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  • 執筆者の写真: 秋山善久
    秋山善久
  • 2017年2月18日

  ニ年程前から、左頬に10円玉ぐらいのシミができていました。薄茶色で明らかに周辺の肌の色とは違っています。気にはしていたのですが、年齢によるものと半ば諦めていました。これまで誰かに「失礼ながら顔が汚れていますよ」と言われたことはありません。気がついても言葉にする程のことでもないからでしょう。けれども自分では、できれば消してしまいたいと考えていたのです。

ところが、先日、何気なく鏡をみていて思わず「あっ」と声を上げてしまいました。どうしたことかシミがなくなっているのです。薬とかそれらしいものを使ったということはないのにです。そこで思い当たったのは、最近、どこかしら体調が良くなっていることです。週に3回も夜勤をしながら、清々しく目覚めることができる。これはプールに行くなどして生活に運動を取り入れたことが大きいと思います。確かなことはわかりませんが、運動によって生活習慣病が改善され、皮膚細胞からシミを作っていた物質が除去されたのかしらん。いや勝手な連想です。でも違う可能性があるかもと疑ってみました。そこで思いついたのがプールの塩素水で顔が漂白されたのではないかということ。洗濯物でもあるまいし、まさかとは思いますが可能性の一つとして考えてみました。それだと結果オーライでも少し悲しい。いずれにしても判断は検診の結果をしっかり聞いてからにしようと思います。年に一度、市の健康診断を受信していますが、毎回、その結果を聞きに行くのは1年後の検診のときになっています。今年は、早めに行くことにしました。

  • 執筆者の写真: 秋山善久
    秋山善久
  • 2017年2月11日

  散歩がてら、自然公園の駐車場から調整沼へと歩いていると、上空を十羽の白鳥が飛び過ぎていきました。その姿は澄んだ青い空に溶け込んで、浮雲と見紛うばかりにきらめいています。

  先日、テレビのアナウンサーが「白鳥たちの北帰行が始まりました」と言っていたのが気になりました。北帰行という言葉は辞書には載っていないもので、歌謡曲からきているものです。その若いアナウンサーはどこかで聞いのを誤解したのかもしれません。50年程前に、小林旭の北帰行という歌が大ヒットしました。私も柄にもなく口ずさんだものですが、「北へ帰る旅人一人 涙流れてやまず」 という歌詞は男のロマンに溢れているし、それにどこかにノスタルジーを感じさせるものがあります。

  沼を囲む土手の歩道には、防寒着に身を包んでシャッターチャンスを狙っている人たちが数人いました。目立たない小さな沼ではあるのですが、毎年、多くの白鳥や鴨などの水鳥が飛来し、春先まで急場のにぎわいをみせるのです。おそらく水鳥たちの間では評判の沼でもあるのでしょう。飛び立つ鳥もいれば、舞い降りる鳥もいるので、北に帰るための中継点になっているのかも知れません。

 渡り鳥が季節と共に移動するのは、自然の中に組み込まれたからくり時計のようです。時が来れば、必ずそれは起ることだからです。若いエレミヤが主に「あなたは何をみているのか」と問われ、「アーモンドの枝をみています」(エレミヤ1:11)と答えたことが思い出されます。それは神の言葉の実現という強いメッセージに繋がっていました。

 白鳥は、毎年、シベリアから何千キロもの距離を移動するのですが、人間以外にそれを妨げるものはありません。そして、今日、人間社会では移民のことが世界的な大問題になっています。自由に行き来するのはけしからんという声が高まっている。そう考えると、人間とは何と傲慢で、不自由な生き物かと思わされます。何ともやりきれない気持になってしまいます。

  • 執筆者の写真: 秋山善久
    秋山善久
  • 2017年2月4日

  駅の近くにできた映画館で、話題の「沈黙」をみてきました。原作を読んだのは40年も昔のことですが、今もストーリーが頭に残っています。文学作品として最も光彩を放っていたのは、手紙として書かれた部分であったような印象があります。ですから映画を見る前には、文字が映像に置き換えられることで、作者の言葉がどれほど伝えられたのだろうという疑問がありました。それでも、実際に映画をみていると随所にそうした壁を乗り越えようとする工夫を感じることができました。

 特に長崎大名井上らによるキリシタンに対する拷問は、映像ならではのリアルさがあります。史実とは言え、それはそれは目を背けたくなるような残酷さです。また殉教を覚悟してどこまでも信仰に生きる人たちの生活が細かく描写されてあります。この人たちの生活は話にならない程に貧しいのですが、役者が現代人なので皆肉付きが良く、その点だけは映像が邪魔していると言えるでしょう。画面の中では、これらすべてを包み込むように山の緑と海の青さが迫っています。虫けらの声が不気味に響き、人の営みを嗤っているようです。テーマ曲とか心を癒すような音楽は一切なく、その意味でもサイレンスです。強いて言うなら蝉の声がレクイエムとなって、この異常な出来事を歌っているのです。

 そうした中で、改めて原作のテーマを考え直してみると、このままではキリスト教信仰が誤解されてしまうような気がします。何故なら、そこには信仰の中心である救いと、それに基づく希望が不確かで無意味なもののように描かれているからです。キリスト教信仰が人間の意志の強さとか、何か信じるものをもって生きることの大切さといったレベルで受け留められることになってしまいます。実際、ラジオから流れた映画の感想では、そのようなことが語られていました。

  でもここでのサイレンス「神の沈黙」いう言葉は、原作者個人の信仰から来る歴史解釈であって、実際に殉教していった人たちの想いとは異なっているような気がします。黙示録には、大きな艱難から抜け出て神のもとに召された人たちの姿が語られています。私自身は殉教者を理想化したり、美化するつもりはありませんが、人間的な理解に誘導されたくもありません。それは聖書が一貫して絶望の中からの希望を語っているからです。

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