桜
- 秋山善久

- 2024年4月6日
- 読了時間: 2分
ロータリーの真ん中にある桜が開花しました。私も含め団地の人はみな、毎年、その開花を楽しみにしているのです。けれどもそれは盆栽のような低木で、わざわざ花見に来るようなものではありません。せいぜい近くのコンビニや郵便局に立ち寄った人が、帰り際に一瞥して微笑むようなことで終わります。それでも桜の名を冠した団地の象徴的な存在でありますから、春から秋にかけては区域ごとに当番を決めて雑草を抜くなどの手入れ作業をします。その木の上には電線が蜘蛛の巣のように架かっているので、見栄えがしない木を一層みすぼらしくしています。「電力会社にかけあって、あの電線を地中に埋めてもらわなにゃいかん」そう息巻いていた古老がいました。けれども問題が多いらしく、未だに解消されていません。
ルース・ベネディクトの「菊と刀」は、戦後に出版された日本人論としてよく知られています。日本人は神の前での罪という感覚ではなく、他人の目による恥を重要視するというものです。彼女にとって日本人を象徴するのは桜よりも菊でした。その菊は権力の象徴で、桜は菊のために散るものと理解されたのでしょう。特攻隊でもなかった父が、仕事仲間と酒に酔うと、「貴様と俺とは同期の桜」と軍歌を歌っていたことを思い出します。軍人は国のために見事に散ることが美徳とされました。
戦後79年の今、桜は花を愛でる日本人の優しさを表現するものと変わってきています。水の上に落ちた花びらは、花いかだとして観光スポットになったりしています。そうした光景も好きではあるのですが、散り際の潔さが刹那主義に結びついていないかということが気になります。




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