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2024年1月~2024年3月

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 2024年03月24日「十字架のイエス」
 2024年02月18日「主が望まれる歩み」

最新のメッセージ・ダイジェストはこちらをご覧ください。

2024年3月31日「復活の主イエス」(マタイの福音書28章1~10節)

【140字ダイジェスト】

イエス様の墓を見に行った女たちは社会的弱者であり、前に立ちはだかるローマ社会はとても強固なように見えた。しかし、その象徴である墓の石は地震で揺らぎ、イエス様の復活という神様の現実を目の当たりにした。恐れながらもみことばに従った彼女たちのように、神様に信頼し生きることが重要である。

 イースターは、イエス様の十字架の死と復活によって、罪ある私たちが永遠のいのちに与れる希望を与えられた記念すべき日である。当時のローマの権力で虐げられた人々であるが、復活は人の力を超える神様の御業であることが今日の箇所からも分かる。

 今日は第一に、「週の初めの日になされた神様の業」について見ていきたい。聖書は「安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った」(マタイ28:1)と書かれている。マグダラのマリアは悪霊に取りつかれて暗い人生を歩んでいたが、イエス様にあって救いに導かれた。もう一人のマリアはヤコブとヨセフ母でありイエス様について故郷を出た。当時の社会では目立たない弱い彼女たちが、福音書の最も重要な箇所でスポットを浴びている。マタイの福音書は他の福音書とは異なり、彼女たちが墓に行った理由については書かず、大きな石と番兵という絶望的な描写しかない。社会的弱者であった彼女たちが希望を見出したイエス様は十字架につけられた。彼女たちの悲しみは如何ほどであっただろうか。

 第二に「神様の現実としてのよみがえり」について見ていきたい。女たちにとって、当時の社会やローマの支配は、彼女たちの前に立ちはだかる現実として、とても強固なものに見えていた。その強固な存在が揺り動かされ、ローマによって墓を封印していた巨大の石はわきに転がされていた(28:2)。御使いが表れたとき、ローマの番兵は「その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった」(28:4)。一方、御使いは女たちに「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです」(28:5-6)と言った。このことからローマ兵は逃げて、女たちは恐れながらも留まって御使いのことばを聞いた。そして「さあ、納められていた場所を見なさい」(28:6)と言われた女たちは、神様のなされた現実の出来事を確かめた。イエス様を十字架につけられたのは、確かに神様の愛である。しかしイエス様は確かに墓からよみがえられた現実は、私たちが本当の意味で新しくされ永遠のいのちへと移されるという証しなのである。なお「石の封印」はローマなど外部の権威だけでなく私たちの心にもある。その封印を解いて神様を受け入れなければ、ローマ兵のように恐れて逃げれば、新しい福音に与れない。

 第三に「みことばによる確信」について見ていきたい。イエス様や御使いは「さあ、納められていた場所を見なさい」(28:6)、「急いで行って弟子たちに伝えなさい」(28:7)、「ガリラヤに行くように言いなさい」(28:10)と女たちや、女たちを通じて弟子たちに言っている。そのことばに素直に応答したからこそ、神様の業を見ることができた。またイエス様はガリラヤで弟子たちに会うと言われた(28:10)。ガリラヤは、イエス様が弟子たちと一緒に過ごしみことばを語った土地である。そこで、今起きた十字架と復活の意味を思い出させ、弟子たちに確信を持たせるためである。「主に従う」とは、神様のことばを素直に受け止め、イエス様とともにあることを確信することである。聖書を読んだだけで復活は信じられなくても、イエス様のことばに生きることで確信が信頼となる。

2024/03/31

2024年3月24日「十字架のイエス」(マタイの福音書27章23~35節)

【140字ダイジェスト】

イエス様のエルサレム入城に際し人々は熱狂的に迎えたが、その後の一週間で人々の心は大きく変わりイエス様を十字架につけた。ローマ総督のピラトも自らの職務を放棄し、イエス様の処遇を世論に任せた。ここに神様に反抗し無関心となる人間の本質が見える。だが神様は、そんな中に救いの業を表された。

 今日から受難週に入る。イエス様のエルサレム入城に際し、人々は道に棕櫚の葉や一張羅を敷いて熱狂的に迎えた。だが、その後の一週間で人々の心は大きく変わり、イエス様を十字架につけろと叫ぶようになった。しかし、この十字架こそが神様の計画であった。

 今日は第一に「ピラトを押しのけた群衆の声」について見ていきたい。聖書は、ピラトが「あの人がどんな悪いことをしたのか」と群衆に問いかけ、群衆はイエス様を「十字架につけろ」と叫び続けたというやり取りがあったと記録している(マタイ27:23)。ローマに支配下で、ローマ総督が裁判を群衆にゆだねるということはあり得なかった。ピラトの人物像は、聖書以外でも描写されている。歴史家であるヨセフスは、ピラトがいかに不道徳な人物だったか記録しているが、聖書はピラトの個人的な罪ついてはあまり触れていない。ユダヤの群衆は、イエスを宗教的な拠り所として、またローマ帝国に対するレジスタンスの旗頭として考えていたのだから、ピラトは総督としてその人物の見極めをして判決を下さなければならなかった。だがピラトは、群衆に任せれば「どうせ祭りの恩赦として群衆が選ぶ」と考えていた節もある。しかし「十字架につけろ」という群衆の声が大きくなると、「この人の血について私には責任がない。お前たちで始末するがよい」(27:24)と罪に向き合うことを放棄し、群衆も「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に」(27:25)と言い切った。そこに人が持つ、神様に対する反抗心の噴出が見える。

 第二に「イエス様を愚弄した人々の姿」について見ていきたい。有名な強盗犯のバラバと、人々のために生きてきたイエス様を比べれば、恩赦に選ぶのがどちらか判断できそうである。しかし人々はバラバを選び、ピラトもそのようにした(27:26)。さらにローマ兵たちは、イエス様に対し非常に子供っぽいからかいをした(27:28-31)。そこに規律と権威の中にあるローマ兵はなく、むき出しの人間の醜さが見える。だがローマ兵と同じく異邦人として本当の神様と生きてこなかった私たち日本人も、同様に醜さはないだろうか。だが神様は、そんな異邦人にも沈黙をつらぬき、十字架の救いを提示されている。

 第三に「十字架につけられたイエス様」について見ていきたい。聖書は「シモンという名のクレネ人」の描写をしている。彼は、遠いクレネの地(北アフリカ)からあこがれのエルサレムにやって来て、神様を礼拝するお祭りに来られた喜びの中にあった。そこでいきなり十字架を担がされた彼は、「自分も十字架につけられるのではないか」という恐怖心と、神に逆らった者が担がされる十字架を群衆の前で担がされた羞恥心でいっぱいになったものと思われる。しかしシモンは、後の聖書の描写をみると、イエス様と同じ十字架を背負いイエス様の十字架の意味を知って、イエス様に従っていく生涯を送ったことも分かる。その反面、冗談半分でシモンに十字架を担がせ、イエス様を十字架につけながら衣を分け合った(27:35)、人の痛みを想像できないローマ兵や群衆の姿もある。私たちは、どちらの側に立つのだろうか。イエス様は、私たちの罪のために苦しみとあざけりの中で十字架への道を歩まれ、十字架につけられた。しかしそこから、罪の赦しと永遠のいのちという神様の業が始まった。受難週にあたって、私たちはその原点を忘れてはならない。

2024/03/24

2024年3月17日「主の前での忠実さ」(マタイの福音書24章45~51節)

​【140字ダイジェスト】

「終わりのとき」を考えるとき、私たちは「それはいつ来るのか」と問いがちである。しかし、この問いは「その時だけ忠実であればよい」という考えと表裏一体でもある。神様が求めておられるのは、その時がいつであろうとも毎日の生活において神様に信頼し、神様に思いにかなう生き方を送ることである。

 3月は東日本大震災のあった月で、様々な場面で災害への備えが訴えられた。しかし「神様のとき」に備えることは、もっと大切である。ノアの大洪水は突然来たのではなく、神様は繰り返し人々に警告を与えてきた。私たちはそれに耳を傾けるべきである。

 今日は第一に「忠実で賢いしもべ」について見ていきたい。イエス様は主人としもべのたとえで説明している。この主人は、多くのしもべの中で主人から信頼され「食事時に彼らに食事を与える」(マタイ24:45)役割を与えた。このしもべは賢いだけでなく忠実でもあり、主人に対する従順と信頼があり、主人が不在の時(24:46)でも主人の願いを理解して期待通りの働きをした。そのしもべの忠実な働きに対して「主人はその人に自分の全財産を任せる」(24:47)ようになった。私(牧師)は、家の経営全体からすれば食事の用意は限られた働きだが、そこには食事を用意する人の思いが表れるものだと考える。私たちは「終わりのとき」を考えるとき、その最後の一瞬の生き方を考えがちである。しかし、このたとえ話は「今をどう生きるか」こそが問われていることを示唆している。

 第二に「悪いしもべ」について見ていきたい。イエス様のたとえ話は「しかし彼が悪いしもべで、『主人の帰りは遅くなる』と心の中で思い、仲間のしもべたちをたたき始め、酒飲みたちと食べたり飲んだりしているなら、そのしもべの主人は、予期していない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ報いを与えます」(24:48-51)と続く。この悪いしもべにとって主人とは、鬱陶しく、居て欲しくない存在ではないか。だから主人がいるときに表面的に従って、いなくなると解放感を感じて自分勝手なことをしてしまう。このしもべの関心は、主人がかえってくる「最後のとき」を取り繕うことだけである。そして、「最後のときまでは充分に時間がある」「その間に自分のやりたい生活を取り戻したい」と考えている。そこには、主人に対する信頼も、同朋のしもべに対する思いやりもない。主人にいないうちに、主人から与えられた権威で主人のようにふるまっているともいえる。そのような振る舞いに対して、神様は「彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ報いを与え」(24:51)、さらに神様の名を語って活動していても「わたしはおまえたちを全く知らない」(7:23)と断じられる。

 第三に「賢さに歩むこと」について見ていきたい。ポイントは「主が定めておられる終わりのときをどう考えるか」という点である。私たちは「明日は今日と同じだろう。もっと、すばらしいかもしれない」(イザヤ56:12)と享楽的な生き方をしがちである。しかし神様が必ず来ると警告されている「終わりのとき」を軽く考えてはいけない。そういうと、私たちは「いつ終わりのときになるのか」を知りたがる。だが、それはだれにも知らされない(マタイ25:36)。神様は「終わりのとき」だけ取り繕うのではなく、常に備え今日を生きることを求められている。家の経営全体には、食事の用意以外の働きもある。私たちも様々な賜物や役割が与えられている。それぞれが私自身に期待されている「主人」たる神様の思いを考え、協力し合い毎日を生きる。「終わりのとき」がいつであろうとも、今日の生活を忠実に続ける。それが神様の求めておられる「備えること」である。

2024/03/17

2024年3月10日「神のことばの実現」(マタイの福音書24章32~44節)

【140字ダイジェスト】

神のことばは必ず実現する。神様のことばに従ってノアが箱舟を作っていた時、人々はその労力を笑い、自分の人生を謳歌することに「今」を使っていた。だが神様の終わり時は必ず来るし、イエス様でさえ知らない。だからこそ私たちは、日々神様との関わりを大切にしてそのことばに生きていく必要がある。

 神のことばは、単に聖書に書かれた文章ではなく、私たちの生活のなかで必ず実現していくものである。また私たちの周りの自然の中でも、神様のことばが実現していくことを私たちは理解する。私たちは「神のことばの実現」を様々な方法で知ることができる。

 今日は第一に「揺るがない神のことば」について見ていきたい。イエス様は「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることはありません」(24:35)とも言われた。私たちにはにわかには信じられないが、天地は滅び去る。旧約聖書のイザヤ書には「草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ」(イザヤ40:8)と書かれているが、紀元前700年のイザヤの時代とイエス様の時代は、大きな帝国がイスラエルを圧倒しているという共通点があった。その時代に圧倒的だったアッシリアはあっという間に滅び、そのころ小国だったバビロンは、その後急成長しイスラエルの民を捕囚にした→「旧約聖書を読んでみよう」の「失われた十部族」参照。イスラエルの民は「自分たちにはどうしようもない」と思えた政治的状況が、あっという間に変化する歴史を見てきた。そしてイエス様の時代、同様にローマ帝国は圧倒的な力を持っていた。そんな時代にあって、イエス様は「神(わたし)のことばの実現」を強調した。そして、神のことばの揺るがなさの一方で、民が消え去るだけでなく宇宙的な変化にまで言及している(マタイ24:29)。私たちの世界が根本的に覆されようとも神様のことばは揺るがないものであり、そこに自分の基盤を見出すべきである。

 第二に「ノアの教訓に学ぶ」ことについて見ていきたい。イエス様は「ただし、その日、その時がいつなのかはだれも知りません」「人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです」(24:36-37)と述べている→「旧約聖書を読んでみよう」の「ノアの箱舟」参照。東日本大震災の後も能登半島地震の後も、教団の支援チームで「その日にどのように備えたらいいか」を考えた。しかし結果、「その日に合わせて備える」ことは不可能で、「いつ来てもいいように今備える」ことが基本であるとの考えにいたった。私たちは「近いうちに大きな災害が来る」と言われると「それはいつですか」と問うてしまう。しかし重要なのは「今」備えることなのである。ノアが神様のことばに従って巨大な箱舟を作っていた時に、人々はその労力を笑い自分の人生を謳歌することに「今」を使っていた(24:38)。人々は「神のことばが必ず実現する」ということを軽視していた。私たちは「今」神様のことばに備えていく必要がある。

 第三に「目を覚ましていく」ことについて見ていきたい。イエス様は「ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから」(24:42)とおっしゃる。私たちは「いつ」というところに意識が集中するが、イエス様は「知らない」という。だから私たちは祈ってもそれは知らされない。だからこそ私たちは、その時だけ取り繕うようなことはできない(24:43)ので、神様がいつ来られてもよいように神様との関係を保っていく必要がある。言いかえれば、私たちは日々の生活の中で神様のことばに気を留めて、神様のことばが実現していくような毎日にすることである。日々の生活の中で神様との関わりを大切にして生きていく。それが、世界が揺るいでも決して揺るがない生き方ということができる。

2024/03/10

2024年3月3日「苦難の日々の後」(マタイの福音書24章1~14節)

【140字ダイジェスト】

聖書は「歴史にも終わりがある」とはっきりと具体的に語っている。その終末の時に、できるだけ多くの人が選ばれ救われるのが神様の御心でもある。私たちは、安定した生活を過ごす中でつい自分たちの考えを優先しがちだが、神様のことばを信仰を持って受け止め、多くの民のために今宣教する必要がある。

 人生にはどこかで終わりがあることを私たちは知っている。聖書はさらに「歴史にも終わりがある」と、はっきり具体的に語っている。前回、世の終わりの前兆の部分を見たが、今日は終わりの具体的な様子をイエス様がお話になったところを見たい。

 今日は第一に、時のしるしとして起こる苦難の部分について見ていきたい。この世の終わりには、いったいどんな苦難が起きるというのだろうか。聖書は「それゆえ、預言者ダニエルによって語られた『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら」(マタイ24:15)終わるが来ると語っている。このことばは、当時のユダヤ人にはピンと来る話だった。ここでイエス様は、ダニエル書の預言(ダニエル9:27)を引用されている。その預言とは、紀元前167年シリアのアンティオコスがエルサレム占領後に神殿で凄惨な蛮行をはたらいた事件を預言した部分で、実際に成就した預言として当時のユダヤ人には非常によく知られていた。人は危険にあうと心の安定を保つため「正常性バイアス」を働かせてしまいがちである。しかしイエス様は、ありえないほどのことが今から起きると人々に伝えようとなさっている。実際、エルサレムも神殿もこの後、数十年後にローマ軍に破壊されてしまうのである。

 二番目に見たいのは、キリスト者の備えである。終わりが来るときに「ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい」(マタイ24:16)とイエス様はおっしゃっている。創世記に出てくる有名なソドムの話しでも、御使いがロトたち一家を逃そうとする場面がある。そのときロトたちは、御使いのことばに従うよりも、安定した生活を過ごした町から逃げるのをためらい、つい自分たちの考えを優先してしまいそうになる。振り返って私たちは、その時その場で「逃げよ」ということばを、信仰を持って受け止められるだろうか。紀元70年、当時の歴史家のヨセフスの記したところによると、ローマ軍がエルサレムを囲んだ際、山に逃げた人たちは助かった。しかし エルサレムが堕ちるはずないと楽観した数千人は亡くなることとなったという。私たちも、その場にあって信仰を持って受け止めることができるのだろうか。その一方でイエス様は、弱さを抱えた人たちのことにも目を向けておられる(24:19-20)。すべての人が、すぐに行動に移せるほど強くはない。だが逃げるのが、冬や安息日にならないよう祈って備えることはできる。神様は私たちが苦難の中にあって救われることを願っておられるのだから。

 三つ目に、人の子のしるしと希望について見てみたい。偽預言者が現れ、苦難の日々の後、宇宙全体が変化して新しい世界に変わり、「人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると、御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます」(24:31)と聖書は語っている。その時に、できるだけ多くの人が選ばれ救われるのが神様の御心でもある。私たちは、そうした民のために今宣教しているのである。もちろん私たちの語る福音を聞き入れる人もいるし、拒絶する人もいる。しかしそれにくさることなく、一人一人が福音に預かれるようもっと先に目を向けて御言葉を宣べ伝えていく。それが神様に救われた私たちの務めでもある。

2024/03/03

2024年2月25日「終末へ兆し」(マタイの福音書24章1~14節)

【140字ダイジェスト】

イエス様は必ず起きる終末について語られている。人間は、大きな出来事に遭遇すると考えることをやめてしまい、神様が語られたことよりも惑わす者の声を聞いてしまう。だからこそ私たちは、語られる言葉が本物か偽物か見分けなければならないし、クリスチャンは本物の福音を伝え続けなければならない。

 誰かに伝えたいことを、私たちはメッセージにして書き送ることがある。いわゆる4つの福音書も、イエス様のことを語りたいという著者のメッセージである。イエス様が終末を語られた今日の箇所から、込められたメッセージを見ていきたい。

 今日は第一に、世の終わりのしるしについて見てみたい。日常の中で私たちは「世界が終わると考えることはまずない」と考えて日々を過ごしている。しかし聖書はこの世に必ず終わりがあることをはっきり語る。マタイ24章1節を読むと、弟子たちがエルサレムの神殿を見て、「なんと立派な建物だろう」と素朴に興奮している様子が伺える。これに対しイエス様はいきなり、「どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」(マタイ24:2)とお答えになる。つまり荘厳な神殿もいずれ崩れ去る終末の時が来るということである。実際、福音書の著者マタイが亡くなった後の紀元70年、エルサレムは焼き払われ、神殿の石は崩れ去ってしまう。弟子たちは立派な建物の前で想像のつかないことを聞いて相当驚いたはずで、オリーブ山に移動してから、ひそかに世の終わりにどんな前兆があるのか質問する。

 第二に、そこでイエス様が語られた「終わりの時の兆し」について見てみたい。聖書はこのようの終わりの兆しについて具体的に語っている。その兆しとは「キリストの名を語る偽物が現れること」「戦争や飢饉や災害が起こること」、そして「裏切りや憎しみが生まれ人々が苦しむ時が来ること」であった。また「人の心の中におこる理不尽な憎しみがキリスト者に向けられる」とも指摘される。イエス様は、人の持つ本質的な課題を明らかにされている。人も、人が作った物ももろく崩れるのである。だからこそ福音が必要なのである。

 最後にそうしたところにあってのキリスト者の備えについて考えたい。イエス様が終末の兆しを話す中で強調されたのは 「人に惑わされないように気をつけなさい。」(24:4)「気をつけて、うろたえないようにしなさい。」(24:6)ということであった。気をつけるという語には、「見る」という原語が使われていて、「ちゃんと見なさい」と繰り返し言われている。大きな出来事に遭遇すると、人間は考えることをやめてしまい、主が語られたことよりも惑わす者の声を聞いてしまう。だからこそ今よく見て、語られる言葉が本物か偽物か見分けなければならないのである。私たちは困難や苦しみがあるからといって現実に目をつぶるわけにもいかない。「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます」(24:13)とは、キリストがともにいてくださるから、信仰と期待を持って苦しみを受け止められるということである。今できないことは、今何をすればよいのか、「今」の重みをわかっていなければならない。「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます」(24:14)とあるように、御言葉を宣べ伝え続けることが、キリスト者のつとめである。今の社会に絶望している一人一人を見つけ出して支えることが、私たちのつとめであり大切な備えである。

2024/02/25

2024年2月18日「主が望まれる歩み」(テサロニケ人への手紙第一5章16~18節)

【140字ダイジェスト】

多くの人は自分が満足できる生き方を求め、直面する結果に一喜一憂する。しかし信仰を持った生き方とは、神様と常に対話する「祈り」、神様に救われ御手にある「喜び」、そして神様の導く将来の幸せを先取りする「感謝」など、「神様の御手に生きる」という視点から見た喜びあふれる生き方なのである。

 多くの人は「自分が満足できる生き方」を求めがちである。または「自分が大切に思う人の喜ぶ顔が見たい」という人もいるだろう。それに対し聖書は「神様が喜ばれることを喜ぶ」と生き方を示している。

 今日は第一に「いつも喜んでいなさい」(Ⅰテサロニケ5:16)というクリスチャンの喜びについて見ていきたい。私たちはテサロニケ人への手紙から、著者パウロの困難を読み取ることができる。しかし、教会は困難の中でキリスト・イエスにある喜びにあふれている。テサロニケ人への手紙では、ピリピでの苦労が書かれているが(2:2)、後に書かれた「使徒の働き」にはその内容が詳しく書かれている(使徒16:11-40)。パウロは、福音にあふれた喜びを常に語ってきた。パウロが手紙を送ったテサロニケ教会に様々な問題があった。しかしパウロは「だれも、悪に対して悪を返さないように気をつけ、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい」(Ⅰテサロニケ5:15)と勧めている。パウロは、悪意を持って近づく人にも「すべての人」、「いつも」と言っている。私たちは「自分の感情を押し殺してまでも喜ぶことはできない」と考えるだろう。しかし、私たち自身の感情を無理に否定するのではなく、御子イエス様を十字架の犠牲にしてまで罪ある私たちを贖ってくださった神様が、私たちに注がれる愛を実感しているからこそ喜べるのである。それは信仰によって与えられる喜びである。

 第二に「祈り」について考えてみたい。パウロはこの手紙をコリントから書いていた。彼は旅をしながら常にテサロニケ教会の人びとのことを祈っていた。祈りは神様との対話である。私たちは「祈ることもできない」苦しみに陥ることもあるが、それでも神様との対話のきっかけをつくることが大切である。また現代では「祈る時間がない」という人もいるだろう。「個人的なことを多くの人に祈ってほしくない」という人もいる。しかしイエス様は、私たちが集まって心を一つにして祈ることを求めているし、パウロも「私のために祈ってください」と何度も言っている。祈りを個人的な神様のとの対話にとどめることは、祈りの力を矮小化する。だからこそ私たちは祈る方法を工夫しながら、様々なかたちでの神様との対話を保ち、兄弟姉妹との祈り合いを大切にしていくべきである。

 第三に「感謝すること」について見ていきたい。私たちは毎日の生活の中で直面する課題について、様々な受け止め方をする。多くの場合、結果が自分の思う方向に行かない場合がっかりする。しかし聖書は「すべてのことにおいて感謝しなさい」(5:18)という。そんなことがあり得るのだろうか。ではなぜパウロは、こう書いたのか。それは「今は自分の意に沿わない受け入れられないこと」も、すべては御手の中にあり、神様の目からの最良の方向に導きたいという神様の御心が働いているからである。「感謝」とは自分の満足度の表明ではない。いわば「神様の導く幸せへの先取りの気持ち」である。私たちの教会堂を立て志半ばで召された牧師に対し、人は「彼の努力は実を結ばなかった」というかもしれない。しかし、その努力の先に私たちの教会の今の働きがある。以前の牧師夫人のノートには、神の愛のうちに教会が建てられたことの感謝だけが綴られていた。

2024/02/18

2024年2月11日「捨てられた家」(マタイの福音書23章34~39節)

【140字ダイジェスト】

幸いをもたらす神の愛を人間は一部しか理解できない。そのため当時の律法の専門家たちは、人びとを神の愛から遠ざけわざわいへと導いてしまった。しかし神様は決して私たちの犯してきた罪を忘れることはない。だから私たちは自分の罪と向き合い、神様に立ち返って心から受け入れことが求められている。

 マイクロ波やエックス線など電磁波は光の一種であるが、人間に見えるのはそのうちのごく一部である。同じように幸いをもたらす神の愛を人間は一部しか理解できないため、当時の律法の専門家たちは人びとを神の愛から遠ざけわざわいへと導いてしまった。

 今日は第一に「わざわいとなった人たちへのさばき」について見ていきたい。イエス様は「だから、見よ、わたしは預言者、知者、律法学者を遣わすが、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、街から町へと迫害して回る」(マタイ23:34)と言われた。マタイの五章では七つの「幸い」を話しているのと対照的に、23章では七つの「わざわい」について語っている(23:13、15、16、23、26、27、29)。結局、律法の専門家たちは自分の内側の罪を見つめ、へりくだることを忘れてしまっていた。イエス様は、このような彼らの不信仰を、神様は直接的な力によってではなく、旧約聖書に書かれている最初の殺人の犠牲者アベルから最後の犠牲者ザカリヤまで、イスラエルの民がたどってきた無法の歴史が、民の上に降りかかるかたちでさばかれるという(23:36)。神様は決して私たちの犯してきた罪を忘れることはない。「何も起こらないからよい」ではなく、今のうちに神様に悔い改めをすべきなのである。

 第二に「裁きとして為された捨てられた家」について見ていきたい。旧約聖書、新約聖書の「約」とは、神様の「契約」「約束」である。「神様のさばきには、猶予期間がある」と私たちは思うが、イエス様は「これらの報いはすべて、この時代の上に降りかかる」(23:36)ときっぱりと否定する。そのことば通り、40年もたたずイスラエルの心のよりどころであった神殿は完全に破壊され、民は全世界に散らされてしまった。神様が手を差し伸べたにも関わらず、民はその思いを拒否し偽善者たちの偽りの教えに走っていったからである(23:37)。神様は、自身が愛した都エルサレムを徹底的に破壊されたが、それは怒りであると同時に、そこから民が背きを反省し神様に立ち返るための愛ゆえの行いであった。マタイの福音書が書かれたのは紀元50年代。まだエルサレムもあり神殿も破壊されていない。でも、ほんの10年少し後イエス様の預言は真実性をもって実現された。

​ 第三「主の御名による再生」について見ていきたい。「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」(23:39)という言葉は、イエス様がエルサレムに入城するときに群衆が喜びをもって叫んだ言葉である(21:9)。しかし律法学者たちはイエス様に敵意を持っており、この言葉を叫ぶことはないだろう。だからイエス様は「今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない」(23:39)と断じている。イエス様は、神殿を「わたしは、三日でよみがえらせる」(ヨハネ2:19)と述べた。その時民は「荘厳な建物」を想像し、この発言を「神を冒涜する者」と非難した。だがその「神殿」とは復活のイエス様そのものであった。イエス様に神殿を見ることができるかできないかは、私は罪と向き合い、神様に立ち返り、「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と心から受け入れることができるかである。受難節にあって、イエス様が来られることを心から受け入れたい。

2024/02/11

2024年2月4日「偽善者の内側」(マタイの福音書23章23節~33節)

【140字ダイジェスト】

愛を語ると思われた聖書のことばが厳しく激しい響くことがあるが、そこに聖書の本質が表れる。イエス様は、「外側」の宗教的儀式だけを整えて人々を導こうとする律法学者たちを強いことばで避難した。そして私たちが「内側」の罪や醜さに向き合い、へりくだって神様との関係を再構築することを求めた。

 学校や友人の影響、小説の中で人生の中で聖書のことばに目が留まることがある。しかし、愛を求め聖書を読んでみると、そのことばに厳しさに驚き拒否感を感じることもある。今日の箇所はそんな厳しいことばが並ぶ箇所であるが、そこに聖書の言いたい本質がある。

 今日は第一に「肝心なものを失ってしまった宗教の姿」について見ていきたい。今日の場面は、一年で一番盛大な「過ぎ越しの祭り」を前にした時期で、荘厳な神殿で厳かな宗教的儀式が行われていた。パリサイ人や律法学者たちは、その複雑な宗教儀式を導き人々に教えていた。しかし、その「教え」についてイエス様は「おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている」(マタイ23:23)と非難した(→「聖書の舞台(生活・習慣)」のか行「イノンド」参照)。もちろん十分の一を納めたことが悪いのではない(23:23)。だが彼らは、それらが厳密に納められるように測っているが、神様を礼拝するという本質的部分を見落としている。その状況をイエス様は「ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる」(23:24)と批判している。神様は繰り返し語っておられる「人よ、何が良いことなのか。主があなたに何を求めておられるのか。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか」(ミカ6:8)と。

 第二に「偽善者にあるところの外側と内側の矛盾」について見ていきたい。イエス様は「おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている」(マタイ23:25)と非難している。律法学者やパリサイ人は、権威ある宗教的振る舞いや儀式を通して尊敬を得ようとしていた。だが人間は外側しか見ないが、神様は外側も内側も見ておられる。彼らは、外的な儀式にこだわるが、神様との関係を築こうとはしていなかった。私たちも彼らと同様に、いつも「外側」を気にしている。もちろん他人に不快感を与える身だしなみではいけないが、神様に見られている「内側」の罪に向き合い、へりくだって神様に従うことはさらに重要である。イエス様は、「外側」だけを飾り立てて「内側」にある罪や醜さを放置している人々は「白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ」(23:27)と批判している。「外側」の振る舞いと「内側」の醜さは、どちらが本当の自分だろうか。そして、その「内側」を清められるのは神様しかいない。

 第三に「預言者たちの証言」について見ていきたい。「預言」とは神様のみことばを伝えることで、預言者たちの多くはそれぞれの時代の政治的・宗教的迫害の中で神様のことばを命がけで伝えてきた。この当時の律法学者たちは、預言者たちの墓を飾り立てて自分たちは彼らに比することのできる権威だと思い込んでいた。しかしイエス様は「自分たちが預言者を殺した者たちの子らであることを、自らに対して証言している」(23:31)として、「内側」の罪に対峙し神様との関係を気付けない彼らは、預言者側を迫害した側であるという。そして「おまえたちは自分の先祖の罪の升を満たすがよい。蛇よ、まむしの子孫よ。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうして逃れることができるだろうか」(23:32-33)と言い切る。神様から見た罪ある私は、そのような存在なのである。その私たちが神様との関係を再構築するのは宗教的儀式そのものではなく、へりくだって神様のあわれみに生かされることである。

2024/02/04

2024年1月28日「価値を転倒する愚かさ」(マタイの福音書23章13節~22節)

【140字ダイジェスト】

パリサイ人たちは、当時の宗教的権威でありながら、人びとの熱心を様々な偽善や抜け道へと導き神様との関係を築くことを阻害してきた。だがイエス様は、誓いもいけにえも単なる宗教的儀式ではなく、私たちの全存在をかけて行動しなければならないほど重い、神様との真摯な関係を築く行為なのだという。

 反対方向に向かう列車に乗ってしまい、目が覚めるととんでもない駅に着いていることがある。同様に、神様が幸いへと招かれているのに、気づいたら災いに着いてしまうことがある。今日は、人々を真逆に導いてしまったパリサイ人たちに対するイエス様の怒りである。

 今日は第一に「律法学者やパリサイ人たちは偽善者の様であった」点について見ていきたい。イエス様は「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている」(マタイ23:13)と激しく非難している。彼らは誰よりも聖書に親しみ神様の福音を語らねばならないのに、福音の道とは真逆の道へ人々を導き「天の御国を閉ざして」(23:14)いた。彼らは確かに熱心に伝道活動をし、熱心に「改宗者」を得ようとしていた(23:15)。しかし、その心に中に「神様を愛する思い」「隣人を愛する思い」(22:36-40)があったのか。彼らの勢力を増し加え権威を振るうための熱心さだったのか。神様の福音に導かれなかった改宗者は、現在のカルト宗教の信者のように苦しみ「自分より倍も悪いゲヘナの子」(23:15)となってしまっていた。しかし、私たちは「当時のパリサイ人たちのしたこと」と捉えてはいけない。私たち自身も神の愛に満たされて福音を語っているのか。私たち自身、そして私たちの教会も、つねに省みていかなければならない。

 第二に、「目の見えない案内人」について見ていきたい。「目の見えない」というのは「全盲である」ということではない。神様の愛や福音に気づくことなく、宗教的権威をふるって人々を導こうとする「案内人」のことを指す。神様の誓いは、永遠に変わることのない「契約」である。しかし人間が黄金やささげ物を持ってきて「誓う」行為は、第三者の目には宗教的儀式を熱心にしているように見える。もちろん神様への誓いであるから、どんな事情があってもそれを反故にするわけにはいかない。そこでパリサイ人たちは抜け道を用意した。彼らは「だれでも神殿にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、神殿の黄金にかけて誓うのであれば、果たす義務がある」(23:16)と説明する。だから「守れなかった誓いは、漠然と神殿にも勝って祈っただけで実は義務がなかった」と言い逃れできるのである。これに対してイエス様は、神殿と黄金(23:17)、祭壇とささげ物とどちらが重要なのか(23:18)と非難する。彼らの論理は「黄金やささげ物を聖なるものとしているのは、祭壇や神殿の向こうにいらっしゃる神様ご自身である」という信仰の本質が欠落していた。だが現代のキリスト教式の「結婚の誓い」も、同様の形がい化に陥ってはいないか。

 第三に「誓いが持つ意味」について考えていきたい。イエス様は神殿や天に向かって行う誓いは気がるに考えられるものではなく、神様に届いているのだとその重さを考えるように言っている(23:21,22)。旧約聖書の人物であるエフタは、敵を打ち破らせて下さったら帰宅したときに最初に出迎えた人を全焼のいけにえを捧げると誓い(士師記11:30,31)、勝って帰ったときに出迎えたのは大切な一人娘であった。その絶望的な結果を「なかったこと」にせず、彼も愛娘も苦しみながら神様との誓いを果たした(11:39)。もちろん神様は人間の弱さを理解されている。だが私たちは、エフタの物語の残酷な結末に目を奪われるのではなく、神様へ誓うことの重さを再確認し神様との関係を真摯に受け止めていくべきであろう。

2024/01/28

2024年1月21日「主に仕える歩み」(マタイの福音書23章1節~12節)

【140字ダイジェスト】

当時、パリサイ人や律法学者たちは律法の専門家として尊敬を集めていたが、自分を高みに置いて人々の生活を律法でがんじがらめにして不幸にしていた。イエス様はその律法自体ではなくパリサイ人たちのその行いを批判し、神に仕える我々は互いに兄弟姉妹として支え合い、愛し合うことが大切だと勧めた。

 前回、パリサイ人とイエス様の論争でパリサイ人は答えることができなかった逸話を学んだ。それまでサドカイ派と比べてパリサイ派は民衆の尊敬を集めていたが、徐々に「彼らの言うことはおかしいのではないか」と思うようになってきた。

 今日は第一に「律法学者やパリサイ人たちの誤り」について見ていきたい→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「パリサイ派(パリサイ人)」参照。イエス様は人びとに「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい」(マタイ23:2-3)と述べている。イエス様は、パリサイ人らの語る律法までは否定していないし、それに従うことも否定はしていない。しかしイエス様は「しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです」(23:3)と注意している。さらに神様からの律法以外に、彼らはたくさんの口伝律法(タルムート)を作り出し人々の生活をがんじがらめにしていた。もしかすると口伝律法を考えた人々は「善意から」「敬虔な心から」作ったかもしれないが、それが独り歩きし「神様に従うため」「神様に従う人々の幸せのため」ではなくなってきてしまった。その上で、パリサイ人たちは人々に「重くて負いきれない荷を束ねて肩に載せ」(23:4)ながら「自分は指一本貸そうとしません」(23:4)とイエス様は批判している。

 第二に「兄弟姉妹に仕える交わり」について見ていきたい。イエス様は、律法学者やパリサイ人たちが「宴会では上座を、会堂では上席を好み、広場であいさつされること、先生と呼ばれることが好きです」(23:6-7)と断じている。彼らは「神様に仕える」のではなく、社会的に一定の地位を保つために宗教的行為をし、人びとを指導しているとは言えないだろうか。これに対してイエス様は「あなたがたはみな兄弟だからです」(23:8)と、神の家族としての関係を求めた。ここで誤解してはいけないのは「先生」「教師」「父」という呼び方自体を禁止しているのではない点である。神様からいただいた賜物にしたがった役割はあるが(Ⅰコリント12:28)、それによって自分を権威に定めず上下の関係を築くのではなく、神様の前の兄弟姉妹としての交わりが重要だというのである。

 第三に「自分を低くする」ことについて見ていきたい。イエス様は「あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」(マタイ23:11-12)と述べている。この「仕える」とは「しもべが主人に食事を給仕する」という意味である。神様と私の関係を考えたとき、もし、そこに信頼や喜びがないとどうだろうか。もし自分が奴隷で、信頼や喜びのない職場での主人に仕えていたら苦痛ではないだろうか。しかし「神様がいかに自分を愛し、大切に扱ってくださっているか」が分かれば、単なる「仕える」が、喜びをともなった関係にはならないだろうか。そして仕えれば仕えるほど、信頼感が向上し、自分の役割も見えてくるのではないだろうか。このような神様との関係を築いた人々は、お互いにも「仕え合う」ような関係になり、その交わりの中で信頼と愛を与え合うのではないだろうか。まったく無関係だった人々が、ある日、神様の前で兄弟姉妹と呼び合える関係になる。人々との関係が薄い時代だからこそ、キリスト教会のこの関係性のすばらしさを見つめなおすべきではないだろうか。

2024/01/21

2024年1月14日「問われた信仰告白」(マタイの福音書22章41節~46節)

【140字ダイジェスト】

パリサイ人たちは律法の専門家として、律法に従うことで救われるとして人びとを指導してきた。しかし旧約聖書に繰り返し預言されてきた救世主についての理解に欠けていた。「キリストをどう思うか」は、聖書の知識ではなく信仰によって受け止め、告白しなければ神様の王権や救いに入ることはできない。

 ローマ帝国の支配下にあった当時のイスラエルでは人びとは漠然とした不安を感じ、救世主(メシア)への期待が高まっていた。これに応えてパリサイ人たち→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「パリサイ派(パリサイ人)」参照は、当時の宗教的リーダーとして自分たちの律法主義に結び付けてきたが、そこに救いはあったのだろうか。

 今日第一に「問われるメシア像」について見ていきたい。イエス様はパリサイ人たちに「あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか」(マタイ22:42)と問われた。旧約聖書には、救い主が「ダビデの王座に就いて、その王国を治め」(イザヤ9:7)と書かれている。つまりダビデの子(子孫)に、神様の祝福を得て王座に就く者が現れるというのである。もちろん旧約聖書の律法の専門家であるパリサイ人たちなら、救世主(キリスト)はダビデの子(子孫)に生まれるということは知っていた→「聖書の舞台(人物・組織)」のた行「ダビデの子」参照。だが、この当時は「ダビデの子孫」は歴史の中に埋もれ、人びとから軽んじられていた。パリサイ人たちは「旧約聖書の預言を信じて救い主を求める」よりも「旧約聖書の律法を人々に守らせる」ことに力を入れていた。だが実際は、イエス様の出現まで、これに該当する王は生まれなかった。人々は圧倒的な政治力をもって圧倒する「王」を期待していたが、実際にはヘリ下り蔑まれ人々の贖いとなる「救い主」が王権を持つことになったとは人の想像を超えた不思議である。

 第二に「ダビデがキリストを主と呼んだ」ことについて見ていきたい。イエス様はダビデの詩編110編を踏まえつつ「主は、私の主に言われた。そして『あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで』」(マタイ22:44)と言っているのかと、パリサイ人たちに問うている。パリサイ人たちは、イスラエル王国の絶対的な権威であったダビデが、「キリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう」(22:45)「それでは、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼」んでいるか(22:43)という問いには答えられなかった。人間的には矛盾するように見えても、ダビデは御霊に示されたこと、ダビデのような人の力を超えた神様の権威によって王国が造られている。そして、その王国は御霊によってイエス様を主と告白する人々のものである(ローマ10:9)。

 第三に「御霊によって示されたキリスト」について見ていきたい。マタイの福音書の第一章は、イエス様がダビデの家系に位置づき、かつ聖霊によってこの世に来られたことを示している。私たちは救世主を人間的な思いや願いの中に矮小化して期待をしてしまいがちである。しかし救世主(キリスト)を、信仰を持って受け止めることで初めて理解できる。パリサイ人たちは、律法の専門家としてイエス様の誤謬を指摘しようとしていた。しかし誰も答えられず「その日から、もうだれも、あえてイエスに質問しようとはしなかった」(マタイ22:46)。「あなたがたはキリストについてどう思いますか」(22:42)という問いは進行の根本的なものであり、いくら聖書についての知識があって、御霊によらなければ理解はできない。それは「救いは神様からの恵み」だからである。聖書を初めて読む人は、マタイの福音書が延々と系図が書かれていることに戸惑う。だが、そこには神様の造られる王権と、神様の導かれる救いがどのようなものなのかが凝縮されている。

2024/01/14

2024年1月7日「信頼と互いの励まし」(テサロニケ人への手紙第一5章5節~11節)

【140字ダイジェスト】

ローマの支配下であった不安定な社会で、テサロニケの教会では、「教会に行っても意味はない」と信仰を失ってしまう人もいた。その教会に対してパウロは、状況がどう変わろうとも信仰者としての自分を保つ備えがあれば乗り越えられると諭し、互いに励まし合って高め合うことで成長するようにと勧めた。

 今年は新年早々北陸地震があったが、その中で津波を促すアナウンサーの強い口調が話題になった。この口調に賛否があったが、事実、危機が迫っていてもそれが人々の行動を変えないと意味がない。神様のみことばも、どのように人々に危機とともに伝えられるのか。

 今日、第一に見たいのは、「クリスチャンは闇の支配にあるのではなく光の子として備えられている」点である。聖書は「人々が『平和だ、安全だ』と言っているとき」に「突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません」(Ⅰテサロニケ5:3)と述べている。テサロニケはローマの支配下で栄えた町だが、その支配から逃れないと真の平和はない。そこにジレンマがあり、人びとは偶像礼拝に走っていた。パウロは、それらの人々にローマからではなく人々の内側にある罪の支配からの解放を訴えた。そしてパウロは、「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません」(5:5)と、光の支配の中に合うことを自覚するように勧めた。

 第二に「主の日への備え」について見ていきたい。テサロニケ教会の混乱の基盤には、「主の日」に関する混乱があった。彼らは、大きな災害や弾圧があると「これが主のさばきか」「自分はどうなってしまうのか」ととまどい、中には「もう教会に行っても意味がない」と信仰を失ってしまうことも多かった。これに対してパウロは「主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いても、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください」(Ⅱテサロニケ2:2)と勧めている。そして「ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」(Ⅰテサロニケ5:6)と述べている。この「身を慎んで」は「酔わないで」とも訳されているが、不安の中でも左右にふらふらとブレないようにというのである。そして「信仰と愛の胸当てをつけ、救いの望みというかぶとをかぶり」(5:8)とあるべき信仰者としての姿を保つように言うのである。さらに言えば「胸当て」と「かぶと」は防具であり、新たな武器を用意する必要はなく、状況がどう変わろうとも信仰者としての自分を保つ備えがあれば乗り越えられるというのである。

 第三に「信仰による互いの励まし」について見ていきたい。パウロは、テサロニケの教会への手紙の中で、あえて「ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい」(5:11)と書き送っている。なぜパウロが「互いに」という点を念押ししたのか。冒頭に話題にしたNHKのアナウンサーも、くどいほどに念を押しすべての人に避難を促した。同じように、事実、互いに励まし合っている教会であっても、もしかしたらそこに入れないでいる人がいるかもしれない。後に書かれたコリント教会への手紙では「教会はキリストのからだ」という表現が使われた(Ⅰコリント12:12-27)が、この互いの関係性こそが教会の基盤であるというのである。日本においては新たに受洗する人がいる一方で、同じくらいに人が教会に失望して離れてしまうため、全体の信者数は横ばいであるという現状がある。しかしキリストのからだたる教会は、超常的な神様の介入によって保たれるよりも、部分たる一人ひとりが互いに励まし合って高め合うことで成長するようにつくられた。神様は教会をどのようなものとして作られたか、もう一度確認したい。

2024/01/07
2024/01/01

2024年1月1日「将来を与える計画」(エレミヤ書29章11~13節)

【140字ダイジェスト】

バビロン捕囚が始まる頃、この捕囚が70年続くという民にとって衝撃的な預言があった。だが神様は「それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」と言われた。最悪に見える状況の中でも、信仰をもってみことば受け入れ、神様にある平安を待ち望みたい。

 2024年がどのような年になるのか、いろいろな人がいろいろな予測をしている。そかし予測の多くは、どうなるかわからない。現在の私たちの世界は不安定な情勢にある。

エレミヤ書が書かれた時代のイスラエルも、やはり世界情勢の中で不安定立場にあった。これは本格的な捕囚が始まる前の、第一次バビロン捕囚で捉えられた民に向けて送られた手紙であるが、そこには70年捕囚が続くという衝撃的な神様のみことばが書かれていた(エレミヤ29:10)。神様は奴隷となって連れていかれた人々に、捕らえられたバビロンで家を建て、仕事に励み、家族を養うように書かれていた(29:4-7)。しかし、この捕囚自体は「エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせた」(29:4)と語り、それが神様のご意思であったと述べられている。この最悪の状態を、神様のご意思として受け止める。それが迫られた。「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている」(29:11)と、その背後に神様のご計画があり、「それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(29:11)とも述べられている。神様は、イスラエルの民にとってこの計画がどれほど辛く屈辱的なものか「よく知っている」のである。神様のことばの真実性は、その時の人間の目にはわからない。聖書は、その中で信仰を持って神様のみことばを受け止めた人々と、受け止めきれなかった人々の歴史が書かれているともいえる。そして、歴史を振り返るとどこに真実があったかは一目瞭然である。

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