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  • 執筆者の写真: 秋山善久
    秋山善久
  • 2019年11月18日

 近くにある水の森公園に、数羽の白鳥が飛来して羽を休めています。公園を囲む雑木林の遊歩道に熊が出没して大騒ぎになったのは三ケ月ばかり前のことでした。公園にはキャンプ場と広場があって、休日ともなると駐車場に車が入り切れない程にぎわいます。昨日は好天に恵まれたので、芝生の広場ではゲームをする親子連れや、ペットの散歩をする近くの人、テントを張ってグループで芋煮をしている人たちもいました。以前には釣りをする人たちもいたのですが、白鳥が釣り針を飲み込んで怪我をするということで禁止になっています。

 これから寒さが加わるに連れて白鳥の数は増え、年末には40羽ぐらいになると思います。それにしても毎年、この小さな沼までシベリアから4000キロも旅をして來るとは驚きです。住宅街に囲まれた沼の周りは騒がしく、白鳥が休む環境として優れているとは思えません。それでも何かの理由で脳のどこかにナビゲートする地図が正確にインプットされているのでしょう。それだけでなく、自分の位置を測るシステムが組み込まれているに違いない。

 青年のとき一人旅をして、行き当たりばったりの宿をとりました。それがないときには野宿をしたりもした。けれども、この沼にいる白鳥は、上空からたまたま見つけて来たのでないことは確かなことです。そうでなければ、毎年、一定数の数が揃う理由がつきません。一見さんお断りという程の格式もなければ、大盤振る舞いする程の餌場もない。それでも何故かここがいい。白鳥はガアガアとイメージを壊す鳴き声を響かせすが、どこか懐かしい感じがして心が癒されています。


  • 執筆者の写真: 秋山善久
    秋山善久
  • 2019年8月19日

先週、実家の気仙沼に里帰りしたとき、近くにキリシタンが処刑された場所を示す供養碑があることを知りました。文政八年二月に建てられたキリシタン供養碑のことは知って

いましたが、実際に処刑された場所にも供養碑があるとは知りませんでした。前者の供養碑(写真)には、塩釜竹駒両大明神と大きな文字が彫られています。図書館で調べてみると、村内に悪疫が流行したとき祈祷師に占ってもらったところ、迫害された犠牲者のたたりと言われ、その慰霊のため建立されたとありました。処刑から数十年後です。兄に聞いてみると「キリシタンのためだと疑われないため、徹底的に考え抜かれたようだ」ということです。この地方には直接に関係ない二つの神社の名称が記されているのも、そうした事情なのでしょう。そんな危険を冒しても供養碑を建てたのは、占い師の言葉を信じたことでもありますが、人々の中に罪責感が残っていたからではないかという気がします。処刑現場の供養碑は、兄に教えられて初めて知りました。そこは私が子供の頃、友達とメダカすくいに夢中になっていた所でした。自然石に刻まれた文字は、残念ながら風雪に晒されて判読することはできませんでした。

  • 執筆者の写真: 秋山善久
    秋山善久
  • 2019年5月23日

 雨が降り続いたときに、アマガエルの擬態について考えてみました。擬態というのは、体の色やかたちを周囲の環境に合わせて天敵から身を守ることです。アマガエルは草の中にいるときには緑色をしていますが、泥の中では土色に変化することが知られています。まるでドラえもんの道具のようなもので、子ども向けの本などでは生物が長い進化の過程で身につけたものと説明されます。けれども単純に考えて、どうしても解せないことがあります。それは、アマガエルはどのようにして自分を認識するのかということです。自分を客観的に認識できなければ、自分の体の色がどうなっているかなんて記憶することができない。そうであれば、そこから皮膚の色を変えるなどという飛躍的なことは絶対に無理でしょう。試しにアマガエルの前に鏡を置いて、そこに映るカエルの姿を自分と同一視できるかどうか実験して確かめることができるかもしれません。もし同一視できるなら、アマガエルは水たまりに映る姿を自己と同一視できることにつながります。時間があれば、そんな研究をしてみたい。アマガエルの前に鏡をおいて、自己と認識できるかどうか。誰か同じようなことを考えてチャンジする人はいないかな。

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