
仙台のぞみ教会
いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中ですぐれているのは愛です。
註:仙台のぞみ教会、現在、新改訳聖書(第三版)を公式聖書にしており、以下の記事内の引用もそれに基づいています。しかし「とりあえず聖書を見てみたい」という方は、上の「ネットで読める聖書」のボタンをご利用してください。「Bible.com」の「口語訳聖書」にリンクしています。この「口語訳聖書」は著作権が切れておりますのでネットで全文が読めるのですが、その特徴や問題点、これに対する新改訳聖書の位置づけなどは、上記「はじめての聖書選び」をお読みください。
天地創造
創世記1章1節~2章3節
万有引力で有名なニュートンの、こんな逸話があるそうです。彼は、腕利きの職人に歯車とベルトで動く太陽系の模型をつくらせてテーブルの上に置いておきました。そこへ無神論者の友人が訪ねて来て、それを見つけ「見事な模型だ。これは誰が作ったのかい?」と尋ねました。ニュートンは「誰でもないさ。適当に物が集まってできたのさ」と言うと、友人は「馬鹿にしないでくれ、これは誰かが作ったに決まっている」と怒り出しました。するとニュートンは「この単純な模型も誰かが作ったというなら、なぜ、君は本物の太陽系を神が造ったことを信じないのか」と言ったそうです。ニュートンのこの意見、みなさんは、どう思いますか?
世界のさまざまな民族には、様々な天地創造の神話があります。「神々の結婚で生まれた」「槍の穂先で泥をかき混ぜてできた」「巨人が死んでそこから生まれた」「宇宙の卵から生まれた」…などですが、すべて「有」から「有」を生み出しています。これに対して「何もなかった」(創世記1:2)という「無」から「有」を生み出したのは、寡聞ながら聖書しか知りません。神様が「光よ。あれ。」(1:3)と言ったのはビッグバンみたいだとか、太陽の創造(1:16)より光(右(モバイル版にあっては上)のようなガス雲)が先にあったことは太陽系の誕生の順番にかなっているという聖書と科学に関する議論は、本やネットにもたくさんあります。またヨブ記26章10節や、イザヤ書40章22節をもって「聖書は地球が丸いことを述べていた」と主張する人もいます。そういう聖書へのアプローチがあってもいいのですが、聖書は科学書ではありません。例えば、小学3年生の理科で「太陽とかげの動き」について勉強しますが、教科書が「太陽が東から西に動く」と書いていても、それを書いた著者が「天動説」を信じていたとは誰も思いませんよね。小学3年生にあわせて太陽の運行を理解させているだけです。『2001年宇宙の旅』を書いたSF作家のアーサー・クラークは、かつて「十分に発達した科学は魔術と見分けがつかない」と言う言葉を残しました。聖書に書かれた不思議なことも、科学が発達につれ、やがて理解できるようになるのかもしれません。でも、それよりも重要なのは、先ほどのニュートンの例えにあるように、誰の意思で世界がつくられ、私たちが何を目的に生きているかではないでしょうか。

M42オリオン座大星雲
Q1:聖書では植物と動物のどちらが先に造られたと語っているでしょうか?
答え→創世記1章12、20~25節
Q2:イギリスの政治哲学者トマス・ホッブスは、「手の付けられない国家と言う権力」を創世記1章21節に出てくる「海の巨獣」にたとえて、本の題名『リバイアサン』(Leviathanの英語読み)にしていますが(社会科で習いました)、新改訳聖書では何と表記しているでしょう?
答え→詩編104編26節
Q3:世界を六日でつくられた神様は、毎日の創造を「よしとされた」のですが、六日目に全部整った時、完成した世界を見て悦に入何と言われたのでしょう?
答え→創世記1章31節
アダムとエバ(イブ)
創世記2章8節~3章24節
ここを書くとき、信徒の矩を超えて「油の注がれた人」(→「はじめての教会用語辞典」のあ行「油を注がれた」参照)のように書くことがないように、でも読まれた方が聖書を開いて見たくなるようにというところをいつも考えていますが、むつかしいです。さて「アダムとエバ(イブ)」ですが、ここでは「世間一般のアダムとイブのイメージとの落差」について見ていきましょう。あわせて「聖書の舞台」(→「聖書の舞台(国・場所)」のあ行「エデンの園」参照)も読んでください。
一般にイメージされているアダムとエバのお話は、「アダムとエバが、エデンの園でヘビにそそのかされてリンゴを食べたので、神様の怒りに触れて裸で楽園を追い出された」というものです。本当でしょうか。聖書を開いて確かめてみましょう。
まず、アダムとエバはリンゴを食べることは禁止されていません。禁止されたのは「善悪の知識の木」の実です(創世記2:17)。リンゴは、おそらく「見るからに好ましく食べるのに良いすべての木」(2:9)に入りますから食べてもよい木の実でした。たまたまラテン語の「悪(malum)」と「リンゴ(malum)」が同じだったので、後世の人が混同したのだろうということです。リンゴは安心して食べてください。
次にヘビが「食べなさい」と言ったから食べたというのも誤解です。聖書を確かめてください。要約を書くと、(蛇)「エデンの園の木の実を食べちゃいけないんでしょう?」(3:1)→(エバ)「いいえ、神様は食べていいと言った」「ただ、死んじゃうから『善悪の知識の木』の実だけは食べてはいけないし触れてもいけないと言われた」(3:2~3)→(蛇)「食べても死なないよ。善悪を知るようになるだけだよ」(3:4~5)と言っただけです。ヘビは「食べなさい」とも言っていないし「すぐに死ぬわけでもない」ことはそうでした。非常に狡猾ですね。詐欺師か誘拐犯との交渉人のお手本のようなやり取りです(→FBI交渉人の『逆転交渉術―まずは―「ノー」を引き出せ』)。でも、蛇にそそのかされたとしても、エバは命令されたからではなく、自由意思で神様に背くことを選択したことになります。ちなみに、その後ヘビは神様に怒られて呪いをかけられ、腹這いに歩くようになったので(3:14)、それ以前の、エバを誘惑している蛇の絵には手足があります。
最後に、アダムとエバは裸で追い出されたと思われています。そうすると、だいたいが右(モバイル版においては上)のデューラーの絵のように、イチジクの葉っぱ1枚で隠している様子を想像します(いくら何でも、これでは恥ずかしいです)。たしかに裸を隠すのに使ったのは「いちじく」ですが1枚ではありません。聖書には「つづり合わせて」(3:7)とあるので、おそらく腰ミノのようにして、しっかり隠したはずです。しかも追い出されるとき、神様はしっかり服を作って二人に着せています(3:21)。ほぼ全裸というのは、芸術的表現にすぎません。ぜひ聖書で確認してみてください。

デューラー「アダムとエバ」
Q1:アダムは「善悪の知識の木」の実を食べた言い訳を神様にし ています。男性がよくするパターンの言い訳の最初のものですが、どう言ったのでしょうか?やれ、やれ。
答え→創世記3章12節
Q2:またエバも「善悪の知識の木」の実を食べた言い訳を神様にしています。女性がよくするパターンの言い訳の最初のものですが、どう言ったのでしょうか?あら、まあ。
答え→創世記3章13節