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  • 執筆者の写真: 秋山善久
    秋山善久
  • 9月13日

 雨不足が懸念されていたのが、一転して各地で洪水のような大雨になっています。テレビの気象予報士によれば、海水温が例年より高いことが原因で、海から昇った大量の水蒸気が北から押し出された寒気に触れて大雨になっているとのこと。もっとも、線状降水帯を造る雲の流れは、様々な気象条件が重なっているようですが。

 雨と海の関係は、小学生でも知っていることですが、近代になる以前には発想すらなかったのではないかと考えられます。なぜなら真水となる雨としょっぱい海水は、全く別物と考えられていたからです。実際、海水を真水にするなんて、昔はとてもできない高等な技術でした。だから海の水が雲を造り、それが雨となって空から降ってくるということは、容易に受け入れらるものではなかったでしょう。今では常識である水の循環というものは、自然科学の発達によって、人々に知られるようになったのでした。

 それだけに、紀元前400年頃のパレスチナで、海と雨の関係が語られていることに、啓示の力というものを感じます。そこには、地に降り注ぐ雨が海の水から運ばれていることが語られているからです。「万軍の神は…天に高殿を建て、地の上に丸天井を据え、海の水を呼んで、地の表に注がれる方、その名は主」(マラキ書9章6節) 天の高殿というのは、地上世界と一線を画する神の領域です。地の上に丸天井が据えられたという表現、これも丸い地球を予表しているとも読み込める。そして、万軍の神は、海の水を用いて地のすみずみに雨を降らせるというのです。当たり前のように思っていることの中に、深い神の知恵が隠されているように思えてなりません。

  • 執筆者の写真: 秋山善久
    秋山善久
  • 5月11日

5月の第二日曜日は母の日です。今では広く知られていますが、この習慣が始まったのは1905年、アメリカのウェブスターの一教会での出来事が由来とされています。

 アンナ・ジャービスという女性が、母の追悼集会にたくさんのカーネーションをもって来て母への感謝を表したというのです。そのことが、出席していた人々に深い感動を与え、その波紋が広がったたことがきっかけとなりました。その後、ジョンワナメーカーによって、5月の第2日曜日が母の日として記念されるようになります。さらにアメリカ議会は1914年、母の日を国民の祝日と制定するに及びました。

「あなたの父と母を敬え」とはモーセの十戒においては第4戒です。パウロはこれを「約束を伴った第一の教え」と語っています。(エペソ6:2)

 旧約の時代から、神の民は律法により親への敬意を教えられたのでした。但しこの教えは、他の戒めのように懲罰的な枠で規範をつくるのではなく、祝福があかしされることによって教育されたのです。

 宗教改革者カルバンは、子供が親を敬うことは、人が神を畏れることに繋がると言っています。人間関係の秩序が、創造者と被造物という縦の関係を導くとするのです。裏返してみれば、子供が親を敬うことをなくして、神を信じることは難しいものがあるということです。そこに親側の責任があるといえるでしょう。

 親であれば誰でも、子供の将来が幸せであってほしいと願います。そうであればこそ、神が約束しておられるところに立脚すべきという思いを一層強くします。

  • 執筆者の写真: 秋山善久
    秋山善久
  • 3月29日

 一年程前から、気が合った人たちと仏教の学び会をしています。先日は、「善悪不二」ということを学びました。「ぜんあくふに」と読み、善と悪は別々のものではなく、善の中に悪があり悪の中に善が在するというものです。悪とされていたことが、いつの間にか善とされていたり、反対に善とされていた人の中に悪が見出されたりする。こうしたことが起こるのは、もともとこれらが一つであったということのようです。

 最近のニュースに触れるとき、確かにそうしたことを考えさせられます。例えば、コロナウィルスの感染対策としてのワクチン。当初は対策の切り札として持てはやされました。けれども、その後は後遺症が出たり、これが原因で死亡したケースが多く報告されたと聞きます。これに懸命に関った人たちが、善とされたり悪とされたりしているのを聞くと、今の時点で裁かれることにやりきれない気持ちになったりします。戦争にしても、複雑な事情が絡み合っていることがわかってきて、どちらが善でどちらが悪か明確に判断できない。

 そうしてみると、人間の中に善と悪が入り混じったものがあると説かれるのは、キリスト者である私も納得します。けれどもキリスト教が仏教と大きく違うのは、福音はこうした混沌とした人間性の中に悟りのような光を見るのではなく、人間の中には深く染み込んでいる罪という現実を認めていることだと思うのです。キリストの十字架というあらわれでした。仏教の学び会でも「聖書は人の罪を正直に書いているんですね」と感想が語られました。

 そうした声を聞きながら、全的堕落という教理を思い出しています。

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