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  • 執筆者の写真: 秋山善久
    秋山善久
  • 2023年10月20日

 二泊三日で教団の牧師役員研修会に行ってきました。会場は掛川市にある「つま恋リゾート彩の郷」。自分たちが宿泊する建物の傍には、大きな金木犀が植えられていて、あの独自の強い香りが放たれていました。研修会のテーマが「THINK AGEIN とぅげざー」 ~これからの宣教ということです。今回企画立案したのが、宣教部の若手の教師たちということで、従来の研修会とは少しばかり趣が違ったものになりました。今までは、研修会と言えばメインの講師が立てられ、その講演を皆で聞くという形式でした。それに対し今回は、発題者が複数いて、それに複数のパネラーが応答するというものです。また参加者全員が年代と経験数に応じて38のグループに分けられ、4つのセクションの内容を、そのグループ内で更に討議するというものでした。そのため互いに話し合う時間が多く持たれ、その分だけ濃い交わりができたように思います。

 一番驚かされたのは、最後のまとめの時間です。話し合った内容を、5分間の持ち時間で発表するというものです。38もグループがあるので、時間の関係で抽選で当たった12グループが発表ということでした。ただし抽選の直前まで、全部のグループがまとめを考えました。私のグループでも、時間ぎりぎりまでこまでの討議を振り返って内容を考えました。発表の形式は問わないということでしたが、実際に発表が始まってみると、オーソドックスに話したところ、宣言文にしたところ、寸劇にまとめたもの、替え歌を作って歌ったものなど多彩でした。それぞれが完成度が高く、10分程度の時間でどうしてこれができたのと感心させられるものばかり。会場も大いに盛り上がりました。老いも若きも、一つになって宣教を考える。その同労者は実に多彩でユニークな賜物をもっている。そんなことを感じた研修会でした。

  • 執筆者の写真: 秋山善久
    秋山善久
  • 2023年10月9日

 相談に来られた人を支援するのに、その人が語る物語り「ナラティブ」(narrative)を通して問題を解決していこうとする考え方が、社会の様々な分野に広がっています。ナラティブに近い意味でストーリー(story)という言葉がありますが、それを用いないのは支援においては構造主義に陥ってしまう危険があるという反省です。相談者の話を聞いたとき、それを一つの枠の中に入れて問題を解決しようと考えてしまう。そんなことは牧師である私の経験の中にもあります。パターン化しておけば、相談を受けた側としては理解し易いという利点があります。その分、対応も素早くなるでしょう。けれども、それだと相談者が抱えている本質的な悩みに迫ることができないし、対応そのものが的外れなものになってしまうことがあるというのです。これを聞くと冷や汗が出てしまいます。臨床心理の現場では1990年頃から相談者の自主的な語りを重要視するようになり、これをナラティブ・アプローチと呼んでいるようです。

 こうした資料をみていたときに、福音書に記された主イエスの姿がそうであることに気がつかされました。例えば道端に座っていた目の不自由な人が、主イエスのもとに呼ばれた出来事です。(マタイ20:32) このとき主イエスは、「わたしに何をしてほしいのですか」と聞かれました。目が不自由な人であるから、目を開けてほしいのだろうと決めつけていません。この人に対して人々が抱いている評価や感情からも切り離しています。そして目の不自由な人が「主よ、目を開けていただきたいのです」と語った言葉に、主イエスは深い憐みを示されました。ナラティブ・アプローチでは、自己決定の意思も重要視されます。福音書では、主に目を癒されたこの人が「イエスについて行った」と記している。そのことにも改めて教えられます。

  • 執筆者の写真: 秋山善久
    秋山善久
  • 2023年10月5日

 この夏の酷暑に耐えた挿し木は3本だけでした。後の7本は根を張る前に枯れてしまったからです。やはり挿し木は水遣りだけでは何ともならない。枝が切り離されることは、いのちの元が絶たれるわけで、枝にとってそれは最大の危機と言えるでしょう。とするならば挿し木をするということは、ちょっと待って・・・見方によれば弱さへの支援につながることかも?しれない。それにしても一律にいかないことを考えさせられます。

 社会的な弱者への支援では、対象となる人の状況回復に長い時間と個人差があることを考慮しなければならないでしょう。問題は、支援者がその個人差を受け止めて真摯に向き合うことが出来るか否かだと思います。そこに人に寄り添って現実を知ることの難しさがあります。支援者の側がそのストレスに耐えきれなくなって即効性を求めたり、あるいは問題を単純化して勝手に解決してしまう。そんなことは実例を挙げるまでもなく、これまで数多く報告され、私自身も経験してきました。緊急支援のようなものであれば、そうしたことも有効なのですが、そうでない場合には、せっかくの労力や資源が弱者の回復のためにはかえって弊害となってしまうことさえある。それに「いい物語り」を作ってしまう危険。これが意外にやっかいものです。労したことが実を結んだという美談で、その結果、分析も評価もいいかげんなものになり失敗を繰り返してきたということ。このような反省は私のような者の中にもないとは言い切れません。そろそろ、根本が何であるかを見つけ出し、それをベースに少しづつ積み上げるようなものに方向転換しなければならない。最近、あることを通してその糸口を見つけたような気がしています。

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