top of page
  • 執筆者の写真秋山善久

 県立図書館から本の返却が遅れていると留守電が入っていました。面目ないことですが、忙しさの中で返すのをすっかり忘れていたのです。誰かが目当ての本を検索して書棚に行ったら、そこに置いてなかったのでしょう。それも貸し出し期間が過ぎていると知ったら、がっかりが苛立ちに替わったに違いありません。窓口で「すみません。1日遅れました」と言って返却しました。「はい」と受け取った係の人は、スキャナーでコードを読み取ると、サインが表示されたらしく直ぐに脇にとり除けていました。

 クリスチャンになったとき、高校時代に借りていた3冊の本を、手紙を添え、郵送で返したことがあります。卒業してから3年は過ぎていたのですが、そのままにしておくことがとてもいけないと示されたからです。しばらくして図書館司書の方から返信をいただきました。そこには卒業してずいぶん経ったのに、本を返してくれて嬉しかったことや、そのことが学校の中で話題になったことが記されていたことを覚えています。

 一時期、倍返しという言葉が流行りましたが、借りたものを返すというのは当たり前のことです。問題なのは、それを勝手に変質させてしまう自分の側にあるような気がします。時間の経過や何かの都合で、最初から自分のものであるようにしてしまう。自分も若い時の転換がなければ、所有することだけを追及する人生になっていたことでしょう。挙句の果ては、何でも自分から取られることは強奪者による悪意にように思ってしまう。

 そんなことを考えたとき、献金の祈りのことを思い出しました。「与えてくださったものの中から、お返しいたします」

 与えられた働きを神からのものと考えたら、取り去られるのではなくお返しするということになる。そこには喪失感というより感謝があることに気がつきました。

  • 執筆者の写真秋山善久

更新日:2023年12月1日

二四節季によれば小雪ということで、今朝は平野でも雪がふり始めました。日没が早くなって、その分だけ夜が長く感じられます。今日の日の入りは16時17分ですから、冬至と同じ時間になります。日が短いこの時期は、どうしてもメランコリーな気分になってしまいます。日照時間が減ると、脳内の精神物質に微妙に変化があらわれるとのこと。それによって鬱状態になるのをウィンターブルーと呼ぶのだそうです。それでも季節はめぐりめぐるもの。必ず春が来るので心配などしないのですが、人が造り出した闇だけは解決がなければならないと祈らされます。

 リアルタイムで報道される戦争は、悪いニュースにあふれています。そのため、人々の叫び、悲嘆、慰めようのない悲しみに日常的に触れることになってしまう。この状況と、紀元前700年頃、預言者イザヤが発した言葉がオーバーラップします。「彼が地を見ると、見よ、苦難と暗闇、苦悩の闇、暗黒、追放された者」(イザヤ8:22)

 戦争で心を病んだ兵士たちのことを「シェルショック」(砲弾病)と呼ぶようになったのは、第一次世界大戦が終わってからだということです。日本では、戦時に発生した神経症の総称として、戦争神経症という言葉が用いられてきました。けれども、今は戦争という異常な暴力が、情報として生活の中に押し入ってきてしまっている。そのような闇がひとりひとりの精神を蝕み、社会全体に悪い影響を及ぼしているような気がします。

 今週の礼拝後にクリスマスツリーの飾り付けをしました。闇は深く、苦しみが増すばかり。そんな今だからこそ、イザヤが預言した「大きな光」(イザヤ9:2)であるキリストを伝えなければならないという思いを込めました。

  • 執筆者の写真秋山善久

 あるとき、自分の水着の縫い目がほつれて、お尻に親指大ぐらいの穴が開いてるのを発見しました。そこで思い出したのが、一月ほど前、近くにある温水プールから出たときに、子どもたちや親たちの視線を感じたことです。誤解していたけれど、あれはバタフライを100メートル泳ぎきったことで注目されたんじゃない。「変なおやじがいるぞ」という警告の発信だったと確信し、急に恥ずかしさがこみあげてきました。かと言って生地が薄いので糸で繕うことはできそうもありません。それにしても買い替えるのはもったいない。そこで考えついたのが、耐水用の接着剤で継ぎ当てをすることです。ちょうど破れかかったザックがあったので、その内側の生地を切り取って、接着剤で補強してみたのです。これがなかなかいい感じです。あと1年は持つかもしれないです。

 破れ口に立つとか、破れたものを繕うということが、元の意味を離れて特別な意味を持つことがあります。イスラエル史においては、「破れ」とか「破れ口」(ペレツ)は、神の恵みにも関わらず、その契約を破ってしまう不信仰の罪をあらわすものになっています。そこを神との関係によって修復する業が「破れ口に立つ」ということになります。破れたら買い替えるという発想では、思いつかない考え方かもしれません。

 震災前から、一人の青年の破れ口に立たされるような出来事に関わってきました。社会の闇の深さから抜け出るためのもので、とても一人の力では太刀打ちできないし、恐れもあります。でも最近、不思議にも教派を越えて多くの仲間が結びつくネットワークができました。あるいはこれが破れ口には有効な働きをするかもしれません。

タグから検索
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
bottom of page