聖書の小窓

 

 

 

2019年12月8日

   あなたがたがは、今がどのような時であるか知っています。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。 ローマ13:11

 

   異常気象の影響で、季節外れに昆虫が這い出てきたり、初冬に桜が咲いたりということ起きている。自然の営みでは、時は常にいのちと連動している。そのため時が狂うと育つものも育たなく、命そのものさえ失ってしまう。

 「植えるのに時があり、植えたものを抜くのに時がある。」(伝道者3:2)

 パウロは、時を知ることで神の前に置かれているキリスト者の状況を客観的に顧みるよう促している。「今がどのような時であるか知っています」

     ここに用いられている「時」は、カイロスという言葉で、人間生活における特定の期間を表す言葉である。特にここでは終末論と結びつき、キリストによる救いの時から再臨による神の国の完成のときまでとなっている。

 その期間は、時間の経過と共に刻々と狭まっている。「私たちの信じたときよりも、今は救いがもっと近づいているのですから」(11) そうした緊張感の故に「眠りから覚めるべき時刻がもう来ています」と奨められる。

 信仰によって時を正しく理解すれば、「闇の業」(12)などをして時を空費している場合でないことに気がつく。「遊興、泥酔、淫乱、好色、争い、ねたみの生活」は、ことごとく闇すなわちサタンに組みする働きである。日の出を前に、闇を照らす灯を探して何になろう。

 キリスト者は皆、闇の中から昼の生活に導き入れられている。それ故、「闇の業を脱ぎ捨て」る決意がいる。そこから直ちにキリストという「光の武具」(12)を身につける行動に移る。そこでの瞬時の判断が求められている。

 どっちつかずであったら、敵の攻撃に打ち負かされてしまう。間を置かずにキリストを着るのである。

2019年12月1日

 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。 ローマ13:1

 

      12章の悪に負けないで善を行うことで、13章では上に立つ権威に従うということが語られる。上に立つ権威とは、社会の中で突き出ている権威のことで、具体的にはローマの諸侯、総督、官吏などを指していた。

 この手紙はAD56年頃に執筆されているので、皇帝ネロの時代である。前皇帝クラウディス

のときには、ローマからのユダヤ人の追放令が発せられているので、キリスト者の中にはその理不尽な取り扱いに反発する思いがあったであろう。あるいは神の国の福音を、ローマの支配からの脱却と同一視して考える者もいた。

 そのような人たちからすれば、上に立つ権威は対立している敵であり、打ち破らなければならない勢力であった。けれどもパウロは、そうした権威は神によって立てられているとする。

 更には「権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです」(2)と急進的に反抗する者を諫めている。ここに社会の秩序を維持するための権威が、神によって定められていると言われている。人の感覚では、それは人の手によって作られたもので、多くの欠陥を残している印象がある。けれども、神はそうしたものを用いているということを考えなくてはならない。ここに戦うことによってではなく、従うことによる愛の実践がある。

 「人に従うより、神に従うべきです」(5:29)

  今日、社会の中にある権威を軽んじて、その背後にある御心を見失ってはならない。

2019年11月24日

 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。 ローマ12:15

 

   人は喜怒哀楽を、からだをもって表現する。舞踊とか歌、あるいは各種の芸術もそうした欲求を満たすために発展した。聖書の中にも、喜ぶときに踊ったり、悲しいときに衣を引き裂いて嘆く人の姿をみることができる。

    もしこの箇所が、「喜ぶときに喜び、悲しむときに悲しめ」であるなら、人の自然なあり方

としてそのまま受け入れられるであろう。けれどもパウロがここで言うのは、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」ということである。

    その前提となっているのは、教会の交わりにおける兄弟姉妹の関係が既にあることである。ただしそれは無制限に広げられてはいない。ここでの主体は自分にではなく、兄弟である人の心に置かれている。自分の感情は、その兄弟が抱く感情に対して従の関係になっている。スポーツの試合などで、応援している仲間同士が勝利を喜ぶというようなことはある。けれども

日常的には自分の感情が相手が抱いている感情と一致しないことがある。相手の感情に対し自分は無感動ということさえある。そうした中で、兄弟として一対一で向き合い共感する。

「共に」が命令形で語られているが、生まれながらの人の感情からは決して出て来ない。これが為されるのは、キリストの愛によって神の家族が形成されるからである。

 常識的には、人の感情は自分の意思に従属する。喜べと言われて喜べるわけでないし、悲しめと言われて泣くのでもない。もし表面的に感情を繕うようなあったとしても、それは自分を守るだけのことである。「共に」を実践するためには、意思をもって相手の感情の中に入っていく。それは人格的な受容によってだけなされるものである。

 キリストの愛に満たされることだけが、これを可能とする。共にあるとき、自分と相手はそこにキリストがおられることを知る

2019年11年17日​

    愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。 

                                           ローマ12:9

 

 神の愛は、教会の礼拝を通してあかしされる。教会ではそれを受けて、兄弟姉妹の交わりの中で愛が実践されなければならない。

 パウロは神の愛(アガペー)を強調した後で、この愛に「偽りがあってはなりません」と言っている。ここでの言葉はギリシャ劇の役者ということから偽善を意味するようになった。役者は仮面をかぶって、別の人格を演じたからである。

 教会においての兄弟姉妹の交わりが、あたかも劇を演じるように表面的なものであったら偽りと言われて仕方がないだろう。

 もしこうした状況があるなら、それを放置するのではなく、原因を求めて直ちに修復しなければならない。

「悪を憎み、善に親しみなさい」 何が善で悪であるかは、自分よがりに判断するのではなく、礼拝を通して「自分を変えていただく」(12:2 2017訳)ことによる。

 「善に親しむ」ということは、直訳では善にくっつくということである。ぴったりと善に貼りついて隙間がないことである。

 この善(アガソス)は神からのものであって、人間的な倫理観によるものではない。主イエスは、富める青年に「尊い方(アガソス)は、神おひとりのほかには、だれもありません」と言われた。(マルコ10:18)

 したがって善に親しむことは、主イエスとしっかり繋がって神の愛に生かされ続けることを抜きに実践することはできない。

 神の愛は、ロマンチックな雰囲気によるのではなく、信仰による業によって共有される。

「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」(11)

 御言葉に従うことにより、聖霊によって内側から神の愛が燃える経験が求められている。教会が「艱難」(12)に置かれることもある。それに耐え「祈りに励む」(12)のも神からの愛である。常にこの愛に生きる教会でありたい。

2019年11月10日

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげものとして献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。   ローマ12:1

 

 私たちの教団の信仰告白には、「人は…神の戒めを破って罪を犯し、神のかたちを毀損した」とある。「毀損」(きそん)とは、壊すことであり、ここでは罪により神との人格的な関係を壊してしまい、人が持っていた本来的ないのちが失われていることをいう。

 しかし福音は、この人が置かれた悲惨の中に神の限りない憐みが注がれたことを告げる。「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理が、罪と死の律法からあなたを開放したから

です。」(8:2)

 この神の全き愛に対し、人の側から公に応答するのが礼拝である。そこで人は見えない

神と会見するのであるが、神が臨在する場にいればいいということではない。真実な献げ

ものをしてこそ礼拝となる。それでは何を献げたらいいのだろうか。そこで問われるのは、物そのものではなく、献げる人の信仰である。

 「信仰によってアベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによ

って、彼が正しい人であることが証しされました」(へブル11:4)

 パウロは、神の測り知れない愛を語った後、神へのささげものとして「あなたがたのからだ」を献げなさいと命じている。「からだ」が語られるのは、肉体をもつ私の全てをもって神に応答するためである。私の判断ではとてもささげものにならない。それを神の憐みと命令によって献げる。そこでは礼拝の形式にではなく、信仰者の日常が神への礼拝へと向かわせる。

 私はどのような礼拝をしているかを根本から問い直したい。主への礼拝は、全力を注ぐに十分なる価値がある。

2019年11月3日​

     あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

                                                         ヨハネ14:1

 

 信じていたことが、突然に信じれなくなってしまう。そんなときには、不安が心に押し寄せてくるだろう。生きていることの土台が、根底から揺り動かされることだってある。

   主の弟子たちは、3年半、主イエスと寝食を共にしてきた。主が語られる神の国の言葉を、日々の生活を通して聞くことが喜びであった。だからこそ、ガリラヤからエルサレムへと向かう旅は、神の国の実現という期待を背負って、希望に満たされるはずであった 

   実際、一行がエルサレムに入ったとき、多くの群衆に歓喜をもって歓迎された。ところがエルサレムの人々の興奮は一時のことであり、主イエスの一団と宗教指導者との対立が鮮明になってくる。弟子たちは、期待していたことと現実の挟間に心が動揺していた。

   主が「わたしが行くところに、あなたはついて來ることができません」と言われたとき、その言葉はかなりショックだったのではないか。ペテロは「あなたのためにはいのちも捨てます。」(13:37)と答えている。強がる者もいたが、多くの弟子の心は波立っていた。

 弟子たちがそうなったのは、主イエスの言葉を信仰によって受け止めていなかったからである。自分たちの思い込みの方が先行し、それに合わない言葉は勝手に排除していた。結果として、弟子たちの心には、恐れと不安が残っていた。

 主イエスは、その弟子たちに「恐れないで神を信じ、わたしを信じなさい」と言われた。

 現実を見れば、事態は一途に悪化している。けれども主イエスが約束された言葉を信じる

とき、現実の向こうに広がる神の国をみることができる。主イエスは、ひとり十字架への

道を歩まれた。そこから罪と死に勝利して復活された。神の国を公に示され、そこに迎えてくださる。

 それ故、道であるキリスト(14:6)に全く信頼して歩むとき、真理と知り、いのちの恵みを確かにする。

2019年10月27日

    救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。  ローマ11:26

 

   人は不信仰と信仰を結ぶ術を持たない。神から離れた者には悪のわなと網が待ち受け、その辿る道でつまずき倒れるだけである。(11:9) もしイスラエルの歴史を少しでも辿るなら、神の民がその不信仰の故にどんなに大きな悲惨を経験したかを知ることができる。

 それでは神は、そのような不信仰な民を完全に退けてしまわれたのか。イスラエルに与えられた祝福の約束は潰えてしまったのか。主はかつてアブラハムに「地上のすべての民族はあなたによって祝福される」(創世12:3)と約束された。この約束は反故にされたのか疑問が残る。

 それに対しパウロは「絶対にそんなことはありません」(11:1)と強く否定した。そして取り上げあげたのは、「ヤコブから不敬虔を取り払う」イスラエルへの終末的預言である。

引用したイザヤ書59:21には「彼らと結ぶわたしの契約」となっている。イザヤは預言の中で、イスラエルの不信の罪は癒し難く、民の間での「公正は退けられ、正義は遠く離れている」(イザ59:14)と罪を糾弾する。

   しかしその絶望的なほどの不信仰が語られた後に、「西のほうでは、主の御名が、日の上るほう(東)では、主の栄光が恐れられる」(59:19)と神の民が起こされるとの記述がある。それは異邦人の中にあかしされる福音を預言している。

 パウロは、イスラエルは不信仰だけれど、異邦人は信仰があると言ってはいない。異邦人は「生まれながら御怒りを受けるべき子」(エペ2:3)である。けれどもシオンから救いが出て、神との関係を阻んだ「罪」を取り去ることを伝える。それこそがイスラエルの始祖と結ばれた「わたしの契約」だと。異邦人とイスラエルは同じ不信仰を抱えている。しかし不従順の中で、契約により共に神の取り扱いを受けている。こ

2019年10月20日​

  見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのはいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみにとどまっていればであって、そうでなければあなたも切り落されるのです。    ローマ11:22

 

  神は歴史を通してご自身を啓示される。アブラハムを始祖とするイスラエル史は、神の慈しみが先行している。それは祝福のための契約であり、イスラエルは神の民としてより分けられ特別な恵みを受けていた。

 けれども、その民が不信仰を続けることによって、神の恵みから断ち切られてしまう。そして神の祝福の約束はユダヤ人以外の異邦人に引き渡された。異邦人への福音の拡大は、ユダヤ人の視点からみれば、神による新しいパラダイムシフトであった。

 パウロはこれを純正なオリーブの木が台木を残して切り倒されたこととして描いた。純正なオリーブの木とはイスラエルのことであり、

歴史的にはBC586バビロン捕囚であり、預言的にはロAD70に起こったローマによるエルサレム崩壊と侵略を含むことになる。

 この切り倒されたオリーブの木には、野生のオリーブの木が接ぎ木されたとパウロは言う。

野生のオリーブとは異邦人キリスト者のことである。接ぎ木された野生のオリーブの枝は、

純正なオリーブの台木から栄養を受けることができる。それは異邦人キリスト者が、イスラエルの始祖であるアブラハム、イサク、ヤコブの信仰の遺産を受け継いで成長できることを意味している。

 ただし、それは約束の恵みにとどまっていることによるのであって、そうでなければイスラエルがそうであったように、不信仰が続くのであれば神に切り倒されてしまう。

 神の慈しみを知る者は、同時に神の厳しさを認識しておく必要がある。

2019年10月13日

彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子7000人が、わたしのために残してある」それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。

            ローマ11:5

 

    恵みによって救われる実例として、パウロは預言者エリヤを引き合いにした。BC9世紀、北イスラエルではアハブ王の影響により、国中にバアル信仰が蔓延していた。エリヤは、主の召しによりたった一人でバアルの預言者と対決して勝利する。Ⅰ列王18:19~40

 しかしエリヤは、アハブ王の妻イゼベルがエリヤ殺害の命令を下したことを聞くと恐れて逃れてしまう。憔悴したエリヤは死を願った。19:4 

 信仰の原点を求め神の山ホレブにいたとき、主はエリヤに「あなたはここで何をしているのか」と問う。これに対しエリヤは答えた。

「私は万軍の主に熱心に仕えました。…しかしイスラエルの民はあなたの預言者を剣で殺しました。…ただ私だけが残りました。」

 エリヤは、預言者としてバアル信仰に立つ人々と戦う中で孤独感を深めていった。バアルとの対決では人々が驚嘆するものであったが、エリヤ自身にしてみると「私だけが」残されたという思いを強くした。

 主はそんなエリヤに「バアルにひざをかがめていない男子7000人がわたしのために残してある」と言われた。自分だけが残されたと主に訴えるエリヤに、主は男子7000人という同じ信仰の仲間がいることを示された。この大群衆についてエリヤは何も知らないでいた。エリヤが関わったことではなく、主ご自身が「残してある」と言われるものであった。

 ここに恵みによって残された人たちの姿がある。それは人の働きによって救われたのではなく、主の恵みの故に導き備えられた人たちである。「それと同じく、(福音を聞く)今も、恵みの選びによって残された者(キリスト者)がいます」

2019年10月6日

  しかし、信じたことのない方を、どのようにて呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか         ローマ10:14

 

  どんなにすばらしいニュースであっても、それが届いていなければ、そこにいる人は何も知ることはできない。届ける働きがなければ、そこにどのような変化も起こらない。

 福音が「ユダヤ人とギリシャ人の区別はありません」(10:12)と言うとき、救われるための壁が完全にとり去られたことを意味していた。それは人の願いや努力によってはどうにもならなかった。パウロはそれをどんなに歓喜に満ちた思いで書き連ねたことだろう。

 だからこそ、福音宣教の担い手を痛切に求めた。福音はそれまで断絶していた神と人の交わりを回復させ、人は神の恵みを受けることができるようにされた。そしてユダヤ人と異邦人との間にあった民族的な壁をとり除かれ、同じ主に仕える者とされた。

 「同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かな恵みをお与えになるからです。」(12)

 神は、この恵みのニュースを人の言葉によって伝えられるよう備えられた。救いは100%神の業として行われ、そこに人の業が必要とされることはない。けれども、福音そのものは人の働きが介在して届けられる。

 「しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか」

 誰であれ、人を通さないで福音を聞いた者はいない。そこには必ず福音を心で信じ、口で告白した人の働きがある。ここに福音の宣教者の働きが強く求められている。主は働き人が与えられるため祈るよう求めておられる。

2019年9月29日

  人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。 ローマ10:10

 

 福音は救いをもたらす神の力であり、それまでの人生観と価値観を一変させる。それ故、ユダヤ人が何の疑いも持たず、当たり前だと思っていた律法についての考え方を根本から覆した。パウロは主から異邦人の使徒として召されてはいるが、ユダヤ人の救いを心から願っていたので、自分を敵視している同胞に対してとりなしの祈りをささげていた。(1)

 人が神の前に義とされるのは、律法によるのではなく信仰による。

  「モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いています。」(5)

    しかし現実には、律法とそれに関連した口伝律法が、ユダヤ人の生活の隅々までを支配していた。とり分け安息日に関する戒めは厳しく、歩くことのできる歩数や、持ち上げることが許される重量なども規程していた。

   それに対し福音は、律法を守ることによってではなく「心に信じて義と認められる」ことを告げる。考えようによっては、律法を守ることより心においての方が難しい。律法は外面的なことであり、そこには内心を偽ることができるが、心はごまかしたも偽ることもできないものである。もし心そのものが神の光に照らされたら、その罪深さに恥じ入るほかないであろう。

 しかしそんな心であっても、神の言葉を信じることができるものとされた。主の十字架と復活の出来事を自分の罪のためと信じ、主イエスを人生の主として受け入れるとき、神のいのちに生かされる。この救いは神の業であって、人から出たものではない。それは責任逃れのまま人任せになることではない。「口で告白して救われる」とあるのは、神の業に対し身をもって主体的に応答する行為である。それが信仰である。

2019年9月15日

こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなに

  されるのです。    ローマ9:18 

 

    稲穂が色づいて刈り入れを待っている。先日の台風では千葉県を中心に被害が大きかったけれども、宮城県下は天候に恵まれ例年以上に豊作が見込まれそうだ。天候は人の思いではどうにもならず、受け入れるしかない。それに逆らったからといって、どうにもならない。

 神の憐みも神の専権事項であり、人の思いによって支配されたり、選別されるものではない。「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」(9:15)

 神が人を憐れまれるのは、愛される価値のない人を、限りなく愛しておられるからである。もし、神の愛が人の業によって選別されるなら、その愛は人の考えに支配されたものになるであろう。神の憐みは人によらず、徹頭徹尾神に起因している。

 神が「みこころのままにあわれむ」ことは、「それなのになぜ、神は人を責められるのですか」(9:19)という反発を生むことがある。それは人が神の被造物であって、その置かれている立場を見失ったことによる誤解である。

「形造られた者が形造った者に対して『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか』

と言えるでしょうか。(9:20)

 それでも神が「みこころのままにかたくなに」されることは、より納得しがたく、言い逆らう思いを強くしているかもしれない。神がそのようにされるのは、「滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐」(22)しておられるからである。実際、神は滅ぶべき

怒りの対象とされていた者であっても、「ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださった」(24)

 人知を遥かに超えた神の愛がある。その愛に全幅の信頼を寄せることこそ求められている。

2019年9月8日

 神はモーセに言われました。「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ」        ローマ9:15]

 

   神の愛は、「あわれみ」あるいは「いつくしみ」としてあらわされる。その愛は神の自由な選択として人に注がれる。人のどんな条件にも左右されるものではない。奴隷から神の民とされたユダヤ民族であったが、血の繋がりがそのまま神の民を保障するものではなかった。また口伝律法のような人の側の基準が神の祝福を約束するのではない。その神の自由な選びは、教父たちの歴史の中に明らかにされている。

 イヤクの妻リベカは、その胎にエサウとヤコブを宿した。その子どもたちが生まれる前に、主はおおせられた。

「二つの国があなたの胎内にあり

二つの国民があなたから分かれ出る。

一つの国民は他の国民より強く

兄が弟に仕える」(創世記25:23)

 信仰の人イサクの子どもでありながら、神の民に数えられたヤコブと、そこから別の道に導かれたエサウ。その岐路は神の一方的な選びにあって、人の何かによってはいなかった。この神の選びは、救いについて人の業の関わりを否定する。逆に考えれば、人は神の救いを人が設定した条件や功績の中に考え易いのである。誤解してならないことは、人は神の選びを根拠にして良いことのための努力や働きをしなくていいというのではない。人が自分自身と社会のために良き業をすることは自明のことである。けれども、それがそのまま神の救いに繋がるものではないことを知らなければならない。

 神の選びは、そのような人の思いを謙遜にさせる。そのことは自分の業を誇るのではなく、絶えず神の恵みと慈しみを求めるように向けさせる。また人間的な弱さがあっても、それに落ち込むのではなく、恵みによって立ち直る動機となり得る。

2019年9月1日

    私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 ローマ8:37

 

    古来、戦いにおける勝利の秘訣は、敵を知り己を知ることとされている。パウロが経験したキリスト者の敵は、艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣であった。(8:35)  それはどれだけ彼の活動を苦しめたか知れない。けれどもそうした中にあって、彼が最大の敵としていたのは、外からのものではなく、内に働く肉の力であった。肉は神の愛から引き離そうとして人に働き、律法さえも罪を犯す機会に変えてしまう。結果として、人を罪の奴隷状態から抜け出れなくしてしまうのである。

 そうした中において「私たちを愛してくださった」キリストは、罪に支配された肉を処罰し、死者の中からのよみがえりにより、神のいのちに生きるようにしてくださった。

 この罪と死に対する勝利こそが、他のすべての問題の中にあっても「圧倒的な勝利者」(37)とする。なぜなら御霊ご自身が、神の御計画の内に導いてくださるからである。キリスト者は、御霊により祈ることで、神の御胸が何であるかを知ることができる。そこに信頼するときに、神の御計画の中に歩んでいることを見出すことができる。

 パウロは、その後の歩みにおいて、こうした神の導きを立証することになった。「何とかして…あなたがたの所に行けるように」(1:11)願っていたローマ行きは、やがて囚人としてローマに護送されることで実現する。

 使徒の働きは、その全ての中に神の御計画があったことをあかししている。そして、ローマというこの世の絶対的な権威に対して、福音の力が如何に圧倒的に勝利者であったかを雄弁に語っている。

2019年8月25日

私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 ローマ8:37

 

    古来、戦いにおける勝利の秘訣は、敵を知り己を知ることとされている。パウロが経験したキリスト者の敵は、艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣であった。(8:35)  それはどれだけ彼の活動を苦しめたか知れない。けれどもそうした中にあって、彼が最大の敵としていたのは、外からのものではなく、内に働く肉の力であった。肉は神の愛から引き離そうとして人に働き、律法さえも罪を犯す機会に変えてしまう。結果として、人を罪の奴隷状態から抜け出れなくしてしまうのである。

 そうした中において「私たちを愛してくださった」キリストは、罪に支配された肉を処罰し、死者の中からのよみがえりにより、神のいのちに生きるようにしてくださった。この罪と死に対する勝利こそが、他のすべての問題の中にあっても「圧倒的な勝利者」(37)とする。なぜなら御霊ご自身が、神の御計画の内に導いてくださるからである。

 キリスト者は、御霊により祈ることで、神の御胸が何であるかを知ることができる。そこに信頼するときに、神の御計画の中に歩んでいることを見出すことができる。

 パウロは、その後の歩みにおいて、こうした神の導きを立証することになった。「何とかして…あなたがたの所に行けるように」(1:11)願っていたローマ行きは、やがて囚人としてローマに護送されることで実現する。

 使徒の働きは、その全ての中に神の御計画があったことをあかししている。そして、ローマというこの世の絶対的な権威に対して、福音の力が如何に圧倒的に勝利者であったかを雄弁に語っている。

2019年8月25日

   あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。  ローマ8:15

 

   奴隷の体に刻まれた苦痛の記憶は消し難い。それ故、奴隷が主人の縛りから逃れて自由の身になったなら、そこから再び主人の支配に服すことは恐怖のどん底に突き落とされる思いに等しいだろう。

 パウロは「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる奴隷の霊を受けたのではなく」と、強い調子をもって罪の奴隷であったことからの決別を説いている。そこに後戻りすることは決っしてないと断言する。それは罪の奴隷であった私たちが、キリストの死と復活のうちに、再び罪の支配を受けないからである。

「子とする御霊を受けた」とは、キリスト者が神の子とされたことである。それを保障する聖霊を受けていることを示している。聖霊は、日々の信仰生活を助けるばかりでなく、神の祝福を相続するものであり、そこに神の絶大な愛があかしされている。

 この父なる神への応答が「アバ、父」という呼びかけである。主イエスは、ご自身を遣わされた方を天の父と言われた。その父なる神が、ここでは子供とその父親の間で用いられる「アバ」という言葉で表現されている。

 その幼子的な呼びかけは、子供が父親の愛に全人格的に信頼を寄せていることを意味している。かつて神との関係は互いに敵意を挟んでいた。それが今は、御霊によって神を「アバ父」と呼ぶ者とされた。そこには奴隷が抱いた恐怖は微塵もなく、愛のうちにある喜びと希望が満ちている。

 この深い信頼関係が、神と共にあるキリスト者の信仰生活を実のあるものとしていく。たとえ困難が押し寄せても、この愛が失われることはない。

2019年8月18日

肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神は

ご自身の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。     ローマ8:3

 

    善悪の違いを教えられても、人にはそれを実行する力がない。かえって、「したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています」(7:19)とパウロは告白する。それは自分の内に住み着いている罪が、善いとされていることに反発する力を生み出しているからである。パウロがいう肉という言葉には、そのような人間性が抱えているところの本質的な矛盾が明らかにされている。

 この現実に対し、「律法にはできなくなったことを、神はしてくださいました」 それは神

の一方的な恵みとして、主イエス・キリストによって実現した。

 「神はご自身の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです」

 人の内に住み着いている罪は、それに見合う処罰によってしか取り去ることができない。

罪を処罰なしに安易に受け入れてしまうなら、聖さも正義も損なわれてしまう。犯罪者が、権力者によって何の咎めもなく釈放されたら、正義は失われ社会は大混乱してしまうであろう。 

   罪が罪として裁かれなければ、理不尽さから出ることができない。神が御子(イエス・キリスト)を、「罪深い肉と同じような形で罪のきよめのために遣わさ」されたのは、人の内に住み着いている罪を処罰されるためであった。それは人が神から受けなければならない処罰を、御子が身代わりとなって受けたことで、歴史的に1回だけ起きた出来事である。神は主イエス・キリストを死者の中から復活させられた。それにより、人は肉において処罰され、聖霊によって生きるものとされた。

2019年8月11日

私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。

                 ローマ6:18 

 

   誰であれ、自分を良くみられたいという思いがある。人を説得するような場合には、自らの知識とか経験の優越性を基礎にして論理を組み立てる。しかしパウロは、ローマの教会の人たちに、罪人としての自己の姿を赤裸々に告白した。

「私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。」

 真に福音を理解してもらうためには、神の前での自己の姿を正しく知ってもらわなければならない。「自分の肉の内に善が住んでいない」とは、日常生活の奥深くに、神に反逆する罪の性質が働いていることを明らかにする言葉であった。何が善であるか、悪は何であるかを知っていても、それで十分ではない。むしろ、そこに生きようとしないで、善に反逆する正反対の自己の姿があって、その力に支配されている。それが罪の奴隷ということである。

「私には良いことをしたいとう願いがいつもあるのに、実行できないからです。」(6:18)

 キリスト者になる前のパウロは、パリサイ派に属する律法の教師であった。律法を民に語り、罪を犯す者を断罪もした。そのパウロが自分の内に善を行う力がないと語るのは、パウロの個性というよりも、神の前での人がそのようであるという認識による。

 奴隷は主人による支配を受け、死の恐怖に晒されている。罪の奴隷としての人は、サタンの支配を受け、死の恐怖から逃れ出ることができないでいた。福音は罪の奴隷となっている人の現実を直視する。その絶望的状況の中に神の恵みがみえてくるとき、心の底から感謝が溢れてくる。

2019年8月4日

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。   ローマ6:23  

 

    多くの人は、自分が自律的に生きていると考えている。たとえ、日々、仕事や勉学を強いられるにしても、そこには自ずと制限があって、誰の支配も許さない自由な時間が与えられているからである。決して自分を

奴隷とは考えない。そこからすると、パウロが神から離れた人を罪の奴隷というのを素直に受け入れがたく感じてしまうだろう。

「あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義について自由にふるまっていました。」(6:20)

 神にに反抗するこの自由について、カルヴァンは「悲惨とのろいの自由」と言っている。

なぜ罪の奴隷であるのか。それは人の中に住む罪の性質が人を完全に支配し、そこから逃れることができなくしているからである。「罪の報酬は死です」(6:23)

 人は一生涯、罪を主人として生活し、その働きの代価として死があるということである。

この死は神のいのちと対局に置かれているものであって、本来の人が求めるべき神との関係では的外れになっている。けれども、御言葉による現実理解が罪の自覚を促し、神の賜物として「主キリスト・イエスにある永遠のいのち」を希求させる。

 「しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」

 結局のところ、人は「死」か「永遠のいのち」の二者択一が迫られている。あれかこれかであって、その中間というものはない。人が決して自律的ではあり得ないのは、罪に支配された人間性の持つ弱さの故である。

 しかし感謝すべきことには、神は賜物としてキリストを与えてくださった。それは人の働きによるのではなく、無代価の恵みである。このキリストのうちに「永遠のいのち」がある。

2019年7月28日

私たちは知っています。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはありません。死はもはやキリストを支配しないのです。

                  ローマ6:9 

     

 近代科学の急速な発展によって、医療が恩恵を受けてきたことは喜ぶべきことである。以前には治療が不可能とされてことも、最新の医療技術によって救われた人は多い。

 しかし、そのことは医療が死を征服したとか死に打ち勝ったということを意味するものではない。その死とは、生命体として個体が活動を停止するだけのことではなく、神の恩恵といのちの源からの断絶を意味する。もし、死を生命活動に限定して考えるなら、それは死が持つ力と支配を過少に捉えていることになる。

 創世記の記述によれば、人は神から離れて罪を犯した時点で、死を抱える存在となった。 

(2:17) それは神のいのちによる祝福と保護からの疎外であった。

 創世記には、最初の人アダムは、930年生きて死んだと記述がある。(5:3) この長寿が何を意味することなのか論議が重ねられてきた。ただ、単純に考えても、アダムが死んだという事実は重いものがある。人はどんなに長寿であっても、死は固有の問題として残り、直面させられるからである。

 しかし第二のアダムであるキリストは、私たちの死を担ってくださった。「キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはありません。」「死者の中からよみがえる」ということは、死の原点に立って罪が処理され、加えて新しい創造の業がされることによって可能なことである。そこに罪のない仲保者の介入と、それを受け入れる神の働きがなければならない。キリストの内にされたこの恵みを信仰によって受け止めるとき、私たち自身が死から解放される。ここに圧倒的な神の恵みがある

2019年7月21日

しかし、恵みの賜物は違反の場合と違います。もし一人の違反によって多くの人が死んだのなら、神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、なおいっそう、多くの人に満ちあふれるのです。           ローマ5:15

 

   人はなぜ死ぬのか。死はどこから来たのか。いのちの不思議さに驚嘆し、その根源を探求する人であっても、死の原因を根源的に問う人は少ないのではなかろうか。聖書は、神に創造された最初の人であるアダムが神への違反行為をしたことを死の原因とする。神の言葉への違反は罪(単数)とされ、それまで人に与えられていた神の恩恵と祝福から疎外された。

 アダムの罪は、それ以後、人の内に深く入り込み、すべての人の中に住み付いた。その結果、神を神とせず、感謝もせず、その思いはむなしくななり、神の怒りが天から啓示されている。(1:18)

 パウロはここに、一人の違反によって、すべての人に死が広がったという構図を示している。そして一人の人イエス・キリストによってもたらされる神の恵みを対応してみせている。いずれも一人の人が核となっているのであるが、それは後者の出来事のための雛形であるからとパウロは言う。

 「アダムは来るべき方のひな型です。(14) 雛形は、それを元にして作る製品にこそ価値があるのであって、雛形そのものが製品以上に評価されることはない。その上、両者の間には決定的な違いがある。アダムの場合は神への違反行為ということが罪となって広がったものであるのに対し、主イエスにおいては神の恵みと賜物によって、すべての人に広がっているからである。

  アダムの違反によって死に定められたのに対し、主イエスにおいては多くの違反が義と

認められた。恵みと賜物が如何に絶大なものであるかを知る必要がある。

2019年7月14日

そればかりではなく、艱難さえも喜んでいます。それは、艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 

ローマ5:3~4

 

 信仰によって義とされたことは、艱難(苦難)さえも喜びに変質させてしまう。艱難が我慢して耐えるだけのものであるなら、そこに意味を見出すことはできない。そのために挫折してしまうということもあるだろう。けれどもパウロは、信仰者は外からの艱難に遭遇しても約束によって支えられ、内側に忍耐という欠けがいのない萌芽をつくり出すという。そして忍耐は、練られた品性を生み出すと。

 練られた品性というのは、鍛冶屋が強靭な鋼を作るために、鉄を幾度も熱い火の中に入れ、

熱せられた鉄の塊を打ちたたくことに似ている。某ローマ書注解では、「日本語の熟語で練達以外にないであろう」とある。つまり「練られた品性」とは、道徳上の特性のことではなく、艱難を信仰をもって受け止め、約束を信じて歩む者の内側から鍛えられ滲み出てくるものである。この練られた品性が希望を生み出すのである。誤解してはならないことであるが、パウロは信仰があるなら艱難が直ちに喜びになると言っているのではない。もしそんなことなら、無責任なご利益宗教と変わらなくなってしまう。

 また艱難についての哲学的な理論を展開しているのでもない。むしろ、自分の経験してきたこととを、今まで述べてきたことに照らして力強くあかししているのである。艱難さえも喜びに変えられるなら、全てのことが喜びである。実際、パウロは喜びの秘訣を見出したかのように語っている。それを短絡的に捉えてしまうのではなく、希望に至るための信仰の過程として受け止めるとき、私たち自身も同じように確信するであろう。

2019年7月7日

 彼は不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを信じました。

                                                                                             ローマ4:20

 

     聖書が語る信仰は、信頼度が固いか薄いで到達するところのものが全く違ってくる。信仰の父と呼ばれるアブラハムについて、パウロは、「神には約束されたことを成就する力があることを信じました」と語る。

   アブラハムの信仰の固さは、常識的には神の祝福を信じられない現実において、彼がなおも神の言葉を信じ続けたことにおいて示されている。神の約束は「あなたの子孫を地のちりのようにならせる」(創世記13:16)であった。しかし、子孫が数え切れない程に増え広がるという

のに、この時点でアブラハムと妻サラとの間にはひとりの子供もいなかった。

    神の約束の言葉と現実の乖離は、アブラハムを深く悩ませた。そのとき神は、アブラハ

ムを天幕の外に連れ出し、星空を見上げさせて言われた。「あなたの子孫はこのようにな

る。」(創世記15:6)

 この神の呼びかけに、聖書は「彼は主は信じた」とアブラハムの応答が記されている。このときの夜空に不信仰の目を向けるなら、どこまでも闇が広まって不安は尽きなかったであろう。しかし、信仰の目をもって神の言葉を受け入れたとき、一つ一つの星の輝きは神の約束を確証させる希望の輝きとなった。

 この出来事は、アブラハムの信仰を更に堅固なものにした。神に「イサクを全焼のいけにえとして神にささげなさい」(創世記22:2)と言われたが、信仰によって神に従った。それは御言葉に対する信頼があったからである。

 キリスト教信仰は、内在化する信仰心だけの世界ではない。神の言葉への信頼が、神と新しい世界との関係を開くのである。

2019年6月30日

不法を赦され、罪をおおわれた人は、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。

                ローマ4:6,7

 

   聖書は一貫して、罪の赦しによる罪の支配からの解放を告げている。救いは人の願いや努力によるのではなく、一方的に人に注がれる神の恵みに起因している。ローマ4:6でパウロが引用したのは、ダビデによる詩篇32:1であった。この詩はユダヤ的な文学表現である平行法が用いられていて、上の句の「不法を赦され、罪をおおわれた人」と下の句の「主が罪を認めない人」は同じ内容のことを言っている。

「不法」は  詩31:1で「そむき」となっていることからも、神の律法に対する違反が罪であることがわかる。ユダヤ人はこの律法を神から託されていた。一方、ユダヤ人以外の民族は、生まれながら心の中に律法が刻まれている。それは万人に共通の良心としてである。

  今日、罪は法律とか道徳規範に照らして語られるが、聖書がいう罪は「そむき」により、神と人の関係が壊れることである。罪は個人の心の奥に内在し、人への神の祝福を奪い、人を幸いの道から遠ざけてしまう。

 それ故、決して問題を放置してはならないが、自分では罪を取り去ることができない。それは人の手で修正されて済むことではない。なぜなら神との関係が回復していないからである。

 しかしそのような私たちに「不法を赦され、罪がおおわれる」道が備えられた。問題が深刻であったればこそ、罪赦されることの恵みは大きい。

 ダビデを通して語られた罪の赦しの幸いは、千年の時を越えてパウロによって確認された。今は、そこから二千年の時である。時代は大きく移り変わっても、罪の問題の大きさと、罪の赦しの恵みは変わることはない。

 

 

 

2019年6月22日

しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。       ローマ3:21

 

   水泳をするにはゴーグルを必要とする。なくても泳ぐことはできるが、これがないと水の中を鮮明にみることができない。人が真の神を見出し、神との関係に生きるために律法は欠くことができないものであった。律法がないと罪を罪として自覚できない。神は、神の民とされたイスラエルに、律法によって祝福と呪いの道を示された。(申命記28章)  それは、民が行いによっては、神の前に義とされることがないことを知り、信仰によって神との関係を回復することを知るためである。

 ところがイスラエルの歴史は、信仰から離れて罪を犯し、神の栄光から遠くされたことを明らかにしている。それは律法が指し示す道からの離脱である。それでも、民の中には、律法をもっていることによる選民意識が残っていた。そこには律法の勝手な解釈による自己義認と、異邦人を全く受け入れようとしないユダヤ民族至上主義がある。

 パウロは、ユダヤ人が存在の拠り所としているこの律法について、「律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められない」(3:20)という。律法は、それを行う者の義を示すためのものではなく、神の基準から離れた人の罪を諭すものであると。

 そして、この倒錯した状況の中で、神の恵みにより「律法とは別に」、信仰による神の義が示されたことを力強く語る。その信仰とは、律法が求めることを神が代わって為されたキリストの業を信じることである。

 これが「律法と預言者によってあかしされ」(3:21)とあるのは、信仰による義が突然に生じた考えではなく、神の御心の内に予め備えられていたことを明らかにするためである。

 今、神は、すべての人に向けて信仰による神との関係の回復の道を開いておられる。私たちは、この招きの声を聴いて、信仰によって応答することが求められている。

2019年6月22日

 義人はいない。一人もいない。

               ローマ3:10 

 

    人は痛みの感覚によって体の異常を知る。たとえば足の怪我であれば、激痛によって骨折を考えることができる。胃に痛みがあれば、胃に何かの異常が生じていることがわかるであろう。

 罪は可視的なものではないので、痛みと根本的に異なるのであるが、罪を自覚するということではこれと近い関係にあるといえないだろうか。なぜなら罪とは神との関係に異常が生じていることであり、そこに罪意識が働くことで人は罪を自覚するからである。痛みは本来的に人の命を守るのになくてはなrないものである。ただし、体の異常があっても痛みを生じないことがあるように、人は罪の只中にあっても、罪に無感覚になっていることがある。それは人にとって好ましいことではなく、極めて危険な状態ということができる。

 パウロによれば、律法が与えられたユダヤ人は、その律法を通して罪が自覚されるようにされた。彼らがもっていた律法は、自分の義を誇るために備えられたのではなく、罪を悟るためのものであった。それに対し律法を持たない異邦人は、神が心の中に書かれれた良心という律法によって罪を自覚する。この場合、善悪を判断する良心は、社会の要請として自然発生的に形成されたものでなく、生まれながら各個人に神が植えつけられたものである。

「彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。」(2:15)

それ故、ユダヤ人も異邦人も律法の光の中にすべての行いが照らされて神に裁かれる。

  「義人はいない。一人もいない。」

 この点で例外がない。そのことは、誰も特別視してはならないことを示している。罪は他の誰かのことではなく、私個人が生ける神の前に抱える深刻な現実である。

2019年5月19日​

私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって救いを得させる神の力です。 ローマ1:16 

 

    パウロの時代、ローマ社会全体からみれば、キリスト者の数は少数派であった。ローマは帝国の中心ではあるが、エルサレムから見れば西の果てになる。そのローマ教会は活発に宣教活動をしていた。けれどもローマに住むユダヤ人には異端として扱われ、ローマ人からは風習の異なる神を礼拝するおかしな人々とみられた。

  福音は主イエスの十字架と死からの復活を中心に語る。ローマ社会においては十字架は重罪を犯した者に科せられる罰であり、恥そのものでもあった。それ故、福音が語られるとき、教会の中でもそれを恥として受けとめる人々がいたのであろう。主イエスの教えに共感し受け入れても、福音に対しては眉をひそめる人がいたのかもしれない。

 しかしパウロは、自分の宣教の中心が福音であって、そこに微塵の揺らぎもないことを宣言する。そして、この福音こそユダヤ人とかギリシャ人といった民族の壁を取り去って、「信じるすべての人に救いをもたらす神の力」(16)であると語る。

 パウロはかつて福音を恥とした。キリスト者が十字架につけられた主イエスをあかしするのをみて、神を冒涜しているとして激しく反対した。そのパウロが、神の恵みによって主イエスの復活を信じる者とされた。

 それゆえパウロは、そうした自分の原体験を基礎にこの言葉を語っている。人々が考える神の力は政治的な優性とか軍事的な勝利をイメージしていたところがある。けれども、ここにパウロが示すのは、人を罪と死の支配から救い出し、人を新しくする力である。それは決して人間的なもので対応できるものではない。

 信仰者の現実には大きな壁が立ち塞がっているが、それを越えて神の力が発揮されるのは、信仰によって神の業をみていくことによる。

2019年5月12日​

   私は、ギリ​シャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければな

らない負債を負っています。 ローマ1:14

 

    福音は、民族や文化を越えて人と人を深く結びつける。パウロの時代、一般的なユダヤ人の認識では、ギリシャ人も未開人も異邦人と同列に数えていた。宗教的には、神の祝福の枠から外れた民としていた。以前はパウロもそのように考えていたがいたが、回心してから大きく変わった。異邦人のための使徒として神に召し出されてから、福音において異邦人と自分を関係づけている。

 「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。」

 福音を伝えるだけであるなら、「負債を負う」という必要はなかったであろう。宣教者としてあるだけで十分に役目を果たすことはできたのである。けれども、パウロの心の中には、自分のように神から遠い者であった者が、溢れるばかりの神の恵みを受けて異邦人のための使徒とされたという感動が生きていた。

 そこで異邦人である人たちと自分を結びつけるのが「返さなければならない負債」という表現になった。誤解してならないことは、パウロは金銭的に彼らに負債があったのではない。人間的に縛られていたのでもない。負債は責任をもって受け止める者にとって、どうしてもしなければならないことである。それゆえ、ここでの負債は、神の恵みを真正面で受け止め、それに全力で応答しようとするパウロの意思と言える。

 パウロは設立されたばかりのローマ教会に対し、人間的な意味での権威をもって関わろうとはしていない。むしろ、徹底的に神に依り頼むことで自らをしもべの位置に置いている。そこから神の愛が溢れ出て、どうしても福音を語らなければならないことの動機となっている。私たちが福音を語るとき、神の愛にどれだけ生かされているかが問われる。神の絶大な恵みを知るとき、そこに「返さなければならない負債」として福音宣教の使命が生まれる。

2019年5月5日​

    神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ。

                                  ローマ1:1

 

    福音書が主イエスとは誰であるのかを集中して語っっているのに対し、ローマ人への手紙は主イエスが語られた福音とは何であるのかを体系的に教えている。著者はパウロで書かれたのはAD65年頃とされている。

 他のパウロ語られるの書簡は、パウロ自身が直接現地を訪れたり知っている人物に宛てられているが、執筆された時点において、パウロはローマに足を踏み入れたことはなく、教会に集っているほとんどの人たちと顔を合わせたこともなかった。このときパウロは、第三回の伝道旅行でマケドニアに行っている。コリントからローマに渡ることはできたはずである。けれども事情がかなわなかったので、ローマに行くことになっていたフィベという女性にローマ教会への手紙を託した。

 冒頭の自己紹介の部分は、原語では日本語訳と語順が逆で「パウロ・しもべ・キリスト・イエス」である。「しもべ」は奴隷の意味でもあり、仕えることが第一に強調されている。

 それ故、続けてかたられる「選び」は自己肯定するものではなく、「召された」ことは自己主張するものでもない。ここに紹介された「キリスト・イエスのしもべ」は、福音の恵みに圧倒され、神の愛に全力で応答しようとしている一人の伝道者の姿である。

 

2019年4月28日

 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってパブテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るようにしなさい。 マタイ20:19~20

 

    復活の主イエスに会った弟子たちは、弟子として再招集された。それは「行って」あらゆる国の人々を弟子とするためである。彼らは主イエスの十字架を前にして、弟子であることを放棄した者たちである。その失敗と敗北が克服されたのは、主イエスの復活を体験したからである。

 弟子(マセーテース)という言葉には、学び従うという意味がある。最初の弟子たちは、主イエスと共に時を過ごし、御言葉を聞き、行動することで弟子としての訓練を受けた。弟子たちは、主の受難を前に自分たちが躓くとは考えてもみなかった。しかしそのことを通して

 自分たちの罪を自覚する。そして主の復活により罪の贖いとしての十字架を理解する。また、自ら十字架を負うことによって、主イエスのいのちにあずかる道を見出した。こうして主の弟子集団が形成された。

 弟子の使命は、1)あらゆる国の人々を弟子とする。2)バプテスマを授ける。3)主の教えを教えることである。ここでの主動詞は「弟子とする」であり、他はそれに従属して語られている。

 中には主の復活を疑う者もいたが、ガリラヤで復活の主に会った弟子たちは、主の復活の証人として弟子としての務めを果たしていく。そこにはかつて自分たちの罪を深く自覚しながら、そうした自分の罪のために備えられた主の愛に対する感動があった。

 主イエスはその弟子たちを派遣し、「私は世の終わりまであなたがたと共にいる」と励ましておられる。私たちは主の弟子である。同じ約束に立って自分たちの務めを果たす者でありたい。

 

 

2019年1月27日

 

山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、栄光を

現す。      ハガイ1:8

 

   イスラエルの民が、ゼルバベルに率いられてバビロンから解放されたとき(BC539)、真っ先に取り組んだのは、エルサレム城壁の修復と神殿の再建であった。異教の地で故国への帰還を諦めかけていた中で、突然にクロス王から帰還命令が出たのである。民にしてみれば天からの恵みであり、その感動が「私たちは夢を見ている者のようであった」(詩126:1)と歌われている。しかし、復興事業はサマリヤ人による妨害を受け、工事は度々中断してしまう。この時期「ダリヨス王の第二年」(1:1)は、ペルシャ各地に反乱が続発し、帝国では崩壊の危機に瀕していた。そうした中で神殿再建の熱意は急速に冷めていった。帰還した民にとって、生活をどのように再建するかが直面している喫緊の課題であったからである。そのような理由で工事は18年間されないままになっていた。

 預言者ハガイは、そのように自分たち中心になっている民に、神殿建設の意味を語り、直ちに工事を再開するように励ました。

 「あなたたの現状をよく考えよ」(7)は、神の視点から実情を分析することが求められている。

  パウロは、キリスト者の働きを神殿建設になぞらえている。「私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。」

  (Ⅰコリント3:9)

 ここで問われたのは、何を基礎に、何によって建てるかである。私たちは、御霊により聖なる宮を建てる者でありたい。

 

2018年10月14日

わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れから

きよめられる。  エゼキエル36:25

 

  聖書は、人の心の奥に潜在する罪の問題を指摘する。それを神との関係で語るのは、罪が単

なる社会的規範からの逸脱ではなく、神との関係を破壊し、人の尊厳を傷つけ、人間関係を邪悪な方向に向かわせるからである。

 エゼキエルは、イスラエルの民の中に蔓延している罪がどれ程に深いかを預言してきた。既にバビロン捕囚という神のさばきを受けながら、一向に民の態度が改まらない。牧者までが堕落し、その病状は癒し難いものとなっていた。

 エゼキエルは、そうした民の中に語り続けた。その状況を人間的に考えるなら、そこにどれ程の意味があるかと疑ってしまうかもしれない。どんなに熱心に語っても、相手は石の心をもって跳ねつけてしまうのであるから。

 しかしエゼキエルは、民が罪の只中にいることを深く認識する中で、「罪の清め」という神の救いの啓示を受けた。

「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。」(エゼキエル36:25)

 「きよい水」とは清めの儀式の中で、血と共に用いられた水(レビ14:50)であって、聖霊の働きを指し示している。イスラエルは罪の中にあって動きがとれない状態であったが、その民に神の方から近づききよめの道が開かれる。

 それは新約における契約に結びつく。使徒パウロは、罪の問題を普遍的なものと捉えた。

「あなたがたは、…不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者…盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者」(Ⅰコリ6:9,10)

 キリストはその罪の支配からの解放である。

「主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」(Ⅰコリ6:11)

2018年10月7日

反逆の家のように、あなたは逆らってはならない。あなたは口を大きく開けて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。エゼキエル2:8

 

  神々しい神の幻をみたエゼキエルは、自分に語られる主の言葉を聞いた。

「その方は私に言われた。『人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民に、わたしに反抗する国民に遣わす。あなたは彼らに、神である主はこう言われると言え』」(2:3)

 このとき祭司であったエゼキエルは、預言者として召命を受けたのである。しかし、その遣わされる先は、「わたしに反抗する国民」と言われてしまうイスラエルであった。

 バビロン捕囚の出来事は、彼らの霊的頑なさを打ち砕くものとなっていなかった。民の前にある悲惨な現実は、かつてエレミヤなどの預言したことであった。しかし神の言葉が実現しても、それを照らし合わせて方向転換することをしない。神の言葉への関心の低さが、徹底的な悔い改めを阻んでいた。それに呼応するように、偽預言者は、バビロンからの解放が近いと預言していた。(エレミヤ(28:1~3)

 主がエゼキエルに託された使命は、そうし反逆の家」に、「神はこう言われる」と語ることであった。民が他の預言者よりもエゼキエルに聞くからではない。民が神の言葉を聞かないことは既成事実であるかのようである。

「彼らは反逆の家だから、聞く聞かないに関わりなく、…わたしの言葉を彼らに語れ。」(2:7)

      反逆の民に語るのは神の深い愛に起因す民の心は閉じているのに対し、エゼキエルは神の言葉を受け入れことが求められる。

「あなたの口を大きく開けて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。」(2:8)

 現実ということでは、イスラエルの民もエゼキエルも同じところに立っている。しかし信仰による視点の有無しが道を大きく分けていく。こうしてエゼキエルは神の言葉を受けた。それは「口の中で蜜のように甘かった」(3:3)

2018年9月30日

第三十年の第4の月の5日、私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻をみた。         エゼキエル1:1

 

  イスラエルのバビロン捕囚は、三次に分かれて実施された。エゼキエルは、「エホヤキン王が連れていかれた」(1:2)、第一次バビロン捕囚(BC597)の民の中にいた。

 それから5年(BC592)、バビロンに流れるケバル川のほとりで、主なる神から幻が示された。エルサレムの破壊(BC586)が6年後に迫っている。

    冒頭の「第三十年」は、おそらくエゼキエルの年齢である。律法によれば、祭司は「三十歳以上、五十歳」(民数4:3)である。エゼキエルは祭司に就く年齢であったが、異教の地にあってはそうした働きが許されず、無力感を強くしていたであろう。

エゼキエルに限らず、捕囚の民にとってバビロンでの生活は苦しみの連続であった。それ故、人々は、支配者の目を避けて集まり、故国への帰還を願って望郷の念を強くした。

「バビロン川のほとり、そこに私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた」(詩137:1)

  帰還への希望という点では八方塞がりの中にあった。政治状況は日増しに悪化の一途を辿っていた。そのような中で、エゼキエルは、「天が開かれ…神々しい幻をみた」

  主なる神は、気落ちしているエゼキエルに、圧倒的な迫力をもって歴史の主権者は主であることを示された。「神々しい幻」は、「風」「雲」「「火」「いなずま」という自然現象ばかりでない。神の顕現を直観させる「生き物」の姿があった。この「生き物」は、10:1では「ケルビム」として語られる。

 しかし、エゼキエルの視点は「彼らの頭の上、大空のはるか上」(1:26)に向けられる。そこにみたのは、「人間の姿に似た」「主の栄光のよう」(26,28)なものであった。ここに主であり人となられたキリストの姿が示されている。

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