2022年01月~2022年03月

 

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2022年3月27日「神の前での生活」(マタイの福音書6章1~4節)

【140字ダイジェスト】

 イエス様は「右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい」と述べられた。当時、大通りでラッパを吹いて施すような行為が流行った。だが人の評価を求める「善行」ではなく、神様との関係を築き、心貧しい私の中に神の愛が入って来られたことに対する感謝が生み出す善行を神様は喜ばれる。 

 受難節に入って四回目の礼拝となる。イエス様が貧しい者、悩み苦しむ者のところに来て、十字架を背負われた。それは私たちの罪や心の闇のためである。現在とロシアとウクライナの戦争を見ても、その現実を目の当たりにしている。このような現実に対して個人の祈りは小さい様に見えるが、神の業はひとりの業を通してなされたことを忘れてはならない。

 今日は第一に「善行と義の関係」について見ていきたい。イエス様の説明でも「善行と祈りと断食」について特別な意味を持っている。イエス様は「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません」(マタイ6:1)と述べている。この「善行」とは「神の義(δικαιοσύνη )」を表すギリシア語から来ている。善行を施すことは良い事であるが、それがどこから来ているかが問題である。偽善者たちは人から認められるように善行を行った(6:2)。人からの評価は、必ずしも「神の義」と一致しない。だが人からの評価を求めようとすると、「神の義」からはなれ「自分の義」が中心となってしまう。だからイエス様は「彼らはすでに自分の報いを受けているのです」(6:2)と言った。そして、それよりも自分には義がないと悔いている「義に飢え渇く者は幸いです」(4:6)と言うのである。

 第二に「偽善の構造」について見ていきたい。この偽善とは、もともと「演技(ὑπόκρισις)」を意味する言葉であった。偽善者は俳優と同じように、本来の姿とは異なる姿を演じているのである。偽善者の行動は、同じように「善行」をしながら神様を見ずに人を見ているとイエス様は言う(6:2)。神様からの報いがないというのは、神様が自分に心を寄せておられないということであり、こんなに悲しく空しいことはない。

 第三に「隠れたところにおられる神の報い」について見ていきたい。イエス様は「あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたがたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(6:3-4)と述べている。この「右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい」(6:3)については、さまざまな解釈がある。一般的には「施しの純粋性」と解釈されているが、私(牧師)は「施しが隠れていることが重要」だと考える。当時、施しをするときに通りでラッパを吹くような、パフォーマンス的なものが多かった(6:2)。お金を施すにしても大仰に財布を広げてお金を与えるのだから、右の手も左の手も動いたはずである。これに対して、隠れたところでのさりげない施しは、手の動きが小さくわからない。施しを受ける人も、恥ずかしい気持ちを感じなくて済む。そんな施しならば、施す人と施される人の一対一の善意の関係となる。施すという行為やボランティア精神を傷つけているわけではない。イエス様がおっしゃっているのは、その行為が神の愛に向けられており、貧しい私の中に神の愛が入って来られた。それに対する感謝が私たちの「善行」を生み出してくる。イエス様は、そうすれば神様が「父」となって「隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(6:4)という。神様の「報い」とは、その様な神様との関係を取り結び、神様喜ばれることなのである。

 
 

2022年3月20日「完全な愛に生きる」(マタイの福音書5章43~48節)

【140字ダイジェスト】

 イエス様は「敵を愛せ」「神様のように完全であれ」と述べた。一見、人間には不可能のように思える。しかし、人間は自分自身で「愛」の実践をするのではなく、不完全で相手を憎まざるを得なくても祈り、神様の完全な愛の中に生きることを求めるべきである。そのような愛の実践を神様は求めておられる。

 キリスト教は「愛の宗教である」と言われるが、しばしが曲解されている。「敵を愛しなさい」と言っても「そんなのは無理だ、悪をはびこらせるだけだ」という意見もある。しかし人間は、「愛」の言葉で相手を憎む場合もある。だから愛について考えていきたい。

 今日は、第一に「敵を愛する愛」について見ていきたい。イエス様は「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:43-44)と述べられた。これは、本来は同胞への復讐を禁じた旧約聖書の律法であった(レピ19:18)。これをユダヤ人は、「敵を愛するなぞ無理だ、理想主義だ」と感じ、憎しみを抑えきれない相手は「同胞ではなく敵である」として律法を曲解していた。それを指摘したのである。しかし、イエス様はできない理想を語られたのではなく、憎しみが消えない現実を前提に話されているのである。私たちは敵を愛することは難しいが、祈ることはできる。そこから始めることで私たちは、神様とともに生きる生活に招かれるのである。

 第二に「愛の模範としての御父」について見ていきたい。「敵を愛する」ことを実践するなんて不可能だと考える。しかしイエス様は「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです」(マタイ5:45)と述べ、神様が「敵である人間も愛している」という現実があると述べられた。ユダヤ人は「隣人を愛する」と言いながら、敵を憎み、異邦人を差別していた。自然を支配しておられる神様は、確かに私たちを分け隔てなく愛されている。だから私たちも、父を模範に生きるべきであるというのである。ここで注意したいのは、「敵を愛することが救いの条件である」というのではない。私たちが不完全でも、父である神様の想いを汲んでその性質を受け継ぐ生き方を欲することが、「天におられるあなたがたの父の子どもになる」(5:45)ことだと言うのである。さらにイエス様は「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」(5:48)と言われる。しかし、それは私たちにはできないことのように思える。だがイエス様は、私たちが神様を拒否して自分だけで完全になれというのではない。不完全な私たちが神様を求め、その完全な神様のみこころの中に生かされることを求めているのである。

 第三に「愛することの報い」について見ていきたい。イエス様は「自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるのでしょうか。取税人→「聖書の舞台(人物・組織)」のさ行「取税人」参照でも同じことをしているではありませんか」(5:46)と述べている。私たちは、相手のことを思ってしたとしても、どこかで見返りを求めてしまう。そして相手から期待できるような報いがないと不快になり、場合によっては相手を憎むようになる。そのような愛は、当時、ユダヤ人たちが蔑んでいた取税人や異邦人→「聖書の舞台(人物・組織)」のあ行「異邦人」参照の愛と同じだというのである。さらに「自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか」(5:47)と、愛の実践が仲間内で閉じられていることにも批判した。私たちは神様の愛の大きさは知らない。だからこそ、私たちは「この世の報い」を求め独りよがりの「愛」の間違いに陥るのではなく、「天の報い」を求め神様の完全で大きな愛の内に歩むべきであろう。

2022年3月13日「悪い者に手向かわず」(マタイの福音書5章33~42節)

【140字ダイジェスト】

 旧約聖書の有名な「目には目を、歯には歯を」は、復讐の勧めをではなく同程度の償いで相手を許せとの意味である。だがイエス様は、自分は悪くないと悪へ不満を募らす生き方ではなく、「右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」と自分を無にして神様をまっすぐ見上げる、さらなる愛の実践を勧められた。

 人間は戦争を止めようと歴史的な試みを繰り返していたが、それが今、根本から崩れ去ろうとしている。戦争は「主と、主に油注がれたものへの反逆」(詩編2:2)と聖書には書かれている。では、この時代、クリスチャンはどのように悪に立ち向かえばよいのだろうか。

 今日は、第一に「ことばの真実さ」について見てみたい。イエス様の時代、イスラエルの民は律法に従っていたが、そこに隠された神様の御心が見失われていた。旧約聖書のレビ記や民数記には、誓約に関わる律法が記されているが(レビ19:3、明図浮き30:2)、イエス様は「しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません」(マタイ5:34)と述べている。しかし、これは律法を否定したとか「誓いがダメだ」という意味ではない。イエス様が言いたいのは「当時の民が律法を曲げている」点だったのである。当時のユダヤ人は、神様ではなく「天に誓う」「地に誓う」「エルサレムに誓う」など誓いに等級をつけることで、誓いが果たせなかったときの抜け道を用意していた。イエス様は天も地もエルサレムも神様に関係があるとし、すべてが神様に対する姿勢が問われると説明した。さらに、このような誓いの態度は、神様を自分のいいように使う「悪から出た発想」だというのである(5:37)。だから私たちは、自らの行いを神様の視点から見直す必要がある。

 第二に「償いの制限と愛の実践」について見ていきたい。イエス様は、旧約聖書(出エジプト21:24)の律法を引用して「『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています」(マタイ5:38)と述べられた。旧約聖書の律法では、相手から損害を受けたら「同程度の償いまでで制限するよう」にと書かれている。しかし、それは「復讐の権利を得た」というのではなく「同程度の償いで相手を許すように」という意味である。さらにイエス様は、律法の背後に隠された「相手を許す」という「愛の実践」を、さらに進めた生き方があると勧められた。有名な「右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」(5:39)とか、当時の貧しい人には唯一の財産であった「上着も取らせなさい」(5:40)というのである。なぜ、そこまで言われたのか。私たちは自己の権利意識が強く出がちであり、その結果、神様の愛が見えなくなってしまいがちな存在である。だからイエス様は「あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい」(5:41)と述べたのである。この「一ミリオン行くように強いる」とは、ローマの街道や駅で労働力として徴用されることである。当時のユダヤ人にとって、支配者のローマに徴用されるのは屈辱でした。しかし「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず」(ピリピ2:6)ご自身を捨てて人間の世界に来られ、救いを実現された。だからこそ、自分を無にしてキリストの愛を実現することは、クリスチャンとして求めなければならない。ここで注意したいのは「すべての悪に対して無抵抗になりなさい」ということではない。ナチス時代の牧師マルティン・ニーメラーが、国家的な悪に抵抗しきれなかった結果、教会も人々も蹂躙されたことを悔い改めて告白している。要は、自分の権利や自己弁護で「悪と思うもの」を攻撃するのではなく、自分を無にして神様をまっすぐに見つめ、神様の愛を実践せよということである。それが、イエス様の言わんとされたことである。

 

2022年3月6日「結婚と契約」(マタイの福音書5章27~32節)

【140字ダイジェスト】

 イエス様は情欲をもって女を見ることは姦淫であり、そんな目は「えぐり出して捨てなさい」と述べられているが、実際にえぐり出したことはない。ただ私たちの心の罪の問題はどれほど大きいか、人間の勝手な都合での結婚ではなく、神様との一体性や契約に従って歩む人生はどれほど恵み豊かか述べている。

 昨年、日本中の話題をさらった皇族の結婚問題の中で「そもそも結婚とは誰のためのものか」が議論された。今日の箇所は、聖書の結婚観に深く結びついている。

 今日は第一に「姦淫の戒め」について見たい。イエス様は「わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです」(マタイ5: 28)と言われる。創世記には、神様の創造の中で男女が一体として創られ(創世記2:24)、そこには契約があるという聖書の結婚観が語られている。だから姦淫や離婚は、神様の御前での一体性や契約を壊す行為となる。そして、それは行動だけでなく「心の中」(マタイ5:28)だけでも神様に反する行為だとイエス様は述べている。行動に移されない「情欲を抱く」行為を取り締まる法律は、現実社会にはない。法律は「罰に対する恐怖心」で行動を抑制するだけで、本来の「罪」が薄まっている訳ではない。私たちが救われるには神様の御前に自分の罪があることを自覚することが必要であり、問題は「心の中」にこそあるというのである。

 第二に「姦淫の罪からの断絶」について見たい。イエス様は「もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい」(5:29)「もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい」(5:30)と述べている。このことばに驚く人も多い。しかし、イエス様が実際に罪を犯した誰かの手を切り落としたことはない。ここでイエス様は、罪を過小評価して見ないふりをする私たちに「罪の結果の重大さ」を指摘したのである。罪を抱える私たちは、本来、身体も魂も滅ぼされるゲヘナに投げこまれる存在である。そんな私たちは「法に触れないから心の中の罪を無視していい」と考えがちであるが、それが神様の御前に「つまづき」となる。旧約聖書の規定では、罪が明らかになった場合、衆人が見る中で自ら雄牛を天幕につれていき、身代わりの雄牛を捧げなければならない(レビ記4:14-21)ほど重大なものである。だから、その重大さに向き合うべきである。罪は「心の中の観念」ではない。イエス様が十字架で犠牲になったほどであることを忘れてはならない。

 第三に「結婚と契約の関係」について見たい。イエス様は「また『妻を離縁する者は離縁状を与えよ』と言われていました。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです」(マタイ5:30-31)と述べられた。離縁状の規定は旧約聖書の申命記にある(申命記24:1-4)。しかし、その行為は離婚後の両者に新たな姦淫の罪を犯させることになるという。結婚は単なるお互いの手続き論ではない。神様の前に一体となったことの重大さを忘れてはならない。神様は、自らの民との一体性を結婚になぞらえ、神様から離れることを姦淫に例えた(ホセア2:5)。私たちは自分の好きな人と結婚し、好きな宗教を信じればよいと考えがちである。だが本当の神様との契約を自分の都合で破ることが、どれほど大きな罪であるか考えるべきである。では、なぜ旧約聖書は離縁状の規定を語ったのか。離婚を選ばなければいけない事情もあり、緊急避難的に認めただけで、本来のあり方ではない(マタイ19:8)。自分勝手な生き方の結果として罪に陥るのではなく、律法の背後に働く神様の恵みに気づき神様に従う生き方を選びたい。

 
 

2022年2月27日「律法の成就者キリスト」(マタイの福音書5章17~26節)

【140字ダイジェスト】 

 律法とは私たちを縛る窮屈なものではなく、私たちの人生を良きものへと導く神様の恵みである。だが単に律法に縛られて生きる人生は、パリサイ人のような形式だけの律法主義に陥る。まず自らの罪を告白して悔い改めることで、律法に従う人生に隠された神様のめぐみを本当の意味で享受することができる。

 春の光が感じられる季節になってきたものの、ウクライナの戦禍のニュースや長引くコロナウィルスの猛威など、世界は閉塞感に満ちている。不安を抱えた人が多い今だからこそ、いよいよ聖書のことばが必要とされている。
 今日はまず、「律法の一点一画までも決して消え去ることはありません」(マタイ5:18)とイエス様がおっしゃられた意味を考えたい。新約聖書の原文のギリシャ語で書かれているが、この部分を直訳すると「イオタもきえることはない」となる。イオタ(ι)とはギリシャ文字のアルファベットで、時には小さな点にも見える文字である。当時の人々の中には、律法を窮屈に思い、律法に縛られていると考える人も多かった。しかし律法はイスラエルの民を導く「良いもの」であり、罪を糾弾して罰するものでない。そして神様の律法は、永遠に変わらないものなのである。旧約聖書のイザヤ書には「草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ」(イザヤ40:8)という有名なことばがある。ここでの「立つ」とは、「実現する」「成就する」ということで、神様の「ことば」が必ず実現するということを述べている。今の変化の多い時代、目の前のものしか信じられない人もいる。しかし私たちは、そんな状況の中でも、今のこの時間に神がいてくださることを忘れず、日々の現実の中で神の約束のことばに向き合いたい。
 では、「律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません」(マタイ5:20)とはどんな意味なのか。律法学者やパリサイ人は、当時のイスラエルにあっては旧約聖書をよく暗記して勉強していたり、そこに書かれた律法を厳格に守って生活することを誇りにしていた人たちである。そんな人たちに「まさる」なんて、ハードルが高すぎるっと思ってしまうのだが、そうではない。イエス様は「一見きちんと律法を守って神の国に入る資格があると自認している人」こそ、自分の罪は自分自身が罪深い存在であるということを無視し、自分の中にある罪に無自覚だと指摘しているのである。イエス様がおっしゃりたかったのは、「自分の罪に気づいたなら、どう応答するかが大切なのか」いうことである。祭壇の上で神様に猿投物をしている姿は、他人から見れば立派に神様に仕えているようにも見える。しかし、それ以上に大切なのは、罪に気づき悔い改めて応答することなのである。イエス様は「祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさ」(マタイ5:23-24)とおっしゃっている。そうやって仲直りに走って行ってもそれがうまくいくかどうかはわからない。その結果は神様にゆだねられる。しかし、自分の罪を悔い改めて応答することなしには、いくらささげ物をしても、いくら律法を守っているように見せても、私たちは神様に近づけない。イエス様はそうおっやっている。
 世の中が混乱する中、力によってでしか相手を動かせないと考えると、ゆがんだ力の支配がはびこっていく。痛みと不安の増す社会の中で、私たちがまずできるのは、罪が示されたら、時を逃さず神様に対する悔い改めを具体的に行動に移すことである。それが、この世界の傷ついた関係を正す一歩になる。

 

2022年2月20日「地の塩、世の光」(マタイの福音書5章13~16節)

【140字ダイジェスト】

 イエス様が「あなたがたは地の塩です」と語った。塩は、腐敗せず変化もしない。人間に必要なものであるが、その役割を果たさないなら価値はない。「塩」の様に世に迎合せず神様と向き合うクリスチャンの生き方は、内向きに隠すのではなく、神様の恵みを表す「世の光」として広く人々に表すべきである。

 先日、気仙沼市の障がい者施設で社会福祉についての読書会が開かれたので私(牧師)も出席した。その三人の著者(阿部志郎、河幹夫、土肥隆一)に共通しているのは、直面する現実と信仰との問題と戦ってきたことである。神の義を求める生き方は、一方でクリスチャンに対する憎悪を誘発することもあるとイエス様は語っておられる(マタイ4:11)。

 今日はクリスチャンの生き方について、第一にイエス様が「あなたがたは地の塩です」(5:13)と語ったことについて見ていきたい。塩の特徴の第一は、腐敗ぜす「変化しない」ということである。神様とイスラエルの契約は「塩の契約」(民数記18:19)と呼ばれるほど、塩は不変なものの代表である。第二に「人間にとって必要なもの」であり、食べ物にうま味を与える。そんな塩であるが、その塩が塩気をなくしたら「もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです」(マタイ5:13)と、イエス様は厳しいことばで表現している。塩気を失ったクリスチャンが世に迎合すると、その瞬間は歓迎されるように見えるが、やがて人々に捨てられ踏みつけられるような結末になるというのである。

 第二に「クリスチャンは世の光である」という点を見ていきたい。イエス様は「あなたがたは世の光です」(5:14)と表現されている。エルサレムもそうだが、山の上の町はどこから見ても分かる。私たちの周りには、光を求めている人が多い。そうした人たちにとって、クリスチャンの存在は重要である。私たちは、遠くから見てもクリスチャンであるということが分かるような生き方や存在でなければならない。さらにイエス様は、クリスチャンを「明かり」に例えている(5:15)。当時の明かりは非常に小さいが、それでも夜に「家にいるすべての人を照らし」でてくれる。その「明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます」(同)と述べている。そして、教会を燭台に例えている(黙示録1:20)。そして、どんなに人が集まって大きくなっても、神様の愛から離れ(2:4)教会が燭台の機能をなくしたら神様は教会を取り除かれる(2:5)。

 第三に「父なる神があがめられるため」という点を見ていきたい。イエス様は「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです」(マタイ5:16)と述べられている。「何かわからないけどキリスト教っていいものだな」と人々が思うのは、クリスチャンの良い行いを通してである。「ひょっこりひょうたん島」や「吉里吉里国」で有名な作家の井上ひさしは、一時期、仙台の児童養護施設「ラ・サール・ホーム」で過ごしたことである。彼は子どもの頃、聖書の話を聞いたがピンと来なかった。しかし、そこに関わる神父たちの質素で誠実な姿に「この神父たちの言うことなら信じられる」と思ったと後に書いている。しかし神父たちは自分のことを褒めて欲しかったわけでない。そこで止まれば、「その人が立派だ」「その人が善人だから」で止まってしまう。しかし、罪ある私たちが神様ゆえに良いわざを行う生き方ができるようになった理由を神様の恵みに求め、「天におられるあなたがたの父をあがめるようになる」(5:16)なら、それはおおきな広がりをもたらすようになる。多くのクリスチャンの良い行いが、神様を信じる多くの人をおこし、多くの人を救うことになる。

 

2022年2月13日「義に渇く者の幸い」(マタイの福音書5章6~12節)

【140字ダイジェスト】

 「神の義はどこにあるのか」と世に矛盾を感じる場面も多いが、それは世の中にも自分の中にも義がなく、義に飢え渇いているからである。「神の義」を求め受け入れることで、イエス様は私たちの心の中に住まわれて私たちを義と認め、荒野の五千人の給食のようにあふれるばかりの恵みで満たしてくださる。(140字)

 信仰を求める動機の中に、「悩みに直面して」という方も多い。だが私たちは、信仰を持ちながら悩みや苦しみにあう。なぜ神様がともにいながら、こんなことが起こるのだろうか。

 今日は第一に「義に飢え渇く」ことについて見ていきたい。肉体的に飢え渇くことはつらい。しかし「義に飢え渇く」とはどういうことか。この「義」とは神様の正しさを指す。しかし私たちは、現実生活の中で「神の義はどこにあるのか」と感じる場面も多い。だが問題を関える社会に絶望しそうになる「飢え渇き」だけでなく、実は、自分自身の中に正しさがまったくないことに気づいて呆然とすることはないだろうか。詩編には神様を賛美する役を務めているアサフが、神様を信じない人たちが人生を楽しんでいる様子を見てねたむ心情が書かれている(詩編73:3)。こう感じるのは、実は神様の正しさが実現されることを求めているゆえの苦しみであり、イエス様はそのように「義に飢え渇く」状態を「幸い」だと言っている(マタイ5:6)。まず私たちは、「神の義」の実現を求めようではないか。

 第二に「祝福の中に現れた神の義」について見ていきたい。人間である私たちには、「神の義」が何なのか理解しにくい。そこで神様は、「神の義」を体現させるためにイエス様を現し、イエス様を信じる者を「義」と認めることとされた(ローマ3:26)。罪人ゆえに神様の前に立つことができなかった私たちを、イエス様の十字架によって罪を取り除き、罪なき者とされた。それによって、イエス様が私の見られたくない心の奥底の闇にまで来られた。これはギリシャ哲学でいう「イデア」概念とは大きく異なる。「イデア」といわれる理想世界は人間の実生活とはかけ離れており、それを目指して歩むことが徳のある人生と考えられていた。しかし「イデア」は人間の到達できない世界であり、卑近な人間の世の問題とは切り離されていると考えられていた。だから現実がどれほどドロドロしていても、自分が「イデア」を見上げていれば関係ないと考えていた。しかしイエス様は、その一番ドロドロの部分に入り込み、それを「神の義」で満たしてくださった。そこが大きく違う。

 第三に「義によって満たされる約束」について見ていきたい。イエス様は「義に飢え渇くものは幸いです。その人たちは満ち足りるからです」(マタイ5:6)と述べられた。到来物のおすそ分けを想像してほしい。充分以上に「満ち足りた」人は、それを他の人にも分かち与えようとする。「神の義」とは、そのような広がりを持つ。イエス様は五千人の給食で、すべての人に満腹になるまで食べさせ、さらに十二のかごにいっぱいになるほど与えられた(マタイ14:20)。だが、このエピソードの直前には、バプテスマのヨハネが処刑された記述がある(14:10)。おそらくイエス様は、バプテスマのヨハネの処刑に心の底から悲しんでいたと思われる。そのような状態のときに、イエス様は奇跡を表されて「神の義」で満ち満ちあふれるまで愛を与えられた。そこに神様の思いがある。私たちは信仰生活の中にあって悩みや苦しみを抱えることもある。しかしイエス様は、その原因となる私たちの心の奥底の「闇」にまで降りて来られて、「神の義」で満ち満ちあふれさせようとされている。このような「義によって満たされる約束」とは、何という恵みなのであろうか。どこか天の上にいるのでなく、私たちの中に住まわれたイエス様の恵みを見つめ直したい。

 

2022年2月6日「幸いな人生への招待」(マタイの福音書5章1~5節)

【140字ダイジェスト】

 有名な聖書の箇所であるが、なぜ「貧しいこと」「悲しいこと」が幸いなのか。これは人間的な満足度ではない。自らの霊的な貧しさ、罪あることの悲しさを自覚した人は、神様に立ち返りその恵みをまっすぐに受けられる。自らの義や力ではなく神様への信頼に委ねたとき、私たちは永遠の幸いを受けられる。(140字)

 「ミツコさんの生き方」という本がある。経済的には「貧しい」が、神様にしたがって「豊か」に生きている74歳の牧師さんのエッセイである。その記事が出た新聞に、成功者と言われる芸能人の話もあった。ミツコさんと同年代であるが、引退後、若い時には考えなかった、生きることの苦しさを感じているという。本当の幸せとは何だろうか。

 今日第一に「心の貧しい者」について見ていきたい。今日の箇所でイエス様は「幸いです」と繰り返しているが、これは人間の感じ方ではなく、神様の側からの祝福の意味である。イエス様は、人の行いによる義ではなく「心の貧しさ」を話されている。「貧しい」とは、神の前に何も誇るものがなく霊的に飢え渇いている状態である。「自分には何もない」と考えると、一般には絶望しか感じないだろう。しかしイエス様は、その状態は神様の恵みをまっすぐに受け止めることのできる状態だという。人間は自分の中に闇を抱え、自我という殻に閉じこもって虚勢を張っている。しかし神様の御前に自我が打ち壊され、自分の闇に神様の光が当てられたとき、初めて霊的に成長できる。そして、その時点ですでに「天の御国」(マタイ5:3)の一員として迎え入れられているのである。

 第二に「悲しむ者は幸いです」について見ていきたい。この「悲しみ」とは、声を出して絞り出すような強い悲しみである。マタイの福音書の2章には、ヘロデの暴虐によって子どもたちを殺された母親たちの悲しみの声が書かれている(2:18)。人は、他人の悲しみを理解し何とか慰めようとするが、これは、そのような慰めを一切拒否するような悲しみである。私(牧師)が被災地に何度か入った経験では、被災直後よりもむしろ時間の経過の中で悲しみが強くなってきたのを見てきた。どうにもならない現実、先の見通せない現実に私たちは苦しむ。しかしイエス様は、そんな私たちに近づいて語りかけてくださる(ヨハネ20:15)。イエス様は「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです」(5:4)と未来形で述べられているが、神様だけが未来にわたって確実に慰めと救いを与えられるのである。確かに、イエス様の慰めで地上における悲しみがすべて取り除かれるわけではない。しかし完全で永遠の慰めは、地上の生活に加えて天の御国までのスパンで用意されている(黙示録21:4)。さらに言えば、悲しみの経験は、私たちが自らの罪に気づき、罪から立ち返る喜びと祝福のスタート地点となる(Ⅱコリント7:8)。これらの意味で、神の御前に悲しむことは「幸い」につながる。

 第三に、「地を受け継ぐ」ことについて見ていきたい。イエス様は「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです」(マタイ5:2)と言われている。「柔和」とは「愛想がいい」という意味ではなく、「神様の前での徹底したへりくだり」を指す。その反対は、自分の力によって他者を圧倒しようとする姿勢である(詩編37:10-13)。自らの力に依らず相手の力に対応するためには、神様に対する徹底的な信頼が必要である。その強い姿勢が「柔和」の本来の意味である(民数記12:3)。モーセは、荒野で四十万のイスラエルの民を、神様に対する信頼で乗りこえた(11:1-35)。さらに自分の抱える問題に対して兄弟から批判されたときも、自分を義とする弁明でなく神様の解決に委ねた(12:1-16)。この「柔和さ」はイエス様自身の特性でもある(マタイ11:19)。だからこそ、私たちはへりくだって神様と一緒に歩むことができる。

 

2022年1月30日「人を救済する漁師」(マタイの福音書4章18~25節)

【140字ダイジェスト】

 十二弟子の代表的な人物とイエス様との出会いの場面には、信仰の原点が現れている。関心の薄かったペテロたちを導いたのはイエス様側からであり、彼らが家族や家業を捨てて従ったのは何よりも神様を第一と決断したためである。その先には自らの内にある「闇」を祝福へと導いてくれる福音の恵みがある。(140字)

 キリスト教の話を話すと身構えてしまう人も多いが、なぜ信仰を持ったのかという話は聞きたいという人も多い。今朝の箇所は、十二弟子の代表的な人物が、初めてイエス様につき従った場面である。ここには信仰の原点が現れている。

 今日の第一は「私を召してくださる神様」について見ていきたい。聖書には「イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった」(マタイ4:18)と書かれている。ところがヨハネの福音書では、二人はバプテスマのヨハネのところでイエス様に出会っていて(ヨハネ1:40)、ヨハネが捕らえられた後ガリラヤに戻り漁師をしていたことになる。一方、ルカの福音書では、ペテロはイエス様が群衆に話しているのに興味は薄かったが(ルカ5:1)、イエス様に声をかけられて船に乗せ網を下し、ただならぬ様子に驚いたようである(ルカ5:3-9)。だがマタイの福音書は、そういうペテロの事情ではなくイエス様の視点から書かれている。神様は、私たちの卑近な日常の中に入り込み神様側から信仰に導かれる。

 第二に「信仰の応答と決断」について見ていきたい。聖書には、ペテロとアンデレは「すぐに網を捨ててイエスに従った」(マタイ4:20)と書かれている。彼らは生活を捨てて、即座に従ったのである。さらにヤコブとヨハネの場合、雇人もいた大きな漁師の家で(マルコ1:20)、共同作業で漁をしていた。その彼らをイエス様が召した結果、二人は「すぐに舟と父親を残してイエスに従った」(マタイ4:20)と書かれている。家業のこと、親のことなどを考えると「あまりに冷たいのではないか」と思うかもしれない。一緒に漁をしていたということから、おそらく仲良い家族であっただろう。しかし二人は神様を第一に考えた決断をした。働き手の息子を失った父ゼベダイはどうなったのか。彼の名前が聖書に残ったということは彼も信仰に入り、しあわせな親子関係が再構築されたということである。

 第三に「イエスのことばに従った祝福」について見ていきたい。ガリラヤは差別視されていた「死の陰の地」「暗黒の地」であった。イスラエルの人々は、あえてその地に行こうとはしなかった。しかしイエス様は、そこで「御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた」(4:23)。イエス様の初期の活動では、癒しの力で神の御国を表していかれた。そのガリラヤに「こうして大勢の群衆が、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダン川の向こうから来て、イエスに従った」(4:25)というほは、何という変わり様だろうか。人々がガリラヤにやってきた目的は、病気の治癒のためであったかもしれない。しかし大切なのは病気の治癒ではなく、そこでイエス様の「ことば」を聞くことである。悔い改めて神様に向き合い、心の内にある「闇」から救いに導く、それが本当の「治癒」である。今日、当時とは比較にならないほど医療の発達で病気の治癒が可能になった。しかし社会の「闇」は減っただろうか。私たちの「闇」はなくなっただろうか。それらは私たち自身ではどうにもならない。それを自覚して悔い改めるところから信仰は始まる。イエス様は、そんな私たちのもとに来て、わたしたちの内側にある「闇」を癒してくださる。それが福音の真の価値である。

 

2022年1月23日「闇の中に見る光」(マタイの福音書4章12~17節)

【140字ダイジェスト】

 イエス様の時代も現代も社会には様々な問題がある。しかし、それが聖書の言う「闇」ではない。社会の悲惨さも突き詰めれば人間の内にある「闇」からくる問題で、イエス様は私達に悔い改めを求められている。悔い改めて神様と向き合い、その恵みのうちに生きることで私たちは「光」の中を歩めるという。(140字)

 

 先日、仙台キリスト教連合の新年祈祷会があり、カトリック教会とともに集会をした。カトリック教会の祈りは式文の中に組み込まれそれを一致して祈る形式である。その式文には、神様の憐みを求めるべき差別や貧困などの現代社会の問題が組み込まれていた。たしかに、そのような社会問題について心を一つにして祈ることは必要である。だが一方で、私(牧師)は聖書が言っている「闇」とは、それとは少し違うのではないかとも感じた。

 今日の箇所ではバプテスマのヨハネが捕らえられた直後、イエス様の宣教が始まったことが書かれている(マタイ4:12-13)。この悔い改めを人々に求めたヨハネを殺したこの事件は、この時代のイスラエルが抱えている人々の「闇」を象徴している。聖書は、この時に「イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた」(4:12)と書いているが、それは「この闇から避難した」というのではなく、「故郷の地方に戻った」という意味である。そしてイエス様は田舎町の故郷ナザレから、40キロほど離れた交通の要所であったカペナウムに拠点を移された。それは単なる引っ越しではなく預言の成就であり(4:14)、これまでとは異なる生き方がはじまった転換点なのである。私たちも信仰生活において、「神様のことば」「神様の視点」から日々の生活の意味を見出さなければならない。

 ここでマタイが「預言者イザヤの預言の成就」だと書いているのは、旧約聖書のイザヤ書9章1~2節にある預言で、そこには「ゼブルンの地とナフタリの地」(4:14)に大きな光が昇ると預言されていた。実はこれら二つの地域は、当時のイスラエルの民の間では「問題のある地」だと捉えられていた。これらの地域は、イスラエルの民がエジプトから脱出して先住民族を追い出して新しい国を築く時、先住民を追い出しきれずにいた地である。そこでは人々は異教徒と混じり合い異教の習慣も残したままであったため、同じ国でありながら「もはや異邦人の地」であると蔑まれていた地域であった。イエス様は、首都エルサレムの神殿ではなく、そのような地に行かれて住まわれ福音を語られはじめたのである。

 たしかに私たちの社会は様々な「闇」を抱えている。私(牧師)も若いころ社会の「闇」に立ち向かおうとしたこともある。しかし、そのような運動は「差別や貧困などは自分から離れたところにあり私がそれを改善できる」という自己義認が出発点となっており、一人ひとりが抱える「闇」が社会の問題の原因となっていることを忘れがちである。イエス様がこれらの地に行かれたのはヨハネを殺した当時の圧政から逃れるためではなく、イスラエル民族の一人ひとりが抱えている「闇」の対象であった貧困や差別の土地で「光」をもたらすためであった。それでは、一人ひとりが抱える「闇」をどうすればよいのか。イエス様は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(4:17)と明確に語られている。神様の前に私たち一人ひとりが悔い改めて神様に向き合い、神様の恵みによってこれまでの生き方を方向転換する。それが重要だというのである。そのことによって「神の御国は近くなった」というように、神様と自分の関係が近くなる。それが大切なのである。

 私たちは、毎日の生活の中で日々悔い改め、自分のこととして「闇」に向きあって悔い改め、神様に向き合うことを必要だと、イエス様は語られているのである。

2022年1月16日「主イエスが受けた誘惑」(マタイの福音書4章1~11節)

【140字ダイジェスト】

 「本当に神様がいるのなら〇〇すべきだ」と、神の存在や働きを実証的に試そうとする人は多い。しかし、それは疑いからはじまる行為であり、そこには信仰はない。人間と同じ体をもって生まれたイエス様の誘惑を試みた悪魔を、イエス様は神としての力ではなく神様のみことばを信頼して従うことで退けた。(140字) 

 キリスト教の根底に、人間の持つ弱さに対する神様の視点があるといわれる。旧約聖書のイザヤ書の42章では、人間を「傷んだ葦」「くすぶる灯心」(イザヤ42:3)と表現している。今日の箇所は、イエス様が人間同様の弱さに立ち、誘惑者と戦った箇所である。

 今日第一に「パンの誘惑」について見ていきたい。イエス様は、霊性を整えるために「四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた」(マタイ4:2)とある。その弱さに悪魔がつけこんだ。悪魔は、イエス様が石をパンに変えることができるのを知っている(42:3)。たしかにパンを得られれば一時の空腹は癒される。しかし、それによって神様との信頼関係が壊れてしまう。イエス様は、旧約聖書の申命記3章8節を引用し「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある」(42:4)と答えた。そして、空腹を満たされるだけでなく、人は本来的に神のことばによって生かされており、生きているという。私たちも、そのように神のことばに従って生きるべきである。

 第二に「神のことばを試す誘惑」について見ていきたい。悪魔は、人間は「神のことばで生きる」と答えたイエス様に、「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから」(42:6)と、旧約聖書の詩編の91編11節を引用しつつ神様のことばを試すように誘惑した。今日も、「神様がいるなら〇〇すべき」だと、神様の存在を実証的に検証しようとする人は多い。神様の働きは、神様を信頼する民に対する神様の恵みである。そこには人格的な関係性があって初めてなされる。だから事象だけ切り離した検証は、その信頼関係を壊すこととなる。だからイエス様は旧約聖書の申命記6章16節を引用して「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」(42:7)と答えた。神様を試みることは、まず疑いから始まる関係である。そこには信仰はない。

 第三に「礼拝すべき方は誰か」について考えていきたい。悪魔はイエス様に「この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。『もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。』」(42:8-9)と誘惑し、自分を礼拝させようという真意をむき出しにした。私たちは、私たちと同じような弱さを抱えながらこれだけの誘惑をイエス様が受けていたことを忘れてはならない。私たちは「悪魔」について、何か敵対したり侮蔑したりする存在だと考えがちである。しかし悪魔は、聖書にも精通し非常に賢い。例えば旧約聖書の創世記でエバを誘惑するとき「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか」(創世記3:1)と、論点をずらしながら神様のことばの否定に持って行った。罪の誘惑には段階がある。人は悪魔の誘惑に少しずつおびき寄せられ、「いつでも引き返せる」と思っている間に虜にされてしまう。だからこそ、早いうちに誘惑を退ける必要がある。イエス様は申命記10章20節を引用し「「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」(マタイ4:10)と答えた。現代は多様化の時代と言われているが、神様のことばを他の価値観と同じレベルに引き下ろすべきではない。私たちは、イエス様のように神様のみことばに立って誘惑を退けて行かなければならない。

 

2022年1月9日「神が愛された御子」(マタイの福音書3章13~17節)

【140字ダイジェスト】

 罪なきイエス様も、罪ある人間と同様にバプテスマを受けられ、神様はそれを喜ばれた。バプテスマを受けなくても、一方的に神様を信仰することはできる。だが私たちが悔い改めてバプテスマを受ければ、神様は聖霊を下され私たちに寄り添われる。それを通して私たちは、神様の愛を理解することができる。(140字)

 クリスチャンにとってバプテスマ(→「はじめての教会用語辞典」のは行「バプテスマ(洗礼)」参照)を受けることは、極め重要である。バプテスマを受けず教会に行かなくても、神様を信仰することはできる。しかし神様に従うことによってこそ、神様の愛を理解することができる。神様もイエス様がバプテスマを受けたことを喜ばれた。

 今日は第一に「バプテスマのヨハネとイエス様との出会い」について見ていきたい。この時、イエス様は30歳、十字架は33歳だと言われている。公生涯はわずか3年、ガリラヤ湖とエルサレム周辺だけを巡られただけである。しかし、その働きを前もって整えてきたのがバプテスマのヨハネであり、彼の水のバプテスマと悔い改めの勧めは、救い主を待望するイスラエル全土に影響を及ぼした。ヨハネは、求める人すべてにバプテスマを授けたわけではない(マタイ3:7-8)。ルカの福音書によれば、ヨハネは人間的にはイエス様の親戚にあたるが(ルカ3:2)、その時点まではお互いの存在を知らなかった(ヨハネ1:31)。しかし、ここで出会ったとき、イエス様に何かあることを感じ取り「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか」(3:14)と述べた。福音の芯には「神の御子が人となって人間の内に来られた」ことがある。神様の恵みは、このように私たちが何かをなす前に、神様の側から私たちのところに近寄って来られる。

 第二に「イエス様が受けられた洗礼」について見ていきたい。ヨハネは、この後ヘロデ王と妻ヘロデヤの罪を指摘して捕らえられた(14:3)。ヨハネの活動で多くの人が罪の悔い改めのためにやってきたが、その一方で罪に無感覚な者も多かった。預言者エレミヤは、いかに人々が自分を変えることが難しいか語った(エレミヤ13:23)。だが聖書は、この罪の問題を変えないと人間に真の平安は訪れないという。この時イエス様は、わざわざガリラヤから100キロ離れたヨルダン川に訪れ、罪がないのにバプテスマを受けに来た。ヨハネは自分が授けるのはおこがましいと述べたが(ヨハネ3:14)、イエス様は「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです」(3:15)と述べた。この「正しいこと」とは「義」であり、「神様が求めておられること」の意味である。イエス様は「罪がある」という点以外は、あえてヒトと同じような立場におられた。そこに、私たちの罪の苦しみに寄り添おうとされているイエス様の姿がある。

 第三に「精霊の降臨と天からの声」について見ていきたい。イエス様がバプテスマを受けて自ら上がられると、すぐに聖霊が下って来た(3:16)。そして神様は「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(3:17)との声を天から下した。それはイザヤ書の預言が実現した瞬間であった(イザヤ42:1-4)。その様に来られた救い主は「彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない。傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともなく」(42:2-3)と預言されたように、弱くなかなか自分を変えられない人間を排除することがなく、弱い人間に寄り添う存在であった。イエス様ご自身が公生涯をはじめられようとしたとき、神様が直接働かれた。だが、その救い主は私たちのところに来られて、私たちと同じようにバプテスマを受けられた。神様は、それを「喜ぶ」とおっしゃられた。私たちは、そのような神様に応えるためにも、神様のバプテスマを大切にしたい。

 

2022年1月2日「天の御国への備え」(マタイの福音書3章1~12節)

【140字ダイジェスト】

 イエス様の登場に先立ち、バプテスマのヨハネは「悔い改めなさい。天の御国が近づいた」と語って、人びとに水でバプテスマを授けた。「悔い改め」とは、一人ひとりが神様と向き合い生き方を変えることである。聖霊による真のバプテスマを受け「良い実」を実らせるには、この「悔い改め」が前提となる。(140字)

 今日の箇所は、バプテスマのヨハネの話である。「そのころ」(マタイ3:1)とは、ヘロデ大王以降、イスラエルには闇が支配してどこにも光が見えない状態の時代を指している。その中で真の光が登場するその直前の段階が、今日の箇所のバプテスマのヨハネである。

 今日は第一に「主の通られる道」について見ていきたい。旧約聖書に何度と出てくる預言者は、このバプテスマのヨハネが最後である。この「バプテスマ」とは沐浴して身を清めることである習慣であるが、このバプテスマのヨハネが異なるのは、語るメッセージにあった。彼は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(3:2)と語っていた。ヨハネは、いつ来るか分からなかった天の御国が、すぐそこまで来ていると明確に述べた。そして「悔い改めよ」と語った。ちなみに旧約聖書の預言者たちは、イスラエルの民全体に「神に立ち返れ」と語っていた。だが「悔い改め」はヨハネから語られた新約聖書のことばであり、我々一人ひとりが個人的に神様に向き合い、全人格的に方向転換せよということである。ヨハネは人の大勢いる会堂ではなく、人のいない荒野で語った。神様は、「悔い改め」は何もないところから始めないとダメだというのである。そこに「主の道が用意」(3:3)されている。

 第二に「偽りの悔い改めと真の悔い改め」について見ていきたい。ヨハネの悔い改めの動きはユダヤ全土に及んでいた(3:5)。いかにユダヤ人が救いを求めていたか分かろう。しかし、その中には、当時のユダヤ教の宗教的指導層である大勢のパリサイ人→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「パリサイ派(パリサイ人)」参照やサドカイ人→「聖書の舞台(人物・組織)」のさ行「サドカイ派(サドカイ人)」参照がいた(3:7)。だが彼らに対してヨハネは「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい」(3:7-8)と厳しい言葉を述べた。彼らも救いを求めて荒野にやってきたはずである。なぜヨハネは、彼らに「まむしの子孫たち」と言ったのか。蛇は、創世記でアダムとエバをだまして神様から離れさせた。同様に彼らも宗教的指導者としてイスラエルの民を、神様とは異なる道に導いていた。彼らは神に選ばれた特別な民としての優越感があった。そして宗教的指導者は、それを基に民を指導してきた。その自己肯定の意識からは、本当の意味での悔い改めは起こって来ない。ヨハネは、アブラハムの子孫だという優越感は何の意味もないと言うのである(3:9)。神様の恵みは、私たちが弱さや貧しさを認め、心から悔い改めることからしか始まらない。ヨハネは「斧はすでに木の根元に置かれています」(3:10)と警告している。神様が私たちを切り倒さないのは、私たちが良い木だからではなく、単に神様の憐みと忍耐ゆえにである。

 第三に「実を結ぶ」という点について見ていきたい。ヨハネは「良い身を結ばない木はすべて切り倒され、火に投げ込まれます」(3:10)と述べた。ヨハネは、まず悔い改めのバプテスマがあり、その上で「私の後に来られる方」(3:11)すなわちイエス様のバプテスマによって聖霊で満たされると説明した。つまり「悔い改め」が救いの前提であるというのである。むろん、これは「悔い改め」と「聖霊」の二回のバプテスマがあるというのではない。儀式としては一度であるが、「心の中で悔い改めるだけ」でも充分ではなく、悔い改めることなしに聖霊は注がれない。だが悔い改めて聖霊が注がれると、私たちに精霊の実が結ばれる。神様は、私たちがすべて精霊の実を結んで神様との関係を取り戻すことを求めている。

 
 

2022年01月01日「厳かに聞く神のことば」(テモテへの手紙第二4章1~2節)

【140字ダイジェスト】

​ 「みことばを宣べ伝える」ことを、パウロは人間の都合で変えることができない神様の厳かな命令であると述べた。神様の命令を第一とし「時が良くても悪くても」神様を信頼して宣べ伝えれば、自分中心主義が打ち砕かれ神様からの恵みの応答を受けて道が開かれる。その繰り返しの中で私たちは成長できる。(140字)

 昨年末から、今年の教会の年間聖句を祈り求めていたところ、テモテの手紙第二4章2節の聖句が与えられた。享年の聖句と共通するのは「みことば」である。「みことばを求める」ことと「みことばを宣べ伝える」ことは、一つの流れとなっている。

今日の箇所で、パウロは「みことばを宣べ伝える」(Ⅱテモテ4:2)ことを、「神の御前」で命じる厳かな命令4:1)だと述べている。それは「新年を迎えて厳かな気分になる」という意味の厳かではなく、人間の都合で変えられることがない、神様からの命令だというのである。パウロはローマの獄中から、親子ほど歳のちがうテモテに手紙を書いた。明日をも知れない状況のパウロが、常にテモテを励ましている。なぜパウロは、そんなことができたのか。それはパウロが、自分の都合や世の中の号から「今」を見ず「神様からの視点」で自分の身に起こっていることを見ていたからである。それがクリスチャンの信仰としては重要なことである。そのためには、神様への信頼と、神様からの恵みの応答を繰り返し経験する、その積み重ねによってしか得られない。先日、クリスマス礼拝で見た「二歳以下の男の子の大虐殺」も(マタイ2:16)、人間体に見れば不条理なことだが、それを通して救いの道が開かれた。私たちは神様のことを完全に知りえないからこそ、自分の考えではなく、神様の考えに信頼して委ねる必要がある。

またパウロは、テモテへ「要望」とか「勧め」としてでなく「命令」として述べている(Ⅱテモテ4:1)。これは神様のことばには権威があり、神様と人間には主従関係があるからである。今日、「権威」という言葉は避けられる傾向にある。しかし「権威」を認めないことの延長には「自分中心主義」しかない。私たちは神様の権威を認め、それを優先させる必要がある。それによって自分中心主義が打ち砕かれ、道が開かれる。

 さらにパウロは「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしかりやりなさい」(4:2)と命じている。しかし、それは何も私だけで行わなければならない訳ではない。そこには神様が常に寄り添って私たちを支えてくださる。昨年は「乳飲み子のように」みことばを求めてきたが、いつまでも乳飲み子であってはいけない。私たちは、神様にあって「みことばを宣べ伝える」命令を実行できる存在に一歩踏み出さなければならない。新しい年のスタートにあたって、そのように決意したい。