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  • 執筆者の写真: 秋山善久
    秋山善久
  • 2月15日

 恥ずかしいことに、人の名前とか固有名詞を思い出せなくて、スマホで検索することがありました。たまにヒントらしいものがひっかかり、思い出すことができたからです。でも最近は、時間をかけてでも薄れた記憶を手繰り寄せるようにしています。

 脳は使わないでいると衰えるし、反対に思い出すことは脳トレーニングになるとわかったからです。ウォーキングなどの有酸素運動が、健康促進のため有効であるように、思い出そうと脳を使うことは、脳を活性化させるのにいいということです。特に脳の海馬を呼ばれる部分が注目されています。ここは記憶の司令塔ともいうべきところで、短期のものは海馬に記憶され、中長期のものは大脳に移されるとのこと。そして嬉しいことに、海馬も訓練次第で若返ることができるというではありませんか。 

 認知症の方と接していると、今話したことを直ぐに忘れてしまっていたりします。また、そうした状態が進行した人であっても、新聞や雑誌を読んだり、以前に勤めた職場のことを覚えていたりするのです。

 日本人の多くは、自分が認知症になることを恐れていると聞きます。確かに認知症になると、本人だけでなく、家族にとってもさまざまな弊害が生じてくるでしょう。認知症患者の介護を原因とする悲惨な事件がニュースになったりしています。だからといって、記憶を失うことは、その人自身が失われることではないと思います。その人の記憶は、その人の一部にしか過ぎないからです。

 キリスト者として幸いに思うのは、自分のことを主に覚えていただくということです。それがどんなものであっても、主のもとにある私の記憶は、失われない望みです。

「あなたは、私のさすらいを記しておられます。どうか私の涙を、あなたの革袋に蓄えてください。」(詩56:8)

  • 執筆者の写真: 秋山善久
    秋山善久
  • 2月7日

更新日:2月8日

 夕方、水の森公園にある丸太沢という堤にいってみると、水辺にたくさんの白鳥が集まっていました。堤はサッカーコート2面ぐらいの大きさで、自然公園と住宅街に囲まれています。夜間は近くの車道からは車のライトが入るので、白鳥にとって決して好ましい環境とは言えません。それでも白鳥の飛来は毎年みられる光景で、おそらく北に帰るときの決まった宿にしているのでしょう。ざっと数えて70から80羽ほど。灰色の羽をしたのが数羽いて、遠慮がちに他の群れと一定の距離をとっていました。前年に生まれた、今回の渡りが初体験の白鳥です。そうした子白鳥も連れてくるのですから、親鳥たちにしてみれば大変な旅であることに間違いない。コンパスも地図もないのに、どうして決まった場所に来ることができるのだろうかと、方向音痴の私には想像もつかないことです。渡りのタイミング、方角、飛行距離、こうしたことの一つでも判断を誤ったら、それが命取りになるのですから。あるいは迷わないよう、群れの中にはリーダーとか階級のようなものがあるのかもしれないです。考えてみれば不思議であり、渡りは創造者の知恵に満ちたことのように思われます。

 観察していて見事だと思うのは、編隊になっている白鳥が着水するときの光景です。このときには、先にいる白鳥たちが鳴き声を高く上げて、空中にいる白鳥とコミュニケーションをとります。それはまるで「おかえり」と仲間の帰還を喜んでいるかのようです。

 堤防には、白鳥を撮影しようと待ち構えている人や、パンくずなどの餌を撒いている人などがいました。皆の視線が白鳥に向けられていたとき、突然、黒い陰の一団が空を埋め尽くしました。自然公園の樹木を塒(ねぐら)にしているカラスの集団です。夕闇の中に現れたその姿は、白鳥とは違った美しさがあります。このカラスたちは、白鳥たちを威嚇しているわけではありません。違いはあっても共存と共生が保たれている。人間と比べて自然の営みは何と奥深いことかと思わされます。

  • 執筆者の写真: 秋山善久
    秋山善久
  • 2024年11月28日

更新日:2024年12月4日

 ある方から干し柿をいただきました。丁寧に包んである薄紙を開くと、掌の半分より少し大きめの立派なものでした。弾力があって琥珀色に輝いている。「今までで一番いいできでした。」との知人のことばも頷けます。口に入れると、甘さといい、ふくよかさといい、自分がこれまで食べてきた干し柿の中で一番おいしいと感じました。

 子供のころ、おやつといえば干し柿でした。子ぶりの渋柿の皮を剥いて竹串に刺し、縄に吊るして天日で乾燥させたものです。食べごろになるまでには、雨に濡れてカビが生えないよう、軒先とか室内に何度も移動しなければならないので、けっこう手間がかかります。待ちきれない私は、まだ出来上がっていないのを、こっそり竹串から引きちぎって食べたものです。それを祖母に見つかってはこっぴどく叱られた。朽ちかけた古い家での嫌な記憶も、今となっては感慨深いものになりました。

 16世紀に日本に来たポルトガルの宣教師たちは、柿のことをイチジク(Figo)と呼んだということです。天草ではイチジクのことが西洋柿とされているとのこと。木になっている実だけを見比べれば、柿とイチジクは全く違ったものなので、どうしてそんなふうになったのか、これまでとても不思議に思っていました。けれども、いただいた干し柿を食べているとき、それが乾燥したイチジクと味と姿が似ているのではないかと気づきました。

 宣教師たちは、母国からイチジクの苗をもってきて、日本の土地に植えようとしたのです。けれども、東北の地ではなかなか根づかなかった。それだけに、柿への愛着が一層深かったのではないかという考えが頭に浮かびます。

 実家の近くに、宣教師たちが接ぎ木したとされる柿の大木の跡と、殉教者の碑が残されています。子どもの頃、川遊びをしたり魚釣りをした場所の近くです。興味深いことに、碑にはその地域に関係のない神の名が二つ刻印してあります。これについて郷土史には、当時は宣教師以外に接ぎ木の技術がなかったことと、根本にはっきりと接ぎ木の跡が認められることが記されています。そして碑への刻印の説明では、キリシタンと関わりがないとするために、カムフラージュしたものとあります。そうまでして建てなければならない碑とは何だったのか。そこにどんなことが起こったのか、迫害に封印されたまま時が流れ、今では何も知ることはできません。その柿の木は失われてしまったのですが、もし本当に宣教師によるものなら500年近く生きたことになります。たとえそうでなくても、激しいキリシタンの取り締まりの中で、宣教師たちが後世に残そうとした柿の木は、天に結ぶ甘い果実でもあったのだという気がします。

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