荒野の道
- 秋山善久

- 2024年1月19日
- 読了時間: 2分
先日、ある方から、どうして牧師になる決断をしたのですかと質問を受けました。職業として考えたら、牧師とはきわめて稀有な存在に思われたのでしょう。数のことではなく、損得の考え方とは別の次元にいるということのようでした。自分では踏み慣らした道であっても、他の人から見ればそうでないのかもしれません。振り返ってみれば、牧師としての歩みは荒野に備えられた道のように、困難はあっても恵みの道でした。そんな感慨を抱きながら、その道に踏み入る決断をしたときのことを思い出しました。
当時、私は某電気会社の社員でした。教会に通うようになって五年ぐらい経っていて、青年会の会長をしていました。教会にはたくさんの青年が集まり、常に活気が溢れていました。あるとき、牧師は、教会のリーダーの訓練会を始めると言い出しました。テキストとなったのが、スポルジョンによる「牧会入門」でした。私は小説以外にそんな分厚い本を読んだことがありませんでしたが、それでも読む前から神聖なものを感じたのでした。その第一章に記されていたのが教役者への召しということです。今でも印象深く残っているのは、「もしあなたが教役者にならなくてもいいと思っているところがあるなら、ならない方がいい」と書いてあったことです。要するに教役者になるには、自分では抑えることができない程の内的な確信がなければならないということなのです。預言者エレミヤが「私は内にしまっておくのに耐えられません」(エレミヤ20:9)と述べているような熱意です。それは神からの召しということで、これがないなら教役者になってはならないとありました。
それをどのように受け止めたのか、記憶に曖昧なところがあって、論理的にうまく説明することはできません。それでも自分の思いだけで決めたなら、教会が立ちいかなくなったとき、自分自身の方向性を見失うだけでなく、教会にも迷惑をかけるだろうと考えたことは覚えています。実際にこれまでの歩みの中には、そんなことが数多くありました。それでも前に進むことができたのは、主の召しが真実であったからだと思っています。




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