聖書の小窓

 

2020年5月31日

   すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。    使徒2:2

 

   教会は、五旬節(ペンテコステ)の出来事によって新しくスタートした。五旬節は第50を意味する言葉で、イスラエルの民が、シナイ山で律法を授与された記念日であった。また、その律法においては「七週の祭」または「刈り入れの祭」とされていた。

    この日、主イエスの弟子たちは、「皆が同じ場所に集まっていた。約束の聖霊を待っていたのである。主イエスは十字架につけられる前に、「もうひとりの助け主」について言われた。(ヨハネ14:16) 更に死から復活されてからは聖霊を待ち望むよう命じられた。(使徒1:4.8)  そこで弟子たちは主の言葉を信じて熱心に祈っていた。(1:14.2:1)

 この聖霊が天から降ったのは「突然」であるが、預言者と主イエスによって約束されたことの約束の成就でもある。そのとき「激しい風が吹いてきたような響きが起こった」。ヘブル語の風という言葉は息と同じ言葉であり、聖霊によって神の命が吹き込まれたことがあかしされている。

 旧約での五旬節は、律法授与記念であり、小麦の刈り入れの祭であったが、新約のペンテコステは、信者が聖霊によって律法を心に刻まれ、キリストの証人として宣教の働きに召し出されることを意味している。
 キリストという初穂に生かされたキリスト者は、御霊の導きと助けによってキリストの証人となり、積極的に主をあかしする者とされた。また、キリスト者は、御言葉を伝えることによって、主を深く知ることができるようになる。このようにして、恵みに恵みが加えられている。
 日本同盟基督教団では、この日を世界宣教デーとしている。世界宣教のために祈ると共に、自分の身近なところで主をあかしする者でありたい。

 

2020年5月24日

   あなたご自身が、あなたの御座が据えられた場所でこれを聞き、その異国人があなたに向かって願うことすべて、かなえてください。        Ⅰ列王記8:43

 

    ソロモンが建てた神殿は、完成まで7年を要した。資材を得るためフェニキア人の協力を得るなど、周辺の多くの異国人を含め数十万人の労務者が投入された。そこでは最高級の建材が用いられ、調度品も豪華に作られた。その奉献のときには「主の栄光が満ちた」(8:11)とある。

けれどもソロモンは、この神殿には「天も、天の下の天も、あなたをお入れすることはできません」と、神殿そのものが神の栄光を等しくするものでないことを告白している。(8:22) 

   それでは神殿は何のために建てられたのか。その役割は何であるか。その解答はソロモンの祈りの中に見出される。「あなたご自身が、あなたの御座が据えられた場所でこれを聞き、その異国人があなたに向かって願うことすべて、かなえてください。」

   この場合、異国人は神殿の外で祈っているのだが、それを聞かれる神は神殿の中で聞くのではない。祈りを聞かれる「あなたの御座が据えられた場所」とは、地上のことではなく主が臨在される天である。そして主が天におられるからこそ、「あなた向かって願うことすべて、かなえてください」と祈ることができるとの理解が示されている。

    神殿は神との会見の場であると共に、民のために備えられた祈り家であった。困難や苦しみが派生するのは、個人の場合もあるし、国のレベルになることもある。どんな状況であれ宮で祈るとき、主はそこに道を備えてくださる。

   神殿が祈りの家であることは、主イエスの宮清めの出来事からも知ることができる。主イエ

スは、「両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒しされた。…そして人々に教えて言われた。『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」」(マルコ11:15~17)

  教会もまた神の家である。その教会が祈りの家であることを大切にしたい。

2020年5月17日

    この宮、すなわち「わたしの名をそこに置く」とあなたがたに言われたこの場所に、夜も昼も御目を開き、あなたのしもべがこの場所に向かってささげる祈りを聞いてください。

                   1列王8:29

 

  主の宮は、公の礼拝と祈りの場所として、ソロモン王によって建設された。イスラエルの歴史において、礼拝と祈りの場所として長く幕屋が用いられてきた。そこにおいて捧げられる祈りは、民の中に神の臨在をあかしするものであった。

「私たちの神、主は私たちが呼び求めるとき、いつも近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民がどこにあるだろうか」申命4:7

 ダビデは自分が杉材の家に住みながら、主の宮が幕屋であることに心の痛みを感じていた。そこで主の幕屋に替えて宮を建てることを決意した。けれども主は、そのことを子孫に託するように命じられた。

「わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、あなたの王国を確立させる…彼はわたしのために一つの家を建て、わたしは彼の王国をとこしえまでも堅く建てる。」

Ⅱサムエル7:12,13

 ソロモンが建てた宮は、最高の材料と高度な建築技術が用いられた。けれども、所詮それは全能の神の栄光わすものではない。

「実に天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。」8:27

 ソロモンが奉献の祈りで繰り返しているのは、約束という言葉である。宮が建設されたのは、主がダビデに約束されたことである。それはダビデへの約束の実現であるが、より重要なのは「王国をとこしえまでも堅く建てる」とある約束である。

 この宮は、イスラエルのその後の信仰により栄枯盛衰するが、新約においてはキリストによって信者の中に建てられる。ここに「王国をとこしえに堅く建てる」という約束が成就する。

使徒パウロは「あなたがたは自分が神の宮であり」(Ⅰコリント3:16)と語る。ここに、宮の内で祈ることの重要さがある。

2020年5 月10日

  お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。 ルツ1:16

 

   困難に追い詰められた中では、思わぬ一つの決断が、その後の人生に決定的な意味と方向を与えていくことがある。そこでは、個人の人生観、価値観が根本的に問われる。

   ルツ記は、度重なる不幸に見舞われながら、運命に負けず信仰に導かれて歩み出した女性たちの姿を描いている。

 ナオミは、故郷であるユダのベツレヘムに帰ろうとしていた。かつては飢饉で生活に困ったため、一家で異教の地であるモアブに移住したのである。けれども、そこで夫と二人の息子を失ってしまった。残されたのは、亡き息子たちの二人の嫁オルパとルツであった。

息子たちが健常であったとき、この嫁たちはナオミ一家を助け、喜びとなっていたに違いない。けれども、今は、ナオミにとって二人の存在が悲しみと重荷に変質していた。故郷にかえったとしても、ユダヤ社会に異邦人の嫁たちが受け入れられるはずはなく、嘲笑と差別を生むことがわかっていたからである。

  オルパとルツは、「私たちは、あなたの民のところへ一緒に戻ります」(1:10)と言っている。

そのことだけをみるなら、姑のことを気遣う優しい女性であったことを伺い知ることができる。けれども、この両者の歩みを分けたのは、ルツの信仰による神に対する確信であった。

 「お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(1:16)

 もしナオミが日常の中で、不平と不満だけを吐き出していたなら、「あなたの神」はルツに尊ばれることはなかったであろう。困難、理不尽、死別、ナオミは、そうした中にありながら神との関係を堅持していた。ルツはそれをみていたから、「あなたの神」を知り、そこに身を寄せた。

 ルツ記は、ルツがダビデ王の家系となったことを告げている。同じ時代に活躍した師士たちに比べると、小さな出来事である。けれども、この家系からダビデがうまれる。救済の歴史の中での影響は測り知れない。

 

020年5月3日

   あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまで、都にとどまっていなさい。

                                                                                                                     ルカ24:49

 

  主イエスは、復活に対して半信半疑の弟子たちに「わたしの手やわたしの足を見なさい」(39)とご自身の体を示された。そこには、主イエスであることを否定できない、生々しい十字架の傷跡が残 っていた。

 更に主は御言葉によって、ご自身について書いてあることを悟らせた。(46.47)これにより弟子たちが抱えていた不安は、次第に確信と喜びへと変わっていった。けれども主イエスは、そのことを土台として弟子たちを派遣するのではない。

 「わたしの父が約束されたもの」によって「高き所から力を着せられるまで、都にとどまっていなさい」と命じられた。

 「父が約束されたもの」とは、聖霊のことである。主イエスの生涯は、誕生のときから死に至るまでずっと聖霊に支えられてきた。それは父なる神の愛をあかしするもので、主イエスは信じる者に与えられると約束しておられた。

「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」(11:14)

 崩壊しそうであった弟子集団は、復活の主イエスによって再構築されようとしていた。その中核である福音は、人の悟りとか認識によって基礎づけられるものではない。「高き所から力を着せられ」なければならない。なぜなら神の国は人の思いや考えによるものでなく、共におられる復活の主イエスと聖霊により、神の愛を体現するものであるからである。

 この聖霊を受けるためには、信仰を必要としている。「都で待つ」というのも、主イエスの言葉に対する信仰による応答である。ルカは、次の書物である使徒の働きの冒頭部分で、弟子たちが如何に熱心に待ち望んでいたかを記している。(使徒1:14)

 キリスト者は、キリストの復活の証人として召されている。それは聖霊によってあかしされなければならない。これを欠いたまま行動するより、まずは聖霊に満たされることこそが優先される。

2020年4月26日

   これらのことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたの中にあるように」と言われた。 ルカ24:36 

 

  人は困難や限界に直面する中で、不安と怖れに支配されてしまうことがある。そこから一歩も前に進むことができないということも起きよう。復活の主を知った二人の弟子は、急いでエルサレムに戻った。そこには十一人の弟子と仲間たちが、人々を恐れて家の中で身を潜めていた。

 「すると、十一人とその仲間が集まって、『本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された』と話していた」24:33.34

   十字架以後、弟子たちの頭の中で主イエスの存在は過去のものになった。その言葉と現実には深い断絶があった。それ故、女たちやペテロが主の復活を告げた後も、主イエスが生前に言われた言葉が成就したなどと考えない。復活のニュースは届いていたが、信じることができないでいた。

 主イエスは、突然、そのような弟子たちの中に入って来られた。

 「これらのことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『平安があなたがたの中にあるように』と言われた」

    ここでは女たちの場合とは違い、主イエスの側から弟子たちに直接的な語りかけがあった。そのことは、御使いが女たちに伝えた出来事を弱めるものではない。主は、弟子たちが御言葉の確かさに立って、混乱から抜け出ることができるよう働かれたとみるべきであろう。

  主イエスは「平安があなたがたにあるように」と言われた。主から平安を受けることこそが、復活のリアリティーとなる。主イエスは、彼らの真ん中に立つことで、それが疑いようのない事実であることを示された。こうして主イエスを中心とした弟子たちの交わりが再構築される。

   コロナウィルスの感染拡大で、人々は家の中に閉じ込められてしまった。そのため行動は制限され、経済は疲弊し、人と人との繋がりが絶たれている。このままでは先の希望が見えにくい。そんな時代であるからこそ、神の子である主イエスの復活を再認識したい。真の平安はここにしかないのであるから。

2020年4月19日

   イエス御自身が近づいて来て、彼らと共に歩き始められた。     ルカ23:15

 

   新型コロナウィルスの感染を防ぐため、専門家からは不急不要の移動を避け、人との距離を保つことが強く奨められている。疫学的には理にかなったことで、行政が危機感をもって対応するのは当然のことである。

   けれども、この影響により至る所で生活が打撃を受け、経済は縮小し、教会の交わりまでもが疎遠にされている。コロナウィルスが罪の広がりと似ているのは、目に見えない神に敵対する力が働いているからではなかろうか。

 イースターの出来事があったとき、弟子の集団は既に崩壊していた。そこでは主イエスについて来た人々の関係性は不信の剣に寸断され、抱いていた理想は十字架と共に葬り去られてしまっていた。

  エマオに向かう弟子たちが「話し合ったり、論じ合ったりした」のは、主イエスの十字架に関することであり、「暗い顔」(17)をしたのも、混乱と失望が心を占めていたからに違いない。このとき既に婦人たちから主イエスが復活されたニュースを聞いてはいたが、その話をたわごととしか受け止めず、信じることができないでいた。

 しかしそんな彼らのところに「イエスご自身が近づいて来て、彼らと共に歩き始められた」

最初、弟子たちはそれが誰であるかわからないでいた。このときの弟子たちの姿は、彼らの不信仰を晒しているとも言えよう。ルカがそれをあえて記すのは、そこに注がれる恵みの大きさを知るからである。

  主イエスはどん底にいた弟子たちと「共に歩き始められた」。その弟子たちの弱さと無知を受け入れておられるからであった。それは彼らだけのことでなく、今に生きる私たちにとっても大きな慰めである。弟子たちは、主と共に歩みを続ける中で御言葉を聞き、それが復活の主イエスであることに気がつく。

   復活の確信が共有されるためには、主イエス側の「共に」という働きかけがある。それは地理的にも時間的にも制約を受けることはない。教会は信仰により「共に」を経験することができる。そうしてこの時代の試練を乗り越えていきたい。

2020年4月12日

  人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。                ルカ24:7

 

イースターの出来事は、主の言葉を思い出すことの中に確認される。現実を前に意識の底に仕舞い込んでしまった神の言葉を、聖霊による天からの光の中に新しく聞くのである。女たちがガリラヤで主イエスから聞いた言葉は、主の十字架の姿に隠れて霧散してしまっていた。それまで求めていた希望さえ、主イエスのなきがらと共に葬り去られてしまった。

   それでも女たちは、週の初めの日に墓に来た。弟子たちと比べれば、恐れを振り払う勇気ある行動ということができよう。「準備しておいた香料」(1)は、安息日が始まる前に用意したもので、女たちの強い意思と決意が滲み出ている。けれども女たちは、決して主イエスの言葉に従ったのではない。悲しみに打ちひしがれ、埋葬のときを過ごす以外に、慰めを得る術がなかったのである

  しかし、それとは別の方向から事態が展開していく。女たちが全く予想していなかったことが起きた。「見ると石がころがしてあり…主イエスのからだは見当たらなかった。」(2,3)  主のからだがないのであれば、せっかく準備した香料は役に立たない。そんなことより、いったい何が起きたのか、女たちは検討がつかず「途方に暮れていた」(4)

  その女たちに、御使いがあらわれて、主が復活されたことを伝えた。「ここにはおられません。よみがえられたのです。」(6)

  驚き戸惑う女たちに、御使いは、この出来事を確信するため主イエスが語っておられたことを思い出すように導かれた。

「人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われ

たでしょう。」(24:7)

  十字架の前での人々がそうであったように、現実はしばしば神の言葉を封じてしまう。けれども、キリスト者は、それを超えて神の言葉を聞くよう求められている。聖霊に導かれ、そこに信仰をもって歩むとき、復活のいのちを知るのである。

2020年4月5日

  そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのかが分かっていないのです。」 ルカ23:34

 

   人は、誰かの罪を指摘したり裁いたりすることをする。それに対し、たとえ小さな罪であったとしても、罪を赦すことは如何に難しいことであるかと思う。

  けれども主イエスが父なる神に罪の赦しを願ったのは、「そのとき」であった。それは普通の人であれば、怒りが爆発し、呪いの言葉を連発するような状況ではなかろうか。

 赦しを祈られたのは、肉体的な苦痛が極限にまで至っていたときのことである。その前には肉が飛び散るまで鞭打たれ、刑場までの長い道を、よろけながらも十字架を負わされていた。その体が釘で十字架に打ち付けられてからは、肩と腕と肺に強烈な痛みが走っていたに違いない。この刑に処せられた人は、しばしば筋肉に痙攣を起こし、強烈な痛みのため失神状態になり、最後には窒息死するという。人が考え出した最も苦痛の伴う刑であり、そこには呪いの恐ろしさがあった。

 一方、ローマ兵と、それを遠巻きに見物している民衆は、十字架上の主イエスの姿を面白がったり嘲るばかりであった。罪のない神の御子を十字架につけたことでは、彼らはピラトと同罪であった。それ故、彼らに赦しを得られる要素は全くなかった。

 けれども主イエスは、この十字架の上から「父よ、彼らをお赦しください」と父なる神の前に祈られた。それは御子による神の愛が完全にあらわれたときであった。

 「彼らは、何をしているのかが分かっていないのです」とあるように、罪の邪悪さによって裁いてはいない。その邪悪な罪を御自身で負い、神の赦しによって再生される人間像を求めてのとりなしである。ここに人に対する神の愛が完全にあらわれている。

2020年3月29日 

    ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついに

 その声が勝った。  ルカ23:21

   

   教会暦において受難節(レント)は、主イエスが辿られた十字架への道を偲び、悔い改めを

する期間とされてきた。

 今年は新型コロナウィルスの世界的な広がりが、受難節をいつもとは違うものにしている。感染者数の驚異的な増大を前にオリンピックは延期され、社会活動は制限され、経済は後退している。そこには紛れもなく死の影が忍び寄っている。しかし主イエスが歩まれた苦難は、死に勝利したキリストを指し示す。

 主イエスはユダヤの最高議会で死刑に定められた。それに続く総督ピラトによる裁判では、主イエスを断罪する訴えの内容がユダヤでの裁判と全く違ったものとなっていた。そこに死刑に固執した人たちの訴えの矛盾が露呈している。

 「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分はキリストだと

言っています。」(23:2)

 ピラトは人々の声を聞いて訴えを調べたときに、それがユダヤ人の妬みから発した冤罪であることを見抜いた。

 「この人は死罪にあたることは何一つしていません」(15)

この時点においては、ユダヤ人よりもピラトの方が正しい判断をしている。けれどもピラトはここで大きな罪を犯してしまう。その罪とは、主イエスに罪がないのを知りながら無罪を宣言して釈放しなかったことである。それはピラトが正義よりも自己保身に走ったからであった。

 けれども、福音書はそのピラトの行動を押した群衆の責任をより重く描いている。彼らは主イエスを十字架につけるよう叫び続け、その声に押されてピラトが決断したのだと。

「彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。」(21)

 キリストを十字架に追いやった群衆がいた。けれども主イエスは彼らのためにも十字架につけられた。そこに神の愛が注がれている。それを信仰をもって受け止めるとき、悔い改めがおきる。神の救いはここから発し、死と絶望の中にいのちの輝きをあかしする。

2020年3月22日

 

   わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。しかし今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます。             ルカ22:68.69

 

   人は、自分が罪人であると認めることに疎い。あるいはそうした意識を否定し、神に反発することで、ますます罪を深くしていると言った方がいいであろう。そこでは常に自分が王であり、同時に正義の実行者であり続ける。

 ユダヤ人たちは、主イエスに対する妬みの故に、宗教裁判にかけて有罪にしようと企んでいた。そこで求められたのは、主イエスを極刑とするための証拠であった。主イエスは、民の長老や律法学者たちが集められた議会に立たされ、祭司長から尋問された。

  「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい」(67)

 今日の裁判でも行われる人定質問である。そこには巧妙な罠がしかけてあった。主イエスの行いをもっては極刑に処することができないので、言質によって律法違反の証拠をつかもうとするものである。

    祭司長や律法学者たちの考えでは、目の前の主イエスがキリストであるはずはなかった。そのイエスを陥れるには、キリストという言葉は都合がよかった。それをもってローマ政府に反逆して暴動を起こそうとしている者と断罪するとができた。この頑なさのため、主イエスの言葉は「わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えない」となる。主イエスは、そのような祭司長の心の闇を明らかにされる。それでもそこにはなおも救いの手がのべられている。キリストの救いは人の側から起きるのではない。主イエスは、これから起きることを彼らに示された。「しかし今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます。」

 ここには罪を全く悟ることができない祭司長と神の大の能の右につくキリストが対比されている。神の子を前にして心を頑なにする祭司長の姿は、私たちの心に巣くう罪の実相であることを覚えたい。そうした者をとりこみながら、主イエスの十字架の道がある。

2020年3月15日

  主人が婚礼から帰ってきて戸をたたいたら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている人のようでありなさい。 ルカ12:36

 

    不確実の世界にあって、人は先のことを予測するには限界がある。誰が十年後の自分を正確に言い当てることができるだろう。私たちは、明日のことさえもわからない。それでは先のことは何も考えず、行き当たりばったりでいいのだろうか。主の前にあってはそうではない。なぜなら私たちの日常の業は、主の召しと信頼によって意味付けられるものだからである。

   主イエスは、婚礼の席に出かけた主人と、その留守を守るしもべの譬えを話された。この譬の主人は、再臨の主の姿をあらわしている。しもべは、神の国に招かれている者たちということができる。

「主人が婚礼から帰って戸をたたいたら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている人のようでありなさい。」

 しもべに主人の帰りの時間がわからない。そこで状況をどのように受け止めるかで留守の期間の働きが大きく違ってくる。

 「主人が返ったらすぐに戸を開けよう帰りを待っている」のは、主人の召しに対する信頼とと積極的な応答があるからである。ここには、再臨に備えるキリスト者の姿が描かれている。教会は、主がいつお出でになってもいいように、目を覚ましていなければならない。

 しかし主人の帰りが遅いことに、待つことをやめてしまうことがある。ルカの福音書が書かれた時代であっても、主の再臨のときを待ちあぐねた人たちがいた。そのため、主のときを待つ備えができなかったのである。

 待つことは忍耐を要するが、そこに約束される幸いはどんなに大きいことか。(37)

2020年3月8日

   何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは、それに加えて与えられます。  ルカ12:31

 

    3.11の東日本大震災から9年の歳月が過ぎた。あの日、すべてが失われたようであったが、私たちの周りは再び物が満ちている。物質中心の世界にあっては、人々は更なる富を求める。結果として、何が本当に必要なものであるかがわからなくなってしまう。復興は、あの日の気付きを記憶しているであろうか。

 ルカは、主イエスのたとえに続いて、生活のことで心配することのないよう話された。ここでの心配は「何を食べようか」「何を着ようか」である。その根底には貧しさと足りなさに晒されている日常があった。それは富とは相反することである。けれども、人が求めるべきものを見失っていることでは、前段で語られた金持ちと共通している。

 金持ちは、豊作によって得たものを蓄えて更に富もうとした。そこに欠けていたのは、自分のたましいを物と結びつけ、神との関係を無視するか過少にしか考えなかったことである。

 人が心配するのは、何かが足りなくなるのを恐れるからであろう。半面、心配は不可欠だという反論も成り立つ。主イエスは、そのための働きを否定してはいない。心配するなというのは、恐れが先行して食べるとか着るということが第一になってしまうからである。たましいと神との関係が第二、第三のことになってしまうとき、そこに神の恵みと御支配があることを思わない。

 「いのちは食べものよりも大切」(23)と言われることは、いのちの源が主なる神にあって、全能の神がいのちを支えていることを示している。種蒔きをしない烏が養われているのも、野のユリがソロモンより麗しく装われているのも、そこにいのちを養い育てる神の御手が働いているからである。

2020年3月1日

「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえからとりさられる」  ルカ12:20 

    

   人が最も警戒しなければならないことに、自らのうちにある欲がある。それはしばしば自己弁護をしたり、義の装いをしてより高位の権威を自分の側につけようとする。

  主イエスは「遺産を分けるよう、兄弟に言ってください」と願った人に、「どんな貪欲にも

気をつけなさい」(15)と言われた。親が死んで、兄弟の中で遺産を分けることは正当なことで

ある。おそらくこの人は、兄弟の中で遺産を巡ってトラブルになっていたのであろう。その裁

きに主イエスの力を借りようとした。

 しかし主イエスは「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したの

ですか」と言われた。ここに罪の本質を見失って、貪欲を満たそうとしている人の姿がある。

  主イエスの働きは、そうした人たちの義を手助けするのではなく、その罪を明らかにし、その

支配から救うことにある。

 「貪欲」が問題なのは、それが「人のいのち」を滅びへと押し流してしまうからである。主イエスのたとえで語られる金持ちは、豊作になったとき、自分のためにだけそれを用いようとした。蔵を新しくして、そこにすべてをしまい「これから先何年も…さあ休め、食べて、飲んで、楽しめ」(19)と言う。

 この人の場合、安息と平安そして将来の希望の根拠は、全て自らの内に蓄えられた財産にな

っていた。しかし、主イエスはこの人の人生観に決定的な間違いがあることを言われた。「愚

か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。お前の用意したものは、いったい

誰のものになるのか」

 財産と神のいのちは結び付くものではない。それを自分だけのため用いるか、神のためもちいるかが問われる。の支配から離れて、神の前にたましいが生かされる道を求めていきたい。

2020年2月23日

  しかし、イエスは言われた。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。         ルカ11:28 

 

    特別な才能をもった人が社会で活躍していると、その親の教育方法がマスコミに取り上げら

れたりする。それに触発され、人々の関心は、才能が開花した秘訣に向けられる。

   主イエスが、群衆の中で話をしておられると、ひとりの女が声を張り上げて言った。

 「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです」(11:27)

  ここでの「幸い」は、神の祝福を意味する言葉であり、主イエスの母マリヤに対する最高度

の賛美であった。主イエスは、その言葉に「いや」と言われた。それは母マリヤに対する称賛

を否定するものではない。「いや」は、「むしろ」(2017年新改訳・新共同訳)の意味で、マリアに向けられた幸いを「神のことばを聞いてそれを守る人たち」に向けるためであった。

 このとき女は「声を張り上げ」たのであるから、その行動は群衆の中にあって目立ったであろう。その声に賛同する人たちも、少なからずいたに違いない。けれどもそこには、福音が語る神の国という視点が悟られていない。人間的な評価だけが先行し、信仰によって真摯に神と

向き合おうとしない。

 主イエスは「神のことばを聞いてそれを守る人たち」に目を向けさせる。この女に限らず多くの人たちは、み言葉から離れた所に立って神の業をみようとしていた。「天からのしるし」を、神の子を信じるための条件のように迫っていた。

 けれども主イエスは、私たちのそば近くにある神の国の福音を語る。その祝福は選ばれ

た特別な人にあるのでなく、「み言葉を聞き、それを守る人」の中に見出されるのだと。人間的な評価の中に福音の恵みを見失ってはならない。

2020年2月16日

    しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国があなたがたに来ているのです。     ルカ11:20

 

    新約時代、多くのユダヤ人たちは神の国の到来を待ち望んでいた。そのときが来たら、王なる神がイスラエルを支配し、ローマによる搾取という現実から開放されると信じていた。

 そう言う人達に対し主イエスは、「わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国があなたがたに来ているのです」と言われた。モーセによってエジプト全土にぶよが大発生したとき、呪法師たちがいった言葉である。「これは神の指です」(出エジプト8:19)神の指とは、イスラエルいがエジプト脱出のときにあかしされた神の力のことである。

 主イエスが悪霊につかれた人から悪霊を追い出しておられたとき、群衆の中に「ベルゼブルによって悪霊を追い出しているのだ」と言う者がいた。そこにはっきりと神のあかしがあるのに、主イエスの意図を捻じ曲げ、真反対の解釈をしがいたのである。

 この人たちは、長らく神の国を待ち望んでいるのであるが、主イエスによる神の国を受け入れることも信じることもしない。その最大の理由は、啓示された言葉によって神の国を知ろうとせず、知識と自分たちの願望を基礎としていたことによる。神の国は、ダビデやソロモンの時代におけるイスラエルの繁栄をイメージとしていた。

 そこに欠けていたのは、イスラエルの歴史が神の恵みによるもので、全ての民の祝福のために備えられているという視点でであった。

 「神の国があなたがたに来ている」とは、日常の現実世界の中に、既に神が働いていることを教えている。私たちはそこに、決してサタンに負けない勝利を信じていく。

2020年2月9日

  

      こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために熱心に祈り続けていた。

                                                       使徒12:5

 

    福音は、爆発的にローマ社会に広まっていた。迫害によって、フェニキア、キプロス、アンテオケに散らされた人々が、御言葉を語り続けたことによる。(使徒6:19)

  その人たちは。それまでユダヤ人以外に語ることはなかったが、アンテオケに来てからはユダヤ人以外の異邦人にも福音をあかしした。そこで多くの異邦人が主に立ち返り、人々から初めてキリスト者と呼ばれるようになった。

 そうした動きを政治的な力で封鎖しようとしたのが、ヘロデ大王の孫にあたるヘロデ・アグリッパ1世(BC10~AD44)であった。彼は、ヨハネの兄弟ヤコブを殺害(12:2)し、それがユダヤ人に喜ばれるのをみるや、ペテロを捕らえ牢に閉じ込めた。ここでペテロまでも殺されてしまったら、福音のあかしは一機に減退してしまったであろう。

 ペテロは二本の鎖につながれ、二人の兵士の間に置かれた。更に、それを四人1組の兵士4組が監視していた。(4,6)それは神の国の働きに対し、世の力が真っ向から牙を剥いたときである。この状況の中で「教会は彼のために熱心に祈り続けていた」(12:15) 世の力が猛威を振るう中で、人間的な力によって対抗しようとすればれに、瞬く間に封じ込められてしまう。しかし御言葉は、そうしたときに祈り続けていくことが如何に重要なことであるかを伝えている。

 人々が祈り続ける中に、御遣いによるペテロの解放の業が展開していく。その驚くべき出来事に、教会の人たちまでが初めは信じられないでいた。けれどもペテロの監禁は事実であり、牢から解放された証言者が多数いる。扉をたたき続けたペテロの姿は、天の門が開かれるため求め続けるキリスト者の祈りでもある。必ず開かれる確信によって祈り続けたい

2020年2月2日

   あなたの父が持っているバアルの祭壇を取り壊し、そのそばのアシュラ像を切り倒せ。そのとりでの頂上に、あなたの神、主のために石を積んで祭壇を築け。 士師6:25~26

 

    信仰の教父たちは、人生の転換点において祭壇を築いてきた。イサク、ヤコブにとっても祭壇は自分の弱さを自覚し、信仰によって神の力に生かされるターニングポイントであった。

「アブラハムは自分にあらわれてくださった主のために、そこに祭壇を築いた」(創世

記12:7,8 13:4,18 22:9  26:25 33:20 35:1)

   デオンは御遣いをみたとき、主のため祭壇を築いて「アドナイ・シャロム」と名付け

た。(6:24) それは主は平安の意味する言葉である。けれどもそれは十分ではなかった。

ミデヤン人と戦おうとするとき、信仰におい更に主の取り扱いを受けなければならなかった。父の支配にある家庭環境は、カナンの偶像礼拝の影響が強かったからである。

「あなたの父が持っているバアルの祭壇を取り壊し、そのそばのアシュラ像を切り倒せ」

 バアルは肥沃神であり、アシュラは女神である。それは戦いと関係していたのかも知れない。主はギデオンに身近にあるバアル礼拝を断ち切り、主との関係に生活を築き直すように求められた。

 「そのとりでの頂上に、あなたの神、主のために石を積んで祭壇を築け」

 ここに求められる祭壇は、モーセが出エジで定めたものではない。幕屋の聖所に置かれ

た祭壇は、アカシア材で作られ、青銅で覆われていた。(出エジプト27:1~8)けれども、

ギデオンが築くように言われたのは、石を積んで作るものであった。それはイスラエルの教父たちが辿り、築き上げてきた祭壇を思わせる。主の戦いにおいて、一番に求められたのは、あいまいさを排除して、神への信仰によって新しくされることだったが。この確信が怖れを克服させていく。

2020年1月26​日

   そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、私に向かって誇るといけないから。 士師7:2

 

 世の戦いにおいては、数は力として認められている。必然的に少数者であることは、戦いには向かないとされてしまう。

 しかし主はギデオンに「あなたといっしょにいる民は多すぎる」と言われた。このときのミデヤン人の軍勢は13万5千人(8:5)であった。それに対してイスラエルは3万2千人(7:3)である。数においては圧倒的に不利な立場にあった。それでも「多すぎる」と言われるのは、これか

ら交わされる戦いが主の戦いであることを知るためであった。もしイスラエルがそのまま出て行ったなら、戦いに勝利しても彼らは主がミデヤン人をイスラエルに渡されたからと考えず、自分たちの力によって勝ち取ったと誇るに違いなかった。

 「イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、私に向かって誇るといけないから」(2)

    数においての不利を克服すればれば、それは素晴らしい成果となろう。けれどもそこに信仰がなければ、その誇りまでも主に向かってしまう。表面上の結果が良くても、最悪の状況に陥ってしまう。

 力を頼りに場当たり的な対応をしていては、主に立ち返るための信仰を回復することができないのである。ここで主が求められるのは、弱さの中に働かれる主を信仰をもって受け止めることである。武力によってではなく、共におられる主を確信することによって、恐れずに前に進むのである。

 今日においても、私たちは信仰の戦いに直面することがある。様々な困難を前に、そこで主が何を求めておられるかを知る者でありたい。信仰の戦いにおいて必要なのは、自分を頼りとする力ではなく、共にいてくださる主が勝利に導いてくださるという確信であるのだから。

2020年1月19日

   すると、主は彼に向かって仰せられた。

「あなたのその力で行き、イスラエルをミデアン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」    士師記6:14

 

   ギデオンが聖書に登場した時代、イスラエルはミデヤン人に圧迫されていた。生活用品から収穫した穀物までも、すべてミデヤン人に力ずくで収奪されてしまった。そのため、イスラエル人は山々にある洞窟や、ほら穴、要害を自分たちのものにした。(2) ときにギデオンは酒ぶねの中に隠れぶねながら収穫した麦の脱穀作業をしていた。この時点でギデオンには、ミデヤン人と戦おうとする意志がなかったことがわかる。預言者が、主の名によってミデヤン人を追い出すよう告げていた(8~10)けれども、その言葉がギデオンの心を打つことはなかったのである。

 ところが主の遣いがギデオンに現れて言った。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる」(12)  それは主によるギデオンへの召命である。「勇士よ」との呼びかけは、ヨシュアのような戦士であれということである。しかし、ギデオンは御遣いの言葉に応じることができない。そのためイスラエルの現在の悲惨さ理由にして、戦いの支え「主が共におられる」ということを否定した。そして主の遣いと反対のことを言う。「今、主は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました。」(13)

  現状がこうなっているのであるから仕方がない、諦めて現状を受け入れるという考えは今日に通じる。そこでは今が主の言葉への信仰によって変えられると考えない。主が備えられ脱出

の道への拒絶である。

  けれども主の言葉は、ギデオンのそうした弱さに向けられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデアン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」(14)

  否定した信仰が御遣いにより再度チャレンジを受ける。ここに主の憐みがある。そしてこのことへの応答がギデオンのその後の働きとイスラエルの歴史を作っていく。

2020年1月12日

   主はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしは、エリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。 ヨシュア6:2

 

    エリコは、イスラエルの民が約束の地に足を踏み入れるにあたって最初に攻略すべき町であ

った。このためモーセの後を継いだヨシュアは、まずは斥候を遣わして、住民の様子を偵察させた。その情報によれば、住民はイスラエルのことで震えおののいていることが知られた。(2;24)

 エリコの町は「イスラエル人のために、城壁を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者はなかった。」(6:1)とある。切迫した戦いに備えて、完全な防備がされていたのである。エリコにとってイスラエルは恐怖であったが、イスラエルにとってもエリコは怖い存在であった。軍事的にみれば、イスラエルのような野営集団よりも、エリコのような城壁のある方が有利である。それにエリコの住民は、イスラエルにはない鉄の武器をもっていた。数は多いとは言え、もし力対力の対決であるなら、相当の犠牲を覚悟しなければならない。

 そうした状況の中で、主はヨシュアに「エリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した」と言われた。「渡した」は完了形である。それは、これが神の戦いであって、イスラエルの民がその器として用いられることを意味している。渡されたのだから「聖絶」(6:17)する。ただし聖絶(ヘーレム)は、旧約時代に限定された神の裁きであり、他に拡大して適用されてはならない。目前には不利に追込まれている状況と困難が迫っていたが、信仰の目を通してみると、そこには既に勝利を約束する主の臨在があった。この戦いは軍事力に頼った侵略ではなく、神の業として攻略するものであった。そのため、ひとつひとつの過程において主なる神との関係が求められている。

  現実に直面する様々な問題の中で、それに立ち向かう主の方法が何かを考えよう。人間的に不可能とされることでも、主は祈りのうちに導きを備えてくださる。

2020年1月5日

   求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見出だします。たたきな。さいそうすれば、ひらかれます。  ルカ11:9

 

    主イエスの生涯を垣間見るときに、日々、祈りに多くの時間を費やしておられたことに驚かされる。ガリラヤでの宣教のときから、主イエスは群衆に囲まれ、ゆっくりと食事を摂ることもできなかった。それでも日常的に、父なる神への祈りのときを欠かすことはなかった.

 弟子たちは、主イエスの祈る姿に影響を受け、自分たちも祈れるように、「祈りを教えてください」と願った。そうした弟子たちの求めに応じ、祈りの内容を教えられたのが主の祈り(ルカ11:2~4)である。ルカはそれに続いて、祈りに関する主イエスの教えをつけ加えた。旅人と友人のたとえ(11:5~8)と父親と子供のたとえ(11~13)である。

    旅人と友人のたとえでは、神は祈りを確かに聞いてくださる方であることが強調されている。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見出だします。たたきなさい。そうすれば与えられます。」

   祈りにおいての確信が強ければ、直ぐに答えがないからと言って途中で諦めたりしない。主の導きを捜し続け、解決の糸口を求め続ける。

 一方、父親と子供のたとえにおいては、互いの信頼関係が強調されている。それ故、父は子に対して良いものを与えものだと。それが天の父においては、最良の求めに聖霊が与えられる理由として説明されている。キリスト者の立場からみるなら、神が祈りに聞かれる方であることは、既に聖霊が与えられていることによって知ることができる。祈ることで聖霊の助けがあるからこそ神への信頼が深まる。しかし祈ることをしなければ、こうした恵みを何一つ知ることはない。自分の主観だけの判断では神を見出すことはない。今年の教会の目標は祈りの民であることである。まずは自分の祭壇を立て直す者でありたい。 

  ここではザアカイが木の上にいて、木の下におられる主イエスを見下げる構図になっている。主イエスは、その状態でザアカイに「急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているあるから」(5)と言われた。

 ここに罪人を招くため、徹底的にへりくだっておられる主イエスの姿がある。ザアカイは罪人のまま受け入られることを悟り、その愛に即時的に反応した。「主よ。ご覧ください。……」(8)

 ザアカイに救いを宣言した主イエスは、私たちを救いに招いておられる。

2019年10月20日​

  見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのはいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみにとどまっていればであって、そうでなければあなたも切り落されるのです。    ローマ11:22

 

  神は歴史を通してご自身を啓示される。アブラハムを始祖とするイスラエル史は、神の慈しみが先行している。それは祝福のための契約であり、イスラエルは神の民としてより分けられ特別な恵みを受けていた。

 けれども、その民が不信仰を続けることによって、神の恵みから断ち切られてしまう。そして神の祝福の約束はユダヤ人以外の異邦人に引き渡された。異邦人への福音の拡大は、ユダヤ人の視点からみれば、神による新しいパラダイムシフトであった。

 パウロはこれを純正なオリーブの木が台木を残して切り倒されたこととして描いた。純正なオリーブの木とはイスラエルのことであり、

歴史的にはBC586バビロン捕囚であり、預言的にはロAD70に起こったローマによるエルサレム崩壊と侵略を含むことになる。

 この切り倒されたオリーブの木には、野生のオリーブの木が接ぎ木されたとパウロは言う。

野生のオリーブとは異邦人キリスト者のことである。接ぎ木された野生のオリーブの枝は、

純正なオリーブの台木から栄養を受けることができる。それは異邦人キリスト者が、イスラエルの始祖であるアブラハム、イサク、ヤコブの信仰の遺産を受け継いで成長できることを意味している。

 ただし、それは約束の恵みにとどまっていることによるのであって、そうでなければイスラエルがそうであったように、不信仰が続くのであれば神に切り倒されてしまう。

 神の慈しみを知る者は、同時に神の厳しさを認識しておく必要がある。

2019年10月13日

彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子7000人が、わたしのために残してある」それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。

            ローマ11:5

 

    恵みによって救われる実例として、パウロは預言者エリヤを引き合いにした。BC9世紀、北イスラエルではアハブ王の影響により、国中にバアル信仰が蔓延していた。エリヤは、主の召しによりたった一人でバアルの預言者と対決して勝利する。Ⅰ列王18:19~40

 しかしエリヤは、アハブ王の妻イゼベルがエリヤ殺害の命令を下したことを聞くと恐れて逃れてしまう。憔悴したエリヤは死を願った。19:4 

 信仰の原点を求め神の山ホレブにいたとき、主はエリヤに「あなたはここで何をしているのか」と問う。これに対しエリヤは答えた。

「私は万軍の主に熱心に仕えました。…しかしイスラエルの民はあなたの預言者を剣で殺しました。…ただ私だけが残りました。」

 エリヤは、預言者としてバアル信仰に立つ人々と戦う中で孤独感を深めていった。バアルとの対決では人々が驚嘆するものであったが、エリヤ自身にしてみると「私だけが」残されたという思いを強くした。

 主はそんなエリヤに「バアルにひざをかがめていない男子7000人がわたしのために残してある」と言われた。自分だけが残されたと主に訴えるエリヤに、主は男子7000人という同じ信仰の仲間がいることを示された。この大群衆についてエリヤは何も知らないでいた。エリヤが関わったことではなく、主ご自身が「残してある」と言われるものであった。

 ここに恵みによって残された人たちの姿がある。それは人の働きによって救われたのではなく、主の恵みの故に導き備えられた人たちである。「それと同じく、(福音を聞く)今も、恵みの選びによって残された者(キリスト者)がいます」

2019年7月21日​

しかし、恵みの賜物は違反の場合と違います。もし一人の違反によって多くの人が死んだのなら、神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、なおいっそう、多くの人に満ちあふれるのです。           ローマ5:15

 

   人はなぜ死ぬのか。死はどこから来たのか。いのちの不思議さに驚嘆し、その根源を探求する人であっても、死の原因を根源的に問う人は少ないのではなかろうか。聖書は、神に創造された最初の人であるアダムが神への違反行為をしたことを死の原因とする。神の言葉への違反は罪(単数)とされ、それまで人に与えられていた神の恩恵と祝福から疎外された。

 アダムの罪は、それ以後、人の内に深く入り込み、すべての人の中に住み付いた。その結果、神を神とせず、感謝もせず、その思いはむなしくななり、神の怒りが天から啓示されている。(1:18)

 パウロはここに、一人の違反によって、すべての人に死が広がったという構図を示している。そして一人の人イエス・キリストによってもたらされる神の恵みを対応してみせている。いずれも一人の人が核となっているのであるが、それは後者の出来事のための雛形であるからとパウロは言う。

 「アダムは来るべき方のひな型です。(14) 雛形は、それを元にして作る製品にこそ価値があるのであって、雛形そのものが製品以上に評価されることはない。その上、両者の間には決定的な違いがある。アダムの場合は神への違反行為ということが罪となって広がったものであるのに対し、主イエスにおいては神の恵みと賜物によって、すべての人に広がっているからである。

  アダムの違反によって死に定められたのに対し、主イエスにおいては多くの違反が義と

認められた。恵みと賜物が如何に絶大なものであるかを知る必要がある。

 

 

 

 

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