旧約聖書を読んでみよう

​ せっかく買った聖書ですが、新約聖書なんか、はじめから読むとイエス様の家系だけで日本人になじみのない名前の羅列ばかりでいきなりハードルです。そこで、まずは映画やお話などで出てくる聖書の物語が、実際は聖書にどのように書かれているか、神学的な論争ぬきに楽しいお話として聖書を覗いてみませんか?

 
【旧約聖書】から

Pixaby

​黄色の囲みは最新記事、囲みなしは予告記事です。

註:仙台のぞみ教会、現在、新改訳聖書(第三版)を公式聖書にしており、以下の記事内の引用もそれに基づいています。しかし「とりあえず聖書を見てみたい」という方は、上の「ネットで読める聖書」のボタンをご利用してください。「Bible.com」の「口語訳聖書」にリンクしています。この「口語訳聖書」は著作権が切れておりますのでネットで全文が読めるのですが、その特徴や問題点、これに対する新改訳聖書の位置づけなどは、上記「はじめての聖書選び」をお読みください。

​天地創造
 

​創世記1章1節~2章3節

 万有引力で有名なニュートンの、こんな逸話があるそうです。彼は、腕利きの職人に歯車とベルトで動く太陽系の模型をつくらせてテーブルの上に置いておきました。そこへ無神論者の友人が訪ねて来て、それを見つけ「見事な模型だ。これは誰が作ったのかい?」と尋ねました。ニュートンは「誰でもないさ。適当に物が集まってできたのさ」と言うと、友人は「馬鹿にしないでくれ、これは誰かが作ったに決まっている」と怒り出しました。するとニュートンは「この単純な模型も誰かが作ったというなら、なぜ、君は本物の太陽系を神が造ったことを信じないのか」と言ったそうです。ニュートンのこの意見、みなさんは、どう思いますか?

 世界のさまざまな民族には、様々な天地創造の神話があります。「神々の結婚で生まれた」「槍の穂先で泥をかき混ぜてできた」「巨人が死んでそこから生まれた」「宇宙の卵から生まれた」…などですが、すべて「有」から「有」を生み出しています。これに対して「何もなかった」(創世記1:2)という「無」から「有」を生み出したのは、寡聞ながら聖書しか知りません。神様が「光よ。あれ。」(1:3)と言ったのはビッグバンみたいだとか、太陽の創造(1:16)より光(右(モバイル版にあっては上)のようなガス雲)が先にあったことは太陽系の誕生の順番にかなっているという聖書と科学に関する議論は、本やネットにもたくさんあります。またヨブ記2610節や、イザヤ書4022節をもって「聖書は地球が丸いことを述べていた」と主張する人もいます。そういう聖書へのアプローチがあってもいいのですが、聖書は科学書ではありません。例えば、小学3年生の理科で「太陽とかげの動き」について勉強しますが、教科書が「太陽が東から西に動く」と書いていても、それを書いた著者が「天動説」を信じていたとは誰も思いませんよね。小学3年生にあわせて太陽の運行を理解させているだけです。『2001年宇宙の旅』を書いたSF作家のアーサー・クラークは、かつて「十分に発達した科学は魔術と見分けがつかない」と言う言葉を残しました。聖書に書かれた不思議なことも、科学が発達につれ、やがて理解できるようになるのかもしれません。でも、それよりも重要なのは、先ほどのニュートンの例えにあるように、誰の意思で世界がつくられ、私たちが何を目的に生きているかではないでしょうか。

M42オリオン座大星雲

Q1:聖書では植物と動物のどちらが先に造られたと語っているでしょうか?

答え→創世記1章12、20~25節

Q2:イギリスの政治哲学者トマス・ホッブスは、「手の付けられない国家と言う権力」を創世記1章21節に出てくる「海の巨獣」にたとえて、本の題名『リバイアサン』(Leviathanの英語読み)にしていますが(社会科で習いました)、新改訳聖書では何と表記しているでしょう?

答え→詩編104編26節

Q3:世界を六日でつくられた神様は、毎日の創造を「よしとされた」のですが、六日目に全部整った時、完成した世界を見て悦に入何と言われたのでしょう?

答え→創世記1章31節

アダムとエバ(イブ)
 

​創世記2章8節~3章24節

 ここを書くとき、信徒の矩を超えて「油の注がれた人」(→「はじめての教会用語辞典」のあ行「油を注がれた」参照)のように書くことがないように、でも読まれた方が聖書を開いて見たくなるようにというところをいつも考えていますが、むつかしいです。さて「アダムとエバ(イブ)」ですが、ここでは「世間一般のアダムとイブのイメージとの落差」について見ていきましょう。あわせて「聖書の舞台」(→「聖書の舞台(国・場所)」のあ行「エデンの園」参照)も読んでください。

 一般にイメージされているアダムとエバのお話は、「アダムとエバが、エデンの園でヘビにそそのかされてリンゴを食べたので、神様の怒りに触れて裸で楽園を追い出された」というものです。本当でしょうか。聖書を開いて確かめてみましょう。

 まず、アダムとエバはリンゴを食べることは禁止されていません。禁止されたのは「善悪の知識の木」の実です(創世記2:17)。リンゴは、おそらく「見るからに好ましく食べるのに良いすべての木」(2:9)に入りますから食べてもよい木の実でした。たまたまラテン語の「悪(malum)」と「リンゴ(malum)」が同じだったので、後世の人が混同したのだろうということです。リンゴは安心して食べてください。

 次にヘビが「食べなさい」と言ったから食べたというのも誤解です。聖書を確かめてください。要約を書くと、(蛇)「エデンの園の木の実を食べちゃいけないんでしょう?」(3:1)→(エバ)「いいえ、神様は食べていいと言った」「ただ、死んじゃうから『善悪の知識の木』の実だけは食べてはいけないし触れてもいけないと言われた」(3:2~3)→(蛇)「食べても死なないよ。善悪を知るようになるだけだよ」(3:4~5)と言っただけです。ヘビは「食べなさい」とも言っていないし「すぐに死ぬわけでもない」ことはそうでした。非常に狡猾ですね。詐欺師か誘拐犯との交渉人のお手本のようなやり取りです(→FBI交渉人の『逆転交渉術―まずは―「ノー」を引き出せ』。でも、蛇にそそのかされたとしても、エバは命令されたからではなく、自由意思で神様に背くことを選択したことになります。ちなみに、その後ヘビは神様に怒られて呪いをかけられ、腹這いに歩くようになったので(3:14)、それ以前の、エバを誘惑している蛇の絵には手足があります。

 最後に、アダムとエバは裸で追い出されたと思われています。そうすると、だいたいが右(モバイル版においては上)のデューラーの絵のように、イチジクの葉っぱ1枚で隠している様子を想像します(いくら何でも、これでは恥ずかしいです)。たしかに裸を隠すのに使ったのは「いちじく」ですが1枚ではありません。聖書には「つづり合わせて」(3:7)とあるので、おそらく腰ミノのようにして、しっかり隠したはずです。しかも追い出されるとき、神様はしっかり服を作って二人に着せています(3:21)。ほぼ全裸というのは、芸術的表現にすぎません。ぜひ聖書で確認してみてください。

デューラー「アダムとエバ」

Q1:アダムは「善悪の知識の木」の実を食べた言い訳を神様にしています。男性がよくするパターンの言い訳の最初のものですが、どう言ったのでしょうか?やれ、やれ。

答え→創世記3章12節

Q2:またエバも「善悪の知識の木」の実を食べた言い訳を神様にしています。女性がよくするパターンの言い訳の最初のものですが、どう言ったのでしょうか?あら、まあ。

答え→創世記3章13節

 
カインとアベル

​創世記4章1~24節

 みなさんには兄弟姉妹はいらっしゃるでしょうか。兄弟姉妹は「人生最初のライバル」と言われています。このカインとアベルは、アダムとエバが生んだ最初の兄弟で、神様が弟アベルの捧げものだけを受け入れられたので嫉妬し、弟を殺してしまいます(創世記4:38)。親の愛を得られなかったことに対する兄弟への確執を「カイン・コンプレックス」とも言いますし、有名な映画「エデンの東」は、この話をモチーフにしています。ちなみにジェームス・ディーンは、初主演だったこの映画は一躍スターになり伝説となったのです→Amazon DVD「エデンの東」

 カインは農業、アベルは牧畜を生業にしていたのですが、神様に捧げものをするとき、カインは「まっ、これでいいかな」みたいなものを持って行って、アベルは「神様に捧げるのだからとびっきりのもの持って行こう」と持って行ったわけです。神様が目を止められたのは弟アベルの捧げもの(4:4)。これに対して、カインはひどく怒ったというのです(4:5)。でも、ちょっと待ってください。この世のすべてを創造されたのは神様だし、カインもアベルも神様がつくられた世界で作業しているだけです。例えば、キッチンを借りて、材料もガスも無料で使わせていただいている状況でクッキーを作ったとしましょう。クッキーの中には上手くできたものもありますが、割れたり、焦げたり、形がいびつだったりするものもあります。あなたがキッチンを借りた方にお礼をするとき、やはり上手にできたものを選んでプレゼントをしますよね。貸主は、別にクッキーを食べたいわけではないけど、貸してあげたキッチンで上手にクッキーが焼けて「良かったね」という気持ちで、お礼のクッキーを受け取るのではないでしょうか。その反面、カインのように上手にできたクッキーを自分用に確保し、その他の適当なものを詰め合わせてプレゼントしたら、キッチンの貸主は「私にくれるのが嫌なら、別に無理してまでクッキーはいらないよ」というのではないでしょうか。それを「弟のクッキーだけ受け取りやがって」というのは「逆切れ」と言います。さらに悪いことに、カインは弟アベルに嫉妬して殺してしまいます(4:8)。これが人類最初の殺人事件です。それによってカインは、さまざまな呪いを背負うことになります(4:1012

 しかしカインは「私の咎は、大きすぎて、にないきれません」(4:13)と、神様にその気持ちを正直に告白します。このカインに対して、神様は、①他の人がカインに害をくわえないような契約をした(4:15)、②エデンの東の別の街で妻をめとり子孫が発展するようにした(4:1618)、③子孫は科学技術や芸術で才能を発揮し人類の新しい発展の道を切り開くこととなった(4:2022)、などの道を備えてくださいました。神様は、このカインに対しても大きな愛を備えてくださったのです

エリア・カザン監督「エデンの東」ワーナー・ブラザーズ、1955年。

Q1:人類の最初の兄弟カインとアベルのひとりが殺され、ひとりが追放されたはずなのに、どのようにアダムとエバの家系が続いたのでしょう。

答え→創世記5章3~4節

Q2:カインの子孫はどのような職業の道を拓いたのでしょう。

答え→創世記4章20~22 節

 
バベルの塔

創世記11章1~9節

 旧約聖書でも1,2位を争うほど有名な「バベルの塔」の場面です。みなさんも右(モバイル版にあっては上)のようなブリューゲルの絵を見たことがあると思います(ブリューゲルは2枚「バベルの塔」を描いていて、2017年夏に日本に来たのは2作目だそうです→こちらに比較画像があります)。でも聖書では意外とあっさりと書いてあります。

 このブルーゲルの絵の中では、なんと1,400人のひとが働いているのが描かれているそうです(→「名画「バベルの塔」に描かれた人数1400人! その人たちの職業を虫眼鏡で調べてみると」)。描いたブリューゲルもすごいけど、数えた人もすごいですね。この人たちは一致団結して何をしようとしていたかというと、「頂が天に届く塔を建て、名を上げよう」(創世記11:4)としたわけです。「バベルの塔を建てたこと」が神様の怒りに触れたのなら、スカイツリーなんか大変ですね。でも塔を建てたこと自体ではなく、塔を建てて「神様に対抗してやろう」とした不遜な挑戦が、ダメだったのですね。これは、前に見たアダムとエバが「善悪の知識の木の実を食べたこと」自体ではなく、「食べてはいけないという神様との契約を破ったこと」「食べることで神様と同じになろうとしたこと」がダメだったのと同じですね。

 そんな人間たちを「神様はどうしたか?」ですが、これは以下のクイズのように聖書で確かめてみてください。

ブリューゲル「バベルの塔」

Q1:神様は人間の不遜さの原因を取り除こうと、何をなされたのでしょうか?

答え→創世記11章6~7節

ノアの箱舟
 

創世記6章9節~9章17節

 右(モバイル版にあたっては上)のように、小さいころ絵本で読んだ人も多いかもしれません。これも聖書の一番初めの「創世記」に出てくる話です。アダムとエバから人が増えて行って地上に満ち溢れた時、人の世は暴虐に満ちていました。そこで神様は一度、人間を滅ぼそうとしました(創世記6:13)。しかし、そんな世の中でも神様に従って生きてきたノアに呼びかけ、ノアと妻、ノアの三人の息子であるセム、ハム、ヤペテとその妻たち、そしてオス、メスつがいの動物たちを、ノアたちに命じて造らせた箱舟にのせて40日間の大雨を乗り切らせて、地上を再びリセットしてはじめたお話です。水が引き始めた時に、ノアは最初に箱舟の窓からカラスを放ったものの水が引いてなくて出たり入ったりしていました(創世記8:7)。つぎに鳩を放ち(一度目は戻ってきた)、七日後にまた放ってみると鳩はオリーブの若葉を加えて戻ってきました(創世記8:10-11)。このエピソードから「オリーブをくわえた鳩」が平和の象徴になったのです。

 新改訳聖書は「箱舟」、他にも「箱船」「方舟」という表記がありますが、要するに舵もなくただ浮いているだけの船のことです。またアラビア語やエチオピア語などは「セム・ハム語族」という言語学の分類に入っていますが、これはノアの息子の名前からとられたものです。

日本聖書協会・藤本四郎『ノアのはこぶね』日本聖書協会、2009年。

Q1:箱舟にみんな乗ってしまったら、外開きの箱舟の戸を誰が閉めたのでしょうか?

答え→創世記7章16節

Q2:ノアは地上に降りてすぐに神様に感謝するために祭壇を築き、動物のいけにえを捧げていますが(創世記8:20)、2匹しかいなかったのに、いけにえにされた動物は滅んでしまったのでしょうか?

答え→創世記7章2節

Q3:ノアの箱舟以降に現れた天体現象は?

答え→創世記9章13~14節

 
ソドムとゴモラ

創世記18章1節~19章29節

  「これから王国の復活を祝って、諸君にラピュタの力を見せてやろうと思ってね。見せてあげよう、ラピュタの雷を。旧約聖書にあるソドムとゴモラを滅ぼした天の火だよ。(→「映画『天空の城ラピュタ』のちょっとした雑学」と、ジブリ映画「天空の城ラピュタ」で敵役のムスカがしゃべるセリフです。ラピュタの下部から光の輪が落下し、轟音とともに海が爆発する最終兵器です。この話の元ネタが創世記のソドムとゴモラの話です。

 登場人物はロトの家族。神様に導かれてメソポタミヤ地方から移動してきたアブラハムについてきたアブラハムの甥です(→聖書の舞台(人物・組織)のあ行「イスラエルの民」参照)。「家族」といっても「族長」ですから多くの従者もつれてきました。飢饉を避けるためエジプトまで行って戻り(創世記12:10~20)、現在のイスラエル南部のネゲブ砂漠で滞在していた時、従者も家畜も増えていて両方の家族が一緒に暮らせるだけの水や草もなかったので従者間の争いがおきました(13:2~7)。そこで両家族は分かれることにして、アブラハムがロトに選択権を与え好きな方を選ばせた結果、彼はヨルダン川沿いの低地を選び、カナンの地へ行くアブラハムと別れました。聖書には「ロトが目を揚げてヨルダンの低地を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルの方に至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。」(13:10)とあります。ツォアルは、死海の南端の街です。現在、死海周辺は砂漠になっていますが、当時は、右(モバイル版にあっては上)の写真のようだったのかもしれません。この写真は、ガリラヤ湖付近のヨルダン川と、カナンの岩山です。アブラハムはカナンの地で天幕生活をしましたが、ロトの家族はソドム周辺に滞在し(13:12)、やがてソドムの街に住むようになったようです。

 そして二十数年後、現在のエルサレムやヘブロンのある死海を見渡せる尾根沿いに居たアブラハムに神様の御使いが三人表れて、ソドムの街とゴモラの街を滅ぼすと告げます。そして御使いはソドムの門のところにいたロトに会うのですが、ロトは神様の御使いだと分かったようで、三人を家でもてなそうとします。しかし、それを見ていた街の者たちが、あろうことか御使いたちをレイプさせろとロトの家に押しかけてきます(19:5)。とことん性的に乱れ切った街だったわけですね。ちなみに「ソドミー」という言葉や、それを禁じた通称「ソドミー法」というものがありますが、このソドムの街から付けられた言葉なのです。結局、街の人たちは御使いに目つぶしをくらわされてあきらめますが(19:11)、その後、ロトは家族をつれて後ろを振り返らずに山の方へ命がけで逃げるように促されます(19:17)。しかし街に慣れて天幕生活に自信の持てなかったロトは、先に書いたツァオルの街に逃げて生活することを願い認められますが、ロトたちが夜明けまでにツァオルに着いたとたん、神様は硫黄の火を天から降らせてソドムとゴモラを滅ぼします。これがジブリ映画のセリフになったのです。さらに逃げる途中、警告に従わずに後ろを振り返ったロトの妻は「塩の柱」とされてしまいます。

 ソドムとゴモラの街がどこになったのか、本当に硫黄が降ってきたのかは、「ソドムとゴモラ」で検索していただければ、様々な科学的、考古学的な調査がなされています。あの「ナショナル・ジオグラフィック」の真面目な特集から、どこか怪しげな記事まで存在しますので、どうぞご自分で検索してみてください。

ヨルダン川(上)とカナンの岩山(下)(Imgrum)

Q1:「ソドムとゴモラを滅ぼす」と告げた御使いたちに、アブラハムは「御使いがよく怒りださなかったなあ」と思うほどの究極の値切り合戦をしています。それはどんなものでしょうか?

答え→創世記18章23~33節

Q2:ロトは御使いたちを守るために街の人たちにとんでもない提案をしています。それは、どんな提案でしょうか?

答え→創世記19章8節

イスラエル
 

創世記25章19~34節、27~35章

 イスラエルとは「神と戦う」という意味です。神様はアブラハム、イサク、ヤコブと契約を結び、ヤコブの十二人の息子たちを祖にするイスラエルの十二部族を「選びの民」としました→「失われた十部族」参照)。イスラエルの民は、このことを誇っていました。ヤコブは、このイスラエル十二部族の祖となった人物です。さぞかし、神様に選ばれる立派な人だったのでしょう。さあ、聖書を見ていきましょうか。

 ヤコブは双子の弟として生まれてきました。生まれる時から兄のかかとをつかんで生まれてくるような、野心あふれる赤ちゃんだったわけです(創世記25:26)。父イサクは兄のエサウがお気に入りで、ヤコブは母リベカのお気に入りだったのです(25:28)。長じてヤコブは、猟師だった兄エサウが猟から疲れ空腹で帰ってきた時、その弱みに付け込んでパンと豆の煮ものと交換に「長子の権利」を取り上げます(25:29~34)。「長子の権利」とは遺産を他の子どもの倍も受け(申命記21:17)、やがて一族のリーダーとなる権利です。お腹が空いて死にそうだと言って、渡すエサウもどうかと思います。

 父イサクが死ぬ直前、父の目が見えなくなっていたのをいいことに、毛皮を首や手に巻いて毛深い兄のふりをしてだまし、兄エサウが父から継ぐはずだった神様の祝福を横取りしてしまいます(創世記27章)。また、その悪知恵を教えたのが母リベカでした。出会いのころの純情なリベカちゃん(24:15~67)と比べると悲しくなります。祝福を横取りされたエサウが怒ってヤコブを殺しそうになると、母リベカは自分の兄のラバンのところにヤコブを逃がします。逃げる途中でヤコブが夢の中で空から梯子が伸びてきて御使いが上り下りしているのを見ます(28:12)。そのタイミングで神様は(何と!)このヤコブを「選びの民」とするのです(28:13~15)。ちなみに右(モバイル版にあっては上)の写真のような現象を時々見ると思いますが、この聖書の箇所から「ヤコブのはしご」と呼ばれています

 やがて叔父のラバンのところに身を寄せると、ラバンの二人の娘の内、美人の妹ラケルを好きになり、七年働いてようやく認められて嫁にする許可を得ます。ところが初夜の晩に行くと姉レアがいました。レアは「目は弱々しかった」(29:17)と聖書に書いてありますが、視力という意味ではなく「ラケルのように目がぱっちりしておらず、パッとしなかった」という意味でしょう。叔父ラバンに文句を言いに行ったら、うちらの方では「長女より先に下の娘をとつがせるようなことはしないのです」(29:26)と言われました。兄エサウから長子の権利を奪ったヤコブにはぐうの音もでません。ヤコブはさらに七年間働いて美人のラケルも嫁にもらいました。この後も、姉のレアにしか子どもが生まれないので、ラケルがヤコブに文句を言って喧嘩になったり(30:1~2)、自分の女奴隷を差し出してヤコブとの子どもをつくらせたり、レアも年取って子供を生めなくなったら対抗して自分の女奴隷を差し出したり。はい、昼メロではありません。イスラエルの十二部族の両親の話です。

 さらに居候であるヤコブが成功すると、今度はラバンの息子たちがよく思わなくなって居づらくなり、ヤコブは故郷に帰ろうとします。しかし故郷には、彼を殺そうとした兄エサウの一族がいます。そこでヤコブは、何段階に分けて財宝を積んだラクダ隊を送り込み、贈り物でエサウを懐柔しようとします。そして最後には自分一人だけ残って、妻たちや子どもたちを行かせます。これは「妻や子をあなたの奴隷として贈るから、自分のいのちを助けてくれ」ということです。本当にひどい男ですね。そしてひとりポツンと残ったヤコブに、ある人が格闘を挑み、夜明けまで戦います(32:24~29)。それは実は神様で、神様はヤコブを祝福して「ヤコブ」(人を押しのけるの意味)から「イスラエル」(神と戦う)の意味に改名させ、イスラエルの祖とするのです。なぜ、このタイミングで???

 登場人物、全員、いいところなしですね。どうしてこんな人が選ばれたのでしょう。イエス様は、サドカイ人パリサイ人がイスラエルの家系を誇っているのを見抜いて、思い違いを指摘し「神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」(マタイ3:9)と言っています。ヤコブの一生を見ると、「立派な行いをしたから」「その人が努力したから」ではなくて、あくまで「神様が主体的にお選びになったから」としか言いようがありません。むしろイスラエルの民の祖先が、こんなだったから、同じような私たちにも救いの希望があるのではないでしょうか。

「ヤコブのはしご」(Jacob's Ladder)と呼ばれる天体現象。日本の専門用語だと「薄明光線」と呼ばれる

出エジプト(で海を割る話)
 

​出エジプト記14章1~31節

 430年間、奴隷として虐げられてきたイスラエルの民がエジプトから脱出する時、エジプトの追手が迫る中でモーセが紅海に手を差し伸べると海が割れ、そこをイスラエルの民が渡りきると海が元に戻ってエジプトの軍勢をおぼれさせる。出エジプト記のこの箇所は、旧約聖書の中でも一大スペクタクルで多くの映画でも映像化され、クライマックスのシーンとなっています。右(モバイル版にあっては上)に掲載した1956年のパラマウントの映画「十戒(The Ten Commandments)」のDVDパッケージでも、タイトルの十戒シーンをおさえて、モーセが海を割るシーンが採用されています(DVDによって違います)。なんとカッコいいことでしょう…というのではありません。聖書を読むと情けなさ満載です。せっかく神様が数々の奇跡を見せてくださり、ようやく脱出したにもかかわらず、脱出してすぐにエジプト軍が迫ってくるのを見ると「私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。」(出エジプト14:11)とモーセに文句を言い、「エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」(14:12)と泣き言を言っています。直後ですよ。モーセはモーセで、「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」(14:14)と民を説得しようとすると、返す刀で神様に「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え」(14:15)と怒られています。もう、バタバタです。映画の「我を信じ、我に従え」というキャッチコピーが泣いています。そもそも神様は、イスラエルの民がすぐヘタレることを分かっていらっしゃいます(13:17)。

 無事に海を渡り切ってからも「水が苦くて飲めない」(15:23)、「腹減った。エジプトで奴隷をしていれば肉もパンも食べられたのに」(16:3)、「喉が渇いた。エジプトから連れ出したのは渇きで死なせるためか」(17:3)と、不満たらたらです。聖書のことを単なる伝説だと思っている方もいらっしゃると思いますが、事実です。民族の歴史や伝説なら、もっとかっこよく書きます。実際に聖書を見てください。情けないです。カッコ悪いです。でも、これはイスラエルの民だけなく、私たち人間のカッコ悪さなのですぜひ聖書を読んで確かめてください。

セシル・B・デミル監督「十戒」1956年

Q1:イスラエルの民がエジプトから脱出する際に、衣服や貴金属以外にある家財道具をもって脱出しています(壊れないように着物で包んでいます。リアルです)。それは何でしょうか?

答え→出エジプト記12章34節

Q2:いくら何でも、何十万人の老人子ども連れが渡りきる前に戦車や騎兵が追い付けないわけありません。では、なぜ戦車や騎兵は追いつけなかったのでしょう?

答え→出エジプト記14章25節

Q3:海を割る奇跡を見せつけられて「神様すごい!」ってどんちゃん騒ぎをした(15:1~20)民が、再び不満を言うようになったのは何日後でしょうか?

答え→出エジプト記14章25節

モーセの十戒
 

出エジプト記19章~34章

 先に書いた「出エジプト」で、神様に導かれてエジプトを脱出したイスラエルの民が砂漠をさまよっている途中、神様が指導者モーセに命じてシナイ山に登らせ、そこでイスラエルの民が守るべき十の契約を授けたのですが、これを一般に「モーセの十戒」と呼んでいます。「じゅっかい」ではなく、江戸時代の捕り物の道具「十手(じって)」と同じく「じっかい」と読みます。

 旧約聖書をモチーフにした絵画や映画などでは、先の「海を割る話」とともにクライマックスとなっているので、どこかで名前を聞いたり映像を見たことのある人も多いでしょう。右(モバイル版にあっては上)のレンブラントの絵も有名ですね。

 ちなみにこの十戒自体は出エジプト20:3~17で、①神様が唯一の神であること(20:3)、②偶像を作ってはならないこと(20:4~6)、③神様の名をみだりに唱えてはならないこと(20:7)、④安息日を守ること(20:8~11)、⑤父母を敬うこと(20:12)、⑥殺人をしてはいけないこと(20:13)、➆姦淫をしてはいけないこと(20:14)、⑧盗んではならないこと(20:15)、⑨偽証してはいけないこと(20:16)、⑩他人の妻や財産を欲しがってはいけないこと(20:17)の10個となっています。ちなみにカトリックなどでは、伝統的に神様の像や絵画を作ってきたので、①②をあわせて「神様は唯一であって、それ以外の偶像を作って拝んではならない」と解釈しています。その上で、⑩を二つに分けて「他人の妻を欲してはならない」と「他人の財産を欲してはならない」にしています。十戒は、石板二枚に書かれたのですが、「5つずつ書いた」という説と「契約書だから同じものを二枚の石板に10個ずつ書いた」という説があります。また神様とイスラエルの民との契約は、二枚の石板に刻まれたこの10個だけでなく、それ以外にも、神様は口頭で延々31章の終わりまでイスラエルの民が守るべき契約をモーセに伝えています。

レンブラント「十戒をふりかざすモーセ」

Q1:ちなみに、この石板に文字を直接刻んだのは誰でしょう?

答え→出エジプト記31章18節

Q2:モーセは、神様からいただいた大事な石板を、なぜかもう一度もらいにに行っています(34:1~4)。最初にいただいた一組目の石板はどうしたのでしょう?

Q3:十戒の石板は、その後どこに行ったのでしょう?

答え→出エジプト記32章19節

答え→申命記10章2節、歴代誌第二5章10節、新約聖書のへブル人への手紙9章2~4節

 
ナオミ

​ルツ記1章~4章

 「ナオミ」と聞いて日本人かと思われるかもしれませんが、実は旧約聖書の「ルツ記」に出てくる敬虔なお姑さんの名前です(ルツ1:2)。90年代を中心にブレイクしたファッションモデルで歌手の「ナオミ・キャンベル」さんの名前は、このお姑さんの名前から来たそうです。「ええ~イメージと違う」という苦情は受け付けません(笑)。セクシーな衣装で有名な歌手のマドンナさんも「聖母マリア(マドンナ)」から名付けられた本名だそうですから。

 聖書の登場人物の名前は、西洋の方の名前や名字で普通に使われています。例えば「アブラハム」(エイブラバム・リンカーン)、「イサク」(アイザック・ニュートン)、「ヤコブ」(ファッションデザイナーのマーク・ジェイコブス…マークも「使徒マルコ」ですね)と、英語やその他の言語の読みかたをするからわかりにくいだけです。例えば、四福音書(→「はじめての教会用語辞典」のは行「福音書」参照)を書いた「マタイ」は、「マシュー(英語)、マティアス(ドイツ語)、マティユ(フランス語)、マッテオ(イタリア語)」になりますし、「マルコ」なら「マーク(英語)、マルクス(ドイツ語)、マルコス(ポルトガル語)」です。「ルカ」だと「ルークやルーカス(英語他)」、「ヨハネ」なら「ジョン(英語)、ジーン(スペイン語)、イアン(ゲール語)、ジョバンニ(イタリア語)、ヨハン(北欧各国語)」等になります。人間だけでなく、「大天使ミハエル」の名前は「マイケル(英語)」等のように広く使われ、その愛称は「ミッキー」で、浦安付近で大活躍です。ちなみに筆者(信徒です)は、今回調べて「スチーブン」が「ステパノ」(使徒6:8)から来ていることを初めて知りました。

 さて「ルツ記」のお話です。これは旧約聖書のはじめの方にある短いお話です。海も割れなければ、超自然的な奇跡も起きません。登場人物はお姑さんのナオミさんとそのご主人、ナオミさんの二人の息子とお嫁さんたちです。夫に死なれ、続けて二人の息子にも死なれて残ったのはお姑さんのナオミさんと二人のお嫁さんたちです。二人とも「モアブ」という死海の対岸の外国から来たお嫁さんです。当時の社会では女三人だと収入の糧を失い飢え死にしてしまいます。弟嫁のオルパさんは、泣き泣きナオミさんの説得を受け「自分の民とその神のところへ帰って」(ルツ1:15)行きましたが、兄嫁のルツさんは「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(1:16)とナオミさんと神様を選び、ひどい貧乏をしながらイスラエルのベツレヘムに帰り着くのです。彼女たちは麦刈りが終わった後に落ちている麦のついた穂を拾って飢えをしのいでいました右(モバイル版にあっては上)のミレーの「落穂拾い」は、服装こそ19世紀のフランスにしてありますが、この「ルツ記」をモチーフにしたのは有名な話です。

 さて、このナオミさんとルツさんのお話はハッピーエンドに終わるのですが、それは聖書をお読みください。短いですから。

ミレー「落穂拾い」

Q1:なぜ、ナオミさんとルツさんは、他人の畑に入って落穂を集めることが許されていたのでしょう(場合によっては、置き忘れた穀物の束を持って帰ったかもしれない)?

答え→レビ記19章9~10節、23章22節、申命記24章19節

Q2:ルツさんのひ孫は有名な王様になりました。その王様の名前は?

答え→ルツ記4章22節

Q3:さらにルツさんは、聖書における重要人物の祖先にもなりました。ルツさんとその方の関係を、家系図で確認してみましょう。

答え→新約聖書のマタイの福音書1章5節と16節

 
ダビデとゴリアテ

サムエル期第一17章1~54節

 右(モバイル版にあっては上)の画像は「天空の城ラピュタ」のDVDジャケットです(著作権法第32条引用、38条非営利利用)。このアニメでは、相手方の巨大飛行戦艦を「ゴリアテ」と名付けています。イラストの背後に見える巨大飛行戦艦の名前が「ゴリアテ」です。国家の威信を背負ったような巨大飛行戦艦も、主人公らと海賊たちが操る小さな飛行機械「フラップター」に翻弄されていました。具体的にはDVDをご覧ください→DVD「天空の城ラピュタ」(著作権法第47条の2商品紹介)。

 有名なダビデとゴリアテのお話は、第一サムエル記の17章にあります。イスラエルの初代王サウルの時代(ダビデは二代目の王なのです)、イスラエル人は異民族のペリシテ人(現在、イスラエルと対立しているパレスチナは「ペリシテ人の土地」という意味がありますが、現在のパレスチナ人はアラブ系で、この時のペリシテ人と直接関係あるかはわかりません)の侵略を受け膠着状態にありました。ペリシテ人のゴリアテは膠着状態を打開するために、それぞれの代表選による一騎打ちで勝敗を決しようと持ち掛けます(Ⅰサムエル17:9~10)。しかし、当のゴリアテは身長286㎝の大男で、57㎏の青銅製の鎧をつけ、6.8㎏の穂先をつけた槍を持った戦士です(17:4~6)。イスラエル側は、だれもそんな戦士と戦う勇気がなくてビビっていました。そこへ、徴兵された三人の兄たち(17:13)の弁当を届けに来た八人兄弟の末っ子のダビデ(17:12)が、「生ける神の陣をなぶった」(17:38)ゴリアテに自分が闘いに挑むというのです。そしてダビデは、鎧も付けずに投石器(→「聖書の舞台(人物・組織)」のた行「ダビデの子」の写真参照)と石ころでゴリアテに勝利しました。

 このお話は「どんなに弱くても、無謀な挑戦に見えても、神様を信じて戦えば勝利できる」という文脈で語られることもあるのですが、本当にそうなのでしょうか。調べてみるとダビデは決して「無謀な戦い」を挑みかけたわけではなかったという記事がありました→「なぜ羊飼いは巨人に勝つことができたのか?」。つまりゴリアテは見掛け倒しの兵士であり、イスラエルの兵士たちはその外見にビビっていました。一方、ダビデはスピードを生かしつつ(17:48)と「飛び道具」を使った戦法で戦うことで、ある程度の勝利を確信していた(17:34~36)というのです。まるで巨大空中戦艦「ゴリアテ」を翻弄した「フラップター」の戦略みたいですね。

 本コラムの解説が意図しているのは、「この戦いに神様は関係がなく、ダビデの戦略の勝利だ」と言うものではありません(誤解無きように)。神様は、つねに私たちに力を与え支えてくださっているのに、その力が働くのを阻害しているのは「ゴリアテの見た目」に人間的な恐れを抱いてしまっている私たち人間側の問題だったのですね…ということです。

宮崎駿監督「天空の城ラピュタ」スタジオジブリ、1986年

Q1:そもそもサウル王は、どうして一介の羊飼いダビデの名前を知っていたのでしょう?

Q2:ダビデは兄たちへの弁当だけでなく、ある人への「つけ届け」もしています(…というか、それがメインの目的か?)。それは誰に贈るものだったでしょうか?

Q3:ダビデがゴリアテとの闘いに挑むにあたって、持ってきた弁当はどうしたのでしょう?

答え→サムエル記第一16章18~22節

答え→サムエル記第一17章18節

答え→サムエル記第一17章22節

ソロモンの箴言
 

箴言、伝道者の書など

 このページの「五人の女」→「五人の女」参照)にあるように、ソロモン王はダビデ王とバテ・シェバの子どもで、イスラエル王国の最盛期を支配していました。ソロモン王が神殿で儀式を行った夜、神様がソロモンに現れて「あなたに何を与えようか。願え。」(歴代誌第二1:7)と言われたとき、彼は富や財宝、長寿ではなく、神様の民をさばく(正しく判断して統治する)「知恵と知識を私にください。」(1:10)と願ったことから、神様はそれを良しとされて「知恵と知識」に加え「後の王たちにもないほどの富と財宝と栄誉」(1:12)を与えられました。そのためソロモンは、「知恵と知識」に溢れ、イスラエルは今のアジア、ヨーロッパ、アフリカの三つの大陸をつなぐ貿易の要衝の地にある利点を生かして目覚ましい経済発展を遂げました。そのソロモンが執筆したのが、旧約聖書の「詩編」の一部、「箴言」(一部を除く)、「伝道者の書」、「雅歌」です。この「箴言」を中心とした知恵文学を「ソロモンの箴言」と呼びます。

 なお、「ソロモンの箴言」については、イスラエルがギリシャ系の国に支配されていたヘレニズム期に多くの偽物が作られました。イスラエル王国はソロモン王の死後に分裂し、いろいろな国に支配されます。旧約聖書の記述は、イスラエルがペルシャの一県として存在していたB.C.430年ごろに執筆が終わり、新約聖書は紀元後に書かれます。この四百数十年の間は聖書に書かれなかった空白で、ギリシャ系の勢力がイスラエル周辺を支配していました。この聖書の空白期間に、「ソロモンのころのイスラエルはよかった」と彼の名を語って様々な偽書が作られました。カトリックの外典である「ソロモンの知恵」は、当時、アレキサンドリアと言う街に住んでいた、あるユダヤ人によって書かれ、ギリシャ哲学の要素を含んでいると言いますし、偽書と言われる「ソロモンの遺訓」では「ソロモンが指輪で霊を使役していた」「指輪の力で動物の声が聞こえる」というファンタジーまで飛び出します。これはラノベや漫画、映画などが大好きな話ですね。しかし、ソロモンの箴言と言うのは、先にあげた「箴言」を中心とする四つの聖書にある言葉や忠告です。

 箴言のスタンスは、忠告の一番初めにある「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒を蔑む」(箴言1:7)ですが、それ以降、毎日の生活に密着した箴言がずっと続きます。どれが心に響くかは、その人の置かれた状況なので「こんな素晴らしい格言があった」とお勧めすることはあえてしませんので、一読されて自分に合った箴言を見つけてください。

ラファエロ「ソロモンの審判」

Q1:ソロモン王の知恵のうわさは近隣諸国まで広がっていたため、ある有名な女王が彼を試そうとやってきました。その女王の名は?

答え→創世記3章12節

Q2:大岡裁きの代表と言えば「三方一両損」と「実母継母の子争い」ですが、前者はすでに井原西鶴の物語に、後者は中国の漢の時代の裁判集にあるそうです(実際、それらを大岡忠助がさばいたものでなく、講壇や落語の話や戦前の国語教科書に載った話が広がったようです)。「実母継母の子争い」の原型は、ソロモンの裁判が中国に伝わったものだということですが、その大岡裁きの原型となった裁判とはどんな裁判だったでしょうか?

答え→創世記3章13節

 
色即是空

伝道者の書

 「色即是空、空即是色」とは、通称「般若心経」と呼ばれる仏教の経典の示す世界観を表した有名な言葉です。一見、これに似た考えが聖書の中にもあります。それが、ソロモン王が書いた「伝道者の書」です。どこが違うのでしょうか。

 「色即是空、空即是色」の意味をいろいろ調べると、「夫婦」や「自動車」で説明した例が分かりやすかったです。「色」とは「物質」「実態」「状態」のことですが、「空」とは虚無のことではありません。例えば自動車がたくさんの部品に分解されれば、もう「自動車という実態」では存在しません。これが「空」の状態です。しかし、部品が何らかの関係(縁)ができて組み合わされれば、再び自動車になり得ます。これが「空即是色」の変化。世の中に変わらぬものはなく、一時の状態があるだけ。だから「色」の状態に固執する必要もないし、「空」と言っても消えたのではなく「色」に移る可能性を秘めているのだからがっかりする必要もないということになります。そして、この「空」から「色」の状態を形成するのが、「因果」と「因縁」になります。独身男女が出会う「原因」から夫婦になるという「結果」になるのが「因果」、ただし、出会うという「因」があっても、「縁」がなければ夫婦になるという「果」を生みません。ですから「よい結果」を生むために、功徳を積んだり修行をしたりして「良い縁」を引き寄せましょうというのが仏教の考え方でしょうか。

 これがよくわかるのが、手塚治虫の名作「火の鳥」です→Amazon『火の鳥』12巻セット。ここに登場する人びとは殺人などの罪を犯し(因)、その結果、さまざまな苦しみに会います(果)。同じような風貌の登場人物が時代を変え場所を変え、各シリーズに出てきます。遠い未来のことだと思ったら、そこから再び進化がはじまり、時代もぐるぐるまわっています。登場人物は別のシリーズの別の登場人物として生まれ変わり、時間の輪の中で罪が消えるまで未来永劫、輪廻転生しながら苦しみます。火の鳥は、さまざまな時代や場所に現れて、基本、苦しむ人々をただ見守るだけです。仏教的な世界観をとてもよく表していると思いませんか。

 一方、キリスト教の示す世界観は明確です。神様は「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」(黙示録22:13)と明確に述べられていますが、はじめの神様という「因」があり(創世記1:1)、最後に神の国の実現(果)があります。「火の鳥」のように、いつ終わるかもわからない因果の輪で苦しみの中で輪廻転生するのではなく、明るい未来へと進んでいる途中なのですね。さらに嬉しいことに、「縁」についても、神様が最も良い時期と方法で私たちひとり一人のために用意されています。もちろん未来のことを見通せない私たちには、それが一見、不都合なことのように思えることもありますが、後になってみれば「あの時、ああで良かった」とことなのです(伝道者の書3:11)。伝道者の書は、一見、人智と栄華を極めたソロモン王が「空の空、すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが何の益になろうか。」(1:2~3)とつぶやく言葉ではじまる虚無主義に見えますが、別に人間の物質的な喜びや幸せを否定していません。ただ栄華も知恵も、神様の圧倒的なめぐみに比べると「空気を捕まえるようなもの(ハーヴェル=風、息、霧)」と言っているだけです。結局、この世ですべてを味わいつくしてみたソロモン王が出した結論は、若い人たちに「早いうちに神様とともに歩む人生を選べ」ということでした(12:1)。「火の鳥」の主人公たちのように永遠の時間の輪の中で苦しみつつ、自分の罪を自分自身で何とかしろと言われなくて、本当に良かったと思います。

手塚治虫『火の鳥』(第1巻黎明編)初版は1978年。現在は、角川文庫で読める。

 
​バビロン

ダニエル記

 バビロンについては世界史で習った方も多いと思いますし、「シュメール人」「楔形文字」「ハムラビ法典」「ジッグラト(聖塔)」「空中庭園(世界七不思議の一つ)」などの言葉も聞いたことがあると思います。エデンの園があったのではないかというチグリス川やユーフラテス川のあたりに発達して古代文明の謎を残しながら、紀元75年には完全に廃墟となり消えてしまったため、ある種のロマンを感じさせ、映画やアニメ→ルパン三世「バビロンの黄金伝説」にも数多く取り上げられている街(都市国家)です。

 バビロンと言ったとき、この街自体を指す場合と、バビロニア地方の都市国家群を支配した王国を指す場合があります→「世界の歴史まっぷ」の「バビロニア」。いろんな民族が王朝をつくったので、同じ「バビロン王朝」と言っても連続性はなく、ハムラビ王が「第1バビロン王朝」で、聖書に出てくるアッシリアが「第9/10バビロン王朝」(どこで分けるかは研究者によって違う)、バビロン捕囚の時の新バビロニアが「第11バビロン王朝」になります。あと「ピノキオのモチーフ」で書いたヨナ書の話にあるニネベの街は、「第9/10バビロン王朝」のあたりのようです→Bible Toolbox「ヨナ書」

 このバビロンの歴史を見ると、いつも二つのことを感じます。ひとつ目は、多くの巨大建築を建てた強大な新バビロニアの王朝が、預言者ダニエルがバビロン捕囚で連れて来られて宮殿で重用され始め(ダニエル1:3~7)、王朝がペルシャの王クロスの軍門に下るまで(10:1)のダニエルの生涯と重なる短い時間しか存在しなかったこと。ふたつ目はイエス様の登場のころ、跡形もなく歴史から消えてしまったことです→「王妃への愛が生んだ空中庭園・バビロン」の最後の方に現在のバビロン遺跡の写真)(近年の研究では「空中庭園」はニネベにあったのではないかと言われている→Wikipedia「バビロンの空中庭園」人間の快楽と栄華を具現化した世界最古の都市国家は、結局、神様の大いなる計画の中で役割を果たしただけだったのですね。

吉田しげつぐ監督「ルパン三世 バビロンの黄金伝説」1985年。

Q1:ダニエルは、偶像に捧げられた肉を避けた結果ベジタリアンだったという記述があります。確かめてみましょう。

答え→ダニエル記1章8、16節

Q2:ダニエルは、ネブカデネザル王の黄金像の落成式典の時に「偶像礼拝になるから拝まない」と言って王の怒りを買いました。その結果、どうなったのでしょうか?

答え→ダニエル記3章16~30節

Q3:捕虜で新バビロニア王国に連れて来られたダニエルは、王たちに重用され、王国でどれぐらいの出世を果たしたのでしょうか?

答え→ダニエル記5章16節

 
失われた十部族

創世記~エズラ記

 失われていません(笑)。

 「失われた十部族(支族)」というのは、アッシリアに連れて行かれたままのイスラエルの10の部族が、「その後、歴史から消えてしまった」という話から広がった都市伝説です。オカルト好きな人が好きな話ですし、戦前の「日ユ同祖論(日本人とユダヤ民族は共通点が多いのは、この十部族の一部が日本に流れ着いたからではないかという説)」で政治的意図をもって喧伝もされました。でも、消えていません。それを確認するために、駆け足でイスラエルの歴史を追うように聖書を読んでみましょう(これが目的です)

 バベルの塔の後の時代、神様はアブラハムと契約を結ばれました(創世記15:1~17など)。その後、息子のイサク(26:24~25)、孫のヤコブ(28:13~15)とも契約を結ばれ、ヤコブには以降「イスラエル」と名乗るように言います(32:28、35:10~12)。このヤコブの十二人の息子たちがイスラエルの十二部族の祖となります(35:22~26)。その後、モーセたちの時代を経て、(初代サウル王と)ダビデ王やソロモン王らのイスラエル王国ができるのですが、神様はソロモン王の背教の報いとして王国を分裂させ、ソロモン王の子レハブアム王から十部族をとって、反乱した家来のヤロブアムに与えます(Ⅰ列王記11:29~39)。このヤロブアム王が建てた、十部族からなる国が北イスラエル王国となり、元の国は南ユダ王国になります。これがB.C.933年のことです。ところが、この北イスラエル王国の王様たちは神様に逆らう政治を続けていたため、やがて強大なアッシリア王国に攻め込まれ、人びとはアッシリアに捉えられて奴隷として連れて行かれます(Ⅱ列王記17:6、24、18:11)。こうしてB.C.722年に北イスラエル王国は滅亡します。

 一方、南ユダ王国は、一度アッシリアの属国になりますが、ヒゼキヤ王の時代に王が(何と!)神殿の略奪をアッシリアに許可してまで命乞いをします(18:13~16)。この時は、ヒゼキヤ王が神様に祈り(19:19)神様が南ユダ王国を守られたのですが(19:35)、同時に神様は預言者イザヤを通して後の時代に南ユダ王国もバビロンの捕囚となる」ことを予言します(20:16~18)。ヒゼキヤ王は、この預言に反省することもなく「それじゃあ、自分が生きている間は大丈夫なんだ」と喜んだと言います(20:19)。そして預言通りにB.C. 605に新バビロニア帝国がアッシリア王国を滅ぼし、さらに南ユダ王国を滅ぼして、人びとを奴隷としてバビロンに連れて行きます(24:10~16)。これが世界史でも習う「バビロン捕囚」です。ここまで長くてややこしいので、手塚治虫のアニメ『聖書物語』→アニメ「聖書物語」第5,7、23,24回目)や、これを冊子化したもの→手塚治虫『手塚治虫の聖書物語』(全三巻))も並行して読んでみてください。また新しい所だと、藤原カムイさんの漫画『旧約聖書ー創世記ー』(全二巻)もおすすめです→藤原カムイ『創世記』(すみません。里中満智子さんの『マンガ旧約聖書』は読んだことがありません)

 その後、イスラエルの民はバビロンで捕囚となりながら信仰を復活させ、南ユダ王国出身のダニエルが帝国の中で大公、王に継ぐ、臣民としてトップの第三の権力者にまで上りつめます(ダニエル5:16)。やがて、この新バビロニア帝国もペルシャに滅ぼされ、アケメネス朝ペルシャの時代になります。このペルシャのクロス王(世界史ではキュロス王と呼ばれています)は、イスラエルの民を帰還させ神殿を再建するように命じます(エズラ1:2~4)。この部分だけに着目して、「あれ?南ユダ王国の二部族はバビロンから帰還したけど、北イスラエルの十部族はどこにいったの?」という疑問がおこり、「十部族は歴史に消えた」という都市伝説が生まれたのです。

 では、十部族はどこに行ったと聖書は書いてあるのでしょうか。①神様に逆らうような北イスラエルの信仰が嫌で、十部族から南ユダ王国に逃げて来た人たちがいた(Ⅱ歴代誌11:16~17、15:9、30:11、18、25など)、②十部族が連れ去られて住んでいたアッシリアは新バビロニア帝国に占領されたから、そのままバビロンに住んでいた。③新バビロニア帝国がペルシャに滅ぼされてエルサレムに帰還するときにバビロンから一緒に帰ってきた(エズラ記2章では、十部族のそのまた下の分家のリストが並んでいます)。さらに、それから数百年の後のイエス様の時代、神殿で幼子のイエス様に出会った女預言者のアンナは、「失われた」と言われる十部族の内の「アセル族」(ルカ2:36)って書いてあります。「東の果ての日本まで来た」というより、こちらの方が自然ですよね。

 けれども、A.D.70年から何度か起きたローマとの戦争でエルサレム神殿は破壊され、系図も焼き払われました。その結果、今のユダヤ人の方は、自分の家系が何族なのか二千年前から分からなくなっています。だから「私は〇〇属の家系だ。失われたと言うが、その子孫がここにいるじゃないか」と言う人がいないのですね。だから勝手な想像がまかり通っているのです。でも、聖書にはちゃんと書いてありましたよね

手塚治虫『手塚治虫の旧約聖書物語 3 - イエスの誕生』集英社、1994年。バビロン捕囚などはこの第3巻に掲載されている。

ピノキオのモチーフ
 

ヨナ書

 1940年に製作されたディズニー映画のピノキオ。名曲「星に願いを」(→ピアノあそび「星に願いを」)とともに、とても有名な作品です(著作権にきびしいD社ですので掲載しませんが、YouTubeで前後編に分けてアップされています)。このピノキオは木でできた人形に命が吹き込まれたり、生みの親である人形職人のゼベット爺さんに反抗したりと、キリスト教的なモチーフがたくさんあります。その中でも有名なのは、ピノキオたちがクジラの王モンストロに飲み込まれ生還し、生まれ変わってよい子になるエンディングです。このクジラに飲み込まれるシーンは、旧約聖書の「ヨナ書」のモチーフを下敷きにしたと言われています。

 聖書の物語はこうです。預言者ヨナが、神様に「あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ」(ヨナ1:2)と、ニネベの人たちが改心するように神様の言葉を伝えるように言います。しかし、この「バビロン」のところに書いたように、当時のニネベは、北イスラエル王国を滅ぼしてイスラエルの民を捕虜にしたアッシリアの首都。ニネベは、いわば敵国。ヨナからすれば「滅べばいい」街なのです。結局、ヨナは神様の命令を無視して逃げ出します。そして、地中海沿いの港町ヨッパ(現在のヤッファ)からタルシシュに逃げようとしたら嵐にあいます。その嵐が、ヨナが神様の命令を無視して逃げたから起こっていることを知った乗客たちは、ヨナを海に投げ込みます(1:1215)。ここで神様は「大きな魚を備えて、ヨナを飲み込ませ」(1:17)、その結果、ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいて、陸地に戻されます(2:10)。ここがピノキオのシーンの下敷きとなっています。結局、ニネベの人たちは改心し、この時はニネベが滅亡することはありませんでした。しかし、面白くないのはヨナ。結局、敵国が神様に改心して滅びることがなかったので、神様にたいして非常に不愉快な思いをします(4:1)。それに対して神様がとった行動は…あとは、聖書を読んでみましょう。

カルロ・コッローディ『ピノキオの冒険』1883年(Wikipedia)

Q1:へそを曲げてしまったヨナに、神様は見事な切り返しで説得しています。何をなされたのでしょうか?

Q2:この時は滅びなかったニネベですが、その後、どうなったのでしょうか?聖書を確認してみましょう。

答え→ヨナ書4章5~11節

答え→ナホム書1章1節~3章19節

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