光の春
- 秋山善久

- 2024年2月1日
- 読了時間: 2分
更新日:2024年2月2日
冬から春に向かうこの時期を、光の春と表現することがあります。もともとは冬が長いロシアの言葉らしいのです。それが日本でも用いられるのは、春らしい陽気とはいえないけれど、確実に日差しが伸びていることに春を感じようとする気持ちがよくあらわれているからでしょう。
能登半島地震の被災地では、ライフラインの復旧が急がれています。なかなか進まない工事に苛立ちを募らせる人も多いと思われます。仮設住宅の建設が遅れているので、そこに移転するまでに疲れ切ってしまいはしないか心配です。東日本大震災とは全く状況が異なるので、軽率なことは言えないのですが、共通した部分が見出されるたびに心が痛みます。あの時の被災地では、梅や桜の開花も話題にならなかった。そんなことに気にとめる余裕などなく、朝、床から起きたときにある課題のため終日走り回っていました。それでも春が来て、何かが少しづつ動き出していったような感覚があります。
春は待ち遠しいけれど、その足音がなかなか近づいてくれない。まるで行ったり来たりしているように思われてしまう。北風に晒されたり、雪と氷に閉ざされるようなことが起こったりもする。あるいは裏切られたような気持ちになってしまう。それでも確実に春は来る。冬枯れの中に、突然に花を咲かせるアーモンドのことを、パレスチナでは目覚めの木と呼ぶようです。春にはそんな驚きと感動があります。
神への信仰では、春を待つ思いと共通なものがあると思います。神の言葉が成るということでは、光の春と同じような確実さがあるからです。近くの家の庭先に福寿草が咲いていました。春はそこまで来ていると実感しました。




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