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  • 執筆者の写真秋山善久

更新日:2月15日

牧師室の壁に、小学2年生の子どもたちから届いたA3サイズの手紙がかけてあります。昨年、生活科の授業で町探検があったとき、教会にきてくれた子どもたちが作った「すてき新聞」です。住んでいる町内で「みつけたすてき」の中に教会が入っているのは感謝です。

 この会堂を建設したのは、還暦を過ぎて牧師になった藤森誠之先生です。以前、藤森先生は東京で中学校の教師をしていました。定年を前に退職して、奥様と共に神学校に入学して牧師への道を歩まれたということです。卒業後に仙台で開拓することに決めたのは、神様に示されたということの他に理由はないと聞いています。伝道の初めに会堂を建設するため、武蔵野にあったご自宅を売却して資金としました。背水の陣でしたけれども、4年後に奥様が癌のため天に召されてしまいます。更に5年後の2000年2月20日の日曜日の朝、先生自身も、突然天に召されてしまったのでした。単立教会のため、教会活動はそこでストップし、集まっていた人たちは皆散ってしまいました。

 当時、仙台市の東で開拓伝道をしていた私たちは、そうしたことを全く知りませんでした。ですからファックスで不動産屋から流れてきた教会の売り物件という情報には目を疑いました。仙台のぞみ教会では、その頃、家主の都合で借りていた家を出なければならなくなっていたからです。そのため連日、教会に改装できるような中古物件を懸命になって探していたのです。数少ないメンバーでこの教会をみたとき、信じられないぐらいに設備がすべて整っていることに驚きました。「明日から礼拝ができる」と口々に言い合ったのは昨日のことのように思えます。それで急いで購入が決まったのでした。あれから22年の歳月が経ちました。教会の前の道を、今日も子どもたちが登下校しています。この地に会堂があることに不思議な導きを思わされます。藤森先生の奥様である泰子さんは、亡くなるひと月ほど前の

ノートにこう記したそうです。「神の愛がすべてです。それを確認しました」

  • 執筆者の写真秋山善久

 近くの水の森公園を歩いていて、蕗の薹(ふきのとう)が顔を出しているのを見つけました。子ども心になって、春を探していると楽しくなります。散歩コースであるこの公園の端に丸田沢という溜池があります。毎年、ここに多くの鴨や白鳥たちがきて観察者たちを楽しませているのですが、その白鳥たちが北に帰るときが近づいてきました。夕暮れになると、周辺の餌場から編隊を組んで引き揚げてきて、少しづつ高度を下げながら布をかけるように静かに舞い降ります。それは何度みても見事と思える着水で、その姿をカメラに納めたい人にとっては絶妙なシャッターチャンスになります。

 遊歩道を歩いていて、そうした構えをしていた御婦人に「いい写真が撮れましたか」と声をかけてみました。するとその方は軽くカメラを持ち上げてニコリとしました。「今は五十羽ぐらいですかね。先週は百羽ぐらいいました」と私。「五時半ぐらいがピークになると思います。その頃には百羽になるでしょう。」と明るく答えてくれました。その時間には風も冷たくなるでしょうに、ずっと待っているようでした。

 北に帰る白鳥には、どことなく郷愁のようなものを感じます。一旦飛び立ってしまえば数千キロの旅をしなければならない。それは過酷な試練に違いないのです。それでも生き延びるためにはどうしても通過せざるを得ない。そうしていのちを繋いできたんだなあと考えてしまいます。それからすれば、地上に張り付いて生きている人というのは、愚かな存在にみえてしまうかもしれません。そういえば、聖画に描かれた天使の絵には、見事な翼が描かれていました。

  • 執筆者の写真秋山善久

更新日:2月2日

 冬から春に向かうこの時期を、光の春と表現することがあります。もともとは冬が長いロシアの言葉らしいのです。それが日本でも用いられるのは、春らしい陽気とはいえないけれど、確実に日差しが伸びていることに春を感じようとする気持ちがよくあらわれているからでしょう。

 能登半島地震の被災地では、ライフラインの復旧が急がれています。なかなか進まない工事に苛立ちを募らせる人も多いと思われます。仮設住宅の建設が遅れているので、そこに移転するまでに疲れ切ってしまいはしないか心配です。東日本大震災とは全く状況が異なるので、軽率なことは言えないのですが、共通した部分が見出されるたびに心が痛みます。あの時の被災地では、梅や桜の開花も話題にならなかった。そんなことに気にとめる余裕などなく、朝、床から起きたときにある課題のため終日走り回っていました。それでも春が来て、何かが少しづつ動き出していったような感覚があります。

 春は待ち遠しいけれど、その足音がなかなか近づいてくれない。まるで行ったり来たりしているように思われてしまう。北風に晒されたり、雪と氷に閉ざされるようなことが起こったりもする。あるいは裏切られたような気持ちになってしまう。それでも確実に春は来る。冬枯れの中に、突然に花を咲かせるアーモンドのことを、パレスチナでは目覚めの木と呼ぶようです。春にはそんな驚きと感動があります。

 神への信仰では、春を待つ思いと共通なものがあると思います。神の言葉が成るということでは、光の春と同じような確実さがあるからです。近くの家の庭先に福寿草が咲いていました。春はそこまで来ていると実感しました。

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