記憶
- 秋山善久

- 2月15日
- 読了時間: 2分
恥ずかしいことに、人の名前とか固有名詞を思い出せなくて、スマホで検索することがありました。たまにヒントらしいものがひっかかり、思い出すことができたからです。でも最近は、時間をかけてでも薄れた記憶を手繰り寄せるようにしています。
脳は使わないでいると衰えるし、反対に思い出すことは脳トレーニングになるとわかったからです。ウォーキングなどの有酸素運動が、健康促進のため有効であるように、思い出そうと脳を使うことは、脳を活性化させるのにいいということです。特に脳の海馬を呼ばれる部分が注目されています。ここは記憶の司令塔ともいうべきところで、短期のものは海馬に記憶され、中長期のものは大脳に移されるとのこと。そして嬉しいことに、海馬も訓練次第で若返ることができるというではありませんか。
認知症の方と接していると、今話したことを直ぐに忘れてしまっていたりします。また、そうした状態が進行した人であっても、新聞や雑誌を読んだり、以前に勤めた職場のことを覚えていたりするのです。
日本人の多くは、自分が認知症になることを恐れていると聞きます。確かに認知症になると、本人だけでなく、家族にとってもさまざまな弊害が生じてくるでしょう。認知症患者の介護を原因とする悲惨な事件がニュースになったりしています。だからといって、記憶を失うことは、その人自身が失われることではないと思います。その人の記憶は、その人の一部にしか過ぎないからです。
キリスト者として幸いに思うのは、自分のことを主に覚えていただくということです。それがどんなものであっても、主のもとにある私の記憶は、失われない望みです。
「あなたは、私のさすらいを記しておられます。どうか私の涙を、あなたの革袋に蓄えてください。」(詩56:8)




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