top of page

 ロータリーの真ん中にある桜が開花しました。私も含め団地の人はみな、毎年、その開花を楽しみにしているのです。けれどもそれは盆栽のような低木で、わざわざ花見に来るようなものではありません。せいぜい近くのコンビニや郵便局に立ち寄った人が、帰り際に一瞥して微笑むようなことで終わります。それでも桜の名を冠した団地の象徴的な存在でありますから、春から秋にかけては区域ごとに当番を決めて雑草を抜くなどの手入れ作業をします。その木の上には電線が蜘蛛の巣のように架かっているので、見栄えがしない木を一層みすぼらしくしています。「電力会社にかけあって、あの電線を地中に埋めてもらわなにゃいかん」そう息巻いていた古老がいました。けれども問題が多いらしく、未だに解消されていません。

 ルース・ベネディクトの「菊と刀」は、戦後に出版された日本人論としてよく知られています。日本人は神の前での罪という感覚ではなく、他人の目による恥を重要視するというものです。彼女にとって日本人を象徴するのは桜よりも菊でした。その菊は権力の象徴で、桜は菊のために散るものと理解されたのでしょう。特攻隊でもなかった父が、仕事仲間と酒に酔うと、「貴様と俺とは同期の桜」と軍歌を歌っていたことを思い出します。軍人は国のために見事に散ることが美徳とされました。

 戦後79年の今、桜は花を愛でる日本人の優しさを表現するものと変わってきています。水の上に落ちた花びらは、花いかだとして観光スポットになったりしています。そうした光景も好きではあるのですが、散り際の潔さが刹那主義に結びついていないかということが気になります。


最新記事

すべて表示

いのちの格闘

新芽の多彩な緑に囲まれた森林公園の東屋で、残酷なまでにのたうち回っている格闘を目にしました。体格だけを比べたらまるで違うのに、盛んに足を動かしている黒く小さい方が圧倒的に有利な戦い。大きい方は、敵の硬い鎧のような体からはみ出た鋭い歯にその柔らかく白い腹を嚙みつかれ、為す術もなく引きずられていました。痛みに耐えるように体をくねらせながら執拗な攻撃をかわしている。その哀れさはこの上ないもので、力の差は

希望への転回

初めて地動説を唱えたコペルニクス。根本的に考え方を新しくすることを表現するのにコペルニクス的転回という言葉が使われてきました。少しきざな感じがしますが、相手に考え方が大きく変わったことを納得してもらうのにこれ以上の表現はないような気がします。 20代の初めにキリスト教信仰をもったとき、それまでの世界観が大きく変わったような感覚がありました。教会からの帰り道、住宅街にあるすべての風景が輝いてみえたの

弱さと尊厳

いつも行く図書館の貸し出し口で、職員の大きな声がしていました。目を向けると、白髪の男性がコピー機の使い方を聞いているのです。 「いくらですか」と男性。若い職員が「10円です」と面倒くさそうに答える。するとまた「いくらですか」と聞き返す。「10円です」「え?100円」周りが少しざわついて、「あほか」という小さな声が聞こえてきました。男性は軽い認知症を患っているのかも知れません。今言われたことを理解で

最新記事
アーカイブ
タグから検索
まだタグはありません。
ソーシャルメディア
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
bottom of page