いのちは誰のもの
- 秋山善久

- 2022年2月28日
- 読了時間: 2分
ウクライナとロシアが戦争をしています。互いに国境を接していて歴史的にも文化的にもつながりが深いといわれている両国なのに、どうしてこんなことになってしまったのかと言葉がみつかりません。歴史を遡ると、10世紀末、現在のウクライナを支配していたのはウラジミール大公で、この大公は国政改革の一環としてキリスト教を国教に定めたのでした。
それまでロシアの人たちは独自の民族宗教を信じていましたが、これを境に各地でキリスト教を導入し、それがロシア全域に広まっていったといわれています。ただし、これだとウクライナが兄でロシアが弟になってしまいます。ロシアのプーチン大統領は、それが気にいらないためか「ウクライナと言う国はもともとなかった。ロシア革命後にその指導者の譲歩によってできたのだ」と言っています。それはともかく、両国は互いを兄弟と呼ぶ関係であっただけに、各個人単位では結びつきが深いのです。それを無残に切り裂く政治とはいったい何なのかと思わされます。地下鉄の暗がりで「死にたくない」と涙を流しながらおびえている少女。自宅に落ちたミサイルで家族が死に、一人とり残されて途方に暮れている老女。完全武装した銃で威嚇しながら、夢遊病者のように目がうつろでいるロシア兵。混沌とした状況の中、解決の手段として核まで持ち出すことが話し合われています。何と馬鹿げたこと。正気とは思えないことに歴史の歯車は進んでいくのでしょうか。そうすれば、すべてのいのちが失われてしまう。だれも、そんな権威をもっていないはず。いのちは神のものであるからです。




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