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  • 執筆者の写真: 秋山善久
    秋山善久
  • 2月27日

 父が肺癌で亡くなって、母は大腸癌でした。ですから、8年前、精密検査を受けるよう通地がきたときには、いよいよ来るべきものが来たかと腹を決めました。なかなか止まらない咳に、いつもの風邪の症状とは違うものを予感していたからです。大学病院での検査では、肺に陰が認められるとのことでした。すぐに検査入院となり、その日は病棟の窓下に広がる夜景を見ながら、残されている時間が少ないことをしみじみ感じました。

 古典落語に、死神というのがあります。死神のおかげで大儲けをした男が、死神の所にあった自分の灯を間違えて吹き消してしまうというものです。その可笑しさの頂点は、男が死神に、間違いなので元に戻してくれと必死になるところです。

 大学病院では、ペットとかMRIとか様々な検査を受けました。診察した医師によると、肺には確かに陰が認められるけれど、それが良性なものか悪性なものか判別できないとのこと。そこで投薬も治療もないまま経過観察となりました。それからしばらくして、自然公園を散歩していたとき、公園の東屋で朽ちかけた椅子に腰をおろして祈っていると、心の内側から希望のような熱いものが沸き起こってくるのを感じました。癒されるという確信みたいなものです。病院にいくと、不思議にも医師からは陰が全く無くなっていますと告げられたのです。どこでどうなったのかわかりませんが、医師の誤診でもなければ、私の間違いでもなさそうです。とにかく家族と共に飛び上がって嬉しさを噛みしめました。

 モーセの祈りに「私たちは自分の齢を一息のように終わらせます」(詩90:9)とあります。人生の短かさを自覚できないことは、落語のお話だけではないでしょう。あのとき以来、健康でいられることは感謝です。今は日々を主に支えられ、大事に生きたいと思っています。

  • 執筆者の写真: 秋山善久
    秋山善久
  • 2月20日

 子どもの頃、春先になると、友だちと家の近くの小川にイワナを釣りに出かけました。釣り竿は竹の枝を払っただけの手作りで、釣り針につける餌は川虫でした。長靴を履いて雪融けの冷たい川に入り、素手で川底の石をひっくり返すと、石にへばり付いた川虫を見つけることができました。冷えた体は日当たりのいい土手の上で温めます。辺りには福寿草が群生し、黄色い花をつけていました。

 この数日、近所のお宅の庭先に福寿草が花をつけています。これは子どもの頃にみた野生のものとは違い、花がずいぶん大きく見栄えがします。それにしても、虫が出てくるにはまだ日があるのに、どうやって受粉するのだろうと考えてしまいます。花をよくみると、小さいながらめしべとおしべはあるのです。それに種はスーパーで普通に売られています。ただし蜜を出さないということですから、蜂とか蝶のような昆虫は始めから頼りにしていないのでしょう。

 面白いことに、この花は向日葵のように太陽を追いかけます。花びらまでが、角度を変えて最大限に光を受けようとするのです。地に張った根は場所を動かすことはできません。でも、花を動かすことによって効率よく光の恵みをその中に取り込んでいる。花言葉は幸せを招くだそうです。

  • 執筆者の写真: 秋山善久
    秋山善久
  • 2月15日

 恥ずかしいことに、人の名前とか固有名詞を思い出せなくて、スマホで検索することがありました。たまにヒントらしいものがひっかかり、思い出すことができたからです。でも最近は、時間をかけてでも薄れた記憶を手繰り寄せるようにしています。

 脳は使わないでいると衰えるし、反対に思い出すことは脳トレーニングになるとわかったからです。ウォーキングなどの有酸素運動が、健康促進のため有効であるように、思い出そうと脳を使うことは、脳を活性化させるのにいいということです。特に脳の海馬を呼ばれる部分が注目されています。ここは記憶の司令塔ともいうべきところで、短期のものは海馬に記憶され、中長期のものは大脳に移されるとのこと。そして嬉しいことに、海馬も訓練次第で若返ることができるというではありませんか。 

 認知症の方と接していると、今話したことを直ぐに忘れてしまっていたりします。また、そうした状態が進行した人であっても、新聞や雑誌を読んだり、以前に勤めた職場のことを覚えていたりするのです。

 日本人の多くは、自分が認知症になることを恐れていると聞きます。確かに認知症になると、本人だけでなく、家族にとってもさまざまな弊害が生じてくるでしょう。認知症患者の介護を原因とする悲惨な事件がニュースになったりしています。だからといって、記憶を失うことは、その人自身が失われることではないと思います。その人の記憶は、その人の一部にしか過ぎないからです。

 キリスト者として幸いに思うのは、自分のことを主に覚えていただくということです。それがどんなものであっても、主のもとにある私の記憶は、失われない望みです。

「あなたは、私のさすらいを記しておられます。どうか私の涙を、あなたの革袋に蓄えてください。」(詩56:8)

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