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沈黙

  • 執筆者の写真: 秋山善久
    秋山善久
  • 2017年2月4日
  • 読了時間: 2分

  駅の近くにできた映画館で、話題の「沈黙」をみてきました。原作を読んだのは40年も昔のことですが、今もストーリーが頭に残っています。文学作品として最も光彩を放っていたのは、手紙として書かれた部分であったような印象があります。ですから映画を見る前には、文字が映像に置き換えられることで、作者の言葉がどれほど伝えられたのだろうという疑問がありました。それでも、実際に映画をみていると随所にそうした壁を乗り越えようとする工夫を感じることができました。

 特に長崎大名井上らによるキリシタンに対する拷問は、映像ならではのリアルさがあります。史実とは言え、それはそれは目を背けたくなるような残酷さです。また殉教を覚悟してどこまでも信仰に生きる人たちの生活が細かく描写されてあります。この人たちの生活は話にならない程に貧しいのですが、役者が現代人なので皆肉付きが良く、その点だけは映像が邪魔していると言えるでしょう。画面の中では、これらすべてを包み込むように山の緑と海の青さが迫っています。虫けらの声が不気味に響き、人の営みを嗤っているようです。テーマ曲とか心を癒すような音楽は一切なく、その意味でもサイレンスです。強いて言うなら蝉の声がレクイエムとなって、この異常な出来事を歌っているのです。

 そうした中で、改めて原作のテーマを考え直してみると、このままではキリスト教信仰が誤解されてしまうような気がします。何故なら、そこには信仰の中心である救いと、それに基づく希望が不確かで無意味なもののように描かれているからです。キリスト教信仰が人間の意志の強さとか、何か信じるものをもって生きることの大切さといったレベルで受け留められることになってしまいます。実際、ラジオから流れた映画の感想では、そのようなことが語られていました。

  でもここでのサイレンス「神の沈黙」いう言葉は、原作者個人の信仰から来る歴史解釈であって、実際に殉教していった人たちの想いとは異なっているような気がします。黙示録には、大きな艱難から抜け出て神のもとに召された人たちの姿が語られています。私自身は殉教者を理想化したり、美化するつもりはありませんが、人間的な理解に誘導されたくもありません。それは聖書が一貫して絶望の中からの希望を語っているからです。

 
 
 

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