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希望への転回

 初めて地動説を唱えたコペルニクス。根本的に考え方を新しくすることを表現するのにコペルニクス的転回という言葉が使われてきました。少しきざな感じがしますが、相手に考え方が大きく変わったことを納得してもらうのにこれ以上の表現はないような気がします。

 20代の初めにキリスト教信仰をもったとき、それまでの世界観が大きく変わったような感覚がありました。教会からの帰り道、住宅街にあるすべての風景が輝いてみえたのでした。そのときは幸福感に満たされながら「どうして聖書の言葉を信じることを堅く拒絶していたのだろう」と不思議に思ったのでした。それは半世紀が過ぎた今も変わりません。

 最近、ある宗教の方々とお交わりの機会が与えられ、その関係の本をいくつか読みました。そこにはキリスト教に対する批判も書いてあります。少し古いものなので、今はどうなのか知りませんが、キリスト教について「救われない宗教」とありました。生活の苦悩を説明するだけで、現実の生活を変える力がないというのです。彼岸と此岸という世界の中では、キリスト教は彼岸(あの世)ばかりみていて、此岸(現世)は変えようとしていない、それについては諦めていると。

 私からすれば、それはそれでコペルニクス的な転回でありました。逆にどうしてそんなふうに結論付けられたのだろうと思うのです。ただし歴史を振り返ってみるならば、そのような批判を受けなければならないことが散在しているので、言い訳もできないだろうという気がしないでもない。そうしたことを踏まえながら、互いに批判し合うのではなく、共に聖書を学び合う関係ができていることを感謝しています。それがどのような方向に向かうか予想はつかないのですが、真理が道を分けることになるだろうと思います。内容は違っても、どちらも真理が基礎に置かれ、それが希望に繋がっているからです。

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