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干し柿

  • 執筆者の写真: 秋山善久
    秋山善久
  • 2024年11月28日
  • 読了時間: 3分

更新日:2024年12月4日

 ある方から干し柿をいただきました。丁寧に包んである薄紙を開くと、掌の半分より少し大きめの立派なものでした。弾力があって琥珀色に輝いている。「今までで一番いいできでした。」との知人のことばも頷けます。口に入れると、甘さといい、ふくよかさといい、自分がこれまで食べてきた干し柿の中で一番おいしいと感じました。

 子供のころ、おやつといえば干し柿でした。子ぶりの渋柿の皮を剥いて竹串に刺し、縄に吊るして天日で乾燥させたものです。食べごろになるまでには、雨に濡れてカビが生えないよう、軒先とか室内に何度も移動しなければならないので、けっこう手間がかかります。待ちきれない私は、まだ出来上がっていないのを、こっそり竹串から引きちぎって食べたものです。それを祖母に見つかってはこっぴどく叱られた。朽ちかけた古い家での嫌な記憶も、今となっては感慨深いものになりました。

 16世紀に日本に来たポルトガルの宣教師たちは、柿のことをイチジク(Figo)と呼んだということです。天草ではイチジクのことが西洋柿とされているとのこと。木になっている実だけを見比べれば、柿とイチジクは全く違ったものなので、どうしてそんなふうになったのか、これまでとても不思議に思っていました。けれども、いただいた干し柿を食べているとき、それが乾燥したイチジクと味と姿が似ているのではないかと気づきました。

 宣教師たちは、母国からイチジクの苗をもってきて、日本の土地に植えようとしたのです。けれども、東北の地ではなかなか根づかなかった。それだけに、柿への愛着が一層深かったのではないかという考えが頭に浮かびます。

 実家の近くに、宣教師たちが接ぎ木したとされる柿の大木の跡と、殉教者の碑が残されています。子どもの頃、川遊びをしたり魚釣りをした場所の近くです。興味深いことに、碑にはその地域に関係のない神の名が二つ刻印してあります。これについて郷土史には、当時は宣教師以外に接ぎ木の技術がなかったことと、根本にはっきりと接ぎ木の跡が認められることが記されています。そして碑への刻印の説明では、キリシタンと関わりがないとするために、カムフラージュしたものとあります。そうまでして建てなければならない碑とは何だったのか。そこにどんなことが起こったのか、迫害に封印されたまま時が流れ、今では何も知ることはできません。その柿の木は失われてしまったのですが、もし本当に宣教師によるものなら500年近く生きたことになります。たとえそうでなくても、激しいキリシタンの取り締まりの中で、宣教師たちが後世に残そうとした柿の木は、天に結ぶ甘い果実でもあったのだという気がします。

 
 
 

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