
自分の人生を振り返ってみるとき、二十歳のころ、何げなく立ち寄った町の本屋で、一冊の本を手にしたことが転換点であったように思います。それは、亀井勝一郎という文芸評論家による「読書論」という文庫本でした。今でも覚えているのは、日本人の無神論について触れられていた箇所です。
「多くの人は無神論者ぶっているけれど、実際には無関心者であるだけだ。無神論というのは、魂の激しい葛藤を要するものである」というようなことが、強い調子で書いてあったのです。
当時の私は、その無神論者ぶって無軌道な生活をしていました。社会という大きな歯車に巻き込まれるのを嫌って、何にでも反抗的な態度を示していたのです。それがかっこうよくて、自由である。無責任で、あまりに軽い言い方ではありますが、1970年代の社会には、どこかにそんな雰囲気がありました。いや、勝手な思い込みです。
それにしても亀井勝一郎の言葉は、そのような私の生き方を根底から覆すインパクトとして迫ってきました。もし彼がキリスト者だったなら、いつものように鼻で笑って気にもとめなかったに違いありません。でも亀井勝一郎は倉田百三を師と仰ぐ、真面目な仏教徒であることを知っていました。倉田百三の「出家とその弟子」という本を読んだばかりだったからです。それだけに、無闇に反発できないものを感じたのです。
「そういわれればそうだなあ、友人に聖書って馬鹿くさいといってしまったけど、まともに読んだことはないんだよなあ」
狭い寮の一室で、ポカンとそんなことを考えていると、行き詰っている自分の姿が脳裏にめぐっているのです。それが牧師への道に繋がるとは、夢にも思わないことでした。

更新日:2025年9月27日
キリスト教を受け入れない日本の精神風土を、沼地にまかれた種に例えたのは作家の遠藤周作氏でした。確かに隣の国である韓国と比較すれば、キリスト教のスタートは同じなのに、教会数にしても信徒数にしても、今に至って日本では圧倒的な少数に留まっています。
そんな現状を受け入れながら、最近、子どもの頃、我が家の田んぼで母が稲作に格闘していたときの情景が、しきりに頭に浮かんできます。戦後の農地改革がされた後も、我が家の耕作地はとても狭いものでした。そのため、耕作に適さない土地であっても、必然的に耕作しなければならない。その中に殊更に水捌けの悪いヒドロと呼ばれる、暗渠排水のない田んぼがありました。そこは一旦、足を踏み込むとズブズブを体が泥の中に沈み込んでしまう沼地です。一人で作業をしていたら、助けを呼ばないと抜け出ることができなくなる程に危険とされていました。それなら耕作しなければいいのですが、我が家にはそんな余裕はありませんでした。それ以上に、そうした猫の額程の土地でさえも、母は自分の領分と考えていたようです。
夕闇が迫ると、胸のあたりまで泥に沈み込んだ母の体は、人と分からない程に黒い塊に化していきました。わたしは畦道に立ち尽くしたまま、恐怖に怯えながら、「早く家に帰ろう」と、弱弱しく声をあげているのでした。それでも母は、一向に手にした稲の苗を離そうとはせず、「だいじょうぶだあ」と黙々と植え続けていました。
母が亡くなって30年が過ぎ、わたしの齢は既に母より5年も長生きしています。それでも、あのしぶとさにはかなわないなあと感じるのは、自分の取り組みのどこかに引け目があるからでしょう。せめて沼地であることを諦めない母の姿勢は、自分なりに引き継ぎたいと思っています。

雨不足が懸念されていたのが、一転して各地で洪水のような大雨になっています。テレビの気象予報士によれば、海水温が例年より高いことが原因で、海から昇った大量の水蒸気が北から押し出された寒気に触れて大雨になっているとのこと。もっとも、線状降水帯を造る雲の流れは、様々な気象条件が重なっているようですが。
雨と海の関係は、小学生でも知っていることですが、近代になる以前には発想すらなかったのではないかと考えられます。なぜなら真水となる雨としょっぱい海水は、全く別物と考えられていたからです。実際、海水を真水にするなんて、昔はとてもできない高等な技術でした。だから海の水が雲を造り、それが雨となって空から降ってくるということは、容易に受け入れらるものではなかったでしょう。今では常識である水の循環というものは、自然科学の発達によって、人々に知られるようになったのでした。
それだけに、紀元前400年頃のパレスチナで、海と雨の関係が語られていることに、啓示の力というものを感じます。そこには、地に降り注ぐ雨が海の水から運ばれていることが語られているからです。「万軍の神は…天に高殿を建て、地の上に丸天井を据え、海の水を呼んで、地の表に注がれる方、その名は主」(マラキ書9章6節) 天の高殿というのは、地上世界と一線を画する神の領域です。地の上に丸天井が据えられたという表現、これも丸い地球を予表しているとも読み込める。そして、万軍の神は、海の水を用いて地のすみずみに雨を降らせるというのです。当たり前のように思っていることの中に、深い神の知恵が隠されているように思えてなりません。
