弱さと尊厳
- 秋山善久

- 2024年4月13日
- 読了時間: 2分
いつも行く図書館の貸し出し口で、職員の大きな声がしていました。目を向けると、白髪の男性がコピー機の使い方を聞いているのです。
「いくらですか」と男性。若い職員が「10円です」と面倒くさそうに答える。するとまた「いくらですか」と聞き返す。「10円です」「え?100円」周りが少しざわついて、「あほか」という小さな声が聞こえてきました。男性は軽い認知症を患っているのかも知れません。今言われたことを理解できなかったり、すぐに忘れてしまっているからです。身なりと言葉遣いは、社会で活躍された時期があったことを思わせます。それが邪魔者のように扱われている。悲しいことですが、そうした状況を回りがどのように受け止めるかということが問題なのでしょう。
そんなことを考えていたとき、宗教における聖と俗のことが頭に浮かびました。たとえば旧約聖書のレビ記においては、食べていい動物と食べてはならない動物があります。牛や羊は食べてはいいけれど、豚は汚れているので食べてはならないとされます。言うまでもなく、キリスト教信仰において食べ物の制限はありません。ですからこれらは旧約の時代に限定された戒めです。ただし神との関係において聖と俗の区別がされているのです。俗の世界を現世とすれば、現世は聖なるものと俗なるものが混在している。それを見分けて生活するのに、人間の意思や論理だけを優先させてしまってはならないのです。それをすると聖なるものを侵害してしまうからでした。
現代のように社会的な価値を効率だけで推し量ると、高齢者や障がい者、あるいは弱い者がどんどん外に押し遣られてしまう。結果として快適さはあっても、非人間的な社会になってしまうのではないかが心配です。だから聖なる方の意思が尊重されなければならない。人間の尊厳を守るというのはそうしたことではないかと思いました。




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