top of page
  • 執筆者の写真秋山善久

 私たちの教会は日本同盟基督教団に属しています。教団の特色として積極的な開拓伝道があげられます。それは当初の働き人に対する敬意を込めて、フランソンスピリットという言葉で受け継がれています。

 1891年11月、アメリカの宣教団から15名の宣教師が日本に送られてきました。宣教団の名称はスウェーデン・アライアンス・ミッション(現TEAM)。設立者はスウェーデンからアメリカに渡ったフレデリック・フランソンでした。フランソンは、中国伝道で広く知られていたハドソン・テーラーに強い影響を受け、呼びかけに応えて中国に1000人の宣教師を送る決意をしていました。ところが、その頃、中国での外国人排斥運動が激しくなり、宣教師が入国できない事態になってしまいます。そこでせっかく集められた宣教師たちは、突然行先を変えられて日本に送られてきたのでした。中国と日本では言葉も習慣も全く違うので、今日であれば問題になりそうですが、そうしたことをあまり意に介さない。そんな大胆さというか、あるいは宣教のための情熱というのでしょうか、それも含めてフランソンスピリットなのだと思います。

 とにかく、中国の奥地伝道を考えていた15名の宣教師たちは、横浜港に降りたときから、日本の奥地はどこだと聞き回ります。その結果、伊豆諸島、北海道のアイヌ居住地、千葉県南端、飛騨地方がそれに該当するとされました。そうして日本語をほとんど話せないまま、分かれてそれぞれの地に出かけて行ったのでした。

 今週の火曜日から水曜日にかけて教団総会がありました。そこでスランソンスピリットが語られたわけではありませんが、そこから出てきている一億二千万人宣教というビジョンは昨年に続いて示されています。担当者からは都道府県の中で、同盟教団の教会がまだないのは残すところ二つの県とアピールされました。それが島根県と秋田県と言われると、思わずゾクっとしてしまいます。東北宣教区長として、私のお尻には火がつきっ放しの状態です。一方においては、東北地区では牧師がいない教会が増えてきているのに。どちらも宣教の課題ではあるのですが、フランソンスピリットで考えてみようと思います。

  • 執筆者の写真秋山善久

 副業として、認知症を患う高齢者の介護をしています。ハローワークで紹介された小規模の高齢者施設です。週に3回の夜勤なので、常に夜昼がひっくり返ってしまう不規則さがあります。何の資格もないのに、こうした仕事を続けて来れたのは、主の導きと恵みのほかありません。パウロは、テサロニケ人への手紙の中で「自分の手で働くことを名誉としなさい」と言っているので、これが福音宣教の働きと矛盾するものではないと思っています。けれども、どうしても教会活動に影響が出てしまうことは否めません。

 それまで介護の経験というのはありませんでした。ですから実際にしてみると、そこには戸惑うことや失敗が多くあります。利用者を車椅子に移そうと思って鼠経ヘルニアになったのもそうです。腰を痛めないよう、利用者に手を添えた状態でお腹に力を入れたのですが、横隔幕が破れて腸が出てしまったのです。家に帰って、ぽっこり膨らんだお腹を見たとき、癌を疑って頭が真っ白になりました。でも、すぐにダッチョウーという言葉が思い浮かんだので、近くの専門病院に電話してみました。電話口で症状を伝えると、その場で手術の日が決められたのには驚きました。診察もしていないのにです。でも手術は日帰りで済みました。それからは腰を痛めないよう、時々筋トレをしています。東京で開かれる会議に出席するため、夜勤明けに新幹線で東京を往復し、仙台に帰ってからそのまま夜勤ということもありました。シフトに入っているので、なかなか休めないのです。でもコロナ禍以後は、安全を考えてそんな無理はしないようにしています。

 こうした施設は、社交と生活訓練の場であるのですが、ターミナルケアの役割を担っている部分があります。実際、夜勤をしていて、利用者を看取ったことが何度かあります。そんなときには、死について深く考えさせられます。病院と違うのは、生活の場に近いものがあることでしょう。いつの間にか、自分が高齢者の仲間になっていました。そのうち利用者よりも年上になるかもしれません。実際にそうなる前に辞めようと考えています。

  • 執筆者の写真秋山善久

 東日本大震災から13年になろうとしています。あの日の夜は、停電のため街全体が闇に包まれていました。我が家ではローソクを灯し、家族が寄り添ってラジオから流れる報道に耳を傾けたのでした。けれども、アナウンサーが悲痛な声で語る被害の状況は、にわかに信じられないことばかりでした。

 あれから13年が過ぎて、多くの復興事業が進みました。そこで頭をよぎるのは、この震災をどのように考えたら良いかということです。それは支援活動の中で議論されてきたことでした。そこにあったのは、理不尽さに立ち向かう魂の叫びであったと思うのです。

 東日本大震災では、しばしばリスボン大地震のことが引き合いに出されてきました。1755年にポルトガルの首都で発生した地震と津波は、この町に壊滅的な被害を及ぼしているからです。これを契機にヨーロッパでは啓蒙思想が広がり、伝統的な教会と対立してきました。そうした経緯から神のさばきという見方は、ある人たちに対する説明になるかもしれません。けれども実際に多くの被災者に寄り添ってみたとき、そうした説明で被災者に近づくのは難しいと思わされました。求められていたのは、愛する人を失ったことを悼む気持ちであったり、混乱した気持ちを理解して話を聞いてくれる人であったからです。

 支援活動の中では、「何故、このような災害が起こったのですか」と詰め寄る人がいました。そのときには「わかりません」と答えることにしています。人の理解が及ばない神の領域があると考えるからです。以前には無理に説明して相手を傷つけたり、躓かせたりしたという反省もあります。自然災害での被災者への支援は、神の復興の業と併せて考えたいと思っています。「何故」という問いに対する直接的な答えではありませんが、そこに新しい業を開かれる神の御心があると信じることができるからです。

タグから検索
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
bottom of page