2022年07月~2022年9月

 

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2022年9月25日「心の目が開くとき」(マタイ9章26~25節)

【140字ダイジェスト】

政治的な意味ではなく、救い主の出現と神の国の実現を求める二人の盲人の「ダビデの子よ」と叫びにイエス様は応えられた。しかし目が開かれた二人は喜びのあまり、言いつけを守らず奇跡をふれ回った。目こそ癒されたが、彼らは人生の再出発にあたり必要な神様との関係を見る心の目を閉ざしてしまった。

 人間関係で、心が開かれていないとコミュニケーションの問題が起きる。神様と人との関係も同様で、神様の恵みに対して心が開かれないと神様への応答も信頼関係が築けなくなる。今日の箇所で目が見えるようになった二人の喜びは、神様への関係につながったのか。

 今日は、第一に「目の見えない人の叫び」について見ていきたい。聖書は「イエスがそこから進んで行くと、目の見えない二人の人が、『ダビデの子よ、私たちをあわれんでください』と叫びながらついて来た」(マタイ9:27)と書いてある。彼らは会堂司の家の娘が蘇ったうわさを聞いてきたのだろうか。彼らは「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と、他の人々が言わなかった言葉を叫びながらついて来た(9:27)。ヘロデ王が支配しているこの時代、「ダビデの子」→「聖書の舞台(人物・組織)」のた行「ダビデの子」参照と叫ぶことは約束されたイスラエル王の待望する思想として政治的な危険をはらんでいた。また「あわれみ」とは、当時の言葉で子宮を語源とする言葉で、神様の守護を全身で受け止める意味があった。彼らの叫びには、福音を求める信仰があった。

 第二に「開かれた目と閉じられた心」について見ていきたい。これまでイエス様は、道の途中であってもいやしを行ってきた。しかしこの時は、イエス様は家に入って目の見えない二人が近づくのを待って、しかも「わたしにそれができると信じるのか」(9:28)と問い返している。当時、ローマを打ち払いイスラエルの栄光を取り戻す「ダビデの子」を待望する、政治的なスローガンは多かった。だからイエス様は、彼らが信仰をはっきりと告白させた。「はい、主よ」(9:28)と答える二人に対してイエス様は、ダビデの子孫に救い主が現れ、神の国を実現するという「あなたがたの信仰のとおりになれ」(9:28)と言われた。そして、その通りになった。神様の力によって目が見えるようになった二人の衝撃と喜びはいかばかりであったろう。だがイエス様は、厳しく「だれにも知られないように気をつけなさい」(9:30)と二人に命じられた。しかし「ダビデの子」が登場して目を癒したという事件は、場合によって人々に政治的な意味での「ダビデの子」待望論を盛り上げてしまう危険があった。さらに彼らは、目は開いたがイエス様の命令は守れなかった。彼らは、これから人生が新しくされようとしたときに、神様に従って生きるという心は閉じてしまったのである。

 第三に「口を開かれた人」について見ていきたい。二人が出て行ったあと、人々は「悪霊につかれて口のきけない人」(9:32)をイエス様のところに連れて来た。作者のマタイは「見よ」と人々の驚きを描写したが、その驚きは「えっ?」とか「なぜ?」という違和感であった。悪霊につかれたこの人は自分の意志で来たわけでなく、「イエス様ならどうするだろう」と試す人々によって連れて来られたのだろう。その証拠に、これまでのようにイエス様は信仰を告白させることはしていない。ただイエス様が神の救い主であることを、ご自身の業の中で人々に表されただけである。これを見た人々は、イエス様を信じるというより、ただ「こんなことはイスラエルで、いまだかつて起こったことがない」(9:33)と驚いただけであった。さらに目の前の出来事に心を閉ざし、まったく反対のことを考える人もいた(9:34)。私たちはどうであろうか。罪と奴隷の支配にあった私たちも、イエス様と出会って心の目が開かれ、神様への賛美する口を開かれる者となりたい。

 

2022年9月18日「絶望を貫く信仰」(マタイ9章18~25節)

【140字ダイジェスト】

律法で汚れた者とされ社会から排斥されて来た長血を患った女も、娘をなくした会堂司も、絶望の中からイエス様との出会いを求めた。そんな彼らにイエス様は振り向き、手を差し伸べて「あなたの信仰が救った」と評価された。私たちは絶望の中にあっても神様と出会い福音に生かされる道が備えられている。

 人生における出会いは重要と言われるが、今日においては「出会い」の意味が変わってきている。ネットでは相手も自分も隠しながら、うすい出会いを求めている。しかし聖書を通した私たちの「イエス様との出会い」は、自分の奥底まで関わる深い結びつきである。

 今日は第一に「絶望の中の出会い」について見ていきたい。この会堂司は「私の娘が今、死にました」(マタイ9:18)という絶望の中でイエス様に会いに来ている。マルコの福音書では「死にかけて」(マルコ5:23)いるが、どちらにせよ、この会堂司は絶望の淵にいた。また、その時に「十二年の間長血をわずらっている女の人」(マタイ9:20)が近づいてきたが、旧約聖書の律法では、このような長血の女は汚れた者として隔離されてきた(レビ15:25)。イエス様から「娘よ」(マタイ9:22)と呼びかけられたことから、まだ若く、人生を楽しみたい時期であったが、長い間それが断たれていた。どちらの人も、絶望の中でイエス様との出会いに救いを求めて、自らの意志でやってきた。イエス様との出会いは、どんな絶望の中にあろうと可能であり、私たちはそこに希望を見出すことができる。

 第二に「信仰によって救われる」ことについてみたい。長血の娘は、自分が律法において「汚れた者」であることを自覚していた。だからイエス様に直接触れたことを知られれば群衆によって非難される危険性があったので、せめて後ろから近づいて着物の房に触れるしかなかった(9:20)。だが彼女はイエス様の力と権威を信じ、「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」(9:21)と確信していたのである。前の訳では「癒される」としていたが、2017年訳は「救われる」という言語に忠実な訳になった。たしかに長血が治るのは彼女の希望であったが、彼女の苦しみの本質は「汚れた者」としてのレッテルを貼られて生きなければならなかった現状である。秘かに長血が治ったとして、それで社会的なレッテルが変わるだろうか。「立って歩けるようになる」というような誰の目にも分かる変化はないので、状況は変わらないだろう。それでも彼女は自分なりに考えて、自分の出来るギリギリの方法でイエス様に近づこうとした。そのような彼女に対して、イエス様は群衆の中で振り向いて彼女を見すえ「あなたの信仰があなたを救ったのです」(9:22)と清めを宣言された。そして彼女の稚拙な行為も、イエス様は「あなたの信仰が救った」と評価されたのである。

 第三に「絶望を貫く信仰」について見ていきたい。話は、再び会堂司の娘の話になる。一刻も早くイエス様を娘のところに連れて行きたかった会堂司にとって長血の女の癒やしはじれったい出来事で、その焦りと不安はいかに大きかったことだろう。案の定、ようやく着いた会堂司の家では「笛吹く者たちや騒いでいる群衆」(9:23)があいて、すでに葬儀の準備が始まっていた。しかしイエス様は、「その少女は死んだのではなく、眠っているのです」と言って、これら葬式の準備をしている人たちを追い出した(9:24)。このことばを聞いて人々はあざ笑った。しかし聖書は、福音は死に打ち勝つと述べている。イエス様が手を取られると少女は死に打ち勝って起き上がった。それはヤイロという会堂司の家(マルコ5:22)に起きてその地方に広がった事実として記録されている。絶望と死の淵にいる私たちにも、神様の側から手を差し伸べてくださっており、いのちに生かされる福音に預かっている。

 

2022年9月11日「キリストにある交わり」(第一コリント10章15~19節)

【140字ダイジェスト】

聖餐式が単なる会食に堕していたコリントの教会に、パウロは、聖餐式は神様との交わりであり、神の兄弟姉妹としての教会の交わりであると説いた。その聖餐式に際してイエス様は「取って食べなさい」と述べられた。私たちは、自分の意志でその問いかけに応答し、聖なる交わりにあずかるべきなのである。

 今年の流行語に、甲子園の監督が述べた「青春は密」という言葉がある。コロナの中で、交わりを制限された高校生たちに対して述べた言葉だが、教会もやはり交わりが大切である。この時、コリントの教会は偶像礼拝が入ってきていたが、その中で「キリストにある交わり」がいかに大切であるか語られた。

 今日第一は「キリストのからだにあずかる」ことについて見ていきたい。パウロは「私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか」(Ⅰコリント10:16)と、聖餐式を通じたイエス様との深い交わりについて述べた。本来、罪ある私たちが聖かる神様と交わることはあり得なかった。しかしイエス様が十字架にかかり、私たちの罪を贖ってくださったため交わることができるようになった。そこに、血を流しからだを裂いてまで私たちを救ってくださった神様の愛がある。そこに偶像礼拝が入ることにパウロは怒りを覚え、聖餐式の意味をもう一度考えるように勧めた。そして偶像や世間におもねるどっちつかずの考えを捨て、罪を自覚し悔い改めて聖餐にあずかる自覚が必要である。

 第二に「キリストにある一つのからだ」について見ていきたい。さらにパウロは「パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです」(10:17)と述べた。このパンは、イスラエルの民がエジプトから脱出するときに分け合った「種なしパン」である。教会は、キリストにある一つのからだである。自分の身体に気に入らない所があっても切り離すわけではない。一方、私たちは、ウイルスや細菌など身体を害するモノが入ると排除し、食べ物などが入ると受け入れている。教会も同様で、キリストにあって同じ信仰を告白する者をどんな人であっても受け入れるし、教会の害する偶像礼拝は排除する。先ほど告白した「使徒信条」には「公同の教会」を信じ「聖徒の交わり」を信じると告白した。今、Zoomを通じた合同礼拝をしているのは、単に物理的につないでいるだけでない。キリストのからだとしての一体や、神の家族としての兄弟姉妹としての交わりをしているのである。

 第三に「キリストにある祭壇の交わり」について見ていきたい。教会の交わりを「肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。ささげ物を食する者は、祭壇の交わりにあずかることになるのではありませんか」(10:18)とパウロは述べている。パウロは単に聖餐式をすればよいとは言っていない。パウロは、旧約聖書とユダヤ文化にわだかまりのあるギリシア文化の影響下にあるコリントの教会に対してフォローしつつ、「肉によるイスラエルのこと」(10:18)を話している。当時のコリント教会では聖餐式と、単なる中の良い人々の「愛餐会」のようにしていたところがあった(11:21)。しか聖餐式はそうではない聖なる者である(レビ10:12)。聖餐式に際してイエス様は「取って食べなさい」(マタイ26:26)と述べられた。私たちは、自分の意志でその問いかけに応答し、聖なる交わりにあずかるべきなのである。この行動そのものが、罪ある私たちが神様の福音に応答して、聖なる交わりにあずかれる聖なる者とされるということである。それがキリスト教会の基礎となっている。その根本的な交わりを忘れて単なるサークルに堕してしまうことを厳に戒めなければならない。

 

2022年9月4日「新しさに新しい入れ物」(マタイ9章14~17節)

​【140字ダイジェスト】

イエス様は、神様との関係が回復された喜びを享受して会食する「罪人たち」を批判し、旧約聖書の宗教的戒律に縛られたバプテスマのヨハネの弟子たちを批判した。「古い皮袋」という自分の生活や考えでなく、「新しい皮袋」に神様の恵まれる福音という「新しいぶどう酒」をしっかり受け止めていきたい。

 当教団の宣教師だった渡邉賢治牧師は、本の中で福音に出会った経緯を語っている。気が弱かった渡邉少年は、学校の先生に導かれて日本のトップクラスの卓球選手となった。しかし手首のケガで夢が閉ざされ、その中で宣教師に出会って福音に触れたという。つらいことがあったが喜びの人生だとおっしゃっている。イエス様はプテスマのヨハネの弟子たちに対し、三つのたとえを通して宗教的戒律より喜びが信仰の本質だと語っている。

 今日は第一に「花婿に付き添う友人たちのたとえ」について見ていきたい。バプテスマのヨハネの弟子たちは、イエス様に「私たちとパリサイ人はたびたび断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」(9:14)と問うたが、これに対してイエス様は「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか」(9:15)と答えている。ホセア書には、神の国の到来を「契り」(ホセア2:19)と表現しているが、今ここで起こっていることが、神の新しい契約の到来なのに、なぜ神の国の到来を待ち望むための断食をするのかと述べている。それと同時に「彼らから花婿が取り去られる日」(マタイ9:15)と十字架の預言もなされている。

 第二に「古い衣のたとえ」について見ていきたい。続けてイエス様は「だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなるからです」(9:16)と続けている。この「古い衣」とは、旧約聖書の律法にのみ従う宗教的戒律を第一とする信仰生活である。たしかに「古い衣」もかつては新しくて必要とされたが、イエス様を通じた新しい契約のもとでは取り換える必要がある。イエス様はかつて、旧約聖書の文脈においてバプテスマのヨハネを最も偉大な預言者と評したが、「しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です」(11:11)というように、新約の時代における新しい契約の圧倒的な素晴らしさを述べている。ヨハネの弟子たちは、旧約聖書の不足分をイエス様の考えに求めていたが、自分たちの基本的な考え方を変えようとしていなかった。しかし、こんな継ぎ足しのやり方は「衣を引き裂き、破れがもっとひどくなるからです」(マタイ11:16)と述べている。今日においても自分の考え方を変えず、福音の一部を都合よく取り入れようとする方もいるが、それはすべてをダメにするという。

 第三に「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」にたとえについて見ていきたい。イエス様は「人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます」(11:17)と述べた。新しい皮袋は弾力があり、発酵が進んで気泡が生まれている新しいぶどう酒を入れても圧力に耐えられる。イエス様は、新しく活力のある「ぶどう酒」のような新しい神様のめぐみを受け入れる、私たち(=皮袋)の「新しい生活様式」や「考え方の弾力性」の問題を指摘している。この新しい力に対して、自分のなじんできた古い生活や考え方に固執することなく、神様に心を開いて新しくされていくことが必要なのではないだろうか。神様は新しいめぐみを与えたいと願い、今、私たちにそんな新しさを求めておられるのではないだろうか。

 
 

2022年8月28日「真実の愛」(マタイ9章9~13節)

【140字ダイジェスト】

硬直化したパリサイ人たちの聖書理解では、イエス様が取税人たちと交わるのはスキャンダルに見えた。しかしイエス様は、旧約聖書を引用して罪人たちが救われた喜びを神様とともに喜べないパリサイ人たちの間違いを指摘した。罪の中で滅びそうな私たちを救いたいという思いの中に神様の真実の愛がある。

 今日も、ロシアとウクライナの戦争が続いている。私たちプロテスタントが独立する前の15世紀、キリスト教はローマ帝国が東西に分かれギリシア正教とローマカトリックに分裂した。このギリシア教会は国ごとに独立した総司教がおり、ロシアとウクライナの教会はそれぞれ国の政治に影響されている。私たちは今一度福音の原点に返るべきであろう。

 今日は第一に「罪人を招かれたイエス様」について見ていきたい。この時代、イスラエルはローマに支配され、その支配下でローマの税を集めるのが取税人であった。ギリシア語もアラム語にも堪能な者が選ばれたが、彼らはローマの権力を背景に同族から必要以上の税を徴収していたためユダヤ社会では嫌われていた。同族から必要以上の税を取ることは旧約聖書の律法にも反しており、罪人の中でも最も罪深い者とされていた→「聖書の舞台(人物・組織)」のさ行「取税人」参照。マタイは、そういう社会的背景の中で自分自身を「マタイという人が収税所」(マタイ9:9)と書いている。家柄も教養もありながら、ローマ支配下の中で社会的に嫌われていたマタイの鬱屈が分かる。イエス様は、そんなマタイに「『わたしについて来なさい』と言われた」(9:9)と声をかけられた。収税所に座っていた罪人に過ぎなかった自分にさえイエス様は声をかけられた。それが自分のはじまりだったと飾らずに証しをしている。さらにマタイは「イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた」(9:10)と書いているが、「見よ」と表現したように驚くべき出来事であった。マタイは、仲間とともにイエス様を家に、そして心に迎え入れた。

 第二に「病める人のためのイエス」について見ていきたい。パリサイ人→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「パリサイ派(パリサイ人)」参照たちは、喜びにあふれるマタイや取税人たちの救いを喜ばず、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」(9:11)と尋ねた。硬直した彼らの聖書理解では、神のことを説くイエス様が、取税人たちと親しく交わるのはスキャンダルに見えた。一方イエス様は、イエス様のことばによって、これまでの生き方が大きく変えられたことを喜び、神の家族として「共に食事をする」交わりを喜んでいる。彼らを罪人としか見なかったパリサイ人に、イエス様は「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です」(9:12)と述べ、病の人をすべて受け入れる医者にご自身を例えられた。取税人たちの罪そのものを糾弾するのではなく、彼らが罪から回復された点が重要だというのである。

 第三に「罪人を赦す真実の愛」について見ていきたい。イエス様は、自らを律法の専門家と自負しているパリサイ人に、旧約聖書のホセア書(6:6)を引用し「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない」(マタイ9:13)と述べた。当時、神様は預言者ホセアを通して、宗教的儀式に偏って、神様へ真実の愛で向き合わなくなってきた間違った宗教の在り方に警告された。イエス様は、罪人たちが救われた喜びを神様とともに喜べないパリサイ人たちの間違いを指摘した。私たちが罪赦されて生き方が変えられることを神様は喜んでいる。罪の中で滅びそうな私たちを救いたいという思いの中に神様の真実の愛がある。だからこそイエス様は「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(9:13)と述べたのである。

2022年8月21日「罪を赦す権威」(マタイ9章1~8節)

【140字ダイジェスト】

ガラダでは悪霊を追い出したイエス様を「恐れて」に町を出て欲しいと言ったが、カペナウムではこのような権威を人にお与えになった神をあがめたとある。神様の圧倒的な権威を「恐れる」か、「畏れる」ことで自分の罪を悔い改め神様の権威を受け止めその恵みを深く自覚するか、それが重要な岐路である。

 神様を知ることで神様を「おそれる」ということがある。この「おそれる」というのは「恐れる」ではない。「恐れ」からは逃げるが、神様を知り神様を「畏れる」ことで、神様の素晴らしさを知り新しい関係を築くことにつながる。「神を正しく畏れる」ことが必要である。

 今日は第一に「中部の人の癒しと罪の赦し」について見ていきたい「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた」(マタイ9:1)とあるように、一行はガラダ人の町から湖を渡ってカペナウムに戻った。そこでは多くの人がイエス様のところに来た。その中に中風の人がいた。この人は、自分が願ってどうしてもイエス様に合うことを選んだのである。この人を見たイエス様は「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」(9:2)と言われたが、この人にとって病気以上に罪の赦しの問題を切実なものとして持っていたことがわかる。床に寝かされたありのままの姿でイエス様の前に出てそのあわれみを願い、そのことによって罪を赦される姿は、私たちも見習わなければならない。それが福音である。

 第二に「他のものに勝る罪の赦し」について見ていきたい。中風の人の赦しを見た律法学者たちは「心の中で『この人は神を冒瀆している』と言った」(9:3)とある。彼らは田舎町のカペナウムの人ではなく、200キロ離れたエルサレムからイエス様の間違いを指摘するためにわざわざやってきたのである。彼らは自分を聖書の専門家として誇っていながら、イエス様を求めて集まっている群衆の前なので口に出して非難していない(9:3)。彼らは、神様しかできない罪の赦しをイエス様が口先だけで行っている(マルコ2:7)と考えたのである。彼らは自分では「正しい」ことをしているつもりで、傲慢にも神様に背いてイエス様を見誤っていた。それに対してイエス様は、「なぜ心の中で悪いことを考えているのか」(マタイ9:4)と言って「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」(9:5)と問うている。人間的に見ると「心の問題」よりも「身体の癒やし」の方が目で見える分だけごまかしがきかないと思う。しかし、そうではない。イエス様は「人の子が地上で罪を許す権威を持っていることを、あなたがたが知るために―」(9:6)と証明したが、それは「罪の赦し」が確実に起きたことを目に見える形で示すためであった。「身体の癒やし」は人間にもできるが「罪の癒やし」はイエス様にしかできない。

 第三に「罪を赦す権威」について見ていきたい。イエス様は、ガリラヤ湖を鎮め、ガラダで悪霊を追い出し、この時は罪を赦す権威を示された。ガラダでは悪霊を追い出したイエス様を「恐れて」に町を出て欲しいと言ったが、今日の箇所では「群衆はそれを見て恐ろしくなり、このような権威を人にお与えになった神をあがめた」(9:6)とある。カペナウムでは、神様の権威に人々が応答したことが分かる。さらに作者は、三つの出来事を並べ「自然を治める権威<悪霊を追い出す権威<罪を赦す権威」と難しさを表している。私たちはイエス様の圧倒尾的な権威を見て「恐れる」か、「畏れる」ことで自分の罪を悔い改め神様の権威を受け止めるか、それが重要な岐路である。私たちは、信仰生活の中でより罪に敏感になり、それに対する悔い改めが深まっていく。しかし、それが神様の恵みを深く自覚することになる。その罪の赦しを行うイエス様の権威をしっかりと受け止めていきたい。

 

2022年8月14日「悪霊に対する勝利」(マタイ8章28~34節)

​【140字ダイジェスト】

悪霊とは「神に逆らう霊」であり、無自覚のうちに心に入り込み、人の努力でそれを追い出すことは難しい。しかしイエス様は、そのようなどうしようもない状態にあるこの二人に湖を渡って会いに来られ、悪霊を追い出し二人の心を神様のもとに返された。私たちも神様のご支配と平安を素直に受け取りたい。

 明日の終戦記念日を前に、本日の午後、仙台市内の教会がともに平和を祈る。私たち人間は、本来、神様に良いものとして創られた。残念ながら、人間の愚かさによって戦争はなくならない。そんな中で私たちはどのように未来に対する希望が持てるのだろうか。前の箇所でイエス様が嵐を鎮めたことを読んだが、この箇所はいわば人の心の中の嵐の話である。

 今日は、第一に「悪霊に支配された人の現実」について見ていきたい。イエス様が湖を渡った先のガラダは異邦人の地であった→「聖書の舞台(国・場所)」のか行「ガラダ」参照。そこではガリラヤ地方のように、イエス様の話を聞きに大勢の人が集まったわけではない。ただ「悪霊につかれた人が二人、墓場から出て来てイエスを迎えた(マタイ8:28)とある。イエス様は大勢に人を振り切って、墓場の洞窟を仮住まいとする→「聖書の舞台(生活・習慣)」のは行「墓と埋葬」参照この二人に会いに来たとしか思えない。この二人は狂暴で(8:28)、人を傷つけるだけでなく自分自身も傷つけていた(マルコ5:5)。ただ精神疾患で類似の行動を取ることが、すなわち「悪霊につかれた」ということではない点に気をつけたい。彼らは単なる精神疾患ではない。弟子たちもイエス様が何者か理解していないのに、すでに「神の子よ、私たちと何の関係があるのですか。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか」(マタイ8:29)と明確に語っている。このような行動を取らない人の中にも、無自覚に悪霊に支配され、神様の本当のいのちから切り離され見失っている人も多い。

 第二に「悪霊を追い出されたイエス様」について見ていきたい。悪霊はイエス様の力にかなわないと知っていたので、「私たちを追い出そうとされるのでしたら、豚の群れの中に送ってください」(8:31)と懇願した→「聖書の舞台(生活・習慣)」のは行「豚」参照。病気の人に対してはイエス様が「癒された」と書かれている。しかし悪霊については「追い出された」(8:31-32)とある。悪霊に支配された人が、同時に神様を受けいれることはできない。ここで考えたいのは「悪霊は神に逆らう霊」であることである。なのに「イエスに懇願して」(8:31)いるし、イエス様の「行け」(8:32)という命令も聞いている。しかも悪霊は自ら人に入って支配したり、離れたりできるはずである。この出来事によって死んだ豚の数は二千匹(マルコ5:13)にもなる。これはすべてイエス様の責任だろうか。聖書は、罪にまみれ悪霊と死を受け入れてしまった責任は人間にあると述べている(エペソ2:2)。そして、それに抗する力は人間にはない。ただイエス様の権威とみことばだけがそれをできる。それは異邦人の地で最悪の状況にあった人にも働いた。

 第三に「福音の価値と人々の評価」について見ていきたい。悪霊が入った豚は「その群れ全体が崖を下って湖になだれ込み、水におぼれて死んだ」(マタイ8:32)が、豚を預かって放牧していた豚飼いたちにとって大きな責任が生じる。そこで彼らは「飼っていた人たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれていた人たちのことなどを残らず知らせた」(8:33)。この行動は、イエス様の誕生を賛美しに行った羊飼いたちとは正反対である(ルカ2:15)。さらに町の人たちも、「その地方から立ち去ってほしいと懇願した」(8:34)。「懇願した」というからには、イエス様の力の大きさ理解したはずであるが、彼らは正気になった人たちを見て神様を賛美するわけではなく、失われた豚すなわち生活基盤の変化のみを恐れていた。私たちも、神様を受け入れることによる変化を恐れず、神様との関係を回復したい。

 
 

2022年8月7日「嵐を静められる主」(マタイ8章23~27節)

​【140字ダイジェスト】

人生の困難に遭遇したとき、私たちは人間的な思いを募らせ、人間的な考えの範囲に神様を卑近化して助けを求める。そこには信仰もなければ、神様により頼む信頼関係もない。困難な時こそ私たちに寄り添い、私たちの思いをはるかに超えた権威と業をもつ神様に信頼し、そのみことばに声を傾けていきたい。

 私たちの毎日の生活の中で、信仰の在り方が問われることがある。困難をどのように受け入れ、どう対処するか。それは幅当たり的に対処できるのではなく、自分と神様の関係が問われてくる。そして、それは毎日の信仰生活の中で培われるものである。

 今日は第一に「嵐に遭遇した弟子たち」について見ていきたい。たしかに弟子たちはイエス様に従う人生を選んだ(マタイ8:23)。しかし、それで人生に困難がなくなるわけではない。この時、ガリラヤ湖にいた一行は大嵐に見舞われた(8:24)。弟子たちの幾人かは元ガリラヤ湖の漁師だったのでガリラヤ湖の嵐は知っていたが、その時の嵐は彼らにも経験のないほどであった。しかしイエス様は、それを顧みずのんきに眠っておられた(8:24)。弟子たちの頭には「イエス様に従った結果、こんな危険な目にあっているのに…」という思いがよぎっただろう。イエス様に従ったにもかかわらず、現実の生活が上手く行かないことは私たちにも起こる。神様がいなくなったわけではないが、人間的な思いがはびこって信仰が揺らいでしまう。しかし、見方を変えれば私たちと同じヒトとなって疲れ果ててまで、私たちの側に寄り添ってくださるイエス様の姿を見ることができる。そして嵐が来るのを知りつつ、舟が沈むことがないという父なる神様の導きに対する絶対的な信頼もあった。そこに弟子たちとの大きな違いがあった。それが、その後の十字架のときの行動に表れている。

 第二に「恐れと不信仰に陥った弟子たちの姿」について見ていきたい。「弟子たちは近寄ってイエスを起こして『主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます』と言った」(8:25)。元漁師であった技術や経験が打ち砕かれるほどの脅威であったことが分かる。死を覚悟した弟子たちはイエス様の助けを求めたが、その求めは水を汲みだしたり風に舵を立てたりするような、自分たちと同じレベルの助けでしかない。これに対してイエス様は、人間的なリーダーではなく、神様との関係の回復という一段上の信仰を求めていた(8:26)。私たちも信仰生活の中で、困難な状況の中でイエス様の力をどんどん過小評価し、人間的な不平や不満を募らせてしまうことがある。私たちは神様に近づける特権を得たが、その「近さ」を「卑近さ」と取り違えたりしてはいないだろうか。

 第三に「嵐を静められたイエス様の業」について見ていきたい。イエス様は「それから起き上がり、風と湖を𠮟りつけられた。すると、すっかり凪になった」(8:26)。このようにみことばをもって自然まで従わされるということは、イエス様が、この世界の創造主であり権威を持っていることを示している。イエス様は悪魔の誘惑を受けた時も、みことばをもって対抗された(4:1-11)。私たちは自然現象を物理的法則でしか捉えていないが、それらを超えて本当に力があるのは神様のみことばなのである。たしかに自然災害の被害者の「なぜ神様はそのようにしたのか」という問いに対して、私たち人間は軽々しく答えるべきではない。重要なのは、自分の納得できるような卑近な理由付けを軽々しくするのではなく、困難なその状況の中で神様は何を語ろうとするのか耳を傾けることであろう。自分の力を超える困難に絶望感が生まれるときも、神のみことばに信頼する。そこに私たちの生きる力が生まれている。そこに人間の考えを超えた、神様の解決策や導きが必ず用意されている。

 

2022年7月31日「キリストに従う人生」(マタイ8章18~22節)

​【140字ダイジェスト】

イエス様のことばは「すべてを捨てて従う」ように聞こえるが、神様は私たちが「地上の巣」が必要なことも、人が死ぬ悲しみも充分ご存知である。だが私たちが信仰を選ぶ際に、それらが妨げになり本末転倒な事態になることを憂慮しておられる。私たちは今、神様のことばへの応答と決断が求められている。

 何かを学ぶときに、誰かについて弟子になる必要がある。私(牧師)は、自己流で様々な趣味をかじり身につかなかった。だが信仰はイエス様という師に導かれ50年続いている。

 今日は第一に「神の国の福音と地上の国のちがい」について見ていきたい。当時の「町」といえど1,000人程度で、万を越す群衆が集まる(ヨハネ6:10)状況は、政治的プロパガンダを行う者にとってはチャンスである。しかしイエス様は「群衆が自分の周りにいるのを見て、弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた」(マタイ8:18)のである。イエス様は救いを求めてではなく、自分に政治的なリーダーを求める群衆とは距離を置いた(ヨハネ6:15)。歴史的にキリスト教が「神様の愛から来る弱者の救い」を地上で行ってきたことは評価できるが、本当にすべきことは神の国の実現であり、多くの人に福音の働きを伝え神様との関係を修復するが第一義であることに注意したい。

 第二に「主に従う覚悟」について見ていきたい。イエス様のもとに、律法学者が来て「先生。あなたがたがどこに行かれても、私はついて行きます」(マタイ8:19)と言った。彼のうちには「救いを求めてくる群衆とは違う」「私は他の群衆より聖書を分かっている」という感情が読み取れる。彼は、救いを求めて来たこれまでの人のように「主よ」と呼びかけず「先生」と呼びかけている。そこにユダヤ教から離れられない彼の立場が分かる。その彼にイエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」(8:20)と答えた。イエス様は「ユダヤ教という穴から出て来なさい」「地上的な巣から離れて空(天)の御国に来なさい」と言っているのではないか。またルカの福音書では、この話の直前でイエス様が地上を支配した後は、誰が№2となるか議論していた(ルカ9:46)。弟子もやはり地上的な価値観で考えていた。しかしイエス様は、自分には地上に「枕するところもない」と言っている(マタイ8:20)。私たちは、神様から地上での必要に応じて「穴」や「巣」を与えられている。それらを否定するものではない。しかし、それに固執するのではなく、神の国を第一義として信じて従う先に祝福があるというのである。

 第三に「イエス様に従うことの優先」について見ていきたい。この人は、律法学者とは異なり「主よ」と呼びかけ、すべてを捨ててイエス様に従いたいと言っている。しかし、その前に「まず行って父を葬ることをお許しください」(8:21)と言っている。この人に対してイエス様は、最終的に「わたしに従って来なさい」(8:22)と声をかけ、律法学者に突き放した物言いで対応とは異なる対応をされている。イエス様自体、何度も葬儀や死の場面に立会い、人々の悲しみを知っているし、その悲しみを癒すために何度か奇跡を起こされた。旧約聖書の律法にもあるが、神様は葬式や人の悲しみを否定しているわけではない。ある聖書学者は「彼の父は健在で、彼は、将来、父が死んで葬ったら後で従う」と言ったのではないかとも解釈しているが、どちらにせよ彼は、信仰を選ぶタイミングを逃しかけていたと考えられる。その彼に対して、イエス様は、神様に従っていない霊的「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい」(8:22)と述べた。人間は弱く、「もっともらしい理由」はさらに拡大してしまいかねない。私たちは神様のことばに触れた「今」応答が求められているのである。

 

2022年7月24日「重荷を負われるイエス」(マタイ8章14~17節)

【140字ダイジェスト】

最近、カルトが問題になっている。カルトは、偶像や物を買わせ儀式で人を癒やそうとする。だが、本当に力を持つのは神様の「ことば」であり、御心である。イエス様は愛ゆえに私たちに寄り添い病の癒しを行われたが、神様の御心は病の癒やしではなく私たちが救われて神様との関係を回復することにある。

 最近、カルトの問題が話題になっている。イエス様は偽預言者に気をつけるように述べていた。しかしカルトの信徒は、アイデンティティと結びついた教えを簡単に捨てることはできない。必要なのは使徒パウロが回心したような、彼らの心を満たし解放する福音である。

 今日は第一に「信仰による癒やし」について見ていきたい。今日の箇所は、百人隊長のしもべの癒やしに続く箇所である。この時、使徒ペテロの姑が熱を出して寝込んでいた(マタイ8:14)。この時、ペテロはイエス様一行を招きながら、姑が病気で寝込んでいることを自分自身は言っていなかった(マルコ1:30)。ペテロは直前で百人隊長のしもべの癒やしを目撃しながら、姑の癒やしを申し出ていない。年老いて病に冒されて娘の家庭に身を寄せた姑は娘婿のペテロに遠慮もあり、ペテロも病人を隠しておきたかったのではないか。この時点でペテロは、信仰生活が自分の家庭生活と結びついていなかったことが分かる。個人的な問題にイエス様に関わってほしくないという気持ちは、私たちにもあるかもしれない。だがイエス様は、ペテロが壁を作っていた状況を超え、姑の持つ孤独や空虚さや抱える問題に近づいて癒された(マタイ8:14)。そこに姑に対するイエス様の憐みがうかがえる。信仰に生きるペテロを見て、嫁である娘や自分の行く末を心配していたかもしれない。しかし福音とイエス様の愛に触れて病から回復した姑は、精一杯の喜びでもてなしをした(8:15)。

 第二に、「御言葉による癒やし」について見ていきたい。ペテロの姑の癒やしを見たことで「夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた」(8:16)とある。実はこの日は、ユダヤ教の安息日であり、癒しを含めた一切の働きが禁じられていたと考えられていた(12:10)。「安息日には癒やしはできない」と考えていた人々にとって、本来人々にいのちを与える旧約聖書の律法が、自らを束縛するものとなっていた。しかしイエス様は、人々を癒やされた。しかもイエス様は「ことばをもって悪霊どもを追い出し」(8:16)人々を癒やしたのである。今日の多くのカルトでは、偶像や道具、複雑な儀式をもって癒やそうとする。しかし、本当に力を持つのは神様の「ことば」であり、そこに現れた神様の御心なのである。

 第三に「病を追われるイエス」について見ていきたい。この福音書の著者であるマタイは「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。『彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。』」(8:17)とイザヤ書の預言(イザヤ53:4)と結びつけている。そしてイエス様は人々の孤独や悲しみ、病に悩む人の苦しみを知っていて、そこに寄り添う方なのである(53:3)。神様は、自身の圧倒的な力を持って病に立ち向かうのではなく、自らが人となって病を負おうとした。そうしないと私たち人間の罪から来る様々な苦しみに立ちえないからである。私たちは痛みや病を追われるイエス様を見ることによって、自分たちの罪に気づく。カルトから抜け出して牧師になったある方は、当時、どんなに説得されても聞く耳を持てなかった。しかし学生であった自分を何カ月もかかって説得した実父の中に、自分に対する愛を見出した。周りの人を通して福音と神様の愛に触れた人は、変えられる。私たちも、自分の心を開いて神様のことばを受け止めていきたい。

 

2022年7月17日「信じたとおりになる」(マタイ8章5~13節)

【140字ダイジェスト】

ここに出てくる百人隊長は「自分には資格がない」と言い、それでもイエス様のみことばに信頼し、あえてイエス様のところに出て懇願した。イエス様は、そこに彼の信仰を見て「あなたの信じたとおりになるように」と応えられた。そこに「しもべの癒し」以上の信仰と救いと神様の恵みの本質が表れている。

 私たちは自分の身近な者のために悩むことがある。特に身近な人の死は、自分自身の身に起こるより大きな苦しみを生み、死について深く考えるきっかけになる。今日の箇所でも、死に瀕しているのは百人隊長のしもべであったが、百人隊長は大いに苦しんでいた。

 今日は第一に、「しもべのために懇願した百人隊長」について見ていきたい。ルカの福音書には、イエス様のところに来たのは百人隊長の大地で来たユダヤ人の長老たちであったと書かれているが(ルカ7:3)、どちらにせよ、百人隊長は奴隷や家来としてではなく愛情をもってしもべに接していたことが分かる。百人隊長は、イエス様がカペナウムに入ったことを聞くと「みもとに来て懇願」したとある(マタイ8:5)。当時のイスラエルはローマの支配下にあったので、百人隊長の権力は相当あり、イエス様に「来い」と言ってもよかった。さらに「異邦人」で「支配者」のローマ兵であったので嫌われていたが、この人はイスラエル人にも愛されていた(ルカ7:5)。そして「イスラエルの田舎の人」であったイエス様にへりくだったのは、イエス様がどういう存在で自分は神の前にどういう存在かを、彼が理解していたためであろう。私たちも自分の存在をふり返り、神の御前にへりくだる必要がある。

 第二に「神のことばの権威を信じる」ことについて見ていきたい。ルカの福音書では、この百人隊長がユダヤ人の信宗教に対して心を開き会堂を建てたので、イスラエルの長老たちが「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です」(ルカ7:4)と言っている。しかし「資格」という言葉には「自分たちこそが神の恵みを受けられる存在である」という前提がある。しかし百人隊長自身は、イエス様に「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません」(マタイ8:8)と述べている。彼は「ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます」(8:8)と述べ、イエス様のみことばの権威にすがっている。彼は、イエス様の語ることばに神様の権威があることを確信している(8:9)。私たちも祈りを続ける中で、どのようにみことばが示され、そのみことばに従って生きようとする、それが問われているのである。神様はみことばを通して業をなされている。

 第三に「百人隊長と比較されたイスラエルの信仰」について見ていきたい。イエス様は「イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。『まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。』」(8:10)と述べられた。旧約聖書の歴史は、イスラエルの信仰の歴史でもあり、多くの預言者や信仰者が出て来た。しかしイエス様は、ユダヤ人が誇りとする預言者たちの信仰より、この無名の異邦人である百人隊長の信仰の方が素晴らしいと言っている。これは預言者たちを貶める意味ではなく、信仰の本質が表れていることばである点に注意しなければならない。まず、この百人隊長は「自分には資格がない」(8:8)と言っている。しかし、資格のない私があえてイエス様のところに行き懇願する。それは神様の恵みを確信しなければできない。この百人隊長の思いは、「愛される資格がある」と誇っていたイスラエル人たちとは大きく異なっている。資格がない私たちが生かされているのは、神様の愛と恵みゆえである(エペソ2:4-5)。それを受け止めて心を開くところから、福音の恵みがはじまる。

 

2022年7月10日「御言葉による聖化」(マタイ8章1~4節)

【140字ダイジェスト】

旧約聖書の律法は穢れが何か教えているが、神様の御心は、穢れた人間を避けたりを裁いたりすることではない。イエス様の血によって、罪に穢れた私たち人間を清くして「聖なる神の民」とし、その関係を回復するために一歩一歩導いてこられた。私たちの罪を清められるのは、唯一、神様の御心だけである。

 キリスト教は、現実を離れた理想を語っているのではない。神様は、この現実社会に神の国を築こうとされた。世界を見ると飢えや苦しみがあり、どこに神の国があるのかと感じるかもしれない。だが、この瞬間にも福音を信じて闇から光に移されている人は絶えない。

 今日は、第一に「ツァラアトに冒された人の現実」について見てみたい。ギリシア語では「ツァラアト」と「らい病」には同じ言葉が使われているが、「ツァラアト」とは様々な原因から起きる同様の症状や、布や皮、家の壁の状態までを指す広い概念であり(レビ13:47)、これら両者は区別する必要がある。この当時のツァラアトの症状が起きた患者は、病状がらくる苦しみだけでなく、「穢れた者」として社会的・宗教的に関係を切り離された状況に貶められる苦しみにあった。だから「すると見よ」(マタイ8:2)には、そんな方が群衆のもとにやってきた驚きとともに、「穢れた者」が聖なる「イエスに向かってひれ伏し」礼拝した驚きがあった。彼にとって群衆の中にいるイエス様を礼拝することは、命がけであった。だが彼は、自分の病のことだけを考えて「私を癒してください」と要求したのではなく、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」(8:2)と、神様と自分との関係を考えていたことが分かる。彼の言葉には、神様の憐みに対する全面的な信頼があった。

 第二に、その際の「イエス様の御心」について見ていきたい。これに対して、イエス様は「手を伸ばして彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた」(8:3)のである。旧約聖書の律法では、聖なるものと穢れたものは厳然と区別されていた。しかし、イエス様は多くの人が避けていたツァラアトの人に触れられた。これは、イエス様がきよめられる権威を持っていることを示すと同時に、きよくすることが御心だと示されたのである。神様の御心は「穢れを避け、穢れた人を裁く」ことにはない。「穢れた人を清くして、関係を回復する」ことにある。かつて神様はイスラエルの民に「あなたがたは聖なる者でなければならない」(レビ19:1)と言われた。このことばが語られたのは、エジプトで奴隷として扱われていたイスラエルの民を脱出させた直後である。家畜同然の悲惨で希望のない生活を送っていた彼らが、「聖なる神の民」になるように一歩一歩神様は導いてこられた。私たち自身も神の前に穢れたものである。それを清められるのは神様の御心だけである。

 第三に、イエス様が「祭司にだけ見せなさい」と言われた意味について見ていきたい。イエス様は「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ行って自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい。」(マタイ8:4)と言われた。それは旧約聖書から一貫して続く神様の福音への思いが適切に理解され(レビ14:1-20)、その癒しの現象だけが人びとの注目を集めるのを避けるためであった。だが、この人は自分の喜びが先だって、結果としてイエス様の福音宣教が阻害してしまった(マルコ1:45)。私たちも、神様に救われた喜びを語りたい感情が先だって空回りすることがある。しかし、その前に神様のことばに耳を傾ける必要がある。私たちは様々な弱さを抱えている。その穢れた私にイエス様は手を伸ばして下さり、「聖なる神の民」として受け入れようとされている。そのイエス様の思いをしっかり受け止めていく必要がある。

 

2022年7月3日「良い牧者キリスト」(ヨハネ10章11~18節)

【140字ダイジェスト】

イエス様の言われる「わたしは良い牧者です」と言われた。世の中には偽の牧者が多いが、彼らは、私たちが一番困ったときに逃げていく。しかしイエス様は「羊たちのために自分のいのちを捨てます」と言い、十字架の犠牲という大きな愛を示された。その神様の愛を、信仰をもって受け入れるべきであろう。

 実は、盛岡みなみ教会の開拓のときから仙台のぞみ教会は関わってきた。動労のものとして奉仕できることを喜ばしく思います。

 イエス様は「わたしは良い牧者です」(ヨハネ10:11)とおっしゃられた。日本には羊は600年ごろの飛鳥時代に入ってきたそうであるが、気候があわなかったのか、その後消えた。しかしイスラエルの人々にとってはなじみ深い家畜である。イエス様が「わたしは良い牧者です」(ヨハネ10:11)と言われたのは、ご利益があるとか、何か得をするのではなく、神様の「良さ」からで出ているということである(8:42)。一方、神様から出たものでない方を「雇い人」(10:13)に例え、神様から出ていないのに羊たちを統率している偽預言者のことを指している。その両者は普段は区別できないが、狼が来たときにはじめてわかるとイエス様はおっしゃられる(10:12)。現在の私たちにとって「狼」はおとぎ話の中の動物だが、当時のイスラエルの民にとっては現実的な死を連想させた。自分が一番困ったときに頼りにしていた者が逃げていく絶望はいかなものだろうか。だからこそ、私たちは「良い牧者」を見出すことが重要なのである。イエス様が「羊たちのために自分のいのちを捨てます」と言えるのは、私たちが「わたしの民」(エレミヤ7:23)だからである。私たちがイエス様と深くつながっているなら、困難な時にも私を見捨てずいのちを捨ててくれる。

 第二に「羊たちのために自分のいのちを捨てる牧者」について見ていきたい。イエス様は「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています」(ヨハネ10:14)と言っているが、これは「知識として知っている」ということではなく、生活の中で深いかかわりを築いていたことを指す。さらに、それは「ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じ」(10:15)だという。イエス様は「父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです」(10:38)と述べておられるが、それほどの関わりや一体性があるからである。そして「羊たちのために自分のいのちを捨てます」(10:15)というのは、イエス様のみならず神様の深い愛から来るものであり、それは「羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得る」(10:10)のである。私たちがイエス様の十字架の場面で読んだのは、人間の打算や弱さ、悪意であった。しかし同時に、その場面には神様の大きな愛が示された。私たちは、その神様の愛を、信仰をもって受け入れるべきであろう。毎月の聖餐式は、それを自分の手で取って、口で味わってこの出来事を確認するためにある。

 今週一週間、そのことに感謝しつつすごしていきたい。