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出会いと印象

更新日:2022年3月29日

 出会いの印象は、イメージが先行していることがあります。あるとき、教団の全国大会に出席したときのことです。受付の近くに広く名前が知られた御婦人がいることに気づきました。私の知っているYさんの親でしたので、パンフレットを配っているその方に近づいて「秋山と申します。日ごろYさんにはお世話になっています」と挨拶したのでした。するとその方は、振り向きぎわに「アッ」と声を上げる共に「イメージと全然違っていたわ」と続けたのでした。その驚きように、こちらも面くらったのです。イメージといっても、いろいろあるだろうと思うのですが、どうやらそのときの様子では何かが崩れ落ちるに近いものだったような。世間的に全く名前の知られない自分であるだけに、何がどうしてそんなことになったのか、十数年が過ぎた今でも不思議な気持ちになります。

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弱さと尊厳

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自分について

自分とは何なのだろう。そんなことを考えるようになったのは中学生の頃でした。夕日に照らされたじゃり道を、ひたすら自転車のペダルを踏みながら、自分と自分でないものと分けるのはいったい何なのだろうと考えたのです。少しおかしいです。きっかけは三つ違いの兄との比較でした。同じ親から生まれたのに、自分と兄とは確かに違う。当時は僻みとか理不尽さを感じていたのでした。生まれる時間が少しずれていたらどうなったのだろ

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