眼鏡
- 秋山善久

- 2021年4月26日
- 読了時間: 2分
更新日:2021年5月3日
なくした眼鏡を探すのが嫌で、安い代替品をいくつかを買いそろえています。それでも見つけるのに手間取ってしまう。先日、出先でバックからスマフォを取り出したとき、いっしょに入れていたはずの眼鏡がみつかりません。バックの隅々を探しても、ポケットの中に手を入れてもどこにもない。どうにもならなくて、そのままスマフォを開いてみました。すると、いつもは霞んでみえない文字が鮮明に見えているのです。おかしい、目がよくなったのかな。ひょっとして若返ったのかと思って額に手を当てると、探していた眼鏡に指が触れました。
以前、大学礼拝で奉仕していたとき、講壇の上に置いた聖書がよく見えないということがありました。これは、そこを照らすライトのせいだと思って、担当者に改善してくれるように頼んだのでした。ところが次のときに行くと、照明は前と少しも違っていません。聖書は相変わらずぼやけて見えます。どうしてなんだろうと少しイライラしたのですが、ふと、これは私の目が弱っていためではないかという考えが頭に浮かびました。翌日、100円ショップで老眼鏡を買い求め、それをかけてみると実によくみえる。そのときから眼鏡が手放せなくなりました。若いときから両眼の視力は2.0で、密かな自慢でした。その驕りが目の衰えを気付かせなくしていたのです。それから多くの時間が過ぎましたが、眼鏡の置き場所を探すという習慣だけは、未だになくならないでいます。嫌でも受け入れて付き合っていくしかないのでしょう。




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