top of page
  • 執筆者の写真: 秋山善久
    秋山善久
  • 2017年2月25日

  今週は東北学院大学の礼拝司会者懇談会がありました。東北学院大学では、毎日、三つのキヤンパスで礼拝の時間をもっています。パイプオルガンによる荘厳な前奏に始まり、司会者が聖書を朗読し、10分足らずの短い説教をするのです。礼拝は三つある寮でも行われます。こちらは週に1回です。当然、職員だけでは足りなくなるので、周辺の教会の牧師に協力要請をしているのです。私はこの奉仕をするようになって16年になります。三つのキャンパスと三つの寮で説教をしてきたので、延べにすると150回以上になるでしょう。

寮は全員出席ですが、大学礼拝は出席が強制されません。そのため出席者の多くは1年生が主体になります。それでも入学当初は1つのキャンパスで1,000人近く集まります。それが学生生活に慣れるに従って少なくなり、翌年の1月頃には200人ぐらいということもあります。

  「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」という聖書の言葉があります。学生のほとんどがクリスチャンではないので、神の言葉を聞く最良の機会となっています。説教者の側にしてみれば、一回一回が伝道会のようなものです。それでも短い時間で導入から結論に導くのは至難の業でもあるのです。その意味では説教者自身が訓練される場となっています。

  懇談会での学長や院長の言葉から、大学が建学の精神を引き継いで礼拝を教育の柱としていることが分かりました。混迷する時代の中で、学生たちには神を礼拝することの中に方向性を見出してほしいと思います。

 宗教部長からは、昨年、学生の礼拝出席が減少したという報告がありました。学部によっては、時間割りで授業との繋がりに悪くなってしまい、そこに原因の一端があったようです。それとは別に学生の中に変化が起きているのでしょうか。震災の年には礼拝の雰囲気が一変し、何かを求める気持ちが説教者にも伝わってきたことを覚えています。普段は出席しない子も参加して出席数が増加したのでした。あれから6年になろうとしています。

  • 執筆者の写真: 秋山善久
    秋山善久
  • 2017年2月18日

  ニ年程前から、左頬に10円玉ぐらいのシミができていました。薄茶色で明らかに周辺の肌の色とは違っています。気にはしていたのですが、年齢によるものと半ば諦めていました。これまで誰かに「失礼ながら顔が汚れていますよ」と言われたことはありません。気がついても言葉にする程のことでもないからでしょう。けれども自分では、できれば消してしまいたいと考えていたのです。

ところが、先日、何気なく鏡をみていて思わず「あっ」と声を上げてしまいました。どうしたことかシミがなくなっているのです。薬とかそれらしいものを使ったということはないのにです。そこで思い当たったのは、最近、どこかしら体調が良くなっていることです。週に3回も夜勤をしながら、清々しく目覚めることができる。これはプールに行くなどして生活に運動を取り入れたことが大きいと思います。確かなことはわかりませんが、運動によって生活習慣病が改善され、皮膚細胞からシミを作っていた物質が除去されたのかしらん。いや勝手な連想です。でも違う可能性があるかもと疑ってみました。そこで思いついたのがプールの塩素水で顔が漂白されたのではないかということ。洗濯物でもあるまいし、まさかとは思いますが可能性の一つとして考えてみました。それだと結果オーライでも少し悲しい。いずれにしても判断は検診の結果をしっかり聞いてからにしようと思います。年に一度、市の健康診断を受信していますが、毎回、その結果を聞きに行くのは1年後の検診のときになっています。今年は、早めに行くことにしました。

  • 執筆者の写真: 秋山善久
    秋山善久
  • 2017年2月11日

  散歩がてら、自然公園の駐車場から調整沼へと歩いていると、上空を十羽の白鳥が飛び過ぎていきました。その姿は澄んだ青い空に溶け込んで、浮雲と見紛うばかりにきらめいています。

  先日、テレビのアナウンサーが「白鳥たちの北帰行が始まりました」と言っていたのが気になりました。北帰行という言葉は辞書には載っていないもので、歌謡曲からきているものです。その若いアナウンサーはどこかで聞いのを誤解したのかもしれません。50年程前に、小林旭の北帰行という歌が大ヒットしました。私も柄にもなく口ずさんだものですが、「北へ帰る旅人一人 涙流れてやまず」 という歌詞は男のロマンに溢れているし、それにどこかにノスタルジーを感じさせるものがあります。

  沼を囲む土手の歩道には、防寒着に身を包んでシャッターチャンスを狙っている人たちが数人いました。目立たない小さな沼ではあるのですが、毎年、多くの白鳥や鴨などの水鳥が飛来し、春先まで急場のにぎわいをみせるのです。おそらく水鳥たちの間では評判の沼でもあるのでしょう。飛び立つ鳥もいれば、舞い降りる鳥もいるので、北に帰るための中継点になっているのかも知れません。

 渡り鳥が季節と共に移動するのは、自然の中に組み込まれたからくり時計のようです。時が来れば、必ずそれは起ることだからです。若いエレミヤが主に「あなたは何をみているのか」と問われ、「アーモンドの枝をみています」(エレミヤ1:11)と答えたことが思い出されます。それは神の言葉の実現という強いメッセージに繋がっていました。

 白鳥は、毎年、シベリアから何千キロもの距離を移動するのですが、人間以外にそれを妨げるものはありません。そして、今日、人間社会では移民のことが世界的な大問題になっています。自由に行き来するのはけしからんという声が高まっている。そう考えると、人間とは何と傲慢で、不自由な生き物かと思わされます。何ともやりきれない気持になってしまいます。

タグから検索
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square

© 2023 by COMMUNITY CHURCH. Proudly created with Wix.com

bottom of page