2021年1月~2021年3月

 

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元旦礼拝

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2021年3月28日「苦難のしもべ」(イザヤ書53章1~12節)

 今日から受難週に入る。私たちの咎のためにイエス様がどんな苦難を受けたのか、覚えたい。しかし、それは肉体的に苦しみ追体験するのではなく、信仰によって十字架の意味をしっかり受け取るということである。今日の箇所はイザヤが、イエス様の十字架を預言した部分であるが、そのことを認識するだけでなく人生の苦難の受け止め方についても考えたい。

 今日は第一に「身代わりとしての神のしもべの苦難」について見ていきたい。イザヤはウジヤの死後に召命を受け、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ、マナセの王の時代に50年にわたって預言者として活躍した。だがその間、信仰に立ってアッシリア帝国に立ち向かったヒゼキヤ王の事例を除き、イスラエルの民は彼の言葉を受け入れなかった。イザヤは、神様が「苦難のしもべ」(イザヤ42:1-3、52:13-15、53:1-3)を立てられることを一貫して預言していた。そして、その人物は人が予想するような人物とは異なり(52:14、53:2)、「ひこばえ」「砂漠の地から出た根」(53:2)のような弱々しいものであると預言している。その「彼」が「私たちの病を負い、私たちの痛み」(53:4)を担うというのである。この「彼」とは「イスラエルの民全体だ」という人もあれば、イザヤ自身だという人もいる。しかし聖書は、私たちのために神様が「彼」に咎を負わせ(イザヤ53:6)、私たちのために「彼」は「罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする」(53:12)と述べている。そして「私たちのため」に苦しんだ「彼」は、使徒の働きでイエス様自身だと証しされている(使徒8:35)。

 第二に「苦難のしもべが示すイエス様の十字架」について見ていきたい。イザヤの預言は長期にわたり、百年後のバビロン捕囚→「旧約聖書を読んでみよう」の「バビロン」参照とその帰還についても述べられている。だが、ある人はそれを疑い、後世の人物が書いたと主張する。だが、そうだとすると今日の53章も「イエス様の十字架後に書いた」ということになってしまう。イザヤ書は「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(イザヤ53:7)と預言しているが、事実イエス様はピラトの裁判で何も答えずにいた(マルコ15:4-5)。「子羊が屠られる」ことは、人間の罪の代わりの贖いの意味がある。しかし人間は、自分の罪のために「彼」が犠牲になったことを、誰も想像だにできなかった(イザヤ53:8)。聖書は人間の罪とイエス様の十字架を明確に指し示しているが、神様の助けがなければ私の悟りでは信じるまでに至れない

 第三に「しもべの復活」について見ていきたい。聖書は「彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末永く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる」(53:10)という、人間の見方をはるかに超えた神様の意図があったと述べている。イザヤも50年間イスラエルの民に語り続け、最後は伝説によればヒゼキヤ王の息子マナセ王によってのこぎり引きにあったという。イザヤの人生も、預言された「彼」の人生も人間の目からすると空しいものに見えよう。だが神様の視点から見れば「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する」(53:11)ものであった。イザヤもイエス様も、神様の愛と御心のうちにゆだねる人生であった。私たちも神様の視点から見て人生を歩んで行かなければならない。

 

2021年3月21日「空しい業の立ち返り」(使徒の働き14章8節~18節)

 先週の礼拝後に、岩手県大船渡市のグレイズハウス教会とオンラインで交わりを行った。この教会は、当教団の東日本大震災への復興支援から始まった教会である。私(牧師)も当時、未曽有の大震災をどう受け止めるか思い悩みつつ祈り、神様の声を持ち続け、社会における信仰者の在り方を考えた。今日の箇所は、パウロの伝道旅行の最中の話である。足の不自由な人を癒した業が、リステラの人々の空しい生き方を転換する契機となった。

 今日は第一に「信仰による癒しの業」について見ていきたい。初代教会においては、神様が御言葉の真実性を証しするために、癒しを行われることがあった。聖書には「生まれつき足が動かず、これまで一度も歩いたことがなかった」(使徒14:8)男の人が、「彼はパウロの話すことに耳を傾けていた」(14:9)と書かれている。これは偶然ではなく、他の人以上の困難さと情熱をもってそこまで御言葉を求めて来たのである。彼を見たパウロは「癒されるにふさわしい信仰があるのを見て」(14:9)、聖霊に動かされて語りかけた。癒しは無差別に行われるのではない、そうなれば「信仰」でなく「後利益」を求める人で教会はあふれてしまう。男の信仰と聖霊の導きが一致したのである。パウロは大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」(14:10)と言ったが、もし癒されなければ恥をかく。しかし、パウロは、神様の御業が働いているのを確信し、それをその他の大勢にも知ってほしかったのである。

 第二に「偶像礼拝への警告」について見ていきたい。この癒しの業を見た群衆は「声を張り上げ、リカオニア語で『神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになった』と言った」(14:11)と聖書には書かれている。二人にはリカオニア語は分からなかったが、人々は二人をギリシア神話の神々だと考え(14:12)、「雄牛数頭と花輪を門のところに持って来て、群衆と一緒にいけにえを捧げようとした」(14:13)ことに驚いた。人々の行動は、二人への尊敬と好意から来たものだったが、全く的外れな行動であった。人を神と見做すところに、人の大きな罪がある。この出来事に対してバルナバとパウロは、衣を裂いて「どうしてこんなことをするのですか。私たちもあなたがたと同じ人間です」(14:15)と抗議した。ここに、自らの栄誉ではなく、ひたすら神様への働きを求めた二人の姿がある。

 第三に「神様に立ち返ることの勧め」について見ていきたい。この時のパウロの説教は、聖書に基づいて理路整然と説明する普段のものとは異なり、聖書を読んだことのない異教の人々の行動を止めたいという切羽詰まった感じがある。この説教の中でパウロは、①自分たちも人間であること(14:15)、そして人を神の立場に持ち上げる信仰は「空しいこと」(14:15)であり、「天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた生ける神」(14:15)がおられること。②「神は、過ぎ去った時代には、あらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むままにしておられました」(14:16)と、神様が人々の誤りを忍耐と寛容をもって受け取られていたこと。③その神様は、また恵みの神であることを証しされてきたこと(14:17)を宣べ伝えた。パウロは食物だけでなく「喜びであなたがたの心を満たす」(14:17)恵みが用意されていることを伝えた。神様は、私たちを「空しい生き方」から「恵みで満たされる生き方」へと転換させようとされている。これこそが神様の恵みの表れなのである。

 

2021年3月14日「恵みのことばの証し」(使徒の働き14章1節~7節)

 この季節、一雨ごとにつぼみが大きくなってくる。この時期の雨を、聖書では収穫を待ち望む「後の雨」という。創造者である神様は、このような自然の恩恵をすべての人に与えられていると同時に、福音と言う特別の恵みを与えられた。しかし、この福音を恵みとして素直に受け入れる人と、反発する人がいる。今日の箇所はイコニオンでの話である。

 今日は第一に「信仰と反発の反応」について見ていきたい。福音が語られた時に、その地域の中で「平安」ではなく「分裂」が起きた。平安をもたらす者が福音だとすると、これはどういうことか。イエス様ご自身も、福音によって「分裂」が起こることを語っている(ルカ12:51∸52)。イコニオンでも同じことが起こった。「二人がユダヤ人の会堂に入って話をすると、ユダヤ人もギリシア人も大勢の人々が信じた」(使徒14:1)反面、これに反発した者もいた。彼らは教会外の人を扇動して、教会の中で「兄弟」となった人びとに悪意を抱かせたのである(14:2)。しかし、それを気にしてはならない。福音が神様からのものであるからこそ、それに敵対するこの世の力からの反発が起きるのは当然である。

 第二に「神からの恵みのことばの証し」について見ていきたい。それでもバルナバとパウロは、「長く滞在し、主によって大胆に語った」(14:3)。この「主によって」とは、「イエス様の名によって」語ることと「イエス様のために」語ることの意味であり、だからこそ、何の遠慮もなしに大胆に語った。イエス様は「あなたがたに反対するどんな人も、対抗したり反論したりできないことばと知恵を、わたしが与えるからです」(ルカ21:15)と語られていたが、その通り「主は彼らの手によってしるしと不思議を行わせ、その恵みのことばを証しされた」(使徒14:3)のである。パウロ達は、自分の力で福音を広めたのではない。「主の恵みのことば」が語っていたからこそ、神様はともにおられ福音宣教を支えられるのである。教会には様々な社会的役割が期待されているが、教会にしかできないこと、すなわち「神のことばを語る」役割を忘れてはならない。

 第三に「迫害を逃れての宣教」について見ていきたい。先ほど見たように、福音を受け入れないユダヤ人たちは町の人達を扇動して攻撃を始めた。その結果、町は二分していった。地域社会の「一致」「和」を最重要と考えるなら、パウロ達は地域社会を破壊する者と言うことになる。本来、ユダヤ人は異邦人と隔たりを持っていた。そこにパウロ達が福音を宣べ伝え、互いに「兄弟」として受け入れるクリスチャンが生まれた。一方、教会の外では「異邦人とユダヤ人が彼らの指導者たちと一緒になり」(14:5)パウロ達を迫害しようとする一致が生まれた。この姿は、ユダヤ人たちがイエス様への反発からローマ総督のピラトに近づいて行った姿を連想させる。福音は、自分たちの一番深い所の罪を明らかにする。だからこそ、自分たちの生き方や生活を変えたくない人々から大きな反発を生む。その一方で「使徒の側に立った」(14:4)人もいた。彼らは、「神様のことば」の上に人生を築こうとした人々である。そう決断する時に、この世との「分離」が起きるのは仕方がないことである。しかしイエス様は、「あなたがたの髪の毛一本も失われることはありません」(ルカ21:18)と語られた。だからこそパウロ達は、危険が迫るギリギリまで福音を語ったのである。

 
 

2021年3月7日「ねたみと神の愛」(使徒の働き13章42節~52節)

 三月に入り生命が躍動する季節となってきた。教会歴は2月17日から受難節(レント)に入り、(今年は)4月4日のイースターを迎える。最近は日本でもイースターという言葉が定着したが、私たちはそこで起こった復活と永遠のいのちについてきちんと受け止めておきたい→「聖書の舞台(生活・習慣)」のあ行「イースター」参照。今朝の話は、パウロがアンティオキアの教会で福音について語った場面である。

 今日は第一に「神の恵みを喜ぶ」について見ていきたい。ピシディアのアンティオキア教会に集まった人々は、パウロの説教を聞き「次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼んだ」(使徒13:42)とある。聖書の箇所をたくさん引用したパウロの長い説教を「もう一度聞きたい」と願った人々が、いかに熱心に福音を理解したいと考え、それと同時に「家族や知人にも聞かせたい」と考えたことが分かる。自分の罪の問題を突きつける福音は、聞く人にとっての痛みを迫るが、彼らはその中に救いの恵みの喜びを感じた。だがパウロとバルナバは、集会後もついてきた人々には、彼らが自分たちへの親近感や尊敬などに陥ることのないよう「神の恵みにとどまるように」(13:43)説得した。その後、この教会が固く立っていけたのは、人々が二人のカリスマではなく神様につながったからである。

 第二に「ねたみに燃えた人々」について見ていきたい。「次の安息日には、ほぼ町中の人々が、主のことばを聞くために集まってきた」(13:44)という状況は、本来、神様の民であるユダヤ人にとっては喜ぶべき出来事であろう。しかし彼らは「ねたみに燃え、パウロが語ることに反対し、口汚くののしった。」(13:45)のである。神様がどんなに大きな業をなそうとも、ねたみという罪に陥った人々にはそれが見えなくなる。パウロの説教は、ユダヤ人が大切にしてきた聖書を引用し、冷静で論理的な語られていた。だが、それに反対する人々は、同じ神様のことばに立って反論するのではなく感情だけで反対をしていた。その結果、彼らは「福音がユダヤ人にも異邦人にも豊かに届けられている」という驚くべき恵みに預かることができなくなってしまった。パウロとバルナバは、ユダヤ人たちに「神のことばは、まずあなたがたに語られなければなりませんでした。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者にしています。ですから、見なさい、私たちはこれから異邦人たちの方に向かいます」(13:45)と述べた。神様に選ばれた民という歴史と自負を持つユダヤ人にとっては、衝撃的な言葉であった。だが、これはユダヤ人に対する反撃ではなく、彼らも神様の恵みに気が付き、悔い改めに向かってほしいという思いからであった。

 第三に「福音の喜びと宣教の広がり」について見ていきたい。パウロは、イザヤ書(49:6)を引用し「わたしはあなたを異邦人の光とし、地の果てにまで救いをもたらす者とする」と言う神様の御心を宣言した。イザヤ書は、イスラエルの歴史で重要な「バビロン捕囚」を「小さなこと」と述べ、「地の果てにまでわたしの救いをもたらす」ことが神様の真意であると述べている。神様の真意を聞いた異邦人は喜び神様を賛美した(使徒13:46)。その喜びは人間的な快楽ではなく、神様との関係の回復の喜びであった。パウロ達は多くの異邦人を信仰に導いたが(13:48-49)、「パウロとバルナバを迫害させ、二人をその地方から追い出した。」(13:50)人々に対しては神様にゆだね(13:51)、福音の広がりについての喜びに満たされて去って行った。

 

2021年2月28日「信仰による義」(使徒の働き13章29節~41節)

 ある肉屋の主人が救われ、信仰の喜びから店に来る客に包丁を手にしながら「兄弟たち、人はみな死ななければならない」と言ったという笑い話がある。福音を誰かに伝えることは、クリスチャンにとって大きな喜びであるが、熱意だけで伝えるだけでは誤解を生む。私たちは、福音を伝えた使徒たちの行動から学ぶことも多い。今日の箇所は「信仰による義」が語られているが、これはパウロが繰り返し語るメッセージの中心部分であった。

 今日は、第一に「死者の中から復活されたイエス」について見ていきたい。この時、ピシディアのアンティオキアの会堂にはユダヤ人と異邦人が集まっていた。ユダヤ人は「十字架につけられたナザレのイエス」のうわさは知っていたが、救い主とは思ってなかった。このユダヤ人たちに、パウロは神の御子であるイエス様を十字架につけた彼らの罪を指摘し、だが、それは聖書の中に初めから書かれていたと述べた(使徒13:29)。「しかし、神はイエスを死者の中からよみがえらせました。」(13:30)とあるように、神様は、御子を殺した人間にその御手を伸ばされなかった。復活されたイエス様も自ら十字架につけた人びとの前に現れず、「ご自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人たちに」(13:31)に現れた。この人々は、その後、福音を宣べ伝える中心となっていった。

 第二に「真実で確かな約束」について見ていきたい。ユダヤ人は子どもの事から徹底的に聖書を覚えさせられていたが、自分の理解の範囲でしか内容を捉えていなかった。彼らは、「神から選ばれた民」との意識が強く、聖書で指摘された自分の罪について認めようとしなかった。人は神の愛の中で自分の罪を自覚して、初めて神様の愛を受けることができる。パウロは、そのような「神が父祖たちに約束された福音」(13:32)が、ユダヤ人だけでなく異邦人にも向けられていると述べた。そして「彼らの子孫である私たちにその約束を成就してくださいました。」(13:33)と約束が確かに成就されたこと、その福音がダビデの家系→「聖書の舞台(人物・組織)」のた行「ダビデの子」参照に起こされることが書かれていたことを、聖書を引用しながら説明した(13:33-34)。さらに、「永遠のいのち」を与えるとダビデ個人に語られた「確かで真実な約束」(13:34)が、滅びたダビデ個人になされたのではなく(13:36)、「わたしはダビデへの確かで真実な約束を、あなたがたに与える。」(13:34)とイエス様を信じるすべての者に与えられたと言う。

 第三に「信仰による義と罪の赦し」について見ていきたい。この説教でパウロが伝えたかったのはこの部分であるが、「罪の自認」なしに「罪の赦し」が先行してしまうと福音の本質やイエス様の十字架の意味が薄れてしまう。ユダヤ人の過ちは罪を自認せず、罪を外にあると考え、律法を守ることで汚れや異邦人を避けてきたことにある→「聖書の舞台(生活・習慣)」のら・や・わ行「律法」参照。そんな彼らに対してパウロは、「このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられているのです。また、モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについて、この方によって、信じる者はみな義と認められるのです。」(13:38∸39)と述べた。人間の罪は、律法に従う行動だけで帳消しになるのではない。自分の罪を深く自覚し悔い改め、イエス様の十字架によって私たちの罪が贖われたことを信じて、初めて神様との関係が回復できる。それが「信仰による義」である。私たちは、そのような信じがたいほどの神様からの愛に応答すべきである。

2021年2月21日「神の約束と相続」(使徒の働き13章13節~28節)

 今日、「自分の居場所がない」と孤独を感じる人は多い。だが福音は、神の前に私たちは受け入れられており、神様がわたしの居場所となるという平安がのべられている。今朝の箇所は、パウロとバルナバが旅に出て、ピシディアのアンティオキアで説教した場面である。

 今日は、第一に「歴史に刻まれた神の約束」について見ていきたい。神様は、その歴史を通じてイスラエルの民が神様を知るようにしてきた。だからパウロは「この民イスラエルの神は、私たちの父祖たちを選び、民がエジプトの地に滞在していた間にこれを強大にし、御腕を高く上げて、彼らをその地から導き出してくださいました。」(13:17)と、回収を前に歴史をひも解きはじめた。彼は、イスラエルの民が民たる原点は、「出エジプト」の出来事にあるというのである。パウロは、エジプトでの四百年、そして荒野での四十年(13:18)の歴史に、神様の計画と約束が変わらず続いていたと説明している(13:18~20)。そしてイスラエルの民の激動の歴史と、その後の「約束の地」の成就(13:19)は、後の時代の人たちが「神様の約束は変わることがない」ことを知るためであったという。そして神様の約束があったからこそ、強大な民族の中にあって滅びなかったのである(13:19)。

 第二に「ダビデに表れた約束の意味」について見ていきたい。ダビデの前のサウルに関しては「それから彼らが王を求めたので、神は彼らにベニヤミン族の人、キシュの子サウルを四十年間与えられました。」(13:21)と、神様が人々の思いを優先させたためである。パウロがサウル王を引き合いに出したのは、ベニヤミン族出身で「サウロ」と名乗っていたパウロのことを話したかったのではないか。彼は、「サウル王とそれを選んだ人間的な思い」が退けられていったことを、自分の過去と重ねて話したかったのだろう。一方、ダビデ王については「彼はわたしの心にかなった者で、わたしが望むことをすべて成し遂げる。」(13:22)と、神様のみこころから出たもので、その先には神様の遠大な計画があった。ローマ帝国に支配されていた当時のイスラエルの民は、「強大なイスラエルを復活させる王の出現」をダビデ王に見出していた。しかしパウロは、「神は約束にしたがって、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主イエスを送ってくださいました。」(13:23)と述べている。神様のご計画はダビデ王の復活ではなく、聖霊による救い主のであると述べている(ローマ1:2∸6)。

 第三の「そこで求められた悔い改め」について見ていきたい。パウロは人々に「悔い改め」を求め、それも歴史の中に計画があったと述べている。彼は、イスラエルの民にとってバプテスマのヨハネという預言者は特別な存在であった。だが、彼自身が「私はその方ではありません。」(13:25)と述べているとパウロは言うのである。パウロは「アブラハムの子孫」としてのイスラエルの民だけでなく「あなたがたのうちの神を恐れる方々」と異邦人にも呼び掛け、救い主は「私たちに送られたのです」(13:26)と両者の壁を超えて福音がもたらされていることを宣言した。その上でパウロは、「預言者のことばを理解せず」(13:27)神の御子を罪に定めたイスラエル人の罪を、異民族もいる前で語っている。本来、そのことは自民族の恥になるものである。だがパウロは、今こそ「罪の悔い改め」が神様から求められていること、パウロは確信して語っているのである。

 

2021年2月14日「魔術師と偽預言」(使徒の働き13章1節~12節)

 今日、人々の不安に呼応するように様々な偽預言がなされている。しかし、こんな時こそ真の神様に目を向けていきたい。今日の13章は、使徒の働きの転換点になっている。1つめは宣教拠点がエルサレム教会からアンティオキア教会に移り、世界宣教に展開していったこと。2つめはペテロから、世界宣教のために召されたパウロの働きに移っていったこと。3つめは宣教の対象がユダヤ人から異邦人へと移っていったことである。

 今日は、第一に「聖霊による世界宣教への召し」について見ていきたい。この世界宣教は、人間の思いからでなく聖霊の導きによるものであった。アンティオキア教会の中心は、バルナバ意外に、アフリカ系の「ニゲル人はシメオン」、「クレネ人ルキオ」、「領主ヘロデの乳兄弟マナエン」は社会的身分が高かった。このように様々な立場の人がいた(使徒13:1)。彼らが断食して祈ったことから(13:2)、これからの世界宣教がいかに困難かということを理解し、その働きをささえようとしていたことが分かる。

 第二に「魔術師と向き合ったパウロ」について見ていきたい。バルナバとパウロは「聖霊によって送り出され、セレウキアに下り、そこからキプロスに向けて船出し、サラミスに着くとユダヤ人の諸会堂で神のことばを宣べ伝えた。」(13:4-5)。キプロスは地中海の要衝の地だったので、地方総督府がおかれていた。そこに魔術師バルイエスがいた(13:6)。この時代、魔術師は権力を持つ存在だったが、福音信仰とは全く別の考えを持っていた。彼は、「神のことばを聞きたい」(13:7)と考えた「総督を信仰から遠ざけようとした」(13:8)のである。この時、パウロは魔術師に相当厳しい言葉を述べたが(13:10)、それは彼の怒りからではなく聖霊の導きによるものだった(13:9)。「サウロ」という名は、ベニヤミン族出身の彼にとって、イスラエル初代王と同じ民族の誇りともいえる名前であった→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「パウロ(サウロ)」参照。一方、「パウロ」は「小さいもの」という意味がある。だが、この場面からサウロがパウロに変えて書かれたのは、ここから「世界宣教に奉仕するパウロ」に脱皮したことを筆者が表現したかったのだろう。パウロはしばしば、自らを「すべての聖徒たちのうちで最も小さな私」(エペソ3:8)と表現しているのは、消極的な姿勢ではなく、神の働きの大きさをあかししたものである。その意味でパウロは、小さいことを誇りにしていたのである。

 第三に「地方総督の回心による宣教の広がり」について見ていきたい。総督は「賢明な人で、バルナバとパウロを招いて神のことばを聞きたいと願った。」(使徒13:7)は、冷やかしではないが、信仰心からではなく彼らに何か学ぶべきものがあると思ったからであった。総督は、魔術師が悪たくみを働こうとしていたことは感じていたが、それに対して聖霊ご自身が働いた様子をパウロの言動から目の当たりに見た(13:9-11)。魔術師のその後は記されていない。だが「総督はこの出来事を見て、主の教えに驚嘆し、信仰に入った。」(13:12)。総督は「天罰」そのものではなく、パウロの語る「主の教え」に驚嘆したのである。この出来事は、皇帝礼拝が進むローマ帝国では、総督にとって大きな意味がある。だが彼は、それによって地位を失うかも知れなかったが、神のもとで得られる平安な人生を選んだ。私たちも、日々の歩みの中に「主の教え」に驚きをもち、神の前に生かされる平安を得ていきたい。

 

2021年2月7日「ヘロデ王の強さと脆さ」(使徒の働き12章18節~25節)

 教会は、他の組織とは異なるまったく独自な存在である。小さな群れであっても、神の国の中で大きな広がりを持っている。初期の教会も、社会からの圧力に対して同じ力で対応するのではなく、祈りによって対抗してきた。先週のペテロの事件もそうであった。

 今日、第一に見たいのは「打ち砕かれたヘロデ王のたくらみ」である。ヘロデ・アグリッパ王(紀元37~44年在位)→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「ヘロデ」参照は、ユダヤの地を治めたのは41年からの三年間であった。ユダヤ人から反感を買っていた王は、彼らの歓心を買おうとしてヤコブを殺し、さらにより影響力の大きかったペテロに対しては、ユダヤ教の祭りにあせて公開処刑しようとした。だから、そのペテロが消えたことを民衆に知られるのはヘロデにとって大失態となる。それで彼は「番兵たちを取り調べ、彼らを処刑するように命じ」(12:19)て責任転嫁をし、本拠地であるカイザリヤに下った。彼は自分の都合しか考えず、ペテロに起こった神の業がまったく見えなかったのである。私たちも、神様の働きを見失わないように気をつけていきたい。

 第二に「あばかれたヘロデ王の弱さ」について見ていきたい。カイザリヤに戻ったヘロデは、王としての権威を取り戻すためツロとシドンの町に権威をふりかざした(12:20)。この地は、ソロモン時代から食糧を輸入していたという記事が聖書にはある(列王記5:11、エゼキエル27:17)。その王が「王服をまとって王座に着き、彼らに向かって演説をした。」(使徒12:21)ので、ツロとシドンの「集まった会衆は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。」(12:22)のである。歴史家のヨセフスの記録によると、銀の王服をまとって出て来て、朝日できらめく様に演出したという。だがヨセフスは、そこにフクロウ(古代ローマにおいては凶兆)が現れて突然の腹痛が起こって数日後に死んだと書いている。聖書は、その原因を「即座に主の使いがヘロデを打った。」(12:23)ため、ウジのような虫によって息絶えたとあり(12:23)、その原因は「ヘロデが神に栄光をきさなかったからである」(12:23)と述べられている。神でないものを神とする。それはヘロデ王だけではなく、王の機嫌をとろうとした会衆もそうであった。私たちも人ではなく神様を見上げていきたい。

 第三に「福音の広がり」について見ていきたい。ヘロデは、飛ぶ鳥を落とす勢いで領土を拡張してきた王で、彼にとって教会はたいしたものではなかった。しかしヘロデ王は蒸しに打たれ、一方、教会は広がり「神のことばはますます盛んになり、広まっていった。」(12:24)のである。ヘロデ王の死と教会の広がりは別事件のように見えるが、大きな視点からなされた神様の業を私たちは見出すことができる。私たちの教会は20年前、借家から出て行かなければならない状況に陥り行き場を失っていた。一方、現在の会堂も、30年前に単立教会として建てた藤森牧師が2000年に亡くなり取り壊しの危機にあった。そこに私たちの教会が、2002年に入ることになったのである。私たちは、この二つの教会のあゆみに神様の業を見出さざるを得ない。献堂式では、定年後、藤森先生が学びなおした神学校の恩師がメッセージをくださった。その江藤先生は、社会において見過ごされてしまった人たちに愛を注ぎたいという藤森先生のビジョンを語ってくださった。私たちは、神様の大きな視点の中で、私たちが与えられた大きなビジョンの広がりを見て行きたい。

 

2021年1月31日「救出されたペテロ」(使徒の働き12章1節~17節)

 年初に、山野井泰史がヒマラヤの山に登った時の壮絶さを書いた沢木幸太郎のノンフィクション小説『凍』を読んだが、特に下山の時の壮絶さが心に残った。登るのをあきらめるのは安全のためだが、下るのをあきらめたら死に直結する。私たちの人生の中でもどうにもならない困難に直面するが、それでも前に進めるのは神様に希望を置けるからである。今朝の箇所は、エルサレムの教会が弾圧下にあって祈り続けた人々を記録したものである。

 今日は第一に「迫害下における祈り」を見ていきたい。と書かれている。このヘロデ王はヘロデ・アンティパス→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「ヘロデ」参照で、ローマ帝国の勢力を背景にしてユダヤ人を支配していた人物だが、エドム人であったため憎まれていた。彼はユダヤ人の歓心を買うためにクリスチャンを弾圧しヤコブを殺した(使徒12:1-2)。さらに「それがユダヤ人に喜ばれたのを見て、さらにペテロも捕らえにかかった。」(12:3)のである。ペテロは、過去に何度も牢から逃げ出したので(4章、5章)、ヘロデは「四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。」(12:4)のである。そこには、中心人物であるペテロを処刑し教会を解散させようとする王の強い意志があった。だが執筆者のルカは、この絶体絶命の状況の中で教会が絶望せず、「彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。」(12:5)姿を強く書いている。

 第二に「御使いに助け出されたペテロ」について見ていきたい。この時は「ヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜」(12:6)なので処刑前夜である。しかも「二本の鎖につながれて、二人の兵士の間で眠っていた。」(12:6)状態であった。ペテロはあきらめていたのではなく、すべてを神様にゆだねられたからこそ眠れたのである。人間的には最も絶望的な状況の中で、ペテロの信仰通り「すると見よ。主の使いがそばに立ち、牢の中を光が照らした」(12:7)。ルカは、ペテロだから特別だというのではなく、神様が私たちクリスチャンのすべてに、現実的に導いてくださると言いたかったのである。実際、御使いは「ペテロの脇腹を突いて彼を起こし」「急いで立ち上がりなさい」(12:7)と言い、「帯を締めて、履き物をはきなさい。」「上着を着て、私について来なさい。」(12:8)など、非常に現実的である。ペテロはそれを夢か現実かわからないままに進んだが、御使いの導きによって安全になった時に「主が御使いを遣わして」自分を救ってくださったのが分かった(12:11)。

 第三に「祈りが聞かれた人々の喜び」について見ていきたい。安全圏に逃げたペテロは、安全に身を隠すのを第一とせず、祈り支えてくれていた人々のところに向かった。そして「マルコと呼ばれているヨハネの母マリアの家に行った。」(12:12)のである。ペテロに応対した命使いのロデも、戸を開けるよりも前に、祈りが届いたことを喜んでみな報告に行った(12:14)。ロデの報告を聞いた人々はそれを信じられなかった(12:15)。ルカは「熱心に祈りつつも、それが実現したことを信じられない教会」の弱さも余さず記録している。教会で祈っていた弱く名もない人々、社会的身分の低い召使のロデ、しかし神様はそんな人々を通して歴史的な奇跡を働かせてくださった。ペテロは「主がどのようにして自分を牢から救い出してくださったかを彼らに説明し」(12:17)、人々の間に大きな驚きと喜びが起こった。私たちは、絶望の中で祈りの中で希望を得た人々の姿と神様の働きを確認したい。

 

2021年1月24日「宣教による恵み」(使徒の働き11章19節~30節)

 先週、リモートで行われた東北宣教区会議で、私たちの教会から一人の姉妹が議員として参加した。私たちの教団は、信徒による教会形成を重視しているためである。私たちの教団は海外からの信徒伝道者たちの働きによって広められた歴史があるが、それは特別なのでなく、今日のアンティオキア教会→「新約聖書を読んでみよう」の「エーゲ海旅行」参照のように、教会の歴史がそのように始まったからである。

 今日は、第一に「異邦人伝道の開幕」について見ていきたい。この少し前、ペテロがローマ軍の百人隊長に伝道を行い→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「百人隊長」の③の人物参照)、パウロ(サウロ)が→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「パウロ(サウロ)」参照異邦人伝道を行っていたものの、そこから一気に教会全体が異邦人伝道に傾いたかと言われると、そうではない。だが「ステパノのことから起こった迫害により散らされた」(使徒11:19)と聖書にはある。特にアンティオキアは50万人の人口を誇る貿易都市であった。ここでクリスチャンたちは「ユダヤ人以外の人には、だれにもみことばを語らなかった。」(11:19)のであるが、国際貿易都市であったアンティオキアでは、エルサレムから来たユダヤ人のアラム語は少数派で、キプロスやクレネから来た人々を中心にギリシア語を話す人が多かった。そこで「アンティオキアに来ると、ギリシア語を話す人たちにも語りかけ、主イエスの福音を宣べ伝えた。」(11:20)のは自然な成り行きであった。その結果「大勢の人が信じて主に立ち返った」(11:21)のである。その背景には、迫害からの逃れ先で福音の喜びを伝えた多くの信徒たちの働きがあった。

 第二に「バルナバによる橋渡し」について見ていきたい。名もなき信徒たちの働きで、アンティオキア教会は国際的な宣教の新たな中心になった。そして、このことを知ったエルサレムの教会は、成長する教会に対して妬むのではなく、「彼らはバルナバをアンティオキアに遣わした。派遣されたバルナバは「そこに到着し、神の恵みを見て喜んだ。」上で「皆を励ました。」(11:23)のである。一方、バルナバを迎い入れた人々も、聖霊に導かれて生きるバルナバの姿に「彼は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。」(11:24)と、その人格に感じ入り、その結果「大勢の人たちが主に導かれた。」(11:24)のである。さらにバルナバは、宣教の助け手をエルサレム教会に求めるのではなく、伝道を休止して故郷のタルソに引っ込んでいた、しかも、いまだ迫害者だった頃のイメージの強かったサウロを捜しにタルソに出かけた(11:25)。バルナバには、彼でなければという強い思いがあったのだろう。「彼を見つけて、アンティオキアに連れてきた。」結果、彼らの伝道は一気に花開き「まる一年の間教会に集い、大勢の人たちを教えた」(11:26)。彼らの働きに信徒たちも呼応し、彼らは、この地で初めて「キリスト者と呼ばれるようになった。」(11:26)のである。

 第三に「力に応じた自主的な働き」について見ていきたい。 そのころ、預言者アガボが「 世界中に大飢饉が起こると御霊によって預言し」(11:28)た。アンティオキアの信徒たちは母教会であるエルサレムのために、自主的に救援物資を送ることにした(11:29)。強制であれば物は集まるかもしれないが、そこには送る人の愛や祈りはない。しかし彼らは、エルサレムの教会の人々を知らないにも関わらず、「兄弟たち」(11:29)と呼ぶつながりを感じるまでに成長した。一部の使徒たちの奇跡的働きではなく、多くの信徒たちの日々の成長が集まって成長したアンティオキア教会は、私たちの教会の目指すべきな姿ではなかろうか。

 

2021年1月17日「いのちのパン」(ヨハネの福音書6章27節~35節)

 今、私たちは大きな危機に直面している。世界には多くの人が飢えている。だが旧約聖書には「そのとき、私はこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのではない。実に、主のことばを聞くことの飢饉である。」(アモス8:11)と書かれている。実は神様のことばを聞くことのできない「飢饉」こそ、人間にとって大きな問題なのである。

 第一に「なくならない働きのために」について見ていきたい。今日の箇所は、イエス様による「パンと魚の奇跡」の続きである。弟子たちは、間近でその驚くべき奇跡を体験したにもかかわらず、聖書が示すイエス様の本質に気づかずにいた。そんな彼らに、イエス様は「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。」(ヨハネ6:27)と述べている。「主の祈り」にあるように、イエス様は「パンのために働く」ことを軽視しているのではない。だが目の前の問題よりも、悔い改めと立ち返りを通した神様との関係改善を第一にするよう求めた。イエス様は「それは、人の子が与える食べ物です。神である父が証印を押されたのです。」(6:27)と述べている→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「人の子」参照。それは、イエス様が永遠のいのちを与え、父なる神がそれを良しとし、証印としての聖霊が与えられるという三位一体の神様の働きがあるというのである。

 第二に、「いのちの至るパン」について見ていきたい。弟子たちが「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」(6:28)と問う背景には、モーセの律法のイメージがあり、何か「善い行い」をすれば神様に認められると考えていた。だが彼らは自分たちが自らの罪を認めることなく、それが神様との関係を阻んでいることに気づいていなかった。そんな彼らにイエス様は「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」(6:29)と答えている。「信じる」ということは、これまで自分を変えて自ら心を開いて神様を受け入れることを意味する。しかし彼らは、「それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。」(6:30)と返している。これは「何か特別なことをしてくれるなら信じてあげよう」という態度であり、しかも直前にパンと魚の奇跡を見ているはずなのに、さらに新しい奇跡を求めている。彼らは律法を与えられ、荒野でマナ→「聖書の舞台(生活・習慣)」のま行「マナ」参照を与えられたモーセを絶対視している。これに対してイエス様は「モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。」(6:32)と諭している。私たちも、自分が稼いでいる日々の糧は、本当は誰が下さっているか考えなければならない。

 第三に「永遠のいのちを与えるパン」について見ていきたい。イエス様が説明する「天から下る神のパン」(6:33)についても、弟子たちは「何かマナみたいなもの」が一方的に降ってくると考えていた(6:34)。これに対してイエス様は「わたしがいのちのパンです。」(6:35)と答えた。もし信仰がなければ「何を言っているのだろう」と思うだろう。だがイエス様は「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(6:35)と言っている。私たちが本当に必要とするものは、イエス様を信じることによって与えられる、この「永遠のいのち」なのである。

 
 

2021年1月10日「みことばへの熱心」(使徒の働き17章1節~12節)

 キリスト教信仰は、心の中に情熱が与えられることによって生きた信仰になる。黙示録では、ラオデキアの教会が「冷たくもなく、熱くもない」(黙示録3:15)と批判されている。また先週の祈祷会で学んだ詩編31編には、信仰者たちの苦悩が書かれていたが、この箇所は「しかし主よ、わたしはあなたに信頼します。」(詩編31:14)という告白に続く。この転換は自分の努力によるものでなく、神様への信頼に基づく。今日の箇所は、テサロニケとべレアの町の人々の態度が書かれている。今朝は、この二つの出来事から学んでいきたい。

 第一に、パウロによる「みことばによるキリストのあかし」について見ていきたい。パウロとシラスは、各地のユダヤ人の会堂を拠点として伝道していた。パウロは、初めて訪れたテサロニケでも「いつものように人々のところに入って行き、三回の安息日にわたって、聖書に基づいて彼らと論じ合った。」(使徒17:2)と書かれている。簡単に書いてあるが、かなり大胆な行動である。パウロは、異邦人伝道のために旅立ったにもかかわらず、聖書を知っているはずのユダヤ人にも伝道している。それは、彼が宣教は一度きりのものではなく、みことばによって成長し続けなければならないと考えていたためである。パウロは、メシアを待望しているユダヤ人たちに「私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリストです」(17;3)と「聖書に基づいて」彼らが納得するまで話したのである。

 第二に「みことばへの従順と反発」について見ていきたい。聖書には「彼らのうちのある者たちは納得して、パウロとシラスに従った。神を敬う大勢のギリシア人たちや、かなりの数の有力な婦人たちも同様であった。」(17:4)とあったが、自分たちだけが聖書を知っていると思い込んでいた多くのユダヤ人たちはギリシア人たちが信仰を持ったことを不快に思った(17:5)。パウロの話を聞いていたユダヤ人たちは、会堂にいた「神様を信じている人々」のはずだった。しかし彼らは「ねたみに駆られ、広場にいるならず者たちを集め、暴動を起こして街を混乱させた。そしてヤソンの家を襲い、二人を捜して集まった会衆の前に引き出そうとした。」(17:5)のである。その上、自分たちで暴動を起こさせたにもかかわらず「世界中を騒がせてきた者たちが、ここにも来ています。」(17:6)と濡れ衣を着せている。これが「神のことばに立つ」ことであろうか。私たちも自戒を込めて見つめ直してみたい。

 第三に、「聖書を熱心に調べた人たち」について見ていきたい。パウロとシラスは、テサロニケから80キロほど離れたべレアの町に移動した。普通なら、近くの町なので同じような目にあわされると不安になるだろう。しかし彼らの行動は、「そこに着くと、二人はユダヤ人の会堂に入って行った。」(17:10)とまったくぶれていない。しかし、そこでは「この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。」(17:11)というものであった。彼らはねたみではなく、聖書に心を向けていた。彼らはの熱い行動は、ルカの福音書24章にある「復活のイエス様とエマオに向かった弟子たち」を思い起こす。みことばを熱心に求め「彼らのうちの多くの人たちが信じた。また、ギリシアの貴婦人たち、そして男たちも少なからず信じた。」(17:12)べレアの教会こそ、パウロの目指した教会の姿ではないだろうか。

 

2021年1月3日「みことばによる成長」(ペテロの手紙第一1章23節~2章2節)

 当教会では、今年のテーマを「みことばによる成長」とした。昨年は新型コロナウイルスによる混乱が世界中を覆った。私たちは懸命に働く医療従事者を応援しながらも、この問題の本質は医療や科学ではなく、私たちの生き方そのものが問われている事態だと考えている。人はどんな困難な状況に陥っても、自分を受け入れてくれる存在があれば希望を抱くことができる。ペテロの手紙は、紀元64年のローマ帝国による弾圧以前に書かれたもので、ユダヤによる迫害から逃れ散らされたクリスチャンたちに向けたものである(Ⅰペテロ1:1)。

 今日は、第一に「みことばへの信頼と確信」について見ていきたい。ペテロは、みことばは「新しく生まれるための種」だと述べている(1:23)。この言葉は、直前の「あなたがたは真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、きよい心で互いに熱く愛し合いなさい。」(1:22)を受けている。この時代のクリスチャンは、信仰のゆえに多くのものを失った。だがペテロは、神様のみことばによって生み出されたこの兄弟愛は、いつまでも残るという。私たちも失ったものを見るのでなく、自分の中に残された大切なものを見つめる必要がある。ペテロはイザヤ書を引用し「草はしおれ花は散る。しかし、主のことばは永遠に立つ。」(1:24-25)と書いているが、イザヤの時代、イスラエルは、大国による侵略、民族の捕囚、帰還と激動の歴史を経験した。その中で変わらなかった本質的なモノは「主のことば」だけだった。そこへの信頼と確信を持とうではないか。

 第二に「みことばによる成長」について見ていきたい。ペテロは言う「ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。」(2:1-2)という。新しく生まれた私たちは乳飲み子のままではいけない。成長が求められる。そのためには神様の民としてふさわしくない「すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口」(2:1)を捨てる必要がある。これらは前の箇所で書かれた兄弟愛(1:22)と対立するものである。今年、私たちが信仰者として成長したいなら、自分の生活を見直し、決別もすべきものと決別しようではないか。その捨てたところに神様のみことばは入って来る。ペテロは「それによって成長し、救いを得るためです。」(2:2)と言う。この「救い」とはイエス様を信じて「罪赦された」という意味の救いではなく、クリスチャンとして成長した生き方の方を指す。私たちを成長に導くみことばは時に耳に痛いこともあるが、熱心に求め続けようではないか。

 第三に「成長に至るみことばの実践」について見ていきたい。みことばを成長に結びつくには、毎日の生活の中でそれが実践されなければならない。前の箇所では「偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、きよい心で互いに熱く愛し合いなさい。」(1:22)と勧められていた。私たちは困難や苦しみが続くと、自分の問題だけに囚われ他者との関係が希薄になってくる。しかしペテロは、試練の中でこそ互いに支え合う兄弟愛が必要だと主張する。ペテロこそ、十字架直前にイエス様を裏切った経験がある(マタイ26:69-74)。その苦い経験の中からみことばの確かさを知り、信仰者として成長したペテロの言葉は重い。困難な中でこそ純粋にみことばを求め、兄弟愛を持って過ごす信仰生活を築こうではないか。

 

2021年1月1日「新しい出発のために」(ヨブ記42章5~6節)

 歳の初めに神様を礼拝する中で、私たちは自分の思いや決意を新たにする。今年は「みことばによる成長」を教会のテーマにしていきたい。今朝のヨブ記は、元旦礼拝の箇所としてはあまり選ばない箇所である。しかしこの箇所は、長いヨブ記の中で最後の箇所で、ヨブの生涯のターニングポイントとなった箇所である。

 敬虔なヨブは神様に祝福されていたが、様々な災害にあり家族と財産を一気になくしてしまう。それでもヨブは、神様に従おうとしていた(ヨブ記1:21)。しかしここから展開するヨブ記には、見舞いに来た友人たちとの論争が書かれている。友人たちはヨブの信仰の欠点を指摘するが、ヨブは「自分の信仰の義」を述べて友人たちを論駁しようとした。だがヨブは気づかないうちに「自分の義」を主張するあまり「神様の不義」を主張してしまうようになる。神様は、そのヨブの論争に直接答えるようになる(40:1~41:34)。今日の箇所は、その神様にヨブが答えるシーンである。ヨブは「私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました。」(42:5)と呼ぶ。「シェマ・イスラエル(聞け、イスラエルよ:שְׁמַע יִשְׂרָאֵל‎;)」という言葉があるように、イスラエルの民は神様のみことばに耳を傾けることを大切にする。だが聞き知っている神様というのは、ヨブ自身が投影していた神様でしかなかった。その結果、ヨブは自分の経験や自分たちの論争では測りえないような圧倒的な「創造者としての神様のわざ」を「見た」、すなわち「そのまま受け入れる」に至ったのである。自らの小ささを知ったヨブは、自分の信仰の経験をもとに神様のことを論じていた自分を恥じ、「自分を蔑み、悔いています。」(42:6)という気持ちになった。神様は、自らの存在を私たちに日常の中で、そして創造された世界を通して示されている。自分の考える神様像ではなく、示された世界や働きをそのまま受け入れて神様に従う。そのなかで神様のみことばを受け入れていきたい。

 今日は雪が降っている。太陽が昇り、沈む。それらすべて神様が創造されたことである。私たちは、神様が創造された世界で暮らしている。その圧倒的な創造者としての神様が語りかけたものとして、みことばを受け入れていきたい。