検索
- 秋山善久
先週、実家の気仙沼に里帰りしたとき、近くにキリシタンが処刑された場所を示す供養碑があることを知りました。文政八年二月に建てられたキリシタン供養碑のことは知って
いましたが、実際に処刑された場所にも供養碑があるとは知りませんでした。前者の供養碑(写真)には、塩釜竹駒両大明神と大きな文字が彫られています。図書館で調べてみると、村内に悪疫が流行したとき祈祷師に占ってもらったところ、迫害された犠牲者のたたりと言われ、その慰霊のため建立されたとありました。処刑から数十年後です。兄に聞いてみると「キリシタンのためだと疑われないため、徹底的に考え抜かれたようだ」ということです。この地方には直接に関係ない二つの神社の名称が記されているのも、そうした事情なのでしょう。そんな危険を冒しても供養碑を建てたのは、占い師の言葉を信じたことでもありますが、人々の中に罪責感が残っていたからではないかという気がします。処刑現場の供養碑は、兄に教えられて初めて知りました。そこは私が子供の頃、友達とメダカすくいに夢中になっていた所でした。自然石に刻まれた文字は、残念ながら風雪に晒されて判読することはできませんでした。

- 秋山善久
雨が降り続いたときに、アマガエルの擬態について考えてみました。擬態というのは、体の色やかたちを周囲の環境に合わせて天敵から身を守ることです。アマガエルは草の中にいるときには緑色をしていますが、泥の中では土色に変化することが知られています。まるでドラえもんの道具のようなもので、子ども向けの本などでは生物が長い進化の過程で身につけたものと説明されます。けれども単純に考えて、どうしても解せないことがあります。それは、アマガエルはどのようにして自分を認識するのかということです。自分を客観的に認識できなければ、自分の体の色がどうなっているかなんて記憶することができない。そうであれば、そこから皮膚の色を変えるなどという飛躍的なことは絶対に無理でしょう。試しにアマガエルの前に鏡を置いて、そこに映るカエルの姿を自分と同一視できるかどうか実験して確かめることができるかもしれません。もし同一視できるなら、アマガエルは水たまりに映る姿を自己と同一視できることにつながります。時間があれば、そんな研究をしてみたい。アマガエルの前に鏡をおいて、自己と認識できるかどうか。誰か同じようなことを考えてチャンジする人はいないかな。
- 秋山善久