2022年07月03日

   わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。ヨハネ10:11

 

   羊は人類の歴史と共に飼われてきた。世界最古とされるラスコーの壁画においても、馬や牛に混じって山羊とか羊が描かれている。

 イスラエルの父祖であるアブラハムは牧羊を生業とし、その生活スタイルはイサク、ヤコブに引き継がれた。出エジプトの後に、イスラエルはカナンの地で農耕するようになるが、牧羊の文化はそのまま残っていく。

 とりわけ羊と羊飼いの関係は、神の前にイスラエルが置かれている状況を物語ってきた。エゼキエル書には、指導者たちが神から離れた民を放置してきた責任が、神を敵にしている牧者の姿として語られている。

 「牧者たちよ。主のことばを聞け。神である主はこう言う。わたしは牧者たちを敵とし、彼らの手からわたしの羊を取リ返し、彼らにわたしの羊を飼うのをやめさせる。」(エゼ34:10)

 主イエスが「わたしは良い牧者です」と言われるのは、このような偽教師や偽預言者とは別であることを認識させるためである。「良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」とある羊は、家畜として飼われている羊のことではなく、神の言葉に飢え渇いている民を指している。

    良い羊飼いである主イエスは、羊が生きるために御自分のいのちを捨てられる。それは十字架にかかられた主イエスの姿である。私たちはそこで自分の罪に気がつき、悔い改めをする。そして信仰をもって復活の主イエスを仰ぎ見とき、神の愛が豊かに注がれていることを知るようになる。「羊がいのちを得…それも豊かに得るためです。」(ヨハネ10:10)

2022年06月26日

   ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に家を建てた賢い人にたとえることができます。 マタイ7:24

 

   神の言葉を聞くことは、その人の内なるところに変化を来すものである。それが生活全域に及んでくる。もし何も起こらないとすれば、どこかに壁があるからと言える。

 主イエスはそうした人たちを「愚かな人」に譬えられた。せっかく備えられた神の恵みを、自らの意思によって拒んでいるからである。この「愚かな人」に対比して語られるのは「賢い人」である。この賢さというのは、神の言葉のうちに先のことを見通し、今に備えていることによる。今だけを見ていたら、そのような発想も意思も持つことはなかったであろう。

 岩の上に家を建てることは容易なことではない。ルカ6:47には「地面を深く掘り下げ」とある。パレスチナは乾燥地帯であり、東風が吹けばどこであれ砂漠からの砂に埋もれてしまう。掘って岩盤にたどり着くためには、相当な時間と労力を費やすことだったろう。

 神の言葉を聞いて行うには労苦が伴う。福音と世の価値観との違いより思索を深めたり、思い悩んだりすることもあろう。あるいは祈りによって神の言葉の真意を探ろうと努めることもある。

 そうした中で見出すのが神の言葉という岩盤である。賢い人の賢さとは、このように神の言葉を深い地点に掘り下げて受け止めることである。それは同じ砂に覆われても、手で払い去ることぐらいしかしない愚かな人の生き方とは全く違う。この違いが明らかにされる「そのとき」が来る。

2022年06月19日

   良い木が悪い実を結ぶことができず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。

                                                                マタイ7:18

 

 実がなる木というのは、花を観賞するのとは違った味わいがある。多くの人は、ぶどうの花というものを知らない。いちじくに至っては、文字通り無花果である。ぶどうは実がなってこそであるが、木がどういう木であるかが決定的なことである。葉が見事に茂っていても、ノブドウのように食べられない種類があるから。

 主イエスは、良い木と悪い木のたとえを語られた。偽預言者に騙されないないためであるが、実をもって良い木であるか悪い木であるかを見分けなさいと命じられた。偽預言者と偽教師は羊のなりをして信仰者に近づくからである。彼らは、その「内側は貪欲な狼」(15)と言われている。はじめから神のいのちから出たものではない。

    私たちは、木の内側を確かめることができないけれども、その実を見るならそれが良い木か悪い木かを見分けることができる。実は聖霊の実である。キリスト者は、神によって生まれた良い木である。それ故に、神はキリスト者のうちに良い実を結ばせられる。この実によって、悪い実と悪い木を見分けるのである。けれども木そのものは良くても、栽培方法が悪ければ実をつけることができない。

   「茨からぶどうが、あざみからいちじくがとれるでしょうか」(16)

 木に十分に土の養分が吸収されなければ、良い木が良い実を結ぶことは困難であろう。良い木として植えられた私たちが、茨やあざみに心を奪われるようであってはならない。せっかく神によって良い木として植えられたのである。聖霊により神との信頼関係に生き、良い実を結ばせる者でありたい。

2022年06月12日

  狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。   マタイ7:13

 

    人生において、決勝点をどこに求めるかでその人の歩みは大きく違ってくる。主イエスが示されたのは、一方が滅びでもう一方がいのちである。もし仮に、誰かにどちらかを選ぶように聞かれたなら、間違いなくいのちを選択するだろうと思ってしまう。けれども、実際には「滅びの道に入って行く者が多い」と主は言われた。

 どうしてそのような結果になってしまうのか。その理由は、人々が行先ではなく、門の大きさと道の広さだけを見ているからである。滅びの門の大きさと道の広さとは、神を無視した今の現実社会であり、その価値観ということであろう。そこでは他の人と同じ考え方をしていることが、その人の生き方の基盤となっている。しかしそれは、人が本来的に抱える人生の悲惨を、軽減するものでも取り去るものでもない。

 これと対称的なのは、主が歩むよう命じられた狭い門とそれに続く細い道である。この狭さは、多くの人が殺到して狭くなるのではなく、人々が注意を払おうとしないことの狭さである。その狭さは、各人の自己意識の中につくられていく。人間的な評価では、狭さは意味のないこととされてしまう。けれども神の言葉への応答ということではそうではない。この狭さの中で、人は魂が打ち砕かれる。主イエスがその狭さの中で、十字架につけられているからである。

 「虐げとさばきによって、彼はとり去られた」(イザ53:8)

  細い道は、神との関係を密接な関係を作っていき、やがていのちに至るものとなる。

 

2022年06月06日

   すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。  使徒2:2

 

    五旬節(ペンテコステ)は第50という意味で、出エジプトの過ぎ越しから数えて50日目である。律法では小麦の刈り入れを祝う「七週の祭」または「刈り入れの祭」として定められていた同時に、イスラエルの民がシナイで神から律法を授与された記念日とされてきた。この日、石に刻まれた律法は更新され、神の言葉が人の心の中に記された。(エレミヤ31:33)

 復活の主イエスは、弟子たちに「父の約束」(使徒1:4)である聖霊を待ち望むよう命じられた。そこで弟子たちは主の言葉を信じて、心を一つにして熱心に祈っていた。するとペンテコステの日、突然、天から大音響を伴う風が吹いてきて、信者の上に火のようなものがとどまった。

そこで人々は聖霊に満たされた。これが聖霊降臨の出来事であり、教会時代の幕けとなった。

 ペンテコステの出来事は、信者が聖霊によって律法を心に刻まれ、キリストの証人として宣教の働きに召し出されることを意味している。すべてのキリスト者は、御霊の導きと助けによってキリストの証人となり、積極的に主をあかしし、主の愛を実践する者とされた。

​ 旧約時代、この祭は大麦の収穫の終わりであると共に、小麦の刈り入れの始まりを告げていた。新約的な意味では、諸国の霊的な刈り入れということができるキリスト者は、御言葉を伝えることによって、主を深く知ることができるようになる。このようにして、恵みに恵みが加えられている。宣教のために祈ると共に、自分の身近なところで主をあかしする者でありたい。

2022年05月29日

   求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。 マタイ7:7

 

    日本人の遠慮がちな性格は、海外の人からすると理解されないばかりか、深刻なトラブルのもとにさえなることもあると言われる。それが元で、せっかくの人と人との繋がりさえも遠避けてしまうからである。主イエスは、キリスト者が神の前に遠慮したり躊躇したりせずに、より積極的に求めるように言われた。

 「求めなさい、探しなさい。たたきなさい」は神への祈りである。神に求めるのは、自分が置かれている状況から、解決のできない課題を自分の責任の中で考えるからである。問題や課題があっても、それを評論家風に客観視するだけでは、神に求めるという意思は生まれて来ない。

 けれどもいざ祈りを実践してみると、それが頭で考えた程に容易でないことに気がつく。直ぐに止めてしまったり、結果を見ずに諦めてしまうことが多いからである。私たちはそんな弱さを抱えているが、祈りにおいて見失ってならないのはそこに主イエスの約束が伴っていることである。

 「だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(8)

  祈りが聞かれる根拠は、それが「あなたがたの天の父」からの恵みによる。この神に祈るとき、自分と神の関係がそのまま表れる。祈りが単なる想念になっていたのでは、神から何かを得ることは期待できない。しかし主イエスが「あなたがたの父」と言われる方へのものであれば、良いものを与えてくださる恵みを確信することができる。

 それ故、祈ることは神の約束に立って、与えられた役割を果たすことと言えよう。主イエスによる、このチャレンジに応えていきたい。

2022年05月22日

   さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。    マタイ7:1

 

    仲間内の言葉によって交わりが崩壊してしまうことがある。主イエスが「さばいてはいけません」と言われたのは、互いを「兄弟姉妹」と認め合う関係においてであった。そこに生じた何かのトラブルが、さばきの言葉へと発展することがあった。さばきが神の国の交わりを阻害するものとなっていた。

 ここではさばくのは誰かが重要なポイントになる。兄弟とさばくのは「あなたがた」であるが、その「あなたがた」をさばくのは神であると主イエスは言われる。従って、人をさばいたりしたら反対に人からさばかれるという人生訓的なことが言われているのではない。

 「自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられる」

 秤自体が変化しているのではない。ただ、兄弟をさばくということで、自分に同じ秤を適用しないことが問題とされる。そのために兄弟の目のちりは見えても、自分の目の中にある梁に気が付かない。

 ここで求められたのは、まず「自分の目から梁を取り除きなさい」(5)である。それは自分の罪を自覚し、悔い改めに導かれることを意味する。「梁をとり除ける」のは、主イエスの十字架による罪の赦しだけがこれを可能とする。そうするとき、「ちりをとり除くことができます」(5)とあるように、福音による恵みの分かち合いの道が開かれる。

2022年05月15日

 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。   マタイ6:33

 

 ある社会における成員が、共通して保っている生活様式のことをライフスタイルという。それは自分自身を確立する方法として広く社会に受け入れられている。

 キリスト者にとってのライフスタイルは、第一に神の国とその義を求めることである。主祈りにおいても「御心の天で行われるように地でも行われますように」と祈る。

 けれども多くの場合、生活の諸要素における様々な悩みや心配が、神の国とその義を見えなくしいることがある。直面している課題が、その人の本来的な生き方を隅の方に押しやっているのである。そこでは神になり替わって現実が第一の座を占めている。。

 主イエスは、そのような人の弱さを受け止めながら、天の父が注いでおられる恵みの業に目を止めるように導かれた。

 「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ」(30)

 天の父なる神からの愛は少しも変っていないのに、人の側では問題によって神との関係までが大きく揺らいでしまう。それは人の持つ神への信仰が薄いからであると指摘された。神の愛が不変であることは、私たちが自然を観察することでも悟り得る。鳥も花も神の恵みによって、養われているからである。生活の中に派生する悩みに引き回されている限り、私たちは心配から解放されることはない。

 そんな私たちに、神は今も天の父として関わってくださる。天の父としての無限の愛が、私たちに一番必要なものを備えられるのである。それに加えて、私たちが求める祈りのためにもに具体的に答えられる。私たちが、神の国と義を求めるのは、この父の愛への応答である。

 

2022年05月08日

   自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。    マタイ6:20

 

    私たちは日常生活で何かしらを宝としている。特別に価値あるものでなくても、あるいは他の人には宝に見えなくとも、自分にとっては大切な宝であったりする。その宝とは、金銭的な価値が高い物に限ったことではない。芸術や経験や知識のようなものであっても、自分にとっては大切な宝となり得る。

  主イエスは、そうした宝そのものが悪いというのではなく、それを積んでいる場所が問題であることを指摘された。

 宝が積まれる所は天と地に分かれる。地上では「虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます」(19)とある。つまりせっかく蓄えた宝が、地上においては価値を失っていくのである。宝のために注がれた労力や人の評価はそれを保証するものではなく、時の経過と共に価値を減らしていく。

 これに対し天に積まれた宝は、「虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません」(20)とある。

  ここに言われる天は、信仰によって転換された世界である。そこに宝を預けることは、聖別して神のものとしていることになる。それが自分の宝として残るのであるから、地上と全く様相が違っている。そこでの宝は価値を変質させたり、減額させたりはしない。

 それでは、天の口座はどこに開設されているのか。どこに行けば宝を預けることができるのだろうか。それは私たちの日常を離れてあるのではない。「御心が地で行われますように」という信仰と祈りの中に開かれる。

 私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦します

                           マタイ6:12

  

  私たちの祈りは、しばしば個人的な問題に集中しがちである。目の前の困難が解決した

り乗り越えられることを、最大の祈りの答えとして期待する。それは悪いことではないが、祈りそのものがバランスを欠いていることはなかろうか。結果として自分の根本的な必要が何であるかを見失うことに繋がっているのである。

 主イエスは、私たちが祈るべき言葉として「私たちの負い目をお赦しください」と教えられた。「負い目」とは、神の前に抱えている罪のことである。罪が罪として自覚されなければ、払わなければならない負い目としての意味が伝わらない。この罪が聖められないところに神との交わりはないのだが、人の生まれながらの性質として、そうした部分に触れるはことは拒絶され、神の言葉は無視されてしまう。

 けれども、この罪に真正面に向かうのが主イエスの十字架である。私たちは主の十字架を仰ぎ見ることで神の前に負っている罪が如何に重いものであるかを自覚することができる。おそらくその罪は氷山の一角であろう。そんな私であっても、主の祈りでは「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました」と祈る者へと変えられていく。

 かつては赦せなかったことが、ここでは「赦します」になっている。赦すことが自分の罪の赦しに繋がっている。祈りが赦しを生んでいくとき、私たちは神の国の中にいる。

2022年4月24日

  ですから、あなたがたはこう祈りなさい。

    「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。」 マタイ6:9 

 

 祈りは神との会話である。祈りを通じて、私たちは神と交わりをすることができる。弟子たちは、主イエスが祈っている姿を見て、どのように祈ったらいいのかを聞いた。(ルカ11:1) その祈りが魅力であり、自分たちに欠けているものに映ったからであろう。そこで主イエスが弟子たちに教えられたのが主の祈りである。

 この祈りでの呼びかけは「天にいます私たちの父」である。主イエスは神の独り子であるが、ここでは全能の神が「私たちの父」とされている。父と子という関係では、信仰者は主イエスと同列に置かれていて兄弟姉妹である。父なる神が如何に愛と責任をもって人を導かれるかということであり、わたしたちはそこに全幅の信頼を寄せることができる。

「御名が聖なるものとされますように」は、以前の翻訳では「御名があがめられますように」となっていた。「聖なるものとされますように」となったのは、原語の聖別するという意味をより忠実に汲み取ったことによる。私たちは罪が支配している世界に住んでい日々の歩みには神の御心と大きくかけ離れ現実がある。しかし、福音に生きる私たちは、そこに聖なる神の支配が及ぶように祈り求めていく。罪の力に挫折したり、諦めたりするのでなく、信仰によってそこに神の業が働くことを信じていく。

2022年04月17日

イエスは言われた。恐れてはいけません。

 行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこで私に会えるのです。      マタイ28:10

 

    イースターは、神が私たちのために救いを達成してくださった歴史的な出来事である。主イエスの復活により、私たちは真の希望を持つことができるようになった。主イエスの死が神のいのちに飲み込まれた。それにより私たちは罪の支配から解放されたのである。

 四つの福音書は共通して、主イエスの復活に最大のスポットライトを当てている。けれども、この重要な出来事において、弟子たちは最初の目撃者から外れている。マタイの福音書によれば、復活の現場に一番近くいたのはマグダラのマリヤである。このマリヤは人々の蔑みの対象であったかも知れない。(ルカ8:1~2) この書の著者であるマタイがかつて取税人であったのと同じように、社会の片隅に追いやられていた人たちが、福音の重要なメッセージを最初に委ねられていく。

 マリヤは主イエスの十字架を目撃しているが、復活においてはその現場に立ってはいない。それでも墓の状態と御使いの言葉により復活を確信する者に導かれた。マリヤは恐れと不安を抱きながら、自分が経験したことを弟子たちに伝えるため弟子たちのいるところに走って行った。その途中、復活の主がマリヤの前に現れた。そこで、主イエスは言われた。「わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこで私に会えます」(10)

 主イエスは、御使いがマグダラのマリアに告げたメッセージを繰り返された。そこに復活の主に出会うところがあることが示されている。ガリラヤは彼らの生活の場であった。そこで聞いた主の言葉は、

主イエスの死と復活を通じて新しく主イエスとの出会いの場となった。以前の日常はここに新しくされた。主イエスを裏切って身を潜めている弟子たちが、ここでは「わたしの兄弟たち」と呼ばれている。罪の赦しによる新しい主との関係がつくられている。

2022年04月10日

    三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 マタイ27:46

 

    主イエスは十字架上で七つの言葉を言われた。マタイの福音書では、その中で一つだけを記している。「エリ、レマ、サバクタニ」の声は、主イエスの十字架の光景と共に、そこにいた者たちの脳裏に強く焼き付いたのであろう。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」 この言葉は詩22篇からの引用であり、絶望に瀕したダビデの魂からの叫びであった。それと共に、キリストが神に見捨てられることの預言の成就となる。人にとって神に見捨てられること程の絶望はない。

 「どうか、私から遠く離れないでください。苦しみが近くにあり、助ける者がいないのです。」(詩22:11)

 神に近くあるのが祝福の証であるのに対し、神が遠く離れてあるのは希望がないことであり死そのものである。そこでは人の一切の働きは無意味化されてしまう。けれども多くの人はその事実に向き合うことを拒絶している。死への恐れが実態を見えなくしている。

 キリストの苦難の描写は、他のダビデの詩にも語られる「嘲りが私の心を打ち砕き、私はひどく病んでいます。…彼らは私の食べ物の代わりに毒を与え、私が渇いたときに酢を飲ませました。」(詩69:20,21)

 ここでも「私が渇いたときに酢を」(詩69:21)は「酸いぶどう酒を…飲ませようとした」(マタイ27:48)を予表させる。そしてこのように詩篇に語られたことは、神によって再び回復の道が備えられることを証ししている。ダビデの場合は死の前で助けが与えられるが、主イエスにおいては死を過ぎてのことである。

「あなたは、私に答えてくださいました。私は、あなたの御名を兄弟たちに語り告げ、会衆の中

であなたを賛美します。」(詩22:21~)

  人の本来的な悲惨は、罪の報酬として死が定まっていることである。それは神の恵みから永遠に引き離されることである。キリストは、その罪を身代わりとなって負ってくださった。私たちの救いはこれをおいて他にない。

2020年04月03日

   あなたが祈るときには、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸をしめて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。       マタイ6:6

 

    祈りは神との対話である。そのことは、言葉を介して神と一対一の人格的な交わりをすることを意味する。もし祈る側に神に対する信頼が欠けているとするなら、神への祈りというパフォーマンスはできても、真実な意味での祈りをすることができない。

 主イエスは、「あなたが祈るときには、家の奥の自分の部屋に入りなさい。」と言われた。当時、人々の前で自分を飾るような祈りをすることが横行していたからである。長く祈ることや、言葉数を多くすることが人々に評価される実態があった。

   こうした祈りが人に見せるための祈りであったのに対し、主イエスが教えられたのは「隠れたところで見ておられるあなたの父」に対するものである。そこには祈る者に向き合っておられる生ける神の臨在がある。それ故祈りをするときには、外界に影響されたり邪魔されたりすることがないようにするのである。

  「家の奥の自分の部屋に入って戸をしめる」のは、隠れたところで見ておられる父なる神に祈るための心構えである。公的な祈りとか、皆で祈ることが意味をなさないということではない。ただ祈りが人々に向けたものになっているところでは、神との対話は成立しない。

    信仰によって神の前に立つ者にとって、人の目が遮断される所こそが神が臨在される場所である。この隠れた所でささげる祈りは神の前に隠されてはいない。祈る者の神への信頼だけが、隠れたところにおられる父なる神の愛を見出すことができる。そこで心の秘密が明らかにする。神は、そうした祈りに「あなたに報いてくださいます」と耳を傾けてくださる。

2022年03月27日

   人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。             マタイ6:1

 

    人は善に対する憧れをもっている。そして善行というものは、人の内側から出てくる純粋な善意から発するものと考えることが多い。だから多少の疑いはあっても、そのことを表立って批判をする人はあまりいない。むしろ良いことをしたことへの称賛の声の中に、陰の部分は隠されてしまうのではなかろうか。

    新約時代のユダヤ社会においては、律法による生活の縛りとは別に、このような善行を行うことが神への信仰を直に示すものとして民衆に求められていた。しかしここでの主イエスは、「人に見せるため

に善行をしないように」と言われた。見せるための善行というのは、それ自体がショー化していることである。人々は会堂や通りで善行がされるのを日常的に見ていた。彼らの善行は、人々に褒め称えられることで、自分が義なる者であることを確認するためであった。

     これに気を付けなければならないのは、それが神の義と似通ってはいるけれども全く別物であるからである。その違いは天の父による報いによって明らかにされる。ここにあるのは、自分の義を人々の評価によって得ようとする企みである。神の義に対する確信のなさを、人の業によって補完しようとする試みとも言える。

 しかし主イエスが示す福音は、私のような罪人を神が憐れんでくださったことに始まる。神の愛が私を新しく生かし、その結果として善行を生むのである。パリサイ人や律法学者たちがしたように、今日でも神の憐みを人間的な業に置き換えている人たちがいる。そこでは社会的な称賛が最も価値あることになるので、それを自己宣伝することもあろう。それ故、私たちも気を付けなければならない。福音の恵みも喜びも、天の父から与えられるものだからである

 

2022年03月20日

    しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。                                                                                                       マタイ5:43

 

    互いに兄弟と呼び合う親しい関係が、ある時を境に壊れてしまい、敵として憎み合うようになったら、それは修復できないことであろうか。

 主イエスは、「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」と言われていることを取り上げられた。この前半は、レビ記19:18に記された律法であるが、後半はそこから派生した慣習法である。「隣人を愛する」ということが、一方では敵への憎しみを増幅させる要因にもなっていた。

 敵となっている者との関係は、決して受け入れることのできない現実であった。理想とか信念でこの壁を打ち砕くことは難しく、人間的な手段で交わりを回復することはほとんど不可能である。

 しかし主イエスは、そのような怒りと憎しみが支配する地上に身を置かれ、神との和解によって新しい人を造り出された。ここにあるのは、神の愛に生かされたキリスト者の姿である。そこでは、自分の敵を憎むのではなく、「自分の敵を愛し」と呼びかけられる。その愛は「迫害する者のために祈る」ということで実践される。

 ここで重要であるのは、現状を変えるために何かをすることではなく、その人のために祈ることである。実際に、敵となっている人とか、迫害する者に対しては、怒りとか復讐心がこみあげてくるということは自然なことである。そんな状態で何ができるであろう。そのままでは自分をコントロールすることさえもできない。

 たとえそんな状態であっても、キリストの愛に基礎を置いた歩みは可能である。それが祈りである。祈りの中では、不平や不満が吐き出されることもある。そうした中で、神への信頼を勝ち取っていくときに、敵のために祈ることができるようになる。このことは、人を憎しみの連鎖から解放し、神のこどもにふさわしく整えられたものへと造り変えていく。

2022年03月13日

    しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の足台だからです。      マタイ5:34

 

    良い人間関係とか社会の公正さにおいて、言葉の真実さは不可欠である。現実には偽りが多いからこそ真実さが求められる。誓うことは言葉が確かであることの保証を求めることであり、聖書において度々用いられてきたことであった。誓いそのものを反聖書的とする教派があるが、それはこの個所での御言葉を極端に誤解して解釈したことによる。

   ここで主イエスが問題にされたのは、誓うという行為そのものが悪であるということではない。当時のパリサイ人や律法学者が、神以外の何かに誓うことで言葉への責任をとろうとしないことを指摘されたのである。彼らは誓いの対象を二つに分けて言い逃れの道を開いていた。例えば神に対して誓ったことは果たさなければならないけれど、神以外のものに対して誓ったものについてはその対象の序列によって責任も変わってくるというふうにである。

   イエスが指摘された誓いの対象とされていたのは、「天」(34)、「地」(35)、「エルサレム」(35)、「自分の頭」(36)であった。ユダヤ人たちは、これ以外にも様々な名称を用いて、日常的に誓うことをしていた。もったいぶって何かに誓い、言葉の真実さを印象づけていながら、一方において実際には誓いを果たしていない。その言い訳のための序列が考え出されていた。表面的には真実を装いながら、自分が偽り者とされることがないよう防波堤を築く。そこに言葉の真実さが失われてしまった。

それを回復する真実な言葉。主イエスは「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とすると。(37)

言われた。

   私たちは神の前での真実さが問われている。それを示すのも私自身の責任ある言葉である。

2022年03月06日

 「姦淫してはならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。 マタイ5:27

 

    罪とは神の律法に対する違反である。それはこの世における法律とは異なっている。世の法律では、心の中のことまで裁くことができない。誰かに殺意をもっていたとしても、それが犯罪として裁かれるのは殺人という行為に結びついたときに限られる。それ故に、殺意そのものが単独で裁かれることはないし、行為に及ばなければ無罪である。

 けれども、神の律法においてはそうではない。主イエスは、心の中で起きている罪は、それが外に現れた行為と同質のものであることを指摘された。

 「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです」

 実際問題として、心の中の罪が犯罪を防いでいるのは、法律などによって社会が罰しているからである。恐怖がブレーキとなっているのであって、決して罪の邪悪さが薄まったのでも消失したのでもない。

 ただし誤解のないように言うと、主イエスは心の中の罪を、律法によって裁くように言ってはおられるのではない。もしそうしたらなら、すべての人が重罪人として裁かれるに違いない。ここに、地上における罪意識と神の前における罪意識の違いがある。地上に限って罪を考えた場合、心の中の罪は野放し状態になりかねない。それはやがて自己矛盾を生み、あるいは爆発して犯罪に至らしめるかもしれない。

 神の前に自分の罪を自覚するとき、そこに働く神の憐みと赦しを見出す。それがキリストにある新しい人をつくっていく。

2022年02月27日

 ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うよう教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。       マタイ5:19

 

    神の国での価値判断は地上においてのものと異なる。主イエスは、「律法の一点一画も消え去ることはない」と言われた後、「戒めの最も小さいもの」について触れられた。もし戒めが人から出たものであるなら、小さい戒めは軽んじられるであろう。それを破ったことで問題になることはないかもしれない。けれども律法は神から授与されたものである。主イエスは、最も小さな戒めでも、それを破ったり、破るように人々に教える者に対して「天の御国で最も小さい者と呼ばれる」と語られた。

 小さな戒めとは、十戒のような根幹を成すような律法ではない。たとえば「脱穀をしている牛に口籠をかけてはならない」(申命25:4)という戒めがある。旧約の時代において、実用性を抜けば、そこにどのような神の御心があるかわからなかったであろう。けれども、この戒めは新約のパウロによって、霊的なもので蒔かれたものが物質的なもので刈り取るという文脈で解説されている。(Ⅰコリント9:9~10)

 同様に人が小さな戒めとしていることの中に、多くの神の御心が隠されている。それらは霊的な無知のため悟らないでいるだけである。それ故、律法を自ら破ったり、破るよう人に教えることは御心を軽んじることに繋がる。このように戒めを軽んじた者は、天の御国において「一番小さい者」として受け入れられている。ただし地上でとった態度の事実は消えていない。天の御国ではその誤りが明らかにされ、恥として知らされる。

2022年02月20日

    あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気ををなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。                                                                                                         マタイ5:13

  人は社会的な生き物であると言われる。個人が唯一的にあるのではなく、絶えず他者との関係の中で生きているからである。けれども義を求めて歩むキリストにとって、社会はそのまま受け入れられるものでもない。

 主イエスは前の個所で「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせる」(11)と言われた。そこで問われるのは、キリスト者と社会との関係であり役割である。この点を解くべく、主イエスは「あなたがたは地の塩です」と言われた。ここに神の視点による新しい自己の認識がはじまる。

 食生活に塩は無くてはならないものである。肉や野菜に味付けするのに塩がなかったら、おいしい料理を作ることはできない。また食材を保存をするにも塩を欠くことはできない。同じように、社会が健全さを保つのに、キリスト者の存在は欠かせない。

 けれども塩そのものは自己主張するものではない。他の食材に浸透することで役割が果たされる。仮に塩そのものが塊として残ったなら、人はその料理をまずいものと評価する。

 社会におけるキリスト者の役割も同じである。キリスト者がいることによって、社会の腐敗が防止される。もしキリスト者がいなかったなら、社会はもっと悪いものになって滅んでいたに違いない。

 キリスト者はそんな重要な役割を担いながらも、その存在自体を自己主張するのではない。社会の中に溶け込んで、自分の姿が見失われてしまうこともある。それでも義を求めて義に渇く生き方と、地の塩として歩むことには、少しの乖離も矛盾もない。

 今日、地の塩としてのキリスト者の役割が問い直されている。私がそこで果たすべき働きとは何であろうか。

 

2022年02月13日

 義に飢え渇いている者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。               マタイ5:6

      

    人は水と食料がなければ生き延びることはできない。どんなに強い人であろうと自分だけで生きていることはない。空気を含め、一刻一瞬、外からのものを取り入れている。創造のときから、人は「食べてよい」(創2:16)と神が備えられたものを必要としている。

   更に人には神のいのち(息)が吹き込まれている。(創3:7) それ故に人は神の属性である義に生きるものである。義に飢え渇くというのは、魂が神の恵みを失っていると感じることであり、信仰の戦いにおいて魂が危機的な状況に立たされていることを意味する。もしそこで神を仰ぎみることをやめてしまうなら、義に対する飢えも渇きも無感覚になってしまうだろうが、霊的には死んだことになる。

「彼らの目は脂肪でふくらみ、心の思い描くものがあふれ出る」(詩73:7)

 人間的に考えれば、神の義に飢え渇くことは辛いし、不信者のふるまいは妬みを起こしかねない。そこに不信仰に陥らせる誘惑があり、躓く一歩手前ということもあろう。

 けれども主イエスは、そのような状況に置かれている者の幸いを語られた。「満ち足りる」のは神は既に義に飢え渇いている者を、紙が祝福されているのだからである。それは人間的な感覚ではなく、神の一方的な業である。義において空っぽである人の中に神は働かれ、主イエスによって御自身の宮とされた。それは信仰者においては現在の出来事である。神の義が見えないようなところにも、福音によって神の国の御支配がある。主イエスの十字架はそのあかしであり、教会は聖餐によってそのことを確認してきた。それ故、神の義は手の届かない理想ではなく、苦しみや悩みを抱える今日という現実の中に働いている。

 パウロは、迫害による死の危険の連続でありながら、自身は主の恵みであったと総括する。それができたのは、パウロがいつも主イエスが天から注がれる祝福に生きていたからである。それは今も私たちの魂を生き返らせ、あふれ出る恵みとなっている。

2022年02月06日

    心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。 マタイ5:3

    幸いという言葉はわかりきっているようでありながら、人によって捉え方に大きな違いがある。それは抽象的な概念となっていて、多くの人は幸いの実像を具体的につかめていないのではなかろうか。
   主イエスが語られる幸いは、人が考える意味での幸いとは全く違っている。それは目には見えないけれども日常の中で個人の中に注がれる神の祝福のことである。「幸いなるかな」(文語訳)という訳が原語に近く、「何と幸いなことか」という感嘆の表現で語られている。
    ここで最初に幸いとされているのは、「心の貧しい者」である。富むことを神からの祝福と考えた当時の常識からすれば、主イエスが語られたことは逆説であり、人々に相当なインパクトを与えたであろう。今日でも多くの場合、心の貧しさは否定的な意味に用いられる。子供の情操教育においては、いかにして心豊かに育てるかが課題である。
   「心の貧しい」の心の原語は霊を指していて、心理よりも深いところに存在する人間の本質に迫る言葉である。また貧しいは直接的には物乞いを意味する。それ故、単に個人の精神状態を指しているのではない。貧しいは無いことであるが、無いことがそのまま祝福になるのではない。そこに主イエスを通して神の祝福が注がれるからこそ、貧しさは幸いにされるのである。ここに福音による価値の逆転が起きる。主イエス御自身が、それを成し遂げてくださるからである。心の貧しさという闇は、主イエスという光によって「天の御国はその人たちのものである」と変えられることが約束されている。そこに時間的な切れ目はない。天の御国とは、神が御支配する領域を意味している。このとき「心の貧しい者」は孤独に放置されるのではなく、祝福を受ける器として神の国の一員になっている。それは驚くべき神の祝福である。

2022年01月30日

   イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」

                マタイ5:19

 

    福音の広がりにおいて、主イエスの弟子であるペテロの果たした役割は大きい。そのペテロが主イエスの召しにあずかったことについて、共観福音書は一致してペテロがガリヤラ湖で漁をしていたときであったと語っている。

 主イエスが語られた「わたしについて来なさい」という言葉は、何となく唐突な印象が残るかも知れない。ヨハネの福音書によると、ペテロはその前にバプテスマのヨハネのところに行っている。(ヨハネ1:40) 

 主イエスが宣教を開始されたのはヨハネが捕らえられた後であり、ペテロとアンデレはユダヤからガリラヤに帰って漁をしていた。ペテロがヨハネに何かを期待していたのであれば、ヨハネの捕縛という出来事は彼らの心に少なからず失望を与えていたかも知れない。漁師という日常に戻ったとは言え、その生活に満たされていたということではなかったであろう。

 主イエスの視点はそうしたところに注がれる。ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ペテロとアンデレが「湖で網を打っているのをご覧になった」(18) 

 主イエスの召しは御自身の側から発している。ペテロの側に事情や背景があったとしても、主の召しに対しては従属的なものである。

 主は「あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」と言われた。主の言葉への彼らの反応は素早い。「彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。」(20) このように決断したのは、主イエスの言葉に何かを感じたからに他ならない。見落としてならないのは、主の言葉が先行し、彼らがそれに従ったことである。それは生涯を通して貫かれた信仰のかたちである。信じて歩んでみることが如何に大切なことであるかを知る。「人間をとる漁師になる」という主の約束は、彼らが多くの人に福音を伝え、救いに導いたことで実現した。

2022年01月23日

    闇の中に住んでいた民は、大きな光をみる。死の陰の地に住んでいた者たちの上に、光が

昇る。     マタイ4:16

 

   いのちは光によっている。光の届かないところでは、基本的に生きることができない。いのちと光の関係は生物に限ったことではない。

  人は、魂が闇に支配されたことにより神からのいのちを失っている。BC700年頃、イザヤは、イスラエルが偶像礼拝によって神から離れ、国内が暗黒と化していることを預言した。
 「地を見ると、見よ。苦難と暗闇、苦悩の闇、暗黒、追放された者」(イザ8:22)
 歴史をひもとけば、その後にイスラエル民族が辿った悲惨と苦悩を思い起こすことができる。神の選びの民であったはずが、その姿はかつての栄光を完全に失っている。
 そのようになった根本原因は、民が神との契約から離れたことによる。周囲に満ちた罪の誘惑に負け、神ならぬものを神として礼拝したのであった。ゼブルンとナフタリの地は、
死の陰の地に住んでいる民の土地となった。
 しかし主イエスによる福音は、この「死の陰の地に住んでいた民の上に光が昇る」出来事である。長く人々に蔑まれ、異邦人の土地とされてきた人たちが光を見る。主イエス御自身がこの地にそこに住み、「神の国は近くなった」と宣言されたからである。死の陰の地は、神の愛といのちを発信する所となった。
 神から離れることによる闇は、私たちの社会の中にも広がっている。多くは闇を自覚しないし、光を求めようともしない。
 そうした時代であるからこそ、真摯に神に向き合い、自分の魂の奥底に潜む闇を自覚しなければならない。悔い改めは、神と一対一で真摯に向き合うことから始まる。
そこでこそ自分の魂の奥底に潜む闇を自
覚することができる。私に語られる神の言葉に応答して従う。私たちが信仰により、主から発する大いなる光で満たされるために。

2022年01月16日

   イエスは答えられた。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」と書いてある。  マタイ4:4

 

    人には、神の言葉から引き離そうとする誘惑者の力が働いている。「試みる者」(3)(サタン

は、最初の人アダムとエバを神の言葉に逆らわせた。(創3:4.5)

    主イエスが公生涯に入ろうとされるときにも、サタンは、尤もらしい理由によって神の言葉に逆らわせようとして誘惑した。

 「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるよう、命じなさい」

    このとき主イエスは、40日40夜、断食をした後であり、空腹感は極限にまで高められていた。「あなたが神の子なら」というのは仮定のことではなく、神の子であるのだからの意味である。この場合、空腹という肉体的に必要とされていることに、御自身の力を発揮することは尤も短絡的な解決方法であるが、それが神の御心に叶うことであるかどうかである。もし主イエスがサタンの言葉のままに行動したなら、一時的な空腹感は満たされるであろう。けれども、結果として神の言葉に従うことの祝福を失ってしまう。それは人にとって最大の不幸となる。それにもかかわらず人は、しばしば人生の問題に場当たり的な対応をしてしまう。主が指摘したのは、そのように人間的な思考でしか得られない問題解決ではなく、神が御言葉によって啓示しておられる御心に踏みとどまることの重要さである。それこそが「神の口から出るひとつひとつの言葉」に生きることである。

 人は聖霊と神の言葉に導かれて生ける神と出会うことができる。信仰がないところでは、神の言葉は無意味化されてしまう。そうではなく、信じて神の業を見出す者でありたい。

2022年01月09日

 イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降ってこられるのをご覧になった。 マタイ3:16

 

    ヨハネによるバプテスマは、悔い改めの意味をもっていた。人々はユダヤ全土からヨハネがいる荒野にやってきたのも、悔い改めを告白して新しくされるためであった。集まってきた人々の中には、サドカイ人やパイリサイ人たちのように、自己保身や自己肯定を捨てない人たちもいたが、ヨハネはそのような人たちの罪を厳しく指摘している。

 「まむしの子孫たち、だれが、迫りくる怒りを逃れるようにと教えたのか」(7)

 そのような中で、主イエスはガリラヤから、百キロ程の距離にあるヨルダン川のヨハネのもとに来た。ヨハネは主イエスと向き合ったとき、自分こそがこの人からバプテスマを受けるべきと直感した。けれども主イエスは「今はそうさせてほしい」と言われた。この「今」はこの時代のことである。そこでヨハネは主イエエスに水のバプテスマを授けた。この行為に三位一体の神が応答したことが語られている。

 「すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降ってこられるのをご覧になった」

 御霊は鳩のようにとあるのは、主イエスが平和の主であることを語っているのであろう。このとき天が開けて、御父の声が聞こえた。「これは私の愛する子、わたしはこれを喜ぶ」この天からの声というのは、イザヤ42章1~4節の内容と同じである。マタイがこれを預言の成就と言わないのは、直接に御父の声であったからである。しかしそこには人のためにへりくだって寄り添ってくださる救い主の姿が描かれている。主イエスがヨハネからバプテスマを受けられたのは30歳を過ぎた頃からである。ここから3年間の公生涯に入る。それは御父が愛する御子さえも犠牲にして世を愛されることの証である。

2022年01月02日

    私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方

は私よりも力のある方です。私には、その方の履物を脱がせて差し上げる資格もありません。

                                                                                                 マタイ3:11 

 

  不条理や争いが横行するとき、人々の心は荒んで将来に対する夢や希望を見いだせなくなる。それは生きることを拒む荒野の光景と似通っている。

 バプテスマのヨハネという人は、「そのころ」(3:1)、ユダの荒野に登場してくる。らくだの毛の衣をまとい、腰に皮の帯を締めている風貌は、民衆がなびいていた世俗主義への反対の立場にいることを明らかにしていた。

 そのメッセージは「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから」(2)である。それは人々に預言者エリヤ(列王第一17)の再来を彷彿とさせ、罪の自覚と清めによる新しい時代を予感させた。そのため、ユダヤ全土から、そしてヨルダン川周辺からも人々が集まってきた。

 特質すべきは、律法について考え方が異なるパリサイ人とサドカイ人が、パプテスマを受けるために集まってきたことである。おそらく集団できたのであろう。けれども、その人たちの信仰は、真に神の前に悔い改めていたかどうかは疑問である。単に民衆を巻き込んだムーブメントに乗っていたと言える。

 バプテスマのヨハネは、そうした宗教的なあいまいさを保持している人たちを「まむしの子孫たち」と呼んで断罪した。(7) 厳しい言い方ではあるが、そのまま受け入れていたらヨハネの働きは、根本から損なわれていたであろう。

 そのヨハネが「私の後に来られる方」について「私には、その方の履物を脱がせて差し上げる資格もありません」という。

 ヨハネが言う「その方」こそが、ナザレのイエスなのだという意味である。それは徹底的なヘリ下りの中に証しされる神の子の姿を指し示している。ヨハネが荒野で叫んだように、神に会うため私たちは悔い改めが求められている。それは生まれながらの自己中心から、神に向かっての方向転換である。人間的な見方では何もないようであるが、そこから主なる神による新しい業がはじまる。

2021年12月26日

   そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して『彼はナザレ人と呼ばれる』と語られたことが成就するためであった。    マタイ2:23

 

 現実があまりにも理不尽で、どこにも希望を見出せないことがある。怒り、悲しみ、失望だけが支配しているようなこともあろう。しかし神は、その人が織りなす罪の現実の中に御自身の業をなされる。

  幼子イエスは、ヘロデ王によって命を狙われた。それに対し主の使いは、夢の中でヨセフにあらわれ、「立って幼子とその母を連れてエジプトに逃げなさい」(13)と告げる。ヨセフは直ちに行動を起こし、幼子と母マリアを連れてエジプトに逃げた。

 そうした中、残忍なヘロデ王は、王となる幼子を抹殺するため、ベツレヘム一帯の「二歳以下の男の子をみな殺させた」(16) ヘロデ王が死んだのはBC4年である。幼子を虐殺し、自分の王位を守ろうとしたのだが、ただ罪を増し加えただけで生涯を終えた。

 ヘロデが死ぬと、主の使いはヨセフに夢の中で語られた。「立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に行きなさい。」(20) ヨセフはエジプトから出たときには、イスラエルのどこに住むべきか決めていなかった。そうした中で、新しく得た情報と夢で見た警告によりナザレに住むことに決めた。

 ナザレは、ヨセフとマリアの故郷である。その地はガリラヤ地方であり、その異教性の文化により蔑みの対象とされてきた。町自体が小さく、旧約聖書にその名前が出てくることもない。この町で育った主イエスについて「彼はナザレ人と呼ばれる」とある。それはナザレ出身であることに対して蔑みを込めた言い方であった。それについてマタイは、預言者たちを通して言われたことの成就であると言っている。預言者たちがナザレについて何かを言っているのではなく、人々がナザレ人イエスと言って蔑むことが預言の成就という意味である。主イエスは、そうした人の底辺に自ら身を置くことによって、まことの救い主となられた。

2021年12月19日

 博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のおられる所まで来て、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。  マタイ2:9

 

 クリスマスは歴史上のことである。福音書は、この現実の中で当事者たちに相反する反応があったことを教えている。それが道を光と闇に分けていく。

 東方の博士たちは、星の光に導かれてエルサレムに辿り着いた。彼らは、神について律法による知識を持っていなかった。けれども、闇の中に輝く星に、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」(2)を確信し、礼拝するために来た。

 彼らは、ユダヤ人の王であるヘロデ王が新しい王の誕生を知らないとは思いもしなかったそこにおいて博士たちの期待は裏切られてしまう。博士たちを導いたのは、東の国でみた星であった。この星がどのようなものであったか、私たちは知ることができない。ただ、星は確かに神が導いていることを博士たちに示していた。そこに神が共におられるあかしがあった。

  これと対称的なのが、博士たちの話を聞いたヘロデ王たちである。この情報に動揺したということでは、祭司長や律法学者ばかりか民の反応も同じである。彼らにとってヘロデ王の支配する今の世だけが現実であり、神の約束は現実と乖離したものとして生活している。それは手に入れようとしたものと裏腹に不安を醸成するものでしかなかった。ヘロデが自らを王としたように、民もまた自分が人生の王であった。イスラエル全体を覆う霊的な闇は、そのところに起因している。

 神を求めることは、信仰における決断である。現実だけをみていては、そうした選択をすることができない。神の言葉への従順だけがそれを可能とする。

2021年12月12日

 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。  マタイ1:20

 

  親が我が子に名をつけるとき、将来への期待や願いが籠められる。そのことは親にとってどんなにとって大きな喜びであることか。

 けれども主イエスの父ヨセフにとって、我が子への命名は全く別の意味をもっていた。御使いによって「その名をイエスとつけなさい」と言われたからである。イエスとは主は救いという意味を持ち、その時代にあっては一般的な名前であった。ただ大事なことは、その主イエスが聖霊により罪からの救い主としてマリアに宿るというメッセージである。もしヨセフが御使いの言葉よりも自分の考えを優先させたなら、神からの啓示を拒絶したであろう。所詮は夢の中でのこととして、意識の中から振り払ったのではなかろうか。

  けれども実際のヨセフは、そのことを神からの語りかけとして受け止めた。それは既にマリヤから聞いていたことであり、自分がダビデの子孫として神の約束を待ち望んでいた信仰とも一致する。

 御使いが語る主イエスの務めは、「御自分の民を罪から救う」ことである。ご自分の民と

はユダヤ民族に限ったイスラエルのことではない。新しいイスラエルの民が「ご自分の民」であって、そこには異邦人を含むあらゆる民族が入っている。その民は罪から救われて、神の民とされるのである。

 当時のイスラエルの民は、ローマからの解放を願っていた。政治的に開放され、経済的に豊かになることが救いであると考える人が多くいた。今日においても、救いをそのようにイメージする人は多い。しかし聖書は、人の本当の救いは罪からの救いであることを明らかにしている。それが可能なのは、罪のために死んでよみがえられた主イエスの他にはおられない。

2021年12月5日

   それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。    使徒26:18

 

    光に対して完全に戸を閉ざした部屋にいれば、そこは果てしない闇の世界になってしまう。光である神を拒絶している人の状態も同じことで、霊的にはサタンの支配の中に置かれてしまう。

 主イエスを信じる前のパウロは、自分では神に対して熱心なパリサイ人であることを誇りとしていた。その信仰によって、キリスト者を迫害していたのであるが、自分の信仰が神の救いの計画に反していることには全く気がつかないでいた。それは根本的に人の悟りと考えに基づいていたからである。

 人が見ることができるのは、光と目を作られた創造者の業による。霊的に盲目になっていたパウロの目は、天からの啓示によって開かれた。「彼らの目を開いて」(18)と言われているのは、完全に神の業によっていた。

 この光により、パウロは自らが立っている闇を知った。そこで語られた復活の主イエスの言葉は、今までの人生観と信仰を根底から覆すものであった。律法による自らの義を虚しくするからである。これまで誇りとしていた自己義認の巨塔は、脆くも完全に崩れ落ちた。けれども、そこに神によって据えられた信仰の新しい歩みが始まる。旧約聖書の中に預言者たちが語っていた罪の赦しのための立ち返りである。そこにはパリサイ人による偽善が入り込む余地は全くない。サドカイ人たちよる、現世主義に影響されるものでもない。

 ここから罪の赦しによる聖なる民として、新しいイスラエルの形成に励むのである。共に神の国の相続にあずかるためである。パウロは恵みによって「わたしを信じる信仰」に目が開かれた。そこに注がれる愛が如何に深いことであるかを知る。

   

2021年11月28日

 私の理解するところでは、彼は死罪に当たることは何一つしていません。ただ、彼自身が皇帝に上訴したので、私は彼を送ることに決めました。 使徒25:25

 

    政治は妥協の産物であると言われることがある。勿論、いのちがけで政策を実行しようとしている真面目な政治家もいる。けれども、支配欲とか保身が動機となっていることもある。

 ローマ総督フェストゥスは、後者の部類に属する行政官であったろう。彼はユダヤ人たちからパウロを死罪にするよう求められていた。けれども直接パウロを調べた結果、死罪に当たることは何もしていないという結論を得るに至った。けれどもそれによってパウロを無罪にして釈放したなら、ユダヤ人たちの反感が総督に向かうことは明らかであった。そうした中で、フェストゥスはパウロに「おまえは、エルサレムに上り、これらの件について、私の前で裁判を受けることを望むか」(9)と尋ねたのであった。パウロにしてみれば、カイサリヤでの裁判を中止して、圧倒的に不利になるエルサレムで裁判を受ける道理はどこにもない。そこでパウロは、カイサリアでの裁判に見切りをつけて「カイザルに上訴します」(11)と言った。フェストゥスのパウロへの問は、こうしたパウロの答を引き出すための策略であったのかもしれない。

 フェストゥスは、このパウロの意見を受けて上訴のための手続きに入った。パウロをエルサレムではなくローマに送るのであるから、当然、そこにはユダヤ人たちの不満が募ることが予想される。けれども、パウロが上訴できるのは市民権を持っているからこそであって、もしそれに反抗するとなればローマに敵対することになると臭わせている。

 フェストゥスは、上訴の手続きさえしてしまえば総督としての責任から解放されると考えていた。ローマに書き送る文書にパウロの罪状が記されていない点は、アグリッパ王がパウロに面会することで埋め合わせようとしている。しかし、この一連の行為は、フェストウス自身を霊的な闇の中に閉じ込めることになった。その闇は如何に深いことであることか。

2021年11月21日

 ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関すること、また死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのです。

            使徒25:17

 

 どんなに評判のレストランの料理でも、実際に食べた者でなければ、その味を知ることはできない。どんなに有名な音楽家と会っても、その演奏を聞いてみなければ良さがわからない。それと同じく聖書に記された主イエスの福音は、信じなければ何もわからない。

 ローマ総督フェリクスは、アグリッパ王にパウロを取り調べた結果、ユダヤ人との間に問題となっているのが「彼ら自身の宗教に関すること」であることを語った。ローマ法に照らしてみれば、そこに何の罪になる要素も見出すことができなかったからである。

 その論理からすれば、総督として当然パウロの無罪を宣告することができた。けれども、そうするためには、あまりにユダヤ人と利害が結びついていた。総督にとってユダヤ人の反乱こそが一番恐れなければならないことであった。もし総督がパウロの無罪を告げたら、ユダヤ人がこぞって総督に反旗を翻すことは目に見えていた。ローマの正義を掲げていながら、実際にしていることは何と不正にまみれていることか。

 フェストゥスからすれば、それ以上におかしなことは、パウロが死んでしまったイエスを生きていると主張していることであった。もし福音に耳を傾けないでこの話を聞いたなら、フェストゥスの言うことに納得するであろう。死んだ人が生き返るなど、どこの世界でもあり得ないことだからである。

 けれども、福音に耳を傾けていくなら、それは単純に否定されるものではない。主イエスの死は罪の贖罪のためであり、予め聖書に記された神の契約であるからだ。人は主イエスと共に十字架に死に、主イエスと共に神のいのちに生かされる。そこに、自らの信仰が問われることになる。生きておられる主イエスを知るのは信仰であり、それ以外の方法では主イエスは過去の人にしかならない。信仰により、今週も生ける主を深く知る歩みをしたい。

2021年11月14日

 

  もし私が悪いことをし、死に値する何かをしていたなら、私は死を免れようとは思いません。しかし、この人たちが訴えていることに何の根拠もないとすれば、だれも私を彼らに引き渡すことはできません。

使徒125:11

 

  ユダヤ人たちがカイサリアでパウロのことで総督に訴えた内容には、罪状の根拠となる証拠を欠いていた。パウロは、そのひとつひとつに論理的に反証した。律法を軽視し破っているというユダヤ人たちの主張に対し、パウロは今も律法を守っていることを証しすることができた。神殿を汚しているということも言われたが、それは証言した者の全くの誤解であることを明らかにした。これらのことはユダヤ教に関することであり、もとよりローマ法においては罪とされることではなかった。

 もし、ローマ法に触れるとするなら、パウロが人々を扇動してカイザルに反抗するような運動をしたという主張である。けれども、ユダヤ人たちは、このことで誰かを証人に立てて、パウロを糾弾することはできなかった。

 「もし私が悪いことをし、死に値する何かをしていたなら、私は死を免れようとは思いません。」

 これはパウロの身の潔白を主張する言葉である。それと同時に、煮え切らない態度で裁判を司っている総督フェストゥスの心への挑戦でもあったろう。彼は、真実の探求よりもユダヤ人たちの機嫌をとることに気を回していたからである。

 パウロは「この人たちが訴えていることに何の根拠もないとすれば、だれも私を彼らに引き渡すことはできません」という。たとえローマ総督であろうと、そのような不正はできないのだと言外にいっている。パウロが立っているのは、総督の権威を越えて働く神の言葉の上である。この神への信頼が動くことはない。

2021年11月7日

    眠っている人々については、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人たちのように悲しまないためです。 Ⅰテサロニケ4:13

 

 11月の第一聖日をに教会で召天者の記念礼拝をしている教会は多い。この日に行うのは、カトリック教会が昔から聖徒の日としていることによる。ただし私たちの教会はプロテスタントであるから、カトリックのように聖人や殉教者を記念するのではなく、主にあって召された人たちを記念するだけである。

 パウロは、信仰をもって天に召された人たちを「眠っている人たち」と表現した。それはテサロニケの教会の中には、信仰を持って天に召された人たちのことを受け止めきれないでいる人たちが背景がある。ある人たちは、主イエスによる再臨を真近に考え、召された人たちが主の日に間に合わないことで信仰の混乱を起こしていた。

 「眠っている人たち」は主イエスの再臨の前に天に召されているが、主イエスの現れのときに「目覚めのとき」がくる。教会の中には愛する者を喪い、悲しみでいっぱいの人がいたのかも知れない。その人たちは、主の約束から離れて置き忘れられたのではない。悲しみは必ず慰められるときがくる。なぜなら、やがて主イエスは、「イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られる」(14)からである。

 そうであれば、悲しみはあっても希望を持たない「他の人たちのような悲しみ」(13)にはならないという。

 それは悲しみを否定することではない。悲しみそのものを受け入れながら、それが主イエス希望の復活に支えられ、確かな希望に結びつくものであることを証ししている。

 教会が召天者を記念するのも、そうした慰めを共有するところに意味がある。教会は復活の主イエスに各自が結びついたキリストの体である。そこに主は共にいてくださる。

2021年10月31日

  イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」 ヨハネ14:6

 

    希望をもって前に進んでいたときに、突然、足場が崩れたらどうだろう。不安が押し寄せて方向性を見失しなってしまうに違いない。

 主イエスの弟子たちは、主イエスの言葉に新しい時代を夢見て従ってきた。そのため仕事をやめ、主イエスが語る神の国に人生を託してきた。そうしてガリラヤからエルサレムに上ってきたときには、いよいよ理想が実現されるものと胸を膨らませていた。

 ところがエルサレムでの主イエスの行動は、弟子たちが期待したものとかけ離れたものであった。主イエスが弟子たちに御自身を示したのは王の輝きではなく、徹底的に人のしもべとして仕える姿であった。更に、いけにえとしてご自身をささげることまで言われた。弟子たちには到底理解できないことであり、「主よ、どこへ行かれるのですか」(14:5)という疑問が沸いてきた。

 この混乱している弟子たちに、主イエスは、御自身が向かって行く所を示された。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(6)

 行くべきところが父のみもとと言われている。父は主イエスを天から遣わされた方であり、全能者として今も愛をもって導いてくださる方である。そこにいることが神の国に生きることである。そのためには主イエスを通さなければならない。なぜなら人と父との関係は、罪のために失われているからである。それを自分の力や知恵で解決することはできない。主イエスを通すことは、主イエスへの信仰によって父との交わりが回復されることである。ここに限りない神の愛が示されている。

2021年10月24日

 パウロが正義と節制と来るべきさばきについて論じたので、フェリクスは恐ろしくなり、「今は帰ってよい。折を見て、また呼ぶことにする」と言った。 使徒24:24

 

    聖書の言葉を口当たりのいい部分でしか受けとめないということがある。愛とか希望とか困難の克服といったようなことである。しかし神の救いは、そうしたことだけで理解できるものではない。神の前での人の罪が何であるかわからないで、神の独り子が世に送られ、十字架に付けられたことの意味を理解することはできない。

 フェリクスという地方総督は、パウロについての裁判を主宰する立場であったが、個人的にパウロの話を聞きたいと願った。その面会のとき「妻ドルシアと共にやってきた」(24) そこでの話は「キリスト・イエスに対する信仰」であった。歴史書によれば妻のドルシアは、フェリクスが他の男から奪い取ったのであるが、その妻も主イエスに対する信仰を求めていた。パウロは、そうした事情を知りながら、神の言葉を伝えたのであろう。

 そこで語られたのは、「正義と来るべきさばき」であった。福音は、その裁きの前に罪の悔い改めを迫るのであるが、そのためには自分の罪を神の前に告白しなければ」ならない。フェリクスは神への信仰を求めながら、パウロが語る神の正義と節制ということに、恐れを抱いて信仰から退いてしまう。神の前での罪を認めず、信仰の決断を先延ばしたのであった。自分の金銭欲からパウロを呼び出しはいたが、そこから再び神に向かうことはなかった。

 信仰に関するフェリクスのあいまいな態度は、今日、聖書に興味をもっている人たちの中にみられる傾向でもある。自分に都合のいい部分にだけ耳を開き、そうでない部分になると固く心を閉ざすのである。そして信仰の決断を先延ばしする。けれども、福音は、今日という日に神に立ち返るべきことを伝えている。それを先延ばししてはいけない。

2021年10月17日

 私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。 使徒24:16

 

    人の善悪を判断する拠り所として良心がある。神は創造において、人が罪を犯したときに良心が痛むようにされた。(創2:9) 聖書がいう良心(シュネイデーシス)は、神と共にある意識である。神から離れた状態にあっても良心は働くのであるが、それは最初の人が犯した罪により本来的な意味において棄損されている。現実に神から離れた状態であっても、罪を犯せば罪の意識が生じる。けれどもそれは極めて限定的であり、罪の大小を問わず全く無感覚である場合もある。

 パウロが弁明の中でいう良心とは、信仰によって神の前に回復された良心である。以前にはキリスト者を迫害することに全く罪の意識を持たなかった。しかし主イエス・キリストを知ることによって、そうした行為が神を敵とする大変な罪であることを知った。その罪人パウロを導いておられる神の愛に、パウロの回心が起こった。それが悔い改めであり、パウロはそこで罪の赦しを経験した。

 こうしてパウロは、神の前に責められることのない良心に生きる者とされた。それは神の愛を中心とした行動規範である。神の前に忠実な信仰者であっても、人の前に責任をとらない生き方であっては、神の愛を証しすることはできない。逆にボランティアなどの社会活動に熱心であっても、神への信仰において冷淡であるなら、やがて神との関係も希薄になるであろう。そうようなことにならないため「神の前にも人の前にも…良心を保つ」(16) 良心があれば罪を犯さないという(ことではない。キリスト者であっても失敗したり、罪を犯す可能性を秘めている。

 キリスト者は、失敗や反省すべきことでは、人から責められたりするかも知れない。良心が痛んで落ち込むことだってある。それでも痛んだ良心は回復の道を知っている。キリストの内にいるなら悔い改めにより新しく生まれる。良心を保つことは、神が近くおられることである。それは何と神の愛に溢れていることか。

2021年10月10日

  それから千人隊長は二人の百人隊長を呼び「今夜9時、カイサリアに向けて出発できるように、歩兵2百人、騎兵70人、槍兵2百人を用意せよ」と命じた。 使徒23:23

 

    公人としての重要度は、その警護に携わる人の数とか規模によって推し量ることができることがある。パウロは、千人隊長によって裁判なしに鞭打ちとされたのだったが、2日後には歩兵2百人、騎兵70人、槍兵200人によって警護されるようになる。

   その扱いが大きく変わったのは、パウロがローマ市民であることを告げたことと、ユダヤ人によるパウロ殺害の陰謀があったことによる。

 ユダヤ人たちは、翌日の朝に最高議会からの再審問の召喚状を手渡す手続きをしていた。ローマの千人隊長と言えども、最高議会からの通達を拒絶できない。そこでユダヤ人たちは、パウロが兵営から連れ出され、最高議会に向かう途中で襲撃する計画であった。

 これを阻止するためには、朝になってパウロの召喚状が届く前に、エルサレムを脱出し

なければならなかった。これ程の警護をつけたのは、どこかで40人以上と言われる殺人集団に知られ、夜陰に紛れて急襲されでもしたら大混乱になってしまうからである。そうなったら千人隊長としての統治能力が疑われ、失脚されてしまうに違いない。幸い、ユダヤ人たちはパウロが夜の内にエルサレムを出たことに気が付かなかった。これを知ったのは翌朝である。

    こうした経緯をみるときに、千人隊長は置かれた立場での思惑があって行動している。そこに神への信仰を挟む要素は何もない。けれども神は、そうした千人隊長の決断と行動を用いてパウロに押し迫っていた危険から回避させた。著者であるルカの信仰者としての視点がそこ

にある。

2021年10月03日

   その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われた。使徒23:11

 

    いのちをかけて人々に証ししたことが、理解されないまま更なる混乱を生む。こうした

現実に気落ちしない人がいるだろうか。

 パウロは、ユダヤの最高議会で祭司長に非難されていたとき、「私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです」(6)と叫んだ。大祭司をはじめとするサドカイ人は、復活を信じていなかったので、この言葉は死者の復活を信じるパリサイ人を見方につけるものであり、同時に確かな論拠もなくパウロを断罪する大祭司による裁きの不当性を告発するものであった。

 パウロは回心する前までパリサイ人であったが、キリスト者となってからはパリサイ人の生き方を捨てている。そこで否定されるべきことはパリサイ派の偽善であって、信仰による希望が死者の復活にあることは共通している。

 パウロが最高議会の議員たちに届けたい福音のメッセージは、主イエス・キリストによってもたらされる希望である。けれども、議員たちがこれを聞いたとき「パリサイ人とサドカイ人の間に論争が起こり、最高議会は真二つに割れた。(7) その混乱の中、パウロはローマの千人隊長によってユダヤ人たちから強制的に引き離される。

    この箇所には、最高議院の騒動と混乱だけが見え、福音の回心者が与えられた様子はない。けれども、主イエスは、そのようなパウロのそばに立たれ、福音を語り続けるよう励まされた。「エルサレムで私を証ししたように」と言われるように、主はパウロの証しを受け止められた。そして「ローマでも証ししなければならない」とローマへの道を開いておられる。

2021年09年26日

 そこで、パウロはアナニアに向かって言った。『白く塗った壁よ。神があなたを打たれる。あなたは律法に従って私をさばく座に着いていながら、律法に背いて私を打てと命じるのか』 

                                  使徒23:3

 

    現代人の多くは、死後の世界に関心を持たない。唯物的な考え方が圧倒し、人は死と共に存在は無くなると考えているからである。現生を楽しみ享受することが全てである。

 2千前のイスラエルでは、サドカイ人と呼ばれる人たちが、これと近い考え方をしていた。王、祭司、貴族と言った特権階級の人たちが属していたもので、「復活も御使いもない」(8)と信じていた。彼らは、聖書の中でモーセ五書だけを信じてはいたが、現世を楽しむことにだけ関心を寄せていた。

 宗教的には大祭司が一番の権威者であったので、パウロがユダヤ人に訴えられたとき、律法によって公正な裁きをしなければならなかった。けれども、最高議会でその審議がされる前に、そばに立っていた者にパウロの口を打つように命じた。(2)

 律法によれば、有罪が決まるまでは犯罪人扱いしてはならないと定められていたが、律法の番人である大祭司が自らの内に湧き上がる怒りを抑えられず律法を無視したのである。

 パウロは、この大祭司の行為に対して「白く塗った壁」と言った。主イエスは、これと同じ表現を偽善の律法学者、パリサイ人に対して用いている。(マタイ23:25)

 白く塗った壁は、イスラエルの墓をたとえたもので表面的には美しく飾られながら、「内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱい」(マタイ23:27)な様子を描写している。

 現世においては、その矛盾をごまかせても、神のさばきのときには、そうしたことが明らかにされる。それが「神が打たれる」ということである。キリスト者は、表面を取り繕った生き方をするのではない。「神の前での健全な良心」(23:1)が基礎である。それはどのような人のさばきにも耐えて神のいのちをあかしする。

2021年09年19日 

 すると主は私に、「行きなさい。わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす」と言われました。 使徒の働き22:21

 

    日本同盟基督教団の歴史は、1891年11月にアメリカにあったスカンジナビアン・アライアンス・ミッションから宣教師が日本に遣わされたことに始まる。今年は、その15名が横浜に上陸したときから130周年となり、今週リモートで記念大会が行われる。

 キリスト教の宣教は、主によって働き人が遣わされるところから始まる。パウロは、異邦人のための働き人として主に選ばれた器であった。けれども、当初、パウロ自身の思いとしては、同胞であるユダヤ人に福音を証しする思いの方が強かった。律法について学びを重ねていたことや、キリスト者を迫害してきたことは、ユダヤ人に福音を説き、説得するために有効であると考えていたからである。(使徒22:19~20)

 そのため夢の中で主から「急いでエルサレムを離れなさい」と言われても、直ちに従うことができないでいた。パウロ自身の中には、ユダヤ人に福音を語ることで、いのちを奪われてもいいぐらいの熱い情熱を注いでいた。「証しを人々が受け入れない」(18)ことは、エルサレムを離れる理由にならないと思っていたのかも知れない。

 けれども、主はパウロに「行きなさい。わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす」(21)と言われた。異邦人に福音を証しすることは、パウロの頭になかったことであり、異邦人を相手に聖書を語ることでは、聖書の知識とかキリスト者を迫害して回心した経験といったことは、役に立つことではないように思われたであろう。けれども主は「行きなさい。わたしがあなたを遠く異邦人に遣わす」と言われた。パウロは、その言葉を信じて行動したことを強調している。

 130年前、横浜港に到着した宣教師たちは、日本語もわからず、日本についての知識もほとんどなかったという。それでも主によって遣わされることに、新しい宣教の業が展開することを信じて行動した。無鉄砲と言われたこともあったが、そこから教団の基礎が据えられたことの意義は大きい。