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執筆者の写真: 秋山善久
秋山善久
2025年10月20日

 透き通った秋の空の下を、トンボが飛び交っているのが目にとまります。季節の移ろいを一番感じるのは、こうした虫たちの営みであるように思います。夏であれば鬼ヤンマ。子どもの頃、網を縦横に振り回しながらも、ちっとも捕れないことにイライラした記憶があります。塩辛トンボは、どこにでもいて簡単に採取できました。トンボの目の前で人差し指をグルグル回し、トンボが頭を回したところをパッと捕まえる。そして尻尾をちぎって、そこに猫じゃらしなどの草の茎を突っ込んで飛ばす。そんな遊びが流行っていました。子どもとは言え、何とも残酷な部分を内にもっていました。

 赤トンボにそんなことをしなかったのは、学校で赤トンボの歌を歌ったからかもしれません。おそらく子どもながらに、いとおしい気持があったのでしょう。

 ちなみに、作詞をした三木露風は、カトリックの洗礼を受けたクリスチャンです。生涯にキリスト教の信仰を基にした詩集や信仰書などを出版しています。4番には彼の信仰があらわされているとも。

 「ゆうやけこやけの あかとんぼ とまっているよ さおのさき」 

 竿の先にとまっている赤とんぼは、彼が生涯崇めた十字架の主イエスを描写しているというのです。

 今、わたしはそのようにトンボを見ているかというと、そこまでは思いが至ってはいません。ただ、幼虫のときにはヤゴであったのが、成虫となってトンボになっている姿には心を惹かれるものがあります。その昆虫としての変体は、キリスト者の聖化を連想させるからです。泥の中で生きていた者が、キリストにより姿が変えられて、神の国を自由に飛び回るときが来る。トンボは、そんな希望を覚えさせてくれます。

執筆者の写真: 秋山善久
秋山善久
2025年10月11日

 「見上げてごらん。夜の星を」

 こんな古い歌を口ずさみながら、宇宙のことを思い巡らすことがあります。子どもの頃から、星を眺めていることが好きでした。そんな中、最近、興味をそそられているのがブラックマターです。ブラックマターとは、天文学の理論のために考え出された、仮説上の物質のことで実態はわからないままでした。これが世間の注目を集めるようになったのは、2017年、アメリカの研究チームが、重力波を検出したことによります。重力派による光の屈折により、ブラックマターの存在が現実味を帯びてきたのです。そのときの研究チームは、この業績によりノーベル賞を受賞しています。今では、宇宙の中でブラックマターが占める割合が、目に見える物質の5陪とも言われれています。

 旧約聖書のヨブ記に「あなたはすばるの鎖を結ぶことができるか。オリオン座の綱を解くことができるか」(38:31)という御言葉があります。それは神の全能に比べ、人の知識が如何に限られたものであるか、という文脈で語られたものです。古代には星と星を結ぶものとは想像もつかないことだったでしょう。近代の知識をもってすれば、あるいは重力の可能性をあげることができるかもしれません。それにしても、オリオンの三星は千光年も離れていて、とても綱にも鎖にもなれそうにない。そんなことを考えていたとき、ひょっとするとブラックエネルギーが働いているのかもしれないと思い付きました。もちろん、何の裏付けもありません。でも、そんな風に考えると、宇宙への見方も、そして聖書への理解も広がってくるような気がいたします。

執筆者の写真: 秋山善久
秋山善久
2025年10月4日

 今週、当教団の木谷信三牧先生が天に召されました。84歳まで現役を務め、今年から支援教師として後進の指導に回った矢先のことです。木谷先生は、目標を定めてそれを着実に実行する人でした。そこにどんなに困難があっても、信仰によって乗り越える大胆さがあります。そうした信仰の源泉になったのが、熱心な祈りであったと私は思っています。私が飛騨の教会で牧師をしたとき、前任牧師であったのが木谷先生でした。引き継ぎで見せていただいたのは、ひとりひとりの祈りの課題をカードにしたものです。特別伝道集会のときには、祈りの聖火というのを作って、信徒間でバトンタッチしていたと聞きました。

 あるとき、車でご一緒させていただいたときには、先生は運転しながら祈り始めたのでした。もちろん目を開いてのことではありますが、ハンドルを握りながら声をあげて祈っているのです。助手席にいた私は、「大丈夫ですか」と声をかけることもできなく、心を強く打たれたことが印象に残っています。

 ヨシュア記に、信仰の人としてカレブのことが書いてあります。カレブは85歳を過ぎてからも、主がヨシュアに約束した地を求めて「主があの日に語られたこの山地を私にください」(14:12)と主に願ったのです。木谷先生には、そんな信仰による情熱が最後まで沸き立っていたように思います。

 先日、自転車で外に出かけたときに転倒し、その後、体調が思わしくなかったとのことです。病院で調べてもらったところ、癌の末期であることがわかったのですが、それから一か月足らずで主に召されるとは、誰も考えもしないことでした。けれども、主は、木谷先生の働きをもう十分であると認めてくださったのでしょう。地上的な思いからすれば、もう少し時間がほしかったように感じても、主の時計は既に延長されていたのです。そして、その与えられた時間を福音宣教のために使い切った。それが何よりも大きな主の恵みであるように思います。

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