2021年10月~2021年12月

 

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2021年12月26日「ナザレ人イエス」(マタイの福音書2章13~23節)

 イエス様は人々の疎外の中でお生まれになった。厩で生まれ、その後はヘロデ大王によって命を狙われるという、人間的に見ればまったくひどい状態であった。しかし聖書は、そんな状況こそ預言された通り神様の介在によるものだと言っている。

 今日は第一に、旧約聖書のホセア書に書かれた「幼子イエス様と両親がエジプトに逃げて、再び帰って来る」という預言の成就を見ていきたい。イエス様の誕生時、イスラエルを治めていたヘロデ大王は、自分の妻も息子も殺してしまったほど猜疑心の強い人物であった。彼は東方の三博士が「ユダヤを治める王が生まれた」とやって来たときも、王となる幼子を殺そうと大虐殺を行った。だから主の御使いは、ヨセフに「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい」(マタイ2:13)と告げた。彼らはヘロデ大王が死ぬまで、彼らはエジプトに留まり、再びイスラエルに戻った(2:21)。この出来事は、イスラエルの民がモーセに率いられエジプトを脱出した旧約聖書の「出エジプト記」を彷彿とさせる。ホセア書の預言は、エジプトの奴隷から救われた民が、再び神様から離れて罪の奴隷となったこと(ホセア11:2)。その民が、さらに再び神様に救われることを預言している(14:1、4)。

 第二に、旧約聖書のエレミヤ書の預言の「慰め」について見ていきたい。ヘロデ大王は、どこにいるか分からない幼子イエス様を殺すために、イスラエルの二歳以下の男の子をすべて虐殺した(マタイ2:16)。「なぜ愛なる神様が、この虐殺を止めなかったのか?」という問いに答えるのは難しい。エレミヤ書が書かれた時代、イスラエルは南北に分裂し、多くの人が奴隷となってバビロンに連れて行かれる直前であった。この「ラケル」とは南ユダ王国のもととなった女性であり、紀元前650年ごろの南ユダ王国の出来事と、イエス様当時の幼児虐殺が二重写しになっている。神様は、慰めを拒むようなどうしようもない悲しみの先に、神の民がつくられ真の慰めがあることを預言した(エレミヤ31:16)。そして、イエス様による救いこそ真の慰めであり、だからこそエレミヤの預言の成就だというのである(マタイ2:17)。だからこそ、私たちは闇の中にあっても希望を見出すことができる。

 第三に「ナザレ人イエス」について見ていきたい。ヘロデ大王の後、王の遺言によってイスラエルは三つに分けられ、ユダヤの地は息子のひとりであるアルケラオ王が治めることとなった。彼は、父にも増して残虐な人物であった。マリアとヨセフは、エジプトから戻ったら首都エルサレムに留まりたかったのかもしれない。しかし残虐な王の悪政を恐れて、出身地のガリラヤ地方のナザレの町に帰った。聖書は「これは預言者たちを通して、『彼はナザレ人と呼ばれる』と語られたことが成就するためであった」(2:23)とある。「ナザレ人」とは「田舎者」という程度の蔑みの意味もあった。私たちの救い主は、蔑みの対象としておいでになられた(イザヤ53:2)。だからこそ、蔑まれる人々の痛みに寄り添うことができる。またイザヤは、切り倒されたエッサイの根株から新芽が出る(11:1)預言したが、この「新芽の根」は「ナザレ」と同じ言葉である。エッサイの家系のダビデ王が王国を打ち立て、切り倒された。しかし、その家系に天の王国を打ち立てる救い主が生まれる。その預言である。神様は、私たちの真の慰めや救いを、長い長い歴史の中で実現してきたのである。

2021年12月19日「神へのささげもの」(マタイの福音書2章1~12節)

 かつて私(牧師)は、被災地で地域の人々からクリスマスをして欲しいと要請されたことがある。大変な状況の中にいた人々は、クリスマスに癒しや安らぎを求めていた。まさに「闇の中を歩んでいた民は大いなる光を見た」(イザヤ9:2)ものと言えるだろう。

 今日は第一に「闇の中にいる民の姿」を見ていきたい。バビロンの地で占星をしてきた博士たちは、数百キロの道のりを歩んでユダヤで生まれた王を礼拝しに来た(マタイ2:2)。博士たちは、本来ユダヤの王を訪ねなければならない理由はない。ただ「世界を救う王」の誕生に意義を見いだして来たのである。一方、ヘロデ王やエルサレムの人々は博士たちの言葉に動揺し恐れた。旧約聖書には「ダビデの子孫」にユダヤ人の王が出ることが預言されていたが、ヘロデはその家系ではなく、ただローマ帝国の権威を背景に恐怖で統治していたにすぎない。ヘロデは、自分の王位が脅かされていることを恐れたのである。一方、エルサレムの人々は、それによってヘロデの暴虐が始まることを恐れていた。ユダヤ人たちは、神様が発し続けた旧約聖書の預言を見失い、心の中に闇が広がっていた状態だったのである。

 第二に「星を見に来た博士たち」を見ていきたい。ヘロデ王は不信仰な人物であったが、祭司長たちや律法学者たちに「キリストはどこで生まれるのかと問いただし」(マタイ2:4)、旧約聖書の預言を確かめた。彼らは「ユダヤのベツレヘムです」(2:5)と答えた。ベツレヘムは、エルサレムから10キロほど離れた小さな町で、昔から「ダビデの町」として知られていた。数百キロの旅をしてきた博士たちに比べ、目と鼻の先の様な距離であるのにエルサレムの人々は気づかなかった。ヘロデは博士たちに「私も行って拝むから」(2:8)と述べたが、言葉通りではない。彼は「大王」と称されたほどの権力を奮っていたが、旧約聖書の預言が成就によって神様に立ち返るのではなく、自己中心的で猜疑心のかたまりでしかなかった。一方、数百キロを旅してたどり着いたユダヤの地で、人々が世界の救い主の誕生に何の関心を持っていないことに対する博士たちの落胆は想像に難くない。しかし、再度、彼らを導く星を見つけたとき「彼らはこの上もなく喜んだ」(2:10)。猜疑心や恐怖に囚われたヘロデ王やエルサレムの人々と、喜びに満ちあふれた博士たちとは、何という違いだろう。闇の中に放り出されたと感じるときも、私たちは神様の光で再び歩み出すことができる。

 第三に「神様への捧げもの」について見ていきたい。幼子に会えた博士たちは「ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」(2:11)とある。マタイの福音書のこの場面では「家に入り」「幼子を見た」とあることから、誕生から少し経った時かもしれない。マリアとヨセフは、拠り所のないベツレヘムにしばらくとどまっていたとすると、博士たちの訪問や贈り物はどんなに大きな助けになったことであろう。賢者であり社会的な立場もあった博士たちが「ひれ伏して礼拝した」(2:11)のは、目に見える10代半ばの母と幼子を見ていたのでなく、そこに神様の働きを確信したためであろう。信仰によって博士たちは歩み、信仰によって導かれ、そして信仰によって目の前の出来事に働く神様を見出した。私たちも、クリスマスにあたって彼らを見倣い、神様の御前に真心からへりくだって礼拝したていきたい。

 

2021年12月12日「約束された救い主」(マタイの福音書1章18~23節)

 クリスマスは神様の約束が成就した日である。私たちの約束は、人により時代により変化する。これに対して神様の約束は、どんなに時代が移り変わっても変わらない。神様は二つの約束をされた。ひとつは「この方がご自分の民をその罪からお救いになる」(マタイ1:21)という約束。もうひとつは「神が私たちとともにおられる」(1:23)という約束である。

 今日は第一に「イエス様による罪からの救いの約束」について見ていきたい。マタイの福音書は、なぜかアブラハムからヨセフまでの系図から書かれている。これは、そのままイスラエル民族と神様との関係の歴史であり、神様の約束の確かさと預言の成就を表している。聖書には「イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった」(1:18)と書かれている。イエス様がこのように誕生したのは、人の罪を背負うために、罪なき神が「罪ある人」として生まれるためであった。だが婚約者のヨセフにとっては、この事実には多くの葛藤があっただろう。そんな彼に御使いが現れて、彼に「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです」(1:20)と言った。ヨセフは栄光のダビデ王の子孫であったが、貧しい大工のヨセフの現状はそれとはかけ離れていた。だが神様は「ダビデの子孫」に救い主をお与えになる約束を成就された。御使いは「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい」(1:21)と語った。それは「主は救い」と言う意味である。ヨセフは、その言葉を受け止めた。神様は、驚くべき御業を不完全な人を通してなされる。罪にまみれた人間は、神様との関係が断たれて絶望にある。その人間を罪から贖えるのは、唯一、イエス様の救いだけなのである。

 第二に「神がともにおられる」という約束を見ていきたい。ヨセフは、婚約者との関係の破綻と絶望と思われたマリアの懐妊が、神様の御業であることを知った。聖書は「このすべての出来事は、朱が預言者を通して語られたことが成就するためであった」(1:22)と語っている。そして旧約聖書を引用して「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(1:21)と語っている。これは神がずっと民とともにおられたことを証しするものでもあった。ここで引用されているのは、旧約聖書のイザヤ書であるが、この時代のイスラエルは南北に分かれ、同じ民族が争っている時代であった。その時代、敵対勢力に攻められていた南ユダ王国の人々は「王の心も民の心も、林の木々が風に揺らいでいるように揺らいだ」(イザヤ7:2)が、神様は預言者イザヤを通じて「気を確かに持ち、落ち着いていなさい。恐れてはならない」(7:4)とみことばに立つようにアハズ王に言った。アハズ王らにとっては絶望的に見える状況の中で語られたのが、「神が私たちとともにおられる」(マタイ1:21)という意味の救い主の誕生の預言であった。その実現は、730年後に、ダビデの子孫であるヨセフとマリアの間に成就した。民族が揺れたイザヤの時代、婚約者との幸せな将来が閉ざされたかに見えたヨセフ。どちらも絶望の内にあった。しかし信仰をもって神様のみことばに立つとき、祝福から離されたような状況でも「神はともにおられる」という揺るぎない約束が見えてくる。それは揺るぎない神様の約束なのである。

 

2021年12月5日「闇から光に」(使徒の働き26章1~18節)

 クリスマスは「闇」から「光」に転換した出来事である。マタイの福音書には「闇の中に住んでいた民は大きな光を見る」(4:16)とある。福音とは、神様から離れた「闇」の人生に歩んできた私たちに与えられた、イエス様という「光」である。アグリッパ王の前で弁明の機会を与えられたパウロは、無実を訴えるのではなく福音を伝える機会ととらえた。

 今日第一に見たいのは「約束の望みである主イエス」である。パウロは王に向かって「今日、王様の前で弁明できることを幸いに思います」(使徒:26:2)と福音を語るチャンスに喜んでいた。そして「王様はユダヤ人の慣習や問題に精通しておられます。ですから、どうか忍耐をもって、私の申し上げることをお聞きくださるよう、お願いいたします」(26:2)と聖書に集中させるようにした。その上で、自分がユダヤ人によって訴えられていることの本質は「神が私たちの父祖たちに与えられた約束に望みを抱いているために、私はここに立って、さばかれているのです」(26:6)と説明した。現在のイスラエルの国家は「希望」というタイトルである。神様はアブラハムに祝福の約束をし、彼の子孫を通して人々が救われるという希望は、イスラエル民族の基盤である。パウロは、その祝福の約束のために訴えられていると(26:7)、パリサイ人たちはその約束をはき違えているというのである。

 第二に見たいのは「天からの光による認罪」についてである。サドカイ派(→「聖書の舞台(人物・組織)」のさ行「サドカイ派(サドカイ人)」参照であったアグリッパ王は、彼らは人が死ねばそれで終わりだと考えていた。しかし福音は、イエス・キリストが死者の中から復活したとしている。だからパウロは王に「神が死者をよみがえらせるということを、あなたがたは、なぜ信じがたいこととお考えになるのでしょうか」(26:7)とストレートに尋ねた。これは現代人に対する問いでもある。死後の世界がないと「現世ご利益」に陥ってしまう。この世の権力や欲望から離れられない王に、パウロは、パリサイ人(→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「パリサイ派(パリサイ人)」参照として生きクリスチャンを、迫害してきた過去を告白した(26:9-12)(→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「パウロ(サウロ)」参照。それは恥で愚かな人生であったが、彼がそれを語ったのは、自分の力で変わったのではなく、神様の側から罪人である自分に近づいてくださったことを示したかったのである。世の中には立派な人もいるが、その人に罪がないのか、それは「神の光」に照らされなければ分からない。まさに「あなたのみことばばは 私の足のともしび 私の道の光です」(詩編119:105)なのである。

 第三に「天からの立ち返り」について見ていきたい。パウロに現れたイエス様は、「なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い」(使徒26:14)と語りかけた。家畜を導く時に「とげの付いた棒」を使うが、家畜は逆らう時に棒を蹴ることがある。パウロは、「イエス様のからだである教会」を激しく迫害してきた。イエス様は「なぜ私の『教会』を迫害するのか」ではなく「なぜわたしを迫害するのか」(26:14)と語りかけている。そこにイエス様と教会の一体性がある。そしてイエス様は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(26:15)と語った。神様を直接痛めたと言われたことで、パウロはどれほど後悔しただろう。しかしイエス様は、パウロの罪を糾弾せず「あなたを奉仕者、また証人に任命する」(26:16)と述べた。罪許され「闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ」(26:18)ることは、自分の力ではなく神様からの一方的な恵みなのである。

 
 

2021年11月28日「この人をみよ」(使徒の働き25章23~27節)

 今日からアドベントに入る→「聖書の舞台(生活・習慣)」のあ行「アドベント・クランツ」参照。この期間は、日没が最も早い時期(日中が一番短い冬至の日ではない)である。闇の部分だけ見ていれば気持ちは落ち込むが、クリスマスは闇の中に輝く光や希望を私たちに与えてくれる。今朝の箇所は、パウロが、ローマ総督のフェストゥスとユダヤのアグリッパ王という当地の二人の最高権力者の前に立った場面である。きらびやかな二人の権力者と、囚人として引き出されたパウロの、どちらが本当の光だろうか。

 今日は、第一に「アグリッパ王」に焦点を当ててみたい。アグリッパ王は、フェストゥスの就任祝いにやって来たついでに、パウロの話を聞いてみたいと彼から申し出たのである(使徒25:22)。そこに「アグリッパとベルニケは大いに威儀を正して到着し、千人隊長たちや町の有力者たちとともに謁見室に入った」(使徒25:23)。アグリッパ王は、何か重要な役目を期待されて来たのではないのに、滑稽にも王としての虚栄をまとってやってきた。そこには、パウロから真摯に福音を聞いてみたいという態度ではなく、単なる高慢さしか見られない。彼には神の前にへりくだるという重要な部分が欠けていた。ちなみに彼の父アグリッパ一世も、神をないがしろにする虚栄を示した瞬間に虫にくわれて息絶えた(12:23)(→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「ヘロデ」の(4)(5)参照

 第二に「フェストゥス」に焦点を当ててみてみたい。フェストゥスは「アグリッパ王、ならびにご列席のみなさん、この者をご覧ください」(25:24)と言ったが、別に糾弾すべき者としてパウロを示したわけではない。だが多くのユダヤ人たちが、パウロを糾弾している事実を述べたまでである。彼は「私の理解するところでは、彼は死罪にあたることは何一つしていません。ただ、彼自身が皇帝に上訴したので、私は彼を送ることに決めました」(25:25)というローマ帝国の論理を説明した。そして、支配地の宗教問題という厄介な問題を、自分から切り離すことに成功したのである。ただ残る問題は、パウロを送致する理由であった。そこでフェストゥスは「それで皆さんの前に、わけてもアグリッパ王、あなたの前に、彼を引き出しました。こうして取り調べることで、何か私が書き送るべきことを得たいのです」(25:26)と丸投げをした。アグリッパ王は、たまたま就任祝いに来て、ついでにパウロの話を聞きたがっただけである。アグリッパ王がパウロについてよく分かっていないことも、パウロが無罪なのもフェストゥスは当然知っていた。彼はただ、ローマ帝国の行政官としてユダヤ人たちを上手く取り扱おうとしただけである。その態度は、かつてイエス様の裁判をした総督ピラトを彷彿させる。ピラトはイエス様を指して「この人を見よ」(ヨハネ19:5)と述べたが、彼自身、心を開いて光である「この人」を見ることはなかった。

 第三に「パウロ」に焦点を当てて見てみたい。この箇所では、パウロは沈黙したままである。イエス様はかつて「わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出します。それは、あなたがたにとっては証しをする機会となります」(ルカ21:12-13)とあらかじめ語っていた。パウロはローマ市民であるが、普通なら王や総督の前に立つことはない。しかし預言どおりの状況になったことで、彼は証しの機会として神様のことばを待っていたのであろう。彼は長い囚人生活に落ち込むのではなかった。ただ神のことばに立つことで、こんな大変な闇の状況の中にも、パウロには別の状況が見えていたのである。

2021年11月21日「生ける主イエス」(使徒の働き25章13~22節)

 来週からアドベントの時期に入る。アドベント(待降節)の意味は、2000年前のイエス様の降誕と、未来における再臨を待ち望むという二つの意味がある。イエス様は、過去の人でなく、今も生きて私たちの生活の中に働き導いてくださっている。

 今日は第一に「罪のないものを罪に定める矛盾」について見ていきたい。フェストゥスは、ローマ総督としてユダヤ人たちを統治するために、前任者同様、ローマ法よりもユダヤ人たちの機嫌を取ること優先した。フェストゥスの総督就任を、ユダヤのアグリッパ王(祭司長の任命権はあったが、実際は隣国のカルキスを統治していた)と妻のベルニケが表敬訪問に来た(使徒25:13)(→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「ヘロデ」の(5)参照。フェストゥスは、前任者から引き継いだ囚人パウロのことや、エルサレムでの出来事を王に話した(25:14-15)。実際にパウロが囚人として扱われていたが、総督が想定していた「騒乱」のような罪が見つからなかった(25:18)。しかし、パウロを死刑にせよというユダヤ人の意見を取り下げると、ユダヤでローマに対する騒乱が起きる。一方、上訴するというパウロの言うと売りにすると、罪状に関する書類が書けない。だから、ユダヤ民族の事情に詳しいと思われたアグリッパ王に、何の罪になるか相談したのである。そこには神の前に何が正しいかではなく、自己保身に走る総督の態度が見てとれる。同様にユダヤ人たちも神様を見ないで、自分たちの思いや権益を見ている。そこに大きな罪がある。

 第二に「生ける主」について見ていきたい。フェストゥスは、パウロとユダヤ人たちが争っているので「彼ら自身の宗教に関すること、また死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのです」(25:19)とアグリッパ王に説明している。イエス様が墓から蘇った時、空の墓を見て驚いた女たちに御使いは「あなたがたは、どうして生きている人を死人の中に捜すのですか」(ルカ24:5)と言った。総督も同様に、死人の中に生きているイエス様を捜していた。私たちは、神様を無視した人生を送り、神との断絶や怒りを受けていることも知らずにいた。そんな私たちを、イエス様の十字架の死と復活によって、罪を赦し永遠のいのちを約束してくださった。生けるイエス様は、その約束の証しであった。総督も王も、パウロの話は聞いた。しかし自分たちの罪や十字架の意味と結びつけられなかった。そんな総督は、ただイエス様は生きているというパウロをどう扱えばいいかわからないという困惑しか感じられなかったのである。

 第三に「主の囚人となったパウロ」について見ていきたい。パウロは冤罪で囚人となったのでもない。神様にすべてをゆだねていたパウロが「皇帝の判決を受けるまで保護してほしいと訴えた」(使徒25:21)というのは、フェストゥスの誤解であろう。むしろパウロは、神様の導きでローマに連れて行かれることを、神様の祝福と捉えていた。実際にパウロは、ローマから「あなたがた異邦人のために、私パウロはキリスト・イエスの囚人となっています」(エペソ3:1)と書いている。彼は、イエス様に完全に捉えられている自分を「イエスの囚人」として表現している。聖書には、皇帝に上訴したパウロの判決は書かれていない。作者のルカもパウロ自身も、それを重視してなったからであろう。二人とも、これらの出来事を通して、生きている神様であるイエスを証しすること、それが最も大切だと考えていた。

 

2021年11月14日「パウロの立証なき罪状」(使徒の働き25章1~12節)

 クリスチャンの詩人である星野富弘さんの詩に、アヤメの画が添えられた詩がある。どぶ水を吸いながらきれいな花を咲かせるアヤメと比べて、愛の中にいながら、自分は「なぜみにくいことばかり考えてしまうのか」という内容である(星野富弘『第1詩画集「風の旅」』所収)。一方、パウロはユダヤ人に憎しみに囲まれながら憎しみに溺れることなく、泥水に咲くアヤメのように神様の愛とめぐみをあかしし続けた。

 今日、第一に「動き始めた時」について見ていきたい。パウロは、カイサリアで裁判もされず二年間幽閉されていた。寸暇を惜しんで宣教に勤しんでいたパウロにとっては、じれったく感じただろう。やがてパウロを幽閉していた総督フェリクスが替わり、新しくフェストゥスが着任した。彼は、たった三日後にエルサレムに行った(使徒25:1)。それを待ち構えていたように、ユダヤ人たちがパウロを告訴した(25:2)。彼らは二年の時を経ても、なおパウロに対する憎しみを保ち続けていた。しかも、彼らの目的は裁判ではなく、その途中でパウロを暗殺しようとしていたのである(25:3)。しかし、その企みはフェストゥスのひと言で潰えてしまった(25:4-5)。神様は、約束通り(23:11)ローマ総督を用いてパウロを守られたのである。私たちも時が止まったように見える時でも、神様は「その時」を定められており、大きな業で導いていらっしゃることを信じたい。

 第二に「立証なき罪状」について見ていきたい。フェストゥスは、裁判を引き延ばしていた前任者とは異なり、エルサレムに着いて翌日に裁判を開いた。ユダヤ人たちが訴えた内容は、二年前の裁判と同じ「律法を軽んじている」「神殿を汚す行為をした」「群衆を惑わして騒ぎを起こした」の三つであった。これらに対して、パウロは「私は、ユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、カエサルに対しても、何の罪も犯してはいません」(25:8)と弁明した。罪状のないパウロを訴えたユダヤ人たちが、いかに真の神様から離れ、心の闇に囚われていたかが分かる。その闇を取り除くためにイエス様の十字架があったのだが、ユダヤ人たちは、イエス様による福音を信じられなかった。有能な官僚であるフェストゥスも、無罪を裁定するのではなく「おまえはエルサレムに上り、そこでこれらの件について、私の前で裁判を受けることを望むか」(25:9)と尋ねた。彼は、パウロが反対するのを変わっていながら、着任したばかりの任地をスムースに統治するためにユダヤ人寄りの提案をしたのである(25:9)。パウロも私たちも、彼らのような心の闇を持っている。それを認めて、神様に立ち返ることによって、弱かったパウロも神様にあって固く立っていけたのである。

 第三に「カエサルへの上訴」について見てみたい。パウロは、「私はカエサルの法廷に立っているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。閣下もよくご存じのとおり、私はユダヤ人たちに何も悪いことはしていません」(25:10)と、ユダヤ人に対する総督の忖度を糾弾した。彼は、ローマ市民の権利として「だれも私を彼らに引き渡すことはできません。私はカエサルに上訴します」(25:11)と述べた。上訴は統治能力を疑われる不名誉だが、一方でフェストゥスは厄介払いともなると考えた。そして「おまえはカエサルに上訴したのだから、カエサルのもとに行くことになる」(25:12)と裁定し、ローマ兵に守られてローマに行くことになった。神様は、こんな思っても見ない方法で、パウロが伝道を望んでいたローマへの道を開いたのである。

 

2021年11月7日「永眠者の希望」(テサロニケ人への手紙第一4章13~5章6節)

 今日は召天者合同記念礼拝である。キリスト教には、なくなった方のための「法事」というものはない。だが、それは、故人は「すでに天に移された」と理解しているためで、故人を想いながらも故人を対象とした儀式をしないだけである。私たちクリスチャンは、人生は死で終わるのではなく、死から永遠のいのちに移される神様のめぐみを確信している。

 今日は第一に「死者の中にある希望」について見ていきたい。パウロは「眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです」(Ⅰテサロニケ4:13)と述べている。タイトルに「永眠」と書いてあるが、クリスチャンは「永眠」するのではない。復活までの「眠り」についているだけである(4:14)。当時、イエス様が再び来られて神の国を完成させる前に自分が死ぬことを恐れたクリスチャンたちが多くいた。だがパウロは、イエス様の約束は私たち個人の死で終わるのではなく、復活が約束された希望のある「眠り」であると言う。だからクリスチャンの悲しみは、「望みのない他の人々」(4:13)のような悲しみとは違うと言う。

 第二に「イエス様とともにある目覚め」について見ていきたい。パウロは「イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです」(4:14)と説明している。パウロは、先に故人となった人たちはイエス様とともにあり、イエス様とともに神様のいのちの中に復活するという。そして、それはパウロの希望的予想ではなく「私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます」(4:15)と、神様の約束であると強く述べている。私たちより先に信仰の人生を歩んだ末に「眠った」人々は、決して忘れ去られた存在なのでなく、神様に覚えておられ真っ先にイエス様と復活するのである(4:15)。そして、その人たちとともに「生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります」(4:17)と、同じように取り扱われる。そこに分け隔てもなく、「ともに」いのちに預かれる希望がある。

 第三に「キリストにある死生観」について見ていきたい。日常生活の中で「死」について話し合う機会は少ない。だが「死」をどう考えるかで、人生観は大きく異なる。パウロは「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません」(5:5)と語っている。私たち人間は生まれながらに「罪」に囚われているがゆえに死ぬべき存在であった。それがイエス様の十字架で罪許され「光の子ども」とされた。だからこそ「光」は「闇」と明確に区別されるような生き方をしなければならない。私たちは「自分は自由である」「神様に従わない」とうそぶいても、「罪」と「死」には確実に捉えられている。夜の生き方は、物事が見えず自分のせまい範囲しか見えない。しかし昼の生き方に移されたなら、神様の作られた世界がよく見えるようになる。イエス様を信じて罪赦されたなら、神様のめぐみによって永遠のいのちにあずかれる。そして「自分は何のために来ているのか」「何が正しくて、何が悪いか」が分かるようになる。それが光の世界である。だからこそ、私たちは「光の子ども」らしく歩んでいきたい。

 
 

2021年10月31日「天に備えられた場所」(ヨハネ14章1~6節)

 今日はハロウィンであるが、プロテスタント教会にとっては、1517年にマルティン・ルターがそれまでのキリスト教に対する疑問を書いた文章を貼りだした「宗教改革記念日」である。「宗教改革」と聞くと何か新しい宗教が始まったようにも聞こえるが、そうではなく聖書のことばに立ち返りましょうというものである。今日の箇所は、イエス様と一緒に旅をしてきた弟子たちが、理想の王国を打ち立てるためにエルサレムに入城する直前に、どうも期待する強力な指導者とは異なる姿を垣間見て不安を募らせてきた時期である。

 今日は第一に「心を騒がすな」という点について見ていきたい。弟子たちも、他の宗教指導者たちとは異なり、イエス様のことばには何か人の内側について影響を与える力があると感じていた。実際、イエス様が各地で人々に熱狂的に受け入れられるのを弟子たちも見てきた。しかし、わずか一週間の間に当時の宗教指導者との対立状況が顕著になり、またイエス様の行動も十字架に向かって変わってきた。そんな状況に、彼らは不安を募らせた。そんな弟子たちに、イエス様は「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」(使徒14:1)と述べた。イエス様のことばは変わらない。私たちも、信仰とは異なる別の力によって不安が募る時こそ、変わらぬ「ことば」に固く立つ必要がある。

 第二に「備えられる場所」について見ていきたい。イエス様は「わたしの父の家には住む所がたくさんあります」(14:2)と述べた。もちろん、これはナザレの実家のことではない。イエス様が人として生まれる前の「父なる神様がおられるところ」のことである。しかし、「住むところがたくさん」あっても、イエス様が場所を備えられてないと行くことはできない。十字架前のこの時点では、罪にまみれた人間は神様の前に立つことができない(13:36)。神様と人間のその断絶をつなぐために十字架に向かっていることを、イエス様は「あなたがたのために場所を用意しに行く」(14:2)と表現した。旧約聖書の時代、神様と幕屋で交わるのは大祭司だけで、動物の犠牲の血を用いる清めの儀式を経て入ることができた。今回、神の御子であるイエス様の十字架の犠牲によって、ようやく私たちの罪の清めがなされる。イエス様は「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます」(14:3)と述べたが、これは聖霊によって私たちが神様とともに生かされることを指している。イエス様は準備してただ待っているだけでなく、私たちが神の御国に生かされるように私たち一人ひとりに働かれ導いてくださるというのである。

 第三に「信仰によって」という点について見ていきたい。弟子の一人であるトマスは、イエス様に「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか」(14:5)と尋ねた。実証的な証拠を重んじるトマスは、信じるためには、目に見える具体的な別の何かが欲しかったのであろう。これに対してイエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(14:6)と述べ、イエス様自身を見て信じる必要があると述べた。イエス様の示された道の途中には「十字架」がある。自らの罪を認め、その十字架の出来事を通してイエス様の救いにあずからなければ、私たちに「道」はない。

 

2021年10月17日「永遠に対する備え」(使徒の働き24章17~24節)

 今年も余すところ二カ月余りとなった。人生は短い。「短いから楽しまなければ」「楽しめない人生はつまらない」と思う人も多い。しかし、その身近さをどう受け止めるかで人生は変わってくる。聖書は人生に短さについて語っているが、それは人間が神様の被造物であり、その永遠なる創造者との関係を考えることが重要だと述べている。今日の箇所は、前回に続いてカイサリアで開かれたローマ総督フェリクスによるパウロの裁判の場面である。

 今日第一に「神の前に備えられていたパウロの姿」について見ていきたい。パウロは、ユダヤ人たちに「神殿を汚している」と訴えられていた。しかしパウロは、法律に触れないというだけでなく「神の前にも」「責められることのない良心」(使徒24:16)を保っていると語っている。一方、パウロを訴えた人々は、この肝心な裁判の場にいないではないかとも述べている(24:19)。さらに、直前のユダヤの最高法院でも、パウロに対する不正を見つけられないでいたと訴えている(24:20)。これらを通して、パウロを訴えていたユダヤ人たちの不正が神と人の前で明らかになってきた。一方パウロは、何の不正も騒ぎも起こさず(24:18)むしろ騒いだのはサドカイ派→「聖書の舞台(人物・組織)」のさ行「サドカイ派(サドカイ人)」参照の人々だった(23:9)。

 第二に「パウロと対照的なフェリクスの姿」について見ていきたい。フェリクスは、他の歴史的資料によれば暴力的で、ユダヤ人を抑圧した人物だと描かれている。だが、ここでは神様の前にあるフェリクスを描いている。彼はキリスト教についての知識があったので(24:22)、彼らの論争の事情もうすうす分かっていた。だが地方総督としてユダヤ人を治めるために、パウロ無罪の判決をせず宙ぶらりんの状態に置いておいた(24:22)。その一方で妻とともに個人的に話しを聞いている(24:24)。『ヨセフスの年代記』にとるとフェリクスの妻ドルシアはヘロデ・アグリッパⅠ世→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「ヘロデ」参照の末娘で、当時16歳の人妻であった彼女を奪い取ったという事情があった。そのドルシアは翻弄される自分の人生について悩んでおり、「キリスト・イエスの信仰」(24:24)によって自分たちの悩みが軽減されればいいと考えていた。しかしパウロは、自分の「罪」や神様の「さばき」を語り、そこから贖われるために「イエス様の十字架」を語ったのであろう。「救い」は「自分の罪を認める」ことから始まり、だからこそ救いの道を備えてくださった「神様の愛」を質ことができる。だがフェリクスは、「罪」を認めることができなかったので、神様の「さばき」について「恐ろしさ」しか感じられなかった(24:25)。今日でも、キリスト教の口当たりのいい部分しか認められない人も多い。さらにフェリクス自身は、自分の欲にも縛られていた(24:26)。そんな彼の採った道は、罪を認めずに結論を先延ばしするという選択であった(24:27)。私たちも、自分の罪を認めることや神様を信じることを先延ばししてはいないだろうか。

 第三に「神に対する備え」について見ていきたい。旧約聖書には「イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ」(アモス4:12)と述べられている。この時代、神様は、イスラエルの人々を立ち返らせるために戦争や疫病を送ったとある(4:10)。つねに、このような困難が送られるわけではないが、私たちはいつ何時人生が終わるか分からない。人生は短い。私たちは、神様に心を開くことをためらってはいけない。

2021年10月17日「責められない良心」(使徒の働き24章1~16節)

 今日、良心が問われる場面が多くある。日本語の「良心」は孟子の思想から出てきた言葉で、「人は本来良い心を持っている」という考えである。一方、聖書で言う「良心」とはこれとは少し異なりギリシャ語の「シュネイデーシス」(συνείδησις:神とともに働く心)という言葉にあたる。つまり聖書の言う「良心」とは、神様から離れていては働かないことになる。今日、パウロが立った法廷は世界の片隅で行われた小さな裁判であるが、そこには私たちにとって普遍的な課題が表れている。

 今日、第一に見たいのは「神の前に立つ良心」についてである。パウロのように働くクリスチャンがこのような法廷に立つことは、イエス様によって預言されていた(ルカ21:12-13)。これまでパウロは「神殿を汚していた」とユダヤ人たちに訴えられていた。しかしローマの法廷では、各民族の宗教に関わるこの手の罪状では訴えることはできない→「聖書の舞台(人物・組織)」のさ行「サンヘドリン(議会)」参照。そこでテルティオという弁護士は、パウロがローマ社会を揺るがす危険人物であると訴えた(使徒24:5)。これに対してパウロは「お調べになれば分かることですが」(24:11)と冷静に事実に基づいて反論した。彼は、ただ神様に対する「良心」に立って述べているのである。

 第二に「良心の回復」について見ていきたい。パウロは、ユダヤ人の訴えが事実無根であるとは述べたが、自分が完全無欠な人間だとは言っていない。パウロは、訴えているユダヤ人たちと思想的には共通であると述べている(24:14-15)。このユダヤ人集団は、祭司長たち最高法院の主流のサドカイ派→「聖書の舞台(人物・組織)」のさ行「サドカイ派(サドカイ人)」参照と、復活を信じているパリサイ派→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「パリサイ派(パリサイ人)」参照が混じっていた。パウロの思想はパリサイ派に近い考え方であるが、福音の宣べ伝える「イエス様の十字架による復活」を信じている点が彼ら違うと表明した。彼は「正しい者も正しくない者も復活する」(24:15)との表現で、自分は必ずしも正しい者ではなかったがイエス様の愛によって救われて復活を約束された者であると主張を行った。ここに神様に寄り添っていきたいという「良心」に基づいて生きているというのである。私たちは、神様から離れて「自分は悪くない」とする自己義認という罪に陥りがちである。例えば「一日一善」など行動は悪いことではないが、そこには自己を満足させようとする「偽善」があるのではないか。これが進むと、自分たちを清いとして、神の御子を十字架につけたことを絶対に認めない祭司長たちのようになるのではないか。神の前に立つ「良心」とは、私たちが神の前に罪を認める恐怖を乗りこえ、神様に信頼を置くことから始まる。福音は、その向こうに「赦し」があると示している。

 第三に「良心に基づいた働き」について見ていきたい。パウロは「そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています」(24:16)と述べているが、その言葉の視点は天におかれていた。彼は、自分がこの法廷で裁かれることを気にしているのではなく、神様の前に弁明を述べていること分かる。パウロは自分を完全無欠だと言っているのではない。自分の罪を認めながら神様の前に罪許されていることを確信し、神様の前に恥じないような生き方を望んでいるというのである。つまり「責められることのない良心」とは、神様とともにいて、神様に罪を許された生き方のことである。そのような確信を持って神様とともに生きることが重要なのである。

 

2021年10月10日「神の軍と人の軍」(使徒の働き23章23~35節)

 信仰についての根本的な問いの一つに「神様はどこにおられるのですか?」というものがある。また日本人には「神様は困難な時に助けてくれるもの」というイメージがある。だが聖書が語る神様は、困難な時に表れて奇跡的な業で安易に救う神様ではない。困難の中で私たちが神様と向き合う中で信頼関係を築き、その業を働かせてくださる存在である。

 今日、第一に「ローマ軍に守られたパウロの姿」を見ていきたい。その前、神様はパウロに現れて励まし、彼を守ることを約束し(使徒23:11)、それがパウロの心の支えとなっていた。その通り、神様は千人隊長に働き「歩兵二百人、騎兵七十人、槍兵二百人」(23:23)という破格の軍勢でパウロを護送する状態を生じさせた。この千人隊長は、神を信じているわけでもパウロに心酔しているわけでもない。だが神様は、神様を信頼し委ねるパウロのために、まるで神の軍勢のようにローマ軍を利用された。そこに神様の業を見ることができる。

 第二に「地方総督への手紙」に焦点を当ててみたい。千人隊長は地方総督に書いた手紙には「閣下」(23:26)とあるが、この人物は地方のローマ軍を統括する高官であった。この「閣下」の原語は、ルカの福音書(ルカ1:3)に出てくるテオフィロ(おそらく偽名)にもつけられている。このテオフィロは、この「使徒の働き」を献本された人物(使徒1:1)で、その親しい呼びかけへの変化からクリスチャンとなった人物だと考えられている。使徒の働きの著者のルカは、この一連の出来事を通して、ローマ高官であるテオフィロにもキリスト教がいかに無実なものであるかも伝えようとした。そこに作者ルカの強い証しがあった。

 第三に「神様の見守りの中で」という点について見ていきたい。パウロはアンティパトリスまでは破格の軍隊によって守られ(23:23)、そこからカイサリアまでは騎兵たちに守られて移動した(23:31)。その後「騎兵たちはカイサリアに到着すると、総督に手紙を手渡して、パウロを引き合わせた」(23:33)。「総督は手紙を読んでから、パウロにどの州の者かと尋ね」(23:34)が、当時、ローマ市民は出身の州によって裁判する担当が異なる。パウロはキリキア出身なのでシリアの総督の担当となるが、エルサレムなどを担当するフェリクスは、それを確認しながら自分の担当とした。フェリクスは「この道についてかなり詳しく知っていた」(24:22)上に、キリスト教についての興味もあった(24:24)。だが、だが、その一方でパウロから金をせびろうという下心も持っていた人物である(24:26)。そんな人物のもとへ送られたにもかかわらず、パウロは囚人としてではなく、まるで「神の国の大使」のように「ヘロデの建てた官邸」(23:35)に保護された。

 このようにパウロは、破格の扱いでローマ軍に守られて移動し、その先では総督によってVIP待遇で扱われた。この「使徒の働き」のルカは、この一連の不思議な出来事に神様の働きを見出した。私たちは、自分たちを受け入れない反対勢力に向き合う時、困難を感じる。だが、そのような勢力を通して神様は業を働かせることもある。私たちは神様を信じる中で、自分の考えによって自分の限界を狭めてしまうようなことは慎まなければならない。神様を信じてより頼むことによって、私たちは、より広く大きな神様の恵みを受け止め、神様の業がさらに伸展することができる。それが困難を通した信頼関係につながる。

 

2021年10月3日「そばに立たれる主」(使徒の働き23章10~22節)

 先週の祈祷会で、私たちの国のために祈った。私たちクリスチャンは二つの国に生きている。ひとつは現実の国家、もうひとつは神の国である。この二つをつなぐものが祈りであり、地上での祈りが天にもつながっているとイエス様は述べた(マタイ16:19)。

 今日は、第一に「そばに立たれる主」について見ていきたい。被災地に行った時、被災者の方は物資の必要だけでなく、だれか信頼できる人に寄り添ってもらいたいという希望が強かった。この時のパウロもローマの兵舎で不安な夜を過ごしていた。その時、神様はパウロのそばに立って「勇気を出しなさい」(使徒23:11)と言われた。その言葉にパウロはどれほど励まされたことだろう。旧約聖書はイスラエルの歴史であると同時に、今の私たちに起こりうる出来事にも重なってくる。エジプトの奴隷から解放されて約束の地に入るという歴史は、罪の奴隷から解放された私たちの投影でもある。約束の地に入る直前に、エリコの町で無防備なヨシュアの前に「抜き身の剣」(ヨシュア5:13)を持った御使いがいた。未知の地に導かれて危機定状況に直面したヨシュアの恐れは、いかほどものであったことだろう。そのような状況にあってヨシュアは、自らの力を頼みとして蛮勇をふるって立ち向かったのではなく、まず神様の御心がどこにあるか問うた(5:14)。自分には先が見えなくても神様の御心を受け止める、それが神様の求める「勇気」である。

 第二に「敵対勢力の中で守られていったパウロ」について見ていきたい。神様はパウロに「あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」(使徒23:11)と述べた。その時、パウロに対して「パウロを殺すまでは食べたり飲んだりしない、と呪いをかけて誓った」(使徒23:12)ユダヤ人が四十人以上もいた(23:13)。この直前、最高議会では「この人には何の悪い点もみられない」(23:9)とまでいう人もいた。だが、そのようなユダヤの宗教的な最高会議→「聖書の舞台(人物・組織)」のさ行「サンヘドリン(議会)」参照での議論は機能せず、祭司長や長老にパウロの殺害を相談するという異常事態であった(23:14)。彼らは、最高議会で結論が出される前に殺すことを考えていた(23:15)。その計画を知ったパウロの甥はパウロに知らせた(23:16)。そのことを知ったパウロは自分で騒ぎたてるのではなく、甥を千人隊長に紹介することで情報の客観性を持たせた(23:17)。ここにパウロの知恵があると同時に、その状況を自分の力で解決しようとあがくのではなく、神様に委ねようとする彼の信仰が見られる。私たちも、どうにもならない場面に立たされた時「自分の力ではどうしようもない」とあきらめ、神様に委ねるということを忘れがちである。しかし、そのような状況になるほど、神様と自分の関係を見つめなおして、その状況を神様に委ねる勇気を持ちたい。神様は、私たち自身が知りえないような道を備えてくださっている。それを信じていきたい。