
今週、当教団の木谷信三牧先生が天に召されました。84歳まで現役を務め、今年から支援教師として後進の指導に回った矢先のことです。木谷先生は、目標を定めてそれを着実に実行する人でした。そこにどんなに困難があっても、信仰によって乗り越える大胆さがあります。そうした信仰の源泉になったのが、熱心な祈りであったと私は思っています。私が飛騨の教会で牧師をしたとき、前任牧師であったのが木谷先生でした。引き継ぎで見せていただいたのは、ひとりひとりの祈りの課題をカードにしたものです。特別伝道集会のときには、祈りの聖火というのを作って、信徒間でバトンタッチしていたと聞きました。
あるとき、車でご一緒させていただいたときには、先生は運転しながら祈り始めたのでした。もちろん目を開いてのことではありますが、ハンドルを握りながら声をあげて祈っているのです。助手席にいた私は、「大丈夫ですか」と声をかけることもできなく、心を強く打たれたことが印象に残っています。
ヨシュア記に、信仰の人としてカレブのことが書いてあります。カレブは85歳を過ぎてからも、主がヨシュアに約束した地を求めて「主があの日に語られたこの山地を私にください」(14:12)と主に願ったのです。木谷先生には、そんな信仰による情熱が最後まで沸き立っていたように思います。
先日、自転車で外に出かけたときに転倒し、その後、体調が思わしくなかったとのことです。病院で調べてもらったところ、癌の末期であることがわかったのですが、それから一か月足らずで主に召されるとは、誰も考えもしないことでした。けれども、主は、木谷先生の働きをもう十分であると認めてくださったのでしょう。地上的な思いからすれば、もう少し時間がほしかったように感じても、主の時計は既に延長されていたのです。そして、その与えられた時間を福音宣教のために使い切った。それが何よりも大きな主の恵みであるように思います。

自分の人生を振り返ってみるとき、二十歳のころ、何げなく立ち寄った町の本屋で、一冊の本を手にしたことが転換点であったように思います。それは、亀井勝一郎という文芸評論家による「読書論」という文庫本でした。今でも覚えているのは、日本人の無神論について触れられていた箇所です。
「多くの人は無神論者ぶっているけれど、実際には無関心者であるだけだ。無神論というのは、魂の激しい葛藤を要するものである」というようなことが、強い調子で書いてあったのです。
当時の私は、その無神論者ぶって無軌道な生活をしていました。社会という大きな歯車に巻き込まれるのを嫌って、何にでも反抗的な態度を示していたのです。それがかっこうよくて、自由である。無責任で、あまりに軽い言い方ではありますが、1970年代の社会には、どこかにそんな雰囲気がありました。いや、勝手な思い込みです。
それにしても亀井勝一郎の言葉は、そのような私の生き方を根底から覆すインパクトとして迫ってきました。もし彼がキリスト者だったなら、いつものように鼻で笑って気にもとめなかったに違いありません。でも亀井勝一郎は倉田百三を師と仰ぐ、真面目な仏教徒であることを知っていました。倉田百三の「出家とその弟子」という本を読んだばかりだったからです。それだけに、無闇に反発できないものを感じたのです。
「そういわれればそうだなあ、友人に聖書って馬鹿くさいといってしまったけど、まともに読んだことはないんだよなあ」
狭い寮の一室で、ポカンとそんなことを考えていると、行き詰っている自分の姿が脳裏にめぐっているのです。それが牧師への道に繋がるとは、夢にも思わないことでした。

更新日:2025年9月27日
キリスト教を受け入れない日本の精神風土を、沼地にまかれた種に例えたのは作家の遠藤周作氏でした。確かに隣の国である韓国と比較すれば、キリスト教のスタートは同じなのに、教会数にしても信徒数にしても、今に至って日本では圧倒的な少数に留まっています。
そんな現状を受け入れながら、最近、子どもの頃、我が家の田んぼで母が稲作に格闘していたときの情景が、しきりに頭に浮かんできます。戦後の農地改革がされた後も、我が家の耕作地はとても狭いものでした。そのため、耕作に適さない土地であっても、必然的に耕作しなければならない。その中に殊更に水捌けの悪いヒドロと呼ばれる、暗渠排水のない田んぼがありました。そこは一旦、足を踏み込むとズブズブを体が泥の中に沈み込んでしまう沼地です。一人で作業をしていたら、助けを呼ばないと抜け出ることができなくなる程に危険とされていました。それなら耕作しなければいいのですが、我が家にはそんな余裕はありませんでした。それ以上に、そうした猫の額程の土地でさえも、母は自分の領分と考えていたようです。
夕闇が迫ると、胸のあたりまで泥に沈み込んだ母の体は、人と分からない程に黒い塊に化していきました。わたしは畦道に立ち尽くしたまま、恐怖に怯えながら、「早く家に帰ろう」と、弱弱しく声をあげているのでした。それでも母は、一向に手にした稲の苗を離そうとはせず、「だいじょうぶだあ」と黙々と植え続けていました。
母が亡くなって30年が過ぎ、わたしの齢は既に母より5年も長生きしています。それでも、あのしぶとさにはかなわないなあと感じるのは、自分の取り組みのどこかに引け目があるからでしょう。せめて沼地であることを諦めない母の姿勢は、自分なりに引き継ぎたいと思っています。
