人においても教会においても同じである。

 使徒たちや長老たちが集まってエルサレムで会議が開かれたのは、異邦人キリスト者たちにも律法と割礼を守らせようとする人たちがいたからであった。このユダヤ主義者たちからすれば、自分たちが日常的に努力していることが、福音によって無意味化されるのではないかという危惧があった。そこに教会としての神の御心が求められた。

 会議では多くの議論が為された。ペテロは自分が神からの啓示により、異邦人のところに出かけて行ったことや、そこで経験した異邦人の回心の様子などを証しした。それに続いて、バルナバとパウロの異邦人伝道の報告が為された。最後に主の兄弟であるヤコブが、アモス書の言葉を受けて証言している。

 アモス書は紀元前750年頃の預言である。その預言がここで新しく解釈される。アモスが預言した「わたしは倒れているダビデの仮庵を再び建て直す」とは、ヤコブによって主イエス・キリストの十字架と復活であり、またそこに形成される新しいイスラエルであると解釈された。また「人々のうちの残り者と、わたしの名で呼ばれるすべての異邦人」とは、キリスト者となった異邦人のことを指しているとし、異邦人がキリストの名によって新しい民とされることが契約に基づいた神の御心であることを明らかにした。

 エルサレム会議での結論は、このヤコブの聖書解釈をもとに展開した。それは異邦人キリスト者を律法の重荷から解放するものとなった。同時にユダヤ人キリスト者も 律法の縄目から解き放った。そこには、会議の最初から終わりまで導かれた聖霊の働きがあった。

2021年04月18日

 私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。  使徒15:11

 

    民族間にある壁を取り去ることは容易でない。それぞれの宗教や歴史が作り出した文化とか価値観が、その民族のアイディンティティーとなって人々の心に深く根付いているからである。そこにはしばしば自分たちの民族の優位性が示されてきた。

 イスラエルにおいては、神がアブラハムを選び導かれたことに民族の起点が置かれてきた。それは決して民族の優位性を示すものではなかったが、長い歴史の中では他の民族を異邦人として疎外するものとなり、自分たちの民族と同質でなければ受け入れないものとなって定着した。そのため福音がユダヤ人から異邦人へと広がりをもって伝えられたとき、ユダヤ人キリスト者の中には、異邦人を主イエスへの信仰だけで同胞としていることに強い不満を持つ者たちが出てきた。彼らは、異邦人キリスト者に対し、「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」(15;1)と言って信仰を迷わせた。

  この問題の解決のため、エルサレムにおいて会議が開かれた。出席者には、パウロ、バルナバ、使徒たち、そして長老たちなどがいた。多くの論争の中で、ペテロが主張したのは、神が信仰によって異邦人を救いに導いておられる事実であった。異邦人の中に聖霊が注がれたことは、神が異邦人をきよめられた証拠であった。

 「私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」(15:11)

 ここには民族の優位性ではなく、一人の罪人が神の恵みによって救われたことの証しがある。この主イエスに対する信仰が民族間の壁を打ち壊し、福音宣教の更なる拡大となった。

2021年04月11日

 二人は…弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と語った。 使徒14:22

 

    多くの人は、苦しみを幸いの対局に置いている。そうした考えでは、苦しみという現実に対し、信仰の意味までが揺らいでしまう。「信仰をもっているのに、どうしてこうなのか」と。この疑問に、ある宗教では信仰者自身に原因とか責任を問う。「あなたの信仰が弱いから」あるいは、「あなた自身か先祖の中に悪が働いているから」と説明されるのである。ヨブの友人たちでさえ、ヨブの苦難についてそのように語っている。(ヨブ4:8)

 けれども福音においては、苦難の意味は全く違ってくる。苦しみは信仰によって立つとき積極的な意味を持つ。「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」

 これは苦難を自ら呼び寄せるものではない。また、そのような傲慢な論理に走ってはならない。苦難の現実は外からやってくるものであるが、それは福音の約束に違反するものではない。むしろ福音を信じる者が不可避的に通らされることである。

 その根底には、主イエス・キリストの苦難と復活がある。神は、主イエスの十字架の苦難と死の苦しみを通し、新しい神のいのちを創造された。キリスト者は、このキリストの中に取り入れられている。女性は出産するときに陣痛を経験するが、それは新しいいのちに繋がっている。そこでの苦しみは決して否定されるべきものではない。

 けれども苦難のため、信仰が傷つけられることがある。実際の生で様々な苦しみに直面し、「おまえの神はどこにいるのか」(詩42:3)と嘲笑されることもあろう。そうしたときこそ、私の中におられるキリストを知る。信仰によって主の十字架と復活を仰ぎみる。そして信仰、寛容、愛、忍耐を学ぶのである。

 間違っても苦しみや苦難を信仰から離れる理由にしてはならない。苦難に遭遇したときには、いよいよ神に近く歩む者となっていきたい。共におられる神は、そこに御自身の恵みをあらわされる。

2021年04月04日

    彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。マルコ16:8

 

    主イエス・キリストの復活は、誰もが全く予想もしなかった。その驚きは、女たちが「気が動転」したほどであり、そのため言葉で言い得なかった。そこに生の証言の真実さがある。

    マルコの福音書は、ペテロの弟子であったマルコがペテロから聞いた言葉をもとに書いたものである。本文は8節までで、それ以降は後の時代に書き加えられたものとされている。

 目的は、主イエス・キリストの福音を伝えることであり、十字架と復活はそのクライマックスである。けれども本の終わり方として、尻切れトンボの印象を拭えない。女たちの証言が「恐ろしかった」という言葉で終わっているからである。写本の中に、その後のことを書き加えたものがあるのは、そうした部分を補おうとしたからであろう。

 けれどもマルコの意図は、そのような説明によって読者を納得させることではなかったのでなかろうか。この尻切れトンボの書き方は、ペテロに関する記述にもみられるからである。ペテロについて最後に記したのは14章72節で「イエスが自分に話されたことを思い出し…彼は泣き崩れた」と結ばれている。ペテロこそが、主イエスの復活の証人であるから、その後、立ち直ったことや主から受けた権威のことを書いてもよかろう。けれどもマルコはそうしていない。そうすることで、別の思いが伝わることを避けるかのように。

 ここに登場する女たちは、弟子たちに替って最初の復活の証人となった。その女たちも「気も動転して何も言えなかった」と弱さを露呈している。

 ここにマルコが求めているのは、読者の一人ひとりが復活の主イエスに向き合うことではなかろうか、ガリラヤで弟子に合ってくださる主は、私たちの日常の中でご自身の復活を示される。私たちも弱さを抱えた者である。そこに届けられた福音に、信仰の目を覚ますことが求められている。

2021年03年28日

 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔をそむけるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。    イザヤ53:3

    

    巨星は宇宙という闇の広がりに囲まれながら、強い光を地上に注ぎ続けている。無数の星々の中にあってもはっきり目立つので、少しの関心さえあれば子供でもその名は覚えられる。めったに見誤られることもないだろう。

 預言者イザヤは、旧約から現代に至る歴史を貫いて、神から遣わされる救い主の姿を明確に告げている。正に旧約預言者の巨星と言える。その内容は罪の告発に始まり、罪の結果としてのバビロン捕囚と恵みによる解放、そしてメシアによる新しい時代の待望で終わっている。殊に特徴的なことは、神に立てられた苦難のしもべがメシアの姿に重ねられていることにある。

 「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。」

 ここに語られる「彼」とは誰のことであるのか。ユダヤ教信者や無神論者を含め、この「彼」について幾多の議論が重ねられてきた。ある者は著者自身であると言い、ある者はイスラエルの民全体だという。まだ歴史に現れていない人物だという意見もある。そうした中で、文脈的にも歴史的にも最も合致する解釈は、「彼とはナザレのイエスである」とするものであり、新約聖書はそのことを証言している。

 人として私たちの内に住まわれた主は、イザヤによって預言されたことの成就である。その事実は文献の解釈に留まらず、個人の信仰の領域に深く踏み込むことを余儀なくする。世においては、他者を蔑むことで自らの力を保持することもあろう。人に蔑まれることは痛みでしかない。しかし、ここに徹底的に蔑まれたしもべの姿がある。神に立てられたこのしもべであるからこそ、「悲しみの人で病を知っていた」と。ここに苦難のしもべについての世の考えとは違う神の視点がある。神に立てられたしもべは、キリストとして私たちの近くにおられる。顔を背けず信仰をもって仰ぎみるとき、「悲しみの人で病を知っておられた」方による救いの業が始まる。

2021年03月21日

   私たちもあなたがたと同じ人間です。そして、あなたがたがこのような空しいことから離れて、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えているのです。  使徒14:15

 

    日本では優れた能力を持つ者が神とされることがある。神であることで常人とは異なる存在とされるが、それは創造者と被造物のような決定的な差異ではない。

 ギリシャ神話においても、人と神々の境は密接している。バルナバとパウロは、リステラで足の不自由な人を癒したことで、人々からギリシャ神話に登場する神々とされそうになった。バルナバは神々の最高神であるゼウスに、そしてパウロはゼウスの子であるヘルメスにである。二人は、現地の言葉で語られていたときにはわからなかったが、祭司が自分たちに犠牲の動物をささげようとしていることで事態を理解した。もし彼らが自分たちの栄光を求めていただけなら、人々が神として称えるのをそのまま受け入れたであろう。それは12章に記されたヘロデ王の姿でもある。

 「集まった会衆は、『神の声だ。人間の声ではない』と叫び続けた。」(12:22)

 これに対しバルナバとパウロは、歓迎する人たちが自分たちを神々に仕立て上げようとしていることに気がついたとき、「衣を裂いて群衆の中に飛び込んで行き、叫んだ」(14) ここで強く訴えたのは、「私たちもあなたがたと同じ人間です」ということであった。人々は神としようとしているが、その自分たちは人としての弱さを持っていることの告白である。そんな我に神の恵みが注がれることにこそ福音がある。

 福音が違ったものに受け止められたときには、直ちに訂正されなければならない。二人は、人々に方向転換をすべきことを明確にした。真の神から離れた神々を祀ることは「空しいこと」である。神は「天と地と海、またそれらの中のすべてを造られた方」である。この生ける神に立ち返ることににこそ真のいのちがある。

2021年03月21日

 それでも、二人は長く滞在し、主によって大胆に語った。主は彼らの手によってしるしと不思議を行わせ、その恵みのことばを証しされた。 使徒14:3

 

    福音宣教には大胆さがなければならない。それは人々の前に礼儀を欠くことでもなければ、誰かを貶めたり、傷つけることでもない。真理を割引きしないで、真っ直ぐに説き明かすことである。

 パウロとバルナバは、イコニオンの会堂で御言葉を語ったとき、大勢のユダヤ人とギリシャ人が信じた。ところが信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちを扇動して、新しくキリスト者となった人たちに対して悪意を抱かせた。(2) 実際にはないことを噂として流したり、小さなことを拡大して誤解を生むように仕向けたのである。そうした中で、パウロとバルナバに向ける町の人々の態度が二分されてしまう。

 「一方はユダヤ人の側に、もう一方は使徒の側についた」(4)

 けれどもパウロとバルナバの側では何も変わってはいない。彼らは大胆に語り続けたのである。そうした働きには、聖霊による証しが伴っていた。

 「主は彼らの手によってしるしと不思議を行わせ、その恵みのことばを証しされた」

 この働きの主体は聖霊である。けれども、それは宣教の言葉から離れてあるのではなく、パウロとバルナバが語る神の言葉と一体を為していた。そして彼らが語るのは、福音という神の恵みの言葉である。

 今日、宣教において求められるのは、しるしと不思議が声高にされることではない。何者にも臆することなく、大胆に福音を語ることである。主の力はそうしたところに働く。それが人々の中にしるしと不思議として残るのではなかろうか。

2021年03月07日

    そこで、パウロとバルナバは大胆に語った。『神のことばは、まずあなたがたに語られなければなりませんでした。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者にしています。     使徒13:46

 

    深海の魚は、天から注がれる光の世界を知らない。目があっても光を感知することはできない。それは真の光を見失ったイスラエルのようである。

 光なる神は、イスラエルを特別な愛をもって導いてこられた。パウロは、契約によって結ばれた神とイスラエルの関係を語っている。

 「神は約束にしたがって、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主を送ってくださいました。」(13:23)

 それは主イエスが御言葉によってあらかじめ預言された救い主であることを示すものである。ここには驚くべき神の恵みが啓示されている。それゆえダビデ契約の直接的な主体であるユダヤ人にこそ、この福音が理解されるべきであった。

 けれども現実には、ユダヤ人たちは主イエスを拒み十字架につけたばかりでなく、主イエスに従う信仰者を迫害し続けた。ピシディアのアンティオキアにおいては、ユダヤ人たちは「パウロの語ることに反対し、口汚くののしった。」

 その人たちに対しパウロは、「神の言葉はまずあなたがたに語られなければならなかった」という。ここでも彼らの拒絶に遭ってしまうが、そうした反発はかつての自分の姿でもある。それを認めながら、神の視点に立ってユダヤ人の悔い改めを願い、不信仰の罪を攻めた。

「あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者にしています。」

 厳しい言葉ではあるが、彼らに神のいのちに生きてほしいパウロの真実な姿がここにある。

2021年02年28日

こうして、彼らはイエスについて書かれていることをすべて成し終えた後、イエスを木から降ろして、墓に納めました。

                 使徒13:29

 

    白い布に黒い染みがあったら、すぐに気がつくことができる。けれども闇の中にあっては、どんなに大きな染みも全く判別されることはない。人の罪というのは、そのように魂の暗黒の中で、全く見過ごされているということができる。

 ユダヤ人は、「主イエスには死に値する罪が何も見出されないのに、イエスを殺すことをピラトに願った。」(28)冤罪そのものがあってはならないことであるが、それが正義の名をもって画策されていた。まして神の御子に対しての行為であるから、どれ程に罪深く、厳しく裁かれるべきことであったことか。それにも関わらず当事者の行動は淡々としている。自覚のないまま最後の毒を飲み切ったのである。

 「すべてを成し終えた後、イエスを木から降ろして、墓に納めました。」(29)

 しかしながら、こうした行為の全ては「イエスについて書かれていること」であった。

神の子への反逆が、同時に神の言葉を実現させていくということ。そこにあるのは、人の行為の愚かさと罪深さであるが、その全てを包む神の救いの業が展開している。罪を犯しながら、自覚も痛みもないまま自らを正当化するのはユダヤ人に限ったことでない。全ての人の内に住み着いている罪の特色である。神はそうした人の中に働いてくださる。不信仰が神の業を見えなくしているが、神の言葉に照らされるとき人は自分の罪を悟る。それは新しい神との関係に歩むための備えとなる。

2021年02月21日

わたしは、エッサイの子ダビデを見出した。彼はわたしの心にかなった者で、わたしの望むことすべて成し遂げる。使徒13:22

    神のことばの真実性は、しばしば歴史を通じて啓示される。それを解く鍵は信仰であり、信仰を抜きにした歴史の解釈からは隠されたままになる。
 ピシデアのアンティオキアの会堂で、パウロはユダヤ人と異邦人に語りかけた。ここでパウロは、神がイスラエルと結ばれた契約を如何に守られたかを、民族の歴史に刻まれたれた神の業によって明らかにした。エジプトでの400年の滞在、出エジプト後の荒野での40年の放浪、サウル王の統治による40年と40という数が合わされるのは、それが神の救いの計画に組み入れられていたことを示すためであった。
 その救いは、ダビデを通して「わたしの望むことすべて成し遂げる」ことに繋がる。それは信仰による王国の確立であり、そこに神の国のひな型が示された。更に救いは子孫に託されることによって約束が成就するのである。神殿がソロモンによって建設されたのは、そのことを示す象徴的な出来事であった。
 こうしたイスラエルの歴史に示された神の啓示は、同時にイスラエルの不信仰の姿をも浮き彫りにしていく。その罪は取り去られることも改められることもなく続いていく。「イエスを殺すことをピラトに求めた」(28)ことは、罪の実相が如何に深刻で癒し難いものであるかを物語っている。
 けれども神は、このイスラエルに悔い改めの機会を与えられた。「ヨハネがイスラエルのすべての民に、悔い改めのバプテスマをあらかじめ宣べ伝えました」(24)
 バプテスマのヨハネによるメッセージは、罪の支配からの転換のための備えであった。ここに福音の本質があり、主イエスを通して救いの計画の全体が示されていく。主イエスは「肉によれば
ダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば…公に神の御子として示された方」(ローマ1:4)である。それはイスラエルの民に限ったメッセージ」ではなく、すべての民に届けられるべきものである。
 

2021年02月14日

 

   二人は聖霊によって送り出され、セレウキアに下り、そこからキプロスに向けて船出し、サラミスに着くとユダヤ人の諸会堂で神の言葉を宣べ伝えた。 使徒13:4

 

    宣教の主体は聖霊である。パウロとバルナバによる第一回の伝道旅行は、アンティオキアの教会において、聖霊が「さあ、わたしのためにバルナバとサウルを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」(2)と言われたことによる。

 それは宣教の歴史において大きな転換期であった。このときから宣教の拠点がエルサレム教会からアンティオキア教会へと移った。使徒の働きの記録では、ペテロの名前が消えて、パウロとその随行者たちの働きが中心となっている。そしてこれまでのユダヤ人を対象としていた伝道が、異邦人に向けた福音宣教へとなっていく。それは福音がユダヤ人に限られた神の啓示ではなく、すべての人を対象にした普遍的な広がりを持つものであることが明らかにされるためであった。

 アンティオキアの教会は、パウロとバルナバが聖霊の導きを受けたとき、「断食をして祈り、二人の上に手を置いてから送り出した」(2) そこには宣教者として送り出された者と、その人たちを送り出した教会の関係が描かれている。教会は、宣教者が直面するだろう困難を予測し、とりなしの祈りをした。また、彼らを背後から支えることで一人一人が責任を負おうとしている。こうした教会のサポートがあって、パウロとバルナバは恐れることなく世界宣教の旅路に就くことになる。

 パウロとバルナバを導かれた聖霊は、アンティオキアの教会を導かれた。世界宣教は宣教者と教会の共同作業である。神の言葉の広がりは、福音の持つ祝福と豊かさを知ることにつながった。

2021年02月07日

    すると、即座に主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫に食われて、息絶えた。   使徒10:23

 

 自分を偉大な者であるとする誘惑は根強い。一旦そうした考えに捕えられると、機会を狙って弱い者を蹴落とし高慢が瞬く間に増長する。最終的には自らが万能であるかのように錯覚することもある。

 カイザリアに帰ったヘロデ・アンティパスは、ツロとシドンの人たちを前に、自分を神であるかのように振る舞った。ツロとシドンの町は、王の国から食料を得ていたので、王が弱みを握っていたからである。ヘロデはツロとシドンの人々に対しひどく腹を立てていた。何があったのか、どのような理由かはわからない。それでも機嫌をとるため王の侍従長を介して和解のとりなしを願い出ていた。そうした状況の中で王が登場する。

 「ヘロデは王服をまとって王座につき、彼らに向かって演説した」(21)

 歴史家のヨセフスは、その光景を詳述している。それによると、ヘロデは銀の衣装を身につけ朝日がそれを照らした。衣装が光輝いたので彼は神のように見え、人々は彼を恐れたという。「集まった会衆は「神の声だ。人間の声ではないと言った」(22)

 しかしヘロデは、このとき「虫に食われて息絶えた」(23) ヨセフスによれば、ヘロデには激しい腹痛が襲い、5日後に死んだとある。それは「ヘロデが神に栄光を帰さなかったことによる」神は御使いを通してヘロデを裁かれた。ヘロデは人であって神ではないことを、当人にも会衆にも示す出来事であった

 地上の国の権威が神の教会を圧倒し、その存在を根扱ぎしようとすることがある。しかし教会は神の国に属するもので、み言葉を封じることはできない。福音は人の機嫌とりをする言葉ではなく、真実な神の言葉である

2021年01月31日

  こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために熱心な祈りを神にささげていた。 使徒12:5

 

    祈りが如何に有効で力強いものであるかは、日常の中では意識されないこともあろう。食事のときにしか祈らないというクリスチャンもいる。しかし追い詰められ、どうにもならない状況の中で発揮されることがある。

 エルサレムの教会は、その多くが迫害によって各地に散らされてしまった。使徒たちは教会にとどまっていたが、急速に力を失いユダヤ人たちの敵意に晒されていた。支配者であるヘロデ王は、自分の人気とりのため、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺すという暴挙に出た。(12:2) ペテロの捕縛は、ユダヤ人がそれを喜んだことによる。(3) 

 ここに登場するヘロデとは、主イエスの誕生のときのヘロデ大王の孫にあたるヘロデ・アンティパス1世である。彼は、ローマの力を背景にして、パレスチナ全土を支配していた。けれどもユダヤ人による反抗が絶えないので、人々の人気とりのためキリスト者の迫害をしたのだった。

 こうしてペテロは牢に入れられた。「四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた」(4)という程、厳重な見張りがついた。以前にもペテロは牢に入れられながら、そこから脱出しているからであった。

 教会には、ペテロが入れられている牢のことも伝えられていたであろう。ヤコブが殺害され、その上ペテロも死刑とされたらその働きはますます小さくされてしまう。教会はその存続の瀬戸際にまで追い詰められていた。この状況の中で教会が選択したのは、皆が心を合わせて祈ることであった。その祈りは次第に力を増し熱心なものになっていった。主は、この祈りに答える形でペテロを救出された。その祈りはおかしな部分もあった。牢を出たペテロのことを、教会の人たちは信じなかったというのは最たるものである。けれども、そうした弱さや間違いを含めて、​教会の祈りが神に用いられていく。ペテロ自身のあかしとその後の活躍が、この驚くべき出来事の真実さを伝えている。そして、困難な中にあって祈り続けることの重要さを教えている。

2021年01年24日

   ところが、彼らの中にキプロス人とクレネ人が何人かいて、アンティオキアに来ると、ギリシャ語を話す人たちにも語りかけ、主イエスの福音を宣べ伝えた。  使徒11:20

 

    福音は信徒たちの働きによって、更に広く宣べ伝えられた。その人たちというのは、「ステパノのことから起こった迫害により、散らされた人々」(19)である。主イエスにある信仰の故に、迫害を逃れてフェニキア、キプロス、アンティオキアまで進んで来ていた。

  ここに至るまでも彼らは、み言葉を語り続けてきたのであるが、それはアラム語を使うユダヤ人に限ってであった。それがアンティオキアにきたとき、自然発生的に「ギリシャ語を話す人たちに」語るようになった。福音が異邦人にも伝えられるべきことは、既にペテロやピリポの働きによって知られていた。また、パウロのように最初から異邦人のための使徒として召された者もいる。

 しかし信徒たちが自主的にギリシャ語を使う人たちに語り始めたのはこのときがはじめてであった。その中にはキプロス人とクレネ人がいた。キプロスはバルナバの出身地である。またクレネ人のことは、主イエスが十字架につけられるとき、その十字架を負わされたのはクレネ人であったことが思い出される。

 この人たちは、宣教の歴史の中では表立って名前が出てくることはない。けれども、この人たちが日常の生活の中で自分たちの母語であるギリシャ語を使ってキリストのあかしをし、その流れの中で教会が生み出されていったことを知ることができる。

 この教会の発展により、世界宣教の拠点はエルサレム教会からアンティオキア教会に移される。それは異邦人伝道の道を大きくひらいた。その原点に福音の証しに忠実な信徒たちの働きがあったことを覚える必要がある。

2021年01月17日

 なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。  ヨハネ6:27

 

   人は何のために生きているのか。また、何のために働いているのか。それは根本的な問いであるが、多くの場合明確にされているわけではない。そのあいまいさは、人の生きる意味と方向性を見失わせている。

 主イエスは「なくなってしまう食べ物のためでなく」と言われた。食うために働いているのだと言い切る人もいるが、食べ物にそれほど関心を持たない人もいるだろう。その違いはあっても「なくなる」という括りの中では同じ範疇に入れられる。

 ここで主イエスは、人が生きるための方向として永遠のいのちを指し示しておられる。永遠のいのちとは神御自身のいのちであり、そこに至る食べ物とは神の言葉である。

 「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべての言葉で生きる」(申命記8:3, マタイ4:4)

  このことは生活のための労働を決して軽視しているのではない。人として生きるための働きはここでも尊重されている。けれども、それが自己目的化してしまうとき、人として最も重要である神との関係が絶たれるという警告が込められている。それが転換されるのは「何をしたら」と人々がいう業でなく、「信じること」と言われる主イエスの側にある働きに自らの存在を委ねることによってである。

 多くの人がこの言葉によって主イエスから離れていく。その中で、主イエスがこの働きに召されたのは、直接的には弟子たちであった。そして弟子たちは福音宣教の働きを通じてそれを成し遂げた。それでは私たちは、永遠のいのちの言葉にどのように関わるべきであろうか。そのための働きは何であるのか。その部分は各々が実際に御言葉に聞くしかない。そこに「永遠のいのちに至る食べ物」の神髄がある。私たちは聖霊の助けの中で、信仰を通じて生ける神の御言葉を聞く。そこに永遠のいのちの働きが生まれる。

2021年01月10日

   この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりであるかどうか、毎日聖書を調べた。    使徒17:11

 

    みことばは神の言葉である。それは人格的なものであり、思想とか法則のようなものとは違う。従って、それを、毎日、どのように聞くかということが極めて重要なことになる。

 パウロとシラスは、第二回目の伝道旅行の途上、ベレアという小さな町で伝道した。この町の人たちは、「毎日、聖書を調べた」とある。二人が、ベレアの東方80キロにあるテサロニケで話したときの聴衆とは対称的な反応である。テサロニケの会堂に集まったユダヤ人たちは「ある者たちは納得して、パウロとシラスに従った。」

 ところが聞く耳を持たず、怒りの感情に支配された人たちによって、彼らの働きは封じられてしまった。「ユダヤ人たちはねたみに駆られ、広場にいるならず者たちを集め、暴動を起こして町を混乱させた。そしてヤソンの家を襲い、二人を探して集まった会衆の前に引き出そうとした」(17:4,5)

 ベレアの人たちは、テサロニケのように妬みによってパウロに敵対するようなことはしない。その特徴は、御言葉に向き合う素直さと熱心である。偏見とか常識に縛られないで、み言葉を聞くということにあった。福音は新しい葡萄酒なので、新しい革袋に入れなければならない。(ルカ5:37)

 熱心さというのは、二人から聞いた御言葉が本当に旧約聖書に記されていることなのかかどうか、自分たちで調べることにおいての熱意である。それは二人の話をはじめから疑ったり否定したりすることではない。かえって御言葉による啓示をより深く知り、皆の信仰が御言葉によって支えられるために必要なことであった。

 主イエスは、「わたしはいのちのパンです」(ヨハネ6:50)と言われた。信仰の基礎として、自分で御言葉を読み、互いに学ぶことを徹底したい。

2021年01月03 

 

 ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。    ペテロの手紙第一2:1,2

 

   今年の教会の目標は、みことばによる成長である。昨年を振り返るとき、コロナウィルスの

影響により活動が制限され、その意味では試練と忍耐の年であった。

 そうした中でも、他の教会に倣って祈祷会と伝道会をオンラインを結ぶなどの試みがされた。それは共に御言葉を学ぶことの楽しさであり、新鮮な発見であった。

 ペテロがこの手紙を記したとき、各地に散っていたキリスト者には、「様々な試練の中で悲しまなければならない」(1:6)状況があった。迫害者による困難が迫っていた。そうした中で、ペテロは、悪魔的な世の力に対抗するために、キリスト者ひとりひとりの信仰が固く保たれるように指導する。困難な状況ではあるが「成長し、救いを得る」(2:2)チャンスであることを告げる。ここにおいての救いは、信仰の初歩である罪と死からの救いではなく、神の国の完成に向かう救いである。そのための備えとして、敵対者に力で対抗して勝利するのではない。神との関係を通りよくするために、まずは自らの内にある罪を捨てて、それから霊の乳を求めることが命じられている。「あなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて…霊の乳を求めなさい」(2:1)

 成長に導く神の言葉は、捨てることで整理された心の中に宿る。心の断捨離が行われてこそ、霊的な栄養が霊的成長を促すのである。それを「生まれたばかりの乳飲み子のように」求めよとある。

 一年の初めに、もう一度自分自身を振り返ってみたい。捨てるべきものがまだ残っていないだろうか。そこから霊の乳である御言葉を求めて歩もう。

2020年12月27日

私は主に申し上げよう。「私の避けどころ、私の砦、私が信頼する私の神と」 

             詩91:2

 

   危機の中で何を避けどころとしているか。そのことは、直接人生観に反映され、生きることのの意味と行動に決定的な影響を与える。

    一年を振り返るとき、主にあって守られていることの幸いを噛みしめる。コロナ禍によって不安に世界が埋め尽くされそうとしているときでも、「全能者の陰に宿る」(1)ことができるからである。

 詩91は詩90に続くもので、困難の中で主に対する強い信頼の言葉で主を賛美している。「あなたは私たちの住まいです」(90:1) 「いと高き方の隠れ場に住む者」(91:1)

  ここには共に神を住まいとする表現があり、「いにしえの神は、住まう神」(申命記33:27)の信仰が引き継がれている。

 「私は主に申し上げよう」(2)の主は、新改訳聖書2016だと太字で記され、3節の主と区別されている。2節と9節の主はヤハウェであり、3節以降それ以外の主は人称代名詞「彼」で書かれている。(新共同訳では神) どれも2節を受けてのことであり、イスラエルと神との契約の真実さにおいてである。

 「避けどころ」は隠れ家あるいは避難所であり、「砦」は軍事的な防御の拠点である。

それは人為的に固められた守りではなく、主との信頼関係の中に主によって築かれたものである。それ故、「私が信頼する私の神」と信仰が告白されている。2節の神はエロヒームであり、この詩の中ではここでだけ用いられている。「私の神」は他の神々とは明確に区別される。

 私たちは、たとえ困難があっても、まずは主の前で自分の信仰的な立場を明確にする者でありたい。「避けどころ」の確かさは、そこにある神との縦のつながりの中でこそ起きる。それは、先に備えられた祝福へと私たちを導く。

2020年12月20日

   博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のおられる所まで来て、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。

マタイ2:9

 

   星は人の手が及ばない神の領域として、たびたび聖書の中に語られている。闇に包まれたときでも、星は確かな方向を示している。その光と闇の違いは、罪の中にある人と聖なる神を分けるものでもある。

   マタイの福音書では、新しく生まれた王のため、殺意に燃えているヘロデ王の姿と、喜びに溢れている博士たちの姿が対称的に描かれている。この違いを生じさせているのは、神が共におられる(インマヌエル)ことである。

  博士たちは、神について確かな知識を持っていなかった。けれども、僅かな知識と星の光を手掛かりにキリストのもとに導かれる。反対にヘロデとその王宮にいた人たちは、律法によるキリスト誕生の知識を持ちながら、不安と恐れに包まれていた。

  博士たちは、ヘロデ王が新しい王の誕生を知らないとは思いもしなかった。そこにおいて博士たちの期待は裏切られてしまう。その博士たちを導いたのは、東の国でみた星であった。この星がどのようなものであったか、私たちは知ることができない。ただ、星は確かに神が導いていることを博士たちに示した。そこに神が共におられるあかしがあった。

  博士たちは、王宮の中では旅の方向性を見失い、見捨てられたような気持になったであろう。けれども、この星の光に励ましと希望を得てキリストのもとに辿り着く。

  私たちは闇の中に放り出されたように思うことがある。そうしたとき、星の光となるのが御言葉である。そこに神の御臨在を覚えていく。クリスマスはその喜びの確かさを教えてくれる。それは私たちにとっても、この上ない喜びである。

2020年12月13日

 

「ダビデの子ヨセフよ。恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。」  マタイ1:20

 

    クリスマスは光と共に闇の中に備えられた。闇は光に反してどこまでも深い。けれども暗い夜空に星が輝いているように、神の光は人の闇を照らし続けている。

 マリヤが身ごもっていることをヨセフが知ったとき、それまでの幸せな気分が一転して、闇の

中に突き落とされたであったろう。二人は婚約はしていたが、まだ一緒にならないでいたからである。ヨセフは、感情に任せて常識を越えるような人ではなかった。

 そのヨセフを「正しい人」(19)とマタイが語るのは、彼が信仰により律法を守る常識人であったからである。「ひそかに離縁しようと思った」のは、マリヤが世間から冷たい仕打ちを受けないためであった。けれども、その内心は、失望、落胆、不安、疑惑、怒りなどが渦巻いていたことだろう。

 主の使いは、突然、そのようなヨセフにあらわれて言った。

 「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリヤをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っているのは聖霊によるのです」

 御使いの幻は、マリアとの約束が神の前に守られていることを告げている。ヨセフはマリアの中に起きていることを、神の導きと御心によって捉えることが迫られた。この決断に、ヨセフ自身が失いかけていた神とイスラエルの契約が呼び覚まされる。ヨセフはダビデの家系ではあったが、現実にはヘロデがイスラエルの王となっていて、ダビデの血筋は無意味化しかかっていた。

 ヨセフが信仰によってマリアとの婚約を履行することは、もう一つの約束である神がダビデと

結ばれたイスラエルの契約の成就をみていくことになった。ヨセフに啓示された神の約束は、希

望となってヨセフの生涯を新しくしていく。

2020年12月6日​

   神はえこひいきをする方ではなく、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。 使徒10:34,35

 

  自分の努力や願いでは受け入れられないことが、依怙贔屓に起因しているとしたら、そこでの失意や落胆は深く、ある場合には怒りや敵意に転嫁していくであろう。もし、救い神の依怙贔屓によるなら、そこから漏れた人の失意は如何ばかりであろうか。

 「神はえこひいきする方ではなく」という訳されている言葉は、新約聖書の中でこの箇所にだけ出てくる言葉である。それは、直訳的には顔を受け入れる者で、不公平を意味する言葉である。聖書全体の中で、神がそのような偏った方であると記されている箇所はない。けれども、イスラエルに対する神の取り扱いは、そのような誤解として定着している面があった。 

 一方において、神に受け入れられることを、民族の特権と考える人たちがいる。アブラハムを

民族の始まりとするイスラエルで、彼らは神の契約によって、神に受け入れられていると考えてきた。

 しかし福音がここに明らかにするのは、主イエスへの信仰によって神に受け入れられる道であ

る。それは、神が救いの計画の中で、最初から定めておられたもので、「神はえこひいきする方でない」と言われるのも、すべての人に開かれている福音の故である。

    福音は「どこの国」(すべての国)の人であっても適用される。そこで求められるのは、「神を恐れ、正義を行う」ことである。神を恐れるというのは、真の神を神として受け入れることである。自分の罪を自覚し、悔い改めることの中でこのことが起きる。

 「正義を行う」ことは、信仰によって神の御心を行うことであり、自分の義を押し通すことではない。神によって新しくされた者は、積極的にこの義を求め、自らもその義を行う者とされる。

 こうした信仰者の歩みは、国々や民族や個人の能力によって違いや差別があるのではない。人が作り上げた差別があったとしても、福音はそうした壁を乗り越えていく。

2020年11月29日

   今、私たちはみな、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、神の御前に出ております。  使徒10:33

 

    神の言葉は、一方的に伝えられるものではない。どんなに大きな拡声器で、大群衆に語ったとしても、そこに備えがないならば、何の実も残らないであろう。

 伝える側に御霊に従う備えが必要であるように、聞く側にも御言葉に従順である姿勢が求め

られる。主イエスが「良い地」(マタイ13:8)について語られたのは、御言葉の聞き方にあった。

 ローマ軍の百人隊長であったコルネリウスは、「敬虔な人で、家族全員とともに神を恐れ、民に多くの施しをし、いつも神に祈りをささげていた。」(10:2)

 コルネリウスがヤッファに宿泊していたペテロを家に招いたのは、御使いによって語られた

ことを真実と受け止めたからである。そこには日常の祈りの生活で培われた真偽を見分ける判

断があった。彼は、ペテロを家に招くことがどんなに重要なことかを理解していた。それ故、

ペテロの到着を待って、友人や知人に呼びかけたので、家には「多くの人が集まっていた」(10:27)

 エルサレムでは、ペテロの語る言葉に耳を傾ける者と、そのことに反対し怒る者に分かれて

いた。けれどもカイザリアのコルネリオは、偏見も予断もなしに神の言葉を聞こうと備えてい

た。百人隊長であればこそ、上からの命令に耳を傾けるのは当然のこととしてきた。ましてや、今、神の言葉を聞くのであれば、全身全霊を傾けて一つも聞き逃すことができないとしている。

 「今、私たちはみな、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、神の御前に

出ております。」

 コルネリウスの日常の祈り、信仰への従順、神の言葉を聞く覚悟は、ペテロの語る福音を真っ直ぐに受け止める備えとなった。その祝福は、彼の家族、親しい友人たちへと広がっていった。ペテロはコルネリウスに招かれた一連の経緯により、異邦人を差別しない神の救いの全体像を理解していく。

2020年11月22日

  すると、もう一度、声が聞こえた。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」  使徒10:15

 

  福音は人生観や世界観を大きく変える力がある。そこに神の愛が根本に据えられるからである。けれども幼少の頃から身についた価値観や宗教観を転換することは容易でない。

 ペテロは、空腹の中で祈っていると夢見心地になり、食べ物に関する天からの啓示をみた。

「すると天が開け、大きな敷布のような入れ物が、四隅を吊るされて地上に降りてくるのが見え

た。その中には、あらゆる四つ足の動物、地を這うもの、空の鳥がいた。…そして『屠って食べよ」という声が聞こえた。』」(10:11~13)

 その中には、ペテロがいつも食べているものもあった。けれども汚れているとされるものがいっしょにある。律法によれば、それに触れても汚れたものとなる。

  「それらの肉を食べてはならない。また、それらに触れてもいけない。それらは、あなたがたには汚れたものである。」(レビ11:8)

 そのためペテロは、食べられるものだけ食べるというわけにはいかず、「主よ。そんなことはできません」(14)と言った。

 「そんなこと」は律法を念頭においており、もともと神の意志を汲んだはずのものである。ところがここでは、神の直接の言葉を離れて自己主張になっている。そこで神は、ペテロに、重ねてこれらのものは、すべて神がきよめた物であることを告げられた。

 「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」(15)

 食べ物の聖いものと汚れたものの壁はとり払われ、宗教的な意味での規制がないとされた。このことは、食べ物に関することに留まることではなく、ユダヤ人と異邦人社会にあった民族的な差別jの壁を打ち壊すことになっていく。

 神は祈りの中に、ペテロの意識を改革された。それは神の愛のうちに福音の広がりとなって実を結ぶ。祈りは自分の願いに留まるものではない。ときには、自己改革によって神の意志を達成することを覚えたい。

2020年11月15日

 ペテロは彼に言った。「アイネア、イエス・キリストがあなたを癒してくださいます。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。」      使徒9:34 

 

 福音は、人を支配していた罪の力から解放されたことを明らかにする。この罪は人の意識とか感覚の奥に潜んでいて、いのちの根源である神との関係を阻んでいる。

 主イエスの十字架は罪を取り除き、サタンによって棄損された人の本来の状態を回復させた。そのことは、個別の病が特定される罪の影響を受けているということではない。

 アイネアは中風のため8年間も床に臥したままであった。ペテロはこのキリスト者に出会うと、その場で主イエス・キリストによる癒しを宣言した。「アイネア、イエス・キリストがあなたを癒してくださいます。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。」

 主イエスが活躍された時代と初代教会においては、福音宣教の補助的な役割として癒しの業が多く用いられた。それは神の言葉の真実性として力強く人々に証しされた。アイネアの癒しは、主イエスによる中風の人の癒しと多くの点で共通している。(マルコ2:1~12) ただし「あなたの罪は赦されました」という言葉がないのは、アイネアが既に罪の赦しを得たキリスト者であったからであろう。

 この癒しでアイネアに求められたのは、立ち上がることと、自分で床を整理することであった。ペテロは、イエス・キリストによってアイネアに呼びかけた。これに意思をもって応答することは、呼び集められた群れである教会の礼拝と結びつく。ペテロは「立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい」と命じている。そこには、以前の生活との決別がある。

 ここには初代教会特有の癒しがあった。けれども主の恵みの業は決して絶たれてはいない。今日も主は、私たちをその名で呼ばれる。その言葉に応答するとき、主の御力と癒しの恵みを経験する。

2020年11月08日

   彼らはサウロを殺そうと、昼も夜も町の門を見張っていた。そこで、彼の弟子たちは夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁伝いにつり降ろした。       使徒9:24.25

 

  神が共におられることは、大きな慰めであり励ましである。それは危険や困難に遭遇することがあっても、身が守られることで証しされる。

  回心したサウルは、ダマスコでユダヤ人からいのちを狙われていた。追手らは、町中でそれを決行することができなかった。ローマ市民権を持つサウロは、ローマ法によって守られていたからである。けれども、一旦、町から出てしまえばそこは無法地帯であった。そこでユダヤ人たちは、「昼も夜も町の門を見張っていた」(24)

 この状況の中で、サウルはダマスコを脱出してエルサレムに戻ることにした。それを可能にしたのは、ダマスコでの宣教活動で実を結んだ彼の弟子たちの助けによる。

 「そこで、彼の弟子たちは夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて城壁伝いにつり降ろした」

 闇の中での救出であり、とても危険なことであった。そこには天使が介在したというような奇跡はない。あるのは、サウロをいのちがけで守ろうとする信仰による兄弟たちの愛である。

城壁の扉が閉じてしまえば、町への出入りはできない。けれどもどうしても町の中に荷物を入れなければならないとき、人々は隠れて城壁伝いに籠を降ろしてそれに入れていた。サウロはその籠に入って救出された。

 イスラエル人がエジプトで奴隷であったとき、赤子であったモーセは籠に入れられて川に流された。それはモーセを思う両親の最大限の愛であった。神はそうした道を通して彼を救われた。

 籠の中に入ったサウロは、細い綱でつり降ろされた。その後のサウロの働きは、この瞬間、この綱に全て託されていたということができよう。しかしその端は主の愛に燃える兄弟姉妹の手につながれている。神はこうしてサウロを危機から救出された。

2020年11月1日​

 神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。

          ペテロの手紙第一1:3

 

 希望をどこに置くかによって、人の生き方は大きく変わってくる。希望は行動の原動力であり、到達目標でもある。けれども、たとえ願ったことが実現したとしても、それが希望であり続ける保証はどこにもない。

 「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」

  豊臣秀吉の辞世の句には、権勢を誇り、栄華を極めた者の悲しい末路が滲み出ている。人は朽ちる存在であって、死に対しては全くの無力である。死は地上の希望を無残に断絶する。たとえ医療が革新的に進歩して、平均寿命が今の二倍になったとしても、そのことが死に対する勝利を生み出すことにはならないだろう。

 しかし神は、こうした人の現実の中に介入された。その理由は「ご自分の深いあわれみのゆえ」である。人は神の御姿を見ることができなし、その愛がどのようなものかわからない。ましてあわれみの深さなど自分から知るよしもない。けれども、神は「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたこと」により、私たちに対するご自身の愛が如何に深いものであるかを啓示しておられる。

 神の子であるキリストの死は、罪と死に支配されている私たちのための死でもあった。それは罪に対する神の裁きである。義である神は、御子の血を罪のための代償とされ、「死者の中からよみがえらせた」(3) この信仰により「私たちは新しく生まれさせられた」

 神は万物の創造者であるが故に、自然においては不可逆的な死を「新しく生まれさせる」ことができる。そこからキリストのいのちに結びついた新しい生き方に向かわせる。そのいのちは信仰によって今という日常の中にあらわれ、将来において約束されている希望を確かにする。たとえ大きな困難や死に直面したとしても消えることはない。