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  • 執筆者の写真: 秋山善久
    秋山善久
  • 2024年4月13日

 いつも行く図書館の貸し出し口で、職員の大きな声がしていました。目を向けると、白髪の男性がコピー機の使い方を聞いているのです。

 「いくらですか」と男性。若い職員が「10円です」と面倒くさそうに答える。するとまた「いくらですか」と聞き返す。「10円です」「え?100円」周りが少しざわついて、「あほか」という小さな声が聞こえてきました。男性は軽い認知症を患っているのかも知れません。今言われたことを理解できなかったり、すぐに忘れてしまっているからです。身なりと言葉遣いは、社会で活躍された時期があったことを思わせます。それが邪魔者のように扱われている。悲しいことですが、そうした状況を回りがどのように受け止めるかということが問題なのでしょう。

 そんなことを考えていたとき、宗教における聖と俗のことが頭に浮かびました。たとえば旧約聖書のレビ記においては、食べていい動物と食べてはならない動物があります。牛や羊は食べてはいいけれど、豚は汚れているので食べてはならないとされます。言うまでもなく、キリスト教信仰において食べ物の制限はありません。ですからこれらは旧約の時代に限定された戒めです。ただし神との関係において聖と俗の区別がされているのです。俗の世界を現世とすれば、現世は聖なるものと俗なるものが混在している。それを見分けて生活するのに、人間の意思や論理だけを優先させてしまってはならないのです。それをすると聖なるものを侵害してしまうからでした。

 現代のように社会的な価値を効率だけで推し量ると、高齢者や障がい者、あるいは弱い者がどんどん外に押し遣られてしまう。結果として快適さはあっても、非人間的な社会になってしまうのではないかが心配です。だから聖なる方の意思が尊重されなければならない。人間の尊厳を守るというのはそうしたことではないかと思いました。

  • 執筆者の写真: 秋山善久
    秋山善久
  • 2024年4月6日

 ロータリーの真ん中にある桜が開花しました。私も含め団地の人はみな、毎年、その開花を楽しみにしているのです。けれどもそれは盆栽のような低木で、わざわざ花見に来るようなものではありません。せいぜい近くのコンビニや郵便局に立ち寄った人が、帰り際に一瞥して微笑むようなことで終わります。それでも桜の名を冠した団地の象徴的な存在でありますから、春から秋にかけては区域ごとに当番を決めて雑草を抜くなどの手入れ作業をします。その木の上には電線が蜘蛛の巣のように架かっているので、見栄えがしない木を一層みすぼらしくしています。「電力会社にかけあって、あの電線を地中に埋めてもらわなにゃいかん」そう息巻いていた古老がいました。けれども問題が多いらしく、未だに解消されていません。

 ルース・ベネディクトの「菊と刀」は、戦後に出版された日本人論としてよく知られています。日本人は神の前での罪という感覚ではなく、他人の目による恥を重要視するというものです。彼女にとって日本人を象徴するのは桜よりも菊でした。その菊は権力の象徴で、桜は菊のために散るものと理解されたのでしょう。特攻隊でもなかった父が、仕事仲間と酒に酔うと、「貴様と俺とは同期の桜」と軍歌を歌っていたことを思い出します。軍人は国のために見事に散ることが美徳とされました。

 戦後79年の今、桜は花を愛でる日本人の優しさを表現するものと変わってきています。水の上に落ちた花びらは、花いかだとして観光スポットになったりしています。そうした光景も好きではあるのですが、散り際の潔さが刹那主義に結びついていないかということが気になります。


  • 執筆者の写真: 秋山善久
    秋山善久
  • 2024年3月29日

更新日:2024年3月31日

 自分とは何なのだろう。そんなことを考えるようになったのは中学生の頃でした。夕日に照らされたじゃり道を、ひたすら自転車のペダルを踏みながら、自分と自分でないものと分けるのはいったい何なのだろうと考えたのです。少しおかしいです。きっかけは三つ違いの兄との比較でした。同じ親から生まれたのに、自分と兄とは確かに違う。当時は僻みとか理不尽さを感じていたのでした。生まれる時間が少しずれていたらどうなったのだろうか。あるいは、何かの要素が加わっていたら自分は存在しなかったのか。真面目にそう考えると、自分という存在の不確かさに混乱するのが常でした。

 解剖学者の養老猛司さんは、「自分の壁」という本の中で、「自分というのは、他者によって決定していくものだ」と言っています。だから自己にこだわるのでなく、外からの働きが自己を作っていくと考えた方がいいというのです。

 けれども自己認識というのは生物間の識別とは違っているように思えてなりません。何故ならそれは集団から自分を分離するだけではなくして、自分と世界を決定的に分けるものであると思うからです。突飛なように思えるかもしれませんが、そう考えないと自分自身が納得できない。自己を世界の中心に据えて考えることは、中二病と言われてきました。それはアニメの主人公のように、いつか自分も実力を発揮するときがくるのだと夢想したりします。そうした考えの誤まりはあります。けれども考えようによっては、そうした発想の中に人間の本質が隠されているのではないかと思うのです。私と他を分けているものは、他と他を分けているものと全く違うからです。私が宇宙に一つだけであるという自己認識は、何かの歌の中に語られていたりします。けれどもそれが何かの関係の中で語られるとき、価値はすぐに薄まって、陳腐なものにさえなってしまう。けれども創造者の光によってみるとき、私は他と完全に分離していてとても大きな意味をもってくる。私にとってそれが一番腑に落ちる考えです。

 

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