top of page

本との出会い


 いつの頃からか、急に読書量が減ってしまったような気がします。ちまたで言われているように、スマホとかパソコンが影響しているのかもしれません。これではけないと、今年の初めに自分でノルマを課したのですが、それがなかなか守れない。図書館から借りてきた本が、未読のまま今も机に積みあがっています。せめて信仰書だけはと思うものの、これも読みかけのままになっているのは、理解力が相当減退して読書のスピードが落ちたからなのでしょう。だめだ。だめだめ。筋トレなどよりも、こちらを訓練して取り戻したい。

 昨日、日本聖書教会理事である石田学師の講演会があって、聞きに行ってきました。実は仙台市内にはキリスト教書店が3店あったのですが、既に2つの店が撤退し、残る一つも苦境にあえいでいます。そのような実情の中で、キリスト教書店の意味を考え直そうということで、この講演が企画され開かれたのです。講演の中で石田師は、中世期に修道院に蓄えられていた本が、次の時代を拓くために如何に重要な役割を果たしたかということを触れられました。そのような意味での本との出会いが、今日でも求められるのではないかということです。

 自分の人生を振り返ってみると、一冊の本との出会いが人生を変えてきたのでした。二十歳の頃、キリスト教に反発していた私は、あるとき、亀井勝一郎の「読書論」を読んだのでした。そこには「日本人の中には自分は無神論者だといっている者がいるけれど、実際には彼らは無神論が何かをわかっていない。彼らは神について無関心なだけである」というようなことが書いてありました。それは自分の姿でもあることに気付かされたのでした。そして聖書について自分は全く無知であると自覚されたのです。その恥ずかしさが、キリストとの出会いとなりました。

最新記事

すべて表示

弱さと尊厳

いつも行く図書館の貸し出し口で、職員の大きな声がしていました。目を向けると、白髪の男性がコピー機の使い方を聞いているのです。 「いくらですか」と男性。若い職員が「10円です」と面倒くさそうに答える。するとまた「いくらですか」と聞き返す。「10円です」「え?100円」周りが少しざわついて、「あほか」という小さな声が聞こえてきました。男性は軽い認知症を患っているのかも知れません。今言われたことを理解で

ロータリーの真ん中にある桜が開花しました。私も含め団地の人はみな、毎年、その開花を楽しみにしているのです。けれどもそれは盆栽のような低木で、わざわざ花見に来るようなものではありません。せいぜい近くのコンビニや郵便局に立ち寄った人が、帰り際に一瞥して微笑むようなことで終わります。それでも桜の名を冠した団地の象徴的な存在でありますから、春から秋にかけては区域ごとに当番を決めて雑草を抜くなどの手入れ作業

自分について

自分とは何なのだろう。そんなことを考えるようになったのは中学生の頃でした。夕日に照らされたじゃり道を、ひたすら自転車のペダルを踏みながら、自分と自分でないものと分けるのはいったい何なのだろうと考えたのです。少しおかしいです。きっかけは三つ違いの兄との比較でした。同じ親から生まれたのに、自分と兄とは確かに違う。当時は僻みとか理不尽さを感じていたのでした。生まれる時間が少しずれていたらどうなったのだろ

最新記事
アーカイブ
タグから検索
まだタグはありません。
ソーシャルメディア
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
bottom of page