北帰行
- 秋山善久

- 2017年2月11日
- 読了時間: 2分
散歩がてら、自然公園の駐車場から調整沼へと歩いていると、上空を十羽の白鳥が飛び過ぎていきました。その姿は澄んだ青い空に溶け込んで、浮雲と見紛うばかりにきらめいています。
先日、テレビのアナウンサーが「白鳥たちの北帰行が始まりました」と言っていたのが気になりました。北帰行という言葉は辞書には載っていないもので、歌謡曲からきているものです。その若いアナウンサーはどこかで聞いのを誤解したのかもしれません。50年程前に、小林旭の北帰行という歌が大ヒットしました。私も柄にもなく口ずさんだものですが、「北へ帰る旅人一人 涙流れてやまず」 という歌詞は男のロマンに溢れているし、それにどこかにノスタルジーを感じさせるものがあります。
沼を囲む土手の歩道には、防寒着に身を包んでシャッターチャンスを狙っている人たちが数人いました。目立たない小さな沼ではあるのですが、毎年、多くの白鳥や鴨などの水鳥が飛来し、春先まで急場のにぎわいをみせるのです。おそらく水鳥たちの間では評判の沼でもあるのでしょう。飛び立つ鳥もいれば、舞い降りる鳥もいるので、北に帰るための中継点になっているのかも知れません。
渡り鳥が季節と共に移動するのは、自然の中に組み込まれたからくり時計のようです。時が来れば、必ずそれは起ることだからです。若いエレミヤが主に「あなたは何をみているのか」と問われ、「アーモンドの枝をみています」(エレミヤ1:11)と答えたことが思い出されます。それは神の言葉の実現という強いメッセージに繋がっていました。
白鳥は、毎年、シベリアから何千キロもの距離を移動するのですが、人間以外にそれを妨げるものはありません。そして、今日、人間社会では移民のことが世界的な大問題になっています。自由に行き来するのはけしからんという声が高まっている。そう考えると、人間とは何と傲慢で、不自由な生き物かと思わされます。何ともやりきれない気持になってしまいます。




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